第43話 すみおさめ
物語は1月も終わろうとする頃の話である。
草壁もついに双葉荘でのアルバイトを終えようとしていたそんな時期。
都会とは言っても、厚い雲が空を覆ったと思ったら、雨ではなく白い雪の欠片が舞い降りるようなこともちょくちょくあるような時のこと。
洗い場から草壁が抜けたあと、あの未だに使えないダメバイト3人組だけでは心配ということで、ついに新入りのバイトがやってきた。
草壁より一つ年上のフリーターだと言って紹介されたのは、見た目普通の大学生みたいな男子。
彼について特に語ることもない。
フリーターとしての職歴をいろいろと経験しているせいもあるのか、勤務初日から緊張した様子もなく、大人しく仕事をこなした。
それはいいが、忙しいとかなんとかという割といい加減な理由で、若女将のほうから
「今日からバイトに入る彼だけど、料理長と仲居頭の二人には草壁クンのほうから紹介しておいてあげる?」
とそんなことまで頼まれて、最後の最後までそれか!とあきれる草壁だった。
普通、それは若女将の仕事でしょ?
新入りの社員をを部長や課長のところに連れて行って紹介するのが、やっぱり新入社員ってどういうことだよ?
と思ったが言われたものは仕方ないので、この新入りバイトをつれて板場と仲居頭のところへ顔を出した。
「あら草壁クン、やめちゃうの!?」
とまず仲居頭がひどく驚いていた。どういうことだと思ってたら。
「私、草壁クンってここの社員かな?って思ってたから。バイトだったのね、あなた」
ときどき普段着のまま皿洗いの仕事にだけやってくる男をどう見たら社員と思ったのか不思議だったが、草壁はあんまりそこのところは突っ込まずにただ笑ってやりごした。するとこの仲居頭が
「けど、若女将もいいかげんあの3人組、入れ替えたらいいと思わない?ねえ!あなたのほうから、若女将……いや、こういうのはやっぱり女将のほうがいいかな?うん、女将にに直談判してみたら?」
なんでそんなことをただのバイトがしなきゃならないんだ?っていうか、あんたがすればいいだろ、なんでこっちに振る?
なんて、新入りの前で仲居頭がつまらない事を言うものだから、そこを辞した後すかさず。
「草壁さん。さっきの人の言ってた『あの3人組』って誰のことですか?」
と聞いてきた。ちょっと心配そうだ。そうだろう。
「まあ、一緒に仕事したら分かります。言っとくけど、僕がいなくなったら、洗い場のリーダーだからそのつもりでよろしくお願いします」
「はあ?いきなりリーダーですか?」
「『あの3人組』では絶対無理なんで」
「はあ……」
ついで、厨房の料理長のところへ挨拶に行った時も似たようなことがあった。
「何?草壁クン、やめちゃうの?ずっといると思ったけど。残念だなあ。君はやめるの惜しいよ」
皿洗いのバイトというわけで、実はあんまり口を聞いたことのない料理長からそんなことを言われてちょっと驚いた。
厨房という小さいがかなり厳しい縦社会の中じゃ、そこの料理長と皿洗いのバイトと言ったら、まさに社長とバイトぐらいの立場の差があるわけで、普段親しく口を聞くこともなかったが、名前を覚えてもらって仕事ぶりまで一応評価してもらっているらしいのが意外だった。
草壁がついて指導できる時間もわずか。
一応新入りのために、細かい仕事の手順や気づいたことなんかをノートにまとめて新入りに渡したら、彼は「草壁さん、字は綺麗なんですね」
と言って感心しながらそのノートをめくっていた。
「字は」って、どういうことだよ!
それとはちょっと話がそれるが、ちょうどそんな頃のちょっとしたエピソードを一つ。
ある日のこと。
夕食の準備も終わり、食べ終わった客の皿がリフトで降りてくるまでのちょっとした休憩時間のことである。手早く旅館用意の仕出し弁当を食べ終わった草壁が、一人でお勝手口から外の裏庭に出てみた。
暖かい季節なら、ちょうど沈む夕日を見ながらちょっと涼んでいるのも悪くないが、冬場はあたりも暗いし、寒い。
普通、もうこんな時節に外で休憩を取るひとはいない。草壁だって特に用事があったわけじゃない。ここ数ヶ月の間通った職場の見納めという程度である。
それに外に出てみたら、すぐ目の前にはあのオンボロ寮が見える。
もしゆかりさんがいるなら、ちょっと話でもしようかな?なんて考えたりして。
すると、外の宵闇の中で、小さな赤い火の球が揺れているのが見えた。
ん?と思ってよく見たら、誰かがこの寒い中、裏庭の真ん中で一斗缶に腰掛けてタバコを吸っているのだった。
夜の闇に、白衣の色を薄く浮かび上がらせて一人タバコをそこで吸っていたのは、草壁のルームメイトのオッサン、ツルイチさんだった。しばらくの間厨房の手伝いに入っているこのオジサンが調理の仕事も終わった今、一人闇夜の中でタバコをくゆらせていたのだ。
「この寒いのに外で休憩ですか?」
「タバコ呑みには、つらい世の中です」
ツルイチさんは、かなり薄くなった頭をちょっと上げて、大きくタバコの煙を吐き出した。
このオジサン、だいたいいつもニコヤカである。愚痴ってはいても、何かすっかり諦めているみたいな笑顔で静かにつぶやいた。
そういえば、このオジサンがタバコを吸うということは知っていたが、部屋でも一切タバコを吸っているところを見たことがない。多分、同居している長瀬亮作も草壁もともにタバコを吸わないので、気を使っているのだろう。
考えてみたら、あの部屋に灰皿は多分ないと思う。
普段はパチプロのこのオジサン。大体毎日のように打ちに出掛けているみたいだが、パチンコ屋が終わったあともどこかで飲んでいることも多いらしく、帰宅は草壁もすっかり部屋でくつろいでいるような遅い時間になることもしばしば。そして、ダイニングに寝袋を出して、そこで寝るが、朝は早い。草壁が1限目の授業にあわせて起きだすころには、テーブルで新聞読んでるか、もうどっかに出掛けてモーニングでも食べてるそうだ。
考えてみると、このオジサンと二人で向かい合ってじっくり話したことはあんまりなかったと思った草壁。
別に無理に話すこともないのだが、ちょっと気になったので、このオジサンとゆっくり話してみようかと思った。
一斗缶に腰掛けるツルイチの隣に立って、目の前にあのオンボロ寮のゆかりの部屋が常夜灯の明かりで薄茶色にぼんやりと光っているのを見つめながら、草壁が問いかけた。
「ツルイチさんが、以前にここで働いていたのって、いつごろなんですか?」
草壁の足元で、ツルさんも目の前の寮をじっとみながら答えた。
「もう、随分と古い話ですよ。ちょうど今の女将がここに嫁いできた頃にここにいましたからね――」
そこまで言うとこのオジサン、草壁のほうをちょっと見上げて笑った。
「――それで、『古い』なんていうと、女将に失礼ですかな?」
ツルイチのそんな言葉を無視して草壁が聞いた。
「女将の若いころのことを知ってるんですか?」
「まあ、知ってるというほどのことではないですがね。そうそう、若いときは綺麗な方でしたなあ――」
そして、また再び草壁を見上げて、ニコッと笑った。
「――いや、もちろん、今でも充分に綺麗な方ですがね」
「ここに居ない人に、そんなに気を使って喋ることないでしょ!!」
そんなこんなでいちいち話が途切れると、聞いているほうがまどろっこしい。
それからツルイチさんはその当時のことを振り返って、草壁に話してくれた。
「あの当時、旅館を仕切ってたのが亡くなった大女将でした。ま、私が居た当時から大女将って言われてた人で。この人は厳しかった。何しろ、当時まだ厨房の若手だった私なんかでも、なにかあるととっつかまって、お説教ですよ。白衣の下のシャツの袖がだらしないとか、歩き方がなってないとか。あの頃の料理長っていうのも、名の通った料亭で働いていたっていう腕利きを大女将自ら引っ張ってきましたが、そんな人相手にだって、味付けが気に入らないとか平気で説教してましたね。それで、言うことが正しいものだから、簡単に反論できない。
ある日、こういうことがありましたね。
宿泊客に出す新しい料理の味見を大女将がすることになったんですよ」
「へえ……そういうことするんですか?」
「しないところもあるでしょう。料理のことは料理人に任せて口は出さないっていうところもね。しかし、あの当時のここは違ってました。大女将が首を縦に振ってようやく、ゴーサイン。勝手なことは許さないっていう」
「今もここはそうなんですか?」
「今は違うみたいですね。なんでも今の若女将の時にやめたらしいです」
「そうなんですか……」
ということは、レイコが仕切っていた頃はまだやっていたということだろうか?草壁は思ったがそんなこと、ツルイチが知らないかもしれない。とりあえず、黙ってオジサンの昔話に耳を傾けた。
「その試食のときに、ある椀物を料理長が作って持ってったんですな。するとそれを一口飲んで『ちょっと味が薄い』と言って文句をつけた」
「大女将が?」
「そう。しかし、実はこの大女将って方、お酒を飲むんですよ。そのときも一杯引っ掛けてちょっと赤い顔をしながらの試食だったんです。料理人だって、せっかく作ったものを一口飲んですぐに突っ返されてムカッとも来たんですな。『じゃあ、作り直します』って大人しくその椀を下げた」
「ムカッとしたのに?」
「だから、作り直すフリだけして、同じものを知らぬ顔で持っていって『今度はどうですか?』ってとぼけたんですよ。どうせ、分かりもせずに言ってるに違いないとタカをくくって。けど、それを同じように一口飲んだ後、一言『やっぱりちょっと味が薄い』と言って突っ返す」
「ふーん」
「言われた料理人、もう一回同じことをやってみたんですよ」
「つまり同じ椀を3度持ってって味見をさせたと?」
「そういうことです。そしたら、料理人の顔をじろっと睨んで一言『だから、味が薄いって言ってるじゃありませんか。何度同じこと言わせるんですか!』って一喝したそうです」
「怒った?」
草壁がそこで、こんなことを言い出すと、ツルイチは愉快そうに笑った。
「いやいや、怒ってなんかいないんですよ。そうじゃありません」
そう言われて草壁は一瞬、キョトンとなった。話を聞いているとそういうことで雷を落としたという、大女将の怖さを表すエピソードかと思ったのだが、どうも違うらしい。
ツルイチは、3本目のタバコに火をつけると、さらに話を続けた。
「そして、今度は言われたとおり、ほんのすこし味を濃くして持って行ったら。ようやく『そうです。これでいいんです』って即座に頷いた。この話を、私、そのときの料理長から聞いたんですけど、それ以来この方、大女将を一目置くようになったということです」
「へえ……」
草壁が分かるような分からないような顔して相槌を打ったとき、ツルイチが聞いてきた。
「分かりますか?この話の意味」
「え!意味……」
「つまりね。そのときの料理長だって相当な腕の人なわけですよ。その人が最初の味見のときに持ってった椀の味だってまずいものを持っていったわけじゃない。その人がこれでヨシって思ったものを持ってったわけだな。しかし、それがダメだと言う。そして、その人が試してやろうと同じものを3度持ってたのだって、自分の椀の味に自信があったからでもあるわけでしょ?これで悪い訳はないし、普通の人なら分かる訳ないって思ったんです。ところがそれが分かってしまう。そして味付けが変わったらそれもきちんと味わい分けるとね。
味覚の精度というのが常人じゃなかった。
例えて言うと、普通のプロが1ミリ単位で分かるものを、あの大女将という方は0・1ミリの精度で測ることのできた人ということですよ。
さっき草壁君は、大女将が怒ったって言ったでしょ?だからアレ違うんですよ。怒るのなら、2度目に同じものを持ってったときに怒るはずです。同じものだって分かってたでしょうから。
けど、そこで知らぬ顔をして突っ返したとき、料理長が自分を試しているってことに気が付いたんです。そして、それを受けて立ったということなんですなあ。
3度目に睨みつけたというのも怒ったんじゃなくて『あんたのたくらみなんか、もう見抜いてるんだから、こんなお遊びに付き合わせるはいいかげんにしなさいよ』ってメッセージですよ。味云々だけじゃなくて、それぐらいの機微はさっと読み取れずに、いい料理人にはなれないわよって言うことです」
なるほど、と草壁は思った。が、正直だからどうした?という話だ。
寒空の下、そんな長話延々と続けられて正直、体が冷えてきた。
このオッサン、白衣だけでよく平気でこんなところに座ってられるよな。
「大女将というのがこういう方でしたから、それは今の女将も嫁いできたときというのは苦労されたようですよ。けど、そういう苦労してるような顔は一切外のは見せませんでしたね。大女将には頭は上がらないようでしたが、普段はきびきびとして、思いやりのある方で。
そういえば、旅館の人間に大女将のカミナリが落ちるときには、いつも一緒になって頭を下げるのがあの当時の女将の仕事みたいなところありましたからねえ。
張り詰めた厳しい大女将と違って、料理長だろうがアルバイトだろうが関係なしに誰とでも気さくに接してましたね。
じきに若いのに旅館の仕事を仕切るようになって……」
とにかく年寄りの昔話というのは長くなるが常らしい。
それはそうと、そのとき草壁があることを不意に思い出した。そこで、ツルイチの昔話が一段落したところでそのことを聞いてみることにした。
それは、ちょうど今、ふたりの目の前に立っているオンボロ寮のことである。
「僕、前にここの人から聞いたんですけど、あの目の前の寮があるじゃないですか?たしか、昔はあそこで寝泊りすれば一人前って言われてたんですって?」
すると、ツルイチが笑って頷いた。
「古いことを知ってますね。……そうですよ。あの寮ね……ちょうど今の女将が旅館を仕切るようになった頃のことですけどね。旅館の敷地の中に寝泊りさせるわけだから、ちゃんとした人でないと、ってことであそこに寝泊りさせてもらえる人っていうのは、女将が目をかけた人だけしか許さなかった。だから、バイトでここに入って、あそこに寝泊りするようになってやがてここの正社員になったって言う人は何人もいましたね」
なるほど、そういう訳だったのか。
話を聞いたらなんのことはないような話だった。しかし、それも今は昔の話。今の若女将が旅館を仕切るようになってからはこんな寮あったって、誰も住みたがらないし、ボロっていっても建物である以上、維持費だってかかるわけだ。
だから――。
「そう言えば、あの寮、取り壊されるそうですね」
「本当ですか?ツルイチさん」
草壁が聞くと、ツルイチはひどく大げさに何度も首を縦に振った。
なぜかちょっと懐かしそうに目の前に寮をじっと見つめたまましばらく、黙り込んでいたが、やがて口を開いたとき、このオジサンが、タバコの話をしたときみたいに過ぎ去った時代を惜しむかのように言った。
「なんでも、経費削減らしいですよ。ここ数年は誰も使ってないみたいでしたからね。
最近は、コストだの経費だのって、よく聞きますな……女将が仕切ってた頃は、事務所以外の場所で、そんな言葉口にされませんでしたが。
ここも、随分変わりましたなあ」
長いツルイチの話の最後に、思わず草壁がくしゃみを連発して、この日の二人の会話も終わった。
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そして、片や長瀬ゆかりのほうである。
その日も、お定まりのトイレ掃除にいそしんでいると、レイコがフラッとやってきた。そして
「お掃除終わったら、うちにいらっしゃい。お茶ごちそうしてあげるから」
と声をかけられた。珍しいこともあるもんだ。ここで働くようになってそんなおもてなしを叔母から受けたことがなかったゆかりである。
お茶をごちそうなどと言うけど、もらい物のお菓子のあまりでも食べさせてくれるのだろうか?
と思ったゆかり、とりあえずこのあとも仕事はあるので、掃除や雑用をするときのいつもの格好である青いツナギ姿のまま旅館を出て、すぐ目の前の葉月家の屋敷へと向かったのだった。
インターホンでレイコと話すと、「玄関開いているから、そのまま入ってらっしゃい」とのこと。
ここ数ヶ月ですっかり馴染みになった葉月家の玄関ドアを開けてリビングに「おじゃまします」と言って顔を出すと、ゆかりの格好を見たレイコが大笑いした。
「まあ!ゆかりちゃん、あなた。その格好でやってきたの?本当にもう……」
最近は厳しく叱られることはなかったが、あんまり打ち解けてもくれなかったレイコが急に、昔のゆかりがよく知っているレイコ叔母さんに戻って笑っていた。
そういえば、叔母から「ゆかりちゃん」と呼びかけられるのも久しぶりだった。
おそらく若女将の芳江は旅館のほうで仕事をしている様子。
他に家人のいない妙に静かな葉月家のリビングテーブルには、すでにお菓子の準備もしてあった。
「そこに座って待っていて」
とレイコに言われて、大人しくツナギ姿のままテーブルにつくと、目の前には漆の光沢がつややかなところに沈金細工で控えめな松葉の模様をあしらった丸皿のうえに、分厚く切った羊羹が、先を軽くぬらした黒文字楊枝を添えて置かれてあった。
「待っててね、今からお茶を立てるから」
ゆかりが席について待っていると、着物姿の叔母が黒塗りの盆を抱えてゆかりの目の前に座った。
見ると、その上にはナツメに匙、茶せん、それにズンドウみたいなストンとしたシルエットの半筒茶碗に、ポットが乗っかっている。
茶道のことはよくわからないゆかりだが、これから濃茶を立てることぐらいはわかった。
そして、叔母が大笑いした理由もわかった。
この格好でお抹茶というのは、相当に間抜けだ。というかマナー違反といわれるかもしれない。
叔母と二人だけ差しで気楽に飲むお茶だから、そこのところは大目に見てくれたのだろう。ここのところずっとゆかりには厳しかった叔母が、笑って許してくれたのもそういうことなのだろう。
レイコはゆかりの目の前の椅子に座ると、
「たまにはいいでしょ?こういうのも。お抹茶もお薄と違ったおいしさがあるから。気軽に飲んでくれたらいいのよ」
と言いながらも、きちんと折りたたんだ袱紗を使って茶碗を拭くところから始まって、ポットのお湯で椀を暖めてから、匙を使って静かに加えた抹茶を静かな茶筅さばきでもって茶を立てて、それをゆかりの目の前に静かに差し出した。
「お茶の作法とか、あなたはわからないでしょ?気にせずにどうぞそのまま召し上がれ」
とてもにこやかにそう言って、お茶をすすめるレイコに、ゆかりもなんとなく釣り込まれるように笑顔になる。とりあえず、一口飲んだあと「結構なお手前です」と、わざと真面目腐った顔で頭を下げた。
「だから、そんなに形式ばらないでいいのよ。私もいっしょにいただくから」
そう言って笑った叔母は、今度は手順とかにはあまりこだわる様子もなく、簡単に自分のためにお茶を立てると、黙って一口それを飲んで。
「ああ、おいしい。今日はいいお羊羹もあるから、それもどうぞ一緒に召し上がれ」
目の前に用意してあった黒羊羹は、たしかにちゃんとしたお茶会に出すにしては、切り方が分厚すぎる。けど、おやつにいただくには、充分満足な大きさ。実はこれ一個百円の一口羊羹とは訳が違う。バッテラ寿司ぐらいのやつが一本六千円とかっていうものだそうで。
「頂き物だけど、おいしいでしょ?」
ちょっと濃厚すぎるぐらいに甘味の強い羊羹だが、不思議と食べたあとしつこいとは感じないのだった。
そんなことは置いといて。
レイコがゆかりをここに呼び出したのはなにも、お茶菓子を二人で食べたかったからじゃないのだった。
ゆかりも、それに気づいていた。やってくるなり自分のことをもう「ゆかりちゃん」という呼びかけに戻っていることになんとなく、ある予感はあった。
そして、レイコから思っていたとおりのことを言われた。
「長い間、ごくろうさまでした。住み込みも、うちの仕事も1月いっぱいであがってもらうわ」
「えっ」
「どうしたの?びっくりしたような顔をして、何か不満でも?」
いきなりの卒業宣言だった。
もちろんいつまでもここに居るわけじゃないのは最初からわかっていたことだけど、突然言われると、なんだか「もう終わりですか?」と物足りなく思う自分に気が付いた。
居たくはないけど。
「私、ちゃんと花嫁修業してたのかなあ?なんて思って」
ゆかりが一人でそんなことを言って考え込むと、その様子を見たレイコが愉快に笑った。
「何?掃除ばかりで何も教えてもらってないって言いたいの?」
「いいえ、そうじゃなくて!」
「フフフフ。あなたならどこへ行っても恥ずかしくない花嫁さんになるわよ。叔母さんはそんなこと心配しなくていいって思うわ」
そこまで口にしたレイコ、そこで、すこし言葉を切ると、じっと目の前のゆかりを見据えて。
「うちのアキラの嫁に欲しいぐらい」
などと言うのだった。
このアキラなる人、レイコの一人息子であり、現在旅館双葉荘の専務という立場でもある。もうお分かりと思うが若女将芳江の旦那でもある。
ちなみに、レイコの旦那が旅館双葉荘の代表取締役社長である。
旅館業の通常業務にはあまり口を出さずに、事務室とは別室の社長室にいることが多いせいで、草壁もあんまり顔を見たこともないのだが。
レイコの言うことを聞いて、ゆかりがちょっと驚いた。
「アキラさんには、若女将がいるじゃないですか」
すると、レイコは急に真剣な表情に変わった。
「あなたさえその気になってくれるなら、芳江さんと別れさせます」
まさか、ここに呼び出したのは、卒業の言い渡しじゃなくて、そんな無茶な話の相談だったの?いや、まさか。ゆかりは軽く笑顔で答えた。
「そんなこわいこと言わないでください」
目の前のレイコの表情は相変わらず厳しかった。
「冗談でこんなこと言うと思う?」
「冗談って言ってください!」
ちょっと混乱してきたゆかり、つい、真面目になってしまった。
そして、そんなゆかりを見てやっとレイコは笑った。
「焦っちゃって……そんなことできるわけないでしょ?」
やっとホッとしたゆかりだったが、レイコの言葉には微妙に引っかかるところがあった。できるわけはないが、できたらそうしたい。まるでそう言っているようにも聞こえたからだ。
するとレイコは、まるで独り言のように静かに言葉を続けた。
「芳江さんも、悪い人じゃないのよ。あれで普通の家庭の主婦なら、倹約上手のいい奥さんだったでしょうね。あんまりこだわりのない旦那さんなら、あれで充分いい女房だと思えるんじゃないかしら?でもね」
ここで、フッと小さくため息をついたのが、ゆかりには分かった。
そういえば時々感じていた、嫁と姑の間にあるなんというか微妙な温度差。芳江はたまにゆかりにこぼすことはあったが、レイコはついぞそういうものを今まで見せたことはなかった。それが、ようやく姑からも垣間見えたのだった。
「旅館を一軒切り盛りして、従業員を引っ張っていく立場っていうのは、それだけではなかなか。
人を使うというのは、その人から常に見られているということなのよ。そこを心がけて行動しないと人はついてきません。立場さえあれば、普段は何とかなるけど、いざとなったときに困るのは自分なの。いつか必ず自分に帰って来るからそれが分からずに人を使っていると、いつか必ず痛い目にあうわ」
レイコには若女将は、まだ将来の女将候補としては頼りなく映っているようだ。しかし、見ていたら心配してはいるものの、どこか諦めてでもいるように、軽く笑みを浮かべているレイコだった。
「ねえ、ゆかりちゃん。人間には躓かなくても分かる人と、躓いて分かる人と、躓いても分からない人がいるけど、あの人は少なくとも第一の人じゃないみたい。
芳江さんはアキラが連れてきたお嫁さんなのは知ってるわよね?
実はいろいろとあったのよ。反対する人もいたわ、ウチの人なんかもね、ついこの前までただの女子大生だった子に旅館の女将なんてつとまるか?って言ってね。
けど、私はもう達観していたのよ。そんなもの、経歴や肩書き、お家柄のいくらご立派な人を連れてきたって、実際にやらせて見なければ、本当に適任かどうかなんてわかりはしないもの。
鉦や太鼓で探しても、居ないものは居ないし、縁があればお付き合いというのも生まれるし。
経営者として無責任なこと言っているみたいに聞こえるかもしれないけど、本当そうよ
だいたい、『この人は』なんて思えるような人、そうそういるものじゃないわ」
叔母はゆかりの前で静かに濃茶を飲みながら話を続けた。
それにしても、と、ゆかりは思うのである。
たまにゆかりに愚痴っていた芳江と違って、レイコがそれを言うと、とても姪っ子程度に簡単に話せるようなことじゃないようなことまで、随分と喋っちゃうものだな、と。
レイコの実姉である、自分の母にでも話しているみたいだ。
自分への信頼の証なんだろうか?
「どこだって、嫁と姑って言うと、難しいところがあるでしょ?けど、うちはさらに輪をかけて複雑なのよ。わかる?」
「あの……家庭でも仕事でもご一緒みたいですし」
ゆかりの言葉に大きくレイコが頷いた。
「そう。そうなのよ。常に一緒。そして、仕事と家庭、別々と言ったって家庭のことで衝突があったら、仕事にも影響はでるわ。人間なんですもの。その逆もまた同じ。だから、なにかと気を使うものよ。特にうちなんかは、私のお義母さんの流儀というのが、亡くなってからも幅を利かせているようなところのある、家庭にしても仕事にしても古くさいところがあるし。
新しいことをしてれば怖いものはないだろうけど、じっとしてればこわいものってのがあるもんだって、分からない人にはわからないでしょうね。
あの人なんかには、時代遅れとか、非効率とかそう思えるのも分からないでもないけど。
本当は色々と言いたい事もあるけど、今は黙ってみているのよ。
あなたも昔、ちょっと顔を合わしたことあるでしょ?私のお義母さんの、ここの大女将って言われた人」
「はい」
ゆかりが頷くと、しばらく何か考え込んでいるような表情で黙り込んだと思ったら、やがてレイコは静かにこう言った。
「私がした苦労を繰り返したくないものねえ……」
ああ、そういうことか。レイコ叔母さん、ここに嫁いできてさんざん苦労したって話は聞いたことがある。
だから、自分の嫁にはそうはしたくないのか。
ゆかりが、ちょっとそんなことに納得していると、急に、目の前の叔母は笑顔になって懐かしそうに亡くなった義母のことを話すのだった。
「けどね、今となってはいい思い出よ。
私のお義母さんはね、私があんまりお利口さんな時が気にいらなかったみたいね。ちょっと、抜けているぐらいがちょうどいいのよ、っていつも言ってたわ。
そのくせ、「あなたは物分りが悪い」っていつも小言。まあ、とにかく難しい人だったわね
けど、いい人だった。今でも良く思いだすわ
お義母さんに毎日、小言いわれて過ごした日がね、今では懐かしいもの。
今、こうして女将なんて、言われているのもお義母さんがいたからだなあって思うわ。
ゆかりちゃんを見ていて、私、なぜかとても懐かしかったわ。
ありがとう」
なぜか、最後に叔母からお礼を言われて頭を下げられると、ゆかりも大慌てになって。「いいぇ!私こそ、叔母さんに色々と教えてもらってお世話になりました。ありがとうございました」
と頭を下げると、叔母は今まであんまり見たことがないぐらい大きな口を開いて愉快そうに笑った。
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そういうわけで、草壁とゆかり、二人揃って1月一杯で双葉荘を離れることとなったのだった。
そして、あっという間にやってきた最後のお仕事の日のこと。
草壁が最後の皿洗いのバイトに入るために、駅を降りて双葉荘へと歩いていたときのことだった。
駅前の通りの信号を2つほど越えたあと、いつものように、一歩路地を入った。最初のころは分からなかったが何度もこの辺りを通るうちに、それがもっとも旅館への近道と思われるルートである。
まだ個人の商店なんかも並んでいるそのあたりをいつもように歩いていると。
「サイフ落ちたよ!」
というすこし舌ったらずな甲高い声が草壁の背後の随分と低いところから聞こえてきた。
振り向くと、赤い水玉模様のジャンパーを着た小さな女の子が草壁のサイフを握って立っていた。
「あ、ありがとう、拾ってくれて!」
草壁がペコッと女の子に頭を下げて自分のサイフを受け取った。女の子の方は「うん」って言って草壁にサイフを渡すと、クルッと彼に背を向けて表通りのほうへスタスタ歩いていった。
ジャンパーの背にプリントされた大きなクマのイラストが表通りへとテクテク進んでゆくのを見送りながら、ちょっとだけ草壁は思った。
(アノ子、一人なんだろうか?親が近くに見えなかったけど。まあ、平気な顔してどっか行っているところを見たら、別に迷子とかじゃないんだろうな。この近所の子なのかな?)
女の子が角を曲がるまでしばらくジッと草壁は見送ったあと、それから何もなかったかのように再び、仕事場への道を急いだ。
やがて旅館に到着した草壁は、本日仕事あがりということもあるので、厨房へ顔を出す前に旅館事務室へと顔を出して、若女将と女将に挨拶をすることにした。
「どうも、短い間ですけど、本当にお世話になりました」
「うちもよく働いてもらって助かったわ」
「何か合ったら、またうちいらっしゃい」
そういって、互いに軽く頭を下げて、じゃあ、僕これから厨房へ向かいますので。と、言いかけた時だった。
「ま、真奈美ちゃん、帰ってきてませんか!?」
そう叫ぶようにして文字通り飛び込んできたのはゆかりだった。
あんまりいい顔色をしていない。顔面蒼白、いや顔色というより、大きく見開いた目とずっと走りっぱなしだったらしくて大きく肩で息をしている様子が尋常じゃないトラブルがあったことをよく表していた。
突然、そんなことを言いながらやってきたゆかりの様子に、若女将も女将も、それだけじゃない、その部屋にいた数名の社員たちも一斉に彼女を凝視していた。
ゆかりが大慌てだったのは、こういうことがあったからだ。
その日、草壁と同じくゆかりも叔母の元での最後のお仕事をこなしていた。
因みに、その日のお仕事というのがこのところのお定まりだった旅館の清掃ではなく、葉月家のお手伝い。
そして、午後からのお仕事というのが、若女将・葉月芳江の一人娘である葉月真奈美ちゃんと一緒に買い物にでかけるというもの。
仕事はごく簡単なものだ。
しかし、ここでトラブルが起きた。
真奈美をつれてスーパーに行っていた時、ちょっと目を離した隙にこの子がどっかに行っちゃったのだった。
しばらく辺りを探したがいない。スーパーに戻ったが迷子らしき子はいないとのこと。
一足先に自宅に戻ったかと思って急いで帰ってみたがそこにもいない。
さあ、大変だ!
ゆかりが事務室へと飛び込んできたときというのがそういう状況だった。
「お義母さん!警察に連絡したほうが」
「待ちなさい!まだ迷子と決まったわけじゃないわよ。真奈美だって知らないところじゃないんだし」
「まさか、誘拐でもされたんじゃ」
「縁起でもないこと言わないの!」
母親である若女将がすっかり取り乱しているが、実は横で見ていると女将のレイコだって目を白黒させているのは見ててわかった。
「僕らも、探しますよ」
見かねた事務所の社員たちが、スッと立ち上がるが、レイコはそれを制した。
「お待ちなさい。あなたたちは仕事があるんだから、そっちが優先よ」
「しかし、このまま放っとけませんよ」
横で見ている草壁もエライことになったと思っていた。
自分もお手伝いしようか?しかし、そういえば自分はその真奈美ちゃんって子をまったく知らない。そこで、草壁は、動揺で泣きそうな顔をしているゆかりに聞いた。
「僕も、探しますよ。で、真奈美ちゃんってどんな子なんです?」
「あっ、えっと、えっと、わりと人見知りしなくて、おしゃべりで、おてんばさん……」
「僕は、服装のこととか聞いてるんです!」
なんとゆかりから聞いた今日の真奈美ちゃんの衣装っていうのが、背中に熊の絵の書いてある水玉ジャンパーだって言うじゃないか!
「それ、赤の水玉ですよね?」
「えっと、どうだったかな?赤に白の水玉じゃなかったかな?あれ?どっちだったかな?やっぱり白に赤の水玉だったっけ?」
「赤に白だったはずよ」
ゆかりが悩んでいると芳江がすかさずそういった。母親が言うなら間違いないかと思ったら、それを聞いたレイコが
「何言ってるの!白地に赤よ!しっかりして!」
祖母が違うことを言う。
っていうか、ここでそんな話延々としてるわけにはいかない。間違いない!アノ子が真奈美ちゃんだ!
「ちょっと僕、探してきます!」
これ以上服のことを聞いても無駄と判断した草壁は、そういい残すと、旅館を飛び出した。
先ほど、真奈美と遭遇した地点まで草壁の足でものの2分もあれば到着した。が、ターゲットがそこにジッとしているわけもないだろう。しばらく、あたりをキョロキョロしながら赤い水玉のジャンパーと熊の絵柄を探してみたが簡単には見つからなかった。
まず、手当たり次第に表通りに飛び出したあと、開いているお店に飛び込んでクマの絵のある赤い水玉ジャンパーの女の子がこのあたりを通らなかったか?とたずねてみたが、誰も首を横に振るばかり。
時間としては、小さな子の足でもちょっと離れたところに行ってしまってもおかしくない。
しかし、別れたあと、あの子がどの方向へ向かったのかも見当がつかない。
「まいったな……交番に行っておまわりさんにちょっと聞いてみるか」
そう思っていたときだった。
「サイフ落ちたよ!」
行きの道すがら、掛かった声と同じ響き。
ぎょっとなった草壁が後ろを振り返ると、さきほどと同じく草壁のサイフを持った真奈美ちゃんが突っ立っていた。
またサイフ落としたということより、なんとか真奈美と出会えたことの安堵で、思わずのけぞるほど大きなため息が漏れる草壁だった。
目の前でサクランボの髪飾りで止めたツインテールを揺らして、本日二度目のお財布を拾ってあげた男を不思議そうに見上げているこの赤いほっぺの子は多分、自分が迷子になったことを自覚していない様子だ。
まあ、とりあえずはこれで一件落着か。
両膝の上に手をついて、真奈美ちゃんのほうへ頭を下げた草壁がとりあえず確認のために
「あなたは葉月真奈美さんですか?」
と聞いてみた。
すると、向こうは草壁の顔をジッと見ながら
「うん。なんで知ってるの?」
と聞いてくる。まあ無邪気なこと。
「おにいちゃんは、ゆかりちゃんの知り合いだからです」
「ゆかりちゃんの?」
「そう」
それでも依然として不思議そうに草壁のことをジッと見ているだけの真奈美。とりあえず、草壁が手を差し出して
「一緒に帰ろう。ゆかりちゃんが探してるよ」
というと、真奈美は大きくかぶりを振った。
「イヤ」
「どうして?」
「知らない人についていっちゃいけないって、お母さん言ってた」
はい。そのとおり、真奈美ちゃんそれでいいんです。
旅館から、再び真奈美と遭遇したこの駅前通りのとある場所まで、ゆかりが全力疾走して多分3、4分だと思って、真奈美といっしょにその場でジッと待っていると、草壁からの連絡を受けたゆかりが、えっ、まだカップヌードルできませんが?っていうぐらいの時間でやってきたのはちょっとした驚きだった。
草壁が一緒に帰ろうと言ったときには、不審げに首を横に振った真奈美ちゃん。
だが、じゃあ、ゆかりちゃんを呼ぶから、それまでここで一緒にまっててくれる?というと案外素直に頷いた。
あんまり人見知りもしないせいか、通りの脇の植え込みのフチに二人で並んで腰掛けて
「スーパーでお姉ちゃんのところを勝手に離れてどうしてたの?」
と聞くと
「犬を追いかけてた」
と言うのだ。それから猫を追いかけているところで、草壁のサイフを拾ったあと、今度は鳩を追いかけているときに再び草壁のサイフを拾ったらしい。
そのうちこの4歳児は、お母さんの言いつけどおり最初は草壁にちょっと警戒しているようなところがあったが、すこし話すようになると、やがて警戒心なんてどっか行ったみたいに、あれこれと草壁に質問してきた。
「お兄ちゃんはゆかりちゃんのお友達?」
「うーんと彼氏」
「彼氏?」
「恋人」
「恋人だったら、チューとかするの?」
「ときどきね」
「ふーん。なんでゆかりちゃんを知ってるの?」
「恋人だからだって言ってるじゃないの……お兄ちゃんも双葉荘で働いてるんだよ」
「じゃあ、お母さん知ってる?」
「若女将のことでしょ?知ってるよ」
「じゃあ、お兄ちゃんも今日来るの?」
「何に?」
「今晩、おうちでしゃぶしゃぶするんだよ。ゆかりちゃんといっしょに」
「わあ、いいなあ、おいしそう!」
「お兄ちゃんも来る?」
「いいなあ、お兄ちゃんも行きたいなあ」
「じゃあ、来たらいいよ!」
「あははは。お招きに預かって光栄です」
そんなことを話していると、息を切らしてゆかりが到着したのだった。
第一声に
「真奈美ちゃん。今日はひとりでお散歩ですか?」
と言ったとき、なんとか笑顔になろうとしながらも、潤んだ目が泣きそうになっているのが草壁にはわかった。
さっそく双葉荘にまで帰ると、レイコも芳江も泣き出さんばかりの勢い。
「よかったわあ、ちゃんと帰ってきてくれて」
祖母のほうは、ただただ胸をなでおろすばかりだ。
「コラッ!一人で遠いところに行っちゃダメっていっつも言ってるでしょ!」
と厳しく叱るのはさすがに母親らしい芳江。
そして、真奈美発見の最大の功労者である草壁は何度も二人から頭を下げられたのだが、あんまり何かをしたという自覚もなかった。
なんでかしらないが、財布を二回落としただけのことである。
真奈美が拾ってくれなければ、多分、サイフも、真奈美も見つからなかったと思われる。
「いいえ。こちらも、真奈美ちゃんにサイフを拾ってもらって助かりました。真奈美ちゃん、ありがとう」
草壁がそういって真奈美に微笑むと、真奈美は無邪気に
「どういたしまして」
という、相手から『ありがとう』と言われたときに返すようにと親から教わった定型句を言う。そこはお利口さんだが、この場合、微妙に答え方が間違っている。
「こらっ!あなたもちゃんとお礼を言わなきゃダメでしょ?」
と芳江から叱られていたりするのだった。
「草壁君には、すっかりお世話になっちゃったわね、最後の最後まで。何かお礼がしたいけど、何がいい?」
旅館事務所で、レイコからそんなことを言われた草壁
「いいえ。僕、たいしたことしてませんし、御礼なんて大げさですから」
と遠慮した。事実、お礼をされるほどのことはないと思っていたし。
すると、そばでその話を聞いていた真奈美が突然
「お兄ちゃんもシャブシャブ食べたいって言ってたよ!」
と大きな声を上げた。
「しゃぶしゃぶ……真奈美、あなた今晩のこと草壁クンに言ったの?」
「うん!そしたら、お兄ちゃんも食べたいって!」
「あっ!それは。僕もおいしそうだなあとか、言いましたけど」
「草壁クン、今晩仕事だもんねえ」
若女将はそっけない。だから無理だとさっさとこの話にケリをつけようとする。だいたい、お礼と言いだしたのはレイコのほうで、芳江からは別にそんな話は出てない。
が、レイコは、なぜかシャブシャブの話から簡単に引き下がらなかった。なんとか彼を呼びたいみたいな様子。
「それはそうだけど、洗い場なんとかならないかしら?」
「今日は、あの3人しかいないから、まだ任せておくのは無理だと思いますよ」
「それは分かってるわよ。誰か代わりに入ってくれる人、居ないかしら?」
「もう、じきに仕事が始まるこんな時間に捉まる人なんて居ませんよ。お義母さん」
そのやりとりをそばで黙って聞いていた草壁が、そこでおもむろに口を開いた。
「あの……うまくいくかどうか分かりませんが、交渉してみましょうか?」
皆が見守る中、そう言った草壁は、横で立っているゆかりに向かって軽く頭を下げた。
「こういう役は僕より適任だと思うので、とりあえず交渉お願いします」
「な、何のですか?」
「僕の代役を引っ張り出してきてもらう交渉の、です」
「それを、なんで私がしなきゃいけないんですか?」
「今日の件に関しては、ゆかりさん、僕に借りがありますよね?」
平然と草壁が言うのだった。
やっぱり、しゃぶしゃぶは食べたい。
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というわけで、その日の葉月家の晩御飯と相成った。
旅館も繁忙期で客が一杯という時にはあんまり悠長なこともしていられないが、今日みたいに暇な日には、旅館の業務は他のものに任せて、一家揃って夕食の食卓を囲むということも、たまにはあるのだった。
ましてや、今日は長い間ここでがんばってくれたゆかりの送迎会というちょっと特別な日でもある。
社長とその妻レイコ、そして長男である専務夫婦のアキラと芳江にその娘の真奈美という一家五人が勢ぞろいして、シャブシャブパーティーとなった。
もちろんこの家だって、収入という点に関しては一般庶民とはちょっと違う。
地元では評判のちょっとした温泉旅館のオーナー一家なわけで、正直な話、お金は持っている。
鍋がぐつぐつ言っている目の前に用意された肉は、いわずもがな最高級5Aランクだ。サシの入り方が大理石みたいに全部均一。
喧嘩しないように、各自目の前に一人前ずつ用意されているのだが、大皿の上に大きな牡丹の花みたいになって盛り付けられているお肉の量もたっぷり。
「急に僕が御呼ばれしちゃったっていうのに、こんなにいっぱいお肉があることに感激です」
しかも一枚が結構大きい。お昼のおっことした草壁の長サイフより一回りも二周りも大きい。それを立て続けに、2枚、3枚とダシの中でシャブシャブやったところで、お皿の肉の量に見た目大きな影響がない。
これなら、腹いっぱい高級肉を食べれそう。
「変なことに感心しないでよ。お客さんをおもてなしするのに、ケチケチしたことできないでしょ?」
はい、ブルジョアさんはそうでしょうね。庶民は、いかにコストを削るかを計算します。すみません。
「しかし、草壁クン。君も図太いというか、なんというか。割と平気で他人の家の夕食にやってくるんだな」
「あっ、そうですか?だって、同じシャブシャブって言ったって、社長のうちのシャブシャブなら絶対、高い肉に違いないと思いましたし……もう、思ったとおり、すごいいい肉で感激してます」
「ハハハ。まあ、君には旅館のほうでもお世話になっているって、評判も聞いているから、まあゆっくりしていってくれ。ビール、どうだ?一杯」
「あっ、すみません」
そう、あのあと、草壁はちゃっかり葉月家の食卓にお邪魔していたのだった。
おそらく一番驚いていたのは、草壁の隣で、サイドディッシュのお刺身を食べているゆかりだろう。
(この人、案外図太いところあるわね……まるで、私よりこのうちになじんでるみたいにして、遠慮しないんだから)
考えてみたら、草壁にとっては旅館の専務であるアキラも社長のほうも、ほぼ初対面である。
いずれもチラッと顔を合わせた程度。
実は、家に戻ってきたらたしか今日でやめるというバイトが客として座っていたのには、旦那連中のほうが驚いた。
「まあ、でも今日は草壁クンには改めて御礼を言わせてもらうよ、どうもありがとう」
そう、芳江の旦那のアキラとも口を聞くのは初めてであった。
いつもスーツ姿をしている。見かけるといつも異様に背筋をピンと張って颯爽と旅館を闊歩する、まだ20台の若者である。
話すといつも、ハキハキとやや早口に受け答えする人だった。
機敏とも言えるし、若干、セカラしいとも言える。
シャブシャブパーティーのことと言って特別これという事件があったわけではなかった。
ちょうど厨房では洗い物の山にバイトたちが追われているような時間に、みんなで高級肉を食べただけのことである。
ただそのとき、草壁のお調子者っぷりのためにちょっと、草壁とゆかりが大慌てした出来事があった。
「そういえば、草壁クンはゆかりちゃんとお隣さんなんだって?」
社長からそんな話を振られて、草壁が軽く頷いていると、芳江の隣でお母さんに小さくちぎってもらったシャブシャブ肉をゴマだれの取皿の中で、一生懸命、ぎこちない箸使いでかき回していた真奈美が突然大きな声をあげた。
「恋人なんだって!」
「ええっ!」
一斉に、驚きの声が上がる。
「チューしたんだって!」
皆の注目を浴びてご機嫌な真奈美はさらに大きな声を上げるのだった。
「ち、ち、違うんです。あれは真奈美ちゃんにちょっと冗談で言ったことをそのまま言ってるだけで!」
「そ、そうです!私たち、べ、別にそんな関係じゃありませんから!」
草壁とゆかりの二人が度を失って叫んだ。
「4歳の子の言うことを、そんなに真面目にとっちゃいないわよ……それより、お肉召し上がったら?固くなっちゃうわよ」
二人の様子を不思議そうに見ながら、レイコはあきれるしかなった。
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お客さんを招いてのシャブシャブパーティはその後、デザートにみんなでメロンを食べておひらき。
時間としては、ちょうど洗い場の仕事が終わろうかという頃である。
パーティーとしてはちょっと早い進行だが、葉月家の人間には、旅館での業務の締めというのも待っているのであんまり落ち着いても居られないのだった。
草壁以外、ほとんど酒に手をつけることがなかったのもそのせいである。
そして、草壁とゆかりの二人はどうしたか?
実は二次会みたいにして飲み会を行ったのだった。
場所は、あのオンボロ寮のゆかりの部屋。葉月家での鍋から随分と落差の大きな会場である。因みに参加したのは、ゆかり、草壁、ツルイチに、あや。
なぜ、ここに辻倉あやがいるのか?
簡単なことだ。本日本来なら洗い場に入るはずだった草壁が葉月家のディナーに顔を出せるように、代役として洗い場に投入されたのが彼女だった。
草壁の依頼を受けたゆかりが「あやちゃん、お願いだから、今から双葉荘の洗い場に入ってくれない?草壁さん急用ができて手が離せなくなったの!」と頼まれた。親友の頼みだから仕方ないということで、その場でアネモネのエプロンを脱ぎ捨てて双葉荘に駆けつけたのだった。
ちなみにツルイチは、ゆかりと草壁が洗い物のすんだ厨房に顔を出したとき、そのヘンをウロウロしていたのでついでに声をかけたら、ホイホイついてきた。
全員で手分けしてひとっ走り。
お酒とつまみを買って。
とは言っても、もう夕食を食べてしまっている。特にゆかりと草壁は高級しゃぶしゃぶをさんざんっぱら食べたあとなので、おつまみって言っても簡単なお菓子ばっかりがそろった。
ゆかりの部屋のちゃぶ台には、ベビースター、一口カルパス、チーザ、イカフライ(もちろん、齧るとパリっていうあの駄菓子のやつだ)、スモークチーズ、チップスター、プリッツ。
甘いものだって忘れちゃいけない。ポッキーときのこの山、m&m’S……
彩りだけはすごい派手だが、ものすごい安っぽいおつまみをつまみながらの飲み会。
それにしても驚いたのは、この場にまじったツルイチさんが、やっぱりギターを持ってやってきたことである。
「なんで、そんなものここにあるんですか?」
と草壁が聞いたところ。
「これですか?私、元々、この旅館のスナックでギター演奏のアルバイトを時々してるんですよ。だから、このギターも旅館に置いてあるものです」
そうなのか……たまに帰ってくるのが遅いときってそんなことしてたりしたのか。
だから、厨房の料理人のピンチヒッターみたいな話も来たというわけらしい。
そしてさらに驚いたことがあった。
飲み会も盛り上がると、いつものようにこのオジサンのギターに合わせて一曲歌おうか?なんてなったときのことだ。
「じゃあ、あれやってみようか?」
と言いながら、ゆかりとあやが狭いワンルームの片隅立ったと思ったら、素朴なギターの伴奏に合わせて、新しいデュエット曲を披露したのだった。
多分、近々スナックの客の前でやるつもりらしい。
なぜなら、歌だけじゃなくて、振り付きで最後まで息ぴったりに踊りきってのことなのだから。
とはいえ、なにぶん古い歌。最初っから最後までのすべての歌の振りはわからなかったという。
「ユーチューブとかで調べてみても、はっきり分からないところが多くて」
「だから、分からないところはオリジナルで振りをつけました」
ゆかりとあやが、あとでそんなことを言っていた。
どうでもいいが、あやは置いとくとして、ゆかりによくそんな暇があったものだ。この二人いつのまにレパートリーを増やしていたのだろう?不思議だ。
サプライズという意味では、そんな二人の歌の歌い終わりで、さらに驚くべきことがあった。
相当練習も積んだ様子の二人が、まるで、ライブ会場で歌っているみたいにして狭いワンルームの畳の上で息もぴったりに踊り、最後の止めのポーズも決めた時である。
”パチパチパチ”
ちょうど窓の外から、木でもはぜるような乾いた音が連続して響いてきた。
「ん?窓の外で何か音がしているけど」
ゆかりがそう言って、窓辺に近づいてカーテンを全開にしたところで、見事に彼女は固まった。
「お……叔母さん……」
ゆかりの部屋の窓の外では、女将のレイコが暗闇の中一人立って、こっちにむかって拍手していたのだった。
「レイコ叔母さん、何やってるんですか?こんなところで」
ゆかりが窓を開けて、外の叔母に声を掛けた。
「上手な歌声が聞こえてきたから、聞かせてもらってたのよ。踊りもチラッと見えたけど、お上手ね」
「あっ、見てたんですか?」
「ええ――」
ゆかりが、驚いていると、レイコは急に真顔に戻って、こう続けた。
「――けど、これじゃあ、修行前とあんまり変わってないみたいねえ。このままあなたを帰しちゃったら私、姉さんに叱られるわ。ぜんぜん進歩がないって。やっぱり、もうちょっと期間延長しようかしら」
「えっ!!」
そんなレイコの声が聞こえてきたので、部屋の中の一同が驚いた。
すると、途端に笑顔に戻ったレイコが一言。
「冗談よ」
と言って笑うのだった。
その後、歌のほうも一段落すると、ツルイチからこの寮も近いうちに取り壊されるという話を聞いたゆかりがポツリとつぶやいた。
「ということは、今晩ここに泊まる私が、この寮の最後の住人なのかな?」
「そうかもしれませんね。僕らがこうやって、最後の夜に飲み会できたのも、なんだか、ちょっと感慨深いですね」
そうして、このオンボロ寮の最後の客人たちの宴の夜は更けていった。
第43話 おわり




