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水の女神の物語

作者: 桔京双葉

 その村の人達は、みんな困り果てていました。


 雨が降らないのです。


 畑の作物は何もかもがしなびて枯れかけていて、家畜の牛や馬の元気もありません。


 大人達は村の広場に集まって、毎日空を見上げてため息をついてばかりです。


 5歳になったばかりのロビンは、このところ毎日決まって昼過ぎになる頃に、こっそりと村の真ん中近くにある広場へと足を運んでいました。


 広場は憩いの場という意味合いも持ちながら、それに加えて時折住民同士が集まって、この村の中での大切な取り決めや話し合いを行う集会場としても使われている場所でした。


 ロビンはその広場の片隅に長い間置かれたままになっている、古ぼけた樽の陰に隠れて、そこで表情を険しくさせながら集まっている何人もの大人達の様子をじぃっと窺うようにして見ていました。


 けれど毎日のように小さいロビンがそうしているのにも関わらず、村の大人達は誰も彼もが自分達の事で頭がいっぱいになって上の空であるせいなのか、そんな子供の存在には誰一人として気が付いていないようなのでした。


 ロビンが繰り返しそんな事をし続けていたのにも、本当は理由がありました。


 そのきっかけはたったひとつだけ。


 ロビンは大好きな自分のお母さんが、最近怒りっぽくなって苛々しているのを感じていたからでした。


 だから、初めはそんなお母さんに喜んでほしくて、ロビンは自分が家の中で思いつく限りのお手伝いを一生懸命しようとしました。


 自分の身体くらい大きくて重い木で出来た桶を村の共同井戸まで持っていき、それで水を汲んだりお掃除を手伝って家の周りをほうきで掃いたりしました。


 けれどロビンはまだ小さいのでなかなかうまく出来ないのです。


 それでも何とか頑張ろうとしました。


 本当にお母さんには優しくしてほしかったからです。


 今までならばそんなお手伝いをすれば、例えうまく出来なくてもお母さんはとても喜んで、必ずロビンの事を何回も繰り返し誉めてくれました。


 けれど、ロビンはお手伝いをした後で以前と変わらず頭を撫でてもらっていても、お母さんが何処か何時もと違うのだという事を、最近はずっと感じ取っていました。


 お母さん自身が本当は、もっと別の……他の心配事の為に、心が空ろなままだったからです。


 それに、ロビンのお母さんだけに限らず、毎日広場で見かける人達と全く同じように、村中の大人達全員が一様に暗い顔をしたままなのです。


 それが全て、随分と長い間一滴も降らなくなってしまっている雨のせいだという事が、最近ではロビンにも段々分かってきました。


 そんな日ばかりが繰り返し続いた、ある日のこと。


 ロビンは不意に「水の女神さま」なら、雨をくれるかもしれないと思い立ちました。


 この村から少し離れた場所には、名前のつけられていないひとつの湖がありました。



 周囲を森に囲まれ、常に澄んだ冷たい水を湛えたその広い湖には水の女神が棲んでいるのだという伝承が、随分昔からこの村には伝わっていて、その湖の湖畔には石の女神像も立てられていました。


 ロビンはそのことを思い出したのです。


「そうだ、そうしよう」


 ロビンは独りでに頷きました。


 とてもいい考えに思えたからです。


 けれどロビンの思いついた考えとは裏腹に、大人達は皆、表面上は日常的に信仰の対象としてその女神像を奉ってはいても、そこに水の女神が棲んでいるなどという事を誰一人として本当は信じたりはしていませんでした。


 昔から村人達の中で女神の姿を本当に目にする事が出来た者など誰一人もいませんでしたし、元々根拠の無いただの言い伝えに過ぎない事と思われていたのです。


 けれど、まだ小さいロビンにはそんな事は分かりません。


 ロビンには年の離れた三人のお兄ちゃんがいましたが、皆三人とも昼間は学校へ通っていましたから、家に一人で残される末の弟であるロビンは、毎日友達のクマのぬいぐるみのアーサーと何時も一緒に過ごします。


 着ている洋服はどれもみんなおさがりのロビンも、このアーサーだけはとても特別なものでした。


 何故ならばお母さんがロビンが生まれる時に、ロビンの為だけにと作ってくれたぬいぐるみだったのですから……。


 ロビンのお母さんは、時々近所から縫い物の仕事をもらってきては、それで貰える少しのお金を家計の足しにする為にと、何時も一生懸命に働いています。


 何時もと変わらぬ、内職をするそんなお母さんの姿を横目で見ながら、ロビンはアーサーを抱っこしたまま表へ出ました。


 丁度、時間はお昼を過ぎた頃で、他の村の人達はご飯を食べているのか、通りには誰もいませんでした。


 そうしてそのままロビンは、「水の女神さま」の棲んでいるという村外れに位置する、風車の丘を越えたところにある湖まで一人で歩いていきました。


 これまでに、ロビンがたった一人でそこへ行ったことなどありません。


 何故ならば、湖には近づいてはいけないと、お母さんが何時もロビンにきつく言い聞かせていたからです。


 水を(たた)えた広い湖は、5歳のロビンには危険過ぎましたから。


 ロビンが湖に行ってみると、そこはこのところの慢性的な水不足を象徴するかのように明らかに水かさが減っているようで、元は湖底であったはずの部分が干上がり、剥き出しになっていました。


「女神さま、雨を降らせて下さい。おねがいです」


 湖畔(こはん)に立てられた女神像の前で、ロビンは毎日決まって食事の前にするお祈りのように、胸の前で手を合わせるとそう言いました。


 けれど湖は静まり返ったままです。


「みんな困っています。お願いです。雨をください」


 ロビンはもう一度そう言いました。


 けれどやはり湖は静寂そのもの、女神像も優しい微笑をたたえたままで、先程までと何ら変わらず、そこにありました。


 ロビンは空を見上げました。


 太陽はさんさんと照りつけ、雲はほとんどない快晴でした。


 この空では雨が降るわけがないということは、ロビンには分かっていました。


 ロビンはとても悲しくなりました。


 お母さんの悲しそうな顔を思い出したからでした。


「あらあら、そんな悲しそうな顔をして泣かないちょうだい」


 その声が響き渡ったのは、刹那のことでした。


 ロビンが慌てて女神像を見ると、女神像の頭の一番高い場所に、若い女のひとが座ってロビンのことを見下ろしていました。


 ロビンはそんな高い場所から、自分を見下ろしている女のひとの姿に本当にびっくりして、思わずクマのアーサーを落としてしまいました。


 女神像の上の、若い女のひとは、ひらりと軽やかに地上に降り立つと、アーサーを拾ってロビンに持たせてくれました。


「ふむ、ちゃんと私が見えているみたいね」


 ロビンの目の前に立ったその女のひとは、ロビンの顔を覗き込んでそう言いました。


「……」


 一方ロビンはと言えば、驚きの余り言葉を失っているばかり。


「お前の願い、ちゃんと聞いていたわよ。でも雨を降らせるのは難しいのよ、とても。お前が、もしも本当にそれを願うのなら、何かと引き換えにしなくてはいけないの」


「ひきかえ……」


 ロビンが呟いた言葉に、女のひとは頷いて見せました。


「そう。しかも、その願いに応じて、引き換えにしなくてはならないものも大きいものよ」


 ロビンの前に立った、女のひとはそう言いました。


それから女のひとは、更に言葉を続けました。


「お前の命のかけらと引き換えよ」


 ロビンはまたびっくりして目を丸くしました。


「でもぼくがいなくなったら、お母さんが悲しむから……」


 ロビンは小さな声で、そう言いました。


「そうでしょうね。だから無理ならおうちにお帰りなさい。私にはどうすることも出来ないんだから」


 女のひとはそう言いました。


 ロビンはアーサーを、暫くの間見つめて考えました。


 再び黙ってしまったロビンの前で、その女のひとは


「確かにこのままではあの村はもう駄目でしょうね。けれど、私はこの湖を守るためにつかわされた者。それ以上のことをすればこの地上全てのものが狂ってしまうわ。その歪みははじめは小さくとも、何時か大変なことを引き起こしてしまう……」


 そこまで口にした女のひとの前で、ロビンは大きく息を吸い込んでから、意を決したように口を開きました。


「雨をください。そのかわり……」

 

 そして村には、その日の夜半過ぎから突然の豪雨が見舞いました。


 空から雨粒が叩きつけるように落ちてきたので、夜とはいえ、村中の人は誰もが慌てふためきながらそれぞれの家から出てきて、予想だにしなかったその雨を直接身体に浴び、歓声をあげました。


 誰もが抱き合って泣いて喜びました。


 そうしてその日以来、その小さな村が干ばつに見舞われることは、それから二度とありませんでした。





 それから十数年後、その小さな村に葬列が立ちました。


 十年以上前に村が危機に晒された、あの干ばつの記憶は、村人の中では風化し、既に過去のものとなっていました。


 今やその時の事を口にする人は、この村の中には誰もいません。


 狭い村の隅にある墓地に、一人の村人の死を悼む為に、大勢の村人達が列を成していました。


 その中で、黒い葬列の流れと逆らうように、ひとりの青年が村の中を歩いていました。


 彼は黒い喪服姿のまま、村外れの風車の丘を越えて、十数年前のあの日、歩いていったのと全く同じ道を辿っていました。


 彼がその足で、真っ直ぐに目指していたのは湖でした。


「約束を果たしに来た」


 彼は湖に向かってそう言いました。


 湖畔はあの十数年前のあの日と全く同じ、女神像が佇み、静けさに包まれていました。


「今日、母が死んだ。知っているんだろう」


 成長し、今では青年となったロビンはそう言いました。


「知っているわ」


 その声はあの日とそっくり同じに、突然響き渡りました。


 目の前に現われた人外のその存在は、幼い日にロビンが確かに目にした、あの姿のままでした。


「驚いたな、当たり前なのかもしれないが何一つ変わっていない」


 現われた女を見てロビンは言いました。


 それから続けて


「約束どおり、俺の命を持っていけばいい。その為に此処に来た」


 ロビンはまっすぐに女を見つめてそう言いました。


 女はふっ、と口元に笑いを浮かべてから、


「……律儀なのね。もうここへは来ないかと思っていたわ。人間は皆死を恐れるものだと聞くけれど……」


「そりゃあ、死ぬことは怖い」


 半ば苦笑混じりにロビンはそう言いました。


「けれど、あの時あんたは確かに俺の願いを聞き入れてくれた、しかも条件付きの破格の話だ。あの時俺は確かにこう言った。『母親が死ぬまでは待って欲しい』と女神と取引した人間など、俺以外にいないだろうからな。それを聞き入れたあんたにも頭が下がる話だが……」


 その言葉に女は笑ってこう言いました。


「もうその契約なら完了しているわよ」


 くすくすと笑いながらそう語る女に、ロビンはひどく不可解な顔を見せました。


「まだ分からないの? 」

 

 そう言いながら女は自分が後ろ手に持っていたものを、ロビンの前に差し出してみせました。


 それは、古ぼけてところどころほつれが見受けられるクマのぬいぐるみでした。


「アーサー……。なぜあんたがこれを……? いいやそれより、何時からか無くなっていたはずだったんだ。何処かで無くしたのだと思っていた」


「私たちの世界ではね、強い思いが何よりも優先するものよ。このアーサーにはそれだけの価値があったわ。それにあの契約を結んだとき、この子もいたんだから」


 もう充分よ、とそう言って女は笑って見せました。


「それは本当か……? 」


 怪訝な表情でそう言ったロビンに、念を押すように頷いた女を目にして、ロビンは脱力して大きく肩を落としました。


「ああ、俺はこれから一体どうすればいいんだろうな……。今日で終わると思い込んで来たから、これから先のことを何も考えてこなかったぞ……」


「じゃあ、これからはここで時々私の話し相手になるというのは? 」


「俺があんたのか……? 」


 ロビンがそう言うと女は頷きました。


 すると、ロビンはもう一度、肩を落とすようにしながら目を細めるようにして、空を見上げました。


 そうして見上げた先の空は青く、歳月が経過した今も、風は何処までも穏やかに流れているようにロビンには感じられました。


 ロビンはそんな空を見続けてから暫くの後に、直ぐ傍らに立ったままの水の女神へと一瞥を向けてから、


「まぁ……それでもいいか。時間は腐る程にあるんだ、これからおいおい考えていくことにするか」


 と、苦笑いしながら、そう言いました。






エピローグ


 そうして、それからまた更に何年かが経ちました。


「何時までそこにいるつもりなんだ。いい加減に降りて来いよ。帰るぞ」


 湖畔の女神像の前で、丁度自分の真上を見上げるような格好で、一人の青年が痺れを切らしたようにそう言いました。


「ここからは村が一番よく見えるのよ。私、ここからずっと長い間、あなたが生まれたあの村を見てきたんだもの。だから、ここがとても好き。こうやってずっと見てても全然飽きないの」


 青年の言葉に一人の女が女神像の頭の上から、顔を覗かせながらそう言いました。


「何処までいっても同じ風景だろ。何年経ってもまるで変わり映えの無い村だからな。俺が子供の頃からも何も変わっていない」


 そんな青年の言葉に、女が首を横に振って見せました。


「どうして? 変わらないからこそ嬉しいのに。出来ればずっとこれからもあのままでいてほしいの、私。……ねぇ、ここからどんな風に見えるか見たい? 」


 女の問いかけに、青年が苦笑いして、


「仮に望んだって、どうやっても俺はそこへはいけないだろう? それを分かってて訊くのか」


「そうね。人間ってこういう事って出来ないのよね。今でも時々忘れてしまいそうになるし、本当に不思議に思うの。聞いて初めて知った時もすごくびっくりしたけど」


 その時、青年が何かを思ったかのように独りでに呟きました。


「変わらない、か……」


「何か言った? 」


 不意に、石像の上の女が再び青年の方を見下ろしました。


「俺はこれから先も変わらないではいられないから。何時かは死ぬだろうしその時に確実に終わりがくる……そう思っただけだ。だから、今お前はそう言ったんじゃないのか」


 その時、黙ったままでいた女がそれまで座っていた像の上から、青年の目の前へ音も無く降りてきました。


「何だか子供の時の事を思い出した。確か、今と全く同じだった。……そういえば、今改めて思ったんだが、お前が年をとらない事が、何時かはそのうち問題になるんだよな」


 そう告げた青年の言葉に、女は事も無げな様子で、


「それは単に他の人達の前で外見だけを何とかすればいいんでしょう。それくらい……」


「そんなに簡単に言えるものなのか」


 少々、驚き混じりの青年の言葉に、女は僅かに頷きました。


「……だから、きっと大丈夫。これからだって、ずっと。もう帰りましょう」


「ああ、そうだな……。分かった」


 そう言って頷いた青年に、目の前に立った女はただ柔らかく微笑んで見せました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 昔話を聞いているような、心地よさを作品から感じました。 ひとまずハッピーエンドという終わり方が良かったです。 [一言] ありがとうございました。
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