第45話 センチメンタル バレンタイン
そして目前にバレンタインデーを目前に控えた2月のある日。
デパートの食料品売り場というのは、足を踏み入れると愛想のいい売り場の店員たちに声をかけられるまでもなく何かを買わないと出られないものらしい。
大きなフロアの中に散らばる和洋中の銘店からは、いやでも食欲をそそらずには居られない匂いの漂おう中、客たちはみなどこかの店の包みを提げ、右に左に視覚でもグルメを楽しむようにして賑わう休日。
オープンキッチンで惣菜を作っているような店の並ぶ一角からすこし遠ざかると、扱うものがだんだんスイーツに近づいてゆく。
実演販売でウナギを焼いているような店というのは、店員たちも威勢がいい。焼きたて、出来立てをひっきりなしに声高に呼びかける。
それが、甘党好みに近づくにしたがって店員もブースの様子も穏やかに変わる。
扱っている商品が小さな宝石箱にでも入っているみたいなチョコ売り場の店員なんかは、目があっても「いらっしゃいませ」と小首をかしげるようにして小さな会釈をするだけで、あまり積極的に売り込もうとはしない。
まるっきり宝石売り場の店員みたいな人が多くなる。
そんなに甘いものばっかり売ってるわりには、ほっそりとした人ばかりというのも不思議だ。
甘い匂いに一日中包まれていると、それだけでおなか一杯になっちゃうのだろうか?
そんなつまらないことを考えて、いくつものスイーツ専門店の前を通り過ぎてゆくのは、長瀬ゆかりである。
彼女は悩んでいた。どんなものを買ったらいいのだろうか?と。
もちろん、バレンタインデーを控えたこんな時期にスイーツの店の前で悩むと行ったら、チョコレートのことである。
(いくらぐらいのものがいいだろう?あんまり高いものはマズイ。だって義理チョコなわけだし。かと言って、いかにも『義理です』みたいなのも、イヤだし……)
以前にも似たようなことを悩んでいたような気がする。
たしかあの時はマフラーだった。なんか自分ってこんなことばっかり考えている。
もちろん選択肢の中には、値段だけじゃなく、ショップのチョコを買うか手作りするか?という問題もある。
しかし、あくまで『義理チョコ』だと言い張っておいて手作りはないだろう。
作ろうとしてできないわけじゃないし、すこし味気ないような気もするけど、ここは既製品を購入するしかなかった。
そう、彼との距離はいつまでたっても「お友達」それ以上には進んではいけない。それはゆかりには絶対のことだった。お互い、いずれお別れするのだから、そのときあんまり傷つくようにはならないのが賢明。
彼女はずっとそう思っていた。
結局、30分も食品売り場をさ迷った挙句、購入したチョコは生チョコの詰め合わせだった。
ミルクキャラメルを一回り大きくしたようなのが詰まった可愛い箱入りのそれ、お値段が1800円。
(うーん。義理というには少しお値段張っているけど、まあ彼には迷惑もかけてるしお世話になっているから、これぐらいのもの買って渡してもおかしくないよね)
などと、自分に言い聞かせているが、どうも少しでもよさそうなものを選んぼうとしている自分に気づかないわけでもなかった。
さて、それでお買い物も済んだわけだし帰ろうかと思いつつも、徘徊している間に目に付いていたフルーツロールケーキもついでに買ってっちゃおうか?と悩んだりしていると、そこで親友の辻倉あやとばったり出会った。
「あっ!ゆかりさん!」
ロールケーキを一生懸命覗いているせいで、向こうの存在に気づかなかったが、急に声をかけられたゆかりがまるで電気でも走ったみたいに、ビクッと大きく一度痙攣したように体をよじったのは、なぜかちょっと見つかってマズイような気がしたせいでもあるのは確か。
「あ、あやちゃん…どうしたの?」
「私ですか?ちょっとお父さんにチョコレートでも作ってあげようかなって思って材料を買いにきたんですけど……」
「へえ、マメだよねえ」
「ゆかりさんも、チョコレートを買いに来たんですか?」
「み、見てのとおり、私はロールケーキでもと思って……」
「ふーん。実はもうチョコレートはちゃっかり買っちゃった後だったりして!」
「な、何が言いたいの?別に特に買う必要もないし」
「ふうん……」
ゆかりの言葉にあやがにやけた。そして、こんなことを言うのだった。
「そんなこと言いますけど、ゆかりさんって世間で何かイベントごとがあるたびに、こういうところを思惑ありげにウロウロしますよね?」
「ほっといて頂戴!」
「まあ、それはさておき……」
「なに?」
「今、ちょっと思ったんですけど、もし暇があるんだったら、二人でチョコ作ってみませんか?」
「ん?」
「バレンタインの日にアネモネでお客さんにサービスとして渡したりしたら、いいかな?と思ってたんですけど」
「ふーん……。ま、私なら用事ないからお付き合いしてもいいわよ」
というわけで、バレンタイン前の百貨店の食品売り場でばったり出くわしたあやとともに、ゆかりもバレンタインサービス品の一口チョコを手作りすることになった。
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そしてやってきたバレンタイン当日。
ところで前回のお話で、購入を楽しみにしていた10万円のロードレーサーがなぜか赤いママチャリとなってしまった草壁。
アノ後、責任を感じたゆかりからは平謝りをされて弁償を申し出られたりもしたが、結局そのママチャリは彼の愛車となっただった。
考えてみたらただの町乗りのためにしか使わないわけだし、これで十分。
それに10万円の買い物が1万円で済んだということはその分お金の余裕もできる。
デート代に余裕ができるというわけだ。
もちろん今のところ、デートに誘おうたって素直にはウンとは言ってくれないゆかり。予算はあっても使う目処がまったく立っていないのが現状。
それはそうと自転車という「足」ができると、徒歩と公共交通機関だけで移動していた時と違って、日常の行動範囲が広がる。
例えば買い物一つにしたって、駅前のスーパーばかりじゃなくて、郊外のお店にまで行ってちょっと白菜と鶏肉とお醤油を買ってくるなんてことも可能。
それまでは知らなかったお店も見つかることもあったりする。
一つ隣の駅前に、大きな古本屋を見つけて毎週のように古本を漁りに行ったりするのも楽しい。同じ古本屋と言ってもチェーン店と個人のお店では微妙に品揃えが違うようだ。店内にアイドルポップスの有線放送が店舗の営業案内とともにスピーカーから流れるような店より、AMラジオが垂れ流しになっているかび臭い個人経営の店のほうが、彼の好みの品揃えに近かった。
その日も隣町までひとっ走りして買い物を済ませると、線路沿いをまっすぐひまわりが丘まで目指す。
別に急ぎの用事はないのだけど、なんとなく急いで帰りたいという気持ちなのは、バレンタインデー当日というのは何が起こるか分からないという、まったく根拠のない予感がするからだ。
そんなふうにして、線路の高架下にまっすぐ伸びる道をすっ飛ばして、ひまわりが丘の駅前までやってきた草壁。
ちょうど駅のロータリーに差し掛かったところで、駅から出てくる見覚えある人影を見つけた。
チャリンコを飛ばして、すっとその人の隣に並びかけた。
「こんにちは、ゆかりさん」
草壁とゆかりは駅出口のロータリーでしばらく立ち話をした。
「あっ、草壁さん……」
ゆかりは、今ではすっかり草壁の愛車となってしまった赤いママチャリがどうしても気になって仕方ない。彼がそれに乗っているのを見つけて、しばらくママチャリを見つめてしまう。
「自転車でお出かけしてたんですか?」
「ちょっと隣の町まで、自転車あると電車乗らなくても楽に行けるからいいですよね」
「は、はい……あの……」
目の前の草壁は、ロードレーサーがママチャリに変わったことにあんまりこだわりもない様子で、今ではすっかり赤い自転車を愛車にしてしまっている。
しかし、ゆかりとしてみたら、そのために冬の間バイトまでしてたはずのものを買いそびれさせたという責任は感じていた。
そこで、これまで何度か申し出ていたことだが――。
「あの……自転車、ほんとうにごめんなさい、私弁償しますから」
とうつむき加減でポツリ。
しかし、草壁のほうはなぜかママチャリが手に入った瞬間から憑き物でも落ちたみたいに、ロードレーサーへの執着が消えていたので、あっさりしたものだ。笑顔で手を振った。
「この自転車、乗ってみたら軽快だし、意外に気に入ってます」
「本当にいいんですか?」
「はい、もうこれで十分ですよ」
「そうですか」
「それに、10万円の買い物が1万円で済んだわけだから、予算が浮きましたし」
急に草壁は声のトーンを落とした。そして目の前のゆかりをチラッと覗き込むようにして見つめた。
「予算って、何の?」
「おでかけの」
来た。とゆかりは思った。そういえば、ちょっと前から彼は私をデートに誘いたいらしいそぶりを見せてきた。いつも断ってはいるけど、今日もそういうことだろうか?
ゆかりは草壁の視線に気づかないふりでそっとそっぽを向いた。
「映画とか見ます?」
「はあ……まあ、時には見ますが……」
「こんど、大きなアウトレットモールが出来るの知ってます?」
「いえ、知りません」
「じゃあ、ゆかりさんの行きたいところとかもしあったら」
「特にないですけど」
「あの、食事とかもおごるから一緒にどっか行きませんか?」
ずっと草壁を無視するようなゆかりの顔を覗き込んで草壁が、ここのところ何度目かになるデートのお誘いの言葉を口にした瞬間。
「何度も言わせないでください。そういうところに二人きりで出掛けるっていうのは、私ちょっと無理ですから!」
ゆかりが顔も口調も厳しくきっぱりと草壁に言い渡した。
ママチャリのサドルにまたがったままがっくりと首をうなだれる草壁。
「あーあ、残念」
そう言って草壁はゆかりの目の前でうなだれるのだった。しかし、最近こんなふうに断られるのに慣れたみたいで見た目のガッカリそうな様子よりは気持ちは割りと平然としたものだった。
その後、二人は並んでひまわりが丘の商店街の中を歩いた。
実は、精神的なショックという意味では自転車を押す草壁と並んで歩くゆかりのほうが大きかったかもしれない。彼女は急に無口になった。そして、彼女は明らかに機嫌が悪かった。
チラッと見上げると、さきほどからこちらも口数の少ない草壁も残念そうに眉を寄せていた。
そんないかにも残念そうな彼を見てゆかりは思うのだった。
(何なのよ!このタイミングでデートに誘ってくるなんて!)
少しはTPOというものを考えろということだ。なぜなら今日はバレタインデー。先日さんざん悩んだあげく買った『義理チョコ』はちゃんと彼女のバックの中に用意してある。あとは渡すだけだが――。
(そりゃ、デートなんてこっちは断るわよ。当たり前でしょ?けど、今あんなふうにデートを断ったあとじゃ、チョコレートなんか渡しづらいじゃない……)
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その後草壁とゆかりは喫茶「アネモネ」のドアを潜った。
ゆかりは暇なのでちょっと喫茶店のお手伝いのつもり。それならということで草壁もカウンターに腰掛けていつもの調子。
ちょうどそのとき、辻倉あやもエプロンをつけてカウンターに収まっていた。
久しぶりのお店ツートップのそろい踏みといったところ。
草壁にしてみたらどちらからか、いや両方ともからチョコレートをもらえそうな予感のヒシヒシとする状況である。
そこで、すこしでも渡しやすい雰囲気を作ろうと一人妙に上機嫌ににやけてすわっていると。
「どうしたの?草壁クン、今日は上機嫌だけど?」
「ん?そうですか?別になんでもないですけど」
と言いつつ、やっぱりニヤニヤしている。
さっさとエプロン姿に早変わりして、草壁の目の前に立っているゆかりはそんな彼を見てちょっと皮肉げに言う
「100円でも拾ったんじゃないですか?」
その隣ではあやも、表情一つ変えずに。
「思い出し笑いかなにかですか?」
と、そっけない。
このお調子者がこの時期必要以上に浮ついているのならば、大体相場は知れるだろうに。
マスターはカウンターでともに並んで居るゆかりとあやが、草壁に冷たいことに驚いた。
「二人とも案外残酷だね……」
草壁にしても、しばらくわざとらしい笑顔を浮かべていてもゆかりからもあやからもノーリアクションなことにだんだんと不安になってきた。
ちょうどそのとき、テーブル席の客が勘定を済ませて店を出てゆこうとしていた。
レジを打っていたあやが、その客につり銭とともに
「これ、今日はみなさんに特別にお配りしているものです。よかったらどうぞ」
と言って、キャンディーの包みみたいなものを一つ手渡した。
スーツ姿で一人携帯片手に黙ってお茶を飲んでいたのは、営業周りの途中みたいな様子の中年リーマン風。少し大きめのカバンを抱えた中年太りの見慣れない客だった。
「何これ?」
「一口チョコです。私たちの手作りなんですけど。バレンタインデーということで」
「あっ、ありがとう……。ここで食べちゃってもいい?」
「はい」
「……お、おいしい!ちょっとビターでいいね!こんな可愛い子の手作りチョコが食べれるなんて今日はちょっとラッキーだなあ」
多分一見さんなんだと思われるその客は、手渡されたチョコをその場で食べてしまうと上機嫌で店を出て行った。
そんな様子をチラッと見ていた草壁が、マスターに聞いた。
「なんですか?あれ」
「今日はバレンタインだから、あやちゃんとゆかりちゃんの手作りチョコをお客さんに配ってるんだよ」
「あっ!そうか!今日はバレンタインデーか!」
「君、絶対、わかってただろ?」
草壁がわざとらしく驚いていると、カウンターのゆかりが草壁にそんな一口チョコを手渡した。
「だから、草壁さんにもこれ、どうぞ」
カラフルなパラフィン紙をラッピング用の針金でキュッと閉じてあるのが、例のブツ。
草壁はゆかりからそんなのを一つ、ちょんと手のひらに乗っけてもらったのだが、この男その手のひらをなかなか引っ込めようとはしなかった。
手のひらの上に巾着結びになった一口チョコを乗っけたまま、しばらくその手をゆかりのほうに差し出したままの草壁。
「どうかしましたか?」
さっきから気が付いていたが、ゆかりの態度が妙に冷たくそっけない。視線もひどく皮肉そうに睨んでくる。
これだけお付き合いもあって、個人的に義理チョコの一つもくれないのだろうか?
実は草壁は確信していた。本命チョコみたいな気合の入ったものは無理かもしれない。ゆかりは自分のことを『友達』としか言わないし、またそういう事実もない。
しかし、他の誰からももらえなくても、ゆかりは自分にチョコをくれるだろうとほとんど確信していたのだった。
それがいつまで経ってもそのそぶりがないので、草壁のほうからちょっと催促してみた。
それが今の犬に「おかわり」でも教えてるみたいな格好している草壁の本音であった。
「これだけですかね?」
ゆかりさんから直接、いただけないんでしょうか?と思っていたところ、ゆかりの反応は予想以上にそっけなかった。
「そうですけど……なにか?」
まさか、もらえるとでも思ってたんでしょうか?わたしそんなつもりまったくありませんけど。
ゆかりの目がそう言っていた。
草壁にしてみたら、がっかりというより、驚愕だ。
予想屋が絶対確実鉄板だと言った馬に手持ちの金全部ぶっこんだら、見事にこけやがった。
そして草壁は一人がっくりと肩を落としてアネモネを後にしたのだった。
ゆかりからもあやからもチョコはもらえなかった。
来たときにはわざとらしい笑顔を作っていたと思ったら、帰りにはわかりやすくがっかりとした様子で店を出てゆくのを見送ったマスターが、隣に並ぶゆかりとあやに言った。
「ふたりとも、冷たいね」
「なんですか?」
ゆかりはそ知らぬ顔で、草壁の去ったあとのカウンターを拭いていた。
「草壁くん、がっかりしてたみたいじゃない?義理チョコぐらいは二人から期待してたんじゃないの?」
それぐらいは渡すつもりだったゆかり。マスターの言葉には直接答えずにしばらく黙って仕事をこなした。なんとも答えようがない。
それはそうだけど、こんなところで用意のチョコは渡したくなかった。
一応『義理チョコ』だけど、ここで渡したらまるっきり正真正銘の義理チョコになってしまう。
せめて、他の人には知られずにこっそりと……そう思っていた矢先に草壁がデートデートで先走って結局、渡すきっかけを失ってしまったまま。
われながら、チョコ一つでなんでこんなに持って回らないといけないのか、少し歯がゆい。
ゆかりがそんなことを考えてぼんやりとしていると、ゆかりとはまったく違った事情で草壁にチョコを渡さなかったあやがマスターに言った。
「いろいろとお世話になってるけど、お付き合いしてるなんて設定で、ごちゃごちゃやってると――」
「まだその設定、生きてるの?」
「はい、まだ田村君、ちょいちょいここに来るし」
そして、あやがこんな言葉を続けた。
「ただの友達でもない感じで、気軽に渡しづらくて」
あやのそんな言葉に、ゆかりの眉がピクリと動いた。
あやの言っているニュアンスとは違った意味あいで、まるっきり自分に当てはまる言葉でもあったからだ。
ゆかりのそんな思いまでは知らないだろうマスター。気軽な調子で今度はゆかりに聞いた。
「ゆかりちゃんぐらい、あげたらいいのに」
そっけなく答えるゆかり。目がちょっと虚ろなのは、質問への動揺ではなく、さっきから心の中を占めているなんともいえないモヤモヤのせい。
「わたしたちも、特になんでもありませんから」
そう答えると
珍しい生き物でも見つけたみたいな顔になった、あやとマスターから
「へえ!」
とわざとらしい大きな声を上げた。
「何が言いたいんですか!」
おちょくられると、子供みたいに反発するゆかりだった。
そして、ゆかりが買った『義理チョコ』はどうなったかというと、結局、その日草壁に渡すこともできないまま、彼女は半ば自棄気味にそのチョコを一人で食べてしまったのだった。
(だって、バレンタインの日に顔を合わせといて渡せなかったんじゃ、その後になって渡す理由がもう見つからない。「忘れてた」っていうのもわざとらしい)
「もう!タイミングも考えずに『デート』『デート』ってうるさいから、渡しそこねたじゃない!ほんとアノ人タイミング悪い!」
部屋で一人、草壁のために買って来た生チョコを食べながら、ゆかりは一人でプリプリ怒っていた。
しかし、自分でも気づいているのだ。今回は向こうに非はない。
1800円のチョコを買ったのだってそうだ。
義理チョコだと自分に言い聞かせながら、なんとかちょっとでもいいものを選んでしまう。
もし他の誰かからもチョコレートをもらったとして、それが自分の渡したものよりいいものだとイヤだから。そしてそんなチョコだって、渡せずじまい。
デートになんか行かない、って言っておいて、他の女の子と仲良くしているとヤキモチ焼く。
いっそのこと、彼のことなんか綺麗さっぱり忘れてしまえばいいのに、そばから離れるのはイヤ。
向こうの気持ちは知りぬいているから、それに甘えてる。けど、向こうには甘えさせない。
自分ってつくづくイヤな女だなと思う。
このチョコだって渡すのに、さり気なくとかなんとか言いながら一人相撲とった挙句、タイミングを逃してバレンタインに間に合うことも出来なかった。
やることなすこと、全部空回りしているわけだ。
そう思うと、無性に虚しい気分になった。
「結局、自分で食べるしかないじゃない……バレンタイン過ぎて渡しても意味ないし。それならなぜ当日渡さなかったのか?ってことだし」
ココアパウダーがたっぷり掛かっているからかもしれない。
その日彼女が食べたチョコの味はとても苦かった。
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そんなことのあったりする特別な日も過ぎ去ると、ただの日常。
で、そんな日常の一コマ。ひまわりが丘の草壁たちの住むマンションの部屋でのそのころよくあった光景。
草壁の同居人というと、ゆかりの弟の長瀬亮作、つまりこの部屋の元々の借主である同い年の青年ともう一人が普段はパチンコと競馬で生計を立てているというチンチクリの禿げオヤジのツルイチさん。
本名は「鶴山寿一」だが、みんなからこう呼ばれているし、本人もそう呼んでくれと言っているので、そう呼ぶことにしているオッサンだ。
かなりもっさりとしたあだ名だが、同年輩の飲み仲間なんかから付けられている名前なら仕方ない。
このオジサン、わりとギャンブル全般やるらしい。
というか、料理人を振り出しに様々な仕事をこなして今に至っているような人なので、基本的に器用なのだろう。
このオジサン、実はマージャンもする。
聞いたら、一時期、雀荘でノンプロみたいな打ち手として稼いでいたこともあるのだそうで、聞けば聞くほど驚きだった。
因みに、草壁は高校のときに友達から教わってちょっとルールは知っている程度。
お金持ちのボンボンの亮作はそんな遊びには今まで無縁だったらしく、まったく牌ももったことがないという。しかし、面白そうだとは常々思っていた。
というわけで、ツルイチさんから手ほどきを受けてみんなで暇なときに、ジャラジャラ言わせることもあった。
最初はダイニングテーブルの上にマージャン用のグリーンシートを敷いて、部屋の3人でやっていたのだが、そのうちマージャン用のテーブルを亮作が買って来た。
さすがに全自動式のやつではない。
普通にグリーンのパットを敷き詰めた専用テーブルで、ちゃんと点棒なんかを収納する引き出しなんかもついているものだ。
コタツの裏をひっくりかえすよりはマシ。
というかこの部屋にコタツはなかった。
第一、フローリングの床の上でコタツを広げるのもちょっと違和感もあるし。もちろん、そんなにしょっちゅうするわけでもないから、家庭マージャンを楽しむなら手でジャラジャラやって遊んでいるぐらいがちょうどよかったのだ。
というわけでたまに部屋の3人で打つこともあったが、やはりマージャンというのは4人でする遊び。
もう一人引き釣りこめないか?と思ったらちょうどうってつけの人材が隣にいたので、彼女も引き入れた。もちろん長瀬ゆかりのことだ。
誘ったら、すんなりとやってきたし教えたらすぐにルールもマスターしたので、4人が揃う日で飲み会を催すにはちょっと早いか?という時間なら専用台をダイニングに引っ張り出してきて素人マージャンを楽しむこともあった。
この日も、ちょうど4人そろったということでジャン卓を囲んで打っていた。
ちなみにその日、なぜか絶不調の草壁がハコ点続きの一人オケラ状態というさんざんな日だった。
そんな勝負を繰り返して、半荘勝負も終盤に差し掛かったとき、草壁が何気なく牌を捨てると
「ロン!」
すかさずゆかりの当たりとなってしまった。
「ピンフ・タンヤオ・イーペーコー・ドラで満貫12000点!」
まさにお手本のような上がりで単独トップのラストを飾った。本人、大喜びだが、対面ですっかり空になった点棒箱をうつろな目で見ているのは草壁。
「また、ハコテン……」
するとその様子を見ていた亮作が声を掛けた。
「このところ、草壁くん踏んだり蹴ったりだね」
同情はしているのだが、普段からニコヤカなこのお坊ちゃん。明るい笑顔で言うと、なんだから他人の不幸を喜んでいるようにも見えなくない。
弟の言葉を聞いて、ゆかりが声を上げた。
「草壁さん、何かあったんですか?」
「お姉ちゃんと関係があるでしょ?」
亮作の言葉がちょっと短すぎたのかもしれないが、そう言われたゆかりが、急に顔を真っ赤にさせて
「わ、私と草壁さんは関係なんてありません!」
というものだから、ツルイチも亮作もそして、草壁までびっくりしてゆかりを見つめた。
「自転車の件だよ」
亮作が不思議そうにポツリとつぶやく。お姉ちゃん急に何を言い出すのだろうか?そして、あの大失敗をもうすっかり忘れてしまっているのだろうか?と、弟は思うのだった。
「あ……あれは、わたしも悪いと思ってるわよ」
「それにさ、お姉ちゃん知らないかもしれないけど、草壁くん年末にもカシミヤのマフラーなくしちゃってさ。かわりに安いマフラーしてるんだよね」
「う、うるさいわよ!安物で悪かったわね!」
「ん?なんでお姉ちゃんが怒るの?」
「い、いや……あんた他所の人のマフラーを安物呼ばわりするなんて失礼だからやめなさいね……」
長瀬姉弟がそんなことを言い合っていると、ツルイチまでもが、いまだにがっかりした顔のままの草壁を指差して
「このまえもチョコレート一個ももらえなかったって言って、ここで頭抱えてましたしね」
「そうそう。よっぽど誰かからもらえるアテでもあったのか知らないけど、すごい落ち込んでたよね?草壁くん」
「へえ……」
ゆかりは目の前でずっとうなだれっぱなしの草壁をチラッとみた。すると一瞬チラッと向こうと目が合う。もの欲しそうな哀れっぽい目をしている。ちょっとかわいそうに思う。
わたしぐらいからは欲しいと思っていてくれたのかしら?
「お姉ちゃん、チョコレートあげたら?」
「えっ?」
突然、亮作がそんなことを言い出して、ちょっと驚くゆかり。
「この前の自転車のお詫びもかねてさ」
亮作は草壁をフォローするというより、姉のフォローのつもり。姉に謝罪の機会を与えてあげた。そんな程度。
しかし、実は草壁の援護射撃にもなっていたりする。
亮作の言葉を聞いて、ゆかりの目の前ではすごい勢いで首を上下に振る草壁の姿があった。下さい下さいと言葉にはしないが、しっかりとアピールしている。
「欲しいですか?」
「く、ください……」
「涙目になって訴えることないでしょ!?」
「じゃあ……」
わざと勿体ぶった様子で考え込むゆかり。仕方ない、というような悠然とした態度でこう言った。
「このまえあやちゃんと喫茶店のお客さんに配るチョコを作った材料がまだあるから、そのあまりもので、チャッチャっと作っちゃいます」
「夜食のラーメンでも作るみたいな言い方やめてください!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
思わぬ流れで、先日の不首尾に終わったバレンタインデーのリベンジマッチの開催となったゆかり。
しかも、今度は堂々と渡せる理由もある。
それなら、もうショップで既製品を買うのはなし。
この流れなら『手作り』を渡しても言い訳はたつ。
というわけで、ゆっくり手間隙かけてチョコを作ってしまった。
そして、それをいつでも渡せるようにバックに仕舞い込んだ。
作り上げたらもういい時間だった。その日はピアノ教室もある。ちょっと喫茶店のほうのお手伝いまでやっている時間はないかな?
あわよくば学校帰りの草壁を捕まえることもできるかもしれないが、レッスン中の可能性もある。
まあいいか。別に今日中に渡す必要もないし。時間の余裕はあるから。
そう思ってマンションを出たゆかり。
商店街に差し掛かって、自分の教室に向かうまえにチラッとアネモネの中を覗いたら、エプロンつけてバイトに入っている辻倉あやがちょっと困った顔しているみたいに見えた。
店のガラス窓の向こうでこちらに背を向けて座っている誰かと口論でもしているみたいな様子だけど。
と思って見ていると、どうもその客というのが今木恵らしい。
なんなんだろう?と気になったものだから、ゆかりは仕事前に客としてお茶を飲むつもりで様子を伺いに店の中に入った。
ゆかりがアネモネに入ると、カウンター越しに恵とあやが
「絶対おかしいですよ!」
「ちゃんと付き合ってるけど」
「いい加減、ウソだって認めたらどうなんです?」
「ウソじゃないし……」
なんて調子で言い合っている最中だった。
もう会話の一部を聞いただけで、だいたいなにを揉めているかゆかりにも想像がついた。
あやちゃんも、つまらないウソいつまでもつこうとするからこうなるのよ。まったく面倒な子よねえ。まあ、この今木さんって子も相当うるさいと思うけど。
実は今木恵がなぜ今頃になってそんな話をまた蒸し返してきたかには理由があった。
ちょうど年明けの頃、草壁があやのせいで手を捻挫したときあやが付き添って恵の家の整骨院にやってきたのを見てから、ちょっとショックだった恵。
半ば以上信じていなかった、草壁とあやの恋人説が彼女の中で逆に真実味を帯びてきたのだった。
草壁を追い回す頻度も少なくなりつつあったそんな矢先。バレンタインデーに一応、意中の人である草壁のためにチョコレートを渡した。ちなみに、それはバレンタインの翌日の話である。つまり一日遅れでチョコを渡したのだった。
すると、もらった草壁が異様に喜んだ。やっと一個まともにチョコをもらった、と言うのだ。
おそらく事実に違いない。が、そうなると不思議なことがあった。
どうして、辻倉あやからももらえなかったのだろうか?
考えられる答えはタダ一つ。「やっぱり、お兄ちゃんと辻倉さんは付き合ってはない」
そんなわけで、ここいらで白黒はっきりさせようと、恵が喫茶店に乗り込んできて、ヒートアップしている最中というのが現在の状況である。
(へえ……草壁さん、あのあと恵ちゃんからはチョコもらったんだ……)
横で話を聞いていたゆかりが、一人そんなことを考えて恵から一つ席を空けた場所に座って客としてコーヒーを飲んでいると、恵がゆかりに聞いた。
「先生も知ってるんでしょ?草壁さんと辻倉さんって恋人じゃないって」
目の前では複雑な表情をして突っ立っているあやとチラッと目があった。なんと答えていいか分からないので
「そうなの?」
と、あやに疑問形の問いかけを投げつけて、向こうに下駄を預けて逃げる気満々なゆかり。
恵は目の前のあやに何を言っても黙秘を貫くらしいつもりなのを読み取って、今度はゆかりのほうへ話の穂先を変えていた。そのままゆかりに向かって続けた。
「おかしいじゃないですか?バレンタインの日にチョコ渡してないんですよ?あの日ここで顔を合わしてたって言うのに!」
その言葉を聞いて、あやが言い訳をする
「それは、あのときはお店の中だったし、他の人がいるから気を使って!」
恵がすぐに言葉尻を引き取って反論する
「チョコ渡すぐらいどうってことないじゃないですか?結局今まで渡していないんでしょ?」
あやが言葉を詰まらせている様子を見て、さらに恵の語調がきつくなる
「友達同士でも、義理チョコって言えば簡単なことを、チョコレート一つ渡すのに、まわりに気を使わないとできないなんてどんな関係なんですか!!」
恵の様子に言葉を詰まらせたままのあや。しかし、実は、その隣で静かにコーヒーカップを傾けていたゆかりも固まっていた。
恵は気づいていないが、言葉の刃先はあやよりもゆかりのほうに切り込まれていた。
そして、最後に冷たく恵が言い放った一言。
「もはや友達ですらないんじゃないんですか?!」
カバンの中で眠っている手作りチョコのことが、少し虚しく思えた。
こんなもの一つ渡すために、随分と回り道している自分が情けなくなって、ゆかりは固い表情のままサッと喫茶店を後にした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
恵の放った言葉の矢はUターンして、あやではなくゆかりの心臓を突き刺した。
虚ろな気持ちのままその日のピアノのレッスンを終えたゆかりだった。
まさにそのとおりだと思う。
そしてこんなチョコを渡すとか渡さないとか遊びみたいなことにうつつを抜かして、一喜一憂している自分がもどかしかった。
けど、どうすればいい?
自分の気持ちは決まっているし、彼とはこれ以上踏み込むつもりもない、踏み込ませもしないつもり。
こんなことで、このひまわりが丘での時間は過ぎて……そして、いつかさようならするのだろうか?
それでいいと、自分に言い聞かせていたが、改めて気が付くと虚脱したような、フワフワとした不安だけが付いて回った。
本当に自分はどうしたらいいんだろうか?と。
コートの衿を木枯らしに巻かれながら、そんなことを考えてゆかりが夜道を歩いて自宅マンションまで戻ってきたところ、見覚えのある車が正面玄関まえに横付けになっていた。
ワインレッドのレクサスだ。ちょっと見派手なクルマで、どっちかというと女性がステアリングを握っていそうな雰囲気。ハッチバックのCTといえば、レクサスとしては可愛いクルマだが、それでもレクサス。二十歳代半ばの普通のサラリーマンが簡単に手を出せるようなクルマじゃあない。
「あっ!ゆかりちゃん!よかった今帰ったところ?あのさ、急な呼び出しで悪いと思ったけど、もし迷惑じゃなければご飯でも付き合ってくれない?」
と言ってその車から降りてきたのは藤阪公司だった。
ゆかりはなぜか、少しやけっぱちな気分で「ウン」と頷いた。
二人で訪れた先は、とある豪華客船……を改装して桟橋の上に浮かべているレストランだった。
港の倉庫群なんかの広がる、少々殺風景な夜の海岸通りをすり抜けると波の静かな港の岸壁で小さな星粒のようなイルミネーションを満艦に散らせて、夜の闇の中に浮かんでいる大型客船が見えてきた。
近くのパーキングでクルマを降りてから、街中より少しきつめに吹き付ける海風にもてあそばれる髪を軽く押さえてタラップを登る。
フロアワックスをたっぷり塗りたくって丁寧に磨き上げた木目あざやかなデッキに、乾いた靴音を響かせてドアを開けたら、店内は船の中というより夜の水族館みたいにサファイヤ色した深い蒼一色の空間だった。
直前に入れておいた予約を伝えると、ウエイターが静かに二人を窓際の席にまで案内した。
まるで海の中から、また海を見ているような不思議な二重の感覚を味わえるような眺めの座席からは、漆黒の海原が月明かりにぼんやりと蛍光色を放って広がっていた。
きっとバレンタイン当日なんかに来たらカップルで満杯になっているかもしれないような店だったが、そんなイベントが終わった直後のせいだろうか?直前の電話予約でも随分といい席が空いていたものだった。
例えば、少し離れた席で、アラサーカップルが少し口を大きく開けて談笑している様子も、テーブルライトの明かりを受けて異様に白く光る頬骨の動きが見えるだけで、声までは届いてこなかった。まるでスキューバでもしているみたいな静寂に包まれた空間だった。
皿の上のラングスティーヌもソースの海を泳いでいた。
綺麗な場所だと思ったが、ゆかりがまるで本当に海の中をただようみたいにして、フワフワとした気持ちが離れないのはロケーションに感動しているからではなかった。
”友達同士でも、義理チョコって言えば簡単なことを、チョコレート一つ渡すのに、まわりに気を使わないとできないなんてどんな関係なんですか!!もはや友達ですらないんじゃないんですか?!”
夕方のあの喫茶店でのあやと恵とのやりとりの中で、恵があやに向かって放った言葉の矢がゆかりの胸を刺したままだった。
バックの中には、自分でもおかしいぐらいに無邪気になって作った『義理チョコ』が眠ったままである。
それを彼に『義理チョコ』だと言って渡して、それからどうなるの?
答えは簡単。どうにもならない。するつもりもない。
「どうしたの?ゆかりちゃん、今日はずっとぼおっとしているみたいだけど?」
藤阪の言葉でふとわれに返ったゆかり。
ふっと窓の外に広がる夜景に目をそらした。
「あんまりいい景色だから、つい見とれてました」
笑うつもりだったが、笑う芝居を打つ気にもなれなかったので、感動したふりをして無表情に黙り込んだ。
多分、そんな彼女の内心の葛藤は目の前の男には伝わっていないはず。
そのとおりかもしれないが、誘ったほうだって感情のない木偶の坊でもない。ゆかりが自分を無視するようにして夜景に視線を移したその横顔に向かって静かに語りかけた。
「ごめんね、急に誘ったりして」
「いいえ」
「ただの友達とは言っても、この時期にまったく連絡がないのが寂しくて……つい」
ゆかりはそれに直接答えるかわりに、冗談っぽく言った。
「公ちゃん、彼女いるんじゃないの?本当のところは。だって、こんなオシャレなレストラン、どう考えたって接待じゃなくてデート向きだし。そんなところにサッと誘えちゃうっていうのが、なんかアヤシイ」
なるべく冗談で話を終わらせようというのが彼女の思惑だった。
しかし、目の前の男がジッとこっちを見つめて
「あの日から、君だけだよ」
と、言われるとなんと言葉を返していいかわからず、ゆかりは黙り込んでしまった。
そんなディナーも済んだあとのこと。
二人は藤阪のクルマに乗り込んだ。
そこで、運転席の藤阪がエンジンを掛けるまえにパーキングの駐車券を探そうとしてクルマのルームライトを点灯させた。
そのとき助手席に座るゆかりが膝の上に置いた自分のカバンを何気なく開けた。おそらくハンカチでも取り出そうとしたのだろう。その様子を隣の藤阪がチラッと見て呟いた。
「ゆかりちゃん、それ、チョコレート?」
「えっ!?」
そうなのだった。バックの一番上でポーチなんかに押しつぶされないようにして大事に入れておいたのがあのチョコだ。
それをなぜ藤阪が一目見てわかったかというと、そのラッピングには一番上にしなくてもいいのに「St. Valentine's day」ってピカピカの金文字が光るステッカーを飾りに貼っておいたからである。
見つかっちゃった。こんな時期にこんなものをバックに忍び込ませているなんて普通じゃ説明できない。
藤阪からの指摘は、恵の言葉とはまた種類の違う痛みを彼女の胸に走らせた。
(どうしよう。他の誰かにあげるためにずっとチョコを持ち歩いているなんて、ただの『義理チョコ』って言ったって信じてもらえない。しかも、公ちゃんはうちの両親とも顔見知り。誤解を受けたらどんな噂が立つか分からない……)
「遅くなりましたけど、よかったらどうぞ!」
もうどうにでもなれ!と思ってそのチョコを手渡した笑顔のゆかりだった。
藤阪は気づいていなかったが、声がなぜか少し震えていた。
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その後、藤阪がマンション前まで送るというのをなぜか駅前で下ろしてほしいとゆかりは言った。
ちょっと買い物をして帰りたいからと言ったが、本当は違っていた。
「最近、帰りは駅前でいいって言うようね?」
藤阪が不思議そうに聞くのにも理由があった。
あまり、マンション前まで来てもらいたくなかったのだ。男と遊んで帰るところを、彼に見られるのはなんとなくおもしろくなかった、というのが主な理由である。
気が付けば冬の夜道だというのに、妙に暖かな風が吹いていた。なんとなく角を曲がれば夜桜の舞い散る様子が街灯に照らされているかもしれないと思えるほどに。
(わたし、これからどうしたらいいんだろう?)
と、ぼんやりとゆかりは思った。
よく考えてみたら贅沢な悩みかもしれない。進むべき道は決まっているわけだし、それは世間の人からみたらうらやましいような境遇なはず。
なのに、素直にそれを受け入れる気になれずにいる自分。じゃあ他にどうしたいのか?と言われて他に選択肢はなかった。
自分の背中には、ずっしりと重いものがもう縛り付けられてしまっているわけだし、それを拒否するつもりもなかった。けどこのまま私は決められたレールの上を走り続けて何年も何年もしあわせに過ごせるの?
そう思うと、少し怖かっただけだ。
恋とも言えないようなオママゴトみたいなことをこの1年ほど続けてきて、これからもちょっとそんなことを続けたらこの町とも、彼ともさようなら。
「それにしても、チョコ結局渡せなかったなあ……わたしダメだな」
思わずそうつぶやくと、鼻先がすこしツンとなった。
そのとき、急に背後から声が掛かった。
「ゆかりさん、今お帰りですか?」
振り返ると、赤いママチャリにまたがった草壁の姿があった。
「ね!結構二人乗り上手でしょ?」
「たしかに、あんまりグラグラしないんですね」
「これぐらい楽勝ですから」
たまに犬を散歩させている人とすれ違うぐらいがせいぜいという、静かな住宅街を二人乗りの自転車がゆっくりと走った。
後ろの荷台の上で横座りになったゆかりには、真冬だというのに頬に当たる風がむしろ心地いい。真横に投げ出した靴のつま先が時々道の脇に生える雑草に絡まると、水を切るような感触がする。
彼の腰にそっと置いた両手に、運転者の体の躍動を軽く感じる。
冬着越しに鈍く伝わるだけの体の感触。考えてみたら普段親しくはしても、スキンシップというのはあまりないわけだ。二人乗りをするなら普通のことだけど、意識するとそれだけのことがちょっと気恥ずかしいような気もする。
おかしい。まるで男性経験がないひとみたいなことを考えている自分がちょっとおかしかった。
「寒くないですか?」
「平気!むしろ気持ちいいぐらい!」
ゆかりは草壁の後ろで、ヘンにはしゃいでいた。
そのとき、二人を乗せた自転車の前を、まるで獲物でも追いかけているみたいな勢いで飛び出してきた猫が横切った。
「うわっ!」
驚いた草壁が大きくハンドルを切ってネコを避けた。
いくら二人乗りが得意と言っても、二人乗りのために重心が大きくずれている自転車はしばらく止まりかけの独楽みたいに二度三度大きく、その身をうねらせた。
「キャッ!!」
と小さく叫んで、ゆかりは思わず知らずに前の彼の背中にしがみついた。
急にわき腹をきつく締め付けられたと思ったら後ろの彼女が必死になって自分に抱きついてきた。草壁のほうはネコ以上にそれに驚いた。
「だ、大丈夫ですか!?」
なんとか、ペダルを止めることもなく自転車の制御を取り戻すと再び何事もなかったかのように、ママチャリは夜の町を進む。
しかし、後ろの彼女はピタッと背中に抱きついたまましばらくジッと黙って抱きついたままだった。
そのとき彼女の様子が急に変わった。
ちょっと前まで上機嫌に声を上げていた彼女の不思議な沈黙。
やがて、背中に押し付けられた彼女の頬の辺りが軽く震えていることに気づいた。
”友達同士でも、義理チョコって言えば簡単なことを、チョコレート一つ渡すのに、まわりに気を使わないとできないなんてどんな関係なんですか!!”
”もはや友達ですらないんじゃないんですか?!”
(泣いている?!)
ゆかりが言葉を詰まらせるようにしながら、口を開いた。
「ごめんなさい……チョコレート、作ろう……としたら……失敗しちゃい……ました……ごめんなさい」
彼にはゆかりがなぜ泣いているのかはっきり理由は分からなかったので、ただゆっくりとペダルを踏みながら簡単にこう答えた。
「いいですよ、そんなに無理しなくても」
「やっぱり……チョコレート……欲しいですか?」
少しくすぐったいような締め付けをわき腹に感じながら、草壁がそっけなく
「どっちでもいいです。それより、危ないから、そのままちゃんと捉まっててください」
こう言うと、後ろの彼女は
「はい」
と小さく返事をして、背中を抱きしめる両腕にさらに軽く力をこめた。
赤いママチャリは冬の夜道をゆっくりと進んだ。
ハンドルを握る彼がわざと遠回りしていることは、背中にしがみついている彼女も気が付いたが、何も言わずそのまま二人きりのクルーズに身をまかせた。
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「へえ……これゆかりちゃんの手作りかな?綺麗に作ってあるし、味もうまい!」
ちょうどその頃、車中でゆかりからもらったちょっと遅めのバレンタインチョコを齧っていた藤阪は包みを開けて思わず感心してしまっていた。
丁寧にラッピングされた赤い箱を開けると中には、ずれないように隙間を埋めたパッキンに包まれて巣の中の鳥の卵みたいな丸いトリュフチョコが綺麗に並んでいた。
ガナッシュに、ミルクチョコ、ホワイトチョコ、ストロベリーチョコ。
表面には色違いのチョコの糸をまとわせたり、ココアを振ったり。大理石の色見本のカタログみたいな華やかさ。
手作りならこれは多分、相当手が込んでいる。
「けど、これなんなんだろう?」
手をチョコでべとべとにしながら、次々とそれらを口の中に放り込む藤阪には、一つ意味不明なものがあった。
それは、箱に入っていたメッセージカードである。
花のあしらいをフチにまとわせた白いカードの中に一言「ごめんね」と書いてあるのは、バレンタインに渡せなかったことのお詫びだとして――。
その横にゆかりの手書きらしい、小さな自転車のイラストが添えてある意味って?
第45話 おわり




