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奴隷迎合 - The Servant above Slaves  作者: 紙谷米英
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奴隷迎合【7】

【7】


 


 もう、どれだけ吐いたか分からなかった。自己の失態が招いたブリジットの惨劇を突き付けられた後、作戦本部の設置された倉庫で、現地の治安部隊を交えてのデブリーフィング(帰還報告・事実確認)が朝まで続いたらしい。その間、俺は小隊長の職務を兄弟に丸投げし、ダニエルを付き添いに海辺で嘔吐していた。作戦本部まで戻るだけの余力もなく、埠頭から黒い海面へと延々、吐瀉物を投下し続けた。チョコレートとナッツで糞尿の混合物めいた澱みが眼下に溜まり、波にさらわれてどろりと揺れる。逆流した汚濁が鼻孔を塞ぎ、海風が運ぶ微生物の死臭が肺に満ちる。おぞましい嗚咽が、払暁前の波音を掻き乱していた。


 ダニエルの介抱虚しく、胃腸からのゲル状物質は際限なくこみ上げ続けた。彼は脆弱な上司が海に落ちない様に戦闘ベストの襟首を掴み、そいつがむせ込む醜態を、余計な言葉なく見守ってくれた。蔑みも向けず、陳腐な憐憫も寄せずにいてくれる温情が心苦しく、歪んだ倫理観の自傷行為が激化する。顎を伝う粘液が装備を汚し、ストレス性の汗も相まって、路地裏のゴミバケツにも劣るすえた腐臭を発していた。


 そうして一時間ほど気管を痛め付け、遂に液体に血が混じった時分に、嘔吐は一旦の落ち着きを見せた。水平線に朝日が手を掛け、乾いた眼球を突き刺す。この隙にダニエルは塩を含んだ水のボトルを俺に咥えさせ、生命活動の危機に腰まで浸かる肉体の延命をに努めた。水分に溶けた塩気に吐き気が再来したが、死にたくない一心で胃に塩水を受け入れさせた。ダニエルは喉から掠れた風音を漏らす俺の戦闘ベストを脱がせ、嫌な顔ひとつせず片腕に提げた。それから空いている肩を俺に貸して、作戦本部へ向けて引きずってくれた。


「まずは胃を手当てして、栄養を摂らなきゃな。すぐそこで車が待ってるぞ。一緒に戻ろう、な?」


 返事をしようにも喉は荒れ、首を振る力も残ってはいない。ダニエルが十数歩目の足を送り出す。視界の片隅を、焼け焦げたヘリの残骸がよぎる。見えざる手に魂を掠め取られ、無事に帰投出来なかった仲間はどれだけいるのだろう。胃に仮止めした生気が、そっくり地面へぶちまけられた。


 


 午前八時。D戦闘中隊は、ここへ来る時と同じハーキュリーズに搭乗して、キング・ハリド空軍基地への復路に就いた。結局、作戦本部へ辿り着けなかった俺は明け方の埠頭にうずくまり、流す涙もなくすすり泣いた。デブリーフィングを抜け出したヴェストが担架を持ってきて、ダニエルと協力して車へ運んでくれた。本部へ到着すると、連隊の仲間が小隊長の不名誉な姿にざわめく。ヴェストの指示で人混みの真ん中に空間が設けられ、俺はナイロンの布を張った簡易ベッドに横たえられた。兄貴は見事な手際で、俺の左腕静脈に点滴を繋いだ。細いカテーテルを通じて、透明なパウチからブドウ糖輸液――電解質飲料みたいなものだ――と思しき液体が流入する。口から物を受け入れられないが故の、やむを得ない処置だ。これに加えてモルヒネが投与され、間もなく脳味噌に靄が掛かる心地を味わった。チョコレートさえ飲み込めない現状、手持ちで使える抗不安剤は、麻薬の姉妹品だけだった。


 数時間後、倉庫からハーキュリーズへと運び込まれた俺に、ヴェストが何本目かのモルヒネを投与した。後に聞けば、輸送機での俺は殆どラリパッパ状態で、うわごとにブリジットを呼んでいたらしい。自分の醜態は記憶に残っていないくせして、周りで繰り広げられる光景はしっかり憶えていた。滑走路を離陸したC-130の機内は、同一機体と思えないまでに様変わりしていた。見慣れた顔が、幾つも消えている。彼らと同じ数だけ、機体後部に黒色の袋が整列された。誰もが口を固くつぐみ、戦友の収まる遺体袋を見つめていた。


 ブリジットは輸送機に乗らず、親父夫妻と一緒のヘリで基地へ戻った。俺を彼女から物理的に隔離する為の、身内による手配だ。脳裏に、件のコンテナの光景が焼き付いている。目を瞑れば、暗闇に佇むブリジットの姿が目蓋の裏に蘇った。血の気なく凍り付いた面持ちの恋人を前に、俺は何の慰めも掛けられなかった。頼りない亭主の身を案じ、誰より深い傷を負ったに相違ないブリジット。その旦那は妻を支えもせず、自己嫌悪に潰れて単身逃げ出した。最低だ。


 霊柩車の飛行中はダニエルが傍らに付き従い、べとべとの俺の右手をずっと握っていた。このまま死んでも、そこだけは腐らずに保たれる気がした。彼に一時間のフライトを眠って過ごすよう奨められたが、目蓋を閉じるとフラッシュバックに寝首を掻かれそうだった。強迫観念が休息の権利を奪い、視界に満ちる現実は何処までも辛辣であった。殉死者の数は、十六に達していた。


 


 空軍基地の滑走路に、輸送機が接地する。車輪から伝わる衝撃が、臓器内の僅かな液体を容赦なく揺さ振る。胃液の逆流に耐えながら機体の制動を待ち、出血するまで歯を噛み締めた。機付長が後部ランプを下ろすや、点滴を繋がれたままストレッチャーに載せられ、ヴェストの舵でゆっくりと兵舎へ導かれる。満身創痍の仲間が、輸送機に横付けしたトラックの荷台へ死体袋を積む。


「今は見るな。また吐くぞ」


 クラプトン家一の色男・ヴェストの目の下に、くまが浮かんでいる。同胞の理不尽な犠牲と渦巻く疑念に、誰も眠れていないらしい。加えて、直属のボスである俺がこのざまだ。今日中にノイローゼで精神の不調を発症する者も出るだろう。D戦闘中隊は、俺の居場所は壊滅寸前だった。


 兵舎に搬送されてから、更に一時間が経った。開け放たれたままのシャッターから射し込む朝日に、隊員らの曇り切った顔が照らされる。空になった点滴のパウチとカテーテルをヴェストが取り除き、防水の絆創膏が前腕に貼られた。


「兄貴、ブリジットは何処だ……?」


「自分の身だけ案じていろ。彼女は無事だし、親父とニーナが付き添ってる。まだ会うな」


 その声に感情は籠もっておらず、他者を慮るだけの余裕がなかった。兄貴でさえこのダメージだ、他の連中は、満足な意思疎通さえも難しいだろう。


「ダニー、ヒルの身体を洗ってやれ」


 余力でそれだけ言い残すと、兄貴は自分のベッドに突っ伏した。ダニエルの助けでストレッチャーを下り、九十キロの体重を預けてシャワー施設へと向かった。


 


 数時間前に比べて体調はましになったものの、気分が酷く塞ぎ淀んでいた。数人の仲間が装備を着たまま汗と血を洗い流すシャワー施設で、ダニエルは乾いたゲロで硬化した俺の身体を懸命にこすった。怪我こそないものの、彼も疲れが表面化していた。作戦直後はいつもやかましい施設は、今は水がタイルを叩く音しか響かない。


 装備の洗浄から乾燥の用意まで、全てをダニエルが片付けてくれた。諸々の汚れを落として新しい肌着とトラウザスに着替えると、身体に若干の回復が見られた。自分のベッドに腰掛けて、従者と化したダニエルを手招きする。


「なあダニー。報告書をコピーしてきてくれ」


 ぎょっとした顔だった。


「あのね、馬鹿言うんじゃないよ。いいからじっとしてなさいな」


「頼むよ。これ以上動けなくなったら、ちょっと前と同じ廃人になっちまう」


 俺は住人のいない上段のベッドに視線をやり、食い下がった。


「ブリジットの件を頭の隅へ追いやるには好都合だ。飲み物と、冷えたチョコレートも頼む」


 お脳への栄養は、何はなくとも糖分だ。不承不承に、ダニエルは作戦報告書と食料を持ってきた。A4用紙が二十枚ほどステープルされた暫定報告の表紙には、英陸軍の徽章が不鮮明に印刷されている。作成者は、ヴェスト・クラプトン少尉となっていた。事件の概要から読み進め、参加した組織の所属構成を上からなぞる。作戦の最高責任者は、本国のクレデンヒルでテロに備える我らがボス、ブラッド・クリーヴズ中佐だ。その直下にリチャード・クラプトン少佐が続き、D戦闘中隊と第二六四通信中隊が追従する。英陸軍以外からの参加は、ブレナン中将率いるRAFとSISの背広組が数人、特殊部隊支援グループを始めとしたスタッフが続く。


 潰れたマットレスに尻を沈め、しばし顎を撫ぜる。チョコレートを舌に乗せたまま、じっくりと粘膜に染み込ませる。神経細胞が活性化し、ノックダウンしていた脳を叩き起こした。ダニエルに隣へ座るよう促し、耳打ちする。


「何処にもあいつらの記述がない」


 制圧後の貨物船に乗り込んでいった、例の不審な連中だ。英軍であるなら、報告書に記載がない筈がない。事実確認にこの報告書の作成者の方へ首を回したが、声を掛けるのは止した。ヴェストは左半身をベッドから宙へ放り出して、死んだみたいに眠っていた。


「あの大所帯なら、他の連中の目にもついてますよね……」


 写真を撮っておくべきだったと、叶わぬ過去へ未練を噛み締めた。次項で作戦の顛末が俯瞰されており、陸軍の調査部門の主導で積み荷の確認を以て、作戦は終了を迎えていた。――陸軍の調査部門。月明かりの下では、集団の中にこの三箇月ですれ違った顔があったかも分からなかった。第一、その調査部門が何処の所属も明記されていない。臨時に編成されたタスクフォース(任務部隊)なら、その内訳があってしかるべきなのに。


 ダニエルが空の木箱を持ってきて、その上で銃の整備をし出す。付近のベッドで起きている者は、俺達ふたりを除いて皆無だった。報告書の次の項に、敵の詳細と被害状況が記録されていた。計三六人の犯行グループは大方の身元が判明し、数名がDNA鑑定の結果待ちである。自軍の被害は、陸空の合計で十六人。その中にパーシーとデイヴ、狙撃を担当していたマシューの名と階級が記されていた。味気ない印字を目の当たりに、彼らが二度と戻らない事実が心を打ちのめす。RAFのピューマ・ヘリ一機が全壊、もう一機も軽微ならぬ損傷を受けたらしい。彼らの人的被害は三名。墜落したヘリに搭乗していた仲間は、炎上する機体でどんな最期を迎えたのか。


 喉元までせり上がる胃液を押し止め、報告書を読み進める。最後に我々が調査に赴いた大本の目的、積み荷の詳細が連ねられていた。Excelのマス目が縦横に並び、押収した物品と数量、確認が取れている出所が入力されている。自動小銃――一二九挺、対戦車擲弾――三八発、破片手榴弾――八四個……。およそ冷戦期に生産されたと思しき武器資料を読み流し、枠外の付言に眉根を寄せる。――以上、陸軍より提供。『陸軍』は個人とか、小さな集団を意味する単語ではない。一体、何処の部署の誰がこの資料を作成したのか。報告書の表紙を睨み、チョコレートを口に含む。いけない。この問題には、一人で向き合うべきではない。


 ともすれば連隊の結束が瓦解しうる難題を保留し、資料をベッド下のコンテナへ仕舞う。士官らしく報告書を検分したところで、思考は恋人への憂慮に捕らわれたままであった。先の作戦で殺害した敵の内、二体はブリジットの手によるものだ。コンテナに転がる死体は一方が胸を、もう片方は喉を撃ち抜かれていた。間違いなく、死んでいた。無残に殺されていた。速まる脈拍に呼吸を整えつつ、抗不安剤へ手を伸ばす。


 銃の整備を終えたダニエルが、作業台の木箱の片付けに目の前を去る。差し当たり、状況の整理が必要だ。如何様な状況であれ、ブリジットが殺人に手を染めたのは事実だ。それも、大の男を二人ときている。一瞬の行為とはいえ、明確な殺意を以て臨んだに違いない。素人が衝動的に、対象急所をぶち抜ける道理はない。お遊びの延長といえ、護身目的の射撃術を指導するべきではなかったと悔やむ。相手が国家に仇なすテロリストだとしても、何の慰めにもならない。


 ――はて。明晰さを取り戻しつつある脳味噌が、糖を急速に燃やし始める。この慰めは、果たして誰に向けてのものか。不意に浮上した自問に、手ずからこしらえた迷宮へと光明が差す。シナプスが導爆線より早く信号を伝え、頭上に巨大な白熱電球が灯る。とどのつまり、俺は彼女を建前に自分への赦しを請うていたのだ。神を信じない野郎が、己が内に懺悔室を設けていた。いやはや、滑稽じゃないか。


 系統だった思考活動が回復した。兵舎で勝手に腐り、無為に悩んではいられない。当事者のブリジットを前に、どんな言葉を掛けてやるかが至急の課題だ。


 殺害対象が凶悪犯罪者であっても、初めて人間を殺した兵士は、ほぼ確実にPTSDを発症する。これこそ大脳皮質の発達と引き替えの呪いと言うべきか、ヒトは同族殺しに対して極めて敏感である。戦地で敵を殺めた兵士は、起動時間の知れない爆弾を人知れず抱える。起爆スイッチは時間の経過かもしれないし、料理中に指先を切って血が滲んだ瞬間かもしれない。契機がどうあれ体内で爆発が生じるのだから、無事では済まない。脳と精神を吹き飛ばされた人間が、正常でいられるものか。それまで盲信していた倫理観を自ら否定した彼らは、甚大な精神疾患をその身に科す。そんな重苦につぎはぎだらけのブリジットが耐えられると、どうして考えられる。


 ベトナム戦争の帰還兵が退役後にPTSDを発症する確率は、他時期の帰還兵と比較して極めて高い。多湿の密林で共産主義に敗れ、疲労困憊で自国へ戻った米兵を迎えたのは、母国民による侮蔑であった。情報インフラの発達が歪んだイデオロギーを報道し、日和を味わう市民の偽善を煽った。ナパーム弾、枯れ葉剤、ヘリの機銃掃射……。上層部の命令を実直に遂行したに過ぎぬ二等兵らは十年以上続いた戦争の責任として、人権の放棄を強いられた。汚染された生水と泥濘にまみれて帰った彼らに、安寧の場所は残されていなかった。


 二つの大戦が未曾有の死者数を記録したのであれば、ベトナム戦争は間違いなくPTSD患者数部門でノミネートされる。徹底的な訓練の『改良』により、兵士の発砲率は九十パーセント以上と驚異的な数値を叩き出した。ひょっとすると、一般市民はむしろこの数字に首をかしげるやもしれない。「敢闘精神に欠けている」と文民様は仰せになる。無学な士官共よ、驚くなかれ。第二次大戦当時、前線における発砲率は士気の充実した部隊で二十パーセントに過ぎなかったのだ。ベトナム戦争が異常なのは、これだけに止まらない。六十年代、数多の識字ままならぬ十代の少年が、就職にあぶれて十三週間の洗脳を施された。失うものなどありはしないと信じていた彼らは『悪魔の犬』となるべく、不吉に広く開かれ海兵隊の門をくぐる。だが、衣食住と社会保障を得る代償は余りに大きかった。うらなり面の新生海兵隊員は、現地を知る事前学習もなしに、海の向こうの密林へと空輸された。過去の新兵は、訓練を共にした同期と一緒に同じ戦地へ派遣された。大戦後の革新を経た米軍は、このシステムを破壊した。母国を旅立つ新兵はそれこそ家畜の如く、訓練期間を満了したそばから出荷された。不味い食事を共にした同僚と引き離され、巨大な輸送機の中で孤独のみを味わう。辿り着く先はベトナム。そこには気の置けない戦友も、信用に足る練兵軍曹もいない。その国の誰も、彼を知らない。物理的に、そして精神的に、若者は孤立した。


 心の整理をつける暇も与えられず、高速の航空機で不衛生極まる職場に辿り着けば、初対面の上官が軽侮の視線を向ける。「面倒なのが、またやってきた」二十歳そこそこの先任軍曹は新兵を精々補充品としか見ておらず、そこに上下の信頼など醸成される訳がなかった。その即席軍曹とて、数ヶ月前に赴任した新顔なのに!一年の期限付きで現地勤務する二等兵らは、とどのつまり派遣社員でしかない。階級を傘にがなるだけの指揮官とて、犠牲者の一人であった。はな垂れ小僧に過ぎない現場監督に、望んでもいない後輩を可愛がれと命じるのも破綻した談だ。何を以て首尾良く事が進むと思い至ったのか。アメリカさんがやらかすのは、いつだって驕り先走った時だ。


 冗長過ぎる講釈を垂れたが、帰還兵らの再起不能を決定付けたのは執念深いベトコンでも、高火力を誇るAK47でもない。一年の孤独を堪え忍び、傷付いた同僚とのグループセラピーも設けられず、じっくりと感傷に浸る猶予も与えられなかった国家の奴隷へ、果たして何が手向けられたか。無益な戦いに疲弊した少年らの心を殺したのは他ならぬ母国民、恋人、彼らの家族であった。米国の歴史上、過去に前例のない事象である。拠り所と見出した勲章に唾を吐かれ、「人殺し」と蔑まれ続けた帰還兵は、自らを外界と隔絶した。自らの傷を晒し舐め合う権利を奪われた彼らは、誰にも助けを求めず、ただひっそりと命を絶つ。愛したアメリカから、自分を忘れ去られる為に。


 これが、ベトナム戦争におけるPTSDの真相だ。先の戦争による潜在的なPTSD罹患者は、百五十万人いるとされている。その病魔が、目下うら若きブリジットの身に迫っている。やにわに脂汗が額に生じ、手許の電解質飲料のボトルを飲み干す。新兵に必要なのは、親しい同僚と信頼の置ける上司、そして社会の温かな理解である。いつの時代も変わらない、不変の事実だ。


 形式上とはいえ、現状ブリジットは軍に籍を置いている。だが入営以来の同期と呼べる存在はなく、英国社会からは見栄えのする奴隷としての認識しか持ち得ない。状況を鑑みると、彼女の殺人行為を正当化してやれる大人は限られてくる。自惚れた話だが、仮に俺がブリジットを否定してしまえば、あの子は生きる力を失うやもしれない。あの子が俺を中東まで追い掛け、危険な作戦への介入を決した魂胆とは。……明白だ。誰よりも彼女の出生と思想を知る、唯一の存在――ヒルバート・クラプトンの死を恐れるが為だ。


「おいおい凄い汗だぞ。熱でもあるのか?」


 コーラの瓶を手にしたダニエルに、ボディシートを差し出される。それどころではない。汗で滑る手で携帯電話を取り、親父の番号を呼び出そうと指をわななかせる。ちくしょう、操作がままならない。


「おや。ヒルバートさん、お呼びだよ」


 苛立ちつつ舎弟の指差す先へ首を向けると、ニーナが兵舎の玄関口に佇んでいた。苦い固唾を飲み下し、姉貴の誘導でベッドを立つ。凛とした美貌に、一年で一度見られるかの陰が差していた。ちくしょう、向こうから来やがった。


 


 姉貴に付き従い、軍事都市の幾何学的な構造の内側へ進む。我々の居住区を離れて、もう随分と遠くまで歩いた。数え切れない建築物と検問を経由し、何百という米兵とすれ違う。好奇の目を避け、ニーナは黒いバラクラバ(目出し帽)で顔を覆っている。実際には、ワンダフル・ロシアンおっぱいが迷彩服を押し退けているので、何の意味も成していない。それ、射撃時に邪魔にならない?


 何処を見ても代わり映えのない、殺風景な光景が現れては消える間、煩悶とした逡巡が脳を支配していた。ブリジットは不安に苛まれているだろうか。どういった態度で接触を図るべきか。左後ろの側頭部が、じわりと痛み出す。精神的打撃から、絶食状態に陥っていたら?馬鹿野郎、考え過ぎだ。親父も付いているのだから、適切な処置を取ってくれている。


 問題は心理面だ。殺人における後悔の念はその瞬間ではなく、決まって遅れてやってくる。報告が多く寄せられているのは、殺しの直後の就寝時だ。記憶に殺害した人間の顔が刻まれ、延々と自己嫌悪の念がついて回る。自分の行動さえなければ、そいつも食事と睡眠を摂れる日々が続いたのではないか。戦火の果てに、いつか訪れるやもしれない安堵を共に享受出来たのではないか、と。自己の内側で増幅した負の葛藤に抑圧された結果が、廃人化と自殺である。旦那である以前に上官として、それだけは避けねば。ブリジットに言いたい事は山程あるが、如何なる懲罰行為も禁じられる。「馬鹿野郎」「くそったれ」は禁句だ。語彙の足りないおつむには、苦行でしかない。


 広大な八角形を、十分も歩いただろうか。胃腸がぎりぎりとねじくれた時分、一枚のドアの前でニーナは足を止めた。一直線に走る廊下の人通りは皆無で、足音が反響するまでに静まり返っている。付近の部屋は資料室に割り当てられているが、最近使用された形跡がない。床にも大きな綿埃が転がる始末だ。


 ニーナが錆び付いたドアを殴り、空虚な金属音を響かせる。内側から、親父の応答が為された。返事を聞く前にドアを開いた姉が、俺に顎で指図する。


「用事があるのは、あんただけよ」


 冷淡に言い放つと、ニーナは独り来た道を戻っていった。うちの姉様は俺に手厳し過ぎる。姉貴が開け放ったドアの先に、親父とブリジット、金属製のテーブルを挟んでショーンが座していた。弟の隣に空いたスツールがあり、そこへそっと腰を下ろす。四メーター四方の狭苦しい部屋には、テーブルとスツール以外の調度品が何もない。壁時計さえ設置されていない室内に、いたたまれない重圧が充満していた。ブリジットの表情に恐怖や不安に襲われている気配はなく、ただ固く口を結んでいる。少なくとも、会話の出来る状態にはあるらしい。


 言葉なくショーンが目配せすると、親父が厳かに口火を切った。


「前置きはなしだ、端っから本題に入るぞ」


「いや、こっちには前置きがあるんだ」


 片手で待ったを掛けると、親父は不服げに口髭をくねらせた。


「まず、ブリジットの一件が漏れない様、手配してくれた事に感謝している。世話を掛けてすまない」


 親父は聞こえない振りを決め込んでいた。


「……それからブリジット。お前は正しい行いをした。決して表には出ないが、国から賞賛される名誉を果たしたんだ。人を殺めた事実は変わらないが、連隊は絶対にお前を否定しない。いいね?」


 歯が浮く台詞だったが、誰も笑わなかった。ブリジットは目蓋を閉じて深々と頷き、唇を解いた。


「ヒルバート様のお気持ちはお受け致しました。ご心配なさらずとも、私は変わりませんよ」


 目を細めて微笑む彼女に、数年越しに会えた気がした。


「この度は、大変なご迷惑をお掛け致しました。お義父様には事後処理や情報統制に尽力して戴きましたし、主人に多大な心労を負わせてしまったのは、専属メイドにあるまじき不始末です。それを踏まえた上で、ヒルバート様に厚かましいお願いがあります」


 ブリジットは一つ大きく息を吸い、俺に向き直る。何を言われても、受け止める心構えは出来ていた。一拍置いて意を決した彼女の瞳には、力強い光が宿っていた。


「――私を、戦闘中隊に編入して下さい」



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