奴隷迎合【4】
【4】
ブリジットは弾倉二本分のライフル弾を標的に叩き込むと、足下に散らばった空薬莢を片付けて兵舎に向かった。たすき掛けしたカービンが、程良く熟れた双丘の谷間で揺れる。戦闘ベストを身に着けていないので、被服の向こうの影が容易に窺える。うーむ、罪な女だ。
兵舎への道中、半月越しの再会を喜びつつ、他愛ないお喋りに花を咲かせる。これがイギリス郊外の街並みであれば、単にかなり年の離れた男女の談笑に映るだろう。無論、ここはサウード家の庭に位置する軍事基地で、俺達はいかめしい迷彩服を着込み、傍らの恋人は〈バーバリー〉ではなく〈ナイツ・アーマメント〉を携えていた。およそ、和やかな交際風景からは掛け離れている。
そも、世間的に見れば美少女、身内からは次男坊が妻、俺個人としては可愛い奥さんとしての社会的認識しか持ち得ぬ彼女が、如何なる理由から国家の最大機密を担う特殊部隊の職場に紛れ込んでいるのか。前提として、ブリジットのイギリスでの身分は奴隷以外の何者でもなく、まして軍籍など有している訳がない。……筈なのだが、現に彼女の迷彩スモックの裾には英軍のIDカードがピン留めされてるし、陸軍のデータベースを参照すれば、彼女の認識番号と氏名が出てくる。『兵卒 ブリジット・クラプトン』と。いみじくも口惜しいが、この原因を蒔いたのは他ならぬ、彼女の旦那である。
時を遡上して三箇月前。我々D戦闘中隊は、本国のヒースロウ空港に駐機するRAF(英国空軍)所属のC-130輸送機の積み荷となり、サウジアラビアへ向けての航行に備えていた。第一六航空小隊の貸し切りと化した固定翼機キャビンに、機付係の手で我々の装備や食料のコンテナが整列駐車させられる。遠征の度に見る光景だが、機械めいた御業に感嘆せざるを得ない。職業病とはいえ、極限までこじらせた作業工程はモナ・リザの横に展示されても見劣りしない。
コンテナがうず高く積み上げられたキャビンへ小隊が乗り込み、各々の居住スペースを確保して――階級に関係なく、五月蝿い機材がない場所が取り合いになる――壁面に設けられたフックにハンモックを展開する。これで、幾分かは航行中の酷い揺れから逃れられる。俺はコンテナに囲まれた閉塞感の強い場所に追いやられたが、どうせ読書に耽るか目蓋を閉じるかなので、気にも掛けなかった。それよりすぐ近くに備え付けの電子レンジがあるので、調理係を押し付けられそうなのが気に病まれた。うやうやしく不味いレトルト食品を温めてやったところで、「美人の客室乗務員を連れてこい」と野次られるのが目に見えている。おっきいおっぱいとマイル・ハイクラブ(高度一万メーター以上での性行為)がやりたいなら、首相か外交官にでもなってくれ。
離陸前からハンモックに揺られてペーパーバックを読んでいると、機内の機器が騒々しく喚き始める。大出力のエンジン四機が暖気を始め、別のC-130が滑走路へとタキシングするのが、コクピットの風防越しに見えた。不快な空の旅を乗り切る為に、耳栓を装着して強力な睡眠導入剤を取り出した時分であった。雑多なチェックシートを留めたクリップボードを空軍中尉が、ペンの尻で上腕をつついてくる。怪訝な顔の彼の機嫌を損ねない様、大人しく耳栓を抜いてハンモックを降りる。空軍中尉は無言で、小型のヘッドセットを渡してきた。やかましい機内で会話する為の必需品だ。ヘッドセットを装着してプラグを壁面に埋設されたジャックに挿入すると、三十代と見える中尉は神妙に尋ねてきた。
「もう一人はどうした?」
――はて。最近、うちの小隊で異動などあっただろうか。指差し確認でハンモックの数を検めたが、頭数は確かに十六人いる。ジェロームをサルと見なせばヒトは十五人だが、理性的な長兄ヴェストが二人分として計上されるので、十六で数は合う。ひょっとすると、仕事が出来る中尉殿がジェロームを本当にヒトとしてカウントしていない可能性もあるが、冗談を言っている風ではない。まあ、股間を隆起させたまま〈プレイボーイ〉を顔の上にいびきをかいている輩を、自分と同族と考えたくないのは同感だが……。
「うちの連中は足りている筈です。書類に何か齟齬が?」
優秀なエアマンは、豊かな眉をひそめた。
「そんな訳がない。確かに君らの人数は合っている。陸軍兵士が十六人……ああ、所属は言わんでいいぞ、分かり切ってる。荷物の数も正しい……数字は間違っていない。足りないのは、通訳ひとりだ」
通訳ひとり。少なくとも、小隊長である俺が初耳のイレギュラーだ。遠征を前にして、数週間に渡る座学を受講したが、我々のアラブ社会に対する見識が浅い事実は否定し得ない。語学の修得具合も各人によって開きがあるし、お上が急場で専門の人員を派遣しても不思議はなかった。だが、機付長の書類に「通訳――一人」以外の記載はなく、階級どころか氏名さえもが空欄である。民間人を雇った可能性も高いが、それなら追記なりがあってしかるべきで、そもそも当事者に事前連絡がないのは大問題である。
正体不明の通訳殿の解明に、歳の近い機付長とうんむん唸っていると、視界の隅に、駐機場を駆ける小さな人影を認めた。上下に砂漠迷彩の戦闘服を着込み、見憶えのある革張りの巨大な旅行鞄を提げた人物は、真っ直ぐこちらへ向かってくる。自爆テロには見えないが、どうにも胸騒ぎがした。
きっかり五秒後、その理由が知れた。年季が入った鋼鉄のランプ(傾斜板)を勢い踏み越え、革鞄の人物が我々の輸送機に跳び込む。徽章のない深緑のベレー帽を頭に乗せ、真新しいぶかぶかの戦闘スモックを着込んだ『彼女』は俺に尻を向け、落ち着き払った調子で陸軍式の敬礼を空軍士官へ差し向けた。
「規定時刻を超過してしまい、申し訳ございません、中尉殿。当小隊の通訳を務めますブリジット・クラプトン兵卒、ただ今参りました」
頭のてっぺんから爪先まで、俺は真っ白になった。灰と化した脳味噌が、彼女をこの機の積み荷として送り込んだ人物を演算、過たず弾き出す。ちくしょう、くそ親父め。
厚底のブーツを入れても高校生くらいにしか見えぬ少女に、空軍中尉殿は面食らった様子であった。が、すぐに機械的に平静を取り繕い、書類にチェックを跳ねさせた。第一六航空小隊のプライベート機に、「小隊長の恋人」という荷物が承認された瞬間であった。
現地語の通訳という体でSASに潜り込んだブリジットであったが、そんなものはあくまでカバーストーリー、こいつが寄越された真の企図は明白である。不肖ヒルバート・クラプトンが抱える心的外傷には、完治という概念が存在しない。それ故に些事で調子が狂い、小隊長の責務を投げ出さないとも限らないのだ。取引先との商談中、重役が金星人と交信し始めたら、翌朝からそいつの部下はオフィスではなく職業安定所へ顔を出す必要に迫られる。
金星人が俺を地球最初の窓口に選ぶ可能性は限りなく低いとして、第一六小隊は『指揮官の精神的脆弱性』という、致命的なリスクを孕んでいた。正直、どうして俺が未だこの役職を負っているのか判然としない。幸か不幸か、有事に最も効果的に作用する人材が、組織外にいた。「だから呼んだのさ」親父なら、そう言ってのけるだろう。連隊長は眉こそひそめたがお咎めはなく、D中隊にブリジットは好意的に受け入れられた。少なくとも、俺は輸送機で電子レンジをチンチンやらずに済んだ。
数度の着陸と給油を経てキング・ハリド軍事都市に到着すると、彼女は本当にアラビア語の通訳として働き始めた。親父が隠れ蓑として用意したと思われていた肩書きは、偽りなく彼女の武装として機能していた。現地の欧米人よっか遙かに流暢かつ機知に富んだ語句を発し、彼女は基地で勤務するアラブ人とすぐに打ち解けた。アッラーを排斥しない・キリスト信仰を強要しない・素肌の露出が少ない通訳の存在は兵士の間で噂になり、米上層部と連隊の耳へフィードバックされた。この有能な通訳を飼い殺しにする行為は資本主義に反するとして、現地米軍将官は連隊に脅迫めいた打診を持ち掛けた。「うちの無能なボス共が中東に作った穴を、塞ぐ手伝いをしてくれないか」彼が生粋の大英帝国人であれば、こう言っただろう。「俺らの首領はいつだって間抜けだが、今度のは側近の意見も聞かねえ。ツケが回ってくるのは、いつだって現場だ。……ところで、そのお嬢ちゃんは中々優秀らしいじゃないか」で、相手から上申を引っ張り出す。少々回りくどいが、嫌味は時として気乗りしない交渉を円滑に欺騙してくれる。独立を勝ち取った米と、彼らに敗れた保守的な英。どちらの種族が優れているかではない。互いが自陣にとって、都合の良い選択を為してきた結果だ。
さて、有能な米軍将校が経歴の不透明な英軍兵卒を、自国の愛国者に代わって重用する理由とは何か。ディープでナイーブな社会情勢が、この決定に関わっている。ニューヨークでの9.11直後、米国はアフガンとイラクに報復戦争を仕掛けたが、見切り発車の逆襲は周辺社会に禍根を残す結果となった。テロとの戦いに息巻くアメリカは、ベトナム戦争での過ちを繰り返した。東南アジアの以上に煩雑を極めるイスラム社会の扱いを完全に誤った米国政府は、抱え込まずに済んだ筈の厄介を被った。当初は国連の支援へ期待を寄せた現地住民であったが、国連の無策振りに、彼らは早々に見切りを付けた。彼らにとって「闖入者」でしかない多国籍軍は憎悪の対象となり、次第に国内のテロリスト勢力を支持する傾向が現れる。村社会の排他主義はウィルス性の病として爆発的に感染し、無辜の民は資本主義国家へ血の贖罪を求める暴徒へ変じた。自国の平和を愛した市民は今や、芸術的に不安定な均衡を崩したアメリカへの、潜在的なテロリスト細胞を内包している。他でもなく、アメリカが不注意にばら撒いた病原菌のせいで。
ここで、アメリカの失態からイギリスの流儀へ話を移そう。アルマダ海戦でスペインの無敵艦隊を破ってからこっち、二十世紀の国家独立ブームまでイギリスが植民地大国でいられた根本には、単純かつ合理的な仕組みがあった。強大な兵力を有していれば、弱小な敵国の蹂躙は容易い。とはいえ、武力のみで数世紀に渡る栄華を維持出来るなら、現地政府は無用の存在である。戦争はあくまで領土を獲得する手段に他ならず、保護国の事後管理を怠れば、革命による政権転覆が待っている。革命の火種の早期な鎮火、或いは、そもそも保護国民に上位国家への不満を抱かせない仕組み。この情報操作めいた戦略を、英軍では『民心獲得工作』と呼ぶ。何だか無駄に格式張った聞こえだが、要は大英帝国が植民地に対して無害、かつ有益な存在であると、保護国の民に認識して戴く為の『お付き合い方法』である。げに、政治・経済は堅苦しくていけない。
民心獲得工作の段取りだが、いきなり他国の大部隊が街に展開されては、何処の国とていい気はしない。アメリカは正にこの失態を犯したのだが、英軍は歴史的にこの類の任務に熟達していた。アメリカの要請で軍を動かしたイギリス――政府は軍の派遣自体を渋っていたのだが――は、通常部隊を海上運輸する間に、SASを含む小規模の特殊部隊を空輸した。娯楽作品の影響でどんぱちと暴言が役割とされているSASだが、強面の裏では知的な活動を展開している。第二次大戦後、東南アジアに共産ゲリラが跋扈するマラヤ連邦が存在していた時期には、密林の奥深くの小村を訪ね、栄養失調や御産に難儀する現地民を援助して良好な関係を醸成した。魔女狩り等の歴史遺産を鑑みると不可思議に映るが、西欧の変態らを森の民は手厚くもてなし、化学薬品による治療と給水設備を歓迎した。現地民と親交を重ねる内、彼らは圧政を強いるテロリストの束縛を脱し、政治犯の資金源や幹部の居所を授けてくれた。我々の先達は現地民と同じ物を口に入れ、彼らの言語で交流する事で、戦闘のみならず戦争に勝利してきたのだ。変態には、変態の強さがある。
目下のサウジアラビアはオイルマネーでインフラが整っており、そもそもマラヤ連邦とは時代が違う。よって、適用される支援の形は異なるが、健全なムスリムとしてもテロリストは身内から摘みたい芽である。我々が極めて紳士的な態度で接すると、情報は自ずと向こうからやってきた。街中に潜むテロリストが網羅されると、特殊部隊は複数の根城を同時攻撃し、都市部のゴキブリの巣を壊滅させた。これ以降、少なくとも英軍は、キング・ハリド軍事都市近辺の市街から敵意を向けられる事はなくなった。これぞイギリス流の戦争である。小難しい話は嫌いだ。
さて、ここでようやくブリジットの価値に理解が及ぶ。彼女は兵士である以前に女性であり、現地の女性の相手をする際に、反発される危険が低い。イスラム文化に対する造詣が深い事から市民の協力も得易く、簡便な諜報員としての運用が可能だ。民心獲得工作の肝要は、民衆を穏便に懐柔するところに置かれている。傀儡政府の機嫌を取るのは、時間と資産の無駄でしかない。
――と、そんなこんなでブリジットは連隊の台所を司り、基地で通訳に走り、最近では近隣の街の子供に座学を説く日々を送っている。護衛には米兵に加えて連隊からも最低ひとりを付けているが、それでも甲斐性なしの恋人としては心配だ。兵舎から一歩も出ずにいて欲しいが、彼女自身はこの生活をいたく気に入っているので、強く言えないのが実情である。正直、辛い。とは言うものの、ぼろぼろになって基地に戻れば、可愛い奥さんが夕餉を用意してくれているというのは、手放しに喜びたくはある。あの出来た嫁さんが、どうして俺に着いてきてくれたのだろう。付き合って一年半になるが、未だに真意が知れないままだ。
可愛い嫁さんと兵舎へ戻ると、第一六小隊の仲間は、殆どが各々のベッドにいた。数人は読書など個人の趣味に耽っているが、一人として活発に動いている者はいない。女の匂いを数キロ先からでも嗅ぎ付けるジェロームまでもが、茶ばんだ枕を抱いて涎を垂らしている。目蓋が半開きのまま充血しているので、軽くホラーだ。化け物は銃弾が効かないから嫌いである。
ブリジットは、起きている連中の紅茶を淹れに給湯室へ向かった。手伝いを申し出ても許して貰えないのは明白なので、手持ち無沙汰に兵舎をぶらつく。万年物資不足にあえぐ我が連隊は、宿の設備も米軍と水をあけられている。個人空間を保つカーテンのあるベッドは、数えるだけしかない。その内の一つに、クラプトン兄弟が三男、ショーンの寝床が含まれていた。やつは弟子のマシュー・ギネスと、二段ベッドを共用している。上段で眠るマシューを起こさない様、下段の白いカーテンの内を覗き込む。果たせるかな、我が弟は胸で両手を組んで寝入っていた。末っ子に比べて三男坊の寝相は大人しいが、こちらは両眼から涙を流している。何が悲しいとかではなく、このショーン君は大変優秀な狙撃手である為に、お目々を大事にしなくてはならない。枕元に置かれた目薬の容器が、頬を流れる川の正体を物語っている。昨晩はこいつとマシューの狙撃だけで、十人近い敵を片付けている。よもや、人間が歩く脳味噌とか心臓に見える領域に達しているのではないか。視界に収められたが最後、何だかよく分からない内に脳幹をすっ飛ばされる。隣で仲間が肉塊に変わるのを見て、敵の士気はだだ下がりである。だが、ショーンという青年を誤解してはいけない。広い顎と黒い巻き毛で粗暴な印象を抱かれるが、その心は些細な事で自分を責めてしまうガラスで出来ている。決して、「むさい面に涙が似合わない」などと心ない侮言を発してはいけない。初めて付き合った女の失言で、彼の顔は半年間曇ったのだから。
三男のベッドから移動して、長兄のヴェストを訪れる。奴隷出身というのが嘘の様に、何とまあ良家の息子然とした様子で、厳かに腹部を上下させている。他の隊員と同じく髭は伸びっ放しだが、ブラウンの毛に白いものは一本もなく、小綺麗に撫で付けられて艶がある。こうも容姿端麗かつ頭脳明晰な我がお兄様であるが、女好みのする彼にも、過酷な幼少期が故に歪んでしまった部分が存在する。胞子生殖の大型菌類――俗にキノコという名で親しまれている不思議生命体に、彼は魅了されている。中でも致死毒を有する種を好んでおり、暇を見付けては分厚い図鑑を開いている。ハンサムな外見に反して実に湿っぽい趣味だが、その根源は根深い。俺と同じく、北アイルランドでIRAの奴隷として暮らしていた頃、兄上は地下室に幽閉されていた。学校に通って健全な交友を持てなかった彼に、ある時初めて友達が出来る。床の隅からにょっきり生した、キノコであった。じめじめと暗い地下室で、夜な夜なキノコ――与えた名前は正しく『マッシュ』――に語りかけ、談笑していたらしい。おお、涙なくしては語れない!運命の出逢いから数日後、マッシュ君は幼い兄貴が看取る中で溶けてしまったが、それ以来ヴェストは彼らの魅力に取り憑かれ、地下室へ度々現れる同居人との暮らしに、日々の光明を見出していたとの事である。十五歳で親父に引き取られてからもキノコへの好意は変わらず、ヴェストは色々と煩わしい女性と関係を持つより、余計な口を利かないキノコとの対話に心の癒しを求めているのだ。そんな訳で、キノコの生えない乾燥した中東への派遣が決まった時は、この世の終わりみたいな目をしていた。
ヴェストが色鉛筆で綴るキノコ日記帳(閲覧自由)を眺めつつ、自分のベッドに尻を落とす。緻密に描かれたドクツルタケのイラストと、普段の兄貴からは想像出来ないふわふわポエムを読み進めていると、左隣のベッド下段から呻きが訊こえた。首をもたげれば、愛弟子のダニエル君が眉間に山脈を浮かべ、自分の汗が染みた枕を噛んでいる。おまけに、恋人の名を絶えず唱えている。痛ましい限りだ、見ちゃいられない。可哀想なやつ!俺もこうなっていたかもしれない!
キノコ日誌の更新分を読み終えるのと同じタイミングで、ブリジットが湯気の立つ紅茶を配り始める。起きている全員に紅茶が行き渡り、それから自分と旦那のマグカップを持って、彼女は俺の隣にちょんと腰を下ろす。安物のアールグレイの水蒸気の合間を縫い、一つ結びの御髪から女の子の匂いが立ち昇る。二週間越しの麻薬に、とろけた脳髄が鼻腔から零れそうだ。
肘が触れ合う距離で団欒しつつ、陳腐な味を誤魔化すのに大量の砂糖が沈んだ紅茶を啜る。舌根にえげつない苦みが走り、思わず吐き捨てそうになる。漢方薬の方が、まだましな味だ。中東へ来る時に持参した大量の〈フォートナム&メイソン〉の茶葉は、到着から一週間と経たずに底をついた。小隊全体にたかられた為だ。紅茶もどきに肩を落としていると、脇から〈MRE〉の包みが差し出される。英軍のよっかは食べられる味に改良された、米軍お馴染みの戦闘糧食だ。圧縮されたビニール包装には、「チキンシチュー」と記されていた。
「今はこんな物しかご用意出来ませんが……」
至極いたたまれぬ面持ちで、ブリジットは専用の使い捨てヒーターを手渡してくる。「こんな物」しかない環境に愛妻を置いてしまったのは、その不出来な夫が原因だ。無言で彼女の頭を掻いてやると、幾らか表情を和らげてくれた。シチューや堅いパン、クラッカーをヒーターと一緒に付属のビニール袋へ放り、少量の水を注ぐ。すぐにヒーターから蒸気が生じ、袋の内側に水滴を作る。不味い紅茶を飲み終える頃には、お手軽ランチが湯気を立てていた。
茶色っぽい包装を破り、シチューがアルミのトレーに落とされる。料理というよりは、油の固まりを食べられる様に加工した塩梅だ。樹脂製のスプーンで肉の欠片をすくい、無心で啜る。考えたら負けだ。決して美味しくはないシチューをひた掻き込み、クラッカーにタールじみたピーナッツバターを塗り、高野豆腐みたいなパンを水に浸して飲み込む。ブリジットと暮らす事で、心的外傷から距離を置けた。が、料理上手な嫁さんは、旦那の舌を肥やしてしまったのだ。傍からは幸福な懊悩に、頭痛を覚える。俺はもう、一般的なイギリス人と同じ物を食べられないのだ。
トレー上のカロリーを胃に収め、MREの粉末ココアをブリジットから受け取る。水から淹れたココアだ、牛乳なんか入っちゃいない。薄いカカオ汁を飲み終えると、疲労と満腹感から、睡魔が脊髄を撫ぜる。示し合わせた様にブリジットは食器を片付け、ベッドシーツを正した。周囲を見渡すと、起きているの隊員は自分だけであった。
「少し、お休みになられるのが宜しいかと。無理がお顔に出ています」
「そうする」
促されるまま、ブーツを脱いでマットレスに身を横たえる。スモックをブリジットが器用に脱がして畳み、その手が俺の掌を包んだ。周りが寝入っているからこそ、許される行為だ。砂漠でさえしっとりと潤った温かさに、殺人で尖った神経がほだされる。
「今は何も考えずにお眠り下さい。雑務でしたら、私が処理しますので」
ぼやけ始めた視界の角に穏やかな笑みを捉え、目蓋を下ろす。まどろみの奥底に落ち込むまで、ひび割れた手に優しさが残っていた。