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第35話 なんとかなる

 気がつけばカレンダーにはサンタさんが登場する12月となった。薬局の前に大量のホカロンが並びだす、本格的な冬の季節。



 寒さというのは、それまで暖かだと思ってると、いきなり翌日気温が10度も低くなったりするものだ。普通なら「もう冬だな」とか言いながらタンスの奥から厚手のコートを出して、物置から数ヶ月ぶりにストーブやコタツをひっぱりだしてきて冬支度完了ってところ。


 が、その備えを怠ると、生死に関わるという場合もある。



 ある晩、毛布一枚余計に被っとこうと思って寝ていると、明け方には寒くて寝てるどころの話じゃなくなったが、ストーブとか暖房器具の備えをうっかりしていて、街中で遭難しそうになった長瀬ゆかりのことである。


 なにしろ、長いこと使われないままオンボロのプレハブの建物のことである。壁は薄いし建て付けも悪い。

 窓際に立っていると、風の強い日なんかはサッシの隙間から風が微かに洩れているのがわかるのだった。夜が明けるまでの数時間、涙目になりながら、とりあえず身につけられるだけの衣服を全部つけて、ミシュランのマスコットみたいになって過ごした一夜は彼女にとってはちょっとした悪夢の夜だった。



 そして、現在は古い灯油ストーブと叔母の家から借りてきた電気毛布のおかげで、なんとか人間らしい生活は送れるようになった双葉荘の社員寮の一室。

 部屋の主の、長瀬ゆかりは昼下がりのヒトトキをここでお昼寝していた。

 お昼を食べたあとは、時には長い休憩がとれることもあって、そういうときには一眠り。というか、寝る以外に有効な余暇の使い方がなかったりする。



 白サビだらけの古いヤカンがシュンシュンと灯油ストーブの上で歌っているのを聞きながら、ゆかりが寝息も安らかに、毛布を被ってゴロンと横になっていると、トントンとドアをノックする音がした。


「はい、開いてますからどうぞ」


 少し眠い顔で起き上がるとゆかりがドアの向こうに気だるそうな声をかけた。あんまり大きな声じゃなくても聞こえるのでこれで充分なのだ。インターホンいらずである。ハンズフリーで部屋のどこに居ても外の人と普通に会話ができるという、ある意味設備充実。



「おじゃまします」

 と言って、おそるおそるドアから顔を覗かせたのは、親友の辻倉あやだった。

 なぜ恐る恐るか?驚いていたのである。いくらなんでも、家の中のプライベートルームじゃなくて、外との唯一の仕切りである玄関扉を鍵もかけずにいる?「開いてますから」というのが凄い言葉だ。



「ゆ、ゆかりさん、いつもドアの鍵かけないで生活してるんですか?」

「夜寝るときには掛けるけど?」

「昼間は鍵かけず?」

「だって、別に取られるようなものないし、忍び込もうと思えば、こっちの窓ガラス割っちゃえば訳ないだろから、気にしたって無駄じゃない?」


 部屋に入るなり、ゆかりとそんな会話を交わしたあやは驚いていた。

 それはそうかもしれないけど、貧すれば鈍す、というか。達観しているというより、この部屋の生活馴染みすぎてない?っていうか、こっちで寝起きするようになってゆかりさん、ちょっとすさんだ?



 ゆかりがレイコ叔母さんのところに働きに出るようになってから、電話でならしょっちゅう話すのだが、それまでみたいに暇になったら二人でお出かけみたいなことができなくなったあや。

 やはり、会えないとなんとなく淋しいものだから、休みの日の午後にはこうしてわざわざゆかりのいる双葉荘の寮へ遊びに来ることがあった。



 何度か足を運ぶうちに、ホコリ臭かった部屋の匂いも序々に薄らぎ、そして、来るたびにお鍋が増え、食器が充実しだし、そして、最初は畳の上に直接置いたお盆の上のお茶を二人で壁にもたれながら飲んでいたのが……



「あっ、ちゃぶ台!」


 ゆかりが被っていた毛布を畳んで押し入れに直したあと、脇に立てかけてあった丸い板を軽そうに持ち上げた。

 良く見たら、鉄の棒をU字に折り曲げて作った4脚の折りたたみ式の足がついたちゃぶ台だった。

 そういえばおばあちゃんちの物置で見たことがある。親戚で集まってもちつきしたときに一度だけ、みんなで御餅を丸めるときに出番があったものとそっくり、とあやは思った。



 表面傷だらけだから光沢はないが、合板材とはいえしっかりとした天板が乗っかったそれ、二人差し向かいでちょっとした食事したりするのにはぴったりの大きさ。


「拾ってきたんですか?」

「買ったのよ!」

「あっそうですか。でもこれ、草壁さんの叔父さんのやっているあのお店にでも置いてそうな……」

「そう、そこで200円で買ってきたの」

「ってことは、これやっぱりゴミなんでしょ?」

「人の部屋のもの指差してゴミゴミ言わないでよ!」



 あやがシュークリームを手土産に持ってきたので、二人でちゃぶ台を挟んで握りこぶしぐらいのシューにかぶりついた。

 

「なんか疲れてるのかな?最近甘いものが異様においしい」

「働きすぎなんじゃないんですか?」

「そうかも。けど、あやちゃん今日は急にどうしたの?アネモネに働きに出ないとマスター淋しがるんじゃないの?」



 ゆかりが湯飲みの日本茶を飲みながらあやに聞いた。シュークリームに緑茶というのも微妙な取り合わせだが、コーヒーなんてものがないから仕方ない。未だに冷蔵庫もない部屋だった。

 しかし、よく考えたら冷蔵庫はあまり必要ないかもしれない。

 台所の窓のソバにでも置いておいたら多分冷蔵庫にいれてあるのと変らないぐらいに良く冷えるだろうから。

 それはともかく、ゆかりに聞かれたあやはちょっと眉をしかめた。


「なんか、まだ田村君しつこくて……」




 ところ変って、その頃のアネモネでは、あやの心配どおり、田村の姿があった。

 まだ諦め切れていない様子のヤツ、休日などにはちょいちょい顔を覗かせるのだ。そして「ねえ、どっか遊びに行こうよ」ってしつこく迫ってくる。それはいいとして、最近田村と恵がなぜかよくつるんでいたりする。例の遊園地に行ったときから、実はちょいちょい連絡を取り合っている様子。まあ恵にはそのつもりがないから友達同士という感じで進展はまったくないのだが。

 本日も田村一人だけじゃなく、アネモネのカウンターには恵がその隣に座って、二人でお茶を飲んでいた。


「本当にあの二人付き合ってるの?」


 白磁のカップから立ち昇る湯気もまだ熱いホットコーヒーを前に田村が驚いていた。恵から聞いた情報が意外だったからである。


「だって、ここのお店のキッチン使って手料理をわざわざ先輩の為にだけ作ってるんだよ?こんな特別扱い普通ありえる?」


 先日あやが草壁のために作ったシャリアピンステーキを目にした恵は、まだ半信半疑ながら、草壁とあやが付き合っている可能性を感じだしていた。もちろん事実はそうじゃないのだが。

 そういうわけで、本日は田村を連れて現場に赴いたわけである。

 来るかどうか、ちょっと待ってましょう。

 なにしろ、ここのウエイトレス完全自由出勤制だから、店主にだって今日バイトしにやってくるかどうかがはっきり分からないのだ。



「じゃあさはっきりさせる為に、次の手立てをなんか考えないとなあ」

「考えるって、あんたまだなにかたくらむの?」

 どうせ前みたいなつまらない考えに違いないと思って恵は呆れている。

「だってまだ諦めるの早いと思わない?」

 打たれ強いというより、打たれるのが好きなタイプかもしれない。マゾだわ、こいつ。

 恵は隣で呆れていた。とにかく一緒にいると何かが足りないっていうのが良く分かる。


「あんたってさ、企画力と行動力はあっても、ツメが甘いのよ」



 辻倉あやと草壁圭介が付き合っているかいないか?という実に下らない話ばかりを、もうかれこれ小一時間も交わしていたりする田村と恵。コーヒー一杯で随分と粘るつもりらしいし、二人とも案外話が持つようだが……。


「いい加減、もう帰ってくれないかな?」


 そんな二人をずっと目の前にみながらカウンターに立っていたマスターがついにうんざりした顔でそう言い放つものだから、さすがに面の皮の厚い田村も驚いた。

「それが客に向かって言う言葉ですか!」


 が、マスターは別にこの二人がコーヒー一杯でくだらない話を一時間もしていることにうんざりしているわけじゃなく。


「君らがしつこいから、最近、あやちゃんまでうちに寄り付かないんだよ」

 ひ弱な小動物が危機察知能力にすぐれているのに似て、色恋沙汰にうといあやは田村が来るのをなぜか敏感に感じ取って逃げるのだった。ゆかりの不在に加えて、アネモネのマスターには実に痛い話なのだった。

「えっ!私までいっしょの扱いですか?!」

 『きみら』というセリフで田村と一くくりにされた恵が嫌そう眉をしかめる。が、最近田村とつるんでいるからそう思われたのも仕方ない。




 舞台は再び、双葉荘のオンボロ寮の一室。

「まだ、相変わらず田村君に追いかけられてるの?」

「だからここに逃げてきました」


 狭い部屋の真ん中に置いた古いちゃぶ台を挟んで話し込む女子二人。ゆかりとあや。部屋の中にはなんにもないものだから、普通に話していても室内にはよく響いた。

 見渡すとテレビもない。地デジを受像できるような環境ではそもそもない。

 タンス一つない。着替えはまるで旅行先みたいにして、トランクの中に仕舞いこんであった。


 ゆかりはちゃぶ台を挟んで「逃げてきました」なんて結構明るく笑っているあやの顔をしばらくじっと見ていた。

(はっきり言えばいいのに、中途半端に逃げようとするから……)

 良く考えたら、前の遊園地だって鬼ごっこみたいにして遊んでるみたいでもあるし。そう思うと、親友とは言え目の前のあやが本当のところ何を考えているのか良く分からない気もしてくる

(案外この状況を楽しんでたりして……結局、あれだって草壁さんとデートしてるし)



 ゆかりは急に黙り込んだ。


「ん?どうかしました?」

 あやがそんなゆかりに声をかけると、急に話をするのも億劫そうにゆかりは小さなちゃぶ台の上に顔を伏せた。

「朝からずっと動きっぱなしだから、疲れちゃった」

 

 あやはそんなゆかりを見下ろして

「お疲れでしたら、ゆっくり寝ててください。時間がきたら、私が起こしてあげます」

 

 あやの優しげな声に思わずゆかりも、伏せた額の下から

「ありがとう」

 と呟いて、微笑むのだった。




  話はちょっと脱線するのだが、このころの草壁に関してのあることをちょっとだけ触れておく。


 元々は「皿洗い」という名目でこのバイトを始めた草壁が、気がつけば布団敷きから軽食ラウンジの店員、クルマの運転手と色んな仕事を押し付けられているというのは以前にも書いたことだ。

 そんな彼にまた新たな仕事が一つ増えた。

 と言っても、ごく簡単な仕事なのだが――

「歓迎看板への客名書き」

 である。


 ある日、草壁がバイトの為に双葉荘にやってくると、女将と若女将が歓迎看板を挟んで難しそうな顔で腕を組んでいた。どうしたんですか?と聞いたら、いつも看板を書いてくれる人が急に休んでしまったとのこと。一応客前に見せるものだから、恥ずかしい字を出すわけにもいかないが、適当な人がいない。


 話を聞いた草壁が

「あの……うまくいくかわかりませんけど、僕ちょっとやってみましょうか?」

 と申し出た。


 実はこの男、書道六段だったりする。しかも師範の資格まで持つかなりの能筆なのである。


「これなら、文句ないわ。お上手。熱心にお稽古なさったのね?」

 筆跡も鮮やかな楷書体の看板を見て満足げにレイコが頷いていた。


「お得意さんに出す挨拶状や、店の張り紙なんかを手書きで立派にかけるようにってことで、仕込まれました」

 そんなわけで物心ついたときには筆を握らされていた草壁だった。高校時代までは割と熱心に稽古もつんでいたのだった。


「じゃあ、ゆくゆくはご実家を継ぐの?」

「いいえ、売り上げも先細りの零細商店ですから、子供に継がせる気はないようです。僕も継ぐつもりありませんし」


 という訳で、以後何度か歓迎看板の書記役というものもおおせつかることとなった。

 まあ、どうでもいい話だが。




 そして話は再び、双葉荘のオンボロ寮の一室へと戻る。

 

 本当にお疲れの様子のゆかりが小さなちゃぶ台の上にちょこんとオデコを乗っけると、じきに彼女は本当に寝息をたてだしていた

 あやはそれを見てゆかりの背中に毛布をかけてあげると、壁にもたれて持参の文庫本を静かに繰っていた。


 再び部屋の中には、灯油ストーブの上で水蒸気の糸を立ち昇らせるヤカンの唸る音だけが響いた。


 

 どれだけの時間が経っただろうか?周囲には長い間人の気配すら感じられなかったが、やがて遠くから聞こえてきた靴音が高くなってきたと思ったら、小さいが早いテンポでややせからしくドアをノックする音が聞こえてきた。


「はい」

 部屋の主は、安らかに就寝中の様子。代わりにあやがそう声をあげると、亜麻色の岩波文庫「ゲーテとの対話」をちょうどゆかりの頭と並ぶようにしてちゃぶ台の上に伏せた。


「ゆかりちゃん、ちょっといい?悪いんだけど、今日の夜のお仕事をね……」


 そう言って入ってきたのは、双葉荘の若女将芳江である。本日は洋装の様子。若女将と言っても客のまだいないような早い時間帯なら今日のように、スーツにスラックスというようなOL風の装いのこともあった。彼女の場合、まだ若いし、動きやすい格好を選択することもよくあるのだ。

 因みに接客時には和服が多いが、時にはフォーマルスーツ姿で客前に出ることもあったりする。完全に余談だが。


 芳江はあやの姿を見ると、パッと表情を緩めた。

「あら、お友達が来てたのね!」

 なんだか、自分の子供が連れてきた友達でも迎えるような笑顔になる芳江。


「お邪魔してます」

 あやが軽く頭を下げると同時に、ちゃぶ台の上のゆかりの頭が持ち上がった。一人眠そうな顔をしているが、さっきチラッと聞こえた芳江の言葉は耳に残っていた。また、急な仕事か……。

 ゆかりが眠い目をこすっていると、いつの間にか芳江は勝手に部屋の中に上がりこんでいた。

 ん?なんなの?いきなり上がりこんできて。そう思ったら、芳江はゆかりを無視するようにまっすぐあやの元へしゃがみこみその手をギュッと握り締めた。


「これから冬休みシーズンで忙しくなる時期なの。ちょっとうちで仲居さんのバイトしてみない?」


 まさに上玉見っけ、である。ここ双葉荘の仲居さん、どちらかというとベテランさんが多かったりする中で、こういう初々しい若い仲居さんが一人ぐらいいるのも客に受けるに違いない。事実シーズン中はネコの手も借りたい忙しさ。仲居の臨時補充について考えている真っ最中に、うってつけの人材が目の前にやってきたのだった。



「ゆかりさんと一緒にいると、いっつも変なことに巻き込まれるんですよね」


 突然のことに目を白黒しているあやがポツリと呟く。


「わたしのせいみたいに言わないでよ!」


 思わずそう叫んだら、ゆかりの眠気もあらかた吹き飛んでしまった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 ところで、ここ温泉旅館「双葉荘」にも営業社員なるものがいる。その中の一人、数年前に中途採用で入ってきたもう40半ば過ぎの男。営業職としての能力は、まあ普通。コミュニケーション能力が高いというより、誰とでも調子よく話は合わせるが、どうも肝心なところで信用がおけないような軽さのただよう、いつも作り笑いばかり浮かべている社員だ。

 履歴書を読むと、クルマのディーラーから始まり、工場、弁当屋から訪問販売などなど、いろんな営業職を転々として歩いてきたような男である。

 まあ、そんな社員の詳しいことはおいとくとして、その頃、彼が得意満面な顔でとってきた客があった。


 とある高校の柔道部ご一行様というものである。


「やりましたよ!100人の団体客ゲットしました!」


 その報告を持って旅館に戻ってきたとき、どれほど得意顔だったか。

 未だ観光シーズンとは言えないこの時期、これだけの客が宿泊するというだけで大した売り上げである。まあご一行様がご一行様だけに、大金を気前良く落とすような上客じゃないにしても、ちょっとした大口客には違いない。

 には違いないが……。

「大会出場の選手と応援の部員たちねえ……初めての学校だけど、なんでうちにしてくれたのかしら?」


 女将のレイコがそう思ったのも無理はない。まるっきりツテのないところからいきなり出てきた話だからだ。おそらく学校にだって出入りのツアー会社だってあるだろうに、今まで付き合いのなかったこちらへ宿を取ってくれるというのはどういう風の吹き回しか?

 と思ったら、この営業職、契約の条件に妙なサービスを請け負ってきた。


 道着の洗濯サービス。だという。


「汗で汚れた柔道着をこちらのほうで洗濯するというサービスが利きました!」

 そんなサービス勝手につけられても、と思ったのだが一緒に話を聞いていた芳江は嬉しそうにウンウン頷いた。

 なんでも試合に出るのは、個人・団体あわせて10名ほど、残りは応援らしい。ということは……。

「まあ、アテもあるから、問題ないかと」

「アテって、まさか、ゆかりちゃん?今はたまたま居るからいいけど、居なかったらどうするつもりなの?」


 とりあえず売り上げが伸びた、というだけでご満悦な芳江の様子。女将のレイコはそんな嫁の様子に物足りない様子。すると、芳江がケロッとこう言った。


「そのときは、私たちでなんとかするしかないですよねぇ」

(今、この人『私たち』って言ったわよね……)

 そのときそんな芳江の言葉を聞いて、隣で一人レイコは目を剥いていた。


 が、いずれにしても団体客さん100人はゲットできたのであった。




 そんなことがあってから数日たったある日。

 場所はやはり、あの双葉荘のオンボロ寮である。となると、登場人物の一人は長瀬ゆかりであるし、そしてもう一人は本日も手土産持参で遊びに来た彼女の親友、辻倉あやである。


「今日は、アネモネのマスターから差し入れを預かってきました」


 あやがそう言ってちゃぶ台の上に並べたもの


「あっ、チーズケーキ……でもこれって……」

 目の前に置かれた差し入れのお菓子はうれしい。が、これ見覚えがある、というか……。

「ぶっちゃけ言っちゃうとお店の売れ残りです」

 あやが笑った。まあ、売れ残りでもおいしければそれでいい。こっちは毎晩のプッチンプリンを楽しみにしている身の上だから。



 何度も言うが、長期滞在を想定しているわけじゃない荷物の少ない部屋だ。もともと来客なんてあんまり予定していない。だから、チーズケーキ食べるにしても、使うお皿は不ぞろいなもの。というより、旅館で使っていたもののお古みたいなのだったりする。

 食器が揃っていないのは、片方がフォークでケーキを崩している目の前で、もう一人がスプーンを使っているのを見てもわかる。


「マスターも気にかけてるんですよ。それで、いつまでここにいるのか聞いてほしいって……」

「知らないわよ。こっちが聞きたいぐらい……」



 ちゃぶ台を挟んで二人してチーズケーキを頬張っていると、またもや部屋のドアをノックする音。音は小さいが扉を連打する間隔がちょっと短めなのは、聞き覚えのある音だと思ったらやってきたのは案の定、若女将芳江だった。



「ゆかりちゃん、頼みたいことがあるんだけど」

 そう言って、さっさと玄関扉を開けて部屋の中に入ってくる芳江。

「若女将……また、不意打ちの仕事依頼ですか?」



 せっかくのチーズケーキをのんびり味わう余裕もくれないようなせからしい芳江の様子にゆかりもあきれていた。

 が、芳江はそんなゆかりには目もくれず、「あら!この前の子!」と嬉しそうな声をあげてあやのほうに近づくと、以前と同じようにあやの手を取った。


「この前の、辻倉さん!うれしい!うちのバイト受けてくれるのね!」


 やる気などないあやのほうは、突然のことに驚くばかり。困り顔でゆかりに助けを求めるように

「こんなのばっかり……なんとかしてください」


「そういう押しに弱いのは、あなたの悪いところよ!」

 ゆかりは怖い顔でマジな説教をするのだった。



 まあ、そんなことはそれとして

「えっ、柔道着の洗濯?」


 芳江の仕事依頼というのがこれだった。前もって分かっているならもっと早く言ってくれたらいいのに、今からの仕事を突然言いつける。うっかりしてたのよ、って向こうは笑うが言われたほうはたまったもんじゃない。


「なんで、そんなことを、私達が……」

 仕事の内容を聞いたゆかりが、さり気なく口走った一言にあやが密かに驚いた。

(今、この人『私達』って言ったよね?)


「けど、10名分程度だから、大した量じゃないでしょ?洗濯機2回もまわしたら充分じゃない?」

 問題はそういうことじゃないんだが、今さら言ってもしょうがない。



 芳江は仕事を一方的に押し付けると、こんなところに長居は無用とばかりさっさと玄関ドアに手をかけていた。

「もうそろそろ、お客さん帰って来るみたいだから、裏手の洗濯機で洗って干しといてあげてね――」

 そうして、外に出ると、こんな一言を最後に残して去っていった。

「――辻倉さんは後ほど、事務所に来てくれる?バイトの件、話つめましょう」

「私、ここで働くなんていってませんから!」

 すかさず、声をあげるあやだったが、まるでそんなセリフをシャットアウトするみたいに、言葉が終わる前にドアは閉じ、芳江の足音は遠ざかっていた。



 突然のことにしばらく寮の小さなワンルームの中で呆然とする二人。やがてあやが口を開いた。

「ここで働いたら、今のゆかりさんみたいな目にあうんでしょ?」

「私は特別な事情があるからこうだけど、普通はそんなことないよ」

「なんで、ちょっと引き込もうとしてるんですか!」




 とはいえ、仕事は仕事。さっさとケーキを食べ終わったゆかり。あやのほうも一人でここに居ても仕方ないので、荷物を持って彼女と一緒に外に出た。ゆかりさん、これからお仕事なら私はもうお暇しよう。ウロウロしてたらあの若女将に本当にバイト押し付けられそうだし。

 


 ちょうど寮の横手、以前変な三毛猫がうずくまっていた二階へと続く鉄骨階段のステップの下に古臭い2槽式の洗濯機が置いてあるのだった。

 一応動くには動く。ちゃんと現役である。今ではゆかりが自分の洗濯物を洗うのに使うこともあるし、普段は厨房で使っているタオルや布巾などを洗うのに使われている。

 

「これよ」

 

 ゆかりがあやに洗濯機を紹介するのだが、言われてもあやにとってみたらだから何?って話ではある。


「へえ……けっこう古いものですね。でもまあ柔道着10着ぐらいだったらなんとかなりそうですね……それじゃ、私そろそろ」


 そう言ってあやが帰ろうとしていたときである。

 ちょうど旅館正面玄関へと回ることのできるガレージエリアを通って、ジャージ姿でガタイのいい坊主頭が数人連れ立って、建物の陰から姿を現した。


 しばらくキョロキョロしてなにかを探しているようだったが、ゆかりが手招きをするとなぜかダッシュでやって来た。相当元気を持て余している様子。


「道着のお洗濯でしょ?」

 近寄ってきた学生たちにゆかりが声を掛ける。すると坊主アタマたちは、目の前に並ぶ美人二人にちょっと照れくさそうに頭を掻きながら。


「すみません、お願いします」

 と言って妙にペコペコして、自分たちの道着を差し出すのだった。

「そこのカゴに入れて置いてください」

 ゆかりが足元に置いてある、スーパーの買い物カゴのお父さんみたいな大きさのバスケットを指差すと、全員律儀に「お願いします!」と一人ひとり頭をさげながら、道着をカゴに放り込んだ。

 そこそこ大きなカゴだったが、厚手の道着が数着放り込まれただけで、ちょっとあふれ出しそうになっていた。



 そうして去っていった学生たちを見送り、あやが「じゃあ、私も……」と言いながら一歩足を進めた時。

 

 さきほどの学生が建物の陰に消えたと同時に、同じジャージを来たボウズ御一行さまたちの姿がゾロゾロとやってくるではないか。全員道着を小脇に抱えている。

 洗濯機の前に並ぶあやとゆかりの姿を見つけると

「あっイタイタ!」

「マジかよ!」

「ほんとだ!」

 なにが、『ほんと』かは良く分からないが、一同二人の姿を見つけると次々とそんな声、というより歓声がわきあがった。

 それも数名とかの騒ぎじゃあないのだった。



 一瞬で、巻き網を引き上げた直後の漁船の甲板みたいに、道着の山がつみあがった。




 ちょうどその頃の厨房では、草壁も早めに出勤してきて、本日の団体さんの夕食の準備にとりかかろうとしていた。

 100名というと、ちょっとした人数である。観光シーズン中の少し暇な時、程度の客入り。つまりそこそこ忙しいはずなのだが。

「皿数は少ないですね」

 福田がステンレスカウンターに皿を並べる横では、渡辺が一人鍋用のコンロに固形燃料をセット。まだ食い物のそばにはうかつに近寄せられない状況だったりする。

「なんか、割安の学生の団体さんらしいですね?」


 草壁は草壁で、間違いのないように黒板にある人数とコース内容を確認。

「今日はだから、皿数は少ないし洗い物も楽そうだな……ところで、岩城はどうしてる?」


 そうして一人姿の見えないバイトの姿をキョロキョロと探す草壁。どうもこの3人というのはちょっと目を離すと何をしだすかわからない。

 自分で動くだけじゃなくて、お目付け役までしなきゃいけない。早く自立してほしいんだけど。

 そう思っていたら、福田がこんなことを言うのだった。

「岩城クンなら、外で腕立て伏せしてましたよ」

「あいつ、いつまでトレーニングするつもりだよ!とっくに仕事の時間だっていうのに!」


 

 そこで、呆れ顔の草壁が勝手口から外に出てみた。たしかにそこに岩城がいた。こいつ何をぼんやりと突っ立ってるんだ?

「おい、仕事してくれ!」

 と、草壁が声をかけると、岩城が遠くを指差した。

「すごいことになってますよ、アレ」

 岩城の指差したその向こうにちょっとした山を挟んで立ちすくむ女子二人の姿が見えた。




「これ、10着じゃなくて……」

「100はありますよね?」


 道着の積み上がってできた白い山を目の前にして、ゆかりとあやは呆然とするしかなかった。やがてゆかりがポツリと呟いた。


「お願いがあるの」

「?」

「見捨てないで……」

「ゆかりさん、な、泣かれても私にもどうしたらいいか……」


 と、そのときに二人に声が掛かった。

「どうなってるんですか?これ」




 ゆかりから事情を聞いた草壁はとりあえず洗い場のほうは一時放っておいて、旅館の事務室へと走った。


「なに考えてるんですか!あんなもの一人でどうにかなるわけないでしょ!」


 ノックもなしに血相変えて飛び込んできた草壁が、わき目も振らずに事務室奥に座る若女将芳江のもとにやって来たと思ったら、いきなりそう叫んだ。

「く、草壁クン。一体なに怒ってるの?」


 芳江もレイコも、最初その草壁の様子に驚いていたが、話を聞くとさらにその内容に驚いた。

「えっ、100人分?つまり全員の道着を洗わなきゃいけなかったということ?」

「知りませんよ、こっちがどうなってるか聞いてるんですけど」

 草壁の話を聞いた芳江、最初こそ驚いていたが、そのうち悪びれる様子もなく


「そういえば、今日は合宿をして汗を流して、明日の試合って聞いてたけど。わたし、汗を流すっていうのは明日試合に出る人たちだけかと勝手に勘違いしてたら、そうじゃなかったのね?」


 とか言いながら一人でウンウン頷いていた。


 横で聞いていたレイコも迂闊だったと思った。この件の打ち合わせは芳江にまかせっきりで、自分はタッチしてなかったが、確認ぐらいはするべきだった。ちょっと油断して目を離すとまだこういう失敗がある。けど、起きてしまったものはどうしようもない。

 まさか、本当に私と芳江さんとで柔道着洗濯しなきゃいけないのかしら?これから旅館の業務だってあるんだけど……。

「弱ったわねえ……」


 そう思っていたら、草壁が口を開いた。

「手はないわけではないです」

「どうするの?」

「旅館のクルマのキーを二つ貸してください。それと必要経費、あと一人分の人件費を確保してもらえますか?」




 事務室での話を終えるとl再びダッシュで裏庭の寮にまで戻る草壁。あんまり忙しくないと言っても厨房の仕事、あいつら3人に長時間まかせっぱなしはマズイ。しかし、ここにいると要らない用事ばかりが増える。どうなってるんだ!



 待っておくようにとは言ってなかったが、ゆかりさんだけじゃなく相方のほうも相変わらずの呆然とした顔をして道着の山の前で待ってる。とりあえず首尾は良し。

 

 ダッシュで再び洗濯機前に戻ってきた草壁、しばらくあやとゆかりの前で息を切らしたあとに、さきほどの事務室でのいきさつを簡単に話してから、1本のクルマのキーを二人の目の前にちらつかせた。


「……というわけで、ここでさばききれない分は、2台のクルマに分乗させて、コインランドリーで洗濯することにしました」


 草壁の言うことを黙って聞く、ゆかりとあや。

 

「では、まず一台はゆかりさんにお願いします」

 

 ゆかりは恭しく両手で草壁の手からキーを押し頂いた。


「わかりました」


 そして2台目のキーをポケットから取り出すと同じようにそれを指先でゆらゆら揺らして

「で、こちらのキーを預かってもらうのは……」

「預かってもらうのは……」

 草壁の言葉尻を同じようになぞるゆかり。

 そして、二人揃って、あやにアタマを下げた。

「お願いします」



「なんでそうなるんですか!」


 まさか、この道着の一件、ただのハプニングじゃなくて、自分を引き込む為に計画されたんじゃないの?


「僕は洗い場の仕事があって手が離せないから、そのかわりにこちらの洗濯機の分見ておきます」

「私の話聞くつもりないでしょ?」

 あやの言うとおり、もはや彼女の都合など考えることなく、どんどん話が進んでいった。


「とりあえず、二人は旅館のクルマをこっちまでまわしてきて下さい。ナンバーはキーに書いてあるからわかるでしょ?僕は、空いているダンボールかなんかに、道着つめて待ってますから」


「だから、わたし別にやるって……」


「あやさんのバイト代、ちゃんと確保してますから」

「あやちゃん、クルマの場所、私わかるから付いて来て!」


「あのね、二人とも何勝手に……」

「じゃあ、駐車場こっちだから、行こう!あやちゃん」


 見事な連係プレーで辻倉あやをこの面倒な仕事に引っ張り込んだ草壁とゆかりであった。




 その後、ゆかりとあやは、12月だと言うのに窓を全開に空けたクルマを運転すると、近くのコインランドリーへ別々に分かれて向かった。ちなみに窓を全開にしたのは、そうしないと車内がすっぱい匂いで充満してエヅキそうになるからである。いや、開けてもちょっと油断すると吐きそうになった。


 そして二人とも運よく客のいないガラガラのコインランドリーに到着したあと、ありったけの洗濯機を使ってそれぞれ数十着の道着の山をわりと簡単に洗濯することに成功した。



 一番大変だったのは草壁だったかもしれない。洗い場の3人の監督をしながら時折、寮の脇に設置されている洗濯機へと何度も走って往復したのだから。



 そんなふうにして、冬の少し足早な日暮れ時にさしかかろうとする頃にはあやも自分の割り当ての道着を洗濯し終わって、双葉荘へと戻ってきた。

 さすがに乾燥まではやっている時間がなかったものだから、脱水だけ終えた半乾き状態の道着の詰まったダンボールを抱えた両手には同じく道着のつまった大きな紙袋をさげながら、よろよろと寮のある裏庭へとやってきたところ、すでに帰ってきていたゆかりが、大量の洗濯物を干すための急ごしらえの物干し場を作って待っていた。



 一応洗濯物を干すための物干し台にポールが数本あるのだが、今回は量が量だけにそれだけじゃとても収まりきらない。


 足りない分はロープを渡してそこに道着をぶら下げるという作戦。


 一つは寮の鉄骨階段の足とそこから離れたところに立っている樹の間に張り渡し。さらに敷地を囲う金網フェンスと樹の間に張っているのもあれば、無人となっている寮の格子窓と樹の間をつないでみたりして、その一帯が、タテヨコナナメ洗濯ロープとそこにぶら下がる道着で埋め尽くされていた。



 洗濯ばさみだって必要量を満たすためには、旅館のストックに加え、葉月家から借用してもまだ足りないということで、結局100円ショップに走って必要数をなんとか確保。

 バケツに山盛りとなった洗濯バサミというのはちょっとした壮観である。



 洗濯物を干すだけでも一仕事だ。



 裏庭一帯に無秩序に広がった洗濯ロープの下で、真っ白の道着が大量に風にゆれる様は、なんだかちょっとした迷路を思い起こさせる。

 

「ふうぅ……やっと終わった」

 薄い青色した作業着と揃いの作業帽の下ににうっすらと滲んだ汗をぬぐいながら、ゆかりがちょっと微笑んだ。もうコートが欲しいぐらいの気温だが、仕事を終えるとすっかりと体はすっかり温まっていた。


「よかったですね。日が暮れるまえに何とか終われて」

「あと、洗濯機の分が何着か残ってるみたい。そっちはもうちょっと掛かりそうっだって。草壁さんの話では」

「それで終わりですか?じゃあもう終わったも同然ですね」


 隣では、あやも熱さのために少し頬を染めていた。



 道着のほうは、最終的に寮の雨どいとフェンスをロープで結ぶことですべて干し終わることができた。

 そのあたりまでやってくると、ちょうど湧出する源泉を処理するボイラー室の無骨な建物がある。宿泊客に豊富な温泉を供給するために、ろ過装置とボイラーがただいま全力で稼動している様子だ。



 そしてそこまでやってくると、目の前には夕方の海が見下ろせた。小高い丘の急斜面が木々に包まれながら下っていった先では、小指の先ほどの船が曳航する様子が見える。


 ボイラー室の脇からちょっと顔を覗かせてすぐに地下へと潜ってゆく太いバイプにはきっと熱い温泉が本館へと送り出されているに違いない。

 

 とりあえず一仕事を終えた二人は、そのボイラー室の外壁にもたれて並んで立っていた。

 ザラッとした金平糖みたいな白いモルタル壁の感触のせいか、まるでひと気のない学校の校舎裏を思い起こさせる一帯である。



「疲れちゃった。けどあやちゃんがいてくれたからなんとか終わったわ」

「こっちはひどい目にあっちゃいましたけど」


 大型ボイラーの稼動する重低音の響く夕凪の時間。町の雑踏からも遠く、旅館の喧騒からも離れた丘の片隅に立っていると、動きっぱなしで火照った体に、夕刻の冷気がかえって心地よかった。


「外に干しといて大丈夫かな?」

「凍るほどの心配はないし、天気もいいから、一晩あれば乾くでしょ」


 とりあえず張り渡すロープの支柱になりそうなものはすべて使ってつくった道着のカーテンだった。頑丈そうなところなら、ロープを上下二段に渡して、びっしりと白い道着を吊り下げてある。洗濯物というより白い幔幕みたいになったそれを二人とも横目でチラっと見た。

 

「ここ景色いいですね」

「私ここに住んでても、ボイラー室の裏なんて来ることなかったから初めて見るなあ。寮とボイラー室の場所入れ替えてくれたら、景色いいのに……」


 しばらくそんなことを話ながら、二人は白いカーテンの向こうのボイラー室の裏手にジッと立っていた。


 やがて、あやがポツリと


「あの……」

 静かだったが、あえてゆかりのほうを見ようとはせずに

「私、別にゆかりさんに説教するつもりじゃないんですけど……」


「何?」

 年下の親友のそんな言葉には、けどやはりずっと言いたかった何かを言いたそうな、重い調子が篭っていた。


「もうすこし、素直になってもいいと思うんです。いろいろと事情はあるんでしょうけど」



 急な言葉に驚いたゆかり。ハッとなってあやの横顔を見るが彼女はゆかりの視線を避けるようにずっと白いカーテンとは反対がわに広がる夕刻の海を見つめていた。

 小さな漁船は水脈を広げながら、あやの睫の中へと吸い込まれていった。


 


”ときどき思うの、私だって……そうなれたらいいなあって”


 

 あやがその言葉を聞いて、ゆかりのほうを見ると、彼女は微かに笑みを浮かべてじっと葡萄色に暮れつつある夜空を見上げていた。



 それからちょっと間を置いて――。


「これで、こっちも全部おわりましたよ!あの洗濯機動くの遅いから、大変でしたよ!」

 白いカーテンの向こうで草壁の元気な声が聞こえたと思ったら、番重の上に数着の洗い立ての道着を乗せて二人の目の前に姿を現した。



「じゃあ、最後の道着、干すのはゆかりさんに任せときますね。僕も洗い場戻りますから」

「私も、もう帰ります。あの、草壁さん、私のバイト代受け取って置いてください。あとで私もらいますから」

「え?なんで?」

「私、若女将と顔あわせたくないんです」

「なにかあったの?」

「うちでバイトしないかって言われて……けど草壁さんやゆかりさんみたいになるのいやですから」

「どういう意味だよ!」


 

 そんなことを言い合いながらあやと草壁が白いカーテンの向こうに去ってゆくのを、ゆかりはしばらくジッと突っ立ったまま見送っていた。




 というわけで柔道部ご一行様100名をなんとか捌ききったわけである。




 ところで、例のあの営業社員であるが、その後再びまた大口団体客を引張ってきた。

 別にやり手なんかじゃないのである。しかし、釣りと同じで掛かるときにはそういうのが次々と来ることがあるようだ。


 まるで、一人でカジキマグロ釣り上げたみたいな顔をして戻ってきたこの営業職が、女将の前で披露した釣果というのがこれだった。


「いやあ、この時期に250人の団体客なんてちょっとありえないですよ!」



「あなたのおかげよ!うちは大助かりだわ!」

 とにかく売り上げが上がって、オメデ鯛って様子の若女将は一人上機嫌なのだが、一緒に報告を聞いていた女将レイコのほうは、喜ぶというより驚くほうが先だった。

「ちょっと、お待ちなさい!うちのキャパはせいぜいが150か、160人ですよ。それなのにそんな数……」


 言われたこの営業、まるっきりご心配無用とばかりに胸をはるのだった。

「心配いりません、部屋はかなりすし詰めですが、それは先方も承知です。そのために料金はサービスしましたが、儲けはきっちりでます」

「料理も、対応可能です。さきほど板長とも打ち合わせ済みです」

 芳江もそう得意げに付け加えた。


 しかし、である。


「洗い場、大丈夫なの?今のメンバーなのよ」

 レイコにはそこが一番の心配だった。


 が、芳江は平気なものである。レイコにこう言い放って、この話は終わってしまった。



「草壁クン、いるから、なんとかなるんじゃないですか?」


 

 

第35話 おわり

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