表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/52

第31話 猫の処方箋

 お話の時間は、前回から少し進んで10月もそろそろ終わりかけようとするころのこと。少しずつ秋本番。街路樹のイチョウの色も気がつけば、秋晴れの空の下、黄白色に輝きだす頃。



 色々とあって、長瀬ゆかりは、叔母である葉月麗子の家の使用人として住み込みで働く毎日を突然送らなければならなくなった。

 草壁圭介にとってみたら、それまでは普通にお隣にいて、何かと顔を合わす機会も多かったはずの彼女が、まるで遠くに行ってしまったような気さえした。

 実は全く寄り付かなくなったわけでもなく、時々荷物や着替えをとりに戻ったり、ピアノのレッスンなどのために商店街の教室にやってくることも度々あったそうだが、とにかく忙しいらしくて、必要な用事だけ済ませると、さっさと叔母さんちへとんぼ帰りとのこと。


 折りしも、草壁自身もバイトを始めて、学校帰りの放課後にはひまわりが丘ではなく旅館の洗い場に直行して、夜も遅くになって帰って来ることもたびたび。

 

 だから、たまにゆかりがひまわりが丘に帰ってきても二人が顔を合わせるという機会がこのところ全くなくなってしまっていた。


 よくよく話を聞けば、その叔母さんちというのは車に乗って20分ほどで付くような距離らしい。

 会おうと思って会いに行けない距離ではないが、わざわざ会いにゆく理由なんてあるはずもなく。

 気がつけばそんなこんなで、不在のお隣の部屋のドアを目にするたびに、なんとも淋しいようなやりきれないような空しさを感じて、ちょっと元気がなかったりする草壁だった。




「オマエ、最近忙しそうだな?バイト始めたんだって?」

 大学に行くと、大原からはそんなことを言われるようになった。

 最近、終業時刻になると腕時計とにらめっこしながら駅までダッシュして、なるべく早い電車に飛び乗る、なんてことがちょいちょいあったからだ。

 それぐらい、何時の間にか「双葉荘」で、あれこれと用事を言い付かることが増えていた。

 

「うん。まあそこそこ給料いい代わりに忙しくてさ」

「やっぱり買うのか?自転車」

「ああ、そのつもり」


 実は、草壁が自転車を買おうと思ったそもそものきっかけというのがこの大原だった。きっかけというほど大げさなものじゃないが、この大原の自転車というのが、ちょっとお値段の張るロードレーサーで、それに一度乗せてもらったときの爽快感が、草壁に自転車購入の決意を促した、というただそれだけ。

 その際、草壁が乗った大原の自転車のお値段が、8万ほどだそうで。


「それより、いいやつ買おうって言うけど、そんなにあの自転車よかったか?」


 話を聞いて、大原のほうが驚いていた。他人が何に金を使おうが勝手だが、一人暮らしで親から仕送りうけている割には暢気なカネの使い方をするなあ、と思うのだった。

 それに――。


「俺だったら、10万あったら自転車買うより、彼女誘ってどっか行きたいけどな」


 言われた草壁は、ムッとしながら黙り込むしかない。

 そりゃそうだ。けど、彼女、誘ったって簡単にデートなんて応じてくれないだろう。

 

 それどころか、今は顔を合わすことさえすっかりなくなってしまった。デートのお誘いどころか言葉一つかわすことない。

 軍資金、溜まったところでどうしようもない。仕方ないから、ロードレーサーのほうへモチベーションをシフトしてなんとかごまかしているというのが草壁の本音かもしれない。

 それにしても思うのである。



(最近、会ってないな……花嫁修業か……僕が自転車を手に入れるころ、まだあの人は、ここに居るんだろうか?)



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 で、一方の長瀬ゆかりの日常であるが。

 それがまるで、判で押したかのようにおなじことの繰り返し。

 とにかく、掃除掃除掃除……。



 が、問題はそれだけじゃない。

 一番の問題は、ゆかりが何をするにも、常にレイコ叔母さんと叔母さんの小言がついてまわるのだ。


 思うのである。そんなにこっちについてまわってたら、お手伝いさん使うより自分でやったほうが早いのじゃないか?と。もちろんそんなこと言えるわけはないが。



 例えば、今ゆかりが頭に乗っけている白い手ぬぐいでもそうだ。

 初日は言われたとおりそれを「姉さんかぶり」にして頭に乗っけていた。が、これだと若干安定が悪い。

 この被り方だと、頭の後ろで結んでいる部分はいいとして、前のほうへ垂れている布巾の両角は彼女のアゴの脇あたりでぶらぶらしているのである。


 見た目だっていかがなものか?

 ベールみたいと言えばカッコイイが、やっぱりなんか野良作業している農家のおばちゃんみたいな雰囲気がしないわけじゃない。

 そう思っているうちに気がついた。

 これって、屋外作業用の被り方じゃないかしら?と。つまりブラブラしている部分は日よけの役割をしているわけだ。

 しかし、自分の今の仕事はだいたい家の掃除ばかり、陽射しの問題より動きやすさの機能性重視。

 と思ったゆかりは、翌日はバンダナみたいにして頭に巻いてみた。

 すると、そこでまた奥様からのダメだしであった。


「手ぬぐいの巻き方忘れたの?昨日おしえたのはそうじゃないでしょ?」

「野外じゃなくて家の中にいるならこちらのほうが動きやすいかと思ったのですが」

「あら、姉さんかぶりなんて初めての割には、そこに気がついたの?あなたの言うことも一理あるけど、じゃあ、それで動き回るのに不都合がありますか?」

「いえ」

「だったら、言われたとおりの被り方に変えなさい」


 なぜ?という問いかけはするべきではない、というのは最後のレイコの口調から読み取らないといけなかった。ご自分で考えなさい。ということらしい。


 仕方ないので、それからはずっと姉さん被りで通すことにしたゆかりであった。




 その日のお仕事は、葉月家の和室のお掃除。

 あてがわれた白い割烹着の頭上に、やはり白い手ぬぐいを姉さんかぶりさせられると、ついてらっしゃいという叔母とともにやってきたのが、大きな和室だ。

 

 廊下から一段たかいタタキを上がって襖を一枚あけると、その向こうは15畳はあるという一面畳敷き。その向こうは板張りの縁側となってる。外の明かりはこの縁側を閉ざす大きなサッシ窓から入ると、縁側と畳の部屋の仕切りとなっている大きな4枚戸の障子の白い和紙の肌を通り抜けて、部屋の中を柔らかい明るさで浮き上がらせていた。

 擦り切れた跡なんか一筋もないような、まっさらな畳からは、青草のようなイグサの匂いが立っていた。



 ちょっと意外だったのは、このお部屋、もうお掃除終わったのじゃないの?と思うぐらいに、すでにホコリ一つなさそうな清潔な部屋に思えたことだ。


 もちろん「お掃除必要ないと思いますけど」なんて間違っても言えるわけはない。もうレイコの言うことに口答えなんて許してもらえないような雰囲気なのだ。


 とりあえず、お掃除のために部屋の窓と言う窓をすべて開け放すと、畳は入れ替えたばかりみたいにして輝いている。


 とはいえ、掃除をしろと言われたらやらなきゃいけないのが、使用人の定め。


 叔母からはいつものごとく歯切れのいい口調で「では、まず、掃除道具を持っていらっしゃい」と言われたので、掃除機を持ってきたら怒られた。


「この和室は、お客様をもてなすときにも使うところです、掃除機でガアガアやられてたまるものですか」

 という訳で、ついにホウキの登場となった。



 もちろん、最初からホウキで畳を掃くなんてことでいいわけはなく、最初はハタキがけから。

 何度かやるうちに、少しはマシに動けるようになったとは我ながらちょっと思っていたが、レイコ叔母さんの目からは合格点には程遠いらしく。


「まだまだ、音が大きい!背筋が曲がっている!畳の縁を踏まない!」


 部屋の隅に直立しながら、ゆかりの動きにいちいちお小言がはいる。

 そんなときだって、レイコのほうは壁に寄り掛かったりすることもなく、しゃんと背筋を伸ばして直立不動の姿勢のままだったりするので、見られているほうも余計に息が詰まるように感じることがあった。


 障子をハタキがけしていてもお小言は続く。

「障子の桟なんて、そんなにホコリがたまるものではないけど、かける時はパサパサ音を立てずに、ホコリだけ落とすものです」



 続いてやっとホウキの出番。

「自分の動きを常に考えるのよ、無意識にやるなんて名人上手のお話です」

「はい」


 そんな言葉を受けながらとりあえずホウキを使っていると、見る間にダメだしだ。来ると思った。


「最後に手首を返すなんてことがあるものですか!ラケットふってるんじゃないのよ!ホコリが上がるでしょ」


 なんて言われて別にそんなつもりでホウキを使っていたわけではない。ただ叔母さんの目にはそう見えたようだ。ラケット振るほうは、慣れてるけど、ホウキの使い方なんて改めて習ったことがないことに気づく。

 

「箒は筆のように扱うもの。払いの最後に軽く力を抜くように、サッと」

 叔母さんのお手本というのは常に、静かで綺麗だった。姿勢も真っ直ぐに崩さず、腕の動かし方もイメージよりもややスローモーション。そのかわり腕の動かし方が少し大きい。なるほど、お習字の筆の使い方というわけね。



”畳には目というものがあるのよ!力を入れすぎない!ほら、また姿勢が崩れてる!”

”力が入りすぎてるから音が大きい!そんなに穂先を床に押し付けなくてもホコリは掃けます!無駄な力はいれなさんな!”


 お手本の形態模写をとりあえず心がけるのはいいが、どれだけやってもお小言はゆかりの背後について回った。




 ホウキの使い方ということでは、最後にこんなことがあった。


 ちょうど、板張りの縁側を掃いたあと、集めたチリをそのまま庭へと掃きだした後だ。

 さあ、これでホウキを使った掃き掃除も一応おわり。そう思って、最後にホウキの穂先を庭にちょっと出して、縁側のフチを穂先でトントンと叩いた。

 最後にホウキの先に付着したホコリを叩き落すつもりで。


 そしたら、それを見たレイコから

「これっ!」

 と、言われたゆかりが一瞬、ヒヤッとするほど大きな声のお叱りを受けた。



「そんなことを平気でするようじゃ、それこそお里がしれます!貸しなさい!」

 キツイ目でゆかりを睨みつけると、ホウキを奪い取ったレイコ。

 右手に持ったホウキの腹のあたりを、左手の甲にトントンと当ててホコリを落として見せた。

 そんなやり方があったなんて知らなかった。


「こういうことは、効率だけじゃなくて常に見映えを気にすること。例え誰も見てなくてもああいう仕草はしないものと肝に銘じておきなさい」

「はい」




 ホウキ一つ扱うだけで、これほど口うるさかった。

 ひょっとしたら、レイコ叔母さんのお掃除の作法だけで、本が一冊ぐらいできそうなぐらい細かいのだ。


 


 ハタキ、ホウキと来たら、こんどは拭き掃除となる。

「次は、拭き掃除です。なにが必要かわかるわね?持ってらっしゃい」

「はい」


 まあ、拭き掃除に必要なものと言ったら子供でもわかる。雑巾とバケツだ。

 そう思ったので、とりあえずレイコのソバを離れて、お掃除道具を入れてある倉庫をゴソゴソやっていると、そこで芳江から声をかけられた。どうしたの?今度は何をさがしてるの?というものだから、雑巾とバケツを探していると言ったら、親切に芳江がそれを手渡してくれた。これ使ったらいいわ、ゆかりちゃんも大変ね。

 それは、100円ショップで売っていそうな、プラスティック製のバケツと、雑巾だった。


 

 ところが、である。

 芳江から手渡された、バケツと雑巾を見たレイコからはさっそくのダメ出し。


「まっ、こうなるとは思ってましたがね」

 ため息混じりなところを見ると、明らかに不満そうだった。そしてこう続けるのだった。

「芳江さんでしょ?これ渡したの。あの人もこれ使ってるわね。でも玄関からトイレのドアにまで使うバケツなんてやめときなさい」


 ゆかりのほうはちょっと驚いた。

 芳江さんはこれを使って家の拭き掃除をしているみたいだけど、それに関してはレイコ叔母さんは何も言わないのか?

 なぜ、言わないのだろう?

 とは思ったが、もちろん思っただけで口にはできない。


「底を見ましたか?砂埃がついてるでしょ?それでまた汚れてしまいます。刺し子の入った分の厚い雑巾っていうのも、付いた汚れがなかなか落ちにくいから、本当は使いにくいものなのよ」

 いつの間にか細かいチェックが入っているみたいだ。けどそれでも黙っているのか?

 嫁と姑というのは、なかなか面倒なことがあるらしい。

「こういうものは他人に見せないけど、常に見られてると思って道具ひとつも選びなさい」

 プラスティックの安物のバケツというのは叔母さんには気にいらないらしい。



 結局、レイコから「私がいつも使う手桶があるから、それ持ってらっしゃい、雑巾もいらないタオルなんかがいいわ」と言われたので、それを使っての拭き掃除スタートとなった。

 因みに叔母さんが使っているという手桶であるが、白木をしっかりと金属の箍で締め上げて作った本格的な手桶だった。お墓参りのとき以外にこんなのあんまり見たことない。


 

 もちろん、拭き掃除一つするにしても、叔母さんのお小言は細かい。

 もうゆかりが手桶に水を汲んできたのを見るなり


「失格」

 短く鋭い叱責の言葉を食らった。


 水の入った手桶を持って、しばらく立ちすくむゆかり。そこへ叔母からの質問だ。

「なぜかしら?」

 何だろう?しかし、何か答えなきゃ。けど、この時点でマズイことがあるとして、そんなに色々とは悪いことがありそうに思えないけど。しかし、自分でもちょっと気になっていたことがあるので、そこをサッと答えてみた。

「水を入れすぎてますか?」

「そのとおり、6分目もあれば充分。少なく入れて汚れたらマメに変える」



 雑巾を絞るのにだって、いちいちうるさい。

 ゆかりが雑巾を絞るのを、じっと見つめながら

「指と雑巾は水をくるむつもりで扱うこと。雑巾はかならず固く絞ること。余計な水分がモノにつけばホコリを吸いつけます」

 そうやって、細かい指導を受けながら雑巾を絞るのだ。

 絞られてるのはコッチだけど。なんて思いながら。



 そして絞った布巾を手に持って、手桶のそばから不用意に立ち上がったら、再び、厳しい一言。

「失格」


 そのたびに、ゆかりの体は固まった。


「その濡れた手を振り回して、何が掃除ですか?桶から離れるまえに手の水気をきれいにふきとりなさい」



 それからようやく拭き掃除となるのだが……。

「空拭きじゃないのよ、力入れすぎ!しゃがんでても姿勢よく!心の姿が現れると思いなさい!」

 そんな小言をずっと受けながら、和室の雑巾がけがようやく終わった。もうそれだけでヘトヘトになった。

 

 その後、「終わったら、道具はきれいに洗うこと、汚れた道具で掃除してきれいになる理屈はありません。そのあとのことは芳江の指示を仰ぎなさい」という言葉を残してレイコ叔母さんが旅館へと向かっていき、ようやくゆかりは、レイコ叔母さんの重圧から逃れてホッとするのだった。




 もちろんレイコ叔母さんだって暇じゃない。旅館の業務もあるわけで。

 「じゃああとはお願いしとくわね」って言い残して、ゆかりに用事を言いつけると、双葉荘へと戻ってゆくのだが、それで、やれやれなんて思っていると、いつの間にか、背後から「背筋が曲がってます!気を張りなさい!」と、厳しい一言が降りかかってくる。

 そういう意味ではちょっとの間も気が抜けなかった。



 その日もそんなふうだった。そして、叔母からはいつものごとくお小言を食らった。


「あなた、私が見ていないとすぐに気を抜くのね?」

「すみません、気をつけます」


 ゆかりはそのとき素直にレイコに頭を下げた。

 が、レイコはそれが気にいらなかったようだった。

 しばらく、ジッとゆかりを見つめるレイコ。見られているゆかりのほうは、その目に叱責の色ではなく、ちょっとした落胆の色を読み取った。ある意味、キツイ言葉よりも厳しかった。

 そして、叔母は、ゆっくりと諭すようにこんな事を言った。


「気をつけるのじゃなく、それを自分のものにするようにしてほしいわ」

「……」

 そのとき、ようやく久しぶりに、叔母としてのレイコの口調にちょっと戻っていたような気がした。


「綺麗に洗濯して、キチンと折りたたんだ服に袖を通すのは気持ちよいものでしょ?怒られるからするとかじゃなくて、キチンとすれば、見も心も引きしまる。それが気持ちいい。そう思ってこそ、初めて身につくのです。考え方を変えなさい」


 それだけ言うと、叔母はそれ以上なにも言わずにまた去って行った。



 

 ちょうどそんなときである。

「ゆかりちゃん、体大丈夫?ちょっと疲れているみたいだけど」

 こちらに来て1週間もした頃だろうか?芳江からそんな言葉をかけられたことがあった。

「いえ、それほどでも」

 努めて明るく首を振るゆかりだったが、事実のところ、ちょっと体調が思わしくないような気がすることがあった。

 どこがどう悪いというわけじゃない。どこかが痛いとか熱があるとかそんな話じゃないのだった。

 ただ、どうも気が晴れない。憂鬱。

 そして、体が重い。なんとなく気だるい。

 そんな程度のことなのだ。だから、レイコ叔母さんの前に出ると背筋もシャンとなるし、日常の働きも普通にこなせる。が、少し気を抜くと、なんともやりきれない気分になるのだった。

 何かが足りない。

 まず、足りないのが「睡眠」だった。

 あのオンボロ寮に1週間寝泊りするようになっても、あの周りが雑草だらけの野っ原みたいな裏庭にポツンと立っている薄汚れた寮の一室に自分一人で寝ていると思うと、心細くて、怖くて、熟睡できないのだった。

 ここのところ、枕元の時計を夜中に何度も見ては「まだ、寝れない」とか「まだ、朝が来ない」とか思う夜が続いていた。

 寝不足のせいで、頭も若干ボォッとする。

 そういう、いろんなモヤモヤのせいで、体調はいいとは到底思えない日々が続いていた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 ところで、そんなある日の草壁がどうしていたかというと……。


「草壁くんがんばるね、今日泊り込みだって?」

「明日、朝食の準備を手伝って、一風呂入ってから大学行くんだって。そんなヤツ初めて聞いたわ」

「なんだかんだいって、すっかり馴染んでないか?」


 いつものごとく、大忙しの洗い場の仕事が終わったあとのことである。

 草壁以外のバイトのメンバーは、仕事終わりの汗と疲れを旅館双葉荘の大浴場で流しながらそんな噂話を交わしていた時、当の草壁はラウンジ脇にある軽食カウンターで、ラーメンを作っていたりしていた。


 またもや、経験のない素人にムチャなことをさせる旅館であった。

 それも2日前という、急なタイミングで「草壁クン、明後日泊り込みでお仕事たのめない?ちょっと人手が足りなくて困ってるのよ」と、若女将から拝み倒されたのだった。



 ということで洗い場が終わったら、一息つくまもなく、布団敷きに駆りだされる。

 それを終えて、やれやれと思っていたら「カウンターに入ってくれる?」と言われて今に至っている。


 驚いたことに、手伝ってくれる?と言われて軽食カウンターに入ってみたらそこにいたのが、調理場の板前だったのだ。

「どうしたんですか?こんなところで?」

「俺だって、疲れたから帰りたいけど、人がいないからって頼まれてやってるんだよ。たまにこういうのがあって困ってるんだ。まあ今日は草壁クン来たからやっと帰れるわ」

「ちょっと、待ってください!僕、今はじめてここに入るから、いきなりバトンタッチされても何もわからないんですけど!」


「ああ、それなら心配ない!」


 その板さんの話では、素人でもできるものだという。

 なぜなら


「ホットドリンクは、業務用サーバーにカップをセットすればいいし。アイスドリンクも冷蔵庫にある業務用のパックのやつをそのまま使えばいい。食いものも一緒。業務用の完パケ品があるから、それをなるべく客に悟られないように、手作りです、みたいな顔して出せばいい。一つだけコツがいるとすれば……」


 ラーメンの麺の湯切り、だけ、らしい。


 それで、草壁が一度ゆでた麺を板さんの前で湯切りしてみたら、「おおっ!いいね、筋がいいよ!もうそれで充分だ!」って、いい加減な褒め言葉を頂いた後、そうして出来上がった売り物のラーメンを二人して、こっそり食べた。

 その後。


「じゃあ、あと任せたよ」

 そういって、板さん、ロクに後ろも振り返らずに、今日初めて食い物商売に手を染めたばかりの即席カウンター係を一人残して、さっさと帰っていった。

 もうどうにでもなれ。



 

「芳江さん、今、カウンターで一人で入ってるバイトの子、確かこの前入ったばかりの」

「そうです」



 ちょうどそんな時間、温泉旅館双葉荘の事務室では、社員たちの姿も消えたあと、一日の締めとして帳簿付けなんかをしている、女将、葉月麗子と、若女将、葉月芳江の姿があった。

 そろそろ、旅館事務の業務も終わろうという頃だった。

 ありふれた事務机が10ばかりも並ぶその向こう、その部屋のいかにも管理職らしく、女将と若女将のデスクが一番奥まったところに並んでいる。

 今晩もそこで並んで座って、片方は従業員のシフト表を作ったり、もう一人は伝票の整理をしたりするのがよくある日常であった。


 因みに、レイコの旦那というのはこの旅館のオーナー社長ということで別室をあてがわれているので、普段はこの部屋にいない。

 そして、旅館業務の指揮は基本的に妻と嫁に任せていた。いや、というよりも、レイコのほうも旅館業務の采配をほぼ芳江に委ね、自分は新米女将の後見人的な立場に一歩身を引いているというのが現状だった。

 いろいろと思うところはあるのだが、今はそれをグッと我慢している。それは、仕事の面でも家庭の面でもそうであった。



 本日もそうして、若女将と女将の二人きりとなった事務室である。

 レイコが、ついさっきラウンジの軽食カウンターで最近入ったばかりのバイトがラーメン作っている姿を見つけて驚いていた。


「いいの?彼、入ってきたばかりで、あんなこと一人でやらせといて」

「大丈夫でしょ?ちゃんと仕事の引継ぎもしているでしょうから」

「……」

 

 とにかく能天気なところのある芳江であった。難しい仕事はないはずだ、というのだ。研修もかねて、何度か彼女自身もカウンターの仕事をしているから、そこはわかるのだろうが、旅館業務全般に一応通じている人間と洗い場にこの前に入ったばかりのバイトでは、仕事の理解に関するバックボーンが全く違う。

 同じと思っちゃいけないはずなのに、ちょっとそういうところで、大雑把なところがあった。

 あからさまに言うと、配慮が足りない。というのは少し気になっているところだった。



「彼、素直でもの覚えも早いから、助かります」

 草壁のことを買っているような言葉に聞こえるが、実際は「都合のいいバイトが一人いて助かった」程度のことでしかなかったりする。

 それがレイコには分かるものだから、抑えようとは思うが、つい口調が説教くさくなった。

「……なら、もっと大事にしないと……」


 そして、嫁のほうは、姑の心配にはあんまり気がついていないのである。

 本当に不思議そうな顔をするのだった。

「大事に?期間限定のアルバイトの子ですよ?」



 こういうとき、常に黙ってしまうレイコの思いにはあまり気がついていないようだった。


 ――それなりにソツのない人。愛嬌もあって、人当たりも悪くない。頭だって悪くない。仕事の覚えも早かった。けど――。




 一方の草壁であるが、なんとかかんとか、トラブルもなくカウンター仕事を終えるたのだが、まだそれで本日の業務終了とはいかなかった。

 最後の仕事として、旅館内にあるスナックのホステスさんを自宅近くまで送るなんてことまでさせられて、ようやくその日の業務から開放された。



 で、やれやれと思ったわけだが、この旅館、一日中こき使ったあと、じゃあ、おやすみなさい、となってからもいちいちしんどい思いをさせるのだった。

 まず、寝具だが。

「布団部屋があるから、そこから自分のお布団持っていってね」

 というのだ。疲れて帰ってから、布団部屋に行ってそこで自分の布団セットをよっこらせっと抱えながら、寝るところまで持ってかなきゃいけない。

 

「疲れた……ホイホイ言うこと聞いてたら、アホほど仕事押し付けやがって!」

 口をつくのはグチばかりである。

 ところが、である。もっと問題があった。

 その日、草壁の寝室としてあてがわれた部屋であるが……。

 実は、裏庭にある、あのボロボロの寮の一室なのだった。




”ええっ!あの寮に泊まるんですか?何年も使ってないらしいじゃないですか?もっとマシなところないんですか?僕、さすがにあの寮にはちょっと泊まる気がしないんですけど”


 若女将から、寮に泊まってといわれたとき、草壁ははっきり抗議した。

 そしたら、若女将のほうは、こともなげに笑ってこう答えた。


”いやそうな顔しないでよ。まさか、バイトの子を客室に泊まらせるわけにはいかないでしょ?”

 それはそうかもしれないが、他に宿直室とかないのか?

”それはあるけど、それは宿直の職員用だから、塞がっているもの”

 ないから、仕方ない、だからあの寮に泊まれ。その論法に、ちょっとムッとした。が、

”大丈夫よ。ついこの間、綺麗にお掃除して手入れしたから外見とちがって、中は綺麗よ”

 本当かな?とまだ訝しむ草壁に向かって

”それに長いこと使ってないって言ったって3,4年前までは人が使ってたのよ。そんなに急にボロボロになるわけないでしょ?”


 そういうものだから、草壁も不承不承、その寮に寝泊りすることを承諾したのだった。

 まっ、いいか、一晩だし。先輩バイトたちとの話のネタにもなるかも?とかちょっと暢気なことを考えながら。


 ところがである。


「おいっ!これのどこが綺麗なんだ?どこがっ!」


 がらんとした6畳一間の畳部屋の真ん中に寝具をドサッと落としながら、草壁は一人で叫んでいた。


 何にもない、ことは仕方ない。

 が、襖とか至る所破れている。天井からぶら下がる煤だらけでヒビの入った四角い蛍光灯だって、電球が一つ切れているから、室内は薄暗い。


 気になるものだから、見なくてもいいのに、押入れを覗いた後、急いで襖を閉めた。

 中では自然死したゴキブリのミイラが3匹転がっていた。

 室内はかび臭い。古い土壁の塗りがあっちこっちで剥がれている。


「カーテンもないんですけどね!」

 そう、だから朝になったら、直射日光が容赦なく室内に降り注ぐことだろう。

 今頃、怒鳴ったって仕方ないが、そうでもしなきゃやりきれない。




 そのとき、その寮のお隣の部屋では、長瀬ゆかりがやはりガランとした部屋の中で一人、布団に包まっていた。

 部屋の中はというと、だいたい今草壁がいるのと変わりない。同じつくりの部屋だから。

 家具らしきものもない。あるといったら、目覚まし時計。それと壁に身づくろい用の小さな鏡をかけてあることと、部屋の流し台の横に置いた小さな電気コンロに、ヤカン、マグカップに歯磨きセット。そんな程度だ。冷蔵庫もちゃぶ台もなかった。

 一応、こちらの部屋の蛍光灯だけは、ちゃんと明るいことぐらいが設備としてお隣よりも優れている点かもしれない。




 ゆかりの場合、夜の仕事は早く終わるのだった。

 そのあとは外出も可能だが、見知らぬ街だ。あんまり出かけるアテもなかった。

 さすがにこの部屋に長くいる気にはなれなかったが、マンガ喫茶みたいなところで暇を潰していても、感じるモヤモヤだけはどうしようもなかった。

 

 今日も気がつけば、日付が変ろうとする時間だった。

 さすがにもう布団の中に入っておかないと、明日に差し支える。

 それは頭では分かっているが、体は素直に休息をとってくれなかった。


「さ、さみしい……こわい……この部屋、何日いても慣れない」

 明かりを落としたこのホコリくさい部屋の中で、今日もゆかりは一人、眠れぬ夜を過ごしていた。

 夜具の中で、右に左に体の向きを変えてみたところで、体の疲れは感じても眠りだけはなかなかやってこなかった。


 

 最初は環境の変化にまだ、体がついていってないのか?と思った。

 けど

(ひまわりが丘に来たときには、あんまり感じなかったのになあ……)

 そう思うと、つい車でひとっ走りしか離れていないあの街がとても遠くて、懐かしい場所のように思えた。

 里心、なんて言うと可笑しいかもしれない。だって、あの街は彼女の故郷じゃないのだ。ただ、半年ほど住んだ街にすぎないというのに。でも、


「帰りたいな」


 眠れないまま、布団の中でポツリと呟くと、ちょっと泣きそうな気分がしてきた。

 どうしたんだろう?なんで、そんなにあの街に帰りたいんだろう?

 そういえば……


「最近、顔見てないなあ……どうしてるんだろう?」



 気がついたら、いつの間にか布団を抜け出していた。明かりをつけると、部屋の壁に静かに背をもたせ掛けた。仕方ない、椅子すらないのだから。


(私が居ない間に、あやちゃんと彼、本当にくっついちゃったりして……)

 頭の中をよぎるのは、詰まらない想像ばかりだった。それにしても、彼はどうしてるんだろう?そしてどう思ってるんだろう?今の状況を。



 そのとき、ちょっとした衝撃を感じたゆかり。

 見上げると、天井からぶら下がった電燈が軽く揺れ、そのせいで擦り切れた畳の上に落ちている自分の影も水面のようにさざめいていた。

(地震?)

 と最初思ったが、衝撃は一瞬だった。その後、続いたのは地震ではなく、人の気配だった。


 誰かが居る!


 こんなところに誰?まさか、暴漢?

 怖い!

 感じたのはそういう恐怖だった。とにかく何も考えることなく、立ち上がった。とにかく逃げよう!


 すぐに立ち上がって、出入り口に脱いであった自分の履物に足を入れる。が……

「スリッパじゃ、走れない!」

 大急ぎでもう一つのローファーに履き変える。が、そんなことをしてモタモタしているうちに、アッチコッチ体をぶつけた。玄関ともいえないような小さな土間なのだった。


「は、早く!」

 気持ちだけが焦る。そして、ローファーに履き替えてからも、ドアの鍵だって上手く開かない。

「あっ、間違えた!こっちの部屋の鍵は向こうの部屋とは違うんだった!」

 そこでも、ガチャガチャと、音ばっかりが立った。


 そして、ただただ怖くなったゆかりがやっとの思いで外に飛び出したときである。


「誰かいるんですか?」


 随分と暢気な声が背後かから掛かった。それと同時に彼女の心臓の当たりがドキンっと高鳴った。

 まさか?

 

 振り向くと、お隣の部屋のドアから、草壁が不思議そうな顔を覗かせていた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 改めて気がついた。

 この部屋に誰かを招きいれたところで、お茶一つ出せないことに。ヤカンはある。お茶っぱもある。しかしである、カップがない。あるのは、自分用のマグカップと、歯磨き用のプラスティックのコップだけ。


「ご、ごめんなさい、この部屋本当になんにもなくて……お茶も出せない」




 寝巻き代わりの地味なトレーナー姿のまま部屋を飛び出したあと、お隣のドアから顔を覗かせた草壁の姿を見て、しばらくゆかりは固まっていた。

 それは同じく草壁も同じだった。

 

 簡単な言葉を二言三言かわした。なぜここに居るんです?僕、ここのバイトです。じゃあ、叔母さんところで働いてるんですか?へ?じゃあ、ゆかりさんの叔母さんって、すごい若いですよね?そっちじゃないですよ。女将のレイコ叔母さんです!

 そんな、ことがあって、「なんだったら、ちょっとお茶でも飲んできませんか?」とゆかりが言い出すものだから、草壁はお隣のゆかりの部屋に招かれたのだった。

 お隣のほうも、ちょっとかび臭かったが、自分の部屋よりずっといい匂いがした。

 壁や畳のボロさはあんまり変らなかったが。




 ゆかりがこの部屋ではお茶も出せないと言ったのを聞いた草壁の行動は早かった。

「じゃあ、自販機でお茶買ってきます!ちょっと待っててください!」

 

 言うなり、ゆかりの部屋を飛び出した。



 彼のほうとしても、なんとか時間をつなぎたかったわけである。何にもないので、それじゃお休みなさいなんて言われたらたまらない。久しぶりに会ったんだ。ゆっくり話の一つでもしたい。


 


 その後、二人はゆかりの部屋の壁に背をもたせ掛けて並びながら、とりとめもない話をずっと続けていた。 

 ワンルームのその部屋には、玄関扉の反対側に両手を広げたほどの幅のサッシ窓があった。こちらの部屋にはちゃんとカーテンがついていた。だがデザインも冴えない使い古しらしい、隅っこにタバコの焦げあとのある緑のチェック柄のカーテンだ。二人はそのカーテンで閉ざされたその窓を挟んで、しばらく会うことのなかった間のできごとをポツポツと話したのだった。



「草壁さんも、大変な目に会ってるんですね」

「ゆかりさんこそ、ここでよく寝泊りできますね?」



 彼女、こっちに来てからずっとこの寮で一人でいるそうだ。話を聞いて草壁が驚いた。


「ここ、怖くて、ぜんぜん眠れません!」

「アハハハ!涙目だ」

「笑い事じゃないんですよ!」


 口をへの字に曲げて、細めた目の奥を微かに潤ませると、ライオンの檻の前でおびえている小さな子どもみたいな顔になった。それが可愛かった。


 さっきまで寝床に入っていたせいか、いつもは櫛目も綺麗に垂れているゆかりの黒髪も、今は少しハネがあったりする。そして、化粧っ気が全くないせいで、いつもより随分と白く見える肌のせいもあるかもしれない。

 やつれ、とまではいかないまでも、草壁にはちょっと離れたところで並んで座るゆかりの横顔がちょっと疲れてみえた。

 不思議なのは、そうなると、いつものちょっとお姉さん然とした雰囲気のときより、いくらか幼く見えたことだった。

 



 しばらく、沈黙が続いたあと、ゆかりが聞いた。

「明日、早いんですか?草壁さん」

「6時おきです」


 別に、言葉がなかったのは、気詰まりとか話題に詰まったからではなかった。

 自然に黙り込んでいただけだった。

 

「ちゃんと起きれます?目覚まし時計とかあるんですか?」


 ゆかりに心配されて気がついた。そんなもの持って居ない!


「あっ、そんなもの、ないわ……」



 と言った二人の目の前には、ゆかりの目覚まし時計が、小さな針音を立てているのが目に映った。

 

 しばしの沈黙……。


「あっ、ここに一つある……」

 それを見て、草壁が思わず呟いた。と同時にゆかりが目を剥いた。


 こ、この人、どさくさに紛れて、ムチャなこと言い出すんじゃないでしょうね?

 下心どころの騒ぎじゃない。ここに泊まるって言うの?ちょっと!


 

「わ、私も6時起きだから、隣に起こしに行ってあげます!」


 ところどころ、頭のてっぺんから抜けるような高い音を出しながらゆかりが早口に叫んだ。

 その声を聞いて、草壁も自分の言ったことの意味に今頃になってやっと気づいた。けど、そのせいで、彼のほうも受け答えが微妙に不自然な言葉になった。


「ですよねえ……」

 ポソッとそんな言葉を隣で言ってのけるこの厚かましい男に、ゆかりは目を丸くするしかなかった。

 案外、油断もスキもない人……。




 と、そのとき――。


 ”ニャーニャー”と響いた声は、最初、赤ちゃんの泣き声のようにも聞こえた。

 風の音かカラスの鳴き声しか響くことのなかった、この寂れた寮の中ではついぞ耳にしたことのない音だったので、それを聞いた二人は凍りついたように固まった。


「何かしら?なんか聞こえません?」

「はい。ネコ……じゃないですか?」


 二人とも耳を澄ましながらヒソヒソ声でそんなことを言い合っていた。なぜなら、それはとても近いところから響いている様子だった。

 どこか遠くの家で、犬が吼えている、といったそんな話とは違っているように思えた。まるで、自分たちに呼びかけているような。



 

 二人が玄関扉を開けて見ると、その鳴き声はよりはっきりと響いて来た。

 揃って外に出てみた。

 宿泊客もあらかた寝入っていると思われるそんな時間では、旅館の窓からは、廊下の非常灯が緑色に光っているのが見えるばかりだった。

 綺麗に開けた星空の下で、二人があてがわれた部屋の明かりだけが、短い草いきれの広がる裏庭の上に二つのシルエットを伸ばしていた。



 寮の脇には、二階へと登るための鉄骨階段が取り付けられているのだが、鳴き声の方向がどうもその階段の上かららしく思えた。


「この上でしょうか?」


 宵闇の中で顔を見合わせた二人は、揃ってその階段を登ってみることにした。

 手すりもステップもサビだらけで、安物の滑り台の上り口みたいなその階段をゆっくりと登ってゆくと、鳴き声は、少しずつはっきりしてきた。それと同時に、おそらく、というより間違いなくネコであろう、その声の主は一ところでジッとしているみたいだった。人の気配に逃げようともしないらしい。



 鉄骨階段を登った先に伸びる、工事現場の足場みたいな鉄の渡り廊下の上には、一匹のネコがうずくまっているのが薄闇の中に見えた。


 よく来たな、とでも言いたげに、二人の姿をみたとたん、短く”ニャーン”と鳴いた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



”迷子の迷子の子猫ちゃん、あなたのおうちはどこですか?”


 その三毛猫、ゆかりがそっと近づいて行っても、逃げも怖がりもしなかった。見ると首輪をしているのが暗がりの中でもわかった。人なれしているんだろうか?そう思って、そっと頭をなでると、向こうのほうから手のひらにグリグリと両耳をこすりつけるようにして甘えてくるので、思い切って抱いてみたら、大人しくゆかりの胸の内に収まった。

 

 草壁は、ネコとゆかりを従えて再び彼女の部屋に戻ってきた。

 そのとき、ゆかりは、そんな歌をまるでネコに子守歌でも聞かせるようにして口ずさんでいた。




 突然二人のもとにやってきた、カワイイ訪問者とともに、しばらく二人はネコじゃらしならぬ、ハタキなんかを使って遊んでやっていた。

 とにかく人懐っこいネコだった。初対面の割には長年親しんだ飼い猫でもこれほど、飼い主に懐くか?というぐらいに。

 

 しばらく放っておいたりすると、向こうのほうから、どっちかの膝の上に乗っかってくる。

 ハタキで遊ぶのに疲れると、「もっと遊べ!」という感じでニャーニャー鳴く。

 

「おまえ、元気のいいネコだな?眠くないのか?」

「それにしても、この子、どこの飼い猫なんでしょうね?」

「明日、女将にでもちょっと相談してみますか?」

「そうですね」



 ナリは立派な成猫なのだが、子猫みたいにして全力でじゃれ付いてくるこの三毛猫の相手をしていると、時間が経つのも忘れてしまいそうだった……。

 それにしても、こっちも疲れる。

 そして、ちょっと遊びつかれると、どっちかの膝の上に可愛く乗っかってきて甘える。

 見ていると癒される……。

 癒させる……、なんか心地いい……、久しぶりにすごくリラックスした気分。なんだか、ちょっと……。





 どれぐらい時間が経ったかはわからなかった。

 ゆかりは自分がすっかり寝こけていたことに気がついた。いけない!明日早いのに!


 ふと横を見ると、自分のすぐ隣では畳みの上に投げ出した右腕の上に頭を乗せた草壁が、体を軽く「く」の字にまげて深い寝息を立てていた。

 

(私達、こんなに近くに座ってたんだ……)


 最初、お互いに遠慮して座ってた頃はサッシ窓を挟んで並んでいたはずが、まるで添い寝みたいになっていたことに驚くゆかりだった。

 ネコも、草壁のちょっと向こうで、丸まった体をゆっくりと波打たせて眠っている。



 起こさなきゃいけない。

 けど……。


 せっかくよく眠っているのに、途中で起こすのも悪い気がする。

 さっきは悪乗りして、こっちで寝ようみたいなことを言いかねない彼を怒ったけど、成り行きがこうなら、仕方ないことだよね?

 やっぱり、こんなによく寝ているのに起こすのは……彼がかわいそうだから。



 なるべく音を立てないようにしながら、そっと自分の部屋を抜け出すゆかり。

 そして、静かにだけど、なるべく早く隣の部屋から草壁の布団を持ってくる。静かに、だけどモタモタしない。こういうとき、叔母さんのトレーニングが役に立つとは思わなかった。まだ半人前だけど。


 そうっと、草壁の右手を持ち上げる。起きないように、起きないように。そして、マクラを頭の下にそっと滑り込ませる。

 敷布団は仕方ない、我慢してもらおう。あんまり動かすと起こす可能性があるから。

 かわりに、予備で持ってきた自分の着布団を一枚余計にかけてあげる。まだ肌寒いというほどの季節じゃないからこれで風邪引いたりはしないわ……。多分。

 畳の上にジカ寝で、ちょっと固いかもしれないけど、我慢してね。私は、もちろんちゃんと敷布団の上に寝させてもらうけど。

 それじゃあ、ソッと明かりを消して。

 ――よかった、彼ずっとよく寝ててくれて。




 明かりを落としたあとの部屋の中には、開け放した窓の向こうから、月明かりがうっすらと室内に差していた。

 わざとカーテンは開け放してみた。


 そうすると、隣に誰がいるかよくわかったから。



”今日は、安心して眠れる……”




 とても久しぶりに、心地よい眠りに落ちてゆく自分を感じた。目が覚めて、頭がすっきりしているというような睡眠の経験は久しぶりだった。




 翌日、目覚まし時計とともに6時に揃って目を覚ました二人。

 なんとなく気まずいような恥ずかしさを感じながら、ちょっとぎこちない朝の挨拶を済ますと、草壁は一旦隣の部屋へ自分の寝具とともに帰って行ったし、ゆかりもすぐに身支度を整えると、寮を後にして葉月家へと向かった。


 そして、ネコであるが、二人が目覚めたときにはもうどこにも居なかった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 では、あのネコはなんだったのか?

 

 結局、二人はそれ以後、その三毛猫に再会することはなかったのでよくわからないままだった。



 しかし、別に妖怪、物の怪の類のものではなく、ちゃんとしたとあるところの飼い猫であった。


 翌日の朝早くにはその三毛猫、ちゃんと自分の家へと帰り、飼い主の腕の中に抱かれていたのだから。


「おまえは昨晩はどこに行ってたの?」

「この子はどんなに戸締りしてても時々どこかに出てっちゃうんだもんな」

「そうね、今までどこで何をしてたの?こら、鳴いてばかりいないでちゃんと答えなさい」

「好きなネコにでも会いにいってるのかな?」

「そうかもしれないわね」


 実は近くの薬局の飼い猫だったりするのである。今日も、目覚めるとこの三毛猫の不在を知って飼い主が探していると、開店の時間になって、まるで客みたいにして店の玄関先に帰ってきたのだった

 そして、この三毛猫を白衣をした店主である薬剤師の夫婦が代わるがわる腕に抱きながらそんなことを話していた。

 一応、店番もこなす、看板ネコでもある。

 もちろん店番と言っても、出入り口ドアの前で寝ているだけだが。



「そんなに会いたい人って、一体誰なの?教えなさい」


 白衣の奥さんが腕の中の三毛猫にそう問いかけても、ネコのほうは、そんな言葉なんか聞こえない様子でじっと目をつぶっているだけだった。




 横並びがずっと個人商店の続く、ちょっとした商店街の中にあるその薬局、いわゆる大型のドラッグストアとは違う、小さなたたずまいの店である。

 市販薬の小売や全国処方箋の受付、そして漢方の相談など、薬のことならなんでも相談に乗ります、という細かなケアが売りのお店。


 それが証拠に、ハートマークの大きなあしらいのある店の看板にはこう書いてある――。


「不安、不眠、疲労によるイライラ、ストレス、その他さまざまな症状のご相談に乗ります。安心館薬局・Heartful pharmacy」


 



第31話 おわり


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ