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第32話 恋はアトラクション

 というわけで、お話の時間も順調に進み、気がつけば11月に突入。

 行楽の秋、真っ只中なそんな頃のこと。



 長瀬ゆかりのほうも、レイコ叔母さんのところの使用人として掃除ばかりさせられる毎日を送っていたが、家の中のお掃除も一通り経験するころには、口うるさかった叔母さんのお小言も目に見えて少なくなった。

 まだ2週間ちょっとではあったが、オンボロ寮に一人で寝るのも、少しは慣れた。


 


 食事に関しては、安物の仕出し弁当ばかりというのも飽きるものだから、適当に外食を織り交ぜてなんとか栄養はとっていたゆかりだが、夕方の頃というのは、なかなかのんびりすることもできない用事が多かった。


 葉月家の夕食のお手伝いや若女将芳江の一人娘である4歳の真奈美ちゃんのお守りと、キツイ仕事ではなかったが、用事は色々とあったのだ。


 というわけで、ちょうど夕暮れ時になる頃には洗い場で仕出し弁当を一人で食べていたりするのだが……。



「あの子、誰だ?」


 ゆかりがそうやって、洗い場のステンレステーブルの上で、一人黙々と弁当を食べる姿は、洗い場のバイトや、部屋としては一続きになっている厨房の板前たちの目に止まっては、時々彼らの噂になっていた。

 本日も、夕食の調理も終えて、早々に切り上げようとしていた板前たちの目の前を軽い会釈とともに颯爽と通り抜けた、白尽くめの美人さんを遠目に見ながら、一人の板前が洗い場のバイトを捕まえて、ヒソヒソと話しかけた。


 因みに、厨房の料理人たちは調理の前に彼らだけで、早々に食事を済ませたあとに調理にとりかかり、仕事を終えるとさっさと帰っていってしまう。

 安物の仕出し弁当を食べさせられるバイトと違って、彼らが食べるのは本職の料理人仲間が作ったちゃんとした賄いである。



「いや、わかんないんですよねえ」

 聞かれたバイトだって、時々目にするだけの見ず知らずのこの美人割烹着の正体を知らないのだった。


「この前、若女将とそこで親しげに立ち話してたから、旅館の人だとおもうんですけど」

「あんな割烹着つけて、手ぬぐい姉さんかぶりした人なんか、今までいたことなかったけどな」



 未だに洗い場のバイトたちや調理師たちとはそれほど接触がないので、旅館の誰一人彼女の正体を知るものはなかった。

 別に、取り澄まして他の人を無視していたからじゃなくて、食事の時間が微妙にマチマチなので、誰かと一緒に弁当を食べることがなかったし、食べたら忙しいから洗い場をサッサと引き上げるので、ゆっくりと話す機会がなかっただけである。

 時には、まだ客に出す夕食の準備をしている時間にやってきたり、あるいは、もう洗い物に取り掛かる時間になってやって来ては「すみません、私邪魔じゃないですか?」とか言いながら、本当に隅っこに座ってお弁当を掻き込んでいたりしていたのだから。



 そんなことを、板場の職人の一人と皿洗いのバイトが立ち話しているところに顔を出したのが草壁圭介である。

 今日は、メンドクサイ仕事を押し付けられるわけでもなく、皿洗いの仕事だけという割と楽なシフトの日であった。

 そういう場合は、学校から家に戻ってゆっくりやってこれる。

 そして、安物ではあったが一応、夕食に旅館の仕出し弁当をタダで食べれるので、一食分の食費が浮くという微妙なお得さもあった。



「こんばんわー」

 なんて言ってやってきた草壁と先輩が軽く雑談を交わす。

「おっ、来た来た!今日は、客も少ないけど、人手もないから、よろしく頼むよ。飯食ったの?」

「まだです」

「ものの15分もしたら、洗い物降りてくると思うから」

「さっさと食べてしまいます」



 そう言って、洗い場の一隅に据えてある大きなステンレステーブルにつくと、自分の弁当を手に取った草壁。そういえば、あの白ずくめの子と誰かが一緒になって弁当を食べるなんて、あんまり見たことない。あの二人、会話でも交わすんだろうか?草壁クン、それほど女性には積極的そうには見えないけど。

 って思いながら、なんとなく二人の様子を観察しているバイトと板前。すると



「あっ、今お弁当ですか?」

「はい、お先に頂いてます。草壁さん、今日仕事だったんですね」

 

 って、感じでごく普通に話し出した!


「おい!あの子なんなんだ?あの草壁クンの知り合いか?」

「いや……僕もよくわからないんですけどね」

「しっかし、草壁クンって子も、よくわかんないヤツだよな。この前はカウンターでラーメン作ってたり、泊まりこみで仕事してたりしてさ。彼、大学生なんだろ?」

「ええ……なんか変って言えば、変なヤツですよね」



 遠くから注目されていることなんかお構いなしの様子で、すっかり打ち解けた雰囲気で会話を交わしているゆかりと草壁。


「忙しいですか?」

「まあ、いつもどおりです。けど、私、明後日やっと休みがもらえるんです。久しぶりにひまわりが丘のほうでゆっくり出来ます」

「丸々一日?」

「っていうか、24時間。正確に言うと、明日の夕方に向こうに帰って、一晩向こうのお部屋で過ごしてから明後日の夕方に4時に戻ってくるっていう……なんか、一応休みだけど、一泊二日っていうのが、微妙に落ち着かない日程なんですよね」

「いかにも旅館らしいスケジュールですよね?」

「私、旅館の人じゃないんですけど」



 そんなふうなことを話しているうちに、二人ともすっかり夕食を終えた。

 遠目からはお重みたいに見える弁当箱は、当然安物のプラスティック製だが、繰り返し洗って使える頑丈なやつなので、食べ終わった弁当箱は、所定のところに置いておくと、あとで業者が引き取りにやってくるのだった。

 二人も、さっさと食べ終わった容器の山の上に弁当箱をポンっと置くと


「じゃあ、私はこれで、草壁さんもお仕事がんばってください」

「ゆかりさんのほうも、ご苦労様です」


 と、二人とも軽く手を振り合って別れたのだった。


 それから、いつものごとく忙しい皿洗いが始まるのだが、まあ、本日は宿泊客も少ないので楽勝。

 なのはよかったが、皿洗いの仕事もあらかた終わろうかとするころになると、またもや、嫌な人が洗い場に顔を出した。若女将の芳江である。しかも、どうも草壁を探していたらしい。


「あっ、いたいた!」


 ここのところ、この若女将の顔をみると良くないことが起こる。って思っていたらやはりそうだった。


「草壁クン、明後日だけど、夕食のお手伝いも頼みたいから4時からお願いできる?お休みだから大丈夫でしょ」


 あんまり、こっちの都合とかは気にしてくれないものの頼み方をする人だった。

 まあ、用事がない休日だったし、それでいくらかギャラも入るので別にかまわないが。


 急とは言え、なんとなく覚悟はしていたのだ。

 なぜなら、もうそのころには、先輩バイトの一人はやめてしまっていた。まだ繁忙期の前だが、他のバイトたちも近く辞めるというのに、まだ人員の補充がないのだった。人手ちょっと足りないから、こっちにしわ寄せがそのうち来るんじゃないか?と思ってたら案の定だった。

 一体、いつになったら、新入りが来るのか?

 そんなことも草壁はちょっと気になっていた。


 そして、若女将からの急なシフト変更を承諾したあと、とあることに気づく草壁だった。


(明後日の4時入りってことは、ゆかりさんと同じ時間の出勤か……)


 別にだからどうというわけじゃないのだが。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 ところ変って、こちらはひまわりが丘商店街。

 ……の中にある、とある接骨院「今木整骨院」。


 いつぞやの、ナンパ高校生、田村隼人はあれからも割りと厚かましく整骨院に顔を見せるのだった。

 すっかりこの男の本性を知ってしまっている恵を未だに口説くような油断も隙もないところを見せながらも、実はそもそも痛めていた腰の治療という、ちゃんとした通院理由もあったからである。


「ダブルデート?!」


 田村がこの整骨院にやってきたとき、たまたま恵が受付に座っていたりすると、この男、まるで立ち飲みやのカウンターにでもいるみたいにして、受付の前にずっと立って恵にあれこれ話しかけてくる。

 いや、偶々恵がいたら、というより、多分狙ってやってくるのだ。

 それが証拠に受付に座っていたらかなりの高確率で顔を出す。こいつ、どっかに盗聴器かなんか仕掛けてるんじゃないのか?と思うぐらいに。


 今日もそうだ。

 そして、恵の姿を見つけるなり、こんなことを言い出したのだ。


「そ、あやちゃんと、あの草壁って人とぼくら2人でさ……」

 こいつ、すっかり辻倉さんのことちゃんづけで呼んでるが、ロクに仲もよくないし、二つ年下でもあるというのに。


「なんで、私があんたといかなきゃいけないの?」

 恵にしてみたら、こいつといると疲れるのだ。とにかく、態度が狎れ狎れしい。いちいち突っ込みどころが満載。それに基本的には女なら誰でもいい、みたいなところがアカラサマで、見ていて腹が立つ。節操のないやつだと。


 本日もそうだ、いきなりそんな話題を切り出してきたと思ったら、いちいち人をイラつかせるようなことを言う。

「最初はそういう口実で、そのうち、ボクとあやちゃん、そっちと……おにいちゃんだっけ?」


 このボケ!オマエの口からその言葉だけは聞きたくないんだ!

「うっさい!今度それ言ったら、ぶっとばすからね!」

 こいつと話していると、言葉が荒れる。私、もうちょっとゆるいキャラなハズなんだけど。


 しかも、こっちがどんなに睨みつけても、こいつ、ちっとも応えないし。

「ドサクサにまぎれて、カップルが途中で入れ替わるというわけ」



 つまり、2組でデートに行って、途中でどさくさに紛れてお互いお目当ての相手とツーショットを楽しみましょうってことらしい。

「そんなにうまくいく?」

「大丈夫、大丈夫」



 まっ、いいか。行って見てどうなるか。そういえば、お兄ちゃんとどっか行くってのもあんまりないし。こういう口実でお出かけも悪くないかも。


「ところであんたさ、よくうち来るけど、腰、まだ治らないの?」

「ちょっとずつよくはなってるけど、まだちょっと痛いんだよね」

「私がこんなこと言うのなんだけどさ、施術者との相性とかあるから、他所行って違う治療試したりしたらまた違うかもよ?」

「いや、僕はここがいいんだよ」

「なんで?」

「恵ちゃんがいるから」

「あんた、バカだわ……」



 そら、油断するとこれだ。スキを見せたらこっちにも手を出そうとする。このバカ。


「それにさ、マジな話、ここの治療、結構効くんだよ」

「たまに、大きな声だしてるもんね」

「テレビでもやってるでしょ?足ツボ療法みたいなので、レポーターがすごい痛がっているみたいなところ。あんな感じで、ここも、整体やってもらった後、ちょっとすっきりするから」



 この田村っての、本当にちょっとバカだわ。

 気がつかないのかしら、うち、リラクゼーションもやってたりするわりとソフトな治療が売りの施療院だってことを。

 腰がスッキリするのは、激痛の後だからに過ぎないと思うけど。


 なんで毎回、激痛整体くらっているかわからないの?

 あんたの治療を担当している、うちのお父さんにここでの会話が丸聞こえだからよ。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 そんなことがあっての後のことである。

 やはり、ここもひまわりが丘商店街の中にある喫茶「アネモネ」の中でのこと。


 長瀬ゆかりが叔母さんちに住み込みで働くようになってから、マスターの頼みもあって、今までよりは少し頻繁にウエイトレスに出てくれるようなった辻倉あやだった。

 もちろん、彼女の場合、大学があるので夕方以降というのがいつものことだったが。

 だいたい、居ないと忙しくて仕事が回らないような店じゃなかった。

 来れば、客寄せパンダ2号として、とりあえず突っ立っていてくれたらそれでいい、みたいなのが普段の一番の仕事だったりする。そのおかげで店の売り上げアップ……というわけでもなかったのだが。


 今日もそうして、カウンターで手持ち無沙汰に突っ立っているウエイトレスとマスターの間ではこんなやりとりが。



「ゆかりちゃんが姿を見せないと、やっぱり寂しいね」

「そうですね」

 まあ、マスターの言うとおりではある。けど、電話なら毎晩のようにしてるから、言葉ほど実感のなかったりするあやである。


「それにしても、ゆかりちゃんが来ないとなると、彼もぱったり来なくなったよね?」

「そうですね」

「やっぱり、ちょっとムカつくでしょ?」

「どういう意味ですか!」



 そんなことを話していると、客がやって来た……のはよかったのだが、それが普通の客じゃなくて


(うわっ!また田村君が来た!それに今木さんまで!)



 その後、やって来た田村から「手間は取らせないから、ちょっとこっち来てください」と言われて、喫茶店のボックス席に呼び出されたあや。

 目の前に並んで座る田村と恵にじっと見つめられると、なんか悪いことをして説教でも食らっているみたいな気分になった。

 それにしても、このまえもそうだったけど、田村君がやってくるときにはなんで今木さんまで一緒なんだろう?何時の間にこの二人仲良くなったの?


 あやのほうは、多少うんざりしながら、この二人に振り回されているような状況だった。

 そして、うんざりしていると言ったら、離れたカウンターでなんとも言えない顔してあきれ返っているマスターもそうだった。

(なんか、うち、こんなのばっかりじゃないか……)



「ダブルデート!?」

 3人が席につくなり、そんな単語だけをいきなり田村が切り出すので、あやも驚くしかない。

 が、話を聞いていると、いかにもこの田村が言い出しそうな話だと思った。けど、なんで私と草壁さんがこの人たちと一緒にお出かけしなきゃならないのか?


「私達、辻倉さんたちが付き合ってるって話、信用していないんです」

「実際、二人でいるところを見せてくださいよ」


 自分がいい加減なウソをついたばかりに、メンドクサイことになったなあと思うあや。しかし、どうして今木さんからも責められなきゃならないの?とはずっと付いて回ってきている疑問だった。


 逡巡しているあやに向かって田村が、グッと詰め寄る。

「それで、納得できたら、ボクもあきらめます!」


 そうか、一度そうやってお出かけに付き合ってあげたらそれでいいわけね。とあやは思った。

 が、対処の仕方としては最悪のパターンだ。タチの悪い恐喝相手へ、弱気の譲歩。

「わ、わかったから手を離して!田村君」


 どさくさに紛れて田村が、あやの手を握ったりするので、他に客もいない静かな喫茶店の店内には、あやの甲高い叫び声と、恵が豪快に田村の頭を張り倒す音と、マスターの深いため息が響くのだった。




 そして、その晩、自室で寛ぐ草壁の元へあやから電話が掛かってきた。

「……というわけなんで、明日、ご協力お願いします」


「なに、勝手に話をきめてるんですか!」

 旅館の若女将だけでなく、こっちもこんなのかよ!と思う草壁なのだが……。


「明日は夕方入りのバイトだから、それに間に合うようにちょっと早めに切り上げていいなら……」


 なんだかんだ言って、こういう話にはとりあえずホイホイ乗ってくるのがこの男だった。




 ちょうど同時刻。草壁のお隣308号室の部屋には、久しぶりに1泊二日の休日をもらって帰宅している、長瀬ゆかりの姿もあった。

 外見も中身もボロボロの6畳一間、風呂なしトイレなしのオンボロワンルームから、打って変わって一ヶ月家賃15万円の2DKのお部屋。環境の変化が、激しい。とりあえず今日はゆっくり寝れる。

 そう思って、ゆったり寛いでいたが、いきなりお休みをもらっても

「明日、何しよう?」

 せっかくの貴重なお休みだという割にはなんの予定もなかった。

「あっちの寮の生活がどれぐらいになるか分からないけど、そろそろ必要な家具とか買っといたほうがいいかも」

 小さなちゃぶ台の一つもほしいし、あとは冷蔵庫も小さいのでいいからいると思う。

「洗濯機は外にあるのを使えばいいから要らないとして、たまには自炊もしたいから、お鍋と皿と……」

 案外、寮の生活にもなじみ始めているゆかりだった。すっかり向こうでの長期滞在を視野に入れていたりする。

 お嬢様、案外、たくましい。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 そして翌日、草壁とあや、田村と恵の2カップルのダブルデートの日は良く晴れた秋晴れとなった。


 舞台はとある遊園地。雑誌なんかには「テーマパーク」とか言われていたりもするが、どっちでもいっしょだ。


 海に程近いところに広がる、アトラクション満載の大型娯楽施設である。

 一応「水と遊ぶ」というのが基本コンセプトだったりするので、園内遊覧の船なんかも種類が豊富で、小さな手漕ぎの船から、大型クルーザーに乗って、園外に広がる外海に出てゆったりと水上散歩ができるなんていうのもあったりする。


「でも、やっぱり一番行って見たいのはジェットコースターでしょ?」

「あの水のトンネルの中をずっと進んでゆくのがメチャクチャ綺麗だったね。このまえテレビでやってたけど」


「それはいいけど、こっちは急に呼び出されてるから、向こうのことよくわからないんだよなあ。なんかマップでも持ってないの?」



 ひまわりが丘の駅で待ち合わせて、電車に揺られてしばらく。

 草壁たち一行も、なんとなく成り行きこうなってはしまったが、とりあえず楽しんじゃおうとは思っていた。が、もちろんこういうことなので、警戒はしていた。

 今も、そうだ。これから行こうとする施設のマップでもないか?と、幹事役みたいになっている田村、恵コンビに尋ねてみたところ

 

「そんなのいらないでしょ?」

「そ、そ、行けばわかる、行けばわかる」


 恵と田村は顔を見合わせてニヤニヤするだけだった。




 そして、一方のゆかりであるが――。


「本当に、ゆかりちゃんがここに顔出すのは久しぶりだね、来てくれてうれしいよ」

 お隣の草壁もいない。あやのところに電話入れたら、今日は用事があって一日中出かけている。そして、自分にも特に用事はなし。

 仕方ないので、朝早くから、アネモネに顔を出した。マスターの顔もしばらく見ていなかったし、そしてお茶でもゆっくり飲んで、お向かいの古道具屋さん覗いて寮で使えそうな古道具でも探してみようか?どうせ寮で寝泊りする短い間のだけのものだから、安物で充分だし。

 そう思って、現在、アネモネのカウンターに客として、ゆっくりとコーヒーカップを傾けていたりするのだが……。

「マスター。そんなことばっかりやってたら、私二度とここに来ませんよ」

 休みもらって来てるというのに、嬉しそうな顔して、花柄エプロンを差し出すマスターをゆかりは睨みつけた。


「今日はゆっくりできるの?」

「いえ、夕方には向こうに帰りますから」

「大変そうだね?毎日掃除ばっかりなんだって?」

「そうなんですよねえ……それでやっとゆっくりできるんですけど……フゥー……」


 そう言ってゆかりは深いため息をつくのだった。使用人としての仕事、毎日大変です、という意味をこめて半分、冗談でそんな様子をゆかりが見せると、それを見たマスターから、こんなことを言われた。


「ため息なんかついちゃって……やっぱり、気になるの?草壁クンとあやちゃんのこと」

 急に意外なことを言われて、ゆかりが驚いた。

「なんですか?それ」




 マスターから話を聞いたゆかりは、古道具屋を覗こうなんて予定もそっちのけにして、なんとなく自分の部屋に引き上げてしまった。

 話は一応、マスターから聞いて理解した。つまり

「ダブルデートか……まだ、田村君にふりまわされてるんだ、あやちゃん」

 いい加減なウソをつくからこうなるというのに。けど

(私には何にも言ってくれないのね……)

 仕方ない。今はひまわりが丘じゃなくて、叔母さんちにずっと張り付いたままでこっちのことにはタッチできないわけだから。いわば、私は部外者。関係ない人間に、いい訳みたいなこと言うほうが不自然かもしれないし。


 あーあ、こういうのを砂を噛むような思いっていうのかな?

 ゆかりがそんなことを思いながらちょっと淋しい気分になっていると、部屋の電話が鳴った。



 

 そして、草壁たち一行4名は、お目当ての施設に最寄駅に降り立っていた。施設の建造とともにできたこの駅は、駅舎の構えからして、ちょっとしたアトラクション施設みたいな格好をしたレンガ造りのコジャレタ外観。そこからまっすぐ続く、南欧風の明るい色した広い石畳の大通りを歩いて、やがてお目当てのレジャーランドに到達と相成った。


 広く整備されたその遊歩道は道幅もゆったりとってあるし、道の脇の植え込みには一年を通じて綺麗な花が咲き乱れている。

 駅を降りて、4,5分ほどの間だが、そのあたりからもうすでにテーマパークの雰囲気が楽しめる。

 が、綺麗だが物売りの姿はない。

 基本、出店禁止である。買いたければ、園内の施設でどうぞ。お金はそちらに落としてもらいます。他所ものに、客の横取りは許しません。

 

 

 休日、しかもよく晴れた秋晴れの好日ということもあって、人出も多かった。


 子供の姿が多いのはしかたない。あと、カップルというのも多い。いつぞやの競馬場と違って、客層は少し華やかで、賑やか、むしろうるさいぐらい。



「だからさ、なんでそっちが勝手にアトラクション決めるんだよ?」

「あれこれ迷ってる時間が無駄でしょ?草壁さん、3時には帰るって言うし」

「そりゃそうだけど、こっちが行きたいところとか、無視かよ?さっきからオバケ屋敷ないのか?って聞いてるのに、それは後、とかなんなんだ?」


 あやと共にダブルデートなるものに狩り出された草壁であるが、園内の予備知識もロクに与えられないまま、なぜか、アトラクションについては、すべて田村と恵の言うがままに引張りまわされているような状況に少し不満である。

 まるで、親と一緒に来たチビッコみたいなものだ。



「けど、先輩、楽しいでしょ?」


 恵は時折、田村と草壁の間を行ったりきたりするのだった。そして、草壁の前では、いつもどおりニコヤカなカワイイ後輩って感じを出すのだが、田村の隣に行くと、その笑顔が消える。

 時折、怒ったような顔をしている。

 仲が悪いふうにも見えるが、案外互いに馴染みすぎた倦怠期カップルみたいにも見えなくもない。



「まあ、楽しいけどさ……」



 そう面白かった。

 名前だけは有名だったこのレジャーランド。今までのイメージとしては、家族連れがメインターゲットのわりとふんわりファンタジーテイストでソフトな遊園地かと思ったら、案外、全力の施設だ。例えば――

 


「あんなに怖い、ウォータースライダー初めて」

 アトラクションを出るなり、あやが水浸しの顔をハンカチで拭きながら呆然としていた。


 浅瀬をちょっと水しぶきを上げながら、駆け抜けてゆく――程度のものを想像して乗ったら、豪雨の日の新聞配達みたいな格好をさせられた挙句、恐怖ではなく水しぶきのせいで目も開けられないような中をわけも分からずものすごい勢いで突っ走るのだった。

 まるっきり嵐の中のヨットだ。


 海中散歩、なんていうものだから、天井に広がる大きな水槽を見ながら遊歩道を歩くのかと思ったら、宇宙服みたいなのを着せられて、ホオジロサメが泳ぐ水槽に放り込まれた。

 綺麗だけど、どこの罰ゲームか?とも言いたくなる。



 ”海賊の残した宝物を追え!”ってことで、小さななボートに乗せられられると、これがどうもレールの上を走っているとかじゃない、フリー航行する船の様子。何しろ一番前に、係員のお兄さんが座って操舵しているのだから。で、真っ暗な洞窟の中みたいなところを、前を走るライバルと、抜きつ抜かれつのデットヒートに、ヒヤヒヤしていると、突然、背後から、海賊の格好したのが船に飛び乗ってきたりする。もちろん、人形じゃなくて、本物の人間だ。危害は加えられないが、いきなり船の上に飛び乗られて、すぐそばで「お頭の宝には指一本ふれさせない!」とか言うから、心臓が飛び出るぐらい驚いた。

 とにかく、そんなことをしながら、乗っかっている船も、あっちこっちぶつかったり、するので、スピードはないが、スリル満点で、ちょっと怖い。

 最後、ボートがレール走行に切り替わったかと思ったら、「気をつけろ!滝つぼがある!」って言葉のあとまっさかさまに急降下。

 で、そこが、海賊のお宝の眠る秘密の洞窟で、金ぴかのコインや宝石が一面に散らばる中を降り立って、出口に出て、ごくろうさま。

 120センチ未満のお子さんと、妊娠中の方はご遠慮願います。だとか。



 

 一方、そのころ、長瀬ゆかりの愛車「ウサギ」こと青のラパンもその施設付近を走行していた。


「それにしてもゆかりちゃん、こういうところに興味あったんだ?」

「こ、このまえ、テレビで特集してたのをたまたま目にして面白そうだなって思っただけなんですけど」

 

 車中でハンドルを握るゆかりの隣には藤阪公司の姿があった。

 そう、ゆかりが草壁たちのお出かけを知って部屋に戻ってきたときにかかってきた電話の主は彼であった。どうしてるかな?と思って、もし暇だったらどっかに行かない?

「じゃあ、このまえ港のほうに開園したっていう”ベルコート・リゾート”って遊園地知ってます?」

 


 こういう場所に車で来ると、大変な目にあうことはしばしばである。

 ゆかりたちも、車を専用駐車場に止めるだけで30分超要してしまった。むしろ、それぐらいで済んだのはラッキーと言ったほうがいいだろう。


 パークを取り囲むように広がる広大な駐車場だったが、運よく、比較的正面ゲート近くのエリアに空きができたところに滑り込ませることができた。


「ちょっと、駐車にてまどっちゃった」

「気がついたら、お昼か……ゆかりちゃん、先になにか食べてからアトラクションに行こうか?」


 

 車から降りた藤阪とゆかりは、正面ゲートにある窓口で入場券、ではなく一日乗り物乗り放題のフリーパスを一枚ずつ購入した。


「フリーパス使うほどの時間あるかしら?」

「いいよ、せっかく来たんだから、気にせず乗りたいもの適当に乗り倒しちゃおうよ。ゆかりちゃんどこ行きたい?」

「私、用事あるから、そんなに長居できないんですけど、そうですね……ありきたりだけど、観覧車とか遊覧船みたいなところをとりあえず見てみたいかも」

 藤阪はまったく気づいていないが、このアトラクション、見晴らしのいいところだったり、施設をあっちこっちウロウロするようなものである。まるで何かを探そうとでもするような。


 そう言って笑うゆかりを藤阪は眩しそうに見ていた。

「そういえば、ゆかりちゃんと明るいうちにどっか行くのって久しぶりかも」

「そうかな?」


 夜のお誘いには、どちらかというとシックな装いが多いゆかりだった。ここのところそういう彼女を見ていたせいか、こういう場所でカジュアルに寛いでいる姿が、逆に新鮮に見えた。


 ダークグレーのダウンベストに同系色のブラウスの組み合わせは、むしろちょっと地味とも見えた。

 けど、ベストがちょうど体のラインにピッタリなやや小ぶりのサイズのせいか、防弾チョッキみたいなモコモコ感を感じさせない、さりげなく大人しめでカジュアルな着こなしだった。

 足元は黒いストッキング。全体的に重くなり過ぎないように、明るい色のチェック柄のスカートで明るさも出してみました。って感じだ。


 って、いう服装のことはどうでもいいのだが、要は、わりとオーソドックスなコーディネイトとなったわけである。

 どこかの大学生のデート衣装っぽい。というか彼女、まだ本当だったら音大の4年生だから、年齢的には現役なわけだ。


 

「じゃあ、まずはなにか食べようか?ゆかりちゃん何がいい?」

「来たばっかりで、どこがいいのかわからない、公ちゃんなにがいいの?」

「あっ、じゃあ、あそこ行こうか?この前テレビでやってた、噴水のレストラン」

「なんですか?」

「やってたでしょ?噴水広場の中に客席が点々とあってさ、周りから勢いよく噴水が噴出すのを見ながら食事できるっていうレストランのこと」

「へえ……そんなところあるんですか?」

「アレッ?ゆかりちゃんの見た番組って、それじゃなかったの?お笑いの人とあのなんとかっていうアイドルユニットの子が、一緒に遊びながらクイズ出題したりして、途中で寝起きドッキリとかしてたヤツのこと言ってるんじゃないの?」

「わ、私が見たのは、多分それとは違うと思う……」

「あ、そうなんだ。そんなに色々と特集があったんだね」

「ア、ハハハ……ゆ、有名なところみたいだし……」




 ところ変って、ちょうどその頃の草壁たち一行も、時間も時間ということでランチタイムに入っていたりする。


 広々としたウッドデッキの上のアチコチにパラソルが立ち並ぶ、オープンテラスのカフェである。目の前には、人工とは言っても、定員100名ぐらいあるポンポン蒸気がゆうゆうと航行できるような広い水路が広がっているのを見ながら、ゆったり食事。穏やかな天気の日なので、水面を渡って吹き付ける風も気持ちいい。



「だから、そういうところがおかしいって言うんですよ」

「そうそう、見てて不自然」


 ダブルデートということで誘われて来て見たら、ずっと田村と恵に振り回されることになった草壁と辻倉あやの二人であった。

 が、来て見たら、ずっとそんなふうにして、おかしいおかしいと突っ込まれてばかりの二人。

 仕方ない、実際に付き合っては居ないのだし。


「だいたい、なんで先輩、辻倉さん呼ぶとき『あやさん』ってさん付けなんですか?同い年だし、付き合ってるなら、ちゃんづけとか、アダ名みたいなんじゃないんですか?普通は」

「そ、それは……最初からそうだったから、今さら変えるのも変かなと」

「なんか不自然ですよね」


 草壁としても、詳しく突っ込まれると困るのだ。そして、もっと困るのがあやのほうも事態をどう収拾していいか分からないらしいことだ。どうするの?手でもつなぐ?というと、すかさず頭を張り倒すくせに、正直に言っちゃえば?と言うと、今さら引くに引けない、という優柔不断なところを見せる。

 

 結局、田村たちに、この不自然なシチュエーションを逆手に取られて、いいように付け上がらせているだけにすぎないと思えた。


 今も、ローストビーフとベビーリーフのチーズバケットサンド、なんていうものを頬張りながら、向かい合わせて座る田村と恵を観察していると、時折、ヒソヒソと二人でなにやら話し込んでいる。

 絶対、悪巧みがあるに違いない。


「あの二人の様子、ちょっと変だから、気をつけたほうがいいよ」

 草壁がとなりのあやに耳打ちをすると、あやもこっくりと頷いた。となりでマルガリータピザを小さく頬張る口元がかわいい。やっぱりおいしそう。

「ひょっとして、わたしのピザ欲しいとか思ってます?」

 と思ったら、素でそういうことを言う子だ。たまにちょっとボケる。触れ幅はゆかりさんほど大きくはないが。


 そんなふうに草壁もちょっとよこしまな思いを抱いていたりすると、


「じゃあ、昼メシも食べたら、いよいよ行きますか?」

 と、田村が嬉しそうな顔をして言うのだった。

「どこへ?」

「草壁さんが行きたがっていた、オバケ屋敷」


 いいけど、どうして、この男はそんなアトラクションに行くのに楽しそうなんだ?そして、隣の恵ちゃんも若干にやついているのも気になった。




 時間としては、藤阪とゆかりの二人もお目当てのレストランで食事を取ったあと……とはいかなかった。お昼どきの時間帯では、そのレストラン、名物ということもあって、客で埋まっているのだった。

 しかたないので、近くの売店でホットドックとタコヤキを食べて、軽めの昼食を終えたゆかりと藤阪。

 じゃあ、これから観覧車にでも乗って……という前に、お手洗いに立った藤阪が帰って来るとゆかりの姿が見えない。

 どこだろう、と思ってキョロキョロ探したら、すぐ目の前の観覧車の待ち客の列の最後尾に、ダークグレーのダウンベストの子が並んでいるではないか。

 あっ、さっそく列に並んでいたんだな。

 そう思うと、すかさず藤阪も列の最後尾、ゆかりの背後にピタッとくっついた。

 さほど待ちのないアトラクションだったので、列の人は次から次へと、観覧車の箱の中に押し込まれてゆく。

 おっと、チケットは買わなくていいけど、係員のお姉さんにフリーパス見せないといけない。どこにやったっけ、手間取っていると後ろのお客さんに迷惑かけちゃうからな。なんて思いながら、上着のポッケやズボンのポッケをゴソゴソやっているうちに、もうすぐ目の前に空のゴンドラが回ってきた。

 あっあったあった。

 と、藤阪がフリーパスを手に取ったとき。


「こちら2名様のご案内でよろしいですか?」

 と聞いていくる係のお姉さんに、はい、と返事しそうになったら、なんと目の前のグレーのベストが

「いいえ、一名です」

 というのだ。

 良く見たら、服装だけ似ているが別人であることに気がついた。


「こちらは3名だから」


 まずいっ!

 藤阪が混乱していると、すぐ後ろの家族連れが聞かれもしない前にさっさと人数の宣言をしてしまった。

 となると、目の前のニセゆかり御一名様と、後ろの家族連れに挟まれた藤阪は自動的にこうなる――。


「では、一名様、ご案内します。どうぞごゆっくり」


 藤阪が右手につまんだフリーパスを確認しながら、係りのお姉さんは、彼を強引にゴンドラの中に押し込んでしまった。

 もたもたしていると、待ち客が増えるかもしれないし、後ろのお客さんだって早く乗りたくてうずうずしているのだから。こういうことはきっちり流れ作業である。



 ゆかりのほうも悪いと言えば、悪い。藤阪に断ることなくちょっとの間、その場を動いていたのだから。

 しかし、急に、タコヤキ食べたあと青海苔が歯にくっついていないか気になったので、彼女も確認のためにお手洗いに行ってしまっていた。

 そして、帰ってきたら藤阪がいない。

 あれ?どうしたのかな?と思ったら、携帯に電話だ。

 観覧車に乗ったのだそうだ。なぜ一人で乗る?公ちゃん、そそっかしいところあるけど、どういういきさつでそうなったか、ゆかりには不思議でならなかった。

 でも、まあ、乗っちゃったものは仕方ない。

 それじゃあ、公ちゃん、観覧車降りてから改めて合流しましょう。そうだな、待ち合わせだけど……。


 分かりやすいところにしておいたほうが間違いがないだろう。

 

「じゃあ、私、サンブリッジの上で待ってますから」

 とゆかりは告げて携帯を切った。


 件のその橋であるが、ちょうど正面で入り口ゲートからまっすぐ進むと、敷地中央に聳え立つ展望塔へ続く大きなストリートの途中に掛かっている大きな橋であった。

 橋の壁面のアーチには、水平線から立ち上る朝日をかたちどった意匠の壁画が書いてあるその大きな橋。

名前もそのまんま「サンブリッジ」(sun bridge)というらしい。

 ここなら、ちょうど園内のど真ん中ぐらいだし、どこからでも分かりやすい、公ちゃんでもすぐに見つけるだろう


 ゆかりはその橋のちょうど真ん中あたりに立って、欄干にもたれて待つことにした。



 一方、藤阪である。

 一人で観覧車にゆられながら、ゆかりとの通話を終えると、一瞬考え込んだ。


(サンブリッジ……そんなところあったっけ?……あっ、そうか!桟橋さんばし!ゆかりちゃん、遊覧船乗りたいって言ってたから、先に乗り場に行ってますってことか!)





 さて、ちょうどそんなとき、草壁たちご一行である。

 

 「オバケ屋敷」ということで来てみた。

 今まで、ゆるふわなファミリー向けレジャーランドを想像していたら、結構ハードなアトラクションを提供するところだと、感じてはいたが、このたびやってきた「オバケ屋敷」かなり、気合が入ってるぞ。

 というか、「オバケ屋敷」というより「ホラーハウス」っていうそこなのだが、シチュエーションの説明を見る限り、絶対ファミリー向けじゃないのだった。

 

 シチュエーションとしては。

 ”殺人鬼姉妹の住む屋敷に迷い込んだ”

 みたいなことだった。相当に中の仕掛けはエグイらしく、小学生以下、お断りだそうで、商売としてどうなんだ?と思う。


 そして、入ってみると、怖いのだが、はっきり言ってグロい。


 まだ本格的に屋敷の中に入る前から、血の滴る生首と斧を持って、狂った目をした女がこちらを判笑いで睨みつけてる絵に迎えられる。

 

 こわいし、暗い。 

 いよいよ屋敷の中に足を踏み入れると、背後でバタンと扉が閉まった。怖くなって思わず開けようとするけど、開かない。

「そりゃそうだよ、恵ちゃん、戻ってどうするんだよ?」

 

 玄関正面には、殺人鬼3姉妹の肖像画だ。ドレス姿だが、生首抱いてたり、切断した手足を笑いながらもてあそんでたり。一番、太っちょで一番グロテスクなのは、なんか食べてる。多分臓物だ。


 とにかく、こういうところはあんまりよそ見しないでさっさとかけ抜けるのが一番。

 けど、どっちがどっち?

 

 とてもいやなのが、このアトラクションの中で動くのは大抵、生身の人間だった。

 それも、セムシの執事や、大きなハサミを振り回しながら、狂気じみた声を上げる怪物たちだけじゃなくて、そいつらに殺されそうになっている犠牲者も生身の人なのだ。

 急に隣の暗い窓の明かりがついたと思ったら、血だらけのまま、刃物で切り付けられているのが、タスケテクレーってこっちを見ながら、叫ぶ。

 いやだ!こんなところ、一瞬とも居たくない。


 一応順路はあるのだけど、混乱のためにそれを間違えそうになると、セムシの執事が目玉の入ったワイングラス片手にニヤニヤしながら出てきて。

「さあさあ、そちらではございません。どうぞ安心して奥へどうぞ。主があなたがたが来るのを楽しみにしておりますので……ヒヒヒッヒッ」


 そう言って気持ち悪い笑いを浮かべて去ってゆく。

 もう、だんだん、叫ぶのにも疲れてきた。




 

 一方、ゆかりのほうであるが、藤阪との待ち合わせ場所であるサンブリッジの上でしばらく立っていたが、なかなか彼がやってこない。

 時間としては、観覧車もとっくに一周回っているころだ。まさか二週目行ってるんじゃないんでしょうね?


 実は、藤阪であるが……。

 ゆかりとの待ち合わせ場所を完全に勘違いして、遊覧船乗り場にやってきたときである。

「ヴェネティアンクルーズ、ただいま出航いたします。現在、待ち時間なく、すぐにご乗船できます」


 小さな桟橋に横付けになった、笹みたいに長細い船にはチラホラと空きの席も見えるのだった。そして、いままさに、そこに乗り込もうとする客の中には、たしかに彼は確認したのだった。ゆかりの姿を。

 ただし、服装と後ろ姿だけそっくりなニセゆかりだったが。


 そこで、またもや乗り遅れてはマズイということで、「乗ります!」って言いながら、フリーパスをちらつかせて、船に飛び乗った。

 では出航いたします。

 となったあと、気づいた、あ、さっきのニセモノだと。

 そして、ニセモノから、「この人、なんなの?人がせっかく一人で楽しみに来てるのに、ずっと後ろつけてきて?変質者じゃないの?」というアカラサマな嫌悪感の篭った視線を受けながら、同乗している係員にこの船のことを聞いてみた。


「はい?これですか?当アトラクション、ヴェネティアン・クルーズですが、お客様には本場水の都ベニスのゴンドラの気分でゆったりと園内遊覧を楽しんでいただくために、本船は途中で船頭による人力の回漕に変り……」

「アトラクションの紹介なんてどうでもいいから!どれぐらい時間掛かるか聞いてるんだよ!」

「ゆったりと2時間かけて水上のお散歩を楽しんでもらいます」

「そんなに乗ってられるか!」




 一方、殺人鬼姉妹の屋敷に紛れ込んだほうは、最後にチェーンソーを持った太っちょ女に追いかけられながら、なんとか屋敷を出ることになった。



 あの陰惨でグロテスクな屋敷を一歩出ると、外はウソみたいにいい天気だった。

 ちょっと気持ち悪かったけど、出てしまえば、大きな声を出したせいでちょっと気分もすっきりした。

 そして、左手には、確かに感じるぬくもり。

 どさくさに紛れて、つかんじゃったけど、決して離しはしないで正解。

 あとは、このまま二人でどこかに消えちゃえ。あの田村の愚にもつかない計画だったけど、成功しちゃえば結果オーケー。お兄ちゃんと二人きりだ。

「こ、こわかった……先輩は、どうでした?」

「ぼく、お兄ちゃんじゃないよ?」

「なんで、オマエなんだよ!」

 なんのことはない、つなぐ手を間違えていた恵。



「ところで、残りの二人ってまだ屋敷の中にいるのかな?」

「さあ……私に聞いても知らない」

「恵ちゃんずっと叫びっぱなしだったもんね」

「ちょっと待ってみる?」

「そうだね」

 田村と恵の二人はしばらく出口の前に立って、中から草壁とあやが出てくるのを待っていたりするのだが。


 両人とも、田村たちより一足先に屋敷を出ていた。

 まず最初に出たのが草壁であった。とにかく気味の悪い施設だったので足早に進んでいったら、すぐに出口についた。そして、最後のチェーンソーオバサンとの追いかけっこでは、得意の足を生かして、ぶっちぎりのスピードで外に飛び出した。で、そのあと一人でトイレに行った。

 草壁がトイレに行っている間に出てきたのがあやだった。

 こちらも、途中屋敷内で一人になって、恵みたくずっと叫びっぱなしのまま外に出てみた。そんなわけだから、他の人たちがまだ中にいるのかいないのか分からなかった。

 そこで、なんとなく、フラッとその場を離れた。

 というか、迷子になったフリをして田村から逃げちゃえとか思っていたりする。

 だから、入館前に切らされた携帯の電源も知らぬフリで、そのままにしてその場を去った。



 結局、田村と恵の二人はしばらく屋敷の出口にしばらく突っ立っていたが、どうも先に出ちゃったらしいということになって、二人揃ってその場を去った。


「結局、あやちゃんと草壁さん、どこ行っちゃったのかな?」

「知らない。けど、あんたいつまで私の手、握っているつもり?離してくれない、いい加減」


 二人揃って、ホラーハウスの前を離れた田村と恵カップルのほうであるが、仕方ないのでちょっとあの二人を探してみようかとかなんとか話しながら歩いていた。が、最初は恵からつないでいた手をこんどは田村が離そうとしない。

 やっぱり、まだ、私を口説こうとか考えてるの?このお調子もの!

 恵が怖い顔をして、田村をにらみつけた。

 すると、急にハニカミ気味となってこう言うのだった。


「本当はさ、あの屋敷の中で、恵ちゃんが僕の手を掴んでくれたとき、ちょっと嬉しかったんだよね」

「えっ……」


 今までずっと、バカだのなんだの言いながら憎まれタタキあっていた二人。田村の急な様子の変化に恵も少しだけ驚いていた。


「今日もさ、ダブルデートとかそんなことは本当はどうでもよくて、もしよかったら、このまま……なんて言ったら怒られるかな?」

 田村が、そういいながら、つないでいる手にギュッと力をこめた。

 不本意ながら、少しドキッとなっていたりする恵。

「ちょ、ちょっと……」

 急にそんなこと言われてもこっちも困る……。まだ、おにいちゃん諦めたわけじゃないのに……。

 けど、言葉に詰まる恵は、はっきりとノーとも拒否することもできずにいた。呆然となって目の前で微笑みながら自分の顔を覗き込む、一見真面目メガネの瞳に吸い込まれるようにして体がすくんだ。


 で、次の瞬間。先にひょいっと脇に視線を逸らしたのは田村のほうだった。

 彼の視線の向こうで、一人歩くのは……


「あっ!あやちゃーん!見っけたー」

 

 まるで、またチェーンソー女に出会っちゃったみたいな顔して走り去ってゆくあやの姿を追いかけてゆく田村の後頭部に向けて、恵が持っていたお茶のペットボトルを投げつけた。


「オマエ、死ね!!」





 一方、未だにサンブリッジ中央の欄干にもたれて藤阪を待つゆかり。

 橋の場所がわからないのかしら?それとも、また迷子?

 なんだか、二人で来たのだか、一人で来たのだか、そもそも自分が何のために来たのかすら意味がよくわからいようになりながら、かなりの時間ポツンと一人で待ちぼうけているところに通りかかったのが、田村の後頭部にペットボトルを叩き付けたあと、一人で草壁を探す恵だった。


「あっ、ピアノの先生」

 

 ゆかりは、一瞬、目を逸らした。多分一番会いたくない人物。

 なんとなく苦手なのだ。

 しかも、向こうが驚いた顔をしている。きっと私のこと勘違いしているっぽい。と思ったら、こう言われた。


「私達を追っかけてきたんですか?」


 そんなに驚いた顔しなくてもいいでしょ?なによ、そのあり得ない、みたいな顔して、違うから。

「私も友達とデートなんです」

「一人にしか見えませんが」


 うわっ、わざとらしく、まわりを見回す。公ちゃんがモタモタしてるから、嫌なのに出会っちゃったじゃない。

「ちょっとよそに行ってるだけです!」

 なんか、言い方がちょっと乱暴になっちゃった。あんまり怒ってるみたいな顔みせないほうがよかった。あーあ、ペースが狂うなあ。

「へえ、そうなんですか……変ってるんですね。ところで草壁先輩見ませんでした?」

「知りません!」

 どういう意味よ「変ってる」って!何が言いたいの、この子は、何が!



 が、恵のほうは、この際ゆかりにかまっている暇もないわけで、そんな会話を交わすと、サヨナラの挨拶もせずにどっかに走り去っていった。

 どうも、あの子とはウマが合わないわ。なんて思いながら、忙しそうに人ごみへ紛れて橋を渡り去ってゆく恵の背中をゆかりがじっと見送っていると、反対側から声がかかった。


「ゆかりさん……」

 また、出会っちゃった。けど、どうして、このダブルデート組はさっきから一人ずつここにやってくるの?

 しかも、あやちゃんまで、私の顔を見て驚くの?っていうか、まずいもの見られたみたいな雰囲気ださないでほしい。私だって、藤阪さんと来ただけなんだから。


「まさか、追いかけて?」

 なにが「まさか」よ!違うから!変な勘違いしないでほしい!

「藤阪さんと二人です!」

「姿が見えませんが」

 あなたまで、恵ちゃんと同じリアクションしないでほしい!



 おそらく、ゆかりが追いかけて来たと勘違いしているあや。すっかり申し訳なさそうな顔をして、言葉をつまらせた。

「あ、あの、その……今日のこと黙っててすみません……」

 あやという子はたまに、やっちゃいけないことをしてしまう。田村のデートの提案に安易に乗ったりしていることでもわかる。今もそうだ。ゆかりにこのシチュエーションであやまったりすると、余計にひねくれるということを親友のクセにあんまり理解していないのだった。

 ゆかりは、急に笑顔になった。


「あやちゃん、そんなこと気に病まないで!お願いだから」

「ゆかりさん……」

 目の前で、明るく笑うゆかりの異変に気づいたあやが言葉を詰まらせていると、さらに明るい笑顔になりながらゆかりが言った。

「今は私もよそで忙しいし、だから、私のことなんか気にしなくていいよ。それで、もし――」

 ゆかり、あやの手をとって。にっこりと

「――二人がお付き合いしてるんだったら、そのときはちゃんと言ってね、私いつでもオメデトウって言えるから」


(重い!重いです!ゆかりさん!わたし軽いつもりで草壁さん誘っただけなんです……ほんとそれだけなんです。許してください……)

 あのホラーハウスとは違う、ちょっとした恐怖を感じたあやは、半ベソをかいて固まるしかなかった。しかし、次の瞬間、橋の袂近くをウロウロする田村の姿を確認したあやが大慌てで。


「と、とにかく詳しい事情はあとで!」


 そういい残すと、ゆかりを橋の上に残して、田村の居る側とは反対がわに走り去っていった。



 そして、田村であるが、ついさっき走り去ったあやの姿には気づいていない様子で、彼もまたゆかりの立つ橋の真ん中へとやってきた。

 

「長瀬さん?」


 やはり、前の二人と同じような顔をしてゆかりをジロジロと見るのだった。


「追いかけてきたんですか?」

「だから、違うって言ってるでしょ!」

「でもお連れさんみえませんけど?」

「何度も説明させないで!」

「ん?」


「暇みたいですね?」

「別に」

 ゆかりが見ていると、さっきまではキョロキョロとしながら何かを探すようにして歩いていたくせに、田村はゆかりのすぐそばにやってくると、並ぶようにしながら同じように欄干に背をもたせかけた。


「けど、こんなところで会うなんて、偶然以上のをものを感じます……ここ、風が気持ちいですね。うぁあ、下をいっぱい船が通り過ぎてくんだ。あんなのに乗ってみたら面白そうだと思いません?」


「あやちゃんなら、あっち行ったけどいいの?」



 ハエは、短い祓いの呪文一発で、どっかに消えていった。




 その頃、草壁は園内を何度も走っていた。

 なぜなら、彼の姿を見つけた恵が「先輩見つけた!」と言いながら、走ってくるものだから、彼のほうも捕まっちゃマズイと思って走ったのだった。

「なんで逃げるの!」

「あやさんを探してるから!」


 背中に、「逃げなくてもいいでしょ!」という恵の声をうけながらも、彼の足なら楽に引き離すことができた。


 そうこうするうちに、園内であやとばったり出会った。

「私たち、多分、追いかけられてると思う」

 息を切らせたあやからも、田村に追いかけられているという話を聞かされた。そこで、今回のダブルデートの裏をなんとなく読み取った草壁。

「あいつら、ついに鬼ごっこはじめやがったか……それにしても今日のデートってこれが目当てだったのか?」

「捕まったらややこしそうですね?」

「じゃあ、捕まらないようにして逃げないとね」

「どうするんですか?」

 向こうが鬼ごっこするつもりなら、逃げてやろうじゃないか?とりあえず、自分一人なら大丈夫だけどあやは、男の足にはかなわないかもしれない。その為には――。




 そんな時、サンブリッジの上のゆかりはいつまで経っても現われない藤阪を相変わらずじっと待ち続けていた。

 家族連れやカップルはいずれも目の前を通り過ぎてゆく。まわりのアトラクションも賑やかに稼動し、動き続けている。園内スピーカーからは陽気な音楽が常にながれる。

 その中で、彼女一人だけが、固まったまま動くことはなかった。

 ジッとしていると、園内の喧騒がかえって静寂に思えてくるほどに感じてなんとなく空しい気持ちをかみ締めていた。

 砂を噛む思い。

 こっちに来てみても、感じるのは家に一人でいたときと似たような気分だったりした。


 そのとき、


「ゆかりちゃーん!」


 橋の下を流れる運河のほうから聞こえた声に驚いて振り返ると、ちょうど、藤阪の乗ったゴンドラ船の艫が橋のアーチの下をくぐり抜け出ようとしていた。

 その上に立って、大げさに両手を振る男の姿


「ごめん、もう降りられないから、僕、置いて先に帰っていいから!」



「どういうこと?」

 欄干を握り締めながら、呆然と呟くしかないゆかりだった。




 

「っていうか、なんで、あの橋に上にゆかりさんがいるんだ?」

 草壁は、そんなゆかりの顔をじっと観察しながら、思わず叫ぶしかなかった。

 なにしろ、接眼レンズに両目を当てるとすぐに飛び込んできたのがその映像だったのだから仕方ない。

 ひょっとしたら、ただのそっくりさんかと思って、望遠鏡の倍率をジッとあげたが、ズームにすればするほど、レンズの捕らえている被写体は、間違いなくゆかりなのだった。


「なんで、こんなところにゆかりさんがいるんだ?」

 テーマパーク中央に聳える、展望塔の最上階。園内の案内ビデオが流れるモニターやら、お土産屋さんのあるそのフロアに設置された望遠鏡に張り付いた草壁であった。


「あっ、いけない!あっちに見とれてる場合じゃない!」

 

 彼は別に景色を楽しみにきたのじゃない。

 ズボンのポケットを小銭でパンパンに膨らませながら、望遠鏡だ!って声を上げて親の手を引張る子供とマジの競争をして、飛びついたのは、とあるものを探すため。


「あっ!いた!やっぱりあの辺に張り付くか!」


 ちょうど、中央出口付近の前には、田村と恵の姿だ。思ったとおり出口付近で罠を張っている。しかし、ジッとしているというより、二人でマップを覗き込んでいるところを見ると次にどこを捜索しようか話でもしているみたいだ。

 これは急がないといけない。


 

 

 一方のあやである。

 草壁から少し待っているように言われて、目立たない建物の影に突っ立っていると、携帯に電話が入った。

「やっぱり、あいつら中央出口で張ってた!しかも動きだしそうな様子をしているから、早くにげたほうがいい。誘導するから、先に帰っちゃって!」




「ねえ、お父さん、あのお兄ちゃん、なにやってるの?」

 ものの50センチの差で草壁からお目当ての望遠鏡の順番を取られちゃった子供が、やがて望遠鏡を見ながら、携帯で通話している変な男を不思議そうに見守っていた。

「そこは、右にまがって、まっすぐ!あっ、ちょっと待って、あいつら動き出した……あ、大丈夫!……東ゲートって分かる?えっとね、そこのクレープ屋みたいなのが見えるでしょ?違う、右手。そうそうその横を左に曲がったって、真っ直ぐ行ったら……そう、そこから出られるから!じゃあ、気をつけて!」

 双眼鏡を右に左に振りながら、時には途中で入手したマップを確認しては、100円玉を次々とポケットからつまみ出して料金箱に放り込む草壁。傍から見たら何をしているのか全くわからない。しかし、すごく真剣なことだけはよくわかる。そのせいか、すっかりフロアのほかの客たちの注目を浴びているのだが、本人はまったくそんなことに気づいていなかった。




 そうして、草壁の誘導のおかげで、無事この大きなホラーハウスからの脱出に成功したあやだった。

 ゲートを出る間際、後ろに聳える展望塔をちょっと振り返り、肉眼では確認できない最上階の草壁がいるとおぼしき方に向かって

「今日はほんとうにごめんなさい!また、この借り返しますから」

 そう言って手を振ったあと、携帯を切った。




 あやの姿がゲートの向こうに消えたのを確認した草壁は、片手を双眼鏡にかけたまま、その場に座り込んだ。

「ミッション・コンプリート……しかし……」


 しゃがみこんだ草壁が脇の壁にかかる時計を確認すると、時刻は3時10分。


 本日の出勤は夕方の4時。あと50分しかないわけだが……。


(もう間に合わない!)


 駅までの移動時間、電車の時間、そして一度の乗り換え、そのあと再び電車に揺られたあと、駅から双葉荘まで。その間、ずっと走りっぱなしだとしても1時間は見ておかないと無理。

 おそらく電車の待ち時間だってあるだろうし。本当は1時間と15分ほど見ておかないといけないぐらいだ。

 

 遅刻か……。

 もちろん、大した遅れでもないのだ。途中で電話の1本も入れて詫びをすれば大騒ぎするほどのことはない。しかし。

「せっかく、若女将の受けもよくて、時給アップも遠からぬ様子なのにここで、こんなことでしくじるのか……」

 そう思うと残念でならなかった。



 もう、どうしようもないか。しゃあない、とりあえず、こっちも東出口からゆっくりと出るとしようか?

 そう思ったときである。

「あれ?待てよ!」


 草壁は立ち上がって、再び接眼レンズに両目を当ててみた。

 まだいる!ということは――。




 ちょうど正面出口付近では、相変わらず獲物を捕まえようと待ち構える田村と恵の姿があった。

 そして一方の草壁は、展望塔を出ると、正面ゲート付近にあるトイレの裏にこっそり忍び込んだ。そこで、真っ直ぐ伸ばした5指を地面に立てて、一旦腰を深く沈めた。クラウチングスタートの体勢はすでに整っていた。


(駐車場は正面ゲートの向こうのみ。正面突破しかない!)


 軽く、息を吸い込んでから「ヨウイ」と小さく呟くと、前後にバランスよく開いた両足の膝が軽やかに持ち上がる。


(スプリントで、ボクに追いつけるヤツはそうザラにいない!)



「スタート!」


 草壁のつま先がザッと音を立てて砂埃を小さく舞い上がらせると、彼の体は一瞬でトイレの脇からセントラルストリートの中を飛ぶように疾走していた。


「ん?」


 次の瞬間、二人揃ってマップを覗き込んでいる恵と田村の脇を草壁が通り抜けたとき、二人にはそれが何物かあまりに早すぎてよくわからなかった。

 




「結局、来なかったか……」

 ゆかりは、藤阪からのメールでことのあらましを知った後も、しばらくそこから動かなかった。

 もはや一人でどこかに行く気にもなれなかったわけで、それにここでジッとしていたらと思うと……。

 あれから、30分もそうしていただろうか?腕時計の時間を確認して、やっと橋の上を離れる彼女だった。

「わたし、結局、遊園地に来て、橋の上に立っていただけだったなあ」


 思わず、そんなグチみたいな独り言をいいながら、駐車場の自分の車のところにやってきたときである。

「草壁さん!」

 草壁は、ゆかりのラパンの運転席ドアに背中をもたれかかりながら地面の上にへたりこんでいた。

 なぜか分からないが、肩でゼイゼイと息をしながら。


「どうしたんですか?」

 ゆかりが驚いていると、草壁は手で額の汗をぬぐって、笑った。

「なんとか捕まらずにここまで逃げてきました……」


 よく意味はわからなかったが、ゆかりもその様子に思わず噴き出さずにはいられなかった。


「おつかれさま」




第32話 おわり


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