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第36話 双葉荘奮闘記

 物語の時間ももう12月。前回から数日経ったころの話。町のいたるところで年賀状のワゴン販売が見られるようになる時期。……バイト代まかなえるほど売れてるのだろうか?



 レイコ叔母さんちの使用人から双葉荘の下働きに昇格した長瀬ゆかり。

 彼女の日常といえば、相も変らず、掃除掃除……。


 手にするものがホウキからデッキブラシに変って、一番よく命じられるようになったのが実はトイレ掃除。

 それも客室のものよりも各フロアにある公衆トイレの掃除である。


 で、こういうものは男女関係ない。二十歳そこそこの女子だからと言って男子トイレは免除というわけに行くわけもない。

 さあこれからトイレ掃除ということになると、いつも着ている薄い青色のツナギに作業帽姿のままで、旅館の倉庫に向かう。そこで、無骨な黒の長靴、ゴムホース、チリトリ、デッキブラシ、トイレブラシ、便器用や床用などいくつかの用途別に存在する洗剤の容器、バケツ、それから歯ブラシの親分ぐらいの小さなブラシ、厚手のゴム手袋、ゴミ袋、ゴミバサミ等のトイレ掃除道具を専用ワゴンに乗せて、各階にあるトイレを順番に回るのだった。



 こういう掃除というのは宿泊客がやってくる前には済ませるものだが、モタモタしていると遅くなることもある。

 また、観光客にしてはお早いチェックインする客もちょくちょくいる。

 お昼はのんびり、夜は歓楽街でガッツリ。そんな客だったりする。どうでもいい話だが。



「ただいま清掃中、ごめいわくをおかけします」


 清掃中はそんな黄色い立て看板を出入り口に出しておく。だいたいそれを見たら大抵の人はお察ししてくれて、トイレの使用は控えてくれる。が、基本的には「今いいかな?」と言われたら「どうぞ」と答えるのだった。なにしろ相手はここのお客様。「今掃除中なので、上の階のトイレをご使用ください」とも言いにくい。まあ、まだ床が水浸しというような状況なら話も別だが。



 その日、ゆかりがとあるフロアの共用トイレを掃除していたときである。

 床をデッキブラシで磨き、個室の掃除も終え、最後は壁際に箸箱を立てたみたいにしてならぶ男子小便器の中をトイレブラシでゴシゴシやっていたときである。


「ちょっと悪い!もれそうなんだ!」

 チャックに手をかけながら小走りにトイレへ飛び込んできた中年太りのオッサン一名。もちろん宿泊客なのだろう。

 3つ並ぶ小便器のうち、ちょうど真ん中の便器の中をブラシでこすっているゆかりは、中腰の姿勢のまま愛想良くその客のほうへ

「どうぞ、お使いください」

 と微笑んだ。


 が微笑んだ顔が次の瞬間、見事に凍りついた。見なくていいのに、チラッとそのオッサンのほうを見てしまったのだ。

 けど、いくら洩れそうで焦ってたからといって、まだ便器の前に立つその手前なのである。まさか、もうそのタイミングで出しているとは思わなかった。早すぎでしょ?


(うわっ!モロ!)



「ごめんねえ、掃除中だっていうのに」

「いいえ」

「いや、部屋まで我慢しようとしたけど、部屋番号探すのに手間取っちゃってさ」

「あ……アハハハ、そ、そうですか」

「今日は冷えるからトイレが近いわ!お姉ちゃんはここのバイトなの?」

「あ、はい……」


 本当はその場を離れようとしたのだ。が、ついさっき目にしたものに一瞬固まっていると、オジサンのほうは女子が隣にいることなんかへっちゃらっぽく、ジョロジョロと音を立てながら雑談を振ってくるものだから、ゆかりも動くに動けなくなってしまった。


 まるで小用だけじゃなくて、ペットボトルの水でも捨ててるのか?と思うぐらい長いあいだ続いた放水音のあとやっと


「ああ、スッキリした!」

 なぜかご機嫌な様子でトイレを出てゆこうとするオジサンが、出て行き際、掃除中の立て看板のところまで来たときゆかりを振り返って


「お姉ちゃん」


 と声をかけた。

 言われたゆかりがそっちを振り返ると、オジサンが真顔で


「見たでしょ?」


 と言われて、真っ赤になりながら「見てません!」とゆかりがアタマを振るとオジサンなぜか満足げにニヤニヤしながら去っていった。



 その直後のことである。なんとも言えない顔でゆかりも掃除の続きにとりかかった。さっきの一件のせいで便器のどこまで磨いたかよくわからなくなりながら、ゴシゴシやっていた。

 まださっきのオジサン、そのあたりをウロウロしているのかもしれない。ちょっと足音が響いているのが聞こえた。と同時にお連れさんらしき人とボソボソ喋っているような声も。なかなかご陽気な様子で笑い声まで混じっている。

”あっ!あっち!”

”……でさ”

”ほんと?”

”……まだ……”


 なんの話かは良く分からない。が、お連れさんの宿泊客同志が談笑するなんて別に珍しくもない。ゆかりはそれに特に注意を払うことはなかったが……。


「悪い!ちょっと使わせてもらっていいかな?」


 清掃中って看板だしているというのに、さっそく二人目の使用希望者が現れた男子トイレ。

 またか、と思ったが、ゆかりは「どうぞ」と今度はさっきの失敗に懲りている。向こうを見ないようにして短く返事をした。


「年取ると、ホースの調子がゆるくなっちゃってさ!……あっ、こっちはすぐ終わるから掃除そのまま続けてて。ごめんねえ、仕事の邪魔しちゃって」


 もう、二度目は勘弁とばかりにゆかりが腰を伸ばしてそこから立ち去ろうとする様子を見ると、そのオジサン、まるで先回りするみたいにそんな言葉を言うものだから、ゆかりはまたもや動けなくなる。


 年恰好からするとどうも先ほどのオジサンの友人かもしれない。薄い頭をした60がらみである。


「でもこんな綺麗な子がトイレ掃除してるなんてなあ……」

 あんまり勢いのない水音を途切れ途切れに立てながらオジサンが、隣でしゃがんでいるゆかりをじっと見下ろしていた。そっちを見なくても声の響き方からゆかりにもそれがよくわかった。まるで、覆いかぶさるようなところにアタマがあるに違いない。っていうか、そんなポジションになってこぼさないで欲しい。

 そんな心配をしていると。


「恥ずかしいから、あんまり見ないでね」

 絶対、薄笑い浮かべながら言っているに違いないという声で話しかけてきた。



(じゃあ、他所ですればいいじゃない。どうでもいいけど、もう終わったみたいなのに、この人、いつまで振ってるつもり?!)


 ってことでちょっとの間を置いたあと、しゃがみこんでいるゆかりの隣にずっと立っていたオッサンが急に真面目な調子で

「おねえちゃんこれさ……」


 と言うので、ふと視線を横に向けた。

 オッサンが真顔で目の前に置いてある、随分と中身の痩せた芳香剤の容器を指差して

「もう、これなくなってるから変えたほうがいいよ」

 と要らないお世話を焼いて出て行った。


 オッサンの出て行ったあと、再び固まっているゆかりだった。

(横向いたとき、あの人、まだ出してた……)




 トイレ掃除をゆかりがしているとチョイチョイそんなことがあった。

 やがて男子トイレの掃除に特に抵抗を感じなくなっていた。

 慣れって怖い。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 一方の草壁圭介のほうもここ双葉荘の皿洗いバイトを忙しくこなす毎日。

 同僚となったフリーター3人組がいつまで経っても成長しないだけでなく、面倒ばかりかけるのでバイトのシフトが今まで以上に厳しい日程になっていた。


「草壁クン。来週なんだけど、この日も来れない?皿洗いだけでも入って欲しいのよ」


 もう若女将が草壁の顔を見ると、彼の休日をいかに減らすかしか考えていないようにして次から次へと出勤日を増やすのだ。「やっぱり草壁クンがいないとダメだから」と買ってくれているのはいいが、都合よくこき使われているとしか思えないこともたまにあった。




 そんなチーム洗い場でののちょっとした日常のこと。

 仕事終わりに冷水を満たしたビールジョッキで乾杯しているときのちょっとした出来事である。


「みんな少しづつ慣れて、仕事のペースもあがりましたね」

 少しづつ慣れたせいか、最近は貧血を起こす頻度も下がった福田が真顔で言う。このヤセッぽっちの坊主頭、とても気の優しい男なのだが、少し認識が甘すぎる。


 ステンレステーブルの上以外の照明をみな落として、しばらく仕事終わりをゆっくり過ごすことはよくある光景だった。

 3人がやってきた頃、草壁はその時間そのシチュエーションになると、決まって雪に閉ざされたの山荘で孤立してるみたいな気持ちがした。一人地獄みたいな顔をしてジョッキを黙って握り締める日がどれほど続いたか。

 なにしろ彼にすべてのしわ寄せが来る。しかもちっとも仕事に慣れる様子がない。そして、使えない3人の一番の問題は自分たちがどれだけ使えないかにあんまり気づいていないことだった。

 

「本当なら、この3倍は楽なはずだけどね……」

 それでも最近はそうやって笑う余裕ができた草壁だった。


「今日ぐらいの客だったら余裕っす」

「余裕はいいけど、岩城クンいい加減、皿もっと丁寧に扱ってくれよ。また今日も割ったし」

「全部金属にしたらどうなんです?アルミとかなら軽いですし、割れないし、いいことずくめじゃないっすか?」

「なんで、そっちの都合で旅館の夕食が給食みたいにならなきゃいけないんだよ」


 草壁は喋っていて感じる。岩城のこの発言、多分こいつ冗談で言っているんじゃないと。

 そういうところは冗談の通じないヤツだ。性格真っ直ぐなのはいいが、固い。頭も含めて。



 そして、もう一人。実は一番やっかいなヤツ。こいつはときどき、ひ弱の福田以上に動けないことがある。そう目の前で、汗ダルマになっているデブ……。

「腹減った……」

 渡辺だ。しかもコイツの動きの止まるときというのが、決まってこのセリフを吐くのだ。そして、その一言が出ると、必ず食い物に手を伸ばす。


 今もいつものセリフが出た。

 が、もう残飯もみんな処分したあとだ。どうするんだろうコイツ。

 そう思って、黙ってみていたら、この渡辺自分のエプロンのお腹についているポケットに手を伸ばした。

 バイトに入ってきたときからずっと着けている本人の似顔絵入り――ではなく、でっかいブタの顔の描いてあるエプロンだ。その鼻のところがポケットになっている。

 かなりでかいポケットだ。多分普通サイズのトンカツが2、3枚は余裕ではいると思う。って思ったら、本当にトンカツだしてきやがった!


「おまえなんでトンカツなんかポケットに入れてるんだ?」

「何言ってるんですか。トンカツなんか入れてるわけないじゃないですか。草壁さんもオカシナこと言いますね?これ、ただの芋のタルトですよ、デザートの。ここの夕食にトンカツはまだ一度も出たことないですね。お子様セットにエビフライが付いてたことはあったけど。ポークなら2日前に、胡麻ミソダレをかけたのが前菜に出ましたけど、それのこと言ってるんですか?」

「違うよ!そんなものがエプロンのポケットに入ってること自体おかしいんだって。っていうかオマエ、いちいちここで出た献立細かく覚える前に皿の場所もっとしっかり覚えてくれよ!」

 

 もう疲れた草壁。

 デザートの残飯を食うなとか突っ込む気力もなくなった。本当言うと、甘いソースのたっぷりかかってたタルトなのだ。渡辺がポケットから出してきたとき、表面が飴みたいにテラテラしていた。こいつ黙ってみてたら次にはエビの天ぷら出して食べてるけど、あの中どうなってるんだ?とかそういうことを突っ込むこともやめた。



 洗い場チームだけが残る厨房エリアにしばらく沈黙が訪れたと思ったら、草壁以外の3人がやがて持参の水筒を持ち出してきてグビグビとやっている。

 たまに、目にしていた光景だ。そういえば、草壁以外の3人は実家暮らしとのこと。親が水筒にお茶でも入れてもたせてくれるのだろうか?

 一人暮らしでいちいち水筒や弁当持参なんて細かいことする気にならない草壁。

 各自めいめい飲んでいる水筒の中身が若干気になった。多分水じゃないのは確かだ。水ならここにあるし。

 お茶だって大きなブリキのヤカンに入って用意はしてあったりする。ということは……。



 草壁はすぐとなりで、テキーラグラスぐらいの付属コップに水筒の中身を丁寧に注いでチマチマと飲んでいる福田の手元を覗き込んだ。

「なあ、福田君の飲んでるのって、それほうじ茶?」

 色は確かに薄い琥珀色に見えた。その色なら、あるいは麦茶とかウーロン茶のホット、とかそんなところだろう。そう思っていた。

 ところが、福田の答えは違った。

「これコンソメスープです」

「こ、コンソメスープ!」

 意外な答えだ。そんなものを持参するのか?いや、冬になれば缶コーンスープ売ってたりするからそれほど異様でもないのか?

 ちょっと呆気にとられている草壁に、人の良さそうな笑顔の福田がさらっとこんなことを言うのだ。


「僕、虚弱体質じゃないですか?それで精をつけるために、たっぷりの肉でつくったこのスープを」

 そんなこと笑顔で言われてもと思う草壁が不思議そうに聞いた。

「肉を食べるより、そっちのほうがいいの?」

 するとだ。この笑顔のボウズ。


「僕、30グラム以上の肉を一度に食べると吐くんです!」

「明るい笑顔で言ってくれるなあ……」

 こんなやつに肉体労働させていいのか?



 お次。草壁を挟んで福田と反対側にちょっと距離を置いて、かなり大きめの水筒をまるでリポビタンDのコマーシャルみたいな勢いで飲んでいるのが岩城だ。

 まあ、あの筋肉バカが飲みそうなものと言ったら多分……。


「岩城クンが飲んでいるのは、スポーツドリンク?」


 すると、こいつ、ずっとアゴを上げたままの格好で器用に返事した。

「プロテインっす!」


「そうだよな……俺の読みが甘かった。たしかに君ならそう来るよね?ウンウン」

 草壁も深く頷くしかなかった。



 さて、そうなったら最後は目の前で、なんか飲んでいるデブだが。

 福田の水筒は多分500mlぐらいの容量の小さいヤツ。岩城のは小さめのダンベルぐらいだから多分1リットルかよく入って1,5リットルだろう。

 しかし、渡辺の飲んでいる水筒――いや、こいつが持参してきたのは水筒じゃない。これ見たことあるぞ、双葉荘の客室でよく見かけるものとそっくりだ。つまりコイツのは水筒じゃなく、間違いなくポットだ。


「さて、目の前でうまそうにポットを傾けてるアイツだが……アレなんだと思う?」

 草壁はすぐとなりの福田にコソッと問いかけてみた。

「さっき見たら、白っぽい色してましたよ」

 ポソッと呟いた福田の言葉を聞いた岩城が草壁のほうへ身を乗り出した

「トンコツスープかも?」

「まさかぁ……そんな異常なもの飲まないでしょ?」

「コンソメスープ飲んでるヤツが言うか?」

 思わず苦笑する草壁。

 渡辺はよっぽど水筒の中身がおいしいのだろう。自分が話題になっていることなんかお構いなしで、うまそうにコップについだ中身を喉を鳴らして飲んでは、ポケットの中から、多分ワカサギだと思われるカラッと上がった小魚を摘み出して食べていた。



 いつまでもそうやって言い合っていても仕方ない。答え合わせの時間だ。草壁が代表して渡辺に聞いてみた。

「渡辺クン、その水筒に何入れてるの?」


 もはやトンコツスープでは驚かないと覚悟を決めていたら返ってきた答えは意外に普通だった。

「これですか?カルピスです」


 それはなんとなく雰囲気ぴったりだけど、普通の答えだな……ん?待てよ?こいつが飲んでるカルピスが普通なわけない。

「僕、ちょっと嫌な予感がするんですけど」

「嫌な予感って、福田さ、いくらヤツでも原液とは言わないだろ?」

「わっかんないですよっ!お刺身の甘エビなんかは殻つきで平気で行けちゃう人だし」

「甘エビだけに、甘党かって……つまんない突っ込みさせるなよ!」


 今度は岩城が渡辺に尋ねた。

「原液じゃないよな?」

「そんなわけないでしょ。ちゃんと原液と水を1対3で割ってるよ!」

 パンパンに張った顔についた目をさらに細めながら渡辺が言った。この顔のせいで怒ってるのか笑っているか感情がつかみにくい。まあ、別に気を悪くしているわけじゃなさそうだ。


「ちょっと濃い目だけど。まあ、なくはない」

 最後は至って普通の答えに落ち着いたと思って草壁が頷いていると、デブがサラッとこう続けた。

「おかあさんのチェックが入るから、原液もってこれないんですよ」


「あいつ、今恐ろしいこと言わなかったか?」

 渡辺以外の3人がちょっと目をむいていた。渡辺の話にはさらに続きがあった。手にもった水筒……じゃなくポットを3人に掲げて見せると

「だから、チェックが終わった後に、こっそりと練乳とハチミツを足して甘味とコクをプラスしたのがこれです!」



「もう原液飲んでろよ!」


 最後には草壁がそう叫んでその日のチーム洗い場の一日は終わった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 こわいと言ったら、ここの旅館だ。

 そんなことがあってから、旅館の事務室に呼び出された草壁。そこで前回のスチャラカ営業が得意満面でゲットしてきた完全キャパオーバーの宿泊客のことが告げられた。



「あのですね……そんなむちゃくちゃな数、今のメンバーでは無理です!」

 

 怒りを通り越して、背筋に寒いものを感じながら草壁も叫ぶしかなかった。


「それはわかってるけど、なんとかしてもらうしかないのよ」

「もう予約はとってあるし」


 若女将と女将の二人から拝みたおされるように説得される草壁。しかし、彼が怒っているのは実はそれだけじゃないのだった。


「そのあと、夜の仕事の手伝いで泊りがけって、僕の体がもちませんよ!」


 そうである、宿泊客が多いから助っ人も通常以上に必要ということでまたもや泊り込み仕事をキツイ皿洗いの後に頼まれたのである。

 人使いが荒いなんて話じゃない。


「あなただからこそお願いしているの」

 普段は草壁の説得役はだいたい若女将だった。あの愛想はいいがなんとなく気持ちの篭ってない感じの嫁と比べたら、今そういって草壁にアタマを下げる女将レイコのほうは、年のせいもあるのかもしれないがなんとなく信頼感を感じる。ホントウに買ってくれてるみたいだっていうちょっと信望というのを感じさせてくれるは大きな違いだった。

 この人にアタマ下げられたら聞くより仕方ない。それに、あんまりゴネるとこの人ちょっと怖そうだし。


 

 だが、気持ちだけで仕事はできない。


 今回の話、仕事量とつぎこまれる労働力との間にまったく均衡がとれていないのだ。

「洗い場に4人は必要ですけど、あの3人組は全員合わせて一人分の仕事がせいぜいってところですよ?全然戦力不足なんですけど」

 草壁の話を聞いた芳江がケロッとこう言い放った。


「それで、長瀬さんの応援が入れば計算ぴったりでしょ?」


 いや、それではまだ一人分足りない。

「どうピッタリなんですか?」

 あまりにも簡単な計算だというのに、この人それができないのか?

 すると、芳江はイケシャアシャアと


「あの3人組で一人分。そしてあなたと長瀬さんはそれぞれ1・5人分働くからそれでちょうど4人分じゃない?」


「本当にそう思ってるなら、給料1・5人分だしてください!」




 またあの感覚がやってきた。

 雪山で遭難したみたいなあの絶望感だ。あいつら引張りながら旅館創業以来経験したことのないらしい最大級の客の皿洗いをこなすのか?

 ゆかりさん入ってくれるのはうれしいが、正直、どうなるかわからんぞ。こっちは終わったら仕事があるから悠長に残業やっているわけにもいかない。


 その後、洗い場に戻った草壁がさっそく3人組に近々やってくるという250人の団体客の話をしたところ、3人組は一応は驚いた。

「マジっすか?」

「250人分……すごい数ですね」

「渡辺君さ、今、ちょっと嬉しそうな顔してるけど。残飯たくさん出るとか考えないでね。そんなもの食ってる余裕は今度はないと思うから」


 想像通りだ、この3人組には危機感はない。なんとかなる、というか多分、草壁におんぶに抱っこでなんとかやり過ごせるという空気ビンビンなのだ。言うことがとにかく暢気だった。


「洗い物の時には長瀬さんの応援もあるけど、みんなキツイと思うから覚悟しといてね」



 それを聞いたら、急に顔が明るくなる3人組だった。まあゆかりさん一緒というは嬉しいかもしれないが。

「ここ4人いたら、なんとか回せるんじゃないですか?これで5人になるから余裕じゃないですか」


「その計算どおりになればいいね、岩城クン」




 まあ数日後のことを今からあんまり心配してもしょうがない。なるようになるか。

 これから一仕事。の前にちょっとトイレに行って来よう。


 というわけで、草壁は3人組への報告を終えると、ちょっとトイレへと向かった。



 厨房のドアを開けて、「関係者以外立ち入り禁止」の立て札を抜けてちょっと歩くと1階ロビー脇に設置されてあるトイレに行くことができる。ここがもっとも厨房から近い。


 そういえば、男子トイレの出入り口の前に清掃用具の乗ったワゴンがあったが「清掃中」の立て看板がなかったので、草壁はそのまま中に入ってすぐに足が止まった。


「あっ!」

 中ではゆかりが小便器の前にしゃがみこんで中をブラシでゴシゴシしているのだった。

 邪魔だろうから、他所のフロアのトイレに行こうと草壁が思っていたら、ゆかりは

「どうぞ」

 と言って立ち上がった。


 しばらく、そのトイレの中で二人は無言で立ち尽くしていた。草壁はちょうど入り口に一番近いところにある便器の前に突っ立って。そして、ゆかりはそんな彼に背中を向けて。


 2,3秒の沈黙の後

「あの……」

 草壁が口を開く。

 草壁の声を背中に聞きながら、やや表情を固くしたゆかりが

「な、なんですか?」

 

「これなんですけど……」

「ど、どれのことです?」

 ゆかりはずっと草壁の背中を向けたままなので、草壁の言う『これ』なるものがなんなのかは分からない。が、なぜか見ようとしない。

 なぜ、ずっと背中を向けたままなのかはよくわからない草壁。

「だから、これ……」

 草壁のほうだって、背を向ける相手に向かって膝元を指差したって伝わるわけはないのだが、言われたゆかり、ちょっと頬を染めていたりする。そして、

「振り返ってもいいんですか?」

 妙な聞き方をするのだった。

「はい」


 振り向けと言われたので、ゆかりがクルッと振り返る。草壁がちょうどこれから用を足そうと思っていた便器の中に残されたトイレブラシを指差していた。

「これ、どうにかしてもらえませんか?」


 アハハハ、私ブラシ置きっぱなしだったんだ。

 ゆかりがそれを便器から拾いあげると、再び草壁のソバで彼に背を向けて立った。


「じゃあ、どうぞ……」


「そこにずっと立ってるつもりですか!?」

 出来るかよ!!



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 というわけで、ついにキャパ完全オーバーの団体さんたちのやってくる日となった。


 その日は平日のため、大学の都合もあって草壁はちょっと遅い出勤であった。ちょうど夕食の準備が終わってからの旅館到着であった。

 もう日はすっかり暮れているような時間である。



 草壁は洗いものの時間しか経験しなかったが、あの3人組が入っている厨房で誰が夕食の準備の指揮をしたのだろうか、と思っていたら、なんと女将のレイコが社員二人連れて手伝ったそうである。

 「大変だったでしょ?」と後日、草壁が聞いたら、「あなたの苦労はよくわかったわ。でも言うことをよく聞く子達だからそれは助かった」とレイコが笑っていた。ちなみに、そのときのことを岩城がこう言っていた


「怖かったっす。料理長よりデカイ声出すから、厨房の板さんもなんか緊張してるみたいでした」


 だそうで。



 さっそく更衣室でいつものエプロンとゴム長靴に着替えをすませた草壁が厨房に入ってみると……。




 ところで今回のお客さん、全員同じ一つの団体さんである。ほぼ全館貸しきり状態での宿泊だ。

 食事のほうは、家族連れのように各部屋で三々五々バラバラじゃない。同じ時刻に揃って宴会場で夕食となる。

 つまり、洗い物がリフトに乗って降りてくるタイミングというのは、一時期にドバッと固まってラッシュになるわけだ。


 どうでもいいが、聞けば最上階に廊下を挟んで存在する大小各種の宴会場の襖を全部取り払った上で、夜の宴が催されているとのこと。真っ赤な顔した浴衣姿が、もはや裸足のまま廊下を行ったりきたりして騒いでるらしい。



 遅い時間とは言っても、草壁の到着はまだ宵の口。

 ディナータイムは始まってまだ間もない時間である。普通だったら、ちょっと先付けの椀とか蓋の類がちょっとずつ降りてくるのだが。


「あ、草壁さん、すごいことになってますよ!もうこんな数の皿が下りてきました」


 

 番重にギュウギュウ、かつ無秩序に詰め込まれた汚れ物の皿、皿。それがほぼ洗い場の厨房器具に囲まれた通路一面にちらばっている。力自慢の岩城が片っ端から下りて来た洗い物をリフトから引っ張り出しているが、もうすでに置いておく余地もないぐらいにびっしりなのだ。

 一応、箱に詰められたままではあるがパッと見、まるで地震にでも襲われたのか?と思ってしまうような光景がそこには広がっていた。


 草壁ですら息を呑む光景だ。3人組はなおさら突っ立っているばかりだった。


 時間帯や器の種類から考えても、これはいわば先遣隊。このまま本陣が到着したらどうなるんだ?


「凄い数だと思いませんか?」

 普段、能天気な岩城もさすがに不安そうな顔をしていた。

「……」

「まださっき皿が下がってきたばっかりですでにこれなんですけど、このままじゃあ洗い場が皿で埋まって身動きとれなくなりますよね?」

 さすがにこの状況で残飯に手を伸ばす余裕はない渡辺。早くも汗をかきながらもなんとなく切羽詰った雰囲気は出している。細すぎる目のせいでよく表情がわからないが。

「……」

「この数の洗い物をこなすなんて、やっぱり僕らだけじゃ無理だと思います」

「……」

 福田が動く前から青い顔している。今日はまた倒れるかもしれんぞ。


 そして、草壁は何を言われても固い顔して黙ったままである。


「草壁さん、どうして黙ってるんですか?」

 渡辺にそう言われてやっと、ムッとした顔でこう答えた。


「この状況で、正論言われても腹立つだけなんだよ!」




 とにかく洗ってくしかない。

 長袖Tシャツの袖口を大きく捲り上げると、洗い物用のゴム手袋を装着。まるでオペに臨む医師みたいになった草壁。洗い物用のスポンジは本日のために真新しいものを下ろしてきた。だからどうしたという話ではあるが。

 ちょっとした寿司屋の活魚水槽ぐらいの大きさはある洗い物シンクにはすでにお湯がたっぷり張ってある。さすがにあの3人もそれぐらいの準備はしっかりとできている。

 ならば、足元の業務用食器洗い洗剤のガロン容器のキャップを親指ではじいて戦闘モード突入だ。


「岩城クン、皿、ドンドン水槽の中にぶち込んでいっていいから。……ただし!絶対そっとだ!今日は一枚の皿も割るのはナシ。皿全体を水の中につけるまで、絶対皿から手を離すな!」

「うっす!」


「それから、渡辺君は、いつもみたいに食洗機前に……って、おまえ、さっそく残飯食ってんじゃねえよ!」

「お腹が空いてると動けないんです」

「泣きそうな顔しながら食うなよ……ん?どうした?」

 見ると、茶碗蒸しが入っていたらしい椀をスプーンも使わずに一気に飲み干した渡辺が、草壁の目の前でそれを吐いた。

「タバコの吸殻が入ってた」

「それで泣いてたのか?そのうち本当に吸殻食べるぞ、お前」

「そういうの、ちょくちょくあるんですよね……」

「それでもやめないのはすごいわ……福田……クン?」


 振り返ると、バイト初日のときみたいにして、福田がまた床に手をついて蹲っていた。まだ動く前だぞ?


「ダメだ……この量を処理するんだと思うだけで、めまいが……」

「精神的ストレスにも弱いのかっ!」



 とにかくそういうふうにして、修羅場の幕が開くことになった。

 草壁の仕事というのはだいたいメインがスポンジ握って皿をゴシゴシやって食洗機用のトレーに次々と詰めてゆくというものだが、現状ではとにかく手だけ早く動かしていたらいいという訳にはいかない。

 常に、目を四方に向けて、3人組の動きをチェックしながら、降りてくる汚れ物の推移を見て、この木偶の坊たちをいかに効率よく使うかを考えて、1分刻みに近い間隔で指示を出さなきゃいけない。


 始まって2,30分も経つと、先遣隊だったはずの汚れ物の部隊も、だんだんと数を増してきた。

 それでもまだ本格的なラッシュではない。

 が、その時点で、現在の洗い場の面子で処理できる皿の数より、送られてくる汚れ物の数のほうが多いのは明らかだった。


 体力自慢の岩城もリフトから洗い物の詰まった番重をひっぱりだすだけで

「いくらでもやってくる……キリがない……」

 そういって疲れた顔をしだした。


 さすがに今夜は渡辺だけじゃなく、草壁も額から汗をしたたらせていた。噴き出す汗をぬぐう手間さえ惜しい。が、放っておくと、睫の先に溜まったしずくが目に入りそうになるが、拭っても拭っても汗はにじみ出た。

 岩城の足元には汚れ物の大群が溜まる一方で、それをチラッと見るだけで、気がなえそうになる。

 これ、終わるのか?


 そのとき。


「おまたせ!お手伝いに来ました!」



 ようやくこちらに強力な増援が到着。これで戦力のバランスも随分と違ってくるに違いない。

 すでに、皆とおそろい(渡辺は除く)のエプロンとゴム長をつけて、まさに飛び込んできたゆかり、後ろで束ねた黒髪が一度ピョンと揺れた。

 エプロンの下はオパールブルーのパーカーと、ストレートデニムのボトム。動きやすくてシンプル。だけど卸売市場の仲買人みたいなエプロンつけてても、このルックスの女子。むさい男ぞろいの洗い場に一人飛び込んできただけで、皆の顔がパッと明るくなった。

 おもわず、草壁も安堵のため息が洩れた。



 と思ったら、入ってくるなり、ゆかりが洗い場の惨状に目を丸くしていた。

「覚悟してたけど、すごい状況ですね……」

「地獄へようこそ。……渡辺、その皿持ってくなら、これも方向同じだから一緒に持ってけ!あの棚だぞ!」

 草壁としては、そんなゆかりに悠長に見とれている場合ではない。目はちゃんと奴等につねに向けていないといけない。

 

「簡単には終わりそうにない?あっ、岩城クン下りて来た皿はとりあえず私がやるから、散らかっている箱、なるべく丁寧に重ねて、あっちにつんでおいて。ここに置いてたらきっと誰かが躓くし」

「少なくとも、僕たちには未知の領域です。渡辺、その皿の一番下!」

「わたし、夜のシフト入っているし……福田君、ちょっと漆器の洗いお願い」

「実は僕も、今夜は泊まりで、夜勤ありです」


 何?二人とも?

 一瞬、お互いの置かれている状況を知って、顔を見合わせるゆかりと草壁。


「大変!二人とも残業できないなんて!」

「ほんとうに時間通りに上げないと、えらいことになるぞ!」


 そんなことを言って、今まで以上に動くスピードが上がるのだけど、実はテンションも二人ともちょっと上がっていたりする。

 実は二人がゆっくりと話す時間もないまま、すれ違いばかりの毎日がここのところ続いていた。

 


 それからは、まさに八面六臂というか獅子奮迅というか、まあそんな無双っぷりを発揮しながら働く二人。とにかく動く。こっちで皿を洗っていると思ったら、いつのまにかポジションが交代して、食洗機係。

「遠い棚の皿は、あっちまで行かずにカウンターの上に並べておいたほうが早くないですか?」

「そうですね。ゆかりさんの言うとおり」


 テンションが上がるにしたがって、仕事を始めて2ヶ月そこそこの二人の動きが、缶詰工場の超ベテランのオバチャンパートみたいな手つきにスピードアップする。

 こんなに動けちゃうもんなんだ。


「♪~♪」

 ついにはゆかりからは鼻歌まで聞こえだしてきた。スピードは上がるとさらにご機嫌で動けるようになる。


「うわっ、また床に洗い物が溜まりだした!」

 なんていいながらも、パーカーのフードを揺らしながら、皿を両手にかかえて足元の障害物をピョンピョンと飛び跳ねて越えてゆく。ケンケンパッ!って小さい子が遊んでいるみたいにしているのを見た草壁もさすがに笑い出すしかない。


「ゆかりさん、コケナイでくださいよ」

「平気平気!」


 そして、中に入っていた皿と残飯をすべて取り出したあとの番重はあとでまとめて洗うから、今は隅っこに積み重ねておきましょう。まずはこうして抱えて……

「5つ重ねてもカラだから、とってもかるーい!こんなこと出来ちゃったりして!」


 目の上まで積み重なったクリーム色したプラスチックの番重の山を抱えると、まるで一緒にワルツでも踊るみたいにしてクルックルッと回ってみせる。

 それから片隅にポイッと重ねる。

「空になったのは、重ねてホイホイッ♪」


 聞いたことないようなメロディーに乗せて変な歌を歌いながら、山積みの番重の箱の上に軽く投げてやる。ちょっと乱暴だけど、見事につみかさなった。


「じゃあ、こっちも溜まってきたから、福田君、オネガイッ!」

 ってなぜか妙な歌に乗せて、いつぞや習い覚えたバレエのアラベスクのポーズみたいな格好で、福田に指示を出したりしている。かなりお嬢様上機嫌だぞ。



 その様子をジッと見ていた渡辺もちょっと驚いていた。横でしばらくいっしょに見ていた草壁に言った。

「楽しそうですね。長瀬さん」

「アレやりすぎて、ここにいるんだけどね」



 が、そんなふうに楽しげに働くゆかりの姿に触発されるものがあったのだろう。

 

「こうなったら、俺も本気だすしかないな……」


 今度は岩城が妙に真面目な顔でそんなことを言い出したと思ったら、バイト中は常につけているリストバンドを外し、ゴム長靴を脱いだ。。

「このリストバンドと長靴に入れていた鉛は外して、本気出させてもらいます!」

「オマエ!今までそんなもん着けて仕事してたのか?」

 草壁の目の前で、ごつい鉛の板とワッカがそれぞれ二つずつ、ゴトンと音を立てて床の上に落ちた。


「重い!」

 それを手に取ってみて、ゆかりも驚いた。これ、うっかり足の上に落としたら怪我するぐらいの重さがある……。



 そんなふうにして、普段よりも急に賑やかに働くチーム洗い場一同。

 洗い物の数は相変わらずすごい量が残っている。が皿が下りてくるピッチに押されまくることもなくなった。なんとか、戦線は崩壊せずに維持できている様子。

 リーダーの二人、草壁とゆかりの動きがいつも以上によかったからでもあるが、それに釣られるようにして3人組の動きもちょっと知らない間によくなっていた。


「なんか長瀬さん見てると面白いよね?」

「草壁さんがいないときは、もっと普通だったけど今日はすごい明るいもんね」

 岩城と福田にもそう見えているようだった。


「ん?福田君どうしたの?疲れたら無理しないで休憩してね」

「大丈夫みたいです、長瀬さん。今日は体が軽いからなんとかなりそうで」

「あっ、そう……い、岩城クン、すごい!よくそんなに持ち上げられる!その箱中身入ってるんでしょ?」

「草壁さんは危ないって言うけど、これぐらい余裕っすよ」


 フォローはいいが、あんまり岩城をおだてないで欲しいんだけどなあ……。

 横でゆかりを見ていてたまに草壁も苦笑してしまうときもあったが、まあ、たまにはこうやって褒めてあげたほうが、コイツの場合、機嫌もよさそうだし、その匙加減は向こうにまかせといてもいいか。


「みんな!ちょっとずつ、下りて来る皿の数が減ってきてるから、もう一息!ガンバロウ!……って、あれ?渡辺君は?」


 すっかり草壁と同じように汗の滲んだ顔を火照らせながらも笑顔のゆかりが、ちょっと辺りを見渡した。どこに居ても目立つはずのデブの姿が消えていた。さっき皿を抱えて棚に戻しに行ったけど、いない。




 そのとき、洗い場からは陰で見えない厨房の冷蔵庫の前に突っ立っていた渡辺。

 なぜか手に持った小さなカップを手にしばらく固まって立ちすくんでいた。



 実は動いているといつものごとく腹を空かせた渡辺。しかし今この状況では、目の前に一杯ある残飯に手を伸ばしたら怒られる。しかし、食べたい。どこかでこっそり食べれるものはないか?

 そう思った彼は、もう料理人の消えた厨房にこっそり忍び込んだ。

 そして、そこの冷蔵庫に手をかける。いかにヤツでも客に出すものには手をつけては洒落にならないということは重々承知。しかし、この冷蔵庫にはときどきあるものが冷やしてあるのを彼は知っていた。

 これなら、食べても「コラッ!」って怒られるぐらいで済む。

 と思ってやって来た渡辺が冷蔵庫に冷やしてあったプッチンプリンを手に取って、しばらく動けずにいた。

 

 そのプッチンプリンの上には小さなメモが貼り付けてあった。

「渡辺君、これ食べたらタダじゃおかないからね!」

 文面には、怖い顔でジッとこっちを睨んでいるゆかりの似顔絵イラストが添えてあった。


 すると……

「渡辺君、君の場合、まだ休憩は早いのよ」


 声に振り返ると、ゆかりがニヤニヤして立っていた。


「あっ、長瀬さん!……」

「そのプリン、ちゃんと元にもどしてね」

「あ、あの……なに後ろに持ってるんですか?」

「これ?フライパンよ」

「それ一体なんなんですか?」

「これ?カコーンっていい音がするのよ」

「どんなときにですか?」

「わかってるくせにぃ!」




「ん?草壁さん今なんか音しませんでした?僕、皿割っちゃいましたか?」

「いや、大丈夫だよ。それより、大分と少なくなってきたな、もうひとがんばりで終わるぞ!なんとか時間内に終了しそうだ」



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 そんなこんなで、いつも以上にドタバタしながらも無事、チーム洗い場の仕事は終了の運びとなった。



「みんなお疲れ様!いつものとおり乾杯、いっとこうか!」


 大きなお盆の上に、大きなカチ割り氷を入れたジョッキとブリキのヤカンを乗せてゆかりが一同のたむろするステンレステーブルへとやってきた。


「のど乾いたでしょ?冷たいお茶でもどうぞ」

 っていいながら、一同のジョッキにヤカンのお茶をナミナミ注いでくれるのはいい。が、良く見ると、お茶を注いだ後、マドラーでクルンクルンと中の氷を器用に躍らせながらかき混ぜる。その仕草はまるで……


(ゆかりさん、水割り作ってるみたいな手つき……この人、そんなにスナックのバイトやってたっけ?)


 黙って手つきを見ていた草壁がちょっとびっくりした。お茶かき混ぜるしぐさじゃない。

 

 それどころか……。

「はい、福田君今日はご苦労様でした」

 っていいながら差し出す手つき。

 片手で底を支え、もう片手はジョッキの脇に添え、相手のほうへ取っ手を向けて差し出す。ニッコリ笑っている様子と相まって、まるっきり飲み屋に飾ってある生ビールのポスターのモデルみたいだった。


 けど、そんなふうにして仕事終わりの一杯を勧められたほうは悪い気はしない。

 福田もちょっと照れくさそうに頭を掻きながらそれを受け取った。



(それにしても、明るくていい子。お姉さんから話は聞いてたけど、ゆかりちゃんそんなに水商売のバイトやってたの?随分慣れてるみたい……。ま!とにかく、おもしろい子だわ!)


 宴会も無事終わり、洗い場が気になったレイコが覗きに来たらそんな様子だった。女将はそれを見ると微笑みながら、誰にも気づかれないようにソッと厨房から出て行った。


「渡辺君、すごい飲みっぷりね?もう一杯どうぞ」

「どうも、すみません。僕、ただのお茶がこんなにおいしいなんて初めて知りました」

「オマエ、今まで ”暑い”以外の理由で汗かいたことないのか?」

 ジョッキ片手に草壁がおもわず突っ込んだ。とにかくコイツは突っ込みどころが満載だ。


「けどなんとかなってよかったですね。一時はどうなることかと思ったけど」

 ジョッキ一杯のお茶を飲み干したあと、いつものコンソメスープを飲む福田。そういえば、今日は最後までコイツも倒れずに頑張ったよなあ。


「今日は君らの動きがいつもより1・5倍ぐらいよかったからね」

 このままちょっとずつ成長してくれたら楽なんだが。草壁もやっと仕事終わりに心の底から笑顔になれるような気がした。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 

 というわけで、本日のメインのお仕事は終わったわけだが、草壁とゆかりにはまだこのあとも仕事が入っている。


「草壁さんも長瀬さんもお金に困ってるのかな?」

 なんて言いながら洗い場3人組が、仕事終わりに旅館の温泉に浸かっている頃。


 ゆかりは夜勤の人が入るまでホテルのフロント業務。

 そして、草壁はカウンターの軽食コーナーでラーメンをゆでてたりしていた。



 二人のあてがわれた仕事のうち、草壁のほうが一足さきに上がることとなった。

 

 彼が一人着替えを済ませて廊下を歩いているとそこで、まだ仕事中のゆかりとすれ違った。


 洗い場での私服にエプロンとも、また掃除中のツナギとも違って、今は旅館のサービス係の制服である黒のスーツ姿にタイトスカート。OL風というより、クルマのディーラーとかレストランのサービススタッフみたいだ。

 少しきつそうな胸元にどうしても目がいってしまうが、こうしてお仕事モードで締まった顔をしていると逆にとっつきにくい印象がある。美形というのも、そう思うとオールマイティじゃないのかもしれない。


 草壁のほうは相手が仕事中ということもあるので、ちょっと会釈程度で別れようかと思ったが、ゆかりが彼を見ると、とたんに笑顔になった。

 そして笑うと、急に子供っぽくみえてくる。かわいいい。


「あら、草壁さんはもう上がり?」

「ええ、もうこれでおしまいです。風呂入って寝ます。ゆかりさんは?」

「私もあと40分ぐらいでおしまいです」


 

 二人きりで話す機会もめっきり少なくなっていた。

 草壁はときどき思うのだった。このまま会わないままで、彼女とはいつの間にか離れ離れになるんじゃないかと。

 と、同時に不思議な感覚も感じる。

 なぜか、顔を合わせるとしょっちゅう会ってたようなとても近しい感覚。

 今も、目の前で「そうなんですか……お互い大変ですね」って言って笑っているゆかりの笑顔はとても懐かしくとても身近な気がした。

 それと、彼女のほうがちょっと何か立ち去りかねているような気がした。

 ひょっとしたら、自分と同じ気持ちなんだろうか?


 草壁は思い切って誘ってみた。

「あの、仕事が終わったらちょっとだけ、僕の部屋で飲みませんか?」

「えっ!」

「軽くお酒とつまみを買ってきますから。ゆかりさんの好きな日本酒も用意して」


 目の前にゆかりが、照れくさそうに目を伏せながら言った。


「そうですね……草壁さんとゆっくりお話するのも久しぶりですし……」



 よっしゃ!オーケーが出た!

 急に元気になった草壁が

「じゃあ、お酒は日本酒とビールでいいですか?あとつまみは適当に買っときます!」


 そう言って小走りに立ち去っていった。



 その後である。

 ニコニコしながらフロントに戻ってきたゆかりが、夜もとっぷり暮れてすっかり静かになったカウンターで交代相手が来るまで間、鼻歌混じりで座っていると


「あっ、長瀬さん、今日は一日ご苦労さま。ところで仕事が終わったらなんだけど」


 もうこんな時間には旅館にはいるはずのない女将のレイコが、普段着のままゆかりのもとへやって来た。




 一方の草壁である。

 その後コンビニに走ってカップ酒とビールと簡単なおつまみを大き目の袋にパンパンにさせて、こちらも上機嫌である。

 本日の両名の宿泊先は、例によって例のごとく、双葉荘のオンボロ寮。

 すっかりここの住人みたいになっているゆかりの隣の部屋が草壁にあてがわれていた。以前、ネコとじゃれてたときと同じところである。


 こちらも鼻歌混じりに自分の部屋に戻ってきてから、ゆかりがやってくるのをワクワクしながら待っていたのだが、彼女、いつまで経ってもやってこない。

 気になって隣の様子を伺ってみるが、ゆかりが帰ってきた様子もない。

 一体、彼女どうしてるんだろう?




 ちょうどその頃の葉月家のリビングでは、レイコと嫁の芳江の間ではこんな会話が交わされていた。


「本当に芳江さん、しっかりしてちょうだいね」

「すみません、お義母さま。あそこ、昔は男も女も関係ナシに一緒に住んでたところだから、ついうっかり……」

「今は違うでしょ?大事な姪を、あんなところで若い男と一緒にはさせれないわ」

「おっしゃるとおりです」




 その後、ゆかりからの連絡でことの次第を知った草壁は用意していたカップ酒を一人でかっくらうと

「面白くない!もう寝る!」

 と言って布団の中にもぐりこんだ。



 一方その頃、窓すらロクにない独房みたいなリネン室の中に押し込められていたゆかりも、旅館の売店で買ってきたカップ酒を一人ふてくされながら煽ると

「面白くない!もう寝る!」

 と言いながらフテ寝したそうだ。




第36話 おわり


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