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冬に片足を突っ込んだような、寒さが堪え始めた季節。
私、西條ゆかりは湖の畔に佇んでいる。
傍から見れば哀愁漂う佇まいに見えること間違いなしだけれど、心情としてはそんな情感溢れるものどころじゃない。
馴れ親しんだ土地を離れることになって、逃げるように知り合いのいない場所を探していたのだけれど、せっかくだしちょっと観光もしてみるかなとか思って足を踏み入れた林道で遺憾なく発揮された方向音痴が厄いし、いい年こいて迷子になった。
携帯の位置情報! と思って取り出したスマートフォンは、およそ電波の入る圏内じゃないことだけを告げたあと、充電してくれと訴えかけてきた。
スマホよ、私も充電したい。
なんならお腹にも何か補充してやりたいくらいだ。
けれど、散策程度のつもりで踏み入った今の私には持ち合わせてる物が何もないのだ。
途方にくれつつ電波を探して携帯を色んな方向に翳していたところ、無情にも電源が落ちた。
……詰んだ。
いや、何だったら携帯が死ぬ前に私の人生も軽く詰んでいたのだけれどね。
幼い頃に両親が他界して、身寄りもなかった私は必然的に施設で育った。
一般家庭の子たちのように遊ぶにもお金が物をいう時代で生まれていたから、小学校に入学した辺りから『道楽には金がかかる』と、幼いながらに自分の境遇に悟りを開き、堅実な生き方しかできないだろうと考えていたから自然と勉強やら家事手伝いやらに邁進した。
堅実に生きて、自立する頃にはそれなりの生活ができるようにしたいと思っていたのだ。
だけど、いくら勉強がそこそこ出来たところで高校、大学とレベルの高いものを求めるにあたってもお金が必要になるんだと気付かされた。
お受験って、頭がそこそこ良いくらいじゃ駄目なんだ。
突き抜けて良いくらいにならないと、奨学生枠にも手が届かなかったわ。
国公立にいけるだけの自力はなかったし、私立大学なんか逆立ちしても無理。逆立ちも出来ないけど。
幼い頃からの境遇もあってか、無理なことにいつまでも執着することはなく気持ちの切り替えは割りとすんなりできた。
これはもう手に職つけるか資格取るしかないなって。
施設から通える範囲でそれが賄えそうだったのが看護専門学校だった。
そこそこの学力がある私は推薦枠での入学をもぎ取ることができた。元々は国立機関の病院だったから大丈夫かな? と若干の心配はあったけど、なんとかなるもんだ。
順調…とはいかない地獄のような実習期間もやり遂げ、国家試験もクリアして、白衣の天使の仲間入りを果たしたのが5年前。
敢えて地元の病院は選ばずに県外での就職を果たした。
地元なんかで就職したら、地元トークが出たときにうっかり施設で育ったくだりが出て場の雰囲気が気まずくなるのが嫌だったからだ。
その点、県外に出れば地元トークになった際にもご当地あるあるくらいのネタで楽しく終われる。
施設育ちを隠したいわけじゃないけど、敢えて伝えて周囲に変に気遣われたり詮索されたり決めつけられたりするのが嫌なだけです。
そんなこんなでやっと慣れてきて愛着も湧いた環境で、もう少ししたらベテランの座に手が届くなーなんて思いながら毎日過酷な仕事をこなしていた私にも、初めての色恋沙汰が舞い降りたのだ。
そう、全てはそこからおかしくなった。
そもそも学生時代には自由になるお金もなかったから恋愛なんていうものは箸にも棒にも引っかからなかった。恋愛スキルなんかゼロに等しい私は、数合わせに呼ばれた合コンで話し掛けられた男性に愛想よくしていたら、なんだかんだで付き合うことになったのだ。
初めての恋愛、それはもう浮かれに浮かれた。
あの過酷な仕事をやり終えても不思議と体は疲れてなくて、彼に会う時間もしっかり作った。
恋愛中に放出されたであろうドーパミンに色んな中枢を侵されていたに違いない。
普段なら冷静に見えるところが見えなくなるのも、恋愛の落とし穴だ。
そんな甘いだけの毎日でも、ちょっとしたことで諍いなんか起こると、一瞬目が覚めることがある。
あれ? 何だか私の都合のつく時間、いつも彼の時間も合うな?
ん?
そういえば私の部屋に彼の私物が増えすぎてないか?
いつの間にこんなタンスまで設えたんだっけ?
おかえりー、ただいまーって、私いつもただいまって言ってない?
そう、彼は見事に仕事を辞めていた。
何故気づけなかった。あれだけ看護師はヒモ男にかかりやすいと世間は吹聴し続けているというのに。
まさか自分の彼氏がヒモにジョブチェンジしているなんて。
このままじゃマズイ…と背中に冷たいものが流れた。
そして、私は別れを切り出したのだが、それがまぁ、しんどかった。
一度甘い暮らしを知ってしまった人間にとって、そんな環境はそうやすやすと手放せるものではなかったらしい。
別れ話を持ち出しても、のらりくらりと躱され続けた。
人と付き合うより、別れる方が難しいだなんて初めて知ったわ。
もうこれは逃げるしかあるまい。
私の貯金残高が危なくなる前に…!
あれほど実直な生き方を目指していたはずなのに、馴れ親しんだ環境を手放さざるを得ないなんて…
職場には結婚することになりましてー。彼の転勤についていくことになりましてー。などと、言ってみたかったセリフをこれでもかと吹いておいた。
どうせもうこの地には暫く足も踏み入れないんだ。嘘八百並べたところで構うもんか。
結婚式には呼んでねー。お幸せにー。なんて言われてちょっと脳内で疑似結婚式が執り行われそうになったけど、新郎の顔見たらヒモ男だったのでサッと真顔に戻った。
危ない。私はまだ洗脳されている…
寂しくなるね…という同期の千尋ちゃん。ずっと二人で励まし合っていたから、彼女には本当の理由も言ってある。
状況が状況なだけに、恥を偲んで相談していたのだが、逃げろと言ってくれたのも千尋ちゃんだった。
千尋ちゃんは口も堅いし、信頼できるから漏れ伝わることはないだろう。
職場のみんなは送別会をしてくれると言っていたけど、色んなもの持たされたらヒモ男に勘付かれるかもしれないから、お食事会だけにして欲しいとお願いした。千尋ちゃんとはお別れ会は二人でしっかりやったけど。
もともと私物の多くなかった私はちょっと職場の慰労旅行だからとヒモ男に告げ、必要なものだけをまとめて、いってきまーすと一方的にお別れしてきた。
アパートの管理人さんにはきちんと挨拶しておく。
残った家具家財の処理はヒモ男に一任して欲しいこと、受け取らない場合は処分して欲しいことをお願いし、迷惑料としてお金も包んだ。
無駄遣いなんてしてきたことないつもりだったのに、こんなことにお金遣うなんて…
でもまぁ、被害をここで食い止める為だ。もう別れる別れないに1年も費やせない。心労をお金で買い取ってもらっていると思うことにした。
そして、いま私は冒頭の迷子に戻る。
無計画に何かするなんてことしたことなかったから、自分がこんな目に合うなんて思いもしなかった。
ヒモ男に会ってからというもの、私は恋愛運だけではなく人生の運にまで見放されようとしているんじゃなかろうか…怖い!
せっかくだし湖畔をもう少し歩いてから林道を探そう。
いや待て。せっかくだしーで踏み入った林道で迷子になったんだ。このままそんな事したら次は……遭難?
ヒィ!
と、自分の心の中で悲鳴を上げたつもりだったのだけど、本物の悲鳴が聞こえた。
女の子の悲鳴だった。
ついで、不規則におよそ自然では発生しないような水音が耳に届く。
こんな人気のない所で女の子の悲鳴? 水音?
もうサスペンスかホラーの気配しかしないんですけど!
とか思いつつも、看護師だった私は急変のときに付きものだった悲鳴とか叫び声に体が反応して走り出していた。
水面に目を走らせながら畔を走り回っていると、欄干が設置されている場所が目に飛び込んできた。
林の中で摘まれたものなのか、花のようなものが散乱している。
水面に目を凝らしてみると、波立っている!
溺れて……!?
私は欄干の端まで駆け寄り、荷物とコート、脱げるだけ脱いで湖に飛び込んだ。
寒い!
痛い!
冬も間近のこの時期、水温は更に冷えていて容赦なく体温を奪っていく。心臓が一瞬ビックリして変な脈を打ったのがわかった。
濁った水の中で頑張って辺りを見渡す。目が沁みる。
息が持たなくて一度水面に顔を出すとガチガチと歯が鳴った。
自分を叱咤してもう一度水中に潜る。今度はもう少し下に潜り込んでみると、ゴテゴテに何か巻き付いた人形に絡まった女の子が水草に絡まってグッタリと漂っている。
私は急いでその子の元に向かって水草を掻き分けた。
女の子と水草は離せたので、引っ張って浮上しようとしたけど、くんっと抵抗があった。
よく見ると、水草が人形の装飾に巻きついてて、その装飾が女の子に巻き付いてる。
早く! 早く! と焦りながら装飾を引き千切り、今度こそ水面に浮上する。
ぶはぁっ! と空気を思い切り吸い込むと、少し水も一緒に入れてしまって盛大にむせた。
呼吸も整わないままに何とか欄干に女の子を乗せ上げ、自分も体を乗り上げようと力を入れる。
あれ、力が、入んないな…
手の感覚がなくなっていくみたいで、上手く動かせない。
あとなんか心臓が痛い。引き攣るみたいに脈打つたびに左胸から肩にかけて痛みが散開していく感じがする。
これは、不整脈かな。
全然呼吸は整わないし、胸の痛みは感じるのに手足の感覚が遠のいていく現状に、頭だけが妙に落ち着いていた。
女の子、息、してない。早く蘇生させないと…
欄干の端の木になんとか腕を回してその場に留まり、女の子の胸に向けて腕を振り下ろした。
十分な力が入ってないけど、ダメ元で何度も腕を振り下ろす。
水音がして駆け付けるまでにどれくらいの時間がかかっただろう。
呼吸が止まってどれくらい時間が経ってるんだろう。
水温がこの状態だと、先に心停止になってたりしたら…
「っ、神様──…」
神様になんて祈ったこと殆どないし、無宗教で悪いけど、お願いします、助けて。
無情にも女の子が息を吹き返す前に私の体力が尽きた。
腕を回して体を支えていた手の感覚は、もうとうになくなっていたから自分の体が水中に沈んでいくまで気付かなかった。
あぁ、そっか。
これが私の最期なんだ。
なんか、呆気な…
水中に沈んでいきながら、意識も沈んでいく。
人間、最期のときって色んなことが走馬灯のようにかけ巡るのかと思ってたけど、ちがうんだな。
こんなにぼんやりするものなんだ。
たすけてあげられなくて、ごめんね。
さ、む……
意識が途絶える瞬間、ふわっと温かいものに包まれた気がした。
私は母親を覚えていないけど、おかあさんの腕の中みたいで、たゆたうようで、安心できて、凄く、気持ちいい。
もうずっとこのまま、この優しい温かさに抱かれていたいなんて思った。
助けられなかったあの子も、せめてこの温かさに癒されていて欲しいな。
あの欄干で独りぼっちにしちゃったから、寒くて辛い思いをさせちゃったかな。
変わってあげられたらいいのに。
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────り…
───かりー…っ!
「由香里!!」
ぼんやりと視界が揺らぐ。
息が苦しい、というか、しづらい。強制的に空気を押し込まれて、吐き出したいのにできない!
パニックになって、バダバタと手足を動かすと、押さえつけられた。
なになになに?!
苦しい! こわい! 離して!!
「先生! 目が意識戻りました!」
「バッキングしてます。自発呼吸もしっかり出てきましたし、抜管しますか?」
「そうだな…いや、ちょっと落ち着かせよう。少し鎮静させて、ウィージングは明日からにしよう」
「先生! 由香里は目を醒ましたのに! 何でまた眠らせるんですか!」
「落ち着いて下さい奥様。あちらで説明しますので……」
会話が遠のいていって、手足を押さえられていた力も弱くなったけど、体がまた動かせなくなって、意識もまたぼんやりしていった。