私の特別な人について
ほのぼの王道、というのを目指してみました。
思えば、いつだって意見があったことなんてなかったし、むしろ反対だったと言ってもいい。
好きなものは辛い物。対して私は甘いものが好き。
理数系が得意教科な向こう、文系が得意な私。
運動が得意なあっち、苦手な私。手先が不器用な向こう、割と器用な私。
共通点なんて、同い年か家族構成が似てることくらい。あとは、お父さん同士が仲が良くて同じマンション内で小さなころから家族ぐるみで旅行に行ったり遊んだりしていたところ。
それなのに、なんでかなあ。私はこんなにも噛みあわない相手の事を四六時中考えている。本当に、どうしてなんだろう。
そして、私のライバルは本当に不本意なことに、物凄く身近にいる。
「胡桃、理人さん今日いる?」
「…お父さん、うん、今日はいるって言ってたよ」
廊下ですれ違いざま、そう訊いてきたので歯切れ悪く返す。意に介さずにやった、と嬉しそうに笑う翔の笑顔が何だか胸にいたかった。
理人さん、とは私のお父さんである。翔はオジサンとは呼ばずに頑なに名前を呼んでいるのだ。
――翔は昔から私のお父さんが大好きだ。大好きっていうか、何というか、尊敬していると言っていたけれどひたすらに懐いているというか。私だって翔のおじさんは大好きだけれど、度を越しているというか。もしかしたら私の家に遊びに来ていたのもお父さん目当てだったんじゃなかろうかと思うくらい。――現にいつだってお父さんがいるときにしか家にやってこないわけで。
しかもお父さんと二人で部屋に引きこもって二人で何やらやっているのである。私はいつも疎外感でいっぱいで、けれどそれを素直に口に出せるタイプではなかった。だからいつもいいなあ、と思いながら複雑な気持ちを抱いていたのだ。もちろん、今も。
小さなころからの付き合いの、私が気になっている男の子は、高校生になってもなお私のお父さんしか見ていないのです。神様アーメン、求めよさらば与えられん、なんて誰が言ったのでしょう。求めたって欲しいものは降ってこないのである。
「じゃ、今日一緒に帰ろーぜ。教室迎えいく」
「うん、待ってる…」
うれしい。のに、この複雑な気持ちはいったい何なのだろう。
一緒に帰ることも嬉しいのに、素直に喜べない。お父さん、確かに私が言うのもなんだけれどカッコいいし素敵だけれど。美容師のお父さんはそれはそれは昔からよくモテたそうだ。もちろん、同性にも。お母さんはけらけら笑いながら競争率高かったのよねえなんて笑っていたけれど、実はお父さんがお母さんを口説き落としたという。
昔からいつも髪の毛を切ってくれるのはお父さんで、きっとこれからも変わらないんだろうなあと思ってはいるけれど。それでも実の父親に嫉妬しそうで嫌なのだ。――というよりも、若干嫉妬している自分が汚く思えて嫌い。
「ライバルはお父さん、って漫画にありそうだよね」
「…ぜんっぜん面白くないから。お母さんならまだ…やだ、それもすっごいリアルでヤだけど…」
教室に戻ってがくりと席に着いて事の次第を話すと、けたけたとアヤシイ笑みを浮かべながらさち子ちゃんはそう言った。
もう何回も続いたやり取り。私の秘密を知っているさち子ちゃんだけに言える本当の事。さち子ちゃんは何だかんだ私の事を面白がっている節がある。私にとっては全く面白くなんてないのだけれど。むしろ死活問題に当たるんだけれど。
「そういえば、詳しく聞いたことなかったけどどうして勝野くんのこと好きなの?」
「…翔の事?」
「好きなものは違うし、基本的に正反対何でしょう?どうして好きになったのさ」
お昼休みはまだまだたっぷり残っていて、そして女子高生は須らく恋の話が大好きなのである。
「最初はね、苦手だったの」
最初に会った時、翔のお父さんが髪の毛のカットに行くと言ってお父さんの美容室にやってきた時にくっついてきたのだ。その時私は合間に髪の毛を切ってもらっていて、いつも大切なものを扱うようにお客さんを扱うお父さんが同じように、むしろそれ以上に私の髪の毛を扱ってくれることが誇らしくて嬉しくてその時間が大好きだった。あの時は今思い出すと恥ずかしいけれど、前髪をぱっつんに切ることが好きだった。
そしてそれを見て翔は、「ヘンなまえがみ!」と笑ったのだ。
初めて言われたそのセリフに、私は衝撃を受けた。そうか、これ、変なのかと。無性に恥ずかしくなって、大好きなお人形と同じようになって嬉しい気持ちもお父さんに切ってもらっている嬉しさも全部萎んでしまって、カットクロスを身にまとったままのテルテル坊主みたいな不格好な私はそのまま椅子から滑り降りた。
どうしようもなく恥ずかしくて、おでこを両手で隠して、泣きながらお店のカウンターに逃げ込んだことを覚えている。
あの頃いたスタッフさんが慌てて私を捕まえて、そして翔はおじさんにしこたま怒られていた。あの後私は前髪をぱっつんに切ることはしなくなって、お父さんが少し悲しそうだった。
「…え、それでどう変化したのよ?」
ぽつぽつと話した最初の邂逅について聞いていたさち子ちゃんはきょとんと首を傾げた。今思い出すと笑えてしまうそれは、けれども小さな私には大変ショックで。あの後何回かお父さんたちと一緒に会った割に、私は翔が苦手だった。また笑われるかもしれないという怖さが私を臆病にしたのだ。
それでも好きになるまでに、実はそんなに時間はかかっていない。
私と翔はその時小学生に上がったばかりで、私は割とどんくさい子供で。ある時帰り道に一つ上の男の子たちに囲まれてしまった。お父さんが美容師なことが女々しいとか、お前の髪の毛は美容師の子供のくせに綺麗じゃないとか。そんなことを言われて悔しいのに恐怖にすくんだ私の体はただ怯えて縮こまるしかできなかった。そんな私はいじめっ子の上級生にとって格好の餌食だったことだろう。
いつもは私が泣けば気が済んで帰っていく彼らだったけれど、その日は違った。
どん、と私の前に立ちふさがっていた男の子が何かに当たったみたいに横によろけたのだ。
「なにするんだよ!」
「おまえらこそ、女の子なかせてはずかしくねえのかよ!」
初めて聞いた声じゃなかった。ぎゅうとつむっていた目を開けて、見れば。私をかばうように目の前に立って声を荒げていた。
人通りも割と多い道で、視線を集める私達。いじめてきた男の子たちは怒ったように手を振りあげようとして、けれど私が声を上げて泣き出したことで走り寄ってきた大人に怯えて走って行ってしまった。
恐かったのだ。せっかく助けてくれた目の前の男の子が、痛い思いをしてしまうかもしれないことが。
慌てて振り返った翔が困ったように、でも決して傍を離れずに私の頭を撫でてくれた。
――大丈夫、もう怖くない、だから泣かないで。
魔法みたいに私の中に染みわたった言葉が優しくて、感じていた苦手な感情はいつの間にか消えてしまって。
「…それに、くるみのかみの毛、すごくきれいだ。だれよりもかわいいと、おもう!」
きっと、私を泣き止ませるための言葉だった。もう翔は覚えていないかもしれない。でも、私にはそれがとても嬉しくて、そういってくれた翔があの時から私の特別になったのだ。
そして、翔に手を引かれながら帰って今までのぎくしゃくとした雰囲気がまるで嘘のように私たちは仲良くなった。代わりに、話を聞いたお母さんが怒り狂ってお父さんが必死に宥めていたことも、少しだけくすぐたかった。翔は、あの時私のヒーローだった。今も、それは変わらないのに。
「それは好きになるわ、反則だわ勝野くん…」
「向こうは覚えてないと思うけどね。でも、ずっと特別なんだ」
「届くといいね」
「……うん」
ライバルは、お父さんなんですけども。
それでも私は夢見ている。ヒーローの、ヒロインになれる日を。お父さんから奪うこともやぶさかではない。
「そういえば、お父さんと何してるの?」
「んえ?!」
「え、どうしてそんなに驚くの」
「いや、え、なんで?」
「だって、お父さんがいる日しか来ないし、すぐ二人で引っこんじゃうじゃない」
帰り道、いつもは聞けない疑問を聞いてみたのは。いつもは飲み込んでしまう言葉を形にしたのは。
そこがほどけないと前に進めないと思ったからだ。それに頑張れ、とさち子ちゃんに勇気をもらった手前引けなかったこともある。
「何してるのかなって、気になって」
「だ、それは!……胡桃には関係ないだろ」
あ、と思って気まずそうに俯く翔に、どこか冷静になりながら私は唇を噛みしめた。
うん、そうだよね、ごめんね。同じように俯いた私は、ただ帰ろという。後ろから足音が聞こえて、私はさらに唇を噛んだ。
心臓が痛い。噛みしめていないといろんなことを言ってしまいそうで地面を見つめて歩いた。雨なんて降ってないのに、地面が濡れていきそうで。
ゆっくり息を吐いて震える喉を落ち着けようとした。さっきまで満ちていた勇気がぺしゃんこだ。神様、わがまま言わないから、関係ないなんて言われない関係になってみたい。
「あの、くるみ、」
「お父さん、今日はお店早く閉めるって言ってたから。もうすぐ帰ってくると思う。私、さち子ちゃんと約束してるから、上がって待ってて。お母さん、翔がきてる」
玄関でそれだけ言って、私はさっさと部屋へと戻った。お母さんがいるからあとは対応してくれるはずだし、関係ない私が居たらきっと迷惑だろう。関係ない、関係ないという単語が私の脳内をループしていた。
綺麗だって言われたから伸ばしていた髪の毛も、少しでも可愛くなりたいとしていたおしゃれも。全部無駄になったように感じて部屋の中で顔を覆った。夢を見すぎたのかもしれなかった。
私の気持ちの分だけ伸びている髪の毛がずっしりと私を覆い尽くすようで、重い。
朝、お父さんに教えてもらって綺麗に結わえた髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回して、それでもすとんと重力に逆らって落ちていく髪の毛。鏡に映る私は泣きそうな不細工。
お父さんはまだ帰ってこない。
「あれ、胡桃出かけるの?」
「うん、ちょっとさち子ちゃんのとこ」
「もう遅いから早く帰ってくるのよ。あれ、髪の毛ほどいちゃったの?」
「……うん、もう、切る。暑くなるし」
「え!」
声を上げたのは、お母さんではなくて翔だった。
「なんでだよ!」
「なんで、って」
「なんで切っちゃうんだよ、伸ばしてろよ」
「な、なんで翔に言われなきゃいけないの!」
「なんでって、お前の髪の毛触れるように理人さんに特訓してもらってるのに切られたら俺の努力が無駄になるだろ!切るなよ!お前の髪の毛切るのも、結ぶのも、理人さんから譲ってもらうために秘密でやってるんだぞ」
「そんな、の、しらない…」
「…言ってなかったんだから、当たり前だろ」
「…私関係なくないじゃん」
「まだ及第点もらってないのに言えるわけないだろ。…気持ち悪いって言われるかもしれないのに」
言われた言葉を理解していくたびに、落ち着かない気分になってしまう。
「気持ち悪いなんて、思わないよ」
「だったら、切るなよ。切りたくなったら俺が切るから、俺にやらせて」
「…なんで、そこまでしてくれるの」
「初恋だからに決まってるだろ!お前のことが好きなの、最初に泣かせたことが悔しくて、でもそのあと仲良く慣れて嬉しかったんだよ。でもお前、理人さんに髪の毛触ってもらうことが特別だって言うから…。いつまでも理人さんが髪の毛いじれるわけじゃないだろ、だから俺がお前の事全部好きにしたかったんだよ」
ここが家だとか、お母さんが近くにいるとか、そういう事全部関係なしにして。私は目の前の男の子に飛びついた。
私も大好き、と今までどんなに想っても言えなかった言葉を口に出したその時に、抱き着いている翔がひっと息をのんだ音を聞いた。
「あれ?翔君、俺及第点出すまで言うなっていったよね?どうして俺の娘を抱きしめてるの、っていうかまだ娘はやらねえってんだろ。彼氏なんて早い!」
「いや、これは、あの…」
「お父さんのばか!私お父さんにやきもち妬いてたんだからね?!」
「は、はあああ?!胡桃お前何言ってんの?!」
「だって二人で仲良くしてるから、ずるいって思ってたんだよ」
般若のような形相だったお父さんが、私の言葉を聞いて戸惑った表情に変わる。傍でにやにやしているお母さんは面白がっているようで助けてくれるつもりはないみたいだ。
「それに、私の髪の毛を触るなら練習台で私を使ってくれればいいじゃない」
「お前を練習台になんてできるわけないだろ!」
「完璧になってからじゃないと認めないから」
そう言った途端に息をそろえて言い募った二人の、気持ちがくすぐったくて思わず照れた。
ずるいなあ、と思う。
私は昔から、翔の言葉一つで泣いたり笑ったり忙しいのだ。
「じゃあ、はやく完璧になってね。髪の毛、まだ切らないから」
「すぐなるから、絶対」
「…今のところ、及第点までは程遠いけどね」
ってことで特訓!と翔は顔を赤くしたままお父さんを引っ張って行ってしまった。なんだかんだ言いながら付き合っているということは、お父さんも私と翔の事を認めてくれているんだろうなあと思いながら、お母さんを見れば。
「………どうしたの?」
「後でお父さんの事ちゃんとフォローしてあげてね?拗ねて大変だから」
「そん、なことないでしょ?」
「知らないわよ、お父さんのスパルタ教育、もっと厳しくなって翔くんが逃げちゃっても」
逃げないと知ってはいても、それはちょっと困る、と思ってしまうのが本音で。
にやにや楽しげに笑うお母さんに背を向けて、私は二人が入っていった部屋の前に立つ。中からは真剣な声が聞こえてきていて、私は扉に額をつけてそっと目を閉じた。
ここにいる人たちが、私の大好きな人たち。いつかきっと、私の髪の毛をすごく上手に結ってくれると信じて待つのが今の私の仕事なんだろう。
――超絶不器用な翔にとって、すごく大変なことだと知っているから、余計に。
今日は二人の好きなおかずを作ってあげようとキッチンに立てば、「花嫁修業、する?」とからかわれて思わずフライパンを取り落としてしまった。
それは、ちょっと早い気がする。
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男性の美容師さんって何というか色気がありますよね。