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第4話 はっきりしないで

 なんなんだろう?とも思う。

 また、ただ単に、おちょくられているだけかもとも思う。

 草壁の目から見た、ゆかりの態度がである。

 少なくとも、あんまり楽観視しないほうがいいような気がする。これまでがこれまでだったから。


 そうこうするうちに、もう5月。

 これといったこともないうちにゴールデンウイークも終わってしまったが、草壁はそんなことを、ふとなにかの折に考え込んでしまうことが多くなっていた。



 そんな中、ルームメイトであるゆかりの弟、長瀬亮作と話しているうちに、少しずつ、ゆかりの身辺のことも、草壁に判りだした。

 もちろん、それほど大したことではないのだが。


 まず、社長令嬢であること。


「うちはさ、オーナー社長って言うの?それで、同族経営って感じで、初代のおじいちゃんの跡をついで、うちの父親が2代目の社長なんだよ」

「へえ……」


「ひょっとして、お前、次期社長?」

 ダイニングのテーブルでそんなことを話しながらめいめい夕食を取っている草壁と長瀬亮作。ちなみ今日はツルイチの姿はなし。このオッサン、仕事が仕事、というかパチプロなんかしているせいか、朝出て行ったら帰って来る時間はその日によってマチマチなのである。まあ、このオッサンのことなんかこの際どうでもいいが。



 この二人にしても、別に普段から同じ時間に食事をしているわけではない。たまたま、草壁がその時間に自分の夕食のために半額特売でゲットしてきた安い鶏胸肉でチキンカツを揚げているところに、亮作が帰ってきただけである。


”おっ香ばしい、いい匂い……草壁クン今から、夕飯?こっちもお弁当かって来たから一緒に食べようか?”

”いいけど……弁当買って来たって、ホカ弁?”

”ああいうところってさ、おかずはともかく、お米、やっぱり、イマイチなんだよね”

 そうですか、庶民の食う米は微妙にお口に合いませんか?

 そこで、わざわざ途中下車して百貨店の食料品売り場へ行ったそうである。

<特選極厚サーロインステーキ弁当>

 亮作が買ってきたのは箱表に金ぴかの文字でそう書かれた、ちょっとした座布団みたいな大きさの弁当だった。

”そう……やっぱり、米は大事だよね……ウンウン……”

 それを見た草壁、そ知らぬ顔で、2枚目のチキンカツを揚げた。2枚チキンカツを食べるつもりはない。ただ――実弾は込めとかないと、ターゲットは弾けない――。



 そんなことがあっての二人差し向かいの夕食タイムである。

「僕?ううん、継がない!」

 亮作は草壁が”揚げたてのヤツ、ちょっと食べてみる?”と言って差し出したチキンカツをつまみながら答えた。ただ、ふだん穏やかな亮作がそのとき少し険のある目をしながら語気を強めた。


「大手って言うほどじゃないかもしれないけど、1000人からの従業員抱えたそこそこの会社なんだよ。社長っていうのは、つまり、その従業員と家族の生活を背負うわけだろ?僕には無理。とてもやる気になれない。そんな親の苦労だって間近で見てると余計そう思うよ」

「けどさ、親は長男のお前に次期社長、継いでもらいたかったんじゃないの?」

 冷めててもわかる上質肉の旨みと甘味と口当たり。さり気なく、チキンカツとの交換を受け入れるあたり、やはりお坊っちゃんだ。この一片とあの一片の値段の違いなんて考えない。揚げたて、おいしい、そして、自分がもらったのだから、相手にもお返いたしますよ、どうぞ、って訳だ。


 そんなサーロインステーキの一片を噛み締めながら、顔だけは真剣に相槌を打つ草壁。しかし、頭の中は、手元にある特売胸肉のチキンカツを、相手のサーロインステーキとさらに入れ替える計算しかない。


「まあね……だから、継がないって言った時には大モメに揉めたけどさ……草壁クン、このチキンカツ、結構ウマイよ、何気に料理上手じゃない?」

「あ、ありがとう……ところで、さっきの話だけど、両親、お前の考えに納得してくれたの?」

「ああ。だから僕の代わりに、お姉ちゃんがそのうち婿をとって……」



 ”カタッ”と、草壁の頭の中の計算機が止まった。サーロインステーキどころの話ではない。



 そうか……そんな事情が彼女にはあるのか……。



「チキンカツ、そんなにおいしい?じゃあ、俺の皿のやつ、好きにつまんでいいよ。チキンカツ2枚も作りすぎたから一人じゃ食いきれなくてさ……」


 結局、チキンカツ一枚と、余りもののニンジンとタマネギを放り込んで作った味噌汁で、亮作の弁当のステーキを半分ゲットした後、二人で食後のお茶を飲みながら、草壁はさり気なく亮作に探りを入れた。

「なんか、おまえんちの話聞いてると、お金持ちも大変なんだな。……ところで、ゆかりさんが婿養子を取るって言ってたけど……」

「まあさ、お姉ちゃんもまだ若いんだし、今すぐって訳じゃないんだよ。そのうち、行く行くは……ってことでさ……このお茶おいしいね、草壁クンお茶淹れるの上手だね」

「ありがとう。なんだったら、お茶、もう一杯淹れようか?それより、ゆかりさんのお相手ってもう決まってたりするの?」

「悪いね、じゃあ、もう一杯淹れてよ。……お相手?ううん、まだ決まった人はいないよ。お見合い相手を具体的に探してるとかもないと思うし」


 急須のお茶を亮作の湯のみに注ぎながらも、草壁の表情は少し曇っていた。

 別に、もっとステーキをゲットしたかったからではない。

 ゆかりのことである。



 本気で彼女を狙ってた訳じゃないって言ったところで、気になるものは気になる。

 けど、こちらはこれというアピールポイントもないただの大学生。しかもその大学だって1流とはとうてい言えない。まあ2流、せいぜい言っても1,5流どころ。実家だって、家族経営の小さな商売。特技と言ったらお習字がちょっと上手なのと、走るのがちょっと得意なぐらい、か……。これで社長は務まらないよな……。

 ちょっと待て。この男、結婚どころか、ゆかりと恋仲ですらないのに、何、飛躍してるんだ?


「草壁クン!お茶、溢れてる!!」

「ん?……あ、アッチ!!」


 ぼんやりとそんなことを考えていると、湯のみから溢れた熱々のお茶がテーブルをつたって、草壁の足の甲を襲った。


「あーあ、ぼんやりとしてるからだよ。なんか、上の空っぽかったから、こぼしそうだなって思ってたら、これだ……」

「お、お前!それは、こぼす前に言えよ!」

 こぼしたお茶のせいで、真っ赤になった足の甲を濡れタオルで冷やしながら怒る草壁。熱々のお茶は、テーブルをつたって、スッと垂れ落ちる間に少し冷やされたからよかったものの、もし直撃なら、かなり洒落にならない火傷になってたかもしれなかった。

「だって……」

 そこで、亮作、ニヤリと笑う。

「だって、何だよ?」

 草壁の言葉に答えるまえに、持ったいぶった様子で、食べ終わった弁当箱を片付けて、自室に引き上げてゆきながら、背中で答えた

「ああ、バチが当たるな……って思ってさ……あ、僕の湯のみとお椀、ついでに洗っといてね……ステーキの御代だと思えば安いものでしょ?じゃあ!」


 それにしても……かぐや姫は、そのうち、月に帰ってしまう……。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 それはともかく、日常は続く。

 その日の草壁は1時限目から授業に出席するために、マンションを出た。


 そんな時間に商店街にさしかかると、さすがにまだ開いてる店なんかほとんどない。普段からひっそりとしているこのアーケードがさらにシーンとしている。


「おはようございまーす!」


 と、声をかけられた草壁、ふと右手を見ると、半開きのシャッターをくぐりながら、辻倉あやが姿を現した。ああ、そうか、ここあやさんの実家だったんだなと思う。

 ガラス張りのショーケースにエアコンや最新の掃除機が展示してある、その頭上には、菱の中に「ツ」の文字が入ったロゴマークに続いて「辻倉電気店」の文字。

 割と新しく店内改装したらしく、こじんまりとはしているが小奇麗な店構えだ。


「でも、小さな町の電気屋なんか、大変ですよ」

「へえ……」

「うちなんかは、おじいちゃんの代からの電気屋だから、そんなツテで工事の依頼なんかも割りと多くて助かっているけど」

「お店のロゴマーク、なんか古そうな感じがした」

「あ、あれですか?何度か変えようかとか、お父さんとお母さん話してたけど、まあ、別にいいかって」


 そんなことを話しながら、商店街を二人並んで歩いていると、ふと草壁も思う。

 彼女とは、やっぱり友達って感じなのかなあと。


 別に、魅力的じゃないわけじゃない。一度は彼女にしたいなと思ってたわけだし。


 なんて考えていたら、あやが急に、今度新しく商店街に開店するというとある店の噂をしだした。


「お父さんが言ってたけど、評判よくないんですよねえ」

「店開く前から?」

「商店街組合に一言の挨拶もないって愚痴ってて。それ聞いて、ゆかりさんも心配してたんですよ」

「なんで?」

「だって、そのお店ゆかりさんのピアノ教室のお隣だから……もしも”いかがわしいお店ができたらどうしよう”って」


 いかがわしいって、一体何の心配をしてるのだろう?ゆかりさんは?



 そんな会話をしながら、あやと草壁がこの商店街を通り抜けて、ひまわりが丘の駅へと消えていってから数時間後、長瀬ゆかりもこの商店街へとやってくる。なにしろ、ここにあるピアノ教室が彼女の今の職場なのだから。

 子供が主な教え子の教室なものだから、平日は午前中から開いていることは稀で、だいたいは午後、生徒が幼稚園や小学校を終えてからということになる。


 しかし、ここ最近、彼女は教室の時間より、かなり時間の余裕を持ってここにやってくることが多かった。なぜなら、ここにはピアノがあって、ピアノに触れることができたから。


 今日も商店街のクリーム色した石敷きの床をヒールの音軽やかに、自分の教室である「ひまわりが丘ピアノ教室」までやってくると、右隣の店の前で一台の軽トラックが横付けになっているのを見つけた。


 あ、例のお隣さん、ついにお店開くんだ……。

 けど、なんか、あんまり改装とか改築とかやっているみたいには見えないけど……


 件のそのお店、噂に聞いたところでは、以前は随分古くに店じまいした呉服屋だったとのこと。古めかしい木枠のガラスの引き戸の両脇に臙脂色したショーケース。もちろん、それはホコリだらけ。


 一応、お隣さんだから、店主さんがいたらご挨拶でもしようかなあ。と思いながらゆかりが店の奥を覗き込んでみたが、2,3人の作業着のツナギを来たなにかの業者が出入りしているばかり。

 古い畳なんかを運び出したりはしているが、その割りに前のお店の古いショーケースなんかはそのまんまになっていたり、けど、水周りのシンクなんかは新しいものが入る様子。

 こんどの人、ここで寝泊りするんだろうか?うちの教室より古そうな建物だけど。


 気になったから、忙しそうに働いている業者の人に、ここのご主人さんお見えですか?と聞いたが、いないらしい。



 なら仕方ないか……。いずれ顔を合わすだろう。


 お隣さんが何の商売だろうと、ウチはウチ。大体、ピアノ教室と競合するようなお店ができるとも思えない。

 けど、いかがわしいお店だったらどうしよう……

 教室のお隣がピンクサロン、なんて、子供の教育にも良くないし。



 とりあえず、いつものように、教室の鍵をあけて、通りに面したガラス壁に下ろしてある白いカーテンをさっと開いて……。こうすると、教室の中、随分明るくなるなあ……。この商店街、アーケード明るくていいなあ。

 それから、立て看板を出しとかないと。小さな手書きの看板にしたんだけど、そのうち、ちゃんとした看板に変えようかな?でも、この手書きで「生徒募集、出張レッスンも承ります」って、書いてあるのも、こ洒落たイタリアン・ビストロみたいで、私お気に入りなんだけどなあ……。



 それから間もなくである。

 草壁圭介が、その日の授業も終えて、帰宅のためにひまわりが丘の商店街の駅側の出入り口にさしかかったのは。

 ひまわりが丘の駅のロータリーを歩いて、国道の横断歩道を渡るともう、そこが商店街なのだが、その脇に一台の平型のトラックが駐車していることに、彼はあまり気に留めなかった。


 商店街のこちらの出入り口は、輪留めのでっぱりが数本でているので、自動車の進入はできない。そこで、配送の業者なんかは、このへんの路肩に駐車するのだった。

 ちなみに反対側の出入り口には輪止めのような仕掛けがないので、車で商店街に入ることはできるが、忙しいときには、反対側から商店街に入って、歩行者をよけながらノロノロ行くよりは、だいたいはこっちのほうが話が早い。

 要はありふれたいつもの風景である。


 そんなものだから、そのトラックの荷台乗っかっている、人の背丈ほどもある「宇宙堂」とだけ書かれた大きな看板のことなんか気にもかけずに、その脇を草壁は通り過ぎた。


 実は、この商店街、鍵の手に2度折れ曲がる。

 「卍」の字の一画のようになっている。少々変った作りの商店街である。

 で、その曲がり角を一度曲がって、ちょいと歩くと、ゆかりの教室、そしてその向かいには喫茶店があるという訳。ピアノ教室と喫茶店は商店街の真ん中あたりに位置している。ついでに言うと、あやの実家の電気屋は住宅街側の出入り口近くに位置している。


 因みに、その折れ曲がった角のところまで、駅側からずんずん歩いてゆくと元何屋だったか不明な店があって、それを右に折れるとアーケード、まっすぐ進むと、普通のアスファルトの路地になっている。その元何屋だったか不明な店の脇にはちょっとした祠があったりする。

 ――今は、あまり、関係ない話だが



 そして、草壁がちょうどゆかりのピアノ教室にさしかかろうとしていると、件の店の前には軽トラックが一台店の前に横付けになっていた。

 ははあ、これか……。

 と思ったが、それよりも、その手前にあるピアノ教室のほうが気になる草壁。

 ついこのまえまでは、その対面にある喫茶店のほうが気になっていたくせに。



 一方、教室の中では一人無心な顔でピアノの鍵盤に指をすべらせる長瀬ゆかり。


 ピアノ教室なんて開いてみた割には、最初の頃はそれほど熱心に自分からピアノと向き合うということなんてなかった。前に住んでいた部屋を引き払うと同時に、自分の練習用に部屋に置いていた、ホコリまみれのピアノも処分してしまっていた。

 今さら練習なんて熱心にしなくても、初心者相手のレッスンで指がまごつく訳もない。

 これでも、一度はプロを志していたのだから。

 それが最近は、生徒が来る前の時間を利用して、またピアノに向かい合おうとしているのが自分でも少し不思議だった。


 まずはブラームス……

 それから、えーとモーツァルトでも行ってみようか

 楽譜ないけど、ストラビンスキー……。指はちゃんと覚えてる!まだ、腕そんなに落ちてはいないか


 これなら、人に聞かせても、お金とれそう……冗談だけど。けど、聞いてくれる人がいたらちょっとは張り合いがあるかな?


 そんなときである。ゆかりがふと目を上げると、ピアノの向こうのガラス越しに、ぼおっと突っ立ってこっちを見ている草壁の姿に気がついたのは。



「よーし、そのまま、そのまま、足元気をつけろよ」

「はーい!」

「看板取り付けのアンカーボルト打ち込むから、ドリル忘れるなよ!」

「はーい!」

 その頃、商店街入り口では、「宇宙堂」なる名前がでっかく書かれた看板をトラックの荷台から下ろしている、ツナギの作業着に肩から大きな業務用のドリルを下げた若い職人と、看板屋の親方らしき50がらみの中年男の二人の姿。

「社長、脚立、どうします?」

「2階の窓から作業すればいいだろうから、いらないんじゃないか?」

「そうっすか。じゃあ、これで行きますか?」


 やがて宇宙堂の看板は、前を看板屋の社長、後ろを看板屋の若い職人の手によって支えられながら、午後の商店街をゆっくりと進んでいった。



 こちら、ゆかりのピアノ教室の室内。

 そこは、壁紙の純白が眩しい、清潔感があってとても明るい印象の場所だった。

 飾りと言えば、小さなひまわりの描いてある静物画が壁に飾られているぐらいシンプルで、ピアノがなければ、写真スタジオかアトリエのようでもあったりして。


 そして、目の前には薄いベージュ色のフリルのついたブラウスの胸元に垂れた黒髪を微かに揺らして真剣な顔でピアノを演奏する、ゆかりの姿。


 今、草壁は、ゆかりのピアノ教室に上がりこんで、彼女のとなりで演奏をなぜか聞いていた。


 で、ゆかりのすぐそばに座りながら、そんな彼女の真剣な顔もまた、綺麗、というより、かわいいなあ、なんて思っていたりする。

 そうなんだよな、彼女、美人っちゃあ美人だけど、ほっぺがやわらかそうな感じとか、そういうところが子供っぽいっていうか、そんな印象もあるんだよなあ。こうして見てると、プロの演奏家の演奏を見てるというより幼稚園の子供の発表会見てるみたいな気もしたりして……。


 まあ、草壁は草壁で、そんな勝手なことを気にしながらゆかりの演奏を聞いていたりする。そういうもんだ、こいつは。


(でも、誘ってくれたってことは、ひょっとしてこっちに気があるのか?)


 草壁の疑問。

 ところが、この男が「誘ってくれた」って勝手に思っている事の成り行きは以下の通りである。


”なにやってるんですか?”

 草壁が窓越しに突っ立って、教室の中をじっと見てるので、ゆかりが演奏をやめて外に出てきた。

”演奏を聞いてたんです。すごい、上手ですね”

”あ、ありがとうございます……拍手までしなくていいです。若干、他人の注目を浴びていますから”

”すみません、練習の邪魔しちゃって”

”いえ、いいんですけど”

”僕のこと気にしないで、そのまま続けてください”

”草壁さん、どうするんですか?”

”このままここで聞いてますから”

”……よかったら、中に入って聞いてきますか?”



(ただ仮に誘われてるのだとしても……)

 事実とは微妙に違うが、そんなことを思いながらふと見上げた正面は、一面のガラス張りの壁。人通りが少ないと言っても、腐っても商店街。それなりにある。

 つまりは、教室の中は外から丸見えというわけだ。

(まさか、こんなところでキスするわけにも行かないか)

 隣の男がこんなこと考えながら、自分の演奏を聞いているとはゆかりは思ってはいまい。


 演目はパッヘルベルのカノン。

 最初、ショパンの「幻想即興曲」を派手に、チャラチャラチャララっとやりだしたのだけど、そうすると隣の草壁がやけに「すごい、すごい」と感心するので、ゆかりはつい可笑しくなってしまった。

「ん、どうしたんです?」

「そんなに感心しないでも……」

 と、彼女のほうが吹き出して演奏の手が止まってしまった。


 そうか、彼、クラッシックなんて普段聞かないんだろうな。

 演奏会だって一度も行ったことないかもしれない。


 とりあえず、指運びの大人しい曲に変更したら途端に静かになった。


 遅い曲のほうが、却って演者のセンスが問われたりして、それはそれで難しいんだけど、彼にはあんまり関係ないか……けど……


(草壁さん、私のほうから誘ったなんて思ってないよね?)

 こっちもそんな心配してたりして。

 ゆかり、演奏しながらチラッと目を上げて、目の前の商店街通りの様子を改めて確認。

(けど、向こうが変な気を起こしたとしても……目の前、カーテン全開で表に丸見えだから……)

 だから……?

(まさか、こんなところで、押し倒したりできないか)



 ふたりがまさか、同時にこんなことを考えているとは誰も知らないそんな時、看板屋ふたりに運ばれて「宇宙堂」の看板はちょうど、ゆかりの教室の目の前にさしかかった。


 そこで、この看板、教室の前でなぜか一時停止してしまう。



「私はね、この商店街で仏壇屋をやっているものなんだがね」


 すっかり薄くなった白髪頭のずんぐりのおじさんというより、はっきり老人。もう年も70になるこのじいさんが、不機嫌そうな顔で仁王立ちで看板の行く手をさえぎった。

「はあ……」

 看板屋の社長、看板を運んでピアノ教室まで来て、いきなりそう言われたって、なにがなんだか。



”機嫌よくピアノに触れるようになったのって、いつ以来だろう?”


 そんなことを考えながら、鍵盤の上に指をすべらせるゆかり。

 ピアノに触れるということは、今までの彼女にとっては真剣勝負。

 だから、長年のクセでいつもなら、条件反射的に表情は引き締まるはずなのに、今日はおだやかな顔での運指。


 別に誘われたって思われてもいいか。

 実際、久しぶりに誰かに聞いてもらいたいなんて思ってたのは本当だし。

 それが、音大の担当教授や、同窓生とか、クラッシック好きで、変に知識や好みがある人なんかより、こういう素人相手に弾いているほうが、気が楽。

 弾いてて楽しいと思うのは、ただそれだけの理由。

 そう、私達、ただの友達だもん。


 

 そのとき、目の前が急に薄暗くなったことに気づいたゆかり。

 ”なんだろう?”と思って、ふと目をあげると、例の看板が教室のガラス壁の前にデーンと突っ立っているのが見えた。ただし、教室の中から見えるのは、看板の裏側の木枠とかが出ている部分なのだけど。


 が、そこにもっと大事なものが映っていた。


 教室の中は明るく、その外は看板が一時的にアーケードの明かりを遮っているものだから、教室のガラス壁は鏡のようになり、そのときの自分達の姿を映していた。。

 この場合、大事なのは、自分ではなく、草壁である。

 自分より、少しピアノの鍵盤から距離をとって座っているせいで、左ナナメ後ろに座っている草壁の様子、それは……。



 その外では、相変わらず、不機嫌な顔で腕組みしている仏壇屋と、でっかい看板を片手で支えながら、このじいさんの今のところ意味不明な怒りに仕方なくつき合わされれている看板屋の社長の姿が。


「長いこと、この商店街組合の組合長もしている」

「そうですか」

「一体、どうなってるのっ!?」

「何がですか?」

「ここで商売しようって言うのに、私のところに挨拶一つこないじゃないか!」

「知りませんよ!うちらは、ただの看板屋で、この看板を今日掛けてくれって言われて来ただけですから」


 思わず持っていた看板を地面に置いて立ててしまう看板屋。後ろの若い衆もそれに合わせて看板を下ろして地面に立てた。

 なんか知らないけど、目の前でややこしい話がはじまりそうで、めんどくせえ。

 若い衆、ふと見ると、看板掛ける予定の店の目の前に、別の業者の軽トラック。

 あれ邪魔じゃん。

 それに、よく見ると脚立、やっぱり要りそうだし。社長、現場の下見、いい加減だよな。


「社長、やっぱり脚立いりそうだから、俺とってきます。あの店の前の軽トラ、社長、ちょっと、どくように言っておいてくれませんか?」

「そうだな、じゃあ、脚立持ってきてくれ」


 という訳で、地面にそのでっかい「宇宙堂」の看板を立てかけたまま、若い衆、引き返していった。



 一方、ゆかりの演奏を、一歩さがったところに腰掛けて聞いたいた草壁であるが。


 あ、この曲知ってる……たしか、カノン……バッハの。

 ていうぐらいのものである。気楽なのはいいが、ほんとうに聞かせる甲斐があるのだろうか?



 しかし、彼のほうは真剣だった。ピアノを聞くことにではない。

 真剣に「好きです」と言っていた。


 ただし、それは声には出せなかった。彼女に聞こえないから言えた無言の告白。もし本当に言ったら、拒絶されるような気がしたから。それも、とても冷たい形で。

 だから、彼女の横顔を、時折見え隠れする、睫毛の先を感じながら、心の中で何度も呟いていた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 ふと目を上げたゆかりに見えたのは、そんな彼の熱い眼差しだった。

(草壁さん、私のことジッと見つめてる)


 体に電気が走ったような気がして、思わず身をすくめるゆかり。

 それは、何かの予感。あるいは……期待?


 動揺が彼女の指先をもつれさせた。

 ”イケナイ!!”


 素人の草壁でも、旋律を外せばすぐにわかる。自分の密かな告白がまさか読み取られたとは気づいてない彼が、突然の変調にオヤッと思っていると、演奏はピタッと止まった。


 指を止めたゆかりは、少し俯き加減になると、重く垂れた黒髪の向こうで、冷たく言い放った。

「あの……真面目に聞いてくださいね」

 えっ、急に説教される覚えはないけど。

「……ちゃんと聞いてましたよ」


 草壁の言葉を聞いたゆかり、顔を彼のほうに向けると、今度は彼を責めた。

「ウソ!人の顔ばっかり見てたくせに!」

「……」

 なぜバレた?けど、ゆかりにそう言われて、言葉につまりながら目を泳がせているということは「はいその通りです」とあっさり認めたというわけだ。


 その様子を確認したゆかり、あきれたような顔をしながら、再び鍵盤のほうに向かうと、譜面台の譜面を手持ち無沙汰気にパラパラとめくりながら言った。

「ほんと、いい加減な人」

 バレたのなら、もうこのさい、開き直っちゃおうかと半分思っている草壁。

「なにがですか?」

「はっきりしないんだから」

 こういうことを言うときの彼女は、説教しているというより、甘えているようにも見えた。

「……はっきりさせたら、いいんですか」

 彼の心は、この時点でほぼ決まっていた。


 自分が変なところにネズミを追い詰めたことに、このネコはまだ気づいていない。

 再びネズミのほうに顔を向けると、説教じみたことを言い続けた。

「あやちゃんってことで、いいじゃないですか?」

「どうして勝手に決め付けるんですか?」

「もともとあなたが言い出したことですよ」

 そうかも知れない、が。


「それは……あのときは……」

 たしかに、再会の時に他の子に気があったのは確かだけど、なぜ、そこを責める?

「そんなにコロコロ変るものなんですね。じゃあ、もうあやちゃんのことはどうでもいいんですか?」

「ど、どうでもいいって……」

 言うことが極端だろ?だって、彼女、かわいいし。

 そういうところで、変にもたつくのが、草壁の至らぬところ。

 ただ、こういう纏わりつきかたをするものだから、草壁のほうもだんだん腹も立ってきた。

 なんて勝手な言い草なんだよ。


「じゃあ、はっきりさせたらいいんですね!」


 ピアノの鍵盤を前にして、二人はじっと見詰め合っていた。

 今頃になって、ネズミのただならぬ気配を感じ取ったネコ、ここで転調、という名前の撤退策にでる。

「もう、いいです」

 と言いながら、鍵盤に指をのせると

「生徒が来ますから、帰ってください……」

 ショパンの幻想即興曲を奏でる前に、冷たい調子でゆかりがそう言い放った。

「ちょっと待ってくださいよ!」

 思わず立ち上がる草壁。見下ろすゆかりのほうは、そんな彼を無視して演奏を始めた。



「一体、何者なのよ?この店の主さんって」

 一方の看板、であるが、さっきから、ずっと教室の前で、看板屋の社長と仏壇屋(商店街組合組合長)が話し込んでいる間、ピアノ教室のガラス壁のどまん前にたてかけられたままである。

 だから、表の通路を行き交う人たちには、教室内の現在の微妙な様子は全くわからない。

 まあ、ちょうどいい目隠しにはなっている。

 教室の中の様子に気づいていないということでは、看板の前で話し込んでる看板屋の社長と仏壇屋にしてもおなじである。


「とにかくケチでしたね。私、商売やってて、これほどケチな方知りませんよ」

 看板屋の社長が苦々しげに言い放った。よっぽど悪い印象しかなかったのだろう。

「私は、何の商売の人か聞いたんだけど……ところで、どうケチなの?」

「値切り方が、とにかくケチクサイ。わたし、長年商売してるけど、1円単位で値切られたの初めてですよ」

「ホント?」

「こっちも最後は、使っている若い衆への人件費やら商品原価の話までして、これが限界だって言ってようやく納得しやがったよ、あの野郎。」

「そう……そんな人が来るのか……心配だなあ」

 組合長、話を聞くと、腕組みして考え込んでしまった。



(今の演奏の打鍵は、荒い)

 ゆかりの演奏を聞きながら、草壁にもそれが感じられた。

 何より、さっきちょっとだけ聞いたときとはまるで違う。

 旋律だけではない。目の前で演奏を黙々と続けるゆかりの表情だって固い。

 さっきよりやや猫背になった肩のあたりで「もう帰ってください、練習の邪魔です」という雰囲気をわざと出している。

 そんなゆかりの様子を黙って見下ろす草壁の顔もゆかり以上にこわばっていた。



 そして、突然、演奏が止んだ。


 草壁がゆかりの腕を掴んでいた。


 ハッと、ゆかりが首をめぐらすと、二人は自然と見詰め合っていた。

 ネズミがネコを追い詰めた。


「それで一度、商談成立かと思って、お茶とお菓子でもだして、簡単な打ち合わせしてたら、あの野郎、また値切りだしたんだよ?信じられるか?」

「ある意味大した人だけどね」

「こっちだって商売さ、いくらなんでもそんな金額だせない、嫌なら帰れって言ったって帰りゃしない。」

「なんで?」

「ヤッコさん、多分、こっちが出したお茶と茶菓子を全部食べるまでねばるつもりだったみたいでさ……」

「つまり、茶と茶菓子を全部平らげるためにわざと話を長引かせたってわけか?」

「最後には、根負けっていうより、だんだん話しているのがバカみたいになってね……。もはや、商売人っていうより、変人ですよ、アレ。」



 急に止んだ演奏の後、教室の中は一気に静寂に支配されていた。

 腕をつかまれたゆかりも、思わず立ち上がっていた。

 グランドピアノの前でじっと見つめあったまま、見詰め合う二人。


「何するんですか!」

「はっきりさせましょうよ」

「必要ありません!」

 言葉でも表情でも怒っているはずなのに、草壁につかまれた腕は振りほどこうとはしない、ゆかり。



「社長!いつまでそんなところで突っ立ってるんですか!車もどけてないし!早いとこ片付けて、次の現場行かないと」

 脚立を持って戻ってきた看板屋の若い職人が思わず大声を出してしまった。

 ちょっと待てよ、なんで、さっきのジイサンまだいるんだよ。話まだ済んでないのか?

 それになんで、二人して看板を両側から支えてるんだよ?



 目の前で、じっと自分を挑発的に睨みつけているゆかりを見ながら草壁は思うのだった。



 どうして、この人は、こういうときこんな表情をするのだろう?

 それは拒絶ではなく、なんと言っていいか「威嚇」の表情。

 まるで、ケンカに負けそうなネコのような。

 そう、負けそうな……



 初めて、こんなふうに女の人を抱き寄せるんだなあ……

 経験の有無とか、知識とか、そういうことが全くなくても、こういうときに自然に働く、引力、みたいなものがあるということを、微かに感じながら、握ったゆかりの手に軽く力をこめた。そして、ゆっくりと引き寄せると、表情一つ変えることないまま、彼女のつま先が、すっとカーペットの上を数センチ、彼のほうに擦り寄っていった……。



「先生!こんにちは!!」




「ワッ!!!」

「ワッ!!!」

「ワッ!!!」

「ワッ!!!」

「ワッ!!!」



 手提げカバンを大きく前後に揺らしながら商店街をずっとダッシュで走ってきた男の子が、その勢いのまま、教室に飛び込むと、一瞬、キョトンとなった。


 それは、いつもなら、笑顔で迎えてくれる、清楚で綺麗な(彼のあこがれでもあった)ゆかり先生にちょっと怖い目で睨まれたからでもあるし。

 また、そこから数メートル離れたところで、見知らぬどこかのお兄ちゃんが呆然とした表情で、文字通り棒立ちになっていたから、でもあって。

 さらに、なんか、知らないでっかい板みたいなものを挟んで、3人の男の人たちがじっと教室の中を覗きこんでいたから、でもあった。


 それはともかく、宇宙堂の看板の取り付けは、そのあと、無事に終了した。




第4話 おわり

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