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笑う用心棒

萩尾道場入門試験

作者: 筑前助広

2017/9/13 改稿

 江戸に出て、一年が経った。

 それでも、土地勘が養われず、谷中天王寺裏の萩尾道場まで辿り着くのに、思わぬ時間を取られてしまった。

 夜になると火が恋しくなる秋の暮れである。

 何の変哲もない、剣術道場。門があり、それを潜ると庭と井戸。

 松井直蔵まつい なおぞうは〔萩尾道場〕と記された看板を一瞥し、訪いを入れた。


「誰かね」


 暫くして奥から現れたのは、白髪交じりの初老の男だった。総髪で身綺麗にしているが、主人持ちには見えない。


「拙者、松井直蔵と申す。佐島屋さじまやの紹介で参った次第」

「ほう」


 男は、直蔵を上から下へとめ、鼻を鳴らした。


留三とめぞうの紹介かね」

「ええ」


 怪訝な表情に、直蔵は困惑した。

 三日前、世話になっている湯島横町の口入屋〔佐島屋〕の留三に紹介されたのだ。


「谷中天王寺裏に萩尾道場という町道場がございます。表向きは道場ですが、実は用心棒を生業にする浪人の組合みたいなものでございまして、そこに報酬もいい仕事をまず紹介しておるのですよ。松井様は剣もよく使われ、人柄もよろしいので、そこへ加わられては如何かと。何なら私が口利きしますので」


 ここ最近、直蔵はマシな仕事を得られてはいなかった。小柳町裏店に借りた長屋の支払いもあるし、米櫃の底が見えてきた事も心配だった。しかし、高市たけち(上総)の片田舎から出て来た直蔵にとって、江戸は欲望が百鬼夜行する魔性の都。何だか素性が判らぬ道場へ警戒感も湧いたが、留三の紹介ならばと意を決して訪ねたのだった。


(しかし、斯様な反応をされるとは……)


 夢にも見ていなかった。あの狸親父は口利きをしていなかったのか。


「ふふ。そうかね。留三の紹介か」


 と、男は微笑し中に入るように促した。


「どうぞ、中で待ってくれたまえ。私は寺坂源兵衛てらさか げんべえ。当道場の師範代だよ」


◆◇◆◇◆◇◆◇


 道場に招き入れられた。

 壁に木剣や竹刀が掛けられ、あまり広くはないが綺麗な道場であった。

 ただ、誰もいない。それは寺坂という男が教えてくれた事だが、実際人の気配も感じない。


「浪人かい?」


 寺坂自ら茶を運んで訊いた。

 道場の真ん中である。何もこのような場所に座らずともと思ったが、口にしなかった。


「はっ、生国は高市。主家が改易の憂き目に遭い、一年前に江戸へ出て来た次第でござる」

「若いね」

「今年で二十一でござる」

「ふむ。家族は?」

「父母は早くに亡くなり、未だ妻帯はしておりませぬ」

「天涯孤独か。だから江戸へ出たってわけかね」

「如何にも」

「おっと、そうしゃちほこ張るなよ。気軽に話すとしよう」


 と、寺坂は音を立てて茶を啜った。


「お前さん、剣は?」

同舟流どうしゅうりゅうを」

「人を斬った事はあるかね」


 突然、寺坂の目が光った。そして、穏やかではない質問に、直蔵は声を詰まらせた。


「……はい、一度だけ」


 そう喉を鳴らすように答えたが、それは嘘だった。

 確かに人は斬った。真剣でも立ち合った。だが、相手の足を軽く斬っただけで、その時は終わったのだ。


「一度か。まぁ無いよりマシか」

「それが何か?」

「いざという時、経験が大事だよ。ただ、うちでは人柄も重要にしている。もし、躾のなってない用心棒をお客さんに送り込めば、道場の評判もガタ落ちだからね」

「なるほど」

「人柄の点では、留三の目に適ったのだから問題無しだろう。問題は剣だ」

「はぁ」

「だが、今日は生憎全員出払っていてね。門人どころか、道場主の萩尾すらいないと来た。で、老骨に鞭打って私が相手になるがいいかい?」

「それは、試験という事でしょうか」


 寺坂は頷いた。


「私は人事の権限を与えられているのでね」


◆◇◆◇◆◇◆◇


 立ち合いは竹刀だった。

 防具の有無を訊かれ、直蔵は有りと答えた。それは自分の為ではなく、寺坂に怪我をさせない為だった。

 人を斬った経験は無い。しかし、剣術は得意だ。藩内の御前試合では、七人抜きも果たしたのだ。

 試合は、寺坂の一声で始まった。

 歳の割りに鋭い剣を、寺坂は使った。しかし直蔵の敵ではなく、三本勝負の全てを面で取った。


「いやぁ、見事見事。留三が送り込んだ理由が判ったな」


 寺坂が、面を取り、真っ赤な顔に笑みを浮かべて言った。


「寺坂殿。合格でしょうか?」

「当然だよ。君のような若く、浪人になっても穢れていない使い手は歓迎だ。早速、仕事を紹介しよう」

「よろしいのですか」

「ああ」


 と、寺坂は奥から帳面を持ち出した。


「報酬は、君が八割。二割は道場が貰う。その八割だとしても、そこらの口入屋で仕事を貰うよりマシで、仕事に欠く事も無い」

「ええ。そういう事ならば、喜んでお受けします」

「ふむ。よい返事だ」


 どれどれと、独り言ちに寺坂は帳面をめくり始めた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 紹介されたのは、ある隠居商人の護衛だった。

 それも三食付きの高収入。しかも、一日の殆どが根岸の寮にいるので、あれこれと動き回る事は無い。

 直蔵は寮に一間を与えられた。隠居商人は好々爺で人柄も良く、またそこで働く下女も美人揃いだ。


「何故、用心棒が必要なのでしょうか?」


 一度夕餉に誘われた時、直蔵は隠居商人に尋ねた。


「なぁに、ただ心配性なのでございますよ。これでも若い時はちょっと無理な商売もしましたので、恨む者もいないとは限りませんからねぇ」

「はぁ」

「この歳になっても命は惜しいものです」

「なるほど。左様でございますか」


 しかし、異変は六日後の夜に起こった。

 突然、寮内が騒がしくなったと思いきや、下女が部屋に飛び込んで来たのだ。


「桜井様、賊が寮内に」


 直蔵は頷いて一刀を掴むと、隠居商人の元へ駆けた。

 隠居商人は脇差を抜いて、庭にいる賊と向かい合っていた。その気迫は、直蔵ですら


「おお」


 と、怯むほどだ。


「桜井殿」


 隠居商人に名を呼ばれ、桜井は賊に目をやった。黒装束で、顔を隠している。その数は六人。

 直蔵は全身に緊張を覚えたが、意を決して庭に降りた。


「悪いが、この方を殺させるわけにはいかぬ」


 そう言い放ち、正眼に構えた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 飛び掛かって賊の胴を抜き、振り向きざまに袈裟を断った。

 手に伝わったものは、命を奪った感触だった。

 賊の血が奔騰ほんとうする。直蔵は咆哮していた。

 向かって来る刃を弾き、的確に斬った。思いの外、頭は平常を保っている。

 すべてが見えていた。だから、六人を斬るのに大した時間は掛からなかった。


「おい、冗談だろう」


 直蔵は、目の前の状況に表情が凍り付いた。

 闇の中から、新たな賊の陰が浮き出て来たのだ。その数は十以上いる。

 隠居商人を逃がすべきかどうか。一瞬だけ迷ったが、賊が抜いた刃の光が直蔵の闘争本能に火を付けた。

 その時だった。

 賊が急に呻き声を挙げ、次々と斃れた。何が起こっているのか。闇の中で蠢く光景に、直蔵は目を白黒させていた。



「よう」


 そう言って姿を現したのは、体格のいい潮焼けした男だった。歳は三十やそこらだろう。見た事のない顔だ。

 しかし、その後に続いた男の顔を見て、直蔵は声を挙げた。寺坂だったのだ。二人は血刀を手にしている。


「俺が萩尾大楽はぎお だいがくだ。寺坂に名ぐらい聞いただろ?」

「ええ」

「しかし、寺坂も人が悪い。新人にこんな仕事を与えるったぁな」


 大楽が寺坂を一瞥すると、その本人は苦笑して顔を伏せた。


「どういう事でしょうか?」

「ああ、このご隠居は〔夜目よめ藤太とうた〕と呼ばれた元・大盗賊でな。商人というのは表の顔。で襲った賊は、この隠居と敵対する盗賊ってわけだ」


 直蔵は思わず隠居商人に目を向けた。すると、バツが悪そうに頷くだけだった。


「だがね、俺の道場で扱う仕事は、こんな危険なものも多い」

「はぁ」

「これは試験だったのさ。お前さんが俺達と仕事が出来るかどうか」

「人が悪いですね。では、その結果は?」

「不合格だな」

「……」

「お前さんは、あの状況で藤太を逃がすべきだった。相手は十人なんだ。なのに我を忘れて戦おうとした。だから、俺達が出しゃばったわけさ」

「確かに」


 と、直蔵は言い訳のしようもなく、唇を噛んだ。


「だがね、お前さんの筋はいい。俺の助手からなら入ってもいいぜ」

「本当ですか?」

「嘘は言わねぇよ」


 そう言うと、大楽は少年のような笑みを浮かべた。直蔵はその微笑に吸い込まれそうになったが、同時に底が知れぬ暗さを持った瞳にも目を奪われた。


(萩尾大楽。只者ではない)


 だが、直蔵は萩尾道場への入門を決めた。

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