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奴隷迎合 - The Servant above Slaves  作者: 紙谷米英
6/15

奴隷迎合【6-1】

【6】


 


 港に駐車したレンジローバーの車内は狭苦しく、清掃されていない空調も相まって、仲間の呼気で空気が籠もっていた。人気の失せた深夜一時とはいえ、物々しい戦闘装備の異邦人が衆目につくのはまずい。秘匿性を保つ為に、スモークフィルムを貼ったウィンドウは下ろせない。それに、この国の夜は酷く冷える。海際であれば、ひとしおだ。


 もう何度目になるやも知れないが、膝の上の銃に点検の手を入れる。〈マグプル〉の樹脂製の弾倉は、ちゃんと挿入されている。〈レディマグ〉に取り付けた、追加の弾倉も同様だ。軽く振っても、部品同士の衝突音は立たない。それでは、喉にまとわり付くこの不穏な感情は何だ。こめかみを拳で押していると、左手からチョコレートバーの包みが差し出される。


「そろそろ、糖分が不足しているかと」


 肩が触れるほどの距離で、フル装備のブリジットが微笑んでいた。お前だよ、不安材料!


 さあて、どういった了見でこの小さな兵隊さんは我々『エコー・ワン』の攻撃車輌に同乗しておはしますのか。果たせるかな、やはりそこには彼女の姑たる、リチャード・クラプトンが一枚噛んでいた。


 


 たかだか六百キロの空の旅は、一時間ほどで終わってしまった。瞬く間のフライトで夢を見る間もなくダニーに揺り起こされ、空港の滑走路へ降り立つ。水平線の向こうで、陽が沈みかけていた。現地の陸軍士官の誘導で使用されていない倉庫へと移動し、そこで作戦に使用する車輌を受け取った。防弾処理済のレンジローバー二台と、就役から八十年余りの重機関銃を載せたランドローバーが二台。これ程に強力な武装を目の当たりにしても、心臓を小突かれる様な不快感が続いていた。


 そこに頭痛までもが加わった。我々に先んじて到着していた作戦本部に、見慣れた不審人物が紛れていた。小さな影は我々と同じ砂漠戦闘服を着て、真新しいベルゲンを背負っている。そいつは俺を見付けるなり、一つ結びにした髪を揺らして駆け寄ってきた。「道中、何もお変わりありませんか?」なんて、気を遣ってきやがる。たった今お変わりだよ!


 ただならぬ眩暈を覚え、携帯電話を取って親父を呼び出す。ワンコールが終わる前に繋がった通話に、語気荒く問いただした。


「どういう事だこの野郎」


〈追加で派遣した衛生兵だ。嬉しいだろ?〉


 嬉しくねえよ、ばあか!問い詰めれば、ブリジットの強い希望に応じたとの弁だが、それならそれで引き止めて戴きたい。見れば確かに、彼女の上腕には赤十字の腕章があった。戦闘用の迷彩服に着けては、何の意味も為さないのに。そして、身幅より大きな背嚢を負ぶった彼女は、邪気のない微笑で手を振っていた。これで怒る気が七割失せるのだから、つくづく救いようがない。残る三割は、戦闘ベストに忍ばせたドライジンで揉み消した。どうも、クラプトンの男共は美女に弱い。


 で、そのまま倉庫内に設けた即席司令部に残っていてくれればいいものを、こいつは我々の極秘作戦にまで着いてきたのだ。流石に少しは説教を垂れたが、本気になれないのが明け透けであり、彼女の何処まで本気なのか知れない意志を殺ぐには至らなかった。作戦行動には一切関与しないという事を前提に、部下も何も言わない。何てこった。


 そういった経緯で、ブリジットはこの黒塗りのレンジローバーに我々と同乗している。何が「一切関与しない」だ。渦中に入っておいて、よくも言う。メンタルの脆弱な旦那の不安を知ってか知らずでか――魔性の女だから、分かってやっているんだが――彼女はサイズの合わないヘルメットの下で微笑んでいた。遊びじゃないんだよ、全く。


 愛妻を危険な環境に置く不甲斐なさに、ため息をひとつ漏らす。快適性を根こそぎ取り払った車中には、楽しい玩具が詰まっている。ブリジット・クラプトン衛生兵が偽りなく持参した医療品・大量の発煙筒・ボルトカッターと各種手榴弾。そして室内への突入に使用する多種多様の成形爆薬。順当に潜入調査が進むのであれば、こんな大荷物は要らない。大概の者が、この作戦を楽な仕事と軽んじていた。であるからこそ、尚更に疑念を抱く。――何かが異様だ。お気楽なブリジットが邪魔だとか、そういう問題だけではない。この任務自体に、不穏な気配を覚えずにはいられなかった。


 中東に着いてからこっち、嫁さんに関しての心労は募るばかりだ。気を抜けば、肺で渦巻くストレスが顔中から漏れてしまう。緊張を殺しきれなかったのか、作戦中だというのに感傷に浸っていた。――なあ、マーク。どうしてこの場にいてくれないんだ。


 


 マーク・ラッセル・ペイジとは、我々クラプトン四兄弟がSAS加入直後に派遣された、イラクで知り合った。俺より四つ年上のマークはネブラスカ出身で、口を開けば妻の事ばかり話すグリーンベレー(米陸軍特殊部隊群)であった。


 その性質は温厚の一言で表され、逞しくも爽快で優れた容姿には、巻き毛の濃いブロンドがよく映えた。現在は三歳になったばかりの娘を溺愛しているが、最近になってグリーンベレーを除隊したとの報せが入った。娘の為にも安全な職を求めたのかと考えたが、どうもそうではないらしい。どうやら妻がイギリス人で、その実家近くに越してくるらしい。しかも当人は軍籍を捨てた訳ではなく、何とそのままSASに入隊するつもりらしい。SASにも所帯持ちは少なくないが、まさかやつ程の家庭教信者でも、軍属を抜け出せないとは。この狂気の依存性こそが、特殊部隊から染み出る蜜の甘味を物語っている。


 マークは我々兄弟の属するD戦闘中隊に編入される運びであったのだが、神様は意地悪を為される。彼が引っ越しやアメリカでの残務に奔走する間に、『アラブの春』が吹き荒れた。俺は二人目の兄の到着を待たずして、ベビーブームよろしく四方八方で爆発が起こるアラビア半島へと空輸された。妻という、最愛のお荷物を抱えて――。止せよ、胃がねじ切れちまうぞ。


 車内のスモークガラスに呵々大笑するマークを思い描くと、脳味噌が急激に萎む錯覚に陥った。グリーンベレーを除隊する直前、やつはCIF中隊にいた。CIFは精鋭集団のグリーンベレーでも、トップの精鋭を集めた究極の戦闘集団だ。米陸軍の最高峰に足を掛けていた男であるからして、その実力は安易に言表出来るものではない。その第二の兄貴分が、今ここにはいない。心労から、目頭を揉まずにいられなかった。


 


 埠頭に詰まれた貨物コンテナの影に車を駐めて、一時間が経過していた。尿気を招く為に、不安を紛らわせる紅茶も飲めない。月明かりだけの夜間とはいえ、目標たる全長二百メーターに満たない小型貨物船から、三百メーターと離れていないのだ。小便を理由にこちらの存在が露見するくらいなら、このまま車内で漏らす。


 何度目かの嘆息を口の中で殺し、煩わしい焦燥とつばぜり合いを続ける。〇一三〇時に、埠頭をボートで発った潜入班が、貨物船への乗り込みを開始する。予定時刻まで、七分と二十三秒ある。洪水みたいな冷汗が下着を濡らし、密閉された股間で蒸気が上がる。天津のせいろから湯気が溢れる様に、俺のトラウザスから毒ガスが吹き出した。運転席と助手席に座るパーシーとデイヴは、削れ落ちた心労の臭いにむせ返り、無辜の同乗人であるダニーの放屁だと嘲った。不当な糾弾を受けているにもかかわらず、愛する舎弟は口をつぐんで堪え忍んだ。実に良い弟分に育ってくれたものだ。


 


 点眼液を両眼に注して、ぐうと眼球を押さえる。ヘッドセットの下の左耳に、不明瞭な音声が吐き出される。


〈オクトパスより全部署へ。右舷のケツに着いた。いつでも乗船可能だ〉


 海上からの潜入を担当する『オクトパス』の報告が、波音と共に届けられた。


〈シエラ・ワン、船首側に動きはない〉


〈シエラ・ツー、船尾も異常なし〉


 狙撃手を兼ねた偵察班――ショーンとマシューが、船上の警戒に高倍率の目を光らせている。


〈アルファより全部署へ。作戦を開始しろ〉


 二十四時間前に砂漠で聞いたのと同じ、女声の命令が寄越される。この声の主だが、実はショーンの現恋人である。


〈オクトパス、乗船を開始する〉


 いよいよだ。ここからは見えなくとも、潜入班の二人の動きが目蓋の裏で鮮明に描けた。ワイヤー製の縄梯子を貨物船の縁に引っ掛け、足裏にワイヤーが食い込む痛みを堪え忍んで、ゆっくりと船上に這い上がる。舟艇小隊はいつだって、冷たい海で歯を打ち鳴らす羽目を喰う。河童めいた黒いドライスーツで船内へひたひた侵入し、何らかの反社会的な物的証拠を押さえれば、潜入班の業務は終了である。ちょっと忍び込んで、写真を撮影するだけ。その最中に何者かの目についたとしても、彼らは対処法を熟知している。餓鬼のお使いめいた作業に、何を不穏に感じる必要があるのか。


〈オクトパス、乗船完了。船上のコンテナから調査する〉


 SASでの仕事は、これで何度目だ?夜間に襲撃を仕掛けて、それが想定外の展開に運ばれた前例は、今まで幾つある?被害の大小はあれ、今までこうしてやって来られた。何も心配は要らない。


〈一つ目のコンテナを解錠した〉


 潜入班が貨物船に乗り込んだ理由は、殴り込みではない。単なる捜査だ。穏便に済めば、誰も傷付かずに事が終わる。現に、潜入班は彼らの仕事を進めている。食品に偽装された武器弾薬、或いは麻薬の類が見付かれば、それでほぼ終わり。証拠を握って、またひっそりと現場を後にする。我々も一旦撤収し、態勢を整え、薄明と同時に貨物船を襲撃する。押収品は、きっと通常部隊や米軍が処理してくれる。長く見積もっても、正午までには基地へ帰れるだろう。上手くいかない筈がない。


「この分だと、一時間もしないで帰れそうだな」


 パーシーがレスピレーター(ガスマスク)を脇に放り、ハンドルに顎を預けた。すっかり一つ目のコンテナで不審物が発見されると、甘い見通しを立てている。緊急事態に車を走らせるのはこいつなので、正直なところ緩まないで欲しい。直帰するのに異論はないが。


 車内で自分以外が緊張を和らげたその時、潜入班から入った通信は意図しないものであった。


〈オクトパスより全部署へ。一つ目のコンテナは空だ〉


 その言葉に、デイヴが大袈裟な落胆を示す。


〈無線口に愚痴りたくはないがね、特別手当は出るんだろうな――〉


 無線と現実世界で、夜のしじまを割く破裂音が響き渡る。


〈全部署へ通達、船上で銃声!繰り返す、船上で銃声だ!〉


 にわかに通信の波が押し寄せ、指示とがなり声が方々から飛び交う。全景が把握出来ていないとはいえ、懸念が現のものとなってしまった。


「車を出せ!」


 面喰っているパーシーの座席を蹴り、すぐに車を発進させる。重装備のレンジローバーが低い唸りを上げ、コンテナの陰を飛び出した車体が貨物船へ猛進する。船上で赤白い光が瞬き、銃弾が我々のいる埠頭へ降り注ぐ。その一部が、エコー・ワンのレンジローバーの装甲を叩く。


「待機部隊は貨物船へ突入しろ!シエラ、状況報告!」


 胸に装着したPTTスイッチを押し込むも、偵察班の返答はない。助手席のデイヴはレスピレーターを慌てて装着し、ウィンドウを下ろしてフラッシュバン(特殊閃光音響弾)を前方へ投げる。化学反応の炸裂が起きると同時、ショーンが無線を寄越した。


〈シエラ・ワンより全部署へ!シエラ・ツーが負傷、貨物船から猛攻を受けている!〉


「冗談じゃねえぞ!」


 罵声を撒いたパーシーが、ハンドルに顔を叩き付けた。フロントガラスが一瞬で白く染まり、運転席の辺りが丸く穿たれている。助手席のデイヴが操舵を取り戻そうと、ハンドルへ手を伸ばす。車体が左右に振れ、慣性に振り回された乗員が重力から引き離される。銃弾を受けるフロントガラスは更に白く濁り、視界が失われる。デイヴは開いているウィンドウから頭を突き出し、それから身震いしたかと思えば、だらりと窓枠に首を預けて脱力した。


 制御を失ったレンジローバーはスリップし、正面からコンテナに衝突した。クラクションが鳴り渡り、エアバッグの作動が聞こえた。額を前の座席に打ち付けた所為で、目の前が真っ暗で星が散っていた。調子の狂った四肢でドアを手探りしていると、腕を左へと引っ張られる。


「おい、ダニーか?無事か?……ブリジットは?」


 車内から引きずり下ろされて数秒が経つと、網膜がおぼろげな像を結び始めた。俺の腕を引いていたのは、ブリジットだった。


「ダニエルさんはご無事です。少々、出血されていますが」


 先に車内から這い出ていたダニーは衝突の影響が小さかったらしく、既に戦闘態勢を整えて、コンテナを遮蔽に貨物船へ警戒を投げていた。擱坐したエコー・ワンは敵の関心から外れ、もう一台のレンジローバー――エコー・ツーへ火力が集中している。打ち付けた頭を押さえると、額から出血していた。ブリジットが散乱する車内から医療バッグを取り出して、傷の具合を診てくれた。


「……縫う程ではない様ですね」


「俺の傷はいいから、パーシーとデイブを診てくれ」


 小隊長の指示に、ダニーが視線を貨物船へ固定したまま首を振る。


「逝っちまったよ」


 舎弟の言葉に、血の気が引いた。助手席のデイヴは最後に見た時と同じく、頭部を車外へ放り出していた。彼の顔に張り付いたレスピレーターを引き剥がし、そして元に戻した。デイブの顔面は鼻の部分から崩壊し、頭骨の破片が後頭部から飛び出していた。大口径弾の貫通銃創による、即死だ。奥歯を噛み締めて運転席に回り、パーシーの容体を確認する。我々の運転手は、萎んだエアバッグに突っ伏していた。上半身を起こすと、やかましいクラクションが止んだ。胸の中心におぞましい射入口が穿たれ、背中の抗弾プレートに弾丸が食い込んでいる。邪悪に変形した鉄塊は、対人間を想定していない口径であった窺い知れる。パーシーとデイブは死んだ。自分が死んだと気付く間もなく、最後まで連隊を守って散った。


「こちらエコー・ワン、二人やられた。敵は対物ライフルか、或いは重機関銃を装備している。防弾ガラスを抜かれるぞ」


 デイブが最期の根性で運転を制御したお陰で、我々はうずたかく積み上げたコンテナの後ろに位置していた。遮蔽には事欠かないが、コンテナ群が邪魔で射界が狭い。ややもすると、スタックしたレンジローバーから燃料が漏れて、炎上する可能性もあった。ダニーを引き続き周囲の警戒に当たらせ、ブリジットと俺で爆発物を車内から取り出した。これで爆死の危険性はぐっと落ちたが、予断を許さない動勢に変わりはない。


 間断ない発砲を割いて一際鋭い音の波が鼓膜を打つ。直後に〈一名負傷〉の報告がエコー・スリー――ヴェストの分隊から為された。奇襲による優位は、元より存在しなかった。我々の行動は、端から敵に筒抜けであった。


〈アルファより全部署へ。ロメオが偽装された重機関銃を確認。オメガがそちらへ向かった〉


 ロメオは高空を旋回するリーパー無人偵察機、オメガは二機のピューマ・ヘリに割り当てられたコールサインだ。だが、作戦本部からの通信で背筋に悪寒が走る。


「ヘリを下がらせろ!」


〈こちらオメガ・ワン。心配するな、もう大丈夫だ〉


 程なくして、聞き慣れた力強いローター音が飛来する。平生であれば、こうまで信頼の寄せられる代物はない。


〈敵影多数、吹っ飛ばせ!〉


 ヘリ機長の勇ましい通信音声を皮切りに、四門のミニガンから猛獣の咆哮が吐き出される。一秒あたり百発射出される曳光弾が、赤い鞭となって貨物船の上甲板を襲った。船上からの発砲が途切れ、テロ支援集団の阿鼻叫喚が沸き起こる。頭上から降り注ぐ空薬莢が、スタックしたレンジローバーの屋根を叩いた。ダニエルが左腕を振り上げて、オメガに鼓舞を掛けていた。


「いいぞ、やっちまえ!」


〈ミサイル警報!〉


 全てが一瞬であった。白煙の尾を曳いた飛翔体が、船尾から緩いカーブを描いて片方のヘリを追尾し、その脇腹へ勢い喰らい付く。舟艇小隊のを載せたヘリは爆轟と共に火の玉へと変じ、空中で舵を失って錐揉みを始めた。炎の塊は見る間に高度を下げてコンテナにぶつかり、我々から数十メーター離れた地面に墜落した。テイルローターが落下の衝撃でねじくれ、機内は化学燃料の引火で溶鉱炉と化していた。ブリジットが医療バッグを抱えてそちらへ駆け出そうとしたが、ダニエルがその肩を掴む。墜落地点まで遮蔽物はなく、燃え盛る惨状から這い出る人影もなかった。無線では、陸軍の観測ヘリがSAM(地対空ミサイル)によるオメガ・ワンの墜落を繰り返していた。


 


 業火の熱波が押し寄せるコンテナの陰で、俺達は完全に足止めを喰っていた。空の支援は、無人偵察機を除いて撤退した。低空の見張りがいなくなった為に、敵の銃火が息を吹き返す。やつらは我々を全滅させるつもりだ。


〈アルファより全部署へ。負傷した隊員を回収、即刻撤退せよ〉


 作戦本部の指令はもっともだが、如何せん俺達エコー・ワンは現在地に釘付けにされていた。貨物船との距離は五十メーターと離れておらず、墜落したヘリが明かりとなって、こちらの動きはだだ漏れだ。対して敵は定点カメラの如く構えて、孤立した我々を高所から撃ち下ろすだけでいい。圧倒的優位を握られていた。車輌の撃破と同時に、エコー・ワンの存在がやつらの認識から外れた点だけが、唯一の救いであった。


「ダニー、車は使えそうか?」


 救命の義務に駆られるブリジットをなだめすかす舎弟は、黒い目を伏せた。


「車体にもでかいのを貰ってます。まともに走らないでしょう」


 この弾幕の中、死体を連れて遮蔽のない埠頭を走るのは自殺行為だ。おまけに重機関銃から身を守るとなれば、歩兵戦闘車並の装甲が必要となる。空からの脱出は断たれている。籠城戦をやるには兵力が足りないし、こちらは爆発物を一発食らうだけで全滅する。そこへ持ってきて銃こそ持っているが、非戦闘員であるブリジットまで抱えている。一触即発の危機的状況だ。


「こちらエコー・ワン、貨物船の付近で身動きが取れない。新しい車輛を手配してくれ」


 燃え盛るヘリの墜落地点に、ダニエルが発煙手榴弾を投げやる。数秒後に白煙が灰色の缶から噴出し始めると、赤光を覆い隠す煙幕が展開された。


「死傷者も含めて五人を運べる車輛を――」


〈全部署へ次ぐ。撤退は許可出来ない。繰り返す、撤退は中止だ〉


 声は女声――ショーンの恋人たる、シェスカ・エヴァンズのものではなかった。毒蛇のように冷たく、人の気を感じさせぬ物言いの男声。記憶が確かであれば、ブリーフィングの時のRAF将官、ブレナンの口から出た音であった。そんな馬鹿な命令があるか。


「お言葉ですが、現時点で四名の死傷と、ヘリ一機の墜落が認められています。潜入班を即刻回収、速やかに戦闘区域を離脱するべきです」


 煙幕の粉塵に咳込みつつ、現場のあずかり知らぬところで指揮権限を強奪したブレナンに無線越しで詰め寄る。


〈敵の重機関銃の無力化を確認した。狙撃と車載機銃の掩護の下、貨物船を制圧せよ。撤退は認めない。貨物船の敵対勢力を無力化せよ。尚、NBC兵器の存在が考慮される以上、ロメオによる空爆は不可能だ〉


 一方的に無線を切断されると、にわかに全通信網が静まった。隊員毎に脳の巧拙はあるが、誰もが一つの答えに絶望した。この作戦の操舵輪は、とうに失われている。


 アドレナリンが鎮火し、代わって底なしの疲労が血管へ押し寄せた。視界が不明瞭にぼやけ、視野も狭まった感がある。偵察機からの支援はなく、潜入班の脱出後に貨物船にロケットを撃ち込むプランBもない。敵の武装の程度も不明。分かっているのは、少なくとも卓越した特殊部隊を消し炭にするだけの装備と気勢が、やっこさんにはある事だけだ。「楽な仕事」は、歩兵大隊をぶつけるべき局勢を呈している。傍らには、武器ばかりがでかいお荷物が一つ。ブリジットは、カービンを胸に抱いて唇を結んでいる。熟考の猶予は残されていなかった。


「……エコー・ワンより全部署へ。貨物船への突入を試みる」


 ダニエルが目を剥いて振り向いた。普段は従順な猟犬が、合理を違えた上司へ反抗の意を示している。


「エコー・ツー、そちらのレンジローバーは動けるか?」


〈被弾はしていないが、どうする気だ?〉


 野蛮の裏に潜めた、ジェロームの知性的な物言いが返ってくる。海風で、先の煙幕が散りかけていた。


「墜落現場にスモークを焚いている。俺達のレンジローバーは、重機関銃に撃破されて動けない。『通訳』を回収して、後方へ離脱させてくれ」


 通信を繋いだまま、追加の発煙手榴弾を転がす。パーシーとデイヴの戦闘ベストから装備を抜き取り、ダニエルと分配する。装備を適切な場所に収め終える頃には、濃密な煙幕が再生していた。


「それから、こちらの分隊に応援を寄越してくれ。貨物船への突入に、二人では心許ない」


〈了解、三十秒待て〉


 ジェロームとの通信を終えると、今度はショーンへ向けて確認を取る。


「エコー・ワンよりシエラ・ワンへ。状況は?」


〈シエラ・ワン、あと十秒で第二狙撃地点へ到達する〉


 それでは意味がない。


「駄目だ。ブリーフィングで決めた場所は忘れろ。以後、狙撃地点の座標を口外するな」


 生煮えの事前計画とはいえ、奇襲がこうも裏目に出る偶然は考え難い。情報が漏洩している蓋然性の否定材料もない。それに、これ以上監視の眼を潰されるのは避けたい。


〈シエラ・ワン、別の位置に着いた。狙撃支援を開始する〉


 ショーンの通信とタイミングを一に、コンテナの合間を縫ってジェローム隊のレンジローバーが駆け付けた。コンテナに擦って塗装の剥げた後部座席から、ジェローム本人が飛び降りる。入れ替わりにブリジットの背中を押すと、衛生兵は強かに首を振った。


「状況が変わったんだ、大人しく避難しろ!」


 逼迫した現状を目の当たりにして尚、ブリジットは嫌々を止めない。ジェロームの分隊から、退避の催促が叫ばれる。レンジローバーのフロントガラスを、小銃弾が連打した。彼女がこの場に留まっている限り、俺は動きが取れない。上から制圧の命が出ている以上、取り得る選択肢は一つだった。演算装置が限界を訴える身で、俺は恋人の肩を掴んだ。潤んだ瞳に何を秘めているのか、理性が失せて獣に移行しつつある脳では、理解に至れなかった。


「よく聞け、ブリジット。連隊はあのくそ船を黙らせなきゃならない。現場の指揮を執るやつが必要なんだ。お前を連れていく訳にも、ここに残してもいけない。……分かってくれるね?」


 何かにつけて主人を優先させてきたブリジットが、双眸に大粒の涙を溜めていた。整った下唇が、無念に噛み締められていた。


「……心配するな、ちゃあんと帰るから。お前は後方で、やばくなってる負傷者を助けてくれ。お前にしか託せない仕事だ」


「早くしてくれ!」


 跳弾で屋根に火花を散らすレンジローバーから、オスカー・ライトの悲痛な要求が叫ばれる。今一度ブリジットの小さな背中を押すと、後ろ髪を引かれながらも、恋人は車輌に乗り込んでくれた。――それでいい。文句は任務の後で、幾らでも聞いてやる。


 戦線後方から五十口径の支援を受けて、ブリジットを護送するレンジローバーは走り去った。可能であればパーシーとデイヴの遺体も載せたかったが、敵の火勢をがそれを許す筈もなかった。二人の骸をそっと地面に横たえ、蒼白な目蓋を下ろしてやる。僅かに残した道徳心が、それを機になりを潜めた。やつらを壊滅させるには、ヒトではいられない。



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