第41話 あーん
気が付けば、年も明けてそろそろ学校が始まろうとしている1月も上旬のころの話である。
前回、たかが絵馬の願い事程度で、ゆかりが随分と大げさなリアクションを見せたが、正直草壁にとっては、彼女の本音を掴みかねていた。
本当のところ、自分に気があるのか?それとも本当にただの友達程度にしか思っていないのか?
ゆかり自身は現在フリーで誰ともお付き合いはしていません、っていうスタンスだ。
それなら、別に仲のいい男友達と一緒にお出かけぐらいはしてくれてもよさそうなのに。
しかも、こっちが他の女の子と仲良くしていると明らかに不機嫌になるというのに、追いかければそっぽを向く。
本当に扱いづらい女性だと草壁も悩んでいた。
そんなときのこと。
「この前のお見舞いのお礼です」
と言って、ツルイチさんから近所のスポーツセンターの入場チケットをペアでもらった。
前回の話でちょっと触れたが、年明け早々に痔の手術で短期入院していたこのルームメイトのオジサンをお見舞いしたことのお礼なのだそうで。
「あっ、すみません、あんなちょっとしたお見舞いにこんなお礼してもらって」
「いや、いいんですよ。亮作君も彼女と一緒に行くって言ってましたよ。草壁さんも彼女でも誘ってどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
最後の一言が余計だと思いながら、とりあえず草壁もそのスポーツセンターのチケットをありがたくいただくことにした。
そこで、考えることは一つ。誰を誘うか?
もちろん、ゆかりを誘いたい。
けど、大いに予想できる結果は、「ノー」という返事だろう。
こんなところ一人で行ったってあんまり面白くなさそうだし。
ツルイチからもらったチケットを目の前に草壁は一人悩んでいた。
ところで、大学が冬休みに入る頃から、双葉荘の仲居のバイトに入ることになった辻倉あやのほうは、もうその頃には、約束のバイト期間も終わりに近づきつつあった。
彼女はだいたい何をやらせてもソツなこなす子なので、取り立てて双葉荘でのことに触れなければならないような事件はない。
ないのだが、そのうち一人前に客室サービスも単独でこなすようになっていた彼女がときどき困ってることがあった。
チップ。である。
実はここ双葉荘では、個人的なチップや心づけは受け取っては成らないことになっている。
これは、客室の机の上におかれている旅館のパンフレットに大きく明示されているし、また、そういうものを渡されても断るようにというのが指導されている。
とは言っても、出す客はいる。
で、あやの場合である。
他の仲居さんはどうか分からないが、チップを出されるときちんと断る。
そういうシステムなので、というと、家族連れなんかは財布を握る奥さんがあっさりと引き下がってくれる。あっそうですか、チップ渡さなくていいなら、その分助かるわ。ってな感じであっさりと済んだ。
ところが、これが男性客だけの一行の場合、かなりしつこく受け取らせようとするらしい。
「お姉さん、固いこと言わないでも黙っていたらバレないだろ?バレたらクビにでもなるの?何、冬休みだけのバイト?だったら、なおさら後のことなんか気にすることないじゃないか!さあ!ほら!」
こういうオトウサマ方は、必ず調子のいいことを言いながら、さりげなくあやの手を握って、彼女が受け取るまで放してくれなかったりする。
どさくさに紛れて手を握っているだけみたいなことがちょいちょいあった。
そんな押し問答を延々とやるので、仕事が遅いわけじゃない彼女が客室から帰ってくるのが人一倍遅くなることがよくあるそうなのだ。
「もう、辻倉さんがげっそりした顔で帰ってくると、『また?』って言って大笑いですよ」
あやの一応の上司でもある仲居頭からそんな話を笑いながらされた若女将の芳江と女将のレイコの二人の反応は微妙に違っていた。
「律儀な子ね……」
ちょっと呆れ顔なのが、実は堅そうな女将のレイコで。
「いいことですよ、こういうことはキチンとしておくに限りますよ」
と、深く頷いていたのが若女将の芳江だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ちょうど、大学も始まるような時期、あやのバイトも終わりに近づいてきたような頃のちょっとしたエピソードである。
連泊客の少ないこの旅館では、チェックインの客がまだ来ない早い時間では、ロビーにも人が少ないものだ。
バイトの人間でも、そんな時間ならロビーのソファーの片隅で休憩をとることもある。
その日、そんな時間のロビーのソファーでは、草壁、ゆかり、あやの3人が揃って座って、自販機で買ったお茶を飲みながら休憩をしていたときのこと。
「あら、3人揃って楽しそうね」
たまたま通りかかった女将のレイコが、そう言って3人のそばにやってきた。
若い人ばかりで何話しているの?なんて言いながら笑顔で近づいてくると。
「そういえば、あやちゃんはもう今日で上がりなんだっけ?バイト」
「はい、短い間ですけどお世話になりました。あっ、それと、お昼、ごちそうさまでした」
「こちらこそ、無理言って引っ張り出してきて悪いなあって思ったからちょっとした御礼よ」
レイコとあやのそんなやりとりを聞いていたゆかりが不思議そうにあやにたずねた。
「なにかごちそうになったの?」
「はい。さっきのお昼に、結構豪華なお重に入ったお弁当を」
「えっ!あやちゃん、お昼、こっちに来てたの?」
「ちょっと早めにきてました」
「私見なかったけど、どこで食べてたの?」
ゆかりとあやの会話を聞いていた女将が笑いながら、草壁たち一同の輪の中に入るみたいにしてあやの隣にスッと腰を落とした。
「事務室でね。他の人の目もあるから、みんなのいる前で特別扱いできないでしょ?」
「ヘヘヘ!ご馳走さまでした」
女将と新入りバイトという立場とか関係なく仲よさそうに笑っているレイコとあやを見ながら、ゆかりは言葉を詰まらせた。
「……」
(私が、厨房の隅っこで一人、あのいつもの安い弁当を食べてたときに……あやちゃんは特別扱い……)
複雑な表情でゆかりが黙り込んでいるが、あやとレイコはそれにはお構いなく二人で話を続けた。
「それはそうと、あやちゃん、あなたお客様からのチップはみんな断ってるですって?」
「はい。そういう決まりですし」
当たり前のことをしているはずなのに、なにをいちいち女将がそんなことを聞いてくるのか?とあやが不思議に思っていると、あやの脇をちょっとつつくような仕草で、からかうように女将が言った
「たまにはもらっちゃいなさいよ!」
一番そういう決まりに厳しくなければならないはずの人の口から出た言葉に目の前の草壁が驚いた。
「女将がそんなこと言っていいんですか?」
「ここだけの話だから、誰にも言っちゃダメよ」
と、あんまり見たことないようなイタズラっぽい笑顔で、人差し指を口にあてて言うのだった。
(バイト相手に、女将がよくそんなこと言えるわね……)
黙って聞いていたゆかりも驚いた。
「あなたも若いんだし、お金ためて彼にレストランで食事でもおごってあげたら?」
「わ、わたし、そういう人はいないです」
なぜか知らないが、女将が随分と砕けたことを言うもんだなと、聞いていた3人が驚いていると、レイコは自分の言葉にふと考えこみながら。
「あっ、でも二人で行ってワインなんか飲むと15万や20万ぐらいはしたりするもんねえ……」
さらっとレイコが言った金額におもわず目を草壁とあや。そんな金額の食事を一回に使うのが当たり前みたいに言うものだ。
まさか、それがレイコの普段の金銭感覚ではないだろうが、草壁はそれを聞いてちょっと吹き出した。
「やっぱり、女将もあの豪邸で育ったお嬢様だから、言うことが違いますね」
草壁の言葉に女将がちょっと意外な顔をする女将。
「あら、あなた私の実家を知ってるの?」
そこで、前年の夏に、あやと草壁が招待をうけて仙台の長瀬家へ遊びに行ったことを知らされたレイコ。
単に友達と思っていたが、想像以上につながりが深い。
「ゆかりさんも外で食事って言ったらそんなところ行くんですか?」
「普段から行ってるわけないでしょ?お父さんやお母さんは知らないけど、私なんかそんなところそんなに連れて行ってもらったことないですから」
「そんなにはないけど、ちょっとはあるんですか?」
「一人10万なんてことは多分ないですよ」
「た、多分……」
お勘定の詳しいことは分からない、が、それに近そうなところなら、ある。ってことだろうか?
やっぱりお嬢様をディナーに誘うとなると、覚悟しないといけない金額の桁が違ってくる……。草壁は話をしながら、自分のデート計画をもう一度見直そうなか?なんて思いながら驚いていた。
自分の目の前でゆかりと草壁がそんな言葉を交わし、気軽に喋っている様子をじっと見ていたレイコが、ふと二人に向かって言葉をかけた。
「そういえばあなたたち、仲よさそうだけど、もともと顔見知りなの?たしか二人ともひまわりが丘だっけ?」
草壁の履歴書は読んだだろうが、住所の細かいところまで詮索はしなかったのだろう。
だから、それを受けてあやが言った
「それも、同じマンションのお隣さん同士ですよ。弟の亮作さんのルームメイトですから」
という言葉を聞いて、エエッー!と小さく叫んだあと、しばらく考え込んだ。
どうしたんだろうと思って、急に静かになったレイコの様子を3人が見守っていると、彼女は急に何か一人で納得した様子になると、ケロッとした顔で
「なあんだ。そういうことか……」
という一言を残して、どこかに立ち去っていった。
その後、あやも最後の仕事に向かうと、ロビーのソファーには、草壁とゆかりの二人が並んで座るだけとなった。
と言っても、二人とも次の仕事の時間がある。
のんびりはしていられない。そして、周りに人がいないというのは絶好のチャンス。
もう、あたって砕けるしかない草壁は、ツルイチさんからもらった例のスポーツセンターのチケットゆかりに見せて言った。
「あの……」
「ん?なんですか?」
「これ、もらい物なんですが、スポーツセンターのチケットなんですけど、ちょうど二枚あるんですよ」
「はあ……」
あっ!と草壁は思った。
話をここまで進めてきたら誰だって言いたいことは分かるだろう。そして、目の前のゆかりであるが、チケットを見ながら表情は固まった。
よく見る、能面みたいなヤツだ。
これは、多分、マズイ。しかし、ここで、言葉を打ち切るわけには行かない。
「気分転換にどうですか?こんど一緒に」
草壁は注意深く『デート』という言葉をはずして誘ってみた。が、そんな工夫をしてみたところで鉄壁のディフェンスは崩れるわけもなく。
「何度も言いますけど、私たち、二人でどこかに出かけるような関係じゃありませんから」
と思ってたとおりの拒否。
もう草壁としては、断られた気恥ずかしさなんかより、またもやパターンみたいにこっちを拒否するゆかりの頑固さが、ちょっと面白くなってきた。
冷たくそっぽを向くゆかりに向かって、飽きれた顔で声をかけた。
「本当に、頑ななひとだなあ……」
半分感心してしまっている。
言われたゆかりはまるで草壁にからかわれているような気がするものだから、余計に表情をこわばらせると乱暴に言い放った。
「私が悪いみたいに言わないでください。そっちがしつこいだけでしょ?」
おいおい、じゃあこっちが悪いって言うのか?
そこまで言われたら草壁じゃなっくったってムカッとくるだろう。彼は、ジッとそんな彼女をにらみつけた。
「な、なによ」
すこし鼻白むゆかり。
「わかりましたよ。これせっかくのペアチケットだし、一人で行ってもおもしろくないから、あやさん誘って行って来ますよ」
草壁があやを誘ってデートに行く?あの子、ぜんぜん奥手なんだから、私誘うより難しいに決まっている!
どうせ、私に断られた反動でムキになっているだけに違いないんだから。
ゆかりは、草壁の言葉を鼻で笑った。
「今更、ちょっかい出そうって言うの?無理よ、あやちゃん草壁さんのことなんとも思ってませんから、絶対断られるだけね」
勝負する前から勝手に敗北宣言をよその人に出されてたまるもんか。
ゆかりの挑発に草壁だってわざと余裕の笑みを浮かべて見せた。
「ゆかりさんがいない間、二人でどっか行く機会もありましたしね、まんざらでもないと思うんですよね」
ゆかりは、相手がなぜか自信満々なのがとても気に入らない。
挑発したくせに、逆に挑発される。
「絶対無理だわ!あなたの誘いなんかに、アノ子がのるもんですか!」
「絶対、デートしてみせます!」
すっかり、同レベルで声高に言い争いをする二人。
もう、そろそろ、チェックインする客だってやって来るころである。
「二人とも早く、仕事についてちょうだい。お客様だってお見えになっているのよ!いい加減にしなさい!」
通りがかった女中頭から怒鳴りつけられた二人だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
さて、そんなふうにして、あっという間に双葉荘でのバイトを終えてしまったあや。
彼女だけ、一足お先にひまわりが丘での日常に戻っていった。
そして、あやの日常っていうと、午後までは大学にでて、そのあと気が向いたら喫茶「アネモネ」に顔を出してウエイトレスのアルバイトをするというものである。
ところで、あやがここのバイトに顔を出すと、よくやってくる客がいた。
そう、未だにあやを諦めていない、ナンパ高校生、田村だ。
相変わらず、毎日アイロン当ててるみたいなパリッとした高校の制服ブレザーでやってくると、最近はすっかり常連顔で二つ年上のあやのことを平気で「ちゃん」づけで話しかけてくるのだった。
「今日はあやちゃんの顔が見れてラッキー!けど最近あんまり姿見なかったけどどうしてたの?」
しかもすっかりため口。
「冬休みの間はちょっとよそでバイトしてたから」
「どこ?」
「旅館で仲居の」
「ねえ、着物着た?見たかったなあかわいかっただろうなあ」
客の少ないのはいつものこと。
そうなると、カウンターに陣取った田村と向かい合ったまま、この口だけは人一倍動く軽薄高校生の相手をずっとしなければいけないのはつらいことだった。
あやが、若干迷惑そうに受け答えするものだから、隣のマスターが会話に割って入ってさりげなく間を持たせた。
「田村君、高校3年ってことは受験生だろ?この時期のんびりしてていいの?」
田村はヘラヘラ笑って答えた。
「指定校推薦でもう行くところ決まってるんで、問題ないです」
「あやちゃんのこと好きなら、がんばって彼女と同じ大学目指してみたら?」
マスターが真顔でそんなことを言うものだから、あやが隣で焦った。
「変なことけしかけないでください!」
この男、オンナが絡むとひょっとしたらやりかねない。
「あやちゃんが来てほしいって言うなら、浪人してでもがんばるよ」
「来なくていいです!」
真面目腐って田村が言うものだから、あやが本気で焦っていた。
と、そこへ一人の客の来店である。
ゆかりの不在で最近ではすっかり足の遠のいていた草壁である。
他に客のいない店内を、なぜか取り澄ましたような顔でカウンターまで歩いてくる草壁。マスターとあや、田村がそんな彼の出現で会話を中断させてしばらくじっと草壁を見守る。
と、そんな視線を無視するように、カウンターの田村から一つ席を空けたところに座っていつものようにホットコーヒーの注文を済ませた。
そして、そこで、ようやく田村の存在に気が付いたみたいな顔になる草壁
「あっ、田村君も来てたんだ」
「どうも」
田村が軽く会釈する。
「何?なんか仲よさそうに話してたけど、なにかあったの?」
田村とあやを交互に視線を動かしながら草壁が聞いた。
「なんでもいいじゃないですか?気になりますか?」
田村としては、草壁とあやが付き合っているなんてお芝居、やっぱり半信半疑。
おたくさん、本当にお付き合いされてるんですか?どうせ芝居でしょ?って感じで薄笑いを浮かべていた。
「そりゃ、気になるっていうか、気にしちゃ悪い?」
草壁がちょっとふざけ掛けるような笑顔で、あやのほうへそんな言葉をかけた。君がよその男の人と親しげにしていることを彼氏が気にしちゃ悪いの?っていう意味をこめて。
いつもより、草壁のこちらへの踏み込みが強い気がしてあやのほうはやや腰が引け気味である。
お芝居は続けなきゃいけないけど、過度に恋人を演出するのも、なんとなくやりにくい。だから、黙って笑っているだけだった。
「本当にお二人、付き合ってるんですか?」
その様子を見ながら、田村が草壁に聞いた。
草壁は平然と言い切った。
「当たり前だろ?っていうか、そっちはまだ気があるの?けど誘っても無駄だよ?あんまりしつこく迫るのやめてあげてくれない?」
「じゃあ、草壁さん、あのピアノの先生の長瀬さんどう思って……」
田村がそんな言葉を言いかけたときである。
草壁は田村の言葉を途中でさえぎるように、目の前のカウンター内にたっているあやに向かってポケットからチケットを取り出して、彼女の前にチラつかせた。
もちろん、ツルイチさんからもらったスポーツセンターのチケットである。
「ここにさ、スポーツセンターのチケットがあるけど。ほら、この前行きたいって言ってたでしょ?買ってきたから今度一緒に行こうよ!」
あやは草壁がニコニコしながら紙切れをヒラヒラさせている様子を見てしばらく固まっていた。
(えっ、私そんなところ行きたいなんて言った覚えはないけど……)
草壁の意図がわからないものだから、そっと草壁に近寄って
「言いましたっけ?」
と耳打ちしたが、草壁はあっち向いてあやの言葉を無視。
しばらく、どう答えていいのか分からずにあやが言葉に詰まっていると、草壁が不満そうに口を尖らせた。
「なんか、最近忙しいって言ってばかりで誘ってもどこにも来てくれないね?」
「ええっ!」
いつ誘った?というか、どこまで草壁の芝居に付き合わないといけないの?とあやは混乱するばかり。このままこの人どこまでやるつもり?そもそもなんでそんなチケットを持ってやってきたの?
「冷たいっていうかさ……せっかく買ってきたのに」
二人の様子に田村が余計なことを言い出した。
「別に好きな人ができたりしてね」
「うるさいよ。そっちには関係ないことだろ?これはこっちの話だから。ねえ、暇ないの?これ別に期日指定とかのチケットじゃないから、都合のいいときにいつでも行けるんだけど」
「もう、ちゃんと振るのもめんどうだから、自然消滅狙われてるんじゃないっすか?」
「だから、いちいちでしゃばるなって言ってるだろ?ねえ、行こうよ」
目の前では、田村はヘラヘラ笑っているし、一つ間を空けた隣では草壁が心配げな顔でじっとこちらを見つめている。まるで振られる予感におびえているみたいな顔を作っている。
自分がつまらない芝居を続けてるばっかりに、へんなしがらみが増えた。
それにしても、草壁さん、どういうつもりなの?
あやは、草壁に返事をする前に、怖い顔で睨み付けてやった。
すると、このお調子者がちょっとむかつく顔で笑った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そんなことがあった次の休日、草壁の策略にまんまとはまったあやは彼とデートすることになってしまった。
そこは街中にあるスポーツレジャーランド。
有名アミューズメントチェーン店の一つで、交通量の多い幹線道路と駅からも近いところ立っている、5階立てのビルである。夜になると、屋上に設置された観覧車がまぶしいネオンの明かりを並びの他業種の看板を圧倒するぐらいに点滅させ、それは陽が昇るまで消えない。つまりは24時間営業ということ。
中に入っている施設の一番の目玉が、広いボーリング場とバッティングセンター。ちなみに夜のボーリング場は照明を落とした中でピンとボールが蛍光色に発光しながら、レーンの上で踊る姿がとても幻想的だとか。
あとで草壁から自分を誘った舞台裏をすべて知らされたあやは怒った。
が、怒りはしたが約束は約束だからということで、あっさりと二人でおでかけということは了承してくれた。結構物堅くて律儀な子なのだ。
「けど、聞けば聞くほどひどい話ですよね?それって!」
こうして二人でもう施設にやってきたというのに、まだあやはちょっと不満そうにしている。
「だって、僕もゆかりさんにあんな言い方されたら腹立ちますし」
「それで、私が振り回されたら、こっちがたまりませんよ」
「いつものお返しです」
草壁が涼しい顔してそう言った。いつもそちらさんの無茶な芝居につき合わされているお返しだそうで。
「……」
あやは黙り込むよりなかった。
とは言っても来ちゃえば楽しんだもの勝ち。
本日は動きやすさ重視のキュロットスカートにグレーのタイツに包まれた細い足で、あやが楽しげに目指した最初の施設は、ここの施設のもう一つの目玉「バッティングセンター」だった。
「ソフトボールはやったことあるけど、野球ってないんですよね」
「あっそうなの?」
「割とバッティング自信ありますよ」
そんなことを言いながら、スタジャンの肩に金属バットを担いであやがバッターボックスに立つ。
かぶって来たベレー帽のかわりにブカブカのヘルメットを頭に乗せている姿は、普通にかわいい女子が遊びでバッターボックスに入っていくみたいだ。
ここのバッティングセンターのシステムはちょっと変わっている。
普通1ゲーム何球と、マシンから繰り出される球数が決まっているものだが、ここでは、はじき返した球の行方をコンピューターがヒットやゴロなどと判断して、規定のアウトカウントまで達して終了となる。
さらに、二人で遊ぶ場合、3アウト交代制で交互にバッターボックスについて、9回終了までのスコアを相手と競いあうことも可能。
いや、それだけでない。
実在のプロ野球の投手をそれぞれ自分のチームのピッチャーに指定すると、相手がバッターボックスに立ったときにコンピューターシミュレートされた個性豊かな投球をしてくれるという、まるで二人で本当に野球の試合をバッターとして楽しんでいるみたいな仕掛けもある。
人気らしくて、休日は小学生から大人まで順番待ちの列ができることもあるのだとか。
というわけで、先攻のあやがバッターボックス立つと、草壁はどんなものか後ろでジッと様子を観察してみた。
「ああ!やっぱり、金属バットって結構重いですよね」
と言いながらあやが軽く素振りをする様子を見た草壁はまず驚いた。
絶対、うまいぞ、これは。
あんまり野球経験もない普通の女子が金属バットを振ると、まずバットに振り回されるみたいに見えるものだ。バットの描く軌道も不安定だし、腕も振りながらグラグラ揺れる。
ところが、今目の前で「小学生のとき以来ですよ」なんていいながら軽く素振りをしているあやはまるっきり軟式野球の現役みたいな様子だ。
まず、バットのヘッドの軌道がぶれない。
そして、体の軸がぶれない。
実際の打撃に入るまえから、草壁が後ろで目を丸くしていた。
「ピッチャー振りかぶって、第一球投げました!」
そんな実況が耳に入ってくると、バッター正面に設置してある大型ディスプレーの中のプロのピッチャーの画像が大きく腕をしならせて、こちらに向かって球を投げてくる。
実際はマシンがやっているのだが、機械の姿は見えないので、ちょっとした迫力を感じる。
運動苦手な気弱女子だったら、もうその時点で球を目で追うことすらできずに、目をつぶっちゃうかもしれない。
が、見てたら、キュッとアゴをりりしく引き締めたあやは、眼光するどくボールの軌道をきちんと目で追いながら、かなりの速球を怖れる様子もなく綺麗にスイングした。
ボールは甲高い音を響かせながら、ライナー性の当たりを、相手ピッチャーの頭上高くすっと跳ね返っていく。
「ツーベースヒット!」
これまた実在の実況アナウンサーの声を使った合成音が、威勢よく響いた。
その後も快調にヒットを打ち続けるあや。
一応、バッティングを楽しもうというスタンスだったので、基本ストレート勝負ばかりという設定にしたのだが、野球経験のわずかしかない女子がいきなり140キロの球を打ち返してホームランを何本も出したときには、隣でプレーしていた、近鉄の帽子をかぶったオジサンから
「お姉ちゃん、マジでうまいなあ。どっかの実業団の人?」
って、感心されたのだった。
普通に野球あんまりしたことない人、草壁と腕の違いが歴然。
それはどうでもいいのだが、一応9回までやるつもりだったのが、5回が終わった時点でコンピューターから「25対5!規定によりコールドゲームとなりました。どうもありがとうございました」と言われて突然ゲームが終わったのには、びっくりした。
聞いてないぞ!そんなシステム。
じゃあ、バッティングセンターも楽しんだことだし、次はどこ行こうか?
すると、あやからのリクエストは「卓球」。
ということで二人して、フロアを移動したあと、卓球エリアに足を踏み込んでみると一面の壁が濃紺の色で統一されている落ち着いた雰囲気。
スピーカーからながれるはやりのポップスの音楽と相まって、ちょっとカラオケ屋の個室みたいな雰囲気。
ネットで区切られてずらっと10面も並ぶ卓球台を囲むのは、基本若いひとだらけだが、端っこのほうでは、ストライプ柄の短パンに半袖のシャツのユニフォームを着たオバさん達がひどく打ち合いを続けているいる姿も見えた。
「卓球の経験あるんですか?」
「わたし?やったことないから一度やってみたかったんですよね。草壁さんあるんですか?」
「何度か高校のとき卓球部に遊びに行ったぐらいです」
あやは初心者だと自らを語ったが、さっきのこともある。
ラケット握ったら、いきなりラケットに全体重かけるみたいに飛び跳ねながらすごい軌道を描くスーパーサーブを繰り出してくるんじゃないか?
と思ったら、握り方もろくに知らないというまるっきりの素人らしかった。
草壁も昔、卓球部の友達に教えてもらったというあやふやな知識でラケットの握り方とサーブの仕方、そして打ち方を簡単に指導するだけで、試合開始。
こういうものは腕の差があまりに違うとか、レベルがものすごく高い、あるいは低いとかならどうしようもないのだろうが、ある程度お互いの力の差がなくて、そして、運動神経も互いに悪いわけではない、となると案外上級者以上にラリーが続いたりするものだった。
スマッシュなんて簡単に打とうとしてもだいたい決まらないというような互いのレベルだ。
というわけで、見ていると、隅っこのほうで小さなラケットを片手に飛び跳ねている本気組のオバサンたちより穏やかにラリーが延々と続く二人。
勝ち負けよりも、そうやっていると案外楽しい。
温泉に行くとピンポンがなぜか置いてある理由もわかった。
けど、たまには体重を思いっきり乗っけた足で床を”バンッ”って大きな音を立てながら、相手のコートに吸い込まれるように飛んでゆくすごいスマッシュの一つもやってみたい。というのは人情。
「えいっ!」
草壁が甘い球を高く返してきたので、あやがそうやってラケットを思いっきり打ち出した。
が、初心者が力いっぱいやっちゃったせいで、ピンポン玉はバコッっていう鈍い音を立ててネットに引っかかってしまった。
そして、それを拾い上げてみると。
「あっ、割れちゃった……」
多分、ラケットの面を立てすぎたのも理由かもしれない。ピンポン玉は見事にぱっくりと口を開いて割れていた。
そこで、草壁が球の交換のために、受付までひとっ走り。
弁償でもさせられるかと心配したが、別にその必要はない様子。あっそうですか。じゃあ次はどれにします?お好きな色をお選びいただけますよ。なんて言われて、色なんかなんでもいいと思ったが、今度はイチゴ柄のやつなんて面白そうだから、これにしようかな?なんて草壁がちょっとそこでモタモタしていたりしていた。
そして、一方のあやである。
草壁がもたもたしているのをちょっと確認したあと、彼に背中を向けるように卓球台に向き直った。
そして、手にした卓球のラケットを両手持ちしてみる。
(さっきのバッティングセンター楽しかった!帰りにもうひとゲームしちゃおうかな?けど、私ってバッティングのセンスあるのかな?フォームも綺麗ってほめられたし)
さきほどのバッティングセンターでの自分の活躍を思い出して一人ご満悦。
手に持った卓球のラケットをバットに見立てて、帰りに再度チャレンジするときの練習のつもりで、軽くバットの素振りのフォームを作ってみる。
(こうやって、テイクバックもきちんととって)
とやりながら、ラケットをクビの横に立ててみる。もう目の前にはあのときのピッチングマシーンに映し出されていたプロの投手が振りかぶっている様が見えている。
(むこうが振りかぶったら!こう、スイング!)
ちょうどそのときだった。
草壁が交換したピンポン玉を持って近づいてきた。
しかし、彼もうかつだった。目の前でこっちに背中を見せているあやが完全にフルスイング体勢に入っているというのに、それをろくに確認しもせずに。
「球、交換してきました。サーブどうぞ」
って言いながら、ピンポン玉をのっけた手のひらをあやのほうへ差し出したのだから。
そしてあやがただの素振りのつもりで振った卓球のラケットに、さっき3ランホームランを場外に飛ばしたときみたいな衝撃を感じたと思ったら、妙な方向へ赤っぽい模様のついたピンポン玉が飛んでいった。
と同時に。
「ウッ!」
といううめき声が響き、すぐ隣で、草壁が右手を押さえてうずくまっていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
うわっ、大変なことになった!とあやは驚いたが、草壁は「大したことないですから」と言って笑っていた。
「で、でも、ほんとごめんなさい」
「これなら、骨までは行ってない。経験者だからわかる」
草壁は笑っているが、真っ赤になった右手がちょっと心配だ。
「念のために、専門家に見てもらったほうがいいと思うから、もう帰りましょう」
あやが申し訳なさそうにそう言って、帰ると言い出すし、草壁も無理して続けても確かに右手はズキズキ痛むから早々に引き上げてひまわりが丘に帰ることにした。
そして、その電車の中で気が付いたら草壁の指がグローブをはめたみたいにパンパンに腫上がってしまった。
大慌てになった二人は駅からもっとも近い、こういう治療の専門家というわけで、あの今木恵の実家である「今木整骨院」のドアを潜ったのだった。
(ええっ!おにいちゃんと辻倉さんが二人揃ってやってきた!)
驚いたのはそのとき受付に座っていた恵である。
聞いたら草壁が右手を強打して腫上がったのだと。見てみたらたしかにそうだ。が、なんで二人揃ってここにやってくる?
(何、これ?いくらなんでも彼氏の病院通いに彼女がついてくるなんて……)
詳しい事情まで知らない恵にしてみたら、こうして二人連れでやってきた草壁とあやの関係がまた訳の分からない形に見えている。
友達、とは言いがたい、親密そうな様子だ。しかも、彼女のほうが彼のことを心配する様子が普通じゃない。完全に動揺しきってオロオロしている。まさか、この二人、本当に付き合ってたのか……。
「痛みます?」
「ちょっと、ジンジンする……」
「冷やしたほうがいいのかな?」
「いや、素人が勝手な治療しないほうがいいと思う。もうすぐに案内があると思うからこのまま待ってたほうがいいよ」
受付の恵の目の前では、草壁の腫上がった手をお互いが見ながら頭を寄せ合うようにしてそんな話をしている二人の姿があった。
まるっきり、小さな子供の急病に付き添ってきたお母さんだ。
とても親密そうな二人だった。
(この二人、本当に付き合ってたの?)
その様子を見た恵は一人、気落ちしていた。
(わたし、もっとおにいちゃんのことわかってると思ってたんだけどなあ……)
診断の結果は「指の捻挫」だそうで。
骨折経験者、草壁本人の見立てどおり骨まではいってないとのこと。しかし、右手をテーピングでグルグル巻きにされてしまい、しばらくは動かさないように、と言われてしまった。
軽いものだから、数日で手も動かせるようになるだろうという。
実際、テーピングをしたら痛みもほとんど消えた。
骨折して石膏で固定、なんてほどじゃないから、テーピングの手でもちょっとものの支えぐらいはできる。家に帰ったらまあ日常のことはなんとかなる。食事も数日はフォーク使ってすることにしよう。
それはいいが、問題はバイトである。
そう、双葉荘でのバイトをこの手で行うの無理だ。しかし、未だに草壁の不在は洗い場には大きい。しかも今日の今日の話だ。
さっそく双葉荘に事情説明の電話を入れたら向こうも困っていた。
「困ったわね……今日は長瀬さんも他の仕事があるから」
なんと代打も使えないというのだった。
という訳なら仕方ない。
その日の午後3時にすこし早いような時間の双葉荘事務所には、怪我で仕事ができないはずの草壁の姿があった。仕事はできない。が、その代わりだ――。
「というわけなんで、僕の代打のさらに代打を連れてきました。以外にも長距離ヒッターです」
という変な紹介をされて、つい先日双葉荘のバイトを上がったばかりの辻倉あやがまたこの旅館に戻ってきたのだった。
ちなみに、洗い場の仕事ははじめてのあや、ということで。
「右手は使えないけど、僕もいっしょに入ってフォローするので」
ということで、なぜか、バイトのシフトの仕切りまでこの男が決めちゃったりしている。が言われた女将も若女将もこんな時間から急な戦力を一人補充するのにアテがなくて困っていたので、コイツの言うとおり一応してみることになった。
ちなみに、草壁にもちゃんとバイト代は発生したそうである。
そうだろう。只ってわけにも行くまい。
ちゃっかりしている。
ということで、数日間は草壁のかわりを勤めることとなったあやとともに、双葉荘の事務室を出たところにある人と出くわした。
「あっ!」
本日もツナギの作業着にキャップ姿で、モップ片手にロビーにやってきたのは、ここの下働きである長瀬ゆかりだった。
目の前にはもうバイトも終わったはずのあやがなぜかまた双葉荘に居る。それだけじゃない、そのとなりには草壁がなぜか知らないが右手にテーピングをしている。
どういうことなんだろう?
双葉荘のロビーで鉢合わせになった3人のうち、草壁とあやの二人はとてもまずいところを見られたようにして二人とも固まっていた。ゆかりだって事態が飲み込めないので、しばらく声もないままだった。
すると、草壁とあやの二人が、そろって、頭のてっぺんから出しているみたいな声で
「ご報告、すっかり忘れてました!」
「二人して変な言い方しないでよ!」
その場で簡単な状況説明を受けるゆかり。
草壁さん、本当にあやちゃん誘ってデート行っちゃったんだ!と驚くと同時に、心の片隅では「ザマミロ!」とか思っている人の悪い自分に気づいていたりもする。
(どうせ、あやちゃんダマくらかして連れ出したんでしょ?バチが当たったんだわ!)
なんにせよ、お嬢様のご機嫌は相当ナナメになっちゃった様子。
「ふーん。二人でデートに行った先でケガですか?……」
すぐに唇をとがらせてそっぽ向いてしまった。
あやが、すかさず「いや、デートなんてそんなものじゃなくてですね……」と言い訳しようとする言葉を最後まで聞くことなく、モップ片手にさっと背中を向ける。
「別に私に報告も言い訳も必要ないでしょ」
そんな言葉を残してさっさと階段へと消えていった。
「ああなると長いんですか?」
「多分、長いと思う」
立ち去るゆかりの背中を草壁もあやも呆然と見送るしかなかった。
ところで仕事のほうであるが、こちらは問題もあるはずがない。
あやは初心者だが、草壁からの指示もあるということで、洗い場に入るなりさっそくあのダメバイト3人組より遥かにいい動きで仕事をこなした。
それはいいのだが、つい先日までかわいい仲居さんが一人増えたと、洗い場でも厨房の料理人の間でも評判だった子がなぜか洗い場のスタッフとして草壁とともにやってきたと思ったら、なんとあの普通の大学生のお兄ちゃんと仲が良さそうなのだ。
「草壁クンって、あの長瀬さんといい、この元仲居の子といい、モテるのか?ああ見えて」
「ぜんぜんそう見えないけどなあ」
という変な評判を密かに立てられることとなった。
草壁からの指示を受けながら、夕食準備の手伝いという仕事無事終了。
仕事のことであんまり特筆すべきことはない。この翌日、草壁が付き添ったら3日目からは即席洗い場リーダーとしてあやは一人で仕事をこなすようになったのだった。
この子は何をやらせてもソツがない。
そして、夕食後の皿洗い本番の前に、夕食タイムとなったときのこと。
今まで何度か触れたが、洗い場メンバーの夕食というのは、この洗い場の片隅にある大きなステンレステーブルの上で食べる、旅館用意の安物の仕出し弁当である。
どうでもいい話だが、仲居さんたちというのは、上の階にある社員専用の休憩室で取る。食堂ではないが、飲み物の自販機があったり、お茶が用意されていたり、時には差し入れのお菓子やパンなんかが置いてある、見晴らしのいい部屋だ。
閉め切った厨房の片隅よりは随分と明るくて綺麗なところである。
用意されている食事は一緒でも、食べる場所によって随分と雰囲気が違ってくるもんだ。
そういえば、こちらにはテレビや有線放送もないから、とても静か。
まるで深夜の台所の片隅でカップラーメンを啜っているみたいなのが、ここ厨房でのいつもの食事の様子だった。
そして、もちろん一緒に仕事に入った草壁もあやとともに、そんなテーブルを囲むメンバーの一人として、あやの目の前で仕出し弁当のプラスティック容器を開けていた。
ちなみに他のメンバーである、バイト3人組、渡辺、岩城、福田は、ちょうどゆかりと初めてお弁当を食べたときみたいに口数が少ない。
どうも3人とも結構人見知りするらしい。
しかも女子と気軽に話をするのも苦手なようだ。
あやから、声をかけられると、照れたような顔であんまり目を合わさずに一言二言、要領の悪い答えを返すばかり。
一方、現在右手をケガしている草壁である。
この状態で箸は使えないので、フォークでの食事ということになるのだが、問題はどっちの手でフォークを持つか?右手はテーピングされているので、動かしづらい、けど利き手。左はフリーだが、利き手じゃない。
まあ、あんまり右手は使わないほうがいいのだろうが、ケガをしていない薬指と小指と親指を使えば右でも食べれる。
が、こうすると……。
「イテテテ……」
やっぱりテーピングしている人差し指と中指にもちょっと影響があるわけで、右手に痛みが走った。
じゃあ、左でフォークを持ったら良さそうなものだが、実はこのお弁当には味噌汁がついているのだった。
お椀じゃなくて、カップアイスを一回り大きくしたぐらいのフタ付きのプラスティック容器に入っているものだ。これを片手で飲みながら、フォークを使うとなると、味噌汁を持つ手は左となる。いちいち持ちかえるのがめんどくさいならフォークは右で持つことになる。
「やっぱり食べにくいですよね?ほんとごめんなさい」
あやは目の前の草壁が不器用な手つきでフォークを握って、顔をしかめているのを見て申し訳なさそうに小さくなっていた。
「あれは僕もうかつだったんだから、気にしなくていいよ」
草壁が笑顔で、ケロッと言うのだが、それが余計にあやに申し訳ないという気持ちを抱かせた。
因みに、厨房出入り口に背を向けるように座っているあやの目の前が草壁。
草壁からは旅館廊下から誰かが厨房に入ってきた場合、それがまっさきに見える位置だ。
草壁は笑ってフォークをぎこちない手つきで右手に握って食事しているが、見ていたらとても食べにくそうなのは明らか。
あるものは真上から突き刺したほうが食べやすいが、ご飯なんかは掬ったほうが食べやすいだろう。
手の動かし方に大きな制約のある中では、フォークの角度をちょっと変えるだけでもけっこう手間どるものだった。
「よっしょ」
って思わず声を出しながら草壁が弁当箱の隅に立てたフォークを支えながらちょっと持ち方を変えようと一生懸命だったとき、指を滑ったフォークがコロンと弁当箱から転げ落ちてしまった。
「あ、落ちちゃいましたね」
目の前のあやが、草壁が手を伸ばすより先にそれを拾い上げた。多分そんな動作だってその手じゃやりにくそうだというのはよくわかったから。彼女なりに気を使ったのだ。
「ちょっと、待ってくださいね。一応拭きますから」
テーブルの上に転がったフォークを拾い上げると、近くにあったティッシュで軽くフォークを拭いてから……。
「はい、どう……ぞ……」
とあやが、目の前に草壁に差し出したあと、見事に固まった。
いや、いっしょにテーブルを囲んでいたバイト3人組も黙々と動かしていた箸が一斉にとまった。
そして、厨房から音が消えた。
その静寂を切り裂いたのは草壁の発した、鼻に掛かったような甘え声だった。
「あーん!」
あやの目の前で草壁が、カバのあくびみたいな顔していた。
”草壁さん、ああいう人だったなんて……”
”色恋沙汰を職場に持ち込むのはどうかと思いますよ”
”いいなあ、あんなかわいい子にしてもらって”
岩城、福田、渡辺の3人がそんなことを言いながら、今テーブルの上で繰り広げられている光景に眉を潜めている隣では、草壁の弁当を手元に引き寄せてフォークを手にしたあやと、彼女の目の前でニヤニヤしながら、ご満悦で安物弁当を食べさせてもらっている草壁の姿があった。
「次はウインナー!」
「はい」
あやにしてみたら、自分のせいでこうなったこと、無碍には断れないという心の負い目があった。
っていうか、あやの目の前でわざと使いにくい右手でフォークを握っていたのは草壁の計略だったのかもしれない。それは本人しかわからないだろうが。
「次は何にします?」
「うーんと、卵焼き」
「食べやすいように半分にしますね」
「サンキュー」
「はいあーん」
「あーん」
「次は何にします?」
「ご飯」
「これぐらい?」
「うん!」
「はい、あーん」
「あーん」
「次は?」
「柴漬け!」
「はい、わかりました。じゃあ、これ、あーん!」
「あーん!!!」
そして、草壁が大きな口を開けたときである。
彼の顔はカバから稲川 淳二に変わっていた。
彼の目の前で「はいじゃあ、あーん」なんてにこやかにやっているあやの頭の向こうで厨房の扉が開き、そしてそこにはこっちをジッと睨んで立つ長瀬ゆかりの姿が見えたからである。
第41話 おわり




