第46話 ペパーミント スノー
お話のほうはあれから数日たった2月も下旬。
北風吹く庭先にも、梅の花が小さなつぼみを白く覗かせるような時期。つまり、春近し。
先日、ゆかりをママチャリの後ろに乗せて夜道を二人乗りして帰ったあの夜以来、彼女の様子がちょっとおかしいことに草壁圭介は気づいていた。
よくある、ヘソを曲げていて不機嫌、ってやつじゃない。
そうではなく、一言で言うと「元気がない」。なんだか、たまに会って話をしていてもぼんやりしているみたいだが、ときどき変に何か言いたげな目でこちらのことをジッと見つめてくる。
なんだか恋の駆け引きでもされているみたいだが、何を彼女が考えているかがまったく読めないのだった。
それにあの夜、なぜ自分の背中にしがみついて泣いていたのかも理解しがたい。
口ぶりでは、一応約束どおりチョコレートを手作りで用意しようとしたのだが、作るのに失敗したらしい。それが残念で泣いていたのだろうか?
いやいや、その程度のことで泣くか?
「女心というのはわからん」
と、女もロクに知らない童貞はため息をつくのだった。
ちょうどそんな頃、ようやく草壁はゆかりからチョコレートをもらうことができた。
降水確率80パーセントの雪模様という天気予報が出た休日、さすがにこんな天気に自転車で遠出は得策ではないと判断した彼がバスでのお出かけからの帰り道のこと。
少し早めについたバス亭で空を見上げながら、そろそろ白いものがちらほらと降ってきそうに重く厚い雲が灰色がかって広がっているのを確認していたとき。
「草壁さんもバス待ち?」
と声をかけられて振り向くとゆかりが立っていた。
「あれ?ゆかりさんもバス?」
「ええ」
「クルマじゃないんですか?」
「これから教室のレッスンがあるから、直接行けるようにクルマは置いてきたんです」
なるほど、商店街のゆかりの教室には専用の駐車スペースはないのだから、むしろ仕事前の外出ならクルマに乗るのは却って不便なこともあるのか。
そして、目の前の片側二車線の幹線道路を行き交うクルマの流れをぼんやりと観察しながら並んでいると
「あっ、そうだ!遅くなったけど、これチョコレート。『義理チョコ』ならぬ『お情けチョコ』」
「いやな言い方しないでくださいよ!」
とゆかりから小さな箱を手渡された。
「あ、ありがとうございます。やっともらえた!」
「ただそれ。私も中身よくわからずに買ったから、何が入っているか知らないんですよ」
「えっ!ほんと?」
「はい……だって、それバレンタインチョコの売れ残りを50パーセントオフのワゴンセールしてたやつですから」
「……あ、あんまり知りたくなかった事実……」
そのとき、ゆかりが何かの気配でも感じたみたいに一人でキョロキョロしだした。
「ミントの匂いがする……」
草壁がその言葉を聞いて笑った。
「じゃあ、僕のフリスクだ。今食べてたから」
「へえ、フリスク好きなんですか?」
「夜勉強しているときの眠気覚ましに食べることもあるから、たまに買って持ち歩いてるんです。ちょっと食べてみます?」
というと、ゆかりはさっと草壁のほうへ手のひらを差し出した。が、そんなゆかりの手にミントの粒を落としてあげようと草壁がポケットの中にあるフリスクの容器を探っていると
「あっ!やっぱりいい!辛いから苦手かも」
そう言って、ゆかりは急に手を引っ込めてしまった。
「はあ……そうですか」
なんだか突然、フリスクが嫌いになったみたいなゆかりの態度の急変にちょっと草壁は驚いたが、いらないというのならということで、フリスクのことはそれっきりとなった。
やがてバスもほぼ定刻どおりの到着し、二人がそれに乗り込んだ。
乗り込むと同時に、運転手が時間に追われるようにして急な発進をするものだから、二人ともゆらゆら揺れるつり革を伝ってよろけるようにして一番後ろのシートに並んで腰を落とした。
休日の昼間だというのに、天気のせいか客の少ない車内だった。
バスが走り出すと、草壁はゆかりからもらった『お情けチョコ』を膝の上に置いた。
「これ、中身開けて見てみてもいいですか?」
「どうぞ。あんまり期待しないでくださいね」
中身はウイスキーボンボン。チョイスが渋い。というかチョイスはしていない。たまたまこれだっただけだ。
とは言えチョコはチョコ。
「せっかくだから、一個食べちゃおう!」
草壁はその場で洋酒の香りの立つ小さなドーム型のチョコをひとつ口の中に放り込んだ。酒を飲むには飲むが、彼にとっては、口の中に広がる薫香は果たして、ウイスキーのものなのかワイン、はたまたラム酒かどうかの区別はつかなかった。
ただ、包み紙を見たらブランデーと書いてあったので納得できただけだ。
「けど、これいい匂い」
「ブランデー好きですか?」
「そんな高いお酒飲んだことないから、好きか嫌いかわかりません」
「アハハハ」
そして草壁は隣のゆかりにもチョコをすすめたが、彼女は「せっかくあげたものだから、全部自分で食べちゃってください」と言って手をつけなかった。
ただ、そのときにもまた草壁はあることがちょっと気になった。
お情けチョコと言ってもゆかりからもらったもの。草壁は本心でうれしいと思ってそのチョコを一つ二つと齧っていたら、そんな彼の様子をときどきチラチラと伺うゆかりの表情が、またしても沈んで見えた。
「そんな売れ残りチョコでごめんなさい」とか言いながら、遠い目をして彼を見るのだった。
それに、
「もうちょっとマシなの、渡そうかとも思ったけど、結局それにしました」
とゆかりが、ポツリとバスのエンジン音にかき消されそうなぐらいの小声でつぶやいた一言も気になった。
どういう意味だろう?
あんまりいいチョコを渡したら、自分に気があると男に考えられるのがイヤでわざと安物を買って来た、という意味だろうか?
草壁がそんなことを考えて、こちらもふとチョコをつまむ手を止めた。
「あの……」
隣のゆかりへと声をかけた
「はい?」
「最近、僕のこと迷惑に思ってたりしてますか?ちょっとしつこすぎたでしょうか?」
草壁の一言に急にハッとなったゆかり。それまで囁くように喋っていた低いトーンが急に高くなり、叫ぶようにこう言い切った。
「そんなふうになんか思ってません!!」
しばらく驚いたように二人は見詰め合っていた。
やがて、急に大きな声を張り上げた自分に照れたような笑顔を浮かべてゆかりが言った
「草壁さんごときに、振り回されたりなんかしませんから」
言われた草壁は絶句するしかなかった。
(なんだよ、『ごとき』って……)
バスのアナウンスが馴染みのある停留所の名前を告げる。ひまわりが丘の駅前ロータリーはバスの路線も複数乗り入れるターミナルでもあった。信号を順調に潜り抜けたら、もうそろろそ小銭の用意もしておいたほうがいいかもしれない。
しかし、二人はまだまだ降りる停留所には遠いみたいな様子で最後尾のシートに並んで、天井で揺れる中吊り広告を揃って眺めていた。何の広告かは二人にはよくわからなかったが。
しばらくして、ゆかりが言った。
「私、こんなふうにしていられる今の生活、好きです。けど、私はそれ以上なんて思ってません。……だから、恋人がほしいなら私のことは諦めて、別の誰かを見つけてください」
そして、草壁のほうを笑顔で覗き込むようにして
「ときどき、お姉さんがお茶ぐらいは一緒に飲んであげるから、それで満足しなさい!」
言われた草壁は思うのだった
(なんだよ、普段は年上ぶったりしないくせに、急にそんなこと言い出すんだな……)
そして、まるっきり年上のお姉さんにからかわれたみたいなふくれっつらをするのだった。
勢いこんで作った手作りチョコを渡し損ねたあと、ゆかりはもう一度同じマネをする気にはなぜかなれなかった。
少し大げさな言い方をすると、彼女は、きっと浮かれている自分に天罰が下ったのだと思った。もう一度無邪気に手作りにいそしむ気にもなれなかったのだった。
ちょうど草壁がゆかりの様子を見て落ち込んでいると思っていた当時の彼女の心境というのはそんなことだった。
いずれお別れしなきゃいけない、町と彼。
日常はのんびりと過ぎて行き、結構ハッピーな毎日は送れているはずなのに気づいたら、落ち込んでいる自分に気が付く。
それを冬という季節のせいにするには、問題はあらわすぎた。
今は、この町での気楽な生活を、先のことも考えずに過ごしている。まるで目を耳をふさいでしまえば、こわい犬なんかどこかに消えうせると信じて蹲る子供だった。
それでも、時折心の隙間に入ってくる将来への不安という影と、しあわせにはなれないんじゃないだろうか?という恐れにさいなまれた。
ある日、町で目にしたウエディングドレスに見とれたあと、手をつないで歩く見知らぬカップルとすれ違ったゆかりは、そのとたん、急に彼女は矢も盾もたまらなくなり、大急ぎで自宅まで走って帰った。
そして、一人でずっと泣いていた。
もちろんそんな話は誰にも出来なかった。
なぜ、急にそんなふうになったのか、自分でも不思議なぐらいに泣けてしかたなかったのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そんなとある日の風景である。
学校帰りの凍える体で、草壁がひまわりが丘の商店街のアーケードを通って自宅へ向かって歩いていると、喫茶アネモネには、エプロン姿のゆかりがカウンターに立っているのを目にした。
それが分かって素通りは、この男の行動パターンにはない。
冬の季節もそろそろ終わりを告げようって頃だが、まだ寒さが本番なそんな日には彼の首にはいつかゆかりからもらったマフラーが巻かれている。
今日もそのチェックのマフラーをヒラヒラさせながら、草壁はアネモネのドアを潜った。
カウンターの向こうでマスターとゆかりが並んで立っている光景というのは見慣れた構図だが、驚いたことにコーヒーを淹れているのがゆかりだった。
「あれ?ゆかりさんがコーヒー淹れているんですか?」
さっそくカウンターに座った草壁の目の前では、ゆかりが「S」の字を細長く伸ばしたようなポットの注ぎ口を静かに傾けて、糸をたらすようにお湯をフィルターの中に回しいれていた。
「彼女に淹れてほしいってお客さんもちょくちょくいるからね」
ふと見ると、隅のテーブル席に陣取っている初老の一人客がゆかりの手つきをジッと見つめていた。
まあ、あんな年寄りなら恋敵の心配も必要ないだろう。草壁は、すぐにマスターのほうへ向いた。
「僕もお願いしていいですか?」
「じゃあ、指名料2000円」
「キャバクラじゃないんだから!」
かくして草壁のために再びコーヒーを淹れるゆかり。
見ていると相当慣れているような様子だ。ペーパードリップのフィルターを手元も見ずにサッサと折りたたんでドリッパーにセットすると、粗めに挽いた豆をポンと落とす。
まるで豆に話しかけるみたいな顔をしながら、じっくりと様子を見ながらお湯を注ぎいれる手つきはすっかりここのマスターみたいになっていた。
「上手ですね」
「ゆかりちゃん、結構やってるからね」
「そうなんですか?」
それからすっかり豆のアロマを吸い取った琥珀色のコーヒーをカップに注いで客の目の前に差し出せば完成。
な、はずなのだが。
「ちょっと待っててください。まだ終わりじゃないですから」
草壁の目の前に白いカップを置いたゆかりがそういうと、クルッと背後の戸棚の一角にしまってある背の高いガラス瓶に手を伸ばした。
中にはコーヒーよりは薄い色をした茶色い液体の入ったそれ。中身がちょっと減っているところを見ると飲みさしらしい、そのキャップを手早くまわして開栓すると
「本当は専用のスプーンでするんだけど、ないから、この普通のスプーンを使いますね。落ちないかちょっと心配だけど」
ゆかりは、コーヒースプーンを今まさに湯気を立てている白いカップの上に、腹側が上を向くようにして慎重な手つきで寝かせた。
それから、なんとかカップの上で大人しくしているスプーンの腹の上にそっと角砂糖を一つ乗っけると、先ほど戸棚から取り出したビンの中身をゆっくりと注ぐ。
「何やってるんですか?」
「これ?カフェロワイヤルです」
「カフェロワイヤル?」
「知りませんか?こうやって角砂糖の上にブランデーを注いだあと、そこに火をつけて……」
スプーンの上で、ブランデーを吸って角の溶け出している角砂糖に、マッチの炎を近づける。
すると、スプーンの上から薄い炎が青くゆらめきだした。まるでその炎に食べられているみたいにして、序々に角砂糖はスプーンの上で溶けていく。
「はい、おしまい」
ものの数秒のアトラクションのあと、スプーンをコーヒーの中に落として「カフェロワイヤル」の完成である。
「ゆかりちゃん、いつこんなの覚えたの?」
隣で見ていたマスターも驚いていたということは、ゆかりがそんな芸当をするとは知らなかったようだ。
甘すぎず、かと言ってアルコール臭さも飛んだあとのブランデーの芳醇な香りだけを纏ったコーヒーは普段飲むそれとは一味ちがった、独特の風味。単に深煎りした豆を使った場合とは違う、コクのあるビターテイストが楽しめた。
思わず鼻の穴を広げて大げさに香りを嗅ぎながら大事そうに飲む草壁の目の前でゆかりが言った。
「うちの父親がこれ好きなんです。食事のあと、お酒じゃなくて、私にこれ作ってくれってよく言われて作ってました」
あの大きなリビングでのことらしい
「『これを飲みながらお前の演奏を聞いているのが一番リラックスできる時間だよ』なんて言ってくれたりして」
「カフェロワイヤルを飲みながら、娘のピアノ演奏を聞く……まあ、優雅な一家だねえ」
「お父さんが『どこのカフェで飲むより、お前のが一番おいしい』って言ってくれるから私も張り切ってつくってました」
ゆかりが懐かしそうに目を細めながら、一家のそんな日常を思い出していた。
そういえば、この前長瀬家に遊びに行ったときには、リビングにピアノなんてなかったが、ゆかりがまだ家にいたころにはどうもピアノが置いてあったようである。
「ゆかりちゃん、お父さん思いのいいお嬢さんだねえ」
話を聞いたマスターが深く頷きながら感心した。草壁もへえ、とは思うがなんだか生活の様子が自分ちとは随分と違うので、正直どっかの映画の話でも聞いているみたいなぼんやりとした印象しか感じなかった。
するとマスターの言葉を受けたゆかりがまた、急に変わった。
片笑みに上がった片方の唇の端には、懐かしさではなく皮肉な色が浮かんでいた。そしてふっと大きなため息をついて見せた。
「こんなダメな娘なのに……」
そうつぶやいた一言に、草壁もマスターも思わず黙り込むしかなかった。
しばらく、そんなゆかりの様子を伺うようにジッと見つめるしかない二人の視線を無視するように、ゆかりはすっとカウンターから出ると草壁の隣に伝票を置いた。
「あのころは、私もしあわせだったのかも」
すぐ隣でまたもや独り言のようにしてつぶやくゆかりを草壁は見上げた。
「今は不幸なんですか?」
「そうじゃないけど……伝票、おいと来ます。……けど、もうあのころみたいに、のほほん、とはできなくて」
一人芝居の俳優みたいにして、ずっと聞き手には若干意味不明なつぶやきを残すゆかりだった。
そして、何気なくテーブルの上の伝票を見た草壁が叫んだ。
「えっ、お勘定が600円?!」
「当たり前じゃないですか?カフェロワイヤルがレギュラーコーヒーと同じ値段だとでも思ってたんですか?」
そして、草壁の目の前では、マスターが小さく拍手した。
「でかした!ゆかりちゃん」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
日常はそんなふうにして、のんびりと過ぎて行った。2月のカレンダーも終わりに近づいたそんな頃のことである。ちょうど草壁がいつものように学校帰りの道すがら、商店街を歩いているとピアノ教室の中からゆかりが出てきて、彼を中に招き入れた。
「お煎餅あるから、いっしょに食べませんか?」
というのだ。
もちろんそんなお誘いを草壁が断るはずはなく、二人は大きなガラス窓から商店街のアーケードを行き交う人たちを横目に見ながら、ピアノ教室のソファーに向き合って座って煎餅を齧った。
「こんなところでお茶に呼んでくれるなんて珍しいですね」
同僚もいない一人で主催している教室とは言っても、当然ここはゆかりの職場でもあるわけだから、そんなところでゆっくりとお茶飲んでていいものか?とちょっと思わないでもない草壁だった。
とは言っても、そんなこと今までにも数度あるにはあったが。
するとゆかりは、軽く舌をペロッと出して
「この前のカフェロワイヤルのお詫び」
「……」
「あとクッキーとかもありますから、出しますね」
そう言って奥に引っ込んだと思ったら皿のうえにお菓子をてんこ盛りにして戻ってきた。
彼女の話だと、何かというとこういう手土産を持ってくる親御さんというのが時々いるらしい。向こうももらい物でウチだけじゃ食べきれないので先生どうぞ、と言って持ってくると無碍には断りづらい。
そして、草壁が見たことない教室の奥にある小さな給湯室の中の冷蔵庫には毎日、なんらかの御菓子があるそうだ。
「まあ、案外とあやちゃんと二人で喋っているうちに、二人で食べちゃうもんなんですけど」
「そういえば、今日の教室はもう終わりですか?」
「ううん。けど生徒が来るまで30分はあるからちょっとお茶飲むぐらいの時間はあるんです」
「へえ……」
しかし、そんな合間にわざわざ自分を呼んでお茶のお誘いするなんていうのは珍しい。
この前、まんまと一杯食わされたカフェロワイヤルのお詫びと言うけど、本当のところはどうなんだろう。
そんなことを草壁が考えていると、急にまたゆかりの様子が少し変わったような印象がした。
緑茶の入った湯のみを、掌の中の雛鳥でもいつくしむような手つきで包み込みながら、草壁の視線を無視するようにガラス窓の向こうのアーケードを凝視する表情が、虚ろな感じがした。
そういえば、彼女と初めて出会った病院で見た表情にちょっと似ていると思った。
考えてみたら出会ってから一緒に過ごした時間は、全部合わせてもまだ一年にもならないわけだ。草壁が知っているゆかりは、彼女のほんの小さな一部分でしかないだろう。
今もこうやって、一人の部屋に居るみたいにして、放心したような様子の彼女が何を今考えているかなんて、多分恋人となったとしたって分かるわけはないだろう。
しかし、ここのところの妙な様子が気になる。
「あの……」
草壁は肖像画のようにして動かないゆかりの横顔に声をかけた。
彼の声に、初めて目の前の男の存在に気が付いたみたいな顔をしてゆかりが、正面に向き直った。
「なんですか?」
「なにか悩みでも?」
「そんなふうに見えます?」
急にゆかりは笑った。まるで草壁の勘違いがおかしいみたいな表情をして。
「なんとなくですけど、この前から雰囲気が暗い気がして」
草壁の言葉にゆかりはしばらく何も答えなかった。彼の質問が聞こえていないかのように、じっと黙り込んだまま再び彼に横顔を見せた。
壁掛け時計の針音が、やけにゆったりと流れているような気になりながら、草壁はなぜか少し眠気のような間延びした気持ちを感じつつこちらもじっと口をつぐんだ。
「あの……」
どれぐらい時間がたったか?やっとゆかりの口から言葉が漏れた。
「最近、泣いたことあります?」
相変わらず、横顔だけでゆかりは答えた。
急な質問に草壁がギョッとなっていていると、すかさず急に取り繕うような笑顔になったゆかり。
「ごめんなさい。そんなこと、簡単に他人に話せませんよね?さっ、私ちょっと楽譜も用意しとかないと……草壁さんはもうちょっとゆっくりしてってください」
と言って、急に立ち上がった。
と、そのとき。教室のドアが開いたと思ったら――
「おっ、圭介!いいところに来てくれた!今から仕入れの品物を店に搬入するから手伝ってくれ」
隣の古道具屋の主人にして、草壁の叔父でもある茂男が顔を覗かせて、そんな言葉を早口でまくし立てたあと、草壁の返事も聞かずにすぐに消えた。
「な、なにが『来てくれた』だよ……ったくしょうがないなあ。こんなところで油売ってたら叔父さんにとっつかまるのも仕方ないけど……」
草壁も案外人がいい。ぼやきつつもソファーから立ち上がった。
「お手伝いに行くんですか?」
「しょうがないですよ。ここにいるところ見つかっちゃってるし、アカの他人ではない親戚の叔父さんだから無視するわけにもいかないし……あっ、すみません、多分仕事はすぐ終わると思うから、カバンとマフラーここに置いといていいですか?」
学校帰りに提げてきたカバンと、それからここのところずっと巻きつづけているゆかりからのプレゼントのマフラーは、彼の隣の席に置いてあった。草壁がそれを指差してそう言うと。
「どうぞ」
と答えるゆかりを置いて、草壁は教室のドアに手を掛けた。
彼はそこで、ちょっと立ち止まった。ゆかりがどうしたんだろうと思って彼の様子を目を上げて確認すると、ドアに向き合ってゆかりに背中を向けたまましばらくジッと立っていた草壁が言った。
「いつか、そんな話もできたらいいですね。じゃあ、行って来ます」
いやな予感はしていた。叔父がわざわざ自分を呼びつけて荷物の搬入の手伝いをさせるなんて。
裏手に回っていつもの商品仕入れ用のリヤカーが横付けになっている様子を目にすると、どこからこんなガラクタ拾ってきたのか、不思議なもので一杯だった。
まず、餅つき用の杵と臼。それも石のやつじゃなくて、猿蟹合戦に出てくるような全部木製の臼が転がっていたのには驚いた。
冷蔵庫と洗濯機は、中途半端に古いホコリだらけのものだ。他にもタワー型のパソコンの筐体かと思ったらとてつもなく重いので、よく見たら出回りだしたころのVHSのビデオデッキだった。
よく古い住宅の古い解体現場から、産廃業者のトラックがどこへともなく運び去って、廃棄してしまうようなものが今まさに「商品」として店先に並ぶのが、この古道具屋「宇宙堂」の普段というのが分かっている草壁でも、改めて驚かずにはいられなかった。
けど、たかがリヤカーで引っ張れるほどの荷物なんて男手二人で急げば、それほど時間も骨も折れる仕事ではない。
仕事自体はものの15分もあったら終わった。
「これで、もう手伝いはいいですよね?」
「ああ、ありがとう、重いものもあったからお前が居てくれて助かったよ」
「じゃあ……お願いします」
すべての荷物を運び終えた草壁が、軍手を脱いだ右手を叔父の前に広げて差し出した。
「ん?なんだ?」
「手伝ったんだから、バイト代ください!っていうか、バイト代の請求するたびに、こんなやりとりを2度も3度もしなけりゃならないここのシステムをなんとかしてください!」
「飴玉でいいか?」
「親戚じゃなければ、多分とっくにぶん殴ってますよ!」
それやこれやで、ようやく叔父のもとを辞して草壁が再びゆかりのピアノ教室に戻ってくると、彼女はピアノの前に座って譜面を広げてなにやら書き込みでもしている様子だった。すっかりこれからのレッスンの準備に入っているというところだろう。
「すみません。今、ようやく終わりました。それじゃあ、僕もこれで失礼します。お茶、ごちそうさまでした」
「あっ、こちらこそ、ろくにお構いもできませんで……また、お茶でも飲みましょうね」
二人とも時間に追われるようにして、すこし儀礼めいた堅い別れの挨拶をすませると、草壁はカバンとマフラーを手に取った。
そしてゆかりとそんなふうに言葉を交わしていたとき、チラッと彼の目には、ピアノの上に開いた譜面の下に小さな四角い箱が隠れているのを目にした。見覚えのあるパッケージが一部譜面の下から顔を覗かせている。間違いなくあれはフリスクだろう。
おもわず、自分のものか?と思ったが今日はフリスクは持っていなかった。
ということは?
(あれは、ゆかりさんの?けど、あれは辛いから嫌いじゃなかったのかな?)
と思いながらも、つまらない疑問はすでにお仕事モードな表情に変わっているゆかりには聞きづらかった。
草壁はカバンとマフラーを手にすると教室を後にした。
それからゆっくりとアーケードを通って帰路につく草壁。
ちょうどアーケードの屋根が途切れるところまでやってくると、思わず
「あっ、降ってる」
と一人でつぶやいてしまった。
少し前、駅を降りてアーケードの中に足を踏み入れたときは降る様子もなさそうに見えた明るい空が、いつのまにか薄い雲に覆われて、空からはみぞれのような大粒の雪がヒラヒラと舞い降りていた。
「雪か……」
アーケードの外れから空を見上げると、そこで草壁は手に持っていたマフラーを首に巻いた。
そのとき、彼はしばらくジッと終わりかけの紙ふぶきみたいな雪を降らせる空を見上げていた。
やがて、少し寒そうにして彼は口元を隠すほどに大きくマフラーのフチをつまみあげて、改めてそれを深く巻きなおすのだった。
その日、ひまわりが丘に降った雪は、不思議なことに、かすかなペパーミントの香りがした。




