第33話 ステップアップ
お話のほうは、あれから1週間も経った頃。もうすっかり11月も半ばを過ぎ、ケーキ屋とフライドチキン屋がクリスマスに向けて本気を出そうとしているような時期。
朝も6時に起きては、さっさと身支度を済ませると、葉月家のまわりの掃き掃除から始まるのがゆかりのここでのの日常となっていた。
まだ、いくらも使用人として働いたわけではなかったが、このところレイコ叔母さんからお小言を食らうこともあんまりなくなっていた。
ぼんやりしていると、いつのまにか忍者みたいに忍び寄ってきて「ぼんやりしない!」と言われることも、今では随分と少なくなった。
最初の頃は苦になっていた仕事も、慣れると案外と楽しいかったりする。
別に笑いながらやっているつもりはないのだが。
「ゆかりちゃん、楽しそうね。お洗濯干すのがそんなにおもしろいの?」
庭先に出て洗濯物を干していると、背後から若女将がゆかりに声を掛けてきた。旅館業務の合間を縫っては、レイコと若女将の芳江が自宅と職場を行ったりきたりするのが葉月家の日常なのだ。
本日も、和服すがたもすっかり板に付いたしなやかな足取りで、裳裾を軽くひらめかせながら、洗濯物を干すゆかりの元へと近寄ってきた。
「いえ。私、笑ってました?」
芳江にからかわれているような気がして、ゆかりはキョトンとなった。本人、まったくそんなつもりはないのだが。
「笑ってるってほどじゃなかったけど、Tシャツ干しても、丁寧に皺を広げて、ウンウン頷いたりなんかしてるから、まるっきり趣味でやっている人みたいに見えちゃったわ」
「えっ……そうでなんですか?」
芳江に言われて、ちょっと意外な気がした。別に特に意識していたわけでもなかったので。すると芳江はさらに続けた。
「手桶洗うのだって、毎日タワシで隅から隅まで丁寧にゴシゴシやって。雑巾も、おろしたてのシャツでも手洗いするみたいに、汚れが綺麗に落ちるまで揉み洗いしているのを見てると、いくらお義母さんの言いつけでも、好きなのかな?って私、不思議だったんだけど?」
「いいえ……別に、そんな趣味はないです」
まるで、そんな自分を変った人だと言いたげな様子の芳江に、ゆかりのほうもちょっと気恥ずかしい気分がして、肩をすくめるのだった。
「けど、最近は、あんまりお義母さんのお小言もないみたいね?」
「どれだけ言ってもダメだから、呆れられちゃったのかも」
ゆかりが謙遜して言うと、芳江がこんなことを言った。
「そんなことないんじゃない?だって、姿勢、最近とてもよくなったし」
「あ……そうですか?」
姿勢が良くなったと言われたのは素直にうれしいゆかりだった。
このことに関してこういうことがあったりした。
例の彼女がさせられている姉さんかぶりなのだが、最初は違和感もあったが、慣れるとどうってことはなくなってきた。
そして、いつぞやレイコ叔母さんから、なぜいつもその被り方をするように言いつけられていたかの意味が彼女なりに分かりかけてくると、動き方の基本というのもなんとなく身に付くようになった。
レイコからはしょっちゅうのように「姿勢を正しなさい」という指導を受けていたゆかりである。もちろん普段からそれほど姿勢が悪いわけではなかったが、叔母さんの目から見るとまだまだのようだった。
それで、あるとき気がついた。姿勢を正す、と言われると、つねに背筋をまっすぐ伸ばすということに気が行ってしまっていたが、それだけではないということ。
背中だけでなく、頭のテッペンにまで意識を持っていかないとうまく行かない。
とは言っても棒切れのように直立不動でいるということでもないのだ。要は頭を必要以上に動かさないように心がける。キョロキョロしない。そのとき、頭の両脇に垂れている姉さんかぶりの手ぬぐいがしょっちゅうブラブラしているようでは、いけない。というような呼吸で動くようにすれば?
ただし、こうなると、行動全体はスローモーションに見える。
しかし、叔母に言わせるとそれでいいのだそうだ。
「セカセカ動いていると、早く仕事ができているように見えるけど、そうでもないもの。動作はゆったりと見えるぐらいでちょうどいいの。大体、仕事というのは、早くこなすのではなく、確実にこなすことを心がけるべき。早く済ませようなんていう心がケチな了見よ。」
ゆかりが思ったことを叔母にぶつけてみたところ、そういう言葉が返ってきて、ちょっと驚いた。
最初のころはモタモタするなと怒られていたからだ。
「それは、あなたがぼんやりしていたから、ちょっとムチを入れただけ。仕事というのは、動きながら考えるほうが、じっとしてるよりいいことだってあるのよ」
「それはそうと、ゆかりちゃん、午後から忙しい?」
話は戻って、葉月家の庭先である。洗濯物を干すゆかりを呼び止めた芳江は別に、ゆかりをからかいたかったからではなかった。彼女に頼みたい用事があったからである。
「いいえ、今日はお掃除の仕事もあまりないので空いてますが、なんでしょうか?若奥様」
レイコからは、ゆかりを使用人としてケジメを持った接し方をしなさいと指導されていた芳江だが、義母が見ていないところでは、普段どおり「ゆかりちゃん」と話しかけることも多かった。しかし、ゆかりはそれに狎れるようなことはなかった。今日も、呼びかけに際しては「若奥様」という決まった言葉を用いている。
「じゃあ、うちの子を幼稚園まで迎えにいって、帰りにお買い物頼めるかしら?」
「わかりました」
「ありがとう。じゃあこれ、わたしの自転車のキー。使ってもらっていいから」
芳江はゆかりに自分の自転車のキーを渡すと、再び旅館業務の方へと戻っていった。
一方、芳江の自転車を委ねられたゆかりのほうは、しばらく手の中に握り締めたそのキーをジッと見つめて立ちすくむのだった。
(じ、自転車……って、やっぱりアレのはず……)
昼休みには、割烹着を脱いで近くのカフェまで昼食にでかけたゆかりの午後いちばんの仕事というのが、芳江から頼まれた、真奈美ちゃんのお迎えということになるのであるが。
「これ、どうしよう……」
ゆかりは片手に芳江から預かった自転車のキーを握り締めながら、しばらく悩んでいた。
葉月家玄関先に駐めてあるその自転車、いわゆるママチャリである。ごくありきたりなタイプのものである。そしてそれは芳江が普段乗っているというだけでなく、娘といっしょに買い物に出かけたりするとき、子供を乗っけられるように、前ハンドルにチャイルドシートを取り付けてあるものだった。
背の高さなら芳江より高いゆかりには、乗りこなせないようなものではないのだが、この、前ハンドルにはチャイルドシート、そして、後部キャリアのところには、大き目のカゴがついているという、完全にママさん仕様の”ザ・ママチャリ”。割烹着と姉さんかぶりには慣れたゆかり。だが、まだこんなママチャリには馴染みがなかった。いろんな意味で乗るのにちょっと躊躇してしていた。
すると、そこにやってきたのが、レイコ叔母さんだった。
「あら、長瀬さん、どうしたの?おでかけ?」
ゆかりは、芳江からの依頼を話すと、叔母は眉をひそめた。そして、言下に
「そんなものに乗るのはおやめなさい」
と言った。
「乗りなれない自転車に、よそ様の子をのせて、転げでもしたらおおごとよ」
「はい」
たしかにそれはゆかりにも気になっていたことだった。
レイコは、ゆかりと並んで目の前にある芳江の自転車を見ながら、フッとため息をついた。
「本当は芳江さんにも、自転車は勧めたくないのよ」
まただ、とゆかりは思った。どうして、思うだけで言わないのだろう。それにしても、叔母さんは芳江さんのことになると、私の前ではいつも悩んでいるように見える。
「そりゃあね、時間の節約だとか、自転車に乗せてるほうがフラフラ勝手に歩き回られるより安全とか、まあ、いろいろあるだろうけど――」
今日もそうだった。いつも若々しく見える凛々しい叔母がちょっと疲れているようにも見えた。
「――誰しも、急ぎたい時ってあるでしょう?そういう心のスキの出来るときに、クルマよりずっと乱暴な運転ができるってことなのよ」
それまで、一人ごとのように呟いていた叔母が、そこで、ゆかりのほうをジッと見た。
「事故なんて、めったに起こるものじゃないけど、起きるのはそんなときよ」
叔母は優しく教え諭すように、ゆかりに語り掛けた。
「お買い物は真奈美と一緒にお散歩に行くぐらいのつもりでゆっくり行ってらっしゃい。子供とお出かけするときというのは、それぐらいの気持ちの余裕が必要よ。分かってないようでいて、子供というのはとても敏感です。あなたの心に余裕がないときは、子供にもそれが伝わるものだから、それこそ気をつけなさい。
小さな神様が隣でいるのだというつもりでちょうどいいのよ。
それじゃあ、行ってらっしゃい。」
そういって、去ってゆく叔母の後ろ姿をゆかりは黙って見送った。
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そんなある日の夜の飲み屋。
双葉荘近くの駅前にあるそこは、見た目は小奇麗な料理屋みたいにしている割には、リーズナブルな値段が売りの庶民派なお店。豊富そうに見えるメニューには揚げ物ばっかりというのが若干気になるが、味に文句言わずにちょっと一杯ひっかけるには一見客でも、お一人様でも気を使わずにいられそうな雰囲気のお店だった。
「とりあえず、バイトの終了を記念して、カンパーイ!」
そんな店の片隅のテーブルで、そんなふうにグラスを合わせているのが、草壁と双葉荘の洗い場バイトの先輩達であった。
ついに、草壁以外のメンバーが揃って洗い場を去ることになった最後の夜に、その日の出勤メンバー3人で軽く打ち上げがわりの酒宴となっているのだった。
それぞれバイトとしての期間はマチマチなメンバー達。話を聞いたら、一人は1年ほど、もう一人だって半年過ぎたぐらいなのだそうだ。
だから、バイトをやめるといってもそれほど大きな感慨というのもないのだろうが。
串揚げを大皿の上にザッと並べて、互いに摘みながら話をしていると、先輩バイトの一人からとうとう新入りに関しての話が出てきた。
「そうそう、草壁クン知ってる?新しいバイトのこと」
「このまえのやつらか?あれは違うだろ!」
草壁にとっては気になる話である。ところが、二人の先輩は新入りの話を大爆笑しながら言うのだった。
「知ってるんですか?どんなのです?」
パッサパサの豚バラロース串を口の横に引きながら草壁は、ちょっとイヤな予感がした。
彼らだってロクに知るはずのないバイトのことで、なぜこの人たちは大爆笑するのか?
よっぽど強い印象があったに違いない。それも悪い方向に。
草壁があんまり心配顔になっているせいかもしれない。相変わらず半笑いを浮かべながらも。
「いや、やっぱり、知らないほうがいい。たぶん、俺たちが見たのは採用はされないはずだから」
と言うが、もし採用されたらどうするんだ?
草壁にしては、自分の仕事に直接かかわる大問題だった。
「気になりますよ、教えてください」
見た目は普通な串カツだが、食べてみるとぼってりとした重いコロモがついているのだった。この店の揚げ物あんまり大量に食べると、胸焼けしそうだ。それよりも、話の内容がどんどんと食欲を失わせる。
「言っとくけど、これは俺たちが事務所で見た光景の話だから、採用とか不採用とかはわからないからね」
そう前置きして、先輩は、先日たまたま事務所で行われたバイト採用の面接の模様の一部を草壁に話して聞かせた。
「そこに3人並んでたんだけど、一人がさ、デブ。もう11月だろ?外歩いてたら、ダウンジャケットみたいなのモコモコに着込んでる人だっているじゃない?それなのに、そいつTシャツ一枚で、汗かいてるんだよ。もう見た目が暑苦しい。それに、フウフウ言ってるし」
「動けるんですか?うちの職場、体力的に結構ハードですけど」
「知らないよ。採用するかしないかは若女将か女将が決めることだし」
「で、もう一人のやつも、これもなんか知らんけど、半ズボンはいてるんだよ。膝ぐらいのヤツね。夏かよ!って思うぐらいの。こいつも半袖のシャツだったな……。なんなんだろう。で、野球帽を後ろ被りしてるんだけど」
「まさか、それもデブ?」
「いや、そいつは違った。ちょっと小柄だけど、見た目すげえがっちりした体してたから、なんか鍛えてるんじゃないかな?」
「へえ……じゃあ、体力はありそうじゃないですか」
「草壁クン、今、ちょっと安心したでしょ?」
「なんなんですか?その油断するなみたいな顔しないでくださいよ。なんかあったんですか?」
「だって、俺達が入ったとき、そいつがでっかい声出しながら、ハッ!ホッ!ヤッ!とか言いながら、若女将の前で、顔真っ赤にして、空手の型の演武してたんだぞ?それも、やめろって言われるまで延々と。途中で俺達が入ってきたのを目にしたら、こっちにこうやって、手首返したり、コブシ突き出したりしながら近寄ってきてさ」
「なんか、組み手でもさせられるのかと思ったよ」
「それでさ、女将も呆れて声も出ないものだから、部屋にいたほかの社員さんの近くによっては、自分の空手の腕前を見せ付けるみたいにして、真剣なって、ヤッ!ハッ!って、みんな、なんなんだコイツって顔で見てるだけでさ」
「草壁クン、あいつ、体力あっても多分、空気とか全然読めないヤツだよ。使うの苦労すると思う」
「……あ、あの……もう一人いるんですよね?それもなんか強烈な?」
「いや、もう一人のは、そうでもないんじゃないかな?ちょっと小柄で痩せててさ、坊主頭なんだけど、そいつは普通だったな」
「ちょっと暗そうな雰囲気だったけど……ん?草壁クン、全然飲んでないけど、どうしたの?」
話を聞いて、思わず暗い顔になってグラスを置く草壁だった。
まさか、そんなのが本当にあの忙しい職場にやってくるのか?
「心配そうな顔するなって!あれ、面接だけだろうから、多分取らないよ」
「そ、そうですよね……うち、時給はいいし、募集かけたらやってくる人、結構いるでしょうし」
「そうそう、今、草壁クンが心配したって始まらないんだし、それに若女将だって、自分のところの職場に変なのを送り込むなんてするわけないだろ?」
「そうですよね」
「けどさ、ただ気になることがあってさ」
「なんですか?」
「俺達が、事務所を出ようとしたときに、若女将がこんなことを言ってたんだよね」
「なんですか?」
「『まあ、草壁くんが居てくれるから、なんとかなるでしょ』って」
「採用するつもりじゃないかっ!!」
その晩、食べ過ぎた安物の串カツのせいかどうか分からないが、珍しく草壁は深酔いをした。
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さて、そんなことがあった翌日の草壁である。
本日は新入りバイトが3人はいるので、夕食の準備から入ってくれるようにということで洗い場にやって来た。
嫌な予感をビンビンに感じながら、厨房のドアをくぐると、そこに3人が立っていた。
「あーっ!」
一目見るなり、草壁は深いため息をついた。もう一目みて分かるのだった。
これは、間違いなく昨日先輩達の言っていた3人組みだ……。
「あっ、ちょうどよかったわ、草壁クン。これから入ってもらう新しいバイトの子たち。ちょっと紹介しておくわね」
もう見るからに使えそうにないって3人を背後に控えさせて、若女将の芳江はニコニコしていた。あんたエライのを採用したとは思わないのか?
若女将の紹介で、初対面同士が軽く会釈を交し合ったりした。
新入りは、緊張のせいか、みな若干表情が硬かったし、草壁の顔も引きつっていた。傍目にはとてもぎこちない挨拶を交わしたのだった。
しかも、である。
「それじゃあ、詳しいことは先輩の草壁クンに聞いてちょうだい。じゃあ、あとよろしくね」
若女将は、簡単な紹介だけすますと、4人を洗い場に文字通り置き去りにするようにして、さっさとどこかに消えていってしまった。
こっちだって、新入りだっつうの!
とりあえず、新入りの3人であるが。
まずパッと見、一番目立つ、太っちょ。
これが、名前を「渡辺」という。
第一印象から、とにかくいろんな意味で目立った。まずデブ。相撲取りというほどのガタイはないのだが、お腹の脂肪のせいで、いっつも胸を張っているような体をしている。
細い目は、もともとなのじゃなくて、そのあたりまでたっぷり着いた脂肪のせいで顔全体が腫れぼったいからである。
洗い場での仕事中は、全員厚手のビニールでできた丈の長いエプロンを着用する。これと足元にゴムの長靴という組み合わせが、洗い場バイトの仕事着ということになる。
もちろん、いずれも旅館に備え付けのものである。
ところが、この渡辺だけなぜか、違うエプロンをしているのだった。
「トンカツのとんべえ」ってロゴが胸元にあって、腹にはでっかく豚のイラストが書いてあるものだ。
因みに、豚の鼻のところが大きなポケットにもなっているのだが。
「渡辺君だと、うちのエプロン入らないのよ、それで彼だけは自分のを持ってきてもらっているの」
ブタがブタのエプロンしてやがる。
どこの店のものかは知らないが、この渡辺は、このどっかの小さなトンカツ屋のキャラクターとそっくりなのだ。まさか、こいつ自分専用のエプロンしてるんじゃないのか?とさえ思うぐらいに。
その次、これもすぐに分かった。採用面接で空手の演武をやったやつだと。
渡辺と同じでやはりエプロンの下には半袖のTシャツだ。動いてたら暑くはなるが、まだ腕まくりには早すぎる、というのが多分普通の人の感覚だと思うが、もう見た目から暑苦しい。
名前を「岩城」という。こいつはデブではない。
背は低いが、かなり筋肉質というのはTシャツの下に見える二の腕を見てもよくわかる。
つまり、見た目「ズングリ、ガッチリ」
四角い顔した、短髪。黙っているとどうってことはないが、ちょっと口を開くとなんとなく感じた――。渡辺というのは、見た目が暑苦しい。しかし、返事をするときに「はい」のかわりに「ウッス」と言うコイツ、性格的に暑苦しい。
最後の一人、気の弱そうな顔をしたヒョロっとした痩せっぽっち。
名前が「福田」だそうだ。
態度も表情も固いのは、緊張しているせいかもしれない。少し華奢な見てくれだが、話してみると、こいつは他の二人に比べたら普通だった。
しかしである。
目がしょっちゅう泳ぐ
なりたいわけじゃないが、洗い場のリーダーみたいになった草壁が、「こういうバイトの経験あるの」というありきたりな質問をするだけで、まるで、警官から職質されたドロボーみたいになって目が泳ぐ。
そうとう、気が弱くて、ナーバスな性格のようだ。
若女将が去ったあと初対面ということもあって、草壁のほうからちょっと話をしてみた。
まずわかったことだが、3人ともたまたまこのバイトに同時期に応募してきて偶然一緒になったということ。
そして、揃ってフリーターなんだとか。
さらに、全員同い年で、草壁より一つ年下。
ちょうど先輩、後輩という職場の立場と重なるので、そこは指示もしやすい。
しかし、動く前から感じた。
多分、3人とも使えない。
ショベルカーを手配したはずのに、どうしてスコップが届くんだ?
で、新入りバイト3人組は初対面同士ではあるが、新入り同士という連帯感があるせいか、片隅のほうで、それなりに互いに馴染んでいるのだった。
「何をするんだろうね?」
渡辺が暢気なことを言っていた。客に出す夕食の準備と、皿洗いだよ。聞いてないのか?
「洗うんだろ?ウッシ!こうやって。気合入れないとな!」
そうだけどさ、岩城クン。皿って言うのはコブシで突くものじゃないから。
「僕、ついていけるかな?」
泣きそうな顔しないでほしい、福田君。泣きたいのはこっちだから。
3人から少し離れた小さな腰掛に一人座った草壁は、ひそかに頭を抱えていた。
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ちょうどそんなときの葉月家の庭先のこと。
「そうなの?お義母さん、そんなこと言ってたの……」
「はい」
新入りバイトの紹介を手っ取り早く済ませた若女将の芳江は、自宅に戻ると干しておいた洗濯物をゆかりとともに取り込んでいた。
任せっぱなしでもいいのだけど、いずれいなくなる臨時雇いの家政婦なのだ。甘えるわけにはいかない。それに、こういうところは義母であるレイコは黙っていてもしっかり見ているというのは、口うるさく言われなくても分かる。
物干し竿にぶら下がる、2世帯5人分の洗濯物の向こうには、広大ではないが庭石とちょっとした築山をあしらった小奇麗な和風の庭園が広がっていた。
和室の障子戸をあけたその向こうの景色を考えて注文した純和風な庭である。
幸いにして、家を囲む生垣の背が高いのと、隣の家ともゆったりと空間がとってあるせいで、洗濯物を庭に干すのに、あんまり隣近所に気を使わないで済んだ。
その日、芳江が庭に戻ってきたところ、もう洗濯物の取り込みをしているだろうと思っていたゆかりの姿がなかった。帰ってると思っていた娘の姿もない。
もう真奈美を幼稚園から連れて帰ってきてもいい時間なんだけど?
と思ったら、ゆかりが真奈美の手を引いて、歩いて帰ってきたところに出くわしたのだった。
あれ?ゆかりちゃん自転車使わなかったの?
と芳江が聞いてみて、やっとレイコがゆかりに何を言ったのかということを知らされた芳江だった。
「自転車のこと、そんなに思ってるなら、はっきり言ってくれたらいいのに……あっ、この洗濯バサミもう壊れちゃった……だめね、安物は」
ゆかりとともに、家族の洗濯物を取り込みながら、ため息をつく芳江。ゆかりはなんと答えていいか判らずに、ただ黙々と仕事をこなした。足元では、幼稚園から帰ったばかりの真奈美が、真鍮でできた古めかしい洗濯バサミをもてあそんでいた。そのうち、それでうっかり自分の指を挟んでしまって、「イタイ!」と言って泣きそうな顔をして眉を顰めた。
「こらっ!イタズラしないの!当たり前でしょ?痛いのは。」
芳江は、真奈美の指を噛む真鍮の洗濯ばさみを摘んで取り上げてしまった。痛いけど、せっかく自分が遊んでいたおもちゃを取り上げられた真奈美はちょっと不満そうな顔をした。
「亡くなったおばあさまがいてね――」
手元はちゃんと動かしながらも、芳江は静かに言葉を続けた。
「――古い人は今でも大女将って呼ぶ人で、私は、その人が亡くなってから嫁いだのよ。この洗濯バサミ、そのおばあさまの形見なんですって。お義母さんが大事に毎日使っているけど、もう50年使ってるそうだから、ちょっとした骨董品よね?……とても厳格な方で、お義母さんは厳しく仕込まれたって聞いたけど、お義母さま、私には厳しいことを言わないのよね……」
普段は明るい芳江が、まるで、義母から見放されているとでもいいたげな思いつめた表情をして黙り込んだ。
ゆかりは黙ってその横顔を見守るしかなかった。
と、そのとき、
「キラーン!へんしーん!」
こんどは布団タタキを片手に持った真奈美が、どっかの魔女っ子ヒロインの変身シーンの真似をしながらそれを振り回すものだから……。
「ああっ!真奈美!だめじゃない!洗濯物がみんな落っこっちゃったでしょ!!」
芳江の声が響く中、布団タタキに引っかかった物干し竿がカランと地面に落ちて、取り込み残しの白いシャツが何枚も地面に落ちてしまった。
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やがて夕食の準備に入ることとなった、草壁と新入り3名のバイトたち。
夕方から始まる夕食の準備というのは、フロアが汚れ物の入った番重でぎっしりになってしまう戦場のような洗い物と違って、仕事は淡々と流れ作業で進む。
ということは、体力的には大変な仕事ではない。
ただし、それは、各自が自分の仕事をキチンと一人前こなしてのことである。
まだ繁忙期ではない客の少ないオフシーズンと言っても、数十名からの客の夕食の準備というのはそれなりの仕事量にはなる。
「じゃ、まずこの皿を、あそこの黒板に書いてあるでしょ?この皿はAの客の数だけ出す。で、この皿はBコースの客の数だけそこのステンレス台の上に並べていって」
「うっす!」
「おい!並べるだけじゃなくて、ちゃんと揃えてよ!板さんたちの仕事がしやすいように、詰めて並べて!」
「うっす!」
「じゃあ、福田君は客の全体の数だけ、この小皿にこんな感じでお漬物をもりつけてといて」
「それから、渡辺……おい!何してるんだ?」
「うまそうですね」
「客に出す料理食べるなよ?」
「大丈夫です!そんなことはしません!」
「キリッと言うけど、それ当たり前のことだから」
「前の職場でそれやって、クビになってますから」
「福田君、ちょっとあの渡辺って子から目を離さないでね」
「こ、こわい人ですね」
草壁だってまだ新入りに近いというのに、仕方なくリーダーみたいな役回りを押し付けられてしまっていた。
とりあえず、右も左もわからない連中に指示を出すのだが、指示は出しやすかった。
あれやって、これやってと言えば3人とも、割と素直に指示を聞いてくれた。
が、動きが遅い、というより、不器用。
渡辺が動けないのは見たまんまだから驚かない。しかし、体力だけはあるはずの岩城も動くには動くが、要領が悪いから、動作が鬱陶しいだけで、こなす仕事量はというと、渡辺とどっこいどっこいだったりする。
福田だけは、すこしマシだった。
しかし、これは3人に共通して言えるのだが、指示された仕事が終わると、まるでゼンマイの切れたおもちゃのように止まる。
他の人が忙しそうにしてるなかで、ヌボォッと突っ立っていることにあんまり抵抗を感じないらしい。
感じて欲しいのだが。
改めて感じた。これは非常にマズイと。
普通なら、一連の仕事の流れという本線から入って、そこから脇の仕事を枝葉のように伸ばしていきながら全体の仕事を一人前にできるように指導するというのが筋だと思うが、コイツら、あんまり物覚えも良くなさそうだ。
さっきもそうだ。
この皿はAコースの皿だと言った矢先に、別の皿をAコース料理用に出して、板前に怒鳴りつけられている岩城だった。
渡辺は、できた料理をずっと見ているだけだ。仕事しろ!って言って、やっと動き出す。
そして、ここの料理はうまそうですね。とうっとりとした目でぼおっと突っ立っている。皿の場所を教えてもすぐ忘れる。絶対、こいつはトランプの神経衰弱、激弱だろう。
仕方ないので、最初は任せる仕事を絞り込んでから、少しずつ覚えてもらう幅を広げることにした。余計なことを覚えさせようとすると、最初おぼえたことを忘れるからだ。
あとは、適宜、そのつど、細かく指導するしかない。
「渡辺君、次は緑の大皿を出して!場所覚えといてね……岩城クンは出さなくていい。そのかわりにできた料理を箱に詰めてリフトで上に送っちゃって!福田君は、ちょっとこっち手伝って。漬物できたらラップかけて冷蔵庫……そっちじゃなくてガラスケースのほうの。そ、そっちに入れて、こっちに来て。一緒にお椀の準備手伝って」
もはや、草壁に与えられているのは一人分の仕事ではなくなりつつあった。
しかも、その合間である。
「草壁クン!」
と板場の職人から声がかかる。「これ、さっき注文来たけど、そっちわかってる?」というような感じで、板場との打ち合わせもこなす。仕方ない、そんな役目、草壁以外のメンバーでは到底無理だから。
打ち合わせと言ったら、仲居さんだって時々やってきては、「今日のお客さん、小さな子ども連れだから、子供用の食器セットも二ついっしょに上げてくれる?」「晩酌したいってお客さんの要望があるから、夕食といっしょにお銚子も2本、熱燗につけてお願いね」というようなことまで、実は洗い場スタッフの仕事だったりするのだった。
そして、そういう一切の窓口はいまや草壁一人に全部のしかかってきていた。
しかし……。
(ほんとうに、なんとかなっている……)
心配になってこっそり厨房に顔をだした女将レイコの前で、まだ入って間もない草壁が使えない3人のバイトに文字通り手取り足とりの指示を出しながらも、なんとか仕事を停滞させずにこなしているのだった。
厨房の片隅にたって、しばらく見つめるレイコであったが、その顔はやはり曇っていた。
この新入りバイトを採用するにあたっての最終判断は、いつもどおり若女将の芳江に任せていた。が、一応自分の立場として、反対はしておいたのだ。
”芳江さん、洗い場のバイト、まさか、あの3人を採用のつもり?”
”はい”
”本当に大丈夫なの?いい人が集まるまで、前の子たちを引き止めて置くとかできないの?”
”ベテランはお金もかかるじゃないですか?こちらが引き止めるとなると、さらに色もつけてあげないといけないだろうし。洗い場なんて、誰が入ったって、似たようなもんじゃないですか?厨房とは違って”
”簡単に言うのね……”
”草壁クンもいるし、なんとかなるでしょ”
芳江の考えは至極暢気なものだった。ただできた料理をリフトで送って、皿洗っておしまい、そんなバイト誰がやっても似たりよったりというのだ。
考えることは、合理的なのだが……。人というものを数で考えるような”クセ”が抜けない。
今日もそうだった。
結局、芳江の言うとおりなんとかなりそうだからよかったが、なんともならない時のことを考えて、レイコのほうは、一人多めに社員の出勤を増やして洗い場の増援をこっそり確保していた。
結果オーライなのはいいけど……。
レイコは小さなため息とともに、厨房を後にした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その後、ちょうど一通りの夕食の準備も終わると、洗い場スタッフ4名がいつもの仕出し弁当を食べているところに、どんぴしゃのタイミングで同じく食事に訪れたゆかりだった。
「あっ、顔ぶれ一新したんですね」
「ええ、今日からこのメンツになるんです」
多分、ゆかりが洗い場のメンバーと一緒に食事をとるのはこれが始めてのことと思われる。
(き、綺麗なひとッス……)
なんとなく会釈を交わすだけで、同じ席についたこの美人割烹着を3人組みは、ただ時々チラチラと盗み見るようにして様子を伺うだけだった。
草壁も改めて紹介する気にもなれなかった。すでに疲れきっていた。
そして、仕事を終えて帰ろうとする板場の職人たちも未だに、誰ともわからないこの割烹着を遠目で見ているのだった。
「結局、あの子なんなんだ?」
「ここで弁当食っている以外、何やってるか誰もしらないんだよなあ」
実のことを言うと、先日退職したバイト仲間には草壁の口からあらましのことが伝えられていたが、事実を知ったと同時に彼らはいなくなったので、結局、旅館の中では謎の人なのだった。
だが、問題はこのあとだ。
つまり仕事本番にあたる洗い物のラッシュ。
「まずは、みんな慎重にやってね!無理に急がないでいいから。皿割っちゃったりしたら大変だし、それで怪我でもしたらもっと大変だから。特に、ガラス!これには特に気をつけて扱ってね」
「ウッス!」
洗い物を下ろす最初と最後にだけ、各階の詰め所の仲居さんから連絡がはいる。本日も「今から下ろすからねえ!」という元気な仲居さんの声が聞こえてきたとおもったら、いきなり、洗い物で満載の番重が5つも6つも下りて来た。今日は出だしからハードだ。
「岩城クンは、とりあえず降りてきた箱を全部引きずり出して、さっさとリフト上げちゃって。仲居さん、待ってると思うから。残飯はこっちに。で、皿はシンクに……ああっ!そんなに乱暴にしないでいいから!」
「ういっす!これぐらい楽勝っす!」
「やめてくれ!番重なんて2,3段重ねてもったら充分だよ。力あるのはわかったから、その5つも6つもソバ屋やの出前みたいにして持つなよ!落としたら大参事だから!」
「それから、渡辺ク……おい!残飯食うなよ!オマエ!何考えてるんだ!」
「残すなんてもったいないですよ。ウマそう……」
「いいから、料理、というか、その残飯から離れろ!お前はとりあえず食洗機の前に張り付いておいてくれ!」
もう、最初からこんな調子なのである。どいつもこいつも一瞬たりとも目が離せない。
福田だってそうだ。
コイツは一番まともだろうと思ったから、シンク前に貼り付けた。とりあえず汚れた食器の大まかな汚れだけ手で落とす。そして、仕上げのために専用のケースに入れて、大型の業務用食洗機に放り込むという役目を頼んでみた。渡辺だと、絶対手が遅いだろうし、岩城みたいなガサツなヤツにやらせたら何枚皿を割るかわからない。そういう意味では、もっとも使えそうだと思っていた。
が、草壁が
「福田君……」
と振り向いたら、ヤツがいない。
あれ?と思ったら――。
「ダメだ……いつもの貧血症が……」
青い顔した福田が、シンクのフチを掴んで床にへたりこんでいた。
「一番まともそうなオマエも、そうなのか!」
真っ白に燃え尽きる。
その日の仕事をやっとこさ終えた草壁の様子を一言で表現するとそれしかなかった。
明日からこれでやっていけるのか?という不安すら抱かなかった。ある意味爽快な気分でもあったが。
とにかく終わった。それだけだった。
「ここ、こんなにキツイんですか?」
さすがに体力には自信のあるはずの岩城も四角い顔を汗だくにしながら驚いていた。
「君達が、もうちょっと仕事に慣れてくれたら、今日の5倍は楽になる……」
草壁は思うのである。
体力のある岩城が疲れているのは、動きの要領が悪いからだ。張り切っているのは分かるが、洗いあがった皿を手に持って、それがどこに直せばいいかわからないので、あっちに行ったりこっちに行ったり。そのつど指示はする。そのたびに「了解っす!」と大変元気のいい返事をする。で、その次に同じ模様の皿を棚に戻そうという時になると、さっき教えた場所を忘れてしまっていて、厨房のまったく反対側の棚の前で、「あれえ、おかしいっすね」と考え込んでる。そんなこんなで、動きが無駄ばかりなのだ。
渡辺は、疲れたような様子を見せている。じっさい汗ダルマだ。
しかし、こいつの満足そうな顔……。
一応気がついたら、そのつど注意はしたが、こいつきっとタラフク食べたに違いない。残飯を。
そして、福田。
オマエ、体弱いのはわかるが、ずっとへたり込んでいたじゃないか?疲れた顔してるけど、どれだけ動いた?言っとくが、デスクワークの職場じゃないんだからな。
とはいえ、思いっきり動いたあとに飲む冷えた水のうまいこと。
ビールジョッキにナミナミ満たした氷水で乾杯という、この洗い場の仕事終わりの恒例行事を4人でこなして本日の業務終了である。
洗い場バイトが仕事を終えると厨房の一日は終わる。
厨房や隅のほうの明かりは節電のため落ち、壁脇に並ぶステンレス製の業務用の食器棚のあたりは鈍い色をして暗がりに沈むなか、いつも弁当を食べるステンレステーブルを囲んで4人はよく冷えた水を喉に流し込んでいたのだが。
その中の一人が
「腹、減った」
と言いながらいつの間にかプリンを掻き込んでいるのだった。もちろんデブの渡辺だ。
初日からおやつ持参とは随分と用意がいい。食い物に関してはよく気が回りのか?
不審に思った草壁がなんとなく聞いてみた。
「そのプッチンプリン、どうしたの?」
聞かれた渡辺は、まん丸っこい指で小さなプラスティックスプーンを器用に使いながら、ヒョイパクヒョイパクっとものの数口で、プリンを勢いよく口に放り込みながら。
「奥の冷蔵庫の中にあったんで食べてるんです」
応えを聞いて草壁も呆れずにはいられなかった。
「あったから食うって、当たり前のことのように言うなよ……」
多分客に出すようなものではないと思うが。知らないぞ、こいつ。
その後、4人そろって大浴場の湯船に浸かっているとき草壁はあることに気づいた――。
ものの5分もすると、「のぼせそうなんで、先に出ます」といいながら、ヨロヨロと湯船を出て行った福田はもともとそんなものだとして……。
「ここ、いいところっすね、仕事おわりに温泉に浸かれるなんて」
「料理もおいしかったです。エビフライ、でかくて、時間経っている割には衣もサクサクでした。」
とか言って暢気に湯船に浸かっているこいつら、本当はあんまり疲れてないということ。
そして、当面、こいつらに過度の期待はできないということ。
それから、渡辺は残飯を平気で食うということ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
もうどうにでもなれ、と思いながら、旅館を出た草壁が一人、駅までの夜道を歩いていたときである。
まだ人通りも少ない民家の多い裏通りといった路地を、トボトボと歩く人影を目の前に見つけた。
ジーンズにパーカーというカジュアルなその人影。長い黒髪を灯火に艶やかに光らせてはいるものの、足取りが妙に緩やかで、かなり俯き加減。ときどき、手を挙げて目のあたりを触っているせいでもあるみたいだが。
一目見ただけで、草壁にはそれが誰か、というのはすぐに気がついた。
(あれ、ゆかりさんだよな?)
たしかに見覚えてのあるシルエット。顔は見なくても雰囲気で分かる。
歩みが随分と遅いせいで、急がなくても草壁はじきに追いついた。
一応、確認のために、横顔をチラッと見たら、まさに彼女だ。
「ゆかりさん、どうしたんですか?こんなところで」
草壁の声に彼のほうへ振り向いたゆかりは、泣いていた。
両頬を伝う大粒の涙が、薄闇の中で小さく光りながら地面に落ちた。
それを見て、思わずギョッとした草壁。
「わたしのプリンが食べられてた……い、一日の心のオアシスだったのに……」
ゆかりは、ワサビ寿司でも食べたみたいな顔で涙をポロポロと流すのだった。
「ぷ、プリンで泣いてるんですか?」
「プリンで泣いちゃだめですか?」
「そんなにプリンが食べたいんですか?」
「食べたい」
「じゃあ、食べさせてあげますから、泣かないでくださいよ」
「……な、なんで草壁さんがごちそうしてくれるんですか?」
「ま、僕、ちょうどバイトの給料が入ったばかりで、帰りに甘いものでも食べようって思ってたところだから」
「じゃあ、プッチンプリン4個買ってください」
「もうちょっといいもの食べましょうよ!コンビニじゃなくて、どっかの喫茶店かどっかでプリンアラモードかパフェにしませんか?なんで、そんなやけ食いみたいなことになるんですか!」
「だって、プリン食べられちゃったから」
「わかったから、パフェ、おごるから、機嫌直してくださいよ」
「私、プリンアラモードがいい」
「わかりましたから、それでいいですから」
多分この件に関して、草壁に責任はないと思うのだが、ゆかり駄々っ子みたいになって愚図るのだった。
彼にしてみれば、久しぶりにゆかりとゆっくりとお話できる良いチャンスでもあったし、良く考えると、自分の部下の不始末の責任をとったわけでもあった。
駅前まで出ると、白い漆喰壁に古風なアーチの格子窓の並べた、クラシカルな西洋風外観の喫茶店があることは前々から知ってはいたが、入るのは初めてだった。
普通の喫茶店ならもうとっくに閉店している時間にも関わらず、店内は波傘を被ったランプの明かりで、薄い琥珀色に輝いている。
案外客入りもあるが、基本的には一人客がおおい。
ゆっくりと本のページを繰りながら、ケーキとお茶で夜のひとときを楽しんでいる、そんなところだろうか?
「草壁さん、そんなのでいいんですか?」
ゆかりは、草壁がフォークを入れているチーズケーキを不思議そうな顔で見ながら聞いた。
「ええ、僕はそれほど甘党じゃないから、これで充分です。どうしたんですか?ゆかりさん食べないんですか?」
ゆかりは『そんなの』と言ったが、草壁の注文は普通のチーズケーキだった。
が、メニューもろくすっぽ見ずに、注文をとりに来たウエイトレスに開口一番「プリンアラモード!」と元気よく言ったあと、やってきたそれと比べると可愛いものにしか見えなかった。
高足の長皿の上には、イチゴにリンゴ、さくらんぼにパイン、ブルーベリー、にオレンジ、バナナ、メロンにキウイ……色とりどりのフルーツがてんこ盛り、フルーツだけで盛り合わせディッシュとして成立するぐらいの量。たっぷりの生クリームが皿の上に敷き詰められるようになっているところに、チョコレートソースがかかっている。バーナーであぶったばかりのカラメルがまだフツフツと香ばしく泡立っているプリンは、通常の2倍ぐらいの大きさ。
カロリー的にヤバイのは明白だ。
なるほど、このお店、夜に甘いものをたっぷり食べたいという甘党ご贔屓のお店でもあったりするのだろう。
しばらく幅広なスプーンを持ち上げたまま思案顔のゆかり。
「久しぶりにプリンアラモードを食べれるという興奮が、誰かに食べられたプリンの恨みによって増幅されて、後先考えずに、注文しちゃったけど、いざ目の前にすると……」
と言いながら、すでにスプーンはすでにど真ん中のプリンの弾力ある生地の中に入っていたりする。
「でも、今日ぐらいはきっと体脂肪の神様も多めに見てくれるはず。ここのところ毎日がんばっているんだし」
匙の上でふるふると弾むプリンをそういってパクッと口に入れるゆかり。
「んふっー!幸せ!」
目の前でみている草壁も思わず噴出しそうになった。
満面の笑みで小鼻を膨らませている顔が、まるっきり子供みたいだった。
一口食べたあと、ゆかりにもう躊躇はなかった。一口一口、やわらかいはずのスイーツをまるでかみ締めるみたいにして味わっている。
さっき泣いてたのがウソみたいな顔だ。食い物の恨みは怖い。
「今日は却ってラッキーでした。草壁さんにこんなのご馳走してもらえるなんて……ひょっとしたら、あのプリン、神様が食べちゃったのかも」
すっかり上機嫌になったゆかりが、そんなことを言うものだから、草壁も密かに苦笑するしかなかった。
(あのデブ、ゆかりさんの中で神に昇格しちゃったよ……)
「――初日からそれじゃ、草壁さんも大変ですね?」
「まあ、明日からのことは考えないことにしています。ゆかりさんも仕事どうなんです?」
「結構なじみました」
「あの寮に、ずっと?」
「はい。この前ちゃぶ台買って、お鍋や食器も少しずつ揃えて、たまには自炊の真似事でもしよかなと」
「馴染むの早いですね……」
向こうもそれなりに大変そうなの毎日を、こうしてプリンを頬張りながら結構楽しそうな笑顔で喋るゆかりを見ていると、草壁もなぜかわからないけど、自然と笑ってしまっていた。
ここのところ間近でみることのすくなかった、彼女の黒髪やくりくりっとした大きな瞳。そして、一口スイーツを口に放り込むたびに、満足そうに目を細めると、逆に二つほど自分より年下の人のように思えてしまう感覚。
仕事上がりの一杯の冷水より、天然温泉より、疲れた体を癒してくれるような気がして、草壁は思わずうっとりと自分が彼女を見つめていることに気がつかなかった。
「なんなんですか?私がプリンアラモード食べてるのがそんなに面白しろいですか?」
スプーンを舐め舐め、ゆかりが不思議そうな顔をした。
かなり無防備な格好である。多分レイコ叔母さんがみたらお小言くらいそうなお行儀だ。そういう意味では彼女もそうとうリラックスしていた。
「ほんとは――」
ゆかりの質問には直接答えるかわりに、草壁がおもむろに口を開いた。ポケットの中にある今日もらったばかりのバイトの給料の中身に思いをはせながら。
「――もっと違うものをおごりたいんだけど」
「へ?」
スプーンを口にくわえたまま、ゆかりはキョトンとなった。まだ何かご馳走してくれるつもり?
「バイト代、結構もらったから、休みの日に二人でどっか行きませんか?」
知り合ってもう半年。考えてみたら、この半年の間で誰よりもよく顔を合わせている仲になっていた。デートのお誘い、と言っても、草壁のほうにもそれほど気負いなく自然に声をかけることができた。
多分、シチュエーションも少しは手伝っているかもしれない。
ただ、不安はあった。彼女、こういうところで妙に固い、というのは知っていた。
今回もやはりそうだった。
「そういうのは恋人と行ってください。私は行きません」
同じ断るにしても、もうちょっと可愛らしい言い方もありそうなものが、真っ向からノーって返事だ。しかも、途端に顔が不機嫌そうになる。そしていちいちいらないことを一言つけくわえる。
「あやちゃんでも誘ったらどうです?」
「なんでその名前が今、出てくるんですかっ!」
ヤキモチはきっちり焼くくせに、こっちがモーションかけたらこれだ。
「とにかく、草壁さんとはただの友達なんだから、二人きりでデートなんて、私無理です」
とにかく、断り方が可愛くない。そう言って、まるでお誘いされたこと自体が不愉快です、とでも言いたげな様子で、むっつりとしながらプリンアラモードを食べだす。なんのあてつけだ?
そう思うものだから、草壁も次第に皮肉になるのは仕方ない。
「へえ……そういうこと言うんですか?」
アゴを上げて、ハスに彼女を見下すようにしながら薄ら笑いを浮かべたりして、挑発的に呟いた。
「何が言いたいんです?」
そういう場合、引かないゆかり。キツイ目で草壁をにらみかえした。
「あの藤阪さんって、ゆかりさんのフィアンセ?それとも彼氏?」
わざと眉を大きく開いて見せて、からかうような顔になる草壁。
「何度も言わせないで!ただの友達です!」
くすぐられると、律儀に反応する。思ったとおりの受け答え。よろしい、それなら――
「そのただの友達の藤阪って人とは、ちょくちょく二人で会ってるんでしょ?なんで僕の場合、友達だからだめになるんですか?」
論破したつもりの草壁だったが、こういう場合、追い詰めちゃいけなかった。
かえって、大きな反撃をくらう羽目に。
ゆかりはおかしそうに笑い出した。この人、フランスの首都の名前も知らないの?
「分かるでしょ?そんなこと。同じ友達って言っても、あなたとあのひとは、全く意味が違うんです。あんまり、調子に乗らないでくださいね」
「……」
草壁は黙り込むしかなった。
デート一つ誘うにもこれか……。
向こうにも事情がある。それは分かっている。それにしても――彼女は、決して正面突破を許さない
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それから幾日かが過ぎた頃である。
葉月家のリビングで、その日の仕事を終えたゆかりが、一家のものに帰りの挨拶をしていると、レイコ叔母さんからこんなことを言われた。
「合格点ってわけじゃないけど、動きもよくなったようだから、今度は、旅館のほうに出てもらおうかしら」
ゆかりは思わずハッとうれしそうに顔を上げた。
割烹着と手ぬぐいから開放される!
しかも旅館のお仕事と言ったら、仲居さんかな?今度は小奇麗な和服を着て接客のお仕事だ。一日中ホウキとチリトリもっているよりは魅力的に思えた。
「そんなにしょっちゅう見ているわけじゃないのに、わかるんですか?」
ゆかりが、そんなことを思ってちょっとだけワクワクしていると、隣で芳江が意外そうに驚いていた。たしかに最近は一人でほっとかれることも多かったわけだし。
「なんのために、この子に白い割烹着をきせてると思うの?汚れ方をみたら、普段の立ち居振る舞いの見当はつきます。それじゃ、明日はまず旅館の事務所のほうに顔を出してくれる?いい?」
「はい!」
翌日、ちょっとだけ期待しながら旅館に行って見ると、手渡されたのがツナギの作業着とデッキブラシだった。
こんどは旅館の掃除をさせられることになったゆかり。
ちなみに最初の仕事がトイレの掃除だったそうである。
第33話 おわり




