第29話 酒と歌の日々
お話はあれから一週間ほど経った頃のことになる。10月も半ばにさしかかろうという頃合。初秋の暑さも和らいで、おでかけ、行楽にはもってこいの季節になるようなそんなとき。
で、今回も草壁やゆかりのひまわりが丘での何気ない日常のお話。しかし、そんな日常の中に次へのステップへの芽生えがあったりするのだが。
まあ、全体的に暢気なエピソードである。
ゆかりの叔母である、長瀬文子が姪っ子の日常を面白半分、探偵気取りでこそこそ探りまくっているということは以前にも書いたことである。
で、この変わり者の叔母さんが調査結果を「ユカリレポート」なるタイトルをつけて気まぐれに長瀬家に送っているということも覚えての方はいるかもしれない。
その晩の長瀬家のリビングでは、またもや送りつけられてきた叔母の変った道楽の結果である「ユカリレポートNo.3」を複雑な表情で目を通す、ゆかりの父、長瀬隆の姿があった。
仕事柄、様々な報告書に目を通す隆である。しかし、仮にも従業員一千名からの事業所のトップなのだ。上がってくる書類はいずれもキチンと体裁も内容もそなわっているものばかりだ。
ところが今、隆が手にしているその書類だ。これほど風変わりで、内容も紙数も薄っぺらな報告書は珍しい。多分新聞のチラシのほうが、情報としての価値は上だろう。
「相変わらず、フミコさんは妙なことに血道を揚げているな……なんだ、この8月の報告ってところに書いてある『先日、タコヤキを15個買って帰って一人で食べた模様』ってのは?どうでもいいよ、そんなことは」
中身がこんな調子なので、あきれ返った隆は読むのを途中でやめると、文字通り机の上に投げ捨てた。
ここ長瀬家の20畳のプライベートリビングでは、いつものごとく夫婦水入らず。乱暴に机の上に置かれた薄っぺらなコピー用紙の束が、パサッ乾いた音を響かせた。
目の前では80インチのモニターから、夜のニュースが流れているが、いつものごとく音量はごく控えめである。
それは、夫婦仲の良好さの表れでもあった。
テレビが二人の会話の邪魔にならないようにという、互いの自然の配慮である。テレビがないと間が持たないというような夫婦ではなかった。
隆の隣で、静かにお酒の入ったグラスを傾ける妻登善子は、実の妹がどんな人間かは隆よりよく知っている。隆が呆れるような内容のそんな書類には一瞥をくれただけで手に取ろうともしなかった。
そしてため息混じりに言った。
「その報告だって、ひょっとしたそんな事実の欠片もないものかもしれないのよ。あの子のやることに綿密性と正確さなんてないんだから……」
そんな夜に夫婦二人がそろって自宅でグラスを傾けていた。
毎晩の話ではない。どちらかというと妻のほうが気を使ってたまにはお付き合いをしている、という感じが強い。
なにしろ社長、トップなんていうのは一人だ。だからトップなのだが、外に出ると腹を割って話せる同僚なんているわけがない。付き合いのある友人というのもまったく仕事とは離れた関係と言う人は少ないことに加えて本人、それなりに多忙。
毎日社用車で送り迎えを受けながら、大きな部屋をあてがわれて、高額の報酬を受け取るトップ。人は羨むかもしれないが、そばで見ていると孤独だということはよくわかるのだった。
間違っても、会社の誰かといっしょに一杯ひっかけながら
「あの、専務の馬鹿野郎がよ、この前の取締役会議のときに俺に向かって生意気な口聞くんだ!あいついくら古株だからって、ちょっと調子乗ってんじゃないのか?ほんと、ふっざっけんなっ!だよ!いつまでも親父が生きてた頃みたいに思ってんじゃねえってぇのっっ!!マジむかつく!!!」
なんて絶対に言えないのが、こういうポストの人なのだ。
「しかし、君とフミコさんが姉妹というのが驚きだね、そう考えると」
「私がこんなこと言ったら悪いかもしれないけど、よその人から『やっぱりご姉妹ですね、よく似てらっしゃって』なんて言われたら、私背筋が凍りそうになることがあったわ」
「……気持ちは分かる。増してやあのレイコさんと比べたらこれまた、全く違う」
「レイコは、嫁ぎ先で苦労したもの。お茶も踊りも20過ぎてから徹底的に仕込まれて、今では両方とも師範の資格を持つまでになったし」
「あの厳しいお姑さんの下で長いあいだよく頑張ったものだよ。旅館の切り盛りも、先頭に立ってやってるというじゃないか?」
「今は、お嫁さんが若女将ということで、一歩引いているみたいだけど」
「他所の家のことは詳しくはわからないが、芳江さん一人じゃとても押さえは利かないだろ?そこはレイコさんの存在がないと……」
「それは間違いないでしょうね。レイコの悩みのタネみたいだけど」
「お互い、家のこととなると色々とあるもんだな……」
ふぅっと深いため息ととも、水割りのグラスを傾ける隆。
妻はその様子を見ながら思うのである。
ここで、夫の隣にもし亮作が座ってくれれば、どれほど夫の気も楽だろうかと。
「そうね、お互いにね……」
「ところで、君の同窓会は来週だったね?」
「ええ、ちょっとお留守させてもらって、悪いですが……」
「ゆっくりしておいで」
「ついでに、ゆかりの様子見てきます。フミコの報告なんて、あてになりませんから」
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そんな夜、長瀬家から遠く離れたひまわりが丘商店街。
「ここだったら、ゆかりちゃんもちょくちょく来てくれるんだね」
商店街の中で、日が落ちてから営業を始めるショットバー「jiro's」。横並びの店構えがいずれも、一昔前の個人商店の面影ばかりの中で、落ち着いたグレーの壁にはめ込まれたガラスの格子窓を覗いてみると、そこには、藤阪公司と長瀬ゆかりが並んでカウンターに座る姿が、まるで水槽の中の光景にように揺れていた。
通りから見ると、落ち着いた大人の隠れ家的な見てくれ。それが一歩中に入ると、店内はどちらかというと明るい雰囲気。
なぜか?
困ったことに、この店を一人で切り盛りしているオーナーバーテンというのが、客との会話にチョイチョイ入りたがるからだ。
おそらく本人が自分のキャラを自覚している様子。
そう、ここのバーテンと言ったらオカマのジローのことである。
「あんたらってどういう関係なの?恋人には見えないんだけど……」
一人客相手に軽く雑談を振る、というのなら話は分かる。が、こういう店のバーテンがカップルで来た客の前にぴったり張り付いて、平気な顔して話しに入ってくるのだった。
「幼馴染です」
隣り合って座る、ゆかりと藤阪のうち、ゆかりはそうキッパリ言い切った。
藤阪はゆかりがそういう言葉などあんまり意に介していない様子で、自分の気持ちはそれとは別にはっきりとさせようとしていた。
「一応、今のところは……けどね、覚えておいてね」
隣のゆかりのほうへ首を向けると、優しく笑いかけながら続けた
「ボクは、いずれ君との結婚を考えてるんだよ」
言われたゆかりはなんと返事をしていいか判らずに、困ったような顔を浮かべて、視線をそらせた。
そんなとき、とりあえず間を持たせるためだけに口に運ぶマティーニの味は、ちょっと苦いような気がする。
「藤阪ちゃん、この握り飯のどこがいいの?」
「人が告白しているっていうのに、ムードを台無しにしないでよ!」
藤阪はここなら家が近いからゆかりも気軽に来てくれると思っているが、実は違ったりする。このオカマのバーテン、ゆかりへの当たりはキツイ。基本女性嫌いの男好きという、客商売としての資質に若干問題のある人だが、このオカマのおかげであんまり深い話にならないで済むという気楽さがあった。
本日も藤阪の告白を見事に潰してくれて、ちょっとホッとしていたりするゆかり。
が、このバーテン、何度も言うが女嫌いなのである。とくにカワイイコが大嫌い。
別にゆかりへの助け舟を出したつもりなんてこれっぽちもなかった。
それが証拠に、続けてこんなことを言い出したのだから。
「ところで、草壁クン……」
「ただの友達です!!」
ナイスプレイ!と思ったら、やおらこんな穏やかならぬ名前を出すのか!このオカマ!
ジローの言葉が終わらないうちにゆかりが叫ぶように、そう声をあげた。
「なによ……私なにも言ってないでしょ!」
「関係ない人の名前ださないで!」
それにしても、このオカマと話していると時々、自分の言葉が荒れていることに気づくゆかり。言葉だけじゃなく、態度もちょっと荒かった。普段はあんまりしないような怖い目でオカマをにらみつけた。ここ最近じゃ草壁以外にはあんまり見せたことない顔だった。
「ジローさん、草壁クン知ってるの?」
藤阪はというと、ゆかりの態度の変化にはあんまり注意を払わず、代わりにこんなところで出てきた意外な人の名前のほうに驚いてたりする。
「まあ――」
ジローはここで言葉を詰まらせた。見たら、目の前のゆかりがこっちを怖い顔して睨んでいる。明らかにその名前を出して欲しくない様子だ。
ゆかりに気を使って、というより、一応客商売として、客を怒らせるような真似はまずいと咄嗟に踏んで話を微妙に逸らした。
本当はこう言うつもりだった「前に握り飯といっしょにうちに来た」と――。
「私は、彼に付き合っている人がいるのか聞いてみたかっただけよ?」
「この場に、関係ない人の名前だすのやめてください!」
「握り飯、あんた裏がありそうで怖いわ」
「ありません!それと握り飯って言うのやめてください」
「草壁クンと付き合っているというなら、あやちゃんでしょ?二人はうまくいってるみたいなの?」
あの長瀬家で同席して以来、なぜかそんなふうに思っている藤阪がぽつりと言った。好きな人を誘い出してショットバーなんかで二人きり、そして大真面目な顔して口説いていたりする割には、ブルーハワイなんか頼んでいるのがこの男だった。
かざりに浮かんでいるハイビスカスが秋という季節にチグハグなように、この男の頼むドリンクも雰囲気とあんまり合わなかった。この藤阪、たまにそういう子供みたいなことを平気でするのだった。
「草壁ちゃん、付き合ってる女性いたの?あやって誰?」
どうでもいいが、いつの間にかバーテンと客じゃなくて、3人づれみたいな雰囲気で会話にズケズケと入ってくるジローだった。
「柴漬け」
ゆかりが、そのオカマに向かってそう言ったとき、辻倉あやは、自宅の部屋でクシャミをしていたかもしれない。
「草壁ちゃんと、柴漬け……藤阪ちゃんって、時々フシギなこと言うよね」
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ひまわりが丘のとある高級賃貸マンションの一室の307号室というのは、草壁たちの部屋番号。
そんなことが一方であったりする日常の中、この部屋では夜も更けてくると時々、酒宴が始まるのだった。
もともと大学生二人とオッサン一人が住むこの部屋、同居人同志でちょいと一杯なんていうのは、もやは日常茶飯事だったが、「酒宴」なんてわざわざ断るような集まりというのもたまにあるのだ。
つまりゲストを迎えての飲み会。
メンバー自体はこの数ヶ月ほとんど固定の総勢4名。つまりお隣308号室に住む長瀬ゆかりが部屋に呼ばれるだけ。
それでも、わざわざお嬢様呼びつけといて、駄菓子みたいなものばかりっていうわけにも行かないから、おつまみにもちょっと気を使う。
大体そんなときのメインとなるのが、草壁お得意の鶏の唐揚げである。モモ肉ではなく胸肉を使うわりにはしっとりとした食感で評判も上々のお味。
まあ、あとは適当に買ってきたものでやっつけてしまうこともしばしば。
ちなみにツルイチさんが包丁を握るということはこの部屋ではついぞ見かけることがなかった。このオッサン、中華や旅館の厨房で働いていたこともあるという元プロの割には、あんまり自らが料理の腕を振るうということがない。
理由は不明。長い間のブランクのせいで腕は落ちているのかもしれない。
それはともかく、本日のおつまみがテーブルの上に並ぶ頃には、すっかり夜もいい時間となっていた。
用意されたものもといっても、唐揚げにフライドポテト、枝豆にポテチetc。ほとんど冷凍食品だったりする
ゲスト呼んであるわりにはいい加減なおつまみだが、もはやこの部屋での飲み会にすっかり馴染みとなったゲストにもはやホスト側も気を使わなくなったというところだ。
「おっ、焼き豚あるんだ。草壁クン切ってよ」
「切るぐらい、自分でしろよ!言っとくけどそれ、俺のだからな」
「分かってるって……ところで、草壁クン、何読んでるの?」
もう一品ぐらいおつまみ追加しようかと長瀬亮作が冷蔵庫覗き込んでいる脇では、テーブルに座る草壁がゲストのゆかりがやってくるのを待ちながら、なにやら熱心に雑誌を読んでいるのだった。
それも大判の雑誌で、あんまり見たことないような写真や広告がチラチラと見える。
一瞬、車の情報誌かアウトドアライフの専門誌かと思った亮作。しかし、草壁クンにそんな趣味あったっけ?と思っているところで、本日のゲストが部屋にやって来た。
「どうも、おじゃましまーす」
胸元に大き目のリボンが揺れる、キャミソール姿で登場のお嬢様。目の細かいギンガムチェックのサブリナパンツもちょっと涼しげ。まだ冷房が恋しい時期だしね。けど、足元より、キャミソールの下で豊かに揺れているバストにどうしても目が行ってしまうのはどうしようもないこと。そう思うと、黒い色した大きなリボンがとても邪魔。
急な呼び出しの時には手ぶら。ということもあったが、本日は前もって宴会の連絡を入れておいたせいものあって、お手製のおつまみを用意してきたゆかり。
ハムやチーズ、ブロッコリーにマイクロトマト、そしてお手製のタマゴとツナのフィリングにブラックオリーブなんかを色とりどりに、3種ずつほど組み合わせて、楊枝で留めて作った、まさに一口サイズのおつまみオードブル各種たち。
大皿の上にずらっと並ぶと、なんかのミニチュアフィギュアのコレクションみたいだった。
「結構、缶詰とか冷凍ものとか使ってるから手軽ですけど」
なんて言ってるが、材料組み立てるだけでも手間かかりそう。
これだけで、殺風景だったテーブルの上が一気に華やかになってしまった。
じゃあさっそく、始めましょうか?なんて、もうすっかり慣れた一同が、挨拶の言葉もそこそこにお酒の入ったグラスを片手にしだしたときである。
さきほど、亮作に聞かれた草壁の読んでいた雑誌が、部屋の隅の本棚の上に無造作に放置されたのを見ていたゆかりからもその雑誌についての質問があった。
「あっ、これですか?」
質問されて、ちょっと嬉しそうな草壁。一度本棚の空いているところに放り投げたその雑誌を再び手に取ると、みなのまえでその雑誌の表紙をかざして見せた。
「ああ、競輪の雑誌!」
自転車が表紙のその雑誌を見てツルイチが声をあげたが。
「違いますよ!自転車の雑誌です」
「草壁クン、そんなのに興味あったの?ママチャリももってないのに?」
亮作の疑問ももっともだった。それ以上に、草壁が自転車が趣味だったなんて一同初耳でもある。
そう思ってみていると、草壁は一人うれしそうにその雑誌のとあるページを開いてみせる。
そこに大きく写っている一台の自転車の写真。
これ、いわゆるロードレーサーとかロードバイクとか呼ばれるタイプのスポーツ自転車。ときどき、流線型のヘルメット被った人が街中をほとんど車みたいなスピードで飛ばしているのを見かける、そんなのである。
飾りのないシンプルな見た目のドロップハンドルのそれ、見た目のシンプルさに反比例して10万超えというかなり本格的なものだったりする。
もちろん、それ以上なんていくらでもあるが、とりあえず草壁のお目当てはそれなんだそうだ。
「お目当てって、草壁クン、そんな高いの買うの?」
亮作が驚くのも無理はない。何度も言うがママチャリすら経済的理由で持っていないのだから。
「だからバイト始めたんじゃないか?」
そうなのである。草壁のバイトの第一目的、それがこの自転車、ロードレーサーの購入というものだった。
まだ買っても居ないのにすっかり買ったつもりになったりしている草壁が、どうこの自転車すごいでしょ?って感じでそのロードレーサーの写真を一同に披露しているのだが、草壁以外の人間にとってみたら、はっきり言ってどうでもいい話だった。
しかし、それでも疑問はあった。
「草壁さんって、そんな自転車に興味あったんですか?」
急に草壁の今まで知らなかった趣味が飛び出してきてちょっと驚くゆかり。考えてみたらそれほど草壁のことを知っているわけではなかった。
特に、彼の過去のことなんかも含めて。
「自転車に興味があったってわけじゃないんですよ」
再び、雑誌を棚の上に戻すと、草壁はゆかりの問いかけに、なにかを思い出しているみたいな遠い目をした。
「僕んちの実家のあたりって、坂道が多くて――」
一同が、急に一人語りみたいにして話だした草壁をジッと見守る中、酒宴の準備もすっかりととのったテーブルに再びついた。そして聞いてもいないことを喋りだす草壁。
「そこを自転車でシャーッと風を切って走る気持ちよさ……こっちにきてから、そんな経験なかったな、なんて思ってたら、急に自転車がほしくなってきたんですよねえ。なんだかよくわからないけど」
「ねえ、あんたこれ唐揚げ以外は全部冷凍食品みたいなのばっかりだけど、普段からそんなのばっかり食べてるの?」
「違う、違う、これはこういう急場の酒盛りのときに引っ張り出してくる非常食みたいなものだよ」
「あっ、ゆかりさん、このおつまみはお洒落でいいですなあ。タマゴのフィリングがよく黒コショウが聞いてて、ビールに合いますよ」
「ありがとうございます……フィリングだけはちょっと頑張って作ったから褒めてもらってうれしいです」
草壁の話があまりにも、知ったこっちゃなさすぎた。
ほっとくと、ずっと「自転車と僕」みたいな話を一人でしそうだから、サッサと乾杯だ。
「窓にさざめく木立の葉
色移りゆき、季節もめぐる
ありきたりの愛でいい
もうあなたしか愛せない……歌って頂きましょう、長瀬ゆかりで『時の流れに身をまかせ』」
電気シェーバー片手に曲紹介する草壁の調子に導かれて、ゆかりが歌いだす頃には夜もとっぷり暮れている。ちょいと酒さえ入れば「そろそろ一曲いっときますか?」ってアコースティックギターを抱えだすツルイチのほうも相当好きなようだが、決して嫌とは言わずに、毎回渋いチョイスで違う曲を綺麗に歌いこなすお嬢様もノリは非常にいい。
どうでもいいが、本日のマイクはスティック水ノリの容器。マイクにはちょっと小さめ。
”お姉ちゃん知ってる?この前草壁クン競馬に連れてったら、馬券あたるかわりに1000万人目の記念入場者になっちゃってさ!”
”あっ……そうなの?す、すごいですね……けど、あんた、そうやってギャンブルばっかりやってて!”
”賭けるってたって遊び程度だから”
”ゆかりさんも一度行って見ませんか?馬券買うだけじゃなくていろんなイベントもあったりして楽しいですよ”
”そうそう、こんどはG1レースがあるから、家族向けのイベントとかもいろいろとあるし”
宴会の最中、そんな話があって、ならば暇だしせっかくだから一緒に行って見ようかな?
というゆかりの言葉を受けて、4人は競馬場に遊びにゆくことになったのだった――。
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「すっごい人!」
さて、競馬観戦となったその日である。
電車に乗っていると競馬場の最寄り駅に近づくにしたがって、通勤ラッシュみたいな混雑にまきこまれ、さらに駅を出たらもう縁日みたいにして、人の行列がアリの行列みたいにして競馬場まで続いていた。
「キョロキョロしてはぐれないでくださいね」
隣で草壁が心配しているが、ゆかりにとってみたら、初めての競馬場にちょっとテンションが上がっている。本当に真昼間からお祭りみたいなのだ。
沿道に店を構える飲食店なんかは、午前中からお酒片手に競馬新聞読んでいるような人たちであふれかえっているし、当てになるかわからないような予想を売る、自称「馬券の神様」が喉をからして道行く人に声をかけてセールスに必死。
お洒落な店というより、大き目の立ち飲み屋見たいなメシ屋が立ち並ぶ沿道を歩いていると、ちょっとこってりした煮込み料理の香りがプンプンと漂ってきて、それだけでお腹が空いてくる。
客たちはまさに老若男女とりまぜ。耳に赤ペンを差して、競馬新聞を睨みながら歩くオッサンも居れば、遊園地にでも行くみたいにしているカップル。そして、家族連れも多い。
「結構子供連れって多いですね?」
「馬券買わなくても、全然楽しめますよ。それに子供にしてみたら、本物の馬をかなり近いところで見れるからちょっとした動物園気分にもなれるし」
「確か、今日は子供向けのイベントもいくつかあるみたいですから」
メインレースの前には、子供に人気のキャラクターショーなんかもあったりする。
本日はG1レース開催日だ。普段にも増して客足はおおいし、イベントも派手やかなのだ。
そういうわけで、ゲートをくぐった一同。
正面の観戦スタンドは、ビルの高さにして6,7階立てほどの高さがあるが、何よりその長さに圧倒される。プロ野球の球場というのも相当な大きさだが、一目見ての大きさではこちらのほうがはるかに威圧感を感じる。
まるで巨大客船が横たわっているみたいなものだ。
その巨大な建造物を間近に見ているだけで、充分に非日常的な感覚が味わえる。
まだまだメインレースの時間には早い午前中というのに、競馬場のどこに行っても人だらけ。通勤時間帯のターミナル駅をずっと歩いている感覚。
物珍しさで、駅を出てからずっとキョロキョロしているゆかりだった。
「なんか、ちょっとした遊園地よりもおもしろい!」
「人の数と活気がね……単にレジャー目的じゃなくて、一山当ててやろう的な人も多いから」
そんなことを言いながら、とりあえずスタンド周辺なんかも色々と見て回ることに。
ふと見ると、タコヤキや唐揚げみたいな軽食を専門に売っているような売店と、そんな軽食を座って食べられるようにとしつらえられた石造りのベンチが露天の下、「三」っていう字のスタンプをそこらにペタペタ押したみたいにして並んでいるのが見えた。
「なんかイベントでもするみたいですね」
その石のベンチのちょっと向こう側、鉄パイプをくみ上げて作り上げたような、即席の舞台が設営されていた。
”チビッコのど自慢大会”
舞台の上にはそう書かれた横断幕と、通信カラオケの機材一式に、マイクスタンドなんかが見える。
「へえ、まだちょっと開幕には時間があるみたいですけどね」
”そ、このマークシートに自分の買いたい馬券の種類とかレース数、それと金額と賭け式なんかを塗りつぶすんです”
”ふんふん……”
”一応、競馬新聞の見方、大体わかりますよね?”
”二重丸っていうのが本命っていうんですよね?”
”そ、一つだけややこしいのが黒三角と白三角の違い。どっちかというと黒いほうが、予想順位が高いんです”
”なるほど……で、×っていうのはダメってこと?”
”ダメじゃなくて、三角の次、っていうぐらいの意味ですね。僕もあんまり詳しくないからざっくりしたことしか言えないですけど”
さっそく足を踏み入れたメインスタンド。とりあえず何か馬券買ってみようってことで並んでみたりする。
慣れないマークシートの書き方とか、券売機での馬券の買い方も初めてだと、それだけで面白い。
ツルイチさんからのアドバイスで、初心者はとりあえず枠連を買っておいたほうがいいといわれていたりする二人。
ただし、買い方は一緒でも、草壁とゆかりの買い方にはちょっと違いあった。草壁はどちらかというと、やや高めを狙う。枠連20倍前後というのは、そんなにしょっちゅう出るものじゃない。
「だって、どっちにしろ遊びなんだから、当たったときの爽快感があったほうがいい」
それに比べてゆかりは、本命指向
「私は、とにかく当てる楽しみを知りたい」
それから、いよいよ観覧席にでて、念願の生競馬観戦だ。
間近で500キロ級の巨体が一斉に疾駆するその迫力を味わうのも悪くないが、午前中とは言っても人も多かった。
2人が座を占めたのは、どちらかというと静かに観戦できるようにということで、スタンドの高いところ。
地上から登ってゆくと、ちょっとした登山みたいになってしまうほどの高さである。眼下に広がる広大な楕円形したトラックがミニチュア細工みたいにして一目で見渡せるところだ。
その向こうに、競馬場の周囲の街並みを見下ろせる。
すぐ頭上がもう特別観覧席の張り出しだった。
「すごいいい眺め……競馬場がちっちゃく見える……」
窓ガラスに閉ざされた摩天楼とも違う、スタンドからの景色を眩しげに楽しむゆかり。
草壁は隣でこう思った。そういえばあのお城公園からの眺めにちょっと似てるかも、と。
そして、彼女とこうして近づきになった半年ほどの月日の早さを改めて思い巡らす。初めて出会ったときに、これほど身近な人になるとは想像もできなかった。もちろん、それはあくまで「友達」としてでしかないのだが。
高所を渡る初秋のそよ風を楽しむかのようにじっと立ちすくんで、眩しげにゆかりは目を細めていた。濃い色をした薄手のブラウスの袖元で薄くなっている紗越しに白い肌を透かせると、帯びのように太いベルトを巻いて留めた明るいベージュのスカートの裾が、彼女の長い黒髪とともに風に揺れていた。
「あっ、レースが始まった!」
正面の巨大電光掲示板に大写しになる緊張気味の騎手の顔が次々に映し出されるなか、殷々と鳴り響くファンファーレとともに、競走馬がゲートインするのが小さく見えるとゆかりは興奮したような声を上げた。
これは始まったら、結構、大きな声だして大はしゃぎするんじゃないだろうか?
と草壁が思っていたら、ゲートが開くとともに、彼女は急に静かになった。
「どの馬が自分の買った馬かわからない」
だそうだ。
とりあえず始まったレースだが、ゆかりにビギナーズラックは来なかった。当たらないと言ったら隣の草壁も同様だった。
そうするうちに、途中で食べ物の買出しということで別行動を取っていた亮作とツルイチが、フードとドリンクを持って合流してきた。
しかしである。
「ちょっと……まだ昼間だっていうのに……」
二人が買ってきたものを見て、ゆかりは眉を顰めた。
「いいじゃないですか?せっかくこのメンバーが揃ったわけですし、たまにはいいでしょ?」
軽く食べれるものを買ってくると言ったわりには、ちゃっかりラージサイズのビールカップを4つ買ってきた亮作とツルイチ。
それとともに、さらにそれより一回り大きなカップにてんこ盛りのポップコーン。軽食どころかただの酒のアテだった。
今さら買ってきたものを返せるわけじゃない。仕方ないからとりあえずはこれぐらいは飲んじゃおう。あーっ!青空の下で飲むビールって最高!グイグイいけちゃう!
「ゆかりさん、文句言ってるわりには、すごい勢いで喉鳴らしますね?」
「僕はこの展開、全然意外だとは思わないけど」
お嬢様、基本的にお酒は全部受けるのだった。
で、そのあとなのだが……。
4人のうち、亮作とツルイチはというと、競馬新聞を覗き込みながら、先週の調教タイムがどうだとか、ローテーション的にまだ100パーセントの仕上がりと見ないほうがいいだとか、騎手の乗り代わりが気になるなんて話題で盛り上がっている。かなりやりこんでいる様子だ。
残りの草壁とゆかりはというと、目の前でそうして赤ペンの書き込みだらけの競馬新聞を覗き込む、ツルイチのはげ頭を見下ろしながら、「この馬単勝オッズが2倍だから、強いんでしょ?」「こっちは5倍だから、ちょっと弱いみたい」ぐらいの話題である。
同じ競馬を楽しむといっても次元が違う。
しかし、気楽に楽しみにきた素人同士、ちょうどいいレベルで話すことができたのも事実。
そして、好天の空の下、お嬢様のお酒のペースがどんどん進んだ。
いつのまにか、ゆかりのビールには御代わりが入っていた。
「じゃあ、僕が馬券買ってくるついでに、ビールも買ってきます」
なんて草壁がいつのまにか使い走りみたいにされていた。
「やった!ついに来た!一周遅れのビギナーズラック!!」
その後である。草壁が調子よく当たりだした。枠連で20倍というのが連続で入りだすと、今日昨日競馬をやりだしたような素人にはたまらない面白さが出てきた。
「私はぜんぜん当たらない」
草壁と買う馬券の方針が基本的に違うので、隣の男が喜ぶのを尻目に見ながら、ゆかりのほうは酒ばかりが進んだ。
一同、すっかり酒宴気分で、ちょうど中ジョッキぐらいはいるような紙コップのビールが次々に空になっていった。
そして、青空の下で飲む酒というのはことのほか美味くて、回りも速い。
そうは言っても、競馬本気組であるツルイチと亮作のほうは、前日から絞っておいた狙いのレースが始まるころになると「パドックで馬の様子を見てくる」と言って、姿を消した。
そして、残されたゆかりと草壁である。
「ねえ、ここでジッとしててもつまらないし、ちょっとご飯でも食べませんか?」
ラージサイズのカップ二つと、スモールサイズのカップを1つ、ちょうど飲み干すと、いい具合に出来上がってきたゆかり。
全然馬券はあたらないし、酔っ払ってきて、予想を考えるのもめんどくさくなってきた。
そこで、隣の草壁にそう声をかけたのだが。
「ちょっと、僕は次のレースの馬券を買ってきます」
いい調子で馬券があたりだした草壁のほうは、酒もゆかりもそっちのけで予想のほうに目が血走っていた。せっかくの彼女からのお誘いだっていうのに、ゆかりをほって馬券を買いにどっかに消えてしまった。
その後、調子に乗って3連単でも買ってやろうか?とか一人で券売機前で気合が入っていたりする。
残されたゆかりは、スタンドにぽつんと一人きりとなってしまった。
「誰も帰ってこない……つまんない……」
すっかり紅潮させた顔で唇をひとり尖らせていた。
「どっか行こう」
どこというアテもなかったが、ビールの酔い心地に誘われるように、一人ふらふらと立ち上がるとスタンドをあとにした。
広大なスタンドの中をフラフラと歩くゆかり。今日初めて足を踏み入れた巨大な建造物だ。どこがどこやらさっぱりわからない。それに、だいたいどこに行っても人はいっぱいだし、似たような作りをしているから仕方ないことだった。
「ここ、どこだろう?」
と、トロンとした目で呟く独り言がやけに大きな声になってしまって、回りの人からときどき不審げに見られていることなんて、今の彼女にはまったく気づいていないのだった。
やがて、どっかで乗ったエレベーターをそのままずっと降りてゆくと地上に降り立っていた。
もちろん、1階に下りたからと行ってそれからどうしようとも当てなく、おぼつかない足取りでキョロキョロしているときだった。
「先生!!」
背後から声がかかったので、反射的に後ろを振り返った。
「ゆうこちゃん!!」
そこにはどこで手に入れたかわからないが、キラキラ光るアルミ風船を片手にした小さな女の子が、両親らしき人に挟まれて立っていた。
ゆかりのピアノ教室の生徒である、幼稚園児のゆうこちゃんだった。
ゆうこちゃんはゆかりの姿を確認すると、肩がけのカーティガン姿のお父さんとつないでいた手をパッと離してゆかりの元へ駆け寄ってきた。
「先生もここにお歌うたいにきたの?」
「えっ?歌?」
突然、ピアノの先生のもとへ走り出した子供の様子よりも、そのピアノの先生の顔のほうを驚いたような顔してしばらく見つめるゆうこちゃんのご両親だった。
二人とも若い夫婦であろう。まだ二十台というところだ。子供なしで並んでいると普通の若いカップルだった。
色白の肌に明るい栗色のショートヘアーの奥さんは、ゆかりとの挨拶の言葉もそこそこに、娘の言葉の補足をした。
「そこのカラオケ大会で歌うんです。うちの子が」
「あっ、そうなんですかあ……」
「先生、聞いて!」
ゆかりの膝元にやってきたゆうこちゃんが、アルミバルーンをブラブラ揺らせるとゆかりの手を握って、チビッコのど自慢会場まで引張ってゆこうとした。
酔いのせいで体の力が抜けているのか、ゆかりのほうもこの小さな女の子の力にまかせるように、よろよろと足を踏み出した。
「いいわよ。ゆうこちゃん、何を歌うの?」
「アンパンマンのマーチ!」
やがてこのチビッコと酔っ払いの二人は手をつなぎあって、今ではすっかり設営も終わり、その前にちょっとした人だかりのできているのど自慢会場へとフラフラと近づいていった。
ゆうこちゃんのご両親はしばらくそんな二人をじっと見送っているだけだった。
やがて、旦那のほうがポツリと呟いた。
「あのひと一人で、競馬場に来て、酒飲んでふらふらしてたのかな?」
「そんな人には見えないのにね……」
そんなわけで、チビッコのど自慢大会の開幕となった。
競馬場の片隅に設営された仮設の舞台のまわりには、綺麗に並べられてたパイプ椅子がほぼ8割がた家族連れみたいなオーディエンスによって埋まっていた。
イベント司会を専門にやっているような、若い女性司会者が女子アナみたいな流暢な喋りで次々と舞台に上がるチビッコたちの曲紹介を手馴れた様子でこなす。
よっぱらっているゆかりは、舞台正面の最前列に一人で陣取って熱心にチビッコたちの歌う姿を観覧していた。
「はい、次のお友達は――ゆうこちゃん!幼稚園ではお遊戯の時間が大好きとのこと。ピアノも好きで歌うことが大好きというゆうこちゃんが歌ってくれるのは、『アンパンマンのマーチ』!では、どうぞ」
司会のお姉さんの言葉とともにゆうこちゃんがちょっと緊張した面持ちで舞台に上がると、
「ゆうこちゃーん!がんばって!!」
いい感じで出来上がっているゆかりの声援は、まわりの客が驚くほどよく響いた。
ちょうどその頃、観覧スタンドの最上席の片隅では「ゆかりさんがいない!」ということで、草壁、亮作、ツルイチが顔を見合わせている時だった。
一方、のど自慢大会のほうは、ゆうこちゃんの熱唱が響き渡っていた頃である。
やがて大きな声を出しすぎたせいで、顔が真っ赤になったゆうこちゃんの歌も無事終わった。
最後にゆうこちゃんは最前列でずっと、舞台の上にも聞こえるぐらいの声で自分といっしょになってアンパンマンのマーチを歌って応援してくれたゆかり先生に元気に手を振ってマイク前から去っていった。
それからである。
のど自慢大会のほうは、ブレークタイム。というわけではないのだが……。
「ここで、次のお友達の歌の前に、飛び入りタイムにしたいと思います。今、みんなのお歌を聞いて、僕も私も歌ってみたい!なんて思った人いるかなあ?いたら元気よく『ハイッ!』」
参加には決まった時間までの受付を済ませるというシステムのこのカラオケ大会だったが、今やってきた子供の飛び入りも臨時で少しぐらい募集します。
みたいなこともするそうなのだ。
ところが、である。
「アッレー。今日はみんな大人しいのかな?」
観客の中には幼稚園児から小学生ぐらいまで、子供の数もチラホラ見えるのだが、飛び入りを希望するような子の姿がなかった。
司会のお姉さんの言葉が青空の下、ちょっと空しく響くばかりだ。「どうかな?どうかな?」なんて言いながらお姉さんが笑顔で客席を見渡すたびに、どんどんと客席は静まり返った。
「さっ、どうかな?私が歌いたいってお友達は、いないかなあ?……」
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そして、もう一方の草壁たち。
しばらく待ってみたが、ゆかりが帰ってこない。そういえば、お酒結構ハイペースで飲んでて、若干いつもより目が据わっていたみたいだし、しかも、なれない競馬場。迷子にでもなったら大変だ。
というわけで、一同、ゆかりを探しにゆくことになった。
まず、地上に降りて、そっからどんどん登ってゆく。
そのほうが、網をかけやすいんじゃないか?
ってことで、一旦一階まで下りて、最初は地上を探索。それから、スタンドに戻る。
そんな捜査方針のもと、地上まで降りてきた。
降りてから、気づいた。
「なあ?なんか聞き覚えのある声聞こえないか?」
「うん。実は僕も、エレベーター降りたところからちょっと気になっていたんだ」
「声といい、曲のチョイスといい……」
草壁、亮作、ツルイチの3人が声のする方へどんどん進む。
間違いないわ。
あの「チビッコのど自慢大会」って横断幕の下でマイク握って歌っているのが。
「おねえちゃんだ……」
「それにしても渋い選曲ですなあ。しかもいつもどおり、お上手だ。いいですなあ」
「ツルイチさん、何暢気なこと言ってるんですか?小さな子供とかといっしょの家族連れをいっぱい前にしてあの選曲はないでしょ?」
「草壁クンあれ、なんて曲だっけ?妻子ある男とホテルで会って、背中に爪を立てたいみたいな歌だよね?たしか」
「その歌詞のとおり、まんま『ホテル』だよ」
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そんな日常の中のとある一コマ。
ゆかりが時々ピアノの演奏を披露するという名目のもと、ホステスをやらされている商店街のスナックmomoでは、その晩ゆかりとあやの二人がホステスとして働きに出ていた。
客が10人も入れば一杯になるというような小さな店内。本日は珍しく綺麗方の二人が揃っての出勤というわけで客入りもよかった。
「草壁クン、最近じゃあすっかり常連さんね」
そのカウンター席の片隅には、こんな場末のスナックには珍しい大学生の姿がときどき見られるようになり、そのせいか、客たちからもなぜか顔と名前をすっかり覚えられている草壁だった。
本日も一杯の水割りでなるべく長くねばってやろうという魂胆だったりする。
「ハハハ……こういう店もたまにはいいもんですよね?」
「でも、あなたが来るときは、きまってゆかりちゃんが居るのよね」
ママのミミがわざと不思議そうな顔をしてそう言っている横で、ゆかりはソッポを向いて立っていたりするのだが、もちろん、自分の出勤日をそれとなく彼に伝えるからである。
よかったら、来ませんか?おつまみぐらいはご馳走しますから。なんて言いながら。
酔客から「まさか二人はできているのか?」なんて突っ込まれると真顔で「ただの友達です」なんて言っている。
「たしかに彼氏をこんなところに連れてくるわけないものな」
ゆかりのほうはシレッとした顔で「営業活動ですよ。店の人間として」とか言うのだが、じゃあ――
「彼のほかに誰か営業をかけたことは?」
そう言われると言葉を詰まらせるしかない。
ママから借りたちょっと派手なドレス姿のあやとゆかりがカウンターとボックス席を行ったりきたりしながらそつのない接客をこなしている。
あやのほうも、来たら来たでお仕事を楽しんでいる様子だ。
そんなことで時間もたつ。まだ深夜というには早いのだが、客の中には遅くまで外で飲んでいられない人もいたりする。
本日はボックス席に陣取っていた4人連れが、「そろそろワシらは帰らなきゃ」なんて言い出した頃である。
「最後に、お二人の歌聞かせてよ。今日もなにか出し物練習してきたんだって?」
という感じで、あやとゆかりに歌のリクエストが入った。
この二人、揃ってスナックに出勤ということになると、前もっと何か二人でデュエットできるような曲を振り付で練習しているらしい。
まったくご熱心なことである。
もちろん、完全に趣味だ。少ない客だけど、誰かの前で歌って踊るのが楽しいらしい。
「じゃあ、あやちゃん、アレやろうか?」
「うん!」
狭い店の片隅にあるカラオケの前に立つと、あたりの機材を片付けだす二人。
まずは、小さなお立ち台は邪魔。
それから、マイクだ。これも普段使っているものはジャックから抜いてしまう。
「えっ?ひょっとしてMYマイク持参か?」
ホステスっていうより、メーカーの修理サービスみたいになりながら、カバンから持参したそれを取り出して機材にセットする。やけに手つきが慣れているのはおそらく、どっかのカラオケ屋に持ち込んで接続の練習もおこなったから。そうしてセットしたそのブツ、単なるMYマイクじゃない。受信機とセットになったそれ。一同がさらに驚きの声をあげた。
「なに?その頭につけたのは?」
つまりヘッドセット型のワイヤレスマイクなのだ。なぜなら、本日の歌はしっかり踊るので両手がフリーでないとまずいらしい。
「ちょっと凝っちゃった!」
ゆかりが照れ笑いをしながら、長い髪にヘッドセットを装着した。ちょっと凝るっていうレベルじゃない。多分、2本セットで買ったら数万はしそうなものだ。余興に一曲踊るためにそんな金かけるか?普通。
しかし、お嬢様、それぐらいの経済的余裕はあるのだろう。
目の前のモニターも脇にどけると、狭い店内と言っても二人並んで両手を広げれるぐらいのスペースができた。もはや歌詞なんかみなくてもソラで歌えるのだろう。
そして、本日の演目は「恋のフーガ」。
大変懐かしいナンバーだが、二人のやったのは、その懐メロを数年前二人組みのアイドルがカバーしたバージョンの方だ。当然踊りもそちらを参考にした。
「待ってました!」
「お二人が出る日は、これが楽しみなんだよ!」
ヘッドセット姿も凛々しい二人が、カラオケ機材の前に直立して、今から歌いますってスイッチが入ったように表情から笑みが消えると、客からは、待ち構えていたかのような拍手の嵐が、まだイントロの始まる前だというのに盛大に鳴り響いた。
曲のタイミングに完璧に合わせられて始まる振り付け。手をつないで立った二人が、空いているほうの手をすっと天井に差し伸ばす。
どれだけ練習したかは分からないが、踊りの息はぴったりだ。
この曲の振り付け、二人はまるでちょうど左右対称となった同じ振り付けが連続して続くのだが、その動きがあまりにぴったりなので、鏡を横にして歌っているみたいに見えることがあった。
その動きが崩れて、違うモーションになると、なんだか鏡から誰かが飛び出してきたんじゃないか?っていうような不思議な感覚さえ覚えた。
体のポジションをそれぞれ相手を見ることなく綺麗にあわせないといけないようなところでは、磁石で繋がっているのか?っていうぐらいにぴったり。
相当練習つんだな?
これ、ひょっとしたら本物より上手くないか?
やがてその曲が終わる。
曲初めの時をはるかに越える拍手の嵐。たかが10名ほどのオーディエンスからこれほどの音が鳴るか?という轟音と言った喝采が一斉にわきおこる。
「今日もいいもの見たよ!」
「ブラボーブラボー!」
「これで、気持ちよく帰れるわ」
雷鳴のような拍手がしばらく続いた。
そして、次第にそんな拍手も小さくなる。
マイクの前の二人は、短い時間ではあったが、踊りつきの全力熱唱を終えて、ちょっと頬を上気させながらも満足そうに客の拍手を受けていた。
そして、拍手は次第に小さくなる……。
だが、そんな客の拍手が一斉に静まってゆくにしたがって、16ビートのアップテンポの響きに今まではかき消されていた、スローテンポのゆったりとした拍手の音だけが静かにいつまでも消えずに聞こえてきた。
パッパッパッパッ……。
拍手というよりなにかのリズムでも取るような響きだ。まるでメトロノームみたいにちょっと機械的で無機質な響き。
どこから、聞こえてくるのだろう?
そう思って、出入り口扉の前に目をやったゆかりの顔が瞬間的に凍りついた。
ゆかりの顔を見て、一同も急に静まり返った。
ピストルもった強盗でも立っているのだろうか?
その日の夜のことである。時間はゆかりとあやが何にも知らずに暢気に歌って踊るよりもうちょっと前のこと。
ツルイチが部屋に帰ってこようとマンションの廊下を歩いていた。
見るとおとなりの308号室の前で、呼び鈴を押しながら、首をかしげているご婦人の姿があった。
誰だろう?と思いながらツルイチが307号室のドアノブに手をかけると、その様子を見ていたその女の人から声をかけられた。
この部屋の人、今は留守なんでしょうか?と。
オッサンはこう答えた。
「今日は知り合いの人のお店でピアノ演奏のアルバイトみたいですよ」
ついでに、その「知り合いの人のお店」をその人に教えた。
ツルイチにしてみれば、当たり前のことをしたまでだろう。
そんなことゆかりの母親に隠す必要もないだろうから。
ゆかりの様子の豹変にテーブル席の人たちは、なにやら穏やかならぬ空気を感じ取ってさっさと帰っていった。
そして今である。
頭に取り付けたヘッドセットを取ることさえ忘れたかのようになったゆかりとあやは先客が去り空いたボックス席に言葉もなく、ゆかりの母、長瀬登善子とともに腰をかけた。
「あら!草壁クンもいるのね?どう?あなたもこちらにきてご一緒しない?お久しぶりね」
笑顔の登善子に言われるがままにボックス席へ移動した草壁だった。
顔は笑っていても、声が笑っていない。言葉は穏やかだが、雰囲気はもう命令口調に近かった。遠慮するという選択肢はございません。そういっているのに等しかった。
残った客たちとミミは、言葉もなくただそちらのほうをなるべく見ないようにして静かにしていた。
登善子は他人でも分かるような、ある種のオーラを放っていた。
「さっきの歌、とっても上手だったわよ」
店内では、登善子の声だけが響いていた。満面の笑顔だ。そしてとても情感が篭っている。まるで朗読会の話し手を彷彿とさせるような。
「ゆかりは小さいときから、歌も踊りも好きだったものねえ」
満面の笑顔で中空を見つめながら、しみじみと述懐する母だった。ただし、母の言葉の間、ゆかりはまるで母の回想の中の幼な子みたいに、肩をそびやかして本当に小さくなっていた。始終俯きっぱなしの彼女の頭で、いつまでたっても外すことができないまま付けっぱなしのヘッドセットだけが母の言葉のたび小さく震えた。
「覚えてる?」
母はそんな娘の様子を横目でチラッと確認し、笑顔を崩すことなく続けた。
「あれは確か、幼稚園のときだったかしら?おゆうぎ会で、ダンスしたでしょ?あれ、上手だったわねえ。みんなのまん前にでて、一生懸命になって。思い出すわ」
「ねえ、ゆかり。あのときあなたが踊った歌、なんだったかしら?覚えてる?」
懐かしそうに問いかける母のほうをチラリとも見ようとせず、さらに深く頭を低くたれながら、ゆかりはポツリと呟いた。
「あ……アンパンマンのマーチです……」
第29話 おわり




