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第30話 ゆかり、修行中

 お話は前回から数日経った頃のこと。1年目の10月まっただなかである。




 ちょうど、喫茶アネモネでは、マスターとアルバイトの辻倉あやがカウンターの中で並びながらこんな話をしていた。



「へえ……そんなことがあったのか……けど、そのこととゆかりちゃんがしばらくコッチへこれないことに何の関係があるの?まさか実家に連れて帰るというわけでもないんだろう?」


「それが、なかなか、ややこしいみたいですよ」




 という訳で、マスターの言う「そんなこと」とはどういうことか?あのスナックでゆかりと母がバッタリご対面となった前回の終わりのところから話が始まるのだが――。




 ピアノ演奏のついでにいつものごとくスナックでホステスをやりながら、あやと二人で客前で楽しく歌って踊っていたゆかりであった。

 しかも、目一杯踊れるようにと、自前でワイヤレスヘッドセットマイクまで御そろいで用意してそれを装着しての舞台。

 それを、お忍びで娘の様子を見に来た母親に見つかったゆかり。

 なぜか知らないがあやと草壁も一緒に例のスナックmomoのボックス席に座らされた。

 最初、笑っていたゆかりの母、長瀬登善子である。

 しかし、おかしかったからじゃない。

 多分、怒りのバロメーターが振り切れたので、とりあえずワロタ。そういうタイプかもしれない。



 やがて、顔から笑みが消えると、以前実家に遊びに行ったときの優美なマダムの雰囲気が一気に阿修羅に変った。


「なんなの?これは」


 家族じゃない草壁も思わずヒヤッとするような冷たく刺す様な厳しい口調だった。娘のほうは、母の目の前で言葉もなく小さくなっているより他なかった。


「ドサまわりの芸人でも目指してるの?それとも水商売で食べてくつもり?」

 皮肉な言葉を吐きながら、ゆかりをじっと凝視する母。

「いえ……」

 ゆかりのほうはただ、一言そう応えるだけで精一杯である。


 すると今度は矛先を急に変えてあやへと声をかけた登善子。

「あやちゃん、お元気にしてた?」

「はい」

 まるで、こちらも母親から怒られているみたいに小さくなる。

「あなたまで、一緒になってこんなところで働いているとは思わなかったわ……ところで、ご両親はご存知なの?」

「いいえ」

「ご存じない?まあ!じゃあ、夜遅くまでこんなところで働いて、親御さんにはなんと説明してるの?」

「月に1、2回のことなので、サークルの飲み会とか……」


 フッとため息を漏らす登善子。こちらは言っても他所のうちの子。そんなに追い詰めるつもりはなかったが一言だけ説教をした。


「嘘つかなければならないようなお仕事をすること自体どうかと思いますね」



 一連の話の間、カウンターの客たちは、ずっと黙っていた。他所の家の修羅場を見せられて、声を出すこともこの場から去ることもできない様子だ。いわゆる空気を読んだ。という状況かもしれない。

 それにしても、このお母さん、気さくで優しそうに見えて怒らせると怖いんだなあ。なんて、暢気なことを考えている草壁だったが、油断していると、こっちにまで切っ先が向かってきた。


「お久しぶりね、草壁さん」

 ああ、最初、向こうの家の玄関で出会ったときの笑顔に似てるけど、目が全然笑ってないなあ。やだなあ、こういう怒り方する人。絶対、一度怒ると長く尾を引くタイプだ。ゆかりさんもちょっとそういうところあるけど、そういうのは似てるのかもしれないな。


「ご実家のほうでは、お世話になりました」

 草壁にしてみたら、自分は悪いことはしていないと思う。少なくとも、目の前で並んでうなだれているヘッドセット付けたドレス姿の二人のようには。

 と思ったら、手裏剣が飛んでくる。油断ならないな、このお母さん。


「いえいえ、こちらではゆかりがすっかりお世話になってるようで」


 その瞬間、ゆかりのヘッドセットが今までになく大きく揺れた。多分草壁も、ちょっとだけのけぞった。このお母さん、言葉で殺すってことがお上手なのかも。

 そして草壁にもお説教が始まった。


「あなたの年で、こういうお店に入り浸るなんて関心しませんね」

「はあ……」

 入り浸っているわけじゃなくて、娘さんが出勤するときだけ顔を見せるのですが、そんなこと絶対にここで言えるわけがない。

「こんな生活をしてて、将来のこととか真剣に考えてるんですか?」

 急な言葉だった。一体将来とは何のことを言っているんだろうか?まるでうちの親みたいなことを言う。そしてそんな登善子の言葉の真意を計りかねる草壁はただシドロモドロの返事をするしかなかった。


「しょ、将来ですか……い、いえ……?」


「まあ、頼りないお返事だこと」

 草壁の様子をジッと見ながら、思わずため息を漏らす登善子だった。なんで他人のお母さんに失望されるみたいなこと言われなきゃならないんだ?とちょっと草壁が混乱していると、再びお母さんの矛先は、娘のほうに向けられていた。


「さて、ゆかり」


 まるっきり、印籠だしたあとの水戸黄門。

 正体あばかれた悪代官の神妙なこと。ずっと顔をあげることもできずに返事だけするのが精一杯。


「はい」


「しばらくのんびりさせるつもりでいたけど、これじゃあ考え直さざるを得ませんね」

 母の言葉を聞いて、ゆかりはやっと重そうにうなだれていた顔を上げた。キッと見上げた瞳が急に勝気に光っていた。草壁もあんまり見たことないキツイ目をしていた。

 母のほうは娘の様子などそ知らぬ様子で、言葉を続けた。


「自由にさせすぎたのかしら……あなたには花嫁修業のひとつもさせてないし」

 ゆかりの視線はジッと母の上に注がれたままである。


「実家に帰ってらっしゃい。私の手元において、鍛えなおします」



 まさか!

 草壁とあやがその言葉に驚いて、思わず息を呑んだ瞬間である。


「それだけは、絶対イヤッ!!!」

 

 母のほうはカミソリだとするなら、娘のほうは一気に太刀で切りつける勢いだった。ゆかりの叫び声がそれまでの静寂を乱暴に打ち破った。短い言葉の響きがしばらく、カラオケのエコーみたいに室内に響き残り、娘のほうは言葉とともに、立ち上がって母を文字通りにらみつけた。

 追い詰められた悪代官が、黄門様に襲い掛かってきた。


 しばらく、母娘がにらみ合っていた。

 立ち上がった娘のほうはまるっきりケンカ腰にいつのまにか変っていたが、母のほうは冷たい目で娘を見上げているだけだった。



 先に目を逸らしたのは母のほうだった。


「まあ、いいわ、私もそんなつもりで今日来た訳じゃないから」

 ゆかりの勢いを完全にいなすようにしながら、そういって軽く笑みを浮かべた。そして、ようやく抜いた刀の切っ先を下ろしたみたいにちょっと気をゆるめた様子を確認してから、再び厳しい口調に変ると、こう言葉を続けた。


「けど、こんな体たらくを見て放っておけません。私の言うことも聞いてもらいます」

 そう言うと、登善子は自分のカバンを手に席から立ち上がった。

「それって、何?」


「追って、連絡するわ」


 そういうと登善子は今夜の宿の心配をする娘へ、背中で「部屋は取ってるから、そっちに泊まるわ。あなたも今日は、せいぜいゆっくりしてきなさい」と言い残して去っていったのだった。




――話が戻って、そういうことがあって、数日後のアネモネである。


 普段はコーヒーの香りの漂う、場末の小さな板張り床の喫茶店。本日はというと、めずらしくココアの香りがただよっていたりする。もうそろそろ半袖では肌寒くなるような季節。ホットココアでホット一息なんて客の要望に応えるべく、カウンターではあやとマスターが並んで注文の品を作っていたりする。


 とは言っても、基本ココアパウダーと牛乳と砂糖をお鍋で混ぜて、軽く生クリームを垂らしてできあがりという簡単なもののために、作っているのはマスターではなくあや。

 客から、あやちゃんも何か作るの?ココアぐらいなら。ならそれちょうだい。

 というようなやり取りで入ったオーダーであった。

 まあ、そんなことはどうでもよくて


「――ということで、ゆかりさん、近くの叔母さんちに住み込みで花嫁修業……らしいです」

「どれぐらいの間、そっちいっちゃうの?」

「当面のことらしいです。ただ、その間、週に1回か2回の休みとピアノのレッスン以外は、こっちに帰れないって……」

「厳しいな……あやちゃん、平日のお昼とか、もっと来れない?」

「無理ですよ、大学あるんですから。なんか、その叔母さんって人が、お茶と踊りのお師匠さんらしいんです」

 あやがそんなことを言いながらひっきりなしに鍋をかき回していると、中の液体は滑らかにトロリと湯気を立てだした。甘い香りのただよってきたのを確認したマスターは湯煎にかけていたカップを取り出して綺麗に水気をふき取って、あやの手元にカップを置いた。


「なるほど、ゆかりちゃん、そこで花嫁修業として、泊り込みでお茶や踊りの稽古か……」

「いいなあ……ゆかりさん、綺麗な着物着て、和室で濃茶とかを頂くんでしょうね……私もそんな優雅な花嫁修業やってみたいなあ……」


 できあがったココアをカップに注ぎながら、あやがうっとりとした顔でゆかりの花嫁修行姿を想像していた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 

(あ、あれ?お茶は?踊りは?……私が想像してたのと、なんか全然違うんだけど……)



 ちょうどそのとき、長瀬ゆかりは母の言いつけに従って訪れた叔母の家で、そんなことを思ってキョトンとしていた。


 叔母の家について、「じゃあまずこれ着てちょうだい。これがあなたの制服ですから」と言って叔母から手渡された衣装というのは確かに和服だった。

 が、和服と言っても、これ……。


「これ、割烹着ですよね?」

「そうよ。何かご不満?」

「いえ、叔母さんちに行けって言われて来ていきなりだったものだから……」

「長瀬さん!」

「はい!」

「よろしい?ここで働いている間は、叔母と姪ではありません。いいですね?あなたはこの家の使用人並みとして扱いますからそのつもりでいてください」




 あのスナックでの騒動の2,3日後である。母からの指令は「しばらくレイコの家に行って花嫁修業して来なさい」というとてもザックリとしたものだった。

 あのレイコ叔母さんなら、確かお茶と踊りの師範。向こうでしばらく住み込みでそういうのを仕込まれるのかな?ぐらいに思ってやってきたゆかりであった。

 それが到着してみたら、真っ白な割烹着を着せられて、叔母さんちの使用人として働かされるらしいことが判明した。

 しかも、渡されたのは割烹着だけじゃなかった。


「これも、つけなさい」

「はい?」


 見ると真っ白な手ぬぐいだ。


「これは、なんでしょうか?」

「見ての通り、手ぬぐいよ。あなた、髪留めぐらいもってるわね?それでその長い髪留めなさい、留めたらその手ぬぐいを頭に乗せて……」


 言われたとおり、髪を止めて手ぬぐいを頭に乗せて……。


「後ろに垂れてるほうの左右の両角を軽く結ぶ……。そうそれでいいわ」


 見る間に、「あねさん被り」の完成と相成った。

 あれ?なんか違う、何かが違う。想像していたのと全然違う。

 そのとき、ゆかりの頭の中に、なぜか「シンデレラ」のお話がふと浮かんでいた。




 この叔母さんなる人。本名を葉月麗子という。旧姓は長瀬、ゆかりの母親である長瀬登善子のすぐ下の妹で、一つ違いの年子の姉妹であった。当然ながら、変わり者で有名な長瀬文子の姉でもある。


 年若くして、とある温泉旅館に嫁いでからずっとその家の妻として、そしてその旅館の女将として、家庭と職場の両方の仕事を立派にこなしてきた才女。


 もう隠しても仕方ないと思われるので、ぶっちゃけてしまうが、その温泉旅館というのが何を隠そう、現在草壁が洗い場でアルバイトに奮闘している『双葉荘』である。


 聡明と冷静さという意味では、本家をついだ姉以上と評判の妹であった。

 当然、実母などは登善子と二人して家業を継がせるつもりだったのだが、なぜか父の長瀬康二郎はそれを好まず、半ば強引に、この旅館の跡取り息子とお見合いをさせて娘を旅館の女将にしてしまった。

 

 そして、今に至っている。



 レイコがこの旅館に嫁いできた当時というのは、義母にあたる人がいた。なくなって10年以上たつ今でも旅館の古い人間には「大女将」と言えばその人しかいないという、ゴッドマザーとでも言えるような存在の人である。この旅館の創業者のお爺さんの下で、7才のときから旅館で働き女将をしているという、生ける伝説みたいな人であった。

 この大女将というのがそれは厳しい人で、レイコもとついでからはこの女版鬼軍曹みたいなバアサンに鍛え上げられたのだった。



 

 いろいろと寄り道にはなるが、ここで「双葉荘」についても簡単に触れておく。

 都会の歓楽地近くに聳える地下一階、地上4階というその建物。比較的最近、立て直されたばかりの黄泥色した壁に広く大きく取ったガラス窓が眩しく光る、客室数40数室という、中規模旅館である。

 

 近くには大きなシティーホテルも数多く存在する都会の中にあって、客室数も建物の規模もあまりにこじんまりとした旅館である。

 しかし、いわゆる温泉街というのとは全く違うこんな場所にポツリと『温泉旅館』を標榜して営業しているのはここぐらいのものだった。

 郊外の緑多い、由緒ある観光スポットめぐりが売りのようなところとは違って、このあたりは遊園地や中華街、歓楽街などのシティースポット目当ての観光客が多い。

 そんな中で、昼は都会型の観光を楽しんだあと、夜はまったりと温泉でひとっ風呂。なんて楽しみ方を提供できるのがこの旅館ならではのこと。

 いわゆる「ニッチ」な需要で持っている。

 そして、この旅館の強みはなんといっても、源泉を自前で持っていることだ。だからこそ、大手ホテルやリーズナブルなビジネスホテルとも違う、ここ独自の営業スタイルで長年やってこれてもいる。温泉目当てのリピーターも何気に多く、経営は安定していた。


 旅館は繁華街の程近く、大きな道路から少し入ると、あたりは民家や分譲マンションなんかも立つ住宅街となっている小さな丘陵地の上にポツンと立っていた。全室海が見えるように設計された客室からの眺めは、昼夜問わず好評である。



 そして、そのオーナーである葉月家。レイコの嫁ぎ先であるが、その家というのも旅館のすぐ近く、歩いてものの1分という目と鼻の先にある邸宅である。

 おおきく取り回した生垣の中にある、瓦屋根の家は、土地の大きさも家の規模も長瀬家のそれよりあきらかに小さいものだが、売りに出せば、1億は絶対に下らない。


 もとから2世帯住宅を想定してあるので、部屋数もあるし、来客用の寝室というのも確保してあるだけでなく、レイコが踊りの師範をしているという関係もあって畳敷きの和室は数人の生徒とともに稽古ができるぐらいの広さも確保してある。

 つまり、屋敷はそれなりに広いのである。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 一方そのころ、こちらは場所が変って「双葉荘」の洗い場である。

 大きなスペースが、料理の盛り付けのために長く大きく設置されたステンレスのカウンター台によって厨房と仕切られているそこでは、いつもより早い時間からの出勤となった草壁圭介が忙しく立ち働いていた。


「おい、そっちから、盛り付け終わったから。新しい皿並べてけ!」

 厨房で出来上がった料理が次々と客の数だけ手際よく盛り付けられてゆくと、できあがったそれをさっさと番重と呼ばれる、縦長の箱にそっとつめて、各階の女中さんの詰め所までリフトで上げる。

 そうしながら、一つ皿が掃けたらそのあとに手際よく次の料理の皿を用意しなければならない。

 なにしろ、厨房の方々、気難しい職人さんぞろいだった。モタモタすると、昨日今日入ってきたというようなバイトとか関係なしにすぐに怒鳴られる。

 部屋が同じとは言え、エリアが区切られているからまだいいが、すぐ隣にいたら多分問答無用でぶん殴られているかもしれなかった。



「はい!」


 返事ははっきりと手短に、あんまり大きすぎず。この加減を覚えるのも大変。小さいと「聞こえてんのか!」と怒鳴られ、大きいと「うるせえ!」と怒られ。


 まだそれでもこのバイトに慣れている先輩バイトが要領よくやってくれているから、草壁も助かった。

 このまま先輩たちが一斉にやめたあと、新入りばかりで大丈夫なのか?ということが最近の一番の心配だった。



「今日は夕方からじゃないのな?草壁クン」

「はい、若女将からは今日忙しいから早めに来てくれって言われて」

「あっそう。まあ、ちょっと客数は多いけど、それほどってほどじゃないと思うけど……」


 そんなことを、忙しく動き回りながら洗い場の先輩バイトたちと話していると、そこに若女将が突然顔を覗かせた。



「あっ、草壁クン、居た居た!」


 やってきたのは、薄い紫の小さな菊をちりばめた、いわゆる小紋とよばれる着物姿の女性。色白肌にうりざね型した面持ちは、和服の良く似合ういかにも若女将風だった。今もそうやって笑っていると、標準語より京言葉のほうが似合いそうな、おっとりとした愛嬌があった。

 年もまだ若いだろう。多分衣装をどっかのアイドルユニット風に変えても普通に似合いそうなその人、先の草壁たちの会話にも登場した、ここ「双葉荘」の若女将である。

 名前を葉月芳江という。ちなみ4歳になる娘を持つ一児の母でもある。

 女将、レイコ夫妻の実子のもとに嫁いで以後、若女将として、一応旅館業務の先頭に立って取り仕切っている立場であった。



 出来上がった料理を脇に抱えた番重にポンポンと放り込みながら、草壁が不思議そうに若女将を見た。

 だいたい、こんな時間に若女将がこんなところに普段は顔を出さないだろう。こっちも向こうも忙しいだろうに。

「なんですか?」

「草壁クン、免許持ってたでしょ?ちょっと旅館のワゴンの運転してもらえない?駅前までお客さんのお迎えお願いしたいの」


 急に新しい仕事を言いつけられた草壁はちょっと面食らっていた。

「ええ!僕普通免許しかありませんが」

「それで乗れるから大丈夫!これキーね。玄関出た脇にあるうちのハイエース。見たら分かると思うからお願いしとくわね……あーあっ!今日は忙しい、忙しい!」


 若女将の芳江は、突然のことで呆気にとられている草壁に車のキーを文字通り押し付けると、さっさと洗い場を後にして行った。


 残された草壁が手にしたキーをじっと見つめている背後では、先輩バイトたちの声が小さく洩れ聞こえていた。


「ほうら……」

「始まった……」



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 そのころ、姉さんかぶりの割烹着はどうしていたかというと――。


 真っ白の割烹着をつけて、やはり真っ白の手ぬぐいを姉さんかぶりすると、次に手渡されたのはハタキとホウキだった。

 いずれもちょうど片手で軽く振り回せるような大きさ。

 ホウキは黒竹の柄に、穂先として棕櫚の繊維を丁寧に巻きつけたもので、どうみても安物ではない。手に持つと大きさの割りには重い。それだけ穂先には繊維がみっちりつまっているのだろう。

 そして、ハタキであるが、こちらはやはり細い黒竹の柄に、色とりどりの端切れを枝垂れさせているもので、あとで聞いたらレイコ叔母さんのお手製らしい。

 

 これで白尽くめの二刀流女剣士の誕生みたいになった。

 掃除って……掃除機とかは使わないの……。



 その後、じゃあ、まずこちらからお願いするわね、ついてらっしゃい、と言われて通されたのは8畳ほどの応接間だった。

 黒い色の合成皮革張りのありきたりなソファーセットと小さなテーブル。それにテレビやらちょっとしたガラス戸の飾りだなに、表彰状が数枚壁にかけてあったりするというような、シンプルでありきたりな絨毯敷きの部屋である。



「長瀬さん」

「はい」

「あなたにはまずお掃除から始めてもらいます。いいですね」

「はい、奥様」



 ゆかりは大真面目な顔で、叔母さん相手に「奥様」なんて言ってみた。突然そんな言葉を使ったりしたら、ちょっと不自然かもと思ったり、ひょっとしたら向こうが笑い出すかも?とか思いながら。

 ところが、目の前の叔母さんは、まるで当たり前のように姪っ子からの呼びかけを平然と受け入れた。

 私、本当にここの使用人になっちゃったのね。ゆかりのほうもこれで少し気が引き締まった。



 改めて、親戚というフィルター抜きで目の前の奥様と話して見ると、急に迫力みたいなものを感じてしまう。


 ゆかりにしてみたら、この叔母の今までの印象は、物静かで落ち着いた人だった。

 極端に言うと、母、登善子が陽なら、妹の麗子叔母さんは陰。

 母と比べると、細面で目の辺りは普段でもちょっとキツイ印象もあった。もちろん綺麗な人だとは普段から思っていた。年以上に若く見えるというのは、少なくとも康二郎の娘3人の特徴かもしれない。

 そしてそんな叔母からは、文学少女っぽい繊細さをいつも感じていた。

 静かだけど、しゃべると気さく。だけど、つねに控えめ。

 今でも実家に帰ると、嫁ぐ前の麗子叔母さんが持っていたという本が何冊も倉庫に仕舞われてあるのだが、それを見るとちょっと驚いた。

 例えば、文学本一つそろえるにしてみても、とりあえず読めたらいいって感じの文庫本なんかじゃなくて

ハードカバー本を集めている。

 それも新しいものなんかじゃない。

 戦前の作家の初版本みたいなのを、丹念に古本屋を回り、状態のいいものを買ってきて大事に読んでいたのだ。

 そう思うと、旅館の女将なんて社交的な仕事が良く勤まったとも思えた。




「まずはここのお掃除からよ……最初にやることは?」


 わっ、いきなりの問いかけ。普通は掃除道具を渡して、簡単な注意事項だけ伝えたら「それじゃここのお掃除お願い」じゃないの?

 まるでテストするみたいなんだけど?


 って感じで、叔母のペースでどんどん話が進むせいで、ゆかりのほうは最初は混乱するしかなかった。

 しかし、である。

 今、目の前にいる叔母にそんな口答えなどすべきではない。それにたとえ間違っていても、こういう場合相手からの問いには即答すべき。

 というのは、頭というより、呼吸で掴んでいるのかもしれない。ハタキを軽く上げてゆかりがすぐに答えた。


「ハタキがけ」


 叔母の言葉もすばやくかった。

「間違い!まずは整理から」



 棚やテレビと言った重くて大型の家具まではいちいち動かさなくてもいい。

「けど、ソファーは動かしなさい。人の動きが頻繁なところは汚れもたまりやすいものです」

 幸い長瀬家のリビングみたいなものじゃないから、よっこらせって動かせば動かないわけじゃない。が、相当な重労働だ。

 その間、レイコは片隅に立って、ゆかりの動きをそれこそ一挙手一投足に至るまで観察するのだ。


「バタバタ音を立てない!モノは静かに扱う。これからどのように掃除機をかけるかを計算して動きなさい!モタモタしない!」


 事細かに口うるさい。そんなの同時にできるわけがない。と思うがゆかりは、叔母の言葉にはつねに小さく「ハイ」とだけ答えるだけで、余計なことは言わずに従った。


 邪魔なものを片隅の寄せたら、次は掃除機がけ……とはいかなかった。


「あなたにさっき渡したものはなんですか?ホウキ?ここでは必要ありません。ハタキがけがあるでしょ?お掃除というのは足元だけじゃないのですよ?あなたいつもどんなお掃除をしているの?」



 どこか無機質な響きのある叔母の言葉が、さっきからずっとゆかりに降りかかる。口調は静かだけど、常にピンと張り詰めるようなものを感じる。今までに感じたことのないような威圧感だった。



 言われたのでとりあえず、ハタキがけ。

 しかし、ハタキを動かすと同時に、背後からはレイコの叱責の声が浴びせられた。


「ハタキというのはそっと音を立てないようにするものです!余計なところまで叩かない!」



 ダンダラ模様のハタキを片手に固まるしかないゆかりだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 さて、紺地に「温泉旅館 双葉荘」と大きく染め抜かれたハッピを着せられた草壁のほうも、そのころ慣れない車を運転しながら、客を迎えに駅までやってきていた。


 いきなりの車の運転を命じられた。それも普通車じゃなくて、定員10名の大型バンの運転だ。一応普通免許で乗れるったって、そこらの車より一回り大きいわけで、慣れないとこわい。

 何しろ、これ、大きさだけなら、3000万円するようなベンツよりデカイのだ。

 しかもそれに客乗せろって言う。

 人手が足りないのかもしれないが、この旅館大丈夫か?

 と思う。



 言われたとおりの手旗を持ってぼんやり立っていると、目ざとく見つけて「おっ!」なんて言いながら近づいてきたオッサン5人組を乗せた。


「遠路はるばる、ありがとうございます」

 一応、それらしく頭を下げてみる。よく考えてみたら、「迎えに言ってきてくれ」とだけ言われて接客についての指導もなにも受けていないことに思い至った。

 何か粗相があっても知らんぞ。もうやけっぱちな気分だ。


「いや、わしらこの近くのものだよ」

「この辺じゃめずらしい天然温泉があるし」

「なにより、都会に近いから夜遊びに便利だろ?」



 道理で手荷物が少ないと思った。が、そういう客の需要というのがこの小さな旅館にとっては大事な生命線でもあった。

 車の大きさの感覚がつかめないものだから、客との雑談は上の空で、ひっきりなしにミラーを確認しながら、まるで路線バス並みの安全、かつ低速運転を脇汗かきながら続ける草壁の背後では、ご陽気なオッサン一行が


「飯食ったら、キャバクラ行くか!」

「ピンサロだ!ピンサロ!」


 と暢気な声を上げていた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「いい?ハタキというのはこう掛けるものです」


 葉月家の応接室では、掃除の基本すらわかっていない姪っ子からハタキを奪い取ったレイコが、お手本を見せていた。


 なるほど、と思える動きだった。

 お肉に塩コショウすると言っても、プロと素人では手つきが全然違うように、ハタキ一つでも上手な人というのは確かにあるもんだと感心はした。

 まるで、日本刀の刀身を打ち粉でポンポンと叩くように、手首だけを軽く使いながらハタキは小さく動かして音も立てない。

 しかし、綺麗に塩を打つなんてこと料理素人には難しいように、これも簡単に行くものじゃなかった。




 まだここに来て使用人となって半時たらずだっていうのに、レイコのお小言はそれはそれは細かかった。

 例えば、先ほど渡されたホウキとハタキでもそうだった。

 ついてらっしゃい、と言われたゆかり、その二本の柄の端を両手に持って叔母の後について歩こうとした。

 すると、その様子を見ていた叔母からいきなりのお叱りだ


「なんですか?そのだらしない持ち方は?」

 と叱責を受けた。

 両方ともなっていない、と言う。

「ハタキの穂先をだらしなくぶら下げて歩くなんてみっともない」

 穂先がばらけないように、柄とともに根元近くで握るのだという。

「ホウキもそうです」

 穂先になるべく近くを持てという。

「それになんで両手を使うの?それぐらいのもの片手で充分でしょ?そうやって両手にもってブラブラさせている姿が、あなたの気の弛みを表してます」


 いちいち、ゆかりのやることに文句が入った。




 そして、今再び手渡されたハタキを片手にハタキがけをしていても、それは変わりなかった。

「まだ、動作が大きい!そっとやるのはいいけど、そんなにゆっくりやってたらお部屋の掃除だけで日が暮れちゃうでしょ?」


 結局、レイコの叱責をずっと受けながらハタキがけを続ける羽目になった。



 ハタキがけが一応終わると、ゆかりはレイコからこう言い渡された。


「まあ、不器用な子……旅館オモテになんか出したら、うちが恥かくわ。しばらくは、奥向きの手伝いね」

「はい」

「掃除もまともにできないのに、お茶など教えても無駄です。出来なきゃ、ずっとこのままと心得ておきなさい」

「はい」



 それからようやく掃除機を掛ける、という段になっても、お小言は止まず。


「そんなにゴシゴシ絨毯を擦るものじゃありません!それから、ずっと気になっていたことだけど、あなたもっと背筋をちゃんと伸ばしなさい!手の動かし方が早すぎます。機械にも都合っていうのあるんですから、よく注意して扱ってあげなさい。それじゃ、ゴミを吸い込むまえにヘッドがずれちゃうでしょ?」


 結局、機関銃の一斉掃射みたいなお小言の嵐を降らされたあと、やはりレイコのお手本が入ると、やはりグウの音もでない優雅さ。掃除機一つかけるのに、まるでお茶会に来たみたいないちいちの形があることを知らされる。


 しかし、話しているとただ口うるさいだけでもないは確かだった。


「毎日ぼんやり、お掃除をしている証拠ね。あんなにゴシゴシやったら、絨毯も機械も傷むだけ」

 なんて厳しい言葉を言われたあとに、さりげなく


「本当の節約とはものを大切に扱うことです。ケチって使うことではありません」

 などと言われると『なるほど』と感心するところもあった。



 それやこれやで、その応接間の掃除をこなすころにはすでに夕暮れ時となっていた。




 その後、「私は旅館のほうへ戻るから、あとは芳江さんの夕飯の準備のお手伝いをしてあげて」と言って家を後にしたレイコと入れ違いに戻ってきた若女将芳江とともに、葉月家の台所に立つゆかりだった。



「ゆ、ゆかりちゃん……さっそくそんな格好させられて……」

 芳江とは続柄で言ったら従兄弟同士ということになる。そうしょっちゅう顔を合わしたことはないが、何度か親しく話したことはあった。芳江は、いきなりゆかりの割烹着と姉さんかぶりを見て吹き出した。


 夕食のお手伝いなんて言ったって、普段なら一人仕事だ。ゆかりがお手伝いすることもあまりなく、だいたいが隣に立って二人で喋っているだけっていう感じとなった。


「さっそくしぼられているみたいね?」

「はい」

「期間限定でしょ?だから、お義母さんも少しでも早く一人前にしたいらしくて、昨晩も『ここに来たら、うちの下働きになってもらうから、気安く「ゆかりちゃん」などと呼ばないでね』なんて、言うものだから、しばらくはゆかりちゃんのこと、長瀬さんと呼ぶからよろしくね」


「はい、若奥様」

 ゆかりはニッコリ笑った。




 その後、ゆかりのほうも夕食ということになるのだが。「食事に関しては当面、旅館のアルバイト並として扱いますから。隣の旅館の洗い場に用意してある、お弁当を召し上がりなさい」と言いつけられていたゆかり、割烹着姿のまま、葉月家を出た。


 なんで割烹着姿のままかというと、家を出るときに芳江がフロントにこんな電話を1本入れていたからである。

「あっ、私、芳江ですけど、今からうちのお手伝いさんが厨房に夕食を食べにゆきますから、そのまま通してあげて。白い割烹着つけて、白い手ぬぐいを姉さんかぶりしてる子だから」

 なんてことを言うものだから、結局ゆかりは割烹着も手ぬぐいも取ることのできないままひとまず葉月家を後にした。もちろん、手早く食べ終えて、またこちらに戻ってこなければいけないのだけど。



 という訳で、白い割烹着姿のまま、車道を渡って目の前に見える旅館、双葉荘の正面玄関をくぐる。

 カウンターに立つスーツ姿の社員さんが、ちょっと苦笑したような顔をしているほうへ軽く会釈すると、厨房のある奥に目指して、足早に歩いていく。



 「この先、関係者以外立ち入り禁止」の立て札を通り抜けて、目の前突き当たりの白いスチールドアを開けると、鈍い光沢を放つステンレス製の厨房機器にズラリと囲まれた、大きな厨房兼洗い場にたどり着いた。


 ところが、入ってみると誰一人その部屋に居ない。


 というのも、厨房の調理師たちは、もうそのころにはすっかり料理を作り終えて一足先に職場を後にしていてしまっていたし、洗い場担当はというと……。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 厨房エリアには、旅館本館から入ることのできる出入り口のほかに、旅館の裏手の庭へと出ることのできるお勝手口の二つの出入り口があった。

 草壁たち洗い場のバイト組たちは、お勝手口の向こうにある旅館の裏庭へと出て、客の食べ終わった食器が降りてくるまでの間、ちょっと休憩タイムに入っていた。


 裏庭とは言っても、このあたりは基本的には客の目に入ることのない、死角のような場所である。客室や露天風呂などからは見えることのないそのエリアは、普段は従業員の簡単な洗濯物とかを干したりしていたりする。庭って言うより、小石まじりの地面のところどころに雑草が生えているただの野っぱらみたいなところだ。

 が、意外に広いので、時間があるときなんかには、従業員たちがキャッチボールやサッカーボールを蹴って遊んでいたりすることもある。


 片隅には誰の趣味かは知らないが、ちょっとした花の植え込みがあったりするそんな場所。

 空いた一斗缶を逆さに立てたのを椅子代わりにして、草壁たちバイトが話しこんでいた。

 草壁以外のメンバーがたまたま喫煙者だったりするので、彼らといっしょに小休憩を取っているとバイトの先輩がニヤニヤしながら草壁に言った。


「いよいよ始まったな」

「やっぱり草壁クン、目つけられちゃったね」


 いきなりそんなこと言われても草壁にはさっぱり意味がわからない。

「なんのことですか?」



 聞けば、ここの旅館とにかく人使いが荒いらしい。


「俺、ここにいた人の紹介で入ったから、免許持ってること隠してるんだ。言ったら、さっきの草壁クンみたいな目にあうから」

「人がいいばかりに、なんでもやらされて、いやになってやめてった人いたよな」

「いたいた」



 草壁にしてみれば、えらいところに来た、みたいな話が今頃になって降りかかってきた。

 しかも、そんなこと言っている先輩たちは近々辞めるというし、不安になるようなことだらけだった。



 それはさておき、実は草壁にはさっきから気になっていることがあった。

 それはちょうど彼らの目の前に立っている、古ぼけた2階だての真四角な建物のことである。


「あの、建物なんですか?使われてないみたいですけど」

 草壁が目の前のそれを指差して先輩に聞いてみた。


「あれ、寮だよ。住み込みの仲居さんとか社員が使ってたんだって」

「もう何年も使ってないらしいよ、ボロッボロ」



 ボロボロなのは見たらよくわかる。

 すっかりくすんだモルタルみたいな壁は、長年の土ぼこりがいたるところにこびりついて、カビた餅みたいになっている。

 二階建てのその建物、一階には扉が3つ。サビだらけの鉄骨階段で地上と繋がっている2階にも同じく3つの扉。つまり寮全体で6部屋あるわけだ

 屋根には、今ではすっかり用を為さないテレビアンテナが数本、無秩序に立っている。どこからどう見ても築30年ではきかないだろうが、そんなことより、建築基準法とか大丈夫か?と本気で心配したくなるような建物だった。



「なんか出そうな雰囲気ですよね?」

 草壁が思わずそういいたくなるほど、雰囲気がある。すると先輩の一人が、


「昔、あそこで首吊りがあった……」

「ホントですか?」

「のかもしれないね」

 なんて言ってからかうのだが、実際にあったとしても可笑しくないような様子だ。なんでそんなものがいつまで人も住まないままにほっとかれてるんだ?


「まっ、冗談はさておき、こっちも人から聞いただけのことなんだけどさ――」

 すると、一人のバイトが急に真面目くさった顔をしだした。このメンバーの中では一番の古株、と言ってもバイト歴2年だそうだが、彼の話によると。


「僕が入ってきた頃にいた、長いことここに居たっていう人が、あの寮のこと、こう言ってたな――」



”ここで、あの寮に寝泊りさせてもらえるようになったら一人前だ”




 なぜ?

 というのは草壁も思った疑問だった。

 が、その先輩もそれ以上詳しいことはわからないと言った。

 いくら一人前だと言ってもあんなオバケでも出そうなボロ寮に寝泊りしたくない。

 という先輩の言葉は頷ける。




 ちょうどそんなとき、割烹着姿のままゆかりは誰も居ない厨房兼洗い場のだだっ広い空間の中、一人で仕出し弁当を食べていた。


 最初、この部屋に顔を覗かせてみたが誰もいない。

 一応、「すみませーん」って声を上げてみたが、部屋の中央だけがぼんやりと明るいだけの部屋の中には、人の気配もなかった。


 キョロキョロとあたりを見渡すと、大型の業務用食洗機の向こうにある大きなステンレステーブルの上にプラスチック製の弁当箱が数個積み重ねてあって、新しい割り箸が箱と同数、上に乗っかっていたのを見つけた。


 中身はというと、野菜の煮物に卵焼き、ミートボールが一個にコロッケ、その脇に申し訳程度のつけ合わせのキャベツの千切りとウインナーが添えてあるという、割と質素な中身。

 多分、一個500円。か、まとめて大量注文しているなら、割り引いてもらって400円がせいぜいという中身。夕食にしてはちょっと少なめ。

 だが、文句を言ってもしょうがない。


「あーあ、容器はしっかりしてるけど、味はコンビニの幕の内だなあ……」


 お腹が空いているから、とりあえず食べるけど、ちょっと残念な味がした。特に卵焼き。固すぎるし、味つけが悪い。

「自分で作ったほうが、断然おいしい」

 と一人でこぼしながらの食事。仕方ない、話したくても誰もいないのだから。



 まるで、営業終了後みたいになっているが、一歩出入り口を出たら浴衣姿の客たちが行き交う明るいロビーだというのに。

 慣れない仕事に、初めての場所、そこで一人、あんまりおいしくない仕出し弁当を掻きこんでいると余計に淋しい。


 なんか、異様に孤独……。


 ちょっと気を抜くと、泣きそうな気分にすらなってくる。

 たしか、まだ6時半ぐらいなはずなのに、すっかり深夜みたいな静けさのなか、ゆかりはモクモクと安物の仕出し弁当を食べた。




 一方草壁も裏庭で先輩バイトたちと話しこんでいるうちに、そろそろ洗い物が降りてくるという時間が近づいてきた。

 一同が、洗い場に戻ってきたちょうどそのとき、彼の目には見慣れない白い割烹着が、本館側の出入り口を抜けて厨房を出てゆく背中だけがチラッとみえた。

 

 


 その後の洗い場はいつものごとく、ちょっとした戦場である。

 モタモタしていると、次々と洗いものが溜まった。それも大人が両手広げて一抱えするような番重を汚れ物であふれかえらせたものが20とか30とかいう数で積み上がるのだから。


 特別重いものはないが、数が異様に多いのでそれこそ体力仕事だった。

 それなりに体力には自信があった草壁でも、最後はバテバテとなった。



 が、そんなキツイ労働も終わってみると、ちょっとした楽しみが待っていたりする。

 温泉、である。

 ここでは、バイトにも大浴場の利用が許可されていたので、仕事終わり、たまにそこの天然温泉でゆっくり汗を流すというのも悪くはなかった。

 本日も風呂上りで火照った体を秋風に吹かれながら、牛乳を飲みつつ帰路についた草壁だった。



 一方、ゆかりはというと、ゆっくりと味わうこともなくそそくさと葉月家へ戻ったあとも、使用人としての仕事は続いた。

 とはいえ、夜の仕事はとても暢気で楽しい仕事であったのだが。

 それは、旅館業務に戻る芳江から、一人娘である真奈美ちゃんを預かって、家人が帰って来るまでの間、真奈美ちゃんの面倒を見ながらお留守番、というもの。


 いっしょにテレビを見て、いっしょに本を読んで、いっしょにお風呂に入る。


「はい、一人お着物上手に脱げるかなあ?あっ、上手、上手、……あっこら、お姉ちゃんのブラジャーで遊ばないの!」


 とかやっているうちに、家の人も帰って来るので、真奈美ちゃんと別れてそれで一応一日のお仕事の終了となるわけだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 で、その日ゆかりが仕事を終えたその頃、草壁がどうしていたかというと。


「草壁クン、髪濡れてるけど、お風呂入ってきたの?」

「うん、大浴場使ってもいいことになってるから、今日は向こうで風呂はいってきた」

「あっ、そうなんだ……おつかれさん、まっ一杯いっとくでしょ?」

「サンキュ……プファァッ!やっぱ、コーヒー牛乳とかも悪くないけど、仕事終わりは酒、だな」



 って感じで、部屋に帰ると亮作と二人して酒盛りをしていたりする。まあ、いつもの光景だ。

 ツルイチは、っというと、まだ帰ってきていないみたいだ。今日はパチンコ最終まで粘るのかな?



「どう、仕事大変?」

「まあ、今はまだ慣れないからちょっとそういうところもあるけど、慣れたら大丈夫ってみんな言うし多分そこはなんとかなると思う……けどさ」

「けど、何?」

「そこ、とんでもなく人使いの荒いところなんだよ。今日も、いきなりこっち捕まえて客を駅まで迎えに行けってさ。」

「聞いてないよ!ってことだよね?」

「それよりもさ、運転させられたのが10人乗りのでっかいハイエースなんだよ。」

「いきなり?」

「正直言って、いろんな意味で怖かったよ。」


「そのうち泊り込みの仕事とか言われたりして」

「やだよ!」

「給料一杯もらえるでしょ?深夜割り増しで」

「でも、そんなことしたら、あんなところに泊まらされるかもしれないから、絶対やだ」

「あんなところ?」

「なんかさ、寮があるんだよ。」

「へえ、ちゃんと宿泊施設あるんだ」

「ところがさ、これがひどいボロ。」

「そうなの」

「もう何年も人が使ってないんだって。」

「オバケでそうだね」

「いや、マジでそんな雰囲気のある建物でさ……あんなの完全に『廃墟』だよ」

「オバケはいなくても、ネズミとかゴキブリとかは確実に居そうだもんね」

「ところで、ゆかりさん、確か今日からだっけ?叔母さんちに泊り込みで……」

「そうそう」

「おまえの叔母さんちってやっぱり大きいの?」

「まあ、結構大きいよ、ちゃんと来客用の寝室も一つあったはずだし」

「そうか。ゆかりさん、そこに泊まりこみで、お茶とか日本舞踊とかやってるんだろか?」

「そう思うと修行なんて言うけど、ちょっと優雅だよね?」




 草壁なんかは、暢気に「廃墟」とか言っているが、その寮、確かに古くて、ここ数年だれも使うことなく放置されてあるものだから、建具はガタガタで、ちょっとの風ですぐ大きな音を立てる。日に焼けてすっかりキツネ色になった畳からはどんなにキチンと拭いてもほこりっぽい匂いがとれないし、狭いし、暗いし、怖いし。

 風呂もトイレもない。トイレは寮を出て旅館にまで行かなきゃいけない。

 6畳一間に、小さな台所がついてあるだけの、ワンルームというものであった。


 亮作と草壁が高級賃貸マンションのダイニングでそんなことを言いながら暢気に酒を飲んでいるそのとき、件のその寮の一階の一番向かって右隅の部屋の中では――。



「なんで、私がこんな目に会わなきゃいけないの……おうちに帰りたい」


 長瀬ゆかりが、半泣きになりながら布団に包まっていた。




第30話 おわり

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