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一般病棟に移される手続きはもう整っていたようで、いま私はベッドに横たわったまま廊下を移動している。
というか、まだ縛り付けられてる状況から解放されなくて有無を言わさずといった状態だ。
横たわったままの状態からはあまりしっかりと周りの様子は分からなかったけれど、ここはそこそこ良い病院らしいことだけは分かった。
簡単に言ってしまえば、リッチなのだ。
天井から壁から、染みもないし材質なんかは結構良いホテルのようなものだった。
間違っても私の知ってたような病院の規模じゃないことだけは確かだろう。
そもそもここは病院なの?
結構な距離を移動してません?
基本的に病院って、手術室や救急対応の外来とか、検査ができる部屋だとか集中治療室だとか、ある程度密集させて造ってあるもんなんじゃないの?
建設法なんかの縛りがあるのかは知らないけど、働く側としては移動距離が長くないのにこしたことはない。
働きにくそうな病院だなーなんて思いながら、視線をキョロキョロ動かしていると、看護師さんと目が合った。
にっこり微笑んでくれる。うん、看護師の質は凄く良いと思う。不満モリモリで働いてたらここまでの笑顔はなかなか出せない人もいるもんね。
他はどうか知らないけど、私が働いていた所はそんな不満を顔に出す人もいるにはいたからね。
エレベーターに乗せられて降りた所は、移動していた廊下よりも更に重厚感があった。
…なんだか真っ当な病院じゃないような気さえしてくるな。臓器売買とか怪しい取り引きが夜な夜な行われていたりしませんか…?
案内された(運び込まれた)病室は、もう普通にホテルの部屋でした。
泊まったことないわこんなの。バラエティー番組の『高級ホテルのスイート訪問!』みたいな感じに特集組まれてるような感じすらするわ。
最初はスケールの違いに圧倒されていたけれど、嫌な事が脳裏に過ぎった。
私、こんな病院の治療宿泊費なんて払えないぞ…!
治療費はあくまでも治療に関わるもので、保険が効くのもそれに関するものくらいだろう。あとの入院費だって、一般的な病院なら大部屋じゃないと大分あしが出てしまうはずだ。
こんな見るからに『部屋代は全額個人負担です』を体現しているような部屋、一日の滞在費は一体いくらになるんだ。
これからどうなってしまうんだろうという、さっきまでと違った不安に押し潰されそうになりながら恐怖で震え始めてしまった。
「あら…怖かったですか? ベッドに横になったままでしたもんね」
そう言って看護師さんはやっと私をベッドに縫い付けていた抑制具を外してくれた。
ゆっくりと腕を動かしてみる。ちょっと関節がミシって唸った気がした。
そろそろと手を顔の前に持ってくると、果てしない違和感。
なんか……私の手、こんなに小さかったかな?
そんな馬鹿な。
もともとそんなに大きな手でもなかったけど、これはいくらなんでも小さ過ぎる。関節も全然骨張ってないし…こんなのまるで子供の手みたいじゃないか。
なんか変な動悸がしてきた。頭も痛い。けど、確かめずにはいられない。自分の身体になにが起こっているのか。
おそるおそる体を起こし、ゆっくりと自分の体を見下ろした。
短かった。
明らかに、私の見慣れた寸法じゃない。
縮んだ? じゃすまないくらいの丈になってる。
これはもう、まさか、いやいや、え…なんで……
頭がさらに痛くなってきた。
グワングワンする。
あ、駄目だ。起き上がったのもまずかったのかな、目眩がするし吐いちゃいそうだ。
「大丈夫ですか?ずっと寝たままだったから、血圧下がっちゃったかな。一度横になりましょう」
看護師さんが背中を擦りながら、支えて横にしてくれた。
その時ふと目に入った窓に映っていた姿をみて、心臓がギュっと締め付けられた。
あのとき溺れていた子どもが、看護師さんに支えられて横たえられようとしていた。
そう、まさにいまの私のように。
────────
現状を受け入れるまでには数日を要した。
まず、間違いなく私は子どものサイズになっている。
なんだったら自分が若返ったっていう代物じゃないことも分かる。別人だ。
色白で髪の色素も凄く薄い。私は色黒ではなかったけど、色白でもなかった。別に日焼けを気にするようなタイプでもなかったから夏は斑焼けしていたこともある。
髪の毛も猫っ毛でペッタリしてて真っ黒だった。
それがいまは、ふわふわの天然パーマで背中の中ほどまで伸ばされたゆるふわロングヘアだ。
そして私は西條ゆかりではなかった。
「由香里ちゃん、お加減はいかが?」
「……おかあさま」
「まぁ! 声が出せるようになったのね! まだか細いけれど、喉は痛む?」
「…少し、痛みます」
「可哀想に。もう暫くの辛抱ですよ。今日はお父様もお見えになりますからね。由香里ちゃんも少し身支度をしましょうか」
マダム(仮)は私(由香里)の母親だった。
自分の娘が生死の境を彷徨い続け、意識を取り戻したと思ったら全てを忘れていたというショッキングな出来事が続いたマダム…お母様は、心労が重なったようで、集中治療室で気を失ってからそのまま入院することになっていた。
今は母子同室というやつだ。
幼い子どもと母親を離さない方が良いだろうという病院側の判断だったようだが、私にはとてつもないストレスとなった。
現状を受け止めるのにすら時間がかかるのに、DNA上は肉親とはいえ精神的には赤の他人と四六時中同じ空間に押し留められていて、うっかり気が抜けないのだ。
ストレスで禿げそうだ。
それでも、マダ…お母様が由香里の事を心底心配しているのは痛いほど伝わってきたので、拒絶することはせずに耐えた。
それよりも。お父様か。
こんな事言ってはなんだけど、娘が入院しているのにまだ顔も見せないでいる父親ってどんなだ。
確執でもあるのかな?
可愛がられてないとか?
由香里ちゃんは、見た目儚げで可愛いお嬢さんだと思うんだけど。
嫌味そうな成金オヤジだったらどうしよう。ありえるな。金にものを言わせて他所で家庭を作ってて、お母様は日陰の身…いや、むしろこっちがお妾さんだったりする?
どっちにしろ、こんなにずっと放っておかれるなんて。
やっぱり、お父さんには嫌われてたのかな、由香里ちゃん。
でもまぁ、こんな自分でも受け入れ難い状況、説明できる訳でもなし、下手に近親者が増えてボロが出るのも拙いから、いまの私にとってはむしろありがたいのかもしれない。
こんな訳の分からない状況、説明しようものなら速攻で精神科に紹介されてしまう。
ましてや自分の子どもの中身が他人だなんて分かった日には、こちらのお母様は壊れちゃうんじゃなかろうか。
そして私はきっと悪魔祓いやら祈祷やら色々と怪しげな宗教団体に連れ回されるに違いない。
げに恐ろしい…
そんなホラーな行く末に身震いしつつ、気掛かりな事はもう一つ。
本物の由香里ちゃんはどうなったんだろう。
本物の私の体はいま、どこでどうなってるんだろう。
私(由香里)が助かっているんだから、もしかしたら、誰かがあの後すぐに駆け付けて蘇生してくれたのかもしれない。そうだとしたら同じ病院にいたりするのかもしれない。
こんなリッチな病院の入院費払うのを考えたら精神的な意味で死にそうだけどな…
全身ずぶ濡れのこの子が横たわっていたんだから、誰かが助けたんじゃないかって探してくれていたりするんじゃないだろうか。
不安と期待とでごちゃまぜになっている気持ちが、ずっと私の胃を痛めていた。
「お食事をお持ち致しました」
看護師さんが運んできてくれた食事は、私の知っている病院食じゃなかった。
こんなに胃が痛くなければ食べられるのに…
食い意地が張っていた私でも、流石にこの心境の中では食欲も湧いてこない。
「由香里ちゃん、まだ食事はいただけませんか?」
「すみません」
手を付けようとしない私に、看護師さんは心配そうに声を掛けてくれる。
「なにか好きなものとか、食べたいものはありますか?」
「看護師さん、由香里は桃のゼリーが好物だったの。お見舞いの品の中にありませんでした?」
「そうなんですか。お待ち下さいね、見て参ります」
そう言って看護師さんは部屋から出ていった。
誰もお見舞いなんか来てなかったと思うんだけど、面会謝絶とかにしているのかな。
そしてお見舞いの品をこの広い病室に置いておかず、自宅に持ち帰るでもなく別室に置いてあるなんて。
由香里ちゃんはお金持ちの家の子だったんだね。
────────
コンコン、と病室にノックが響く。
お母様が扉を開けに入り口まで足を運んでいる。
およそ自分から動かない人だった(この数日の行動を見る限りだけど)ので、訪れた人物の察しがついた。
「お待ちしておりました、貴方。遠いところからご足労かけてしまい、申し訳ありません」
「様子は?」
「はい。意識は戻りましたが、まだ何も思い出せないみたいで…っ」
「泣くのは止めなさい。由香里が一番辛い思いをしているんだから。遅くなってしまってすまなかったね。心細かっただろう」
「…っ、はい」
お父様はジェントルマンな感じの壮年の紳士でした。