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奴隷迎合 - The Servant above Slaves  作者: 紙谷米英
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奴隷迎合【8】

【8】


 


 一瞬、前頭葉が炸裂したかと思った。「怖くてどうしようもない」「今すぐに罪を吐き出したい」「私は逮捕されるの?」そういう吐露なら、一笑に付してやれるつもりだった。「嫌いになんかならないよ」と、頬を撫でてやるつもりだった。それがまっとうな反応なのだと、殺人への理解に要する時間を設け、贖罪の不要を説いてやる腹づもりだった。


 現実はどうだ?脳味噌に猛吹雪が襲来していた。思考に灰色のノイズが掛かり、血液中の糖が凄まじい勢いで消費されてゆく。こんなのは、俺の期待した未来ではない。


 二〇〇〇年問題を回避出来なかった機械の様に凍り付いた次男坊を見かねてか、親父が焼けて変色したケトルから水を紙カップに注ぎ、俺の前に置く。


「今しがた言った通りだ。この子はな、ヒルバート。お前さんの許可が下りれば、限定的ながら我々の一員となる為のテストを受けられる」


「馬鹿野郎がくそったれ!誰が首なんか振るか!その年で痴呆かちくしょう!」


 テーブルに半身乗り上げた俺の肩をショーンが掴み、スツールへと引き戻す。紙コップ倒れ、水がコンクリートの床に濡らした。零れた水とケトルに、血の殺到した顔が写り込む。親父は両手を組み、慇懃な視線を差し向けた。


「平静を欠くな、クラプトン少尉。職業軍人が容易に規範から外れるんじゃない」


「どの口が規範だ不良士官が!入営間もない女通訳をSASにぶち込む方が、よっぽどとち狂ってるね!」


 ブリジットは真面目腐った表情のまま、唇を再び堅く結んでいる。親父はふてぶてしい態度を崩さず、ショーンは何処までも冷静だ。何なんだ、軒並み狂ってやがる。肩で息をする俺に、ショーンが新しい水を寄越した。


「兄貴の気持ちはもっともだ。俺だって、全面的に賛同してる訳じゃない」


「うるせえ馬鹿!こんな間違いにも気付かないなら、狙撃手なんて辞めちまえ!」


 弟は何も言い返さず、親父とブリジットのカップに水を注ぎ足す。素知らぬ風が、立腹に拍車を掛ける。親父が指でテーブルを打ち、両の手を組んだ。


「なあ、ヒル。お前さんは、ブリジットが敵の殺害に至った状況を訊いてやったか?」


 説教めいた物言いに、行き場を失った拳が自分の膝を殴る。奥歯を噛み締め、沸き立つ憤怒を押し止めるのに必死だった。親父は鼻息を漏らし、ショーンへ手振りを向ける。弟は、足許のブリーフケースから書類の収まったファイルを取り出した。数枚のA4用紙がテーブルに展開されると、彼は感情を殺した声音で状況説明を始める。


「……俺が第二の狙撃地点に使ったコンテナは憶えているな?あそこが、ブリジットが件の二人を射殺した場所だ」


 狙撃地点のコンテナ――情報の漏洩を危惧し、事前の取り決めを捨て、急場で設けた攻撃陣地だ。ろくな遮蔽物もなく、彼は裸同然で仲間を支援していたのだろう。突入に参加した誰もが、弟の功労を認めている。口許に手をあてがい、少し血の下がった脳味噌で欠けていた情報を繋ぎ合わせる。頭の中で欠けていた真実が組み上がりつつある中、今度はブリジットが口を開いた。


「私は、ヒルバート様の指示で戦線後方に戻りました。ですが、負傷した方々は手に負える段階ではありませんでした。皆さんに止血を試みましたが、もう流す血が残っていませんでした。私は誰も救えませんでした。手を握って、モルヒネを打つだけしか……」


 その先の言及は親父が遮った。誰しも聞きたがる話じゃない。険呑に眉根を寄せる親父が、書類群の一枚――昼間の埠頭の俯瞰写真をペン先でつつく。


「ショーンが新たな狙撃地点に決めたコンテナが……ここだ。貨物船から、二百メーターと離れていない。ここに梯子を掛けて、狙撃を再開した」


 親父の状況描写の最中、ショーンは自身の武勇を誇るどころか、悔悟に唇を噛んでいた。手塩に掛けて育てたマシューの死が、かさぶたも出来ていない心を抉っている。こいつは賢い男だ。悔いたところで、神様がマシューを返してくれやしないのも分かっている。それでも、自らの作品とでも称する弟子の無慈悲な逝去に、得心がいくものではない。


「敵の埠頭へ降りる動きを確認して、俺は狙撃の応援を要請した。ヒルが周波数を変えてから、すぐに補充要員を乗せた車輌が駆け付けてくれた。安心したよ。たった一人で何十ってテロリストを相手取るのは、正気の沙汰じゃない。だから、気が緩んでいたんだ」


 指を組んだショーンの両手が鬱血する。


「……作戦決行の前から、コンテナの中に潜んでいた敵がいた。やつらの接近に、俺は気付けなかった。仮に察知出来ていたとしても、反撃は間に合わなかっただろうな。


 上甲板の敵を狙撃していると、足下で銃声があった。それで初めてスコープから目を離した」


 言いながら、ショーンの肩は震えていた。我々とて、死の恐怖を克服した殺人マシンではない。餓鬼の頃から飛び抜けて臆病風に吹かれる三男は、死んだ敵の残留思念に怯えていた。


「続きは私からお話しします」


 トラウマの片鱗を覗かせるショーンに代わり、ブリジットが一枚の書類を寄越す。A4のコピー用紙に、写真が印刷されている。コーヒー豆の麻袋と一緒に横たわる、二つの死体。自分の目許が痙攣するのが分かる。写りは悪いが、赤黒い銃創がはっきり視認出来る。割り切ったとはいえ、恋人が作った死体に自責が湧く。


「負傷者への処置の最中に、埠頭を横切る人影を捉えたんです。遠くて識別出来ませんでしたが、味方とは思えませんでした。勘でしかありませんでしたが、放ってはおけませんでした。ヒルバート様から授かった任を抜け出し、彼らを追いました。


 コンテナの間を縫って影を追っていると、サプレッサーを通した銃声が聞こえました」


 それからブリジットは逡巡し、埠頭の俯瞰写真を指でなぞった。月明かりを頼り辿った経路に、整理を付けているらしい。


「銃声の主――ショーンのお義兄様を見付けた時、銃を手にした先程の二人と鉢合わせしました。まず近い方の敵へ三発撃って、それからもう一方に組み付いて、無心で引き鉄を絞りました。気付くと敵は喉から血を流して、背中から倒れていました」


 表情を凍り付かせたまま言い終えると、ブリジットは物憂げな視線を投げた。


「以上が、本件の顛末です。事後処理は全て、お義父様が済ませてくれました」


 違う。俺が聞きたかったのは、そんな事実確認ではない。「怖かった」と、その一言が欲しかった。泣いて、叫んで、助けを求め縋り付いて欲しかった。


 


 鬱に沈み、手を額にうな垂れる。皮肉にも、彼女の発言と狂気の正当性を証明する説には、思い当たる節があった。多くの動物が同族殺しに対して極端な忌避を示す研究結果は、数々の文献が詳説してくれている。同時に、その心理的制約を逸脱する存在さえも。


 軍人を対象にした調査によれば、男性の九八パーセントは殺人に強い抵抗を覚えるとある。中脳――脳の動物的本能を司る部位が、歯止めを掛けているのだ。これの枠外にあたる二パーセントは、その道の専門用語で『攻撃的精神病質者』と呼称される。彼らは所謂サイコパスとは根本から異なる存在であり、正当な理由と上官の統制下にある限り、同族の殺傷に二の足を踏まない。故に、人殺しを理由にPTSDを抱え込まない。組織に忠実かつ任務に実直、兵士として無比の適性である。


 それが自分の恋人だと判明して、誰が喜ぶものか。先程と打って変わって脱力し、ブリジットを直視出来なかった。俺とて、血煙の舞う戦場まで最愛の女を引き連れるほど壊れちゃいない。彼女が自身の行為に動揺を見せない説明は付いた。だが、それで戦線加入の言い訳にはなる筈もない。俺の望みはブリジットが安全な場所で俺の帰りを待ってくれる事であり、惨たらしい人殺しに荷担させる為ではないのだ。


 酸味を含んだ臭いが喉に絡みつく。テーブルへ突っ伏した俺に、親父は容赦しなかった。


「この裁定は何も、ブリジットの建言を全面的に支持してる訳じゃない。この子の精神的安定の為でもある」


 義父としてあるまじき妄言に、拳がいつ放たれてもおかしくなかった。このまま男ふたりをぶちのめし、ブリジットの手を引いてすぐにでも本国へ帰したかった。


「考えてもみろ。お前がブリジットに救われた様に、お前自身がブリジットをこの世に繋ぎ止めておく楔になっているんだ。どんな理由であれ、お前が死ぬ事態は耐えられないだろうよ」


「それが詭弁の説明になっているとでも?戦場でブリジットが死傷した時の、俺の気も察しずに!」


 当のブリジットは全く動じる素振りさえなく、その膝に置いたB5サイズの冊子をテーブルに伏せた。


「……少し、お二方には席を外して戴けますか」


 ショーンの表情に、驚愕の色が浮かぶ。が、そんな弟の肩を親父は叩き、ブリジットへ何らかの目配せををすると、三男を連れて部屋を退出してしまった。男ふたりの退場と同時に鉄扉が閉じられると、室内に沈黙が垂れ込めた。


 一体、ブリジットのやつは何を考えているのか。彼女の死が、俺にとっての破滅を意味しているのを知らぬ筈はないのに。濃くなってきた胃酸が、粘膜壁に沁みる。紙カップの水も使わずに、ありったけの胃薬の錠剤を噛み砕いた。腰を据えてもいられず、席を立って背後の壁に額を押し付ける。


 何を誤った?ブリジットとの交際が本格化した時点で、この職から手を引くべきであっただろうか。一理あるが、連隊は俺にとって単なる食い扶持ではないのは誰もが知っているし、他の仲間だってそうだ。そうなると、やはり遠征当初からブリジットを強制的に本国へ送還しなかった点が大きい。一旦抜け出したものの繰り返される堂々巡りは、渦中の女の声で中断される。


「ヒルバート様のご意見はもっともです。私が戦闘に加わっても戦力にはなりませんし、それが原因で部隊を窮地に追いやるかもしれない。場合によっては、イギリス政府が特殊部隊に性奴隷を編入していたという情報が内部告発される危険もあり得ます。


 ……ですが、私もただの小娘ではありません。学歴以外は全てにおいて同年代女性より秀でていますし、戦争の現実も把握しているつもりです」


 さも他人事の様に、彼女は就職面接みたいな美辞麗句を並べる。恨めしく視線を向けると、ブリジットはこちらへスクラップブックを開いてみせていた。黄土色の紙面に、新聞やコピー用紙の小片が整然と貼付されている。記事の詳細までは認識しないものの、太字の見出しや不鮮明な写真を無意識にさらっていた。


 にわかに、おぞましい悪寒が胸に去来した。情報の欠片は、何れも一昨年の九月付の記事を示している。各新聞社は揃って、猟奇殺人の単語を見出しに置いている。それら全てに憶えがあった。風化も始まっていない記憶のフィルムが、鮮明な像を映す。脳裏が秒単位で再現する暗い情景、血の臭い、筋肉を断ち切る感触に、神経が統制を失った。


「私だって、こんな歳で死ぬのは不本意です。ヒルバート様を案ずる前提に、自身を防衛する小狡さも自負しています。だって――」


 何より、複数枚に渡って添付された被害者男性の近影が強烈な揺さ振りを掛ける。


「――私は故上院議員、マーティン・アボットの娘ですもの」



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