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第1話 おみくじはかたむすび

 こうして物語が始まりを迎えることになった、1年目の春。

 一応、草壁のほうは、ケガや入院なんかがありながらも、なんとか大学も2年に進級していた。


 ところで、この草壁圭介という男、ごく普通の大学生である。

 黙っていてもモテるような容姿ではない。

 とはいえ、今まで2人ぐらい、密かに、いいかもと思いながら、彼の柔らかい髪が風なびいているところなんかを見ていたりする女子も居たには居た。

 残念なことに、そのことを彼は知らないが。


 そんな彼の口癖はというと……


「大学に入ってから、ついてないわ」

である。

「どうでもいいけど、お前、そうやってぼんやりと空見上げながら歩くなよ。危ないだろ」

 隣で友人の大原が説教する。こんなところでまたコイツがトラックにでも轢かれたら、面倒だ。

 ほっとくわけにも行かないし。

 閑静な住宅街を歩いてるからって、油断できない。脇を宅急便のトラックやら、自家用車がちょいちょい通ってゆく。


「例の事故か?けど、どっか別のところでいいことの一つや二つなかったのか?」

「……ない、大学生になって1年たつけど、地味な生活だよ」

「そういえば、トラックにはねられたんだよな?」

「うん」

「なんで、はねられたんだ?」


 そう大原に聞かれた草壁、スッと立ち止まって、やけに爽やかな笑顔で空を見上げた。

「ちょうど、今日みたいなよく晴れた日でさ……」

「その『むかーし、むかし、あるところに……』みたいなのいらないから」


「だから、天気がよかったんだって」

 草壁がケロリと言った。お前わかってないよなあ、って顔である。

「俺は事故の原因を聞いているんだよっ!だいたい、なんで天気が良くて事故が起こるんだ!」


「いや、順を追って説明しないとわからないからさ……」

 不審げな顔をする大原

「関係あるのか?それ……」

「うん、ああ、空が綺麗だなって……なんて……」

「だから、事故の原因をさっさと言えよ!空模様とかどうでもいいわ!それと、お前さっきからその爽やかな笑顔作るのやめろ!いらないから、その顔」


 不満げな草壁、話をせっつかれたことより、笑顔へのクレームが主な理由。

「おまえせっかちだな」

「お前の説明がまどろっこしいんだ!」

「いや、もう終わるから」

「ええっ!まだ、事故の『じ』の字も出てきてないんだが……」


「その空を見上げてるうちに、車道の真ん中歩いてたんだよ」


「…………はねたほうが災難だな……」



 今、なぜ二人がこじんまりとした一戸建てや小さなアパート以外には、クリーニング屋かコインランドリー、あとは床屋かオバちゃんがやっていそうな美容室しかないような、この静かなひまわりが丘の町を歩いているのかというと……。


「あーあ、ちょっとハラ減ってきたよなあ……おまえんちのお母ちゃん、留守だし……」

 という草壁の言葉から察しもつくだろうが、この男、友人の大原の家にメシをたかりに来たのだが、肝心の彼の母ちゃんがいないものだから、メシにはありつけず、仕方ないので二人揃って外で軽く食事しようと出てきたのだった。

「草壁さあ、ひとんちに遊びに来るのはいいけど、メシ時狙って、一食ごちそうになろうって言うの、いい加減やめろよ」

「そんなつもりはない」


 などと言いながら、何度もペンキを塗りなおしてすっかりアバタ面した朱色の円筒形郵便ポストとか、「塩」って書いてある小さな青看板を出しっぱなしのまま、ずっと昔に閉店した酒屋の前なんかを通り過ぎてたどり着くのが。


”ひまわりが丘商店街”である。


「この商店街にいい店あるの?なんか寂れているって感じだけど……」


 草壁の言うとおり。

 商店の2階窓の上に大きく覆いかぶさっている白いアーケードは、塗装もまだ綺麗で、立派と言えば立派。道幅だって、2トントラックが余裕ですれ違えそうな広さ。

 けど、人通りは少ない。


 そして、シャッターを下ろしたまんま、新しいテナントも入らずじまいっていう店もあちこちに。

 しかも、そのシャッターがサビだらけになっているなんてのもいくつもある。


「けど、このひまわりが丘の駅って結構でかいよな?快速も止まるだろ?駅も立派だし」

「それは、駅の反対側に大きなニュータウンがあるからな。こっちは古い町並みのまんまだから、駅のこっちなんか、ドーナツ屋があるぐらい」

「へえ……」


「だから、何か食うんだったら、駅の反対側に出たほうが話がはやいな」


 大原の言うとおり、駅の反対側、いわゆる「北口」は、賑やかである。

 ファーストフードや定食屋のチェーン店、飲み屋、キャバレー、お洒落な美容室……etc……


 反対に、商店街のある「南口」のほうはっていうと、割と大きなロータリーなんかもあるにはある。

 ただ、客待ちのタクシーもまばら。


「こっちはさ、古くからある住宅街でさ、ずっと昔はこっちのほうが賑やかだったんらしいけどね」

「へえ……」

「けどさ、俺なんかにしてみたら、駅の反対側に出たら、なんでもあって、しかもこのあたり割と静かだから暮らしやすくて、いいところだよ」


 商店街の人にとってはいいどころの騒ぎではないのだが。


「しかし、今日は寒いな。俺、油断してカーティガン羽織って家出たのは、間違いだったな……お前みたく、厚手のフリース着りゃよかった」

「今から家に戻るとか言うなよ」

「言わないよ、ちょっとの距離なんだから」


 などと言いながら、静かなひまわりが丘の商店街を歩く、大原と草壁。

 ちょうど商店街の真ん中あたりに差し掛かった頃だった。

 そのまま抜ければ、もうひまわりが丘の駅の南口、そのどまん前の交差点に出ようかとしている時。


「おっ、ちょっと待った!」


 と言うので、立ち止まって、ふと横をみるとそこに一軒の喫茶店。

 一面の大きなガラス窓の向こうに4人がけのテーブルが2セット並んでいるのが見える。中に客の姿は見えない。

 扉のほうは、ガラスの嵌った木枠の格子窓。

 で、聞いたことのないようなコーヒー豆業者の名前が下に書いてある看板が店先に出してあって、そこに店の名前。


”喫茶アネモネ”


 うわあ、ザ・喫茶店だなあ……。最近あんまり見ないよなこんな店。それにしても、この商店街にはぴったりハマッってるよなあ。

 とか、草壁が感心していると、大原のほうは、彼の手を強引にひっぱって店内に連れ込んだ。


「おっ、ちょっ……なんで、こんな店にはいるんだ?」

「いいから!たまにはいいだろ、こういう店も」


 店に入るとき、ドアベルがカランコロン鳴った。


 なるほど……そういうことか。

 草壁も店内に入ってみて、なぜ自分がこの店に連れ込まれたかすぐわかった。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの前では、ステンレスの丸盆を胸の前で抱えて立っている、ちょっと背の高い、かわいいウエイトレスの姿。

 肩の下あたりまで垂れている黒髪を揺らせて、軽く会釈。

 あの長瀬さんは、どっちかっていうとモデルって感じだけど、こっちはアイドルって感じかな。

 なぜかわからないが、草壁が勝手な比較を頭の中でやっている。


 あ、そうだ、アレ!去年、うちの大学のミスキャンパスに選ばれて、今年からタレントやっているっていう、あの人に似てるな……。

 とか、草壁が思う。誰だよ、それ?

 まあ、可愛い子には違いない。


 カウンターに、二人並んで腰掛けてみて、またちょっと驚いた。


「公衆電話……」

 おもわず、呟く草壁。ピンクのダイヤル式公衆電話。カードは使えない。100円玉も使えない。それが、現役バリバリらしくピカピカに光ってる。

 そんなのがカウンターの隅にデンと置いてある。


「ご注文、お決まりですか?」

 水玉模様のエプロンの腰元についている大きなリボンの飾りが揺らしながら、ウエイトレスが二人のそばまで注文を取りにきてくれた。

 大原は持ち前のフットワークの軽さを発揮した。

「彼氏いるの?」

「えっ!?」


 うーん、この反応は、明らかにこの手の会話に慣れてないな……。

 けど、これだけ可愛かったら告白されたりとか、口説かれたりとかないのか?こういう店の客の中にだって、そんなの今まで何人もいたっておかしくないんだけどなあ……。

 草壁がそう思うのも、無理はない。ただ、この子、どっちかというと内向的な性格だったりする。

 長瀬さんだったら、案外、ウイットで綺麗に切り返しそうなんだけどなあ。

 と、またもや、心の中でなんでか判らないが、ゆかりと比較している草壁。


「えっ、あっ、いや……」

 照れた様子で、ちょっと言葉につまるウエイトレス。

 と、そこで、それまでじっとしていたこの店のマスターらしき男が、カウンターから草壁に話しかけた。

 らしき、というか、マスターなんですが。


 パリッと糊の利いた白いカッターシャツに蝶ネクタイをしめて、サテンの光沢もつややかなチョッキ姿。体型もスラッとしてる。年齢は、はっきりわからないが、30半ばぐらいか・・・


「君の友達さ、あやちゃん気に入ったみたいだけど……」

 マスターがにんまりして、草壁に言った。気さくで話しやすそうなマスターだなと草壁は思った。

「彼女、結構固いから、ああいう迫り方する男は難しいと思うよ」

 大原がその言葉に、ちょっと不満げな顔をする。あやのほうもちょっと微苦笑。これはマスターなりの助け舟。だから、草壁はその隣で、とりあえず笑ってたらいい、のである。

 しかし、草壁は笑わなかった。


「僕みたいな誠実な男のほうがいいのでしょうか?」

「連れも連れかいっ!」


 こういうことを言い出すときの草壁は、半分、じゃなく、ほとんどマジだ。

 こいつには、こういう厚かましいところが、確かにある。


 このアネモネなる喫茶店、4人がけのテーブル席が3つに、二人がけの小さなテーブルが2つ。ピンクの公衆電話のあるカウンターは5人がけ。

 まあ、個人経営の喫茶店なら、まずまずといった広さ。

 店内スペース自体は、割りとゆったりしている。


 床は安易にフローリングじゃなくて、木貼りというのは、なんとなく落ち着く。

 それでいて天井に、妙に豪華そうなシャンデリアが釣ってあるのは、イマイチな趣味。

 要は店内装飾に、これといったコンセプトはない、らしい。


「じゃあ、ぼくヤキソバを」

「はい、えっと、塩にしますか?ソースにしますか?それともカレーにしますか?」

「え、そんなの選べるんだ?」

「あ、はい」

「じゃあ……とりあえず、ソースで」

「ソース味ですね?じゃあ、あと、豚肉にしますか?海鮮にしますか?」


 ほおっ!ただの喫茶店だと思ったら、案外にこだわってる。こういうところでヤキソバって言ったら普通、”ソース”一択じゃないの?


 あやに注文を告げながら、草壁が感心した。

 カウンターのマスターも、どうだって顔をする

「一応、そういうところにうちのこだわりがあってね」


 あるある!一応普通の喫茶店だけど、グラタンがすごくおいしいとか、自家製パスタが自慢だとかではやってる店。

 これは期待できるかも!

 ということで、まずはオーソドックスに豚肉ソースヤキソバをオーダーしてみたら――


 普通の味だった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「あやちゃんって、学生?」

「はい大学の2年です」

「あ、そうなんだ、じゃあ、俺ら3人ともタメなんだね…」

「そうなんですか……」

「もう、このバイト長いの?」

「半年ちょっとぐらいです」

「よく出てる、また来たら会える?」

「いや……わたし、たまにお手伝いに来るぐらいですから……」


 マスターにああは言われても、大原は大原、持ち前の軽さをさっきから発揮しだした。

 カウンターの奥で洗い物でもしている様子のあやに、馴れ馴れしそうに話しかけている。


 一方、大原の隣のカウンター席でヤキソバを頬張りながら草壁。

 こちらはというと、さっきから黙り込んでいた。あやのほうをチラチラ見ているだけ。

 草壁クンはシャイなのである。

 そうして、大原にからかわれたりしたとき、一瞬キョトンとなっているあやのことを横目で見ながら

(長瀬さんって、普段、お上品だけど、怒らせたら怖そう。こっちは、割と温和な性格なのかも)とか思っていたりする。

 なんでさっきから、1年前ほったらかしにされておしまいの人をもぢだしてあやと比較しているのかは謎。


 

 そんなとき、ふとカウンターの中のあやが、草壁のほうをチラっと見た。

 あやと目があって、草壁はドキッとなった。

 次の瞬間、あやは不思議な表情をして草壁を見た。

 まるでお母さんに手をひかれながらヨチヨチ歩くような子供とふと何気なく目があったときのような。


 つづいて、あやの表情が今までで一番自然な微笑みに変ると

「あっ」

 と言いながら、カウンターを出て草壁のほうへと歩み寄ってきた。なにが嬉しいのかは他の人にはわからない。


「ちょっと、そのまま……髪になにかついてます」


 この子、いい匂いがするなあ、なんて思いながら、言われるまま草壁もじっとした。その彼の髪にあやが手を伸ばして、なにか拾いあげた。


 隣の大原も、マスターもじっと黙ってその様子を見守っていた。

 あやが草壁の髪から拾い上げたものは、一枚の桜の花びらだった。


「もう桜なんて、このへんどこにも咲いてないよ」

 マスターの言うとおりで、今年は観測史上最速で開花宣言が出され、4月の半ばには、ここいらの桜は全部散ってしまっていた。


「草壁、おまえ、ずっと髪につけたのか?」

「人をずっと風呂入ってないヤツみたいに言うな!」

「この店入ったときに、そんなんついてなかったような……」

「うちだって、店の中毎日きちんと掃除してるからなっ!」


 あやはそんな話の間、草壁の傍らに立ったまま、手のひらにそっとのせた一枚の桜の花びらをなぜか嬉しそうに見つめているばかりである

 それから、あやが何をしたか……その行動に深い意味なんか別になかった。少なくとも彼女にとって。

 なぜかそのとき、彼女は目の前の草壁をちょっとからかってみたかった、そんな程度のこと。


 そのまま桜の花びらの乗った掌を草壁のほうへ向けると、そっと口元まで持ち上げて、こう言った。



「今年の名残の……」


 そしてスッと息を静かに吸い込み


「……桜吹雪」



 ふぅっ、と息を吹きかえると薄桃色のひとひらが、ふんわりとあやの手のひらから飛び上がっていった。


 花びらは草壁の目の前を掠めるように飛んでいった。あやの吐息に乗って。

 草壁の前髪があやの吐息にゆれた。


 ”ドクンッ”と草壁の胸が大きく高鳴った。

 草壁がこれで彼女をちょっと意識しだしたのは確かである。


 ドキドキしながら、真っ赤な顔をして、グラスの水をグイッと一気に飲み干す草壁。


「あっ、お水、お注ぎしますね」

 自分が何をして、結果どうなったかなんて、てんで考えてないあやのほうは、ウエイトレスとして職務を全うすべく、水差しを持って草壁のもとへ戻ってきた。

 ひょいとグラスを持ち上げて、水差しを傾けた途端、思いのほか水が一気に流れ出した。アッと思ったがあやの手に持ち上げられたグラスがその勢いに転げ落ちた。


 そして、ジャバアッとこぼれた水は……

 草壁の薄いベージュのズボンのそれも股間のジッパーを中心とした一帯に、派手なシミをつくった。

 思わず固まる一同。

 まさに、水を打った静けさ。




 あやのほうは、申し訳ない気持ちで一杯で、真っ青になりながら、「ごめんなさい!」と草壁の横で平謝りだし、草壁はまだ赤い顔で「あ、いや、いいんですよ……」と適当な言葉もみつからないまま、しどろもどろだし。

 マスターと大原はぼおっとそんな様子を見てるだけだし。

 水をこぼしたぐらいで何を大げさなと思ってる大原はそんな様子をみながら、冷静な調子で呟いた。

「ただの水なんだしさ、隠せないのか?そのうち乾くだろ?」


 そう言われたあやと草壁、ふたりして顔を見合わせて考え込んだ

「隠すんですか?」

「隠すと言っても……」

 二人は真剣に悩んでいるらしい。

 マスターと大原はそんな様子をぼおっと見ていた。


「そうだ!」

 草壁がなにか良い案でも浮かんだ様子。

「お前のカーティガン、それちょっと貸して!」

「俺のカーティガン?何するの?」

「こうやって……」

 大原から、剥ぎ取るようにしてカーティガンを脱がせると、それを手にとって、マスター、大原、あやの3人が注視するなか、草壁が立ち上がった。

 そして、カーティガンの背の部分をクルッと前にもってくると袖を後ろにまわしキュッと締めて……

 カーディガンの前垂れが出来上がった。


 あやが首をかしげる。

「なんかファッション的に違うと思いますよ、それ」

 あやの評判はよくない

「君、その格好で外歩けるの?」

 マスターも同意する

「お前、それするんだったら自分のフリースでやれよ!俺寒いだろ!」


 しかし、草壁の発想に触発されるものがあったマスターがそれを見ると、指を弾きながら店の奥へと消えていった。

「なるほど!そういう発想でいいのなら!!」

 で、どうなったかというと……


「あのですねえ、なんで男の僕がこんな真っ白のフリルのついたメイドさんみたいなエプロン着けなきゃならないんですかっ!」

「発想の方向性は君と変らないと思うんだがねえ……」

「おまえもさあ、マスターが持ってきたもん一目みたら、だいたいなにか判るだろうに、とりえあえず着てみてから文句言うんだな……」

 あやは一応、申し訳なさそうに黙って、そんな草壁メイドと3人の掛け合いを黙って見ているしかなかった。

 しかし、思うのである。

 この人、いつまであのフリフリのエプロンつけてるつもりだろうと。


「やっぱり乾かすのが一番かな?」

 やっと、まとも結論にたどり着いた一同。それを受けてマスターがドライヤーを持ってきた。

「そうですねえ」

 草壁がそのドライヤーをマスターから受け取ろうとしたそのとき、いまだ、自責の念のぬぐえずに一人落ち込んでいたあやが、おずおずと声をかけた。

「あの……こうなったのも私の責任ですから……」


 あやちゃんは真面目な子。

 責任感も人一倍強かったりする。

 傑出した優等生、そんなタイプじゃなかったけど、何をやらせてもソツのない子。


 大人しいけど、なぜか毎年のようにクラス委員長に選出されちゃったりする。そして、大人しいけどその仕事をミスなくこなし続けてた。

 喫茶店のお手伝いだって、1円のお釣りを間違えることも今までなし。

 何をやらせてもソツなくこなしてきた。

 彼女の人生の中で、誰かに何かをぶっかけるなんて、経験はなかった。

 ついでに言っておくと、ぶっかけられた経験もない。

 それが、お客さんに水をぶっかけるなんて、彼女の人生最大の失敗。

 その人生最大の失敗の責任をとらなければならい……と、彼女は思った。


「アノ……お加減、熱すぎたりしませんか?」

「あ、はい……ちょうどいいです……」

 草壁の言う、ちょうどいい、とはどういう意味かは謎。今、コイツの思考は飛んでしまっているので、意味を考えるだけ無駄。


 そして、真剣な表情で草壁の股間にドライヤーを当てているあやのほうも、自責の念で思考はかなり飛んでしまっている様子。

 多分、責任の取り方を少し間違えている。


 その様子をじっと見ているしかない、大原とマスター。

「異様な光景ですね……」

「いまこの瞬間、うちはただの喫茶店じゃなくなった気がする……」


 帰りがけ、まだ申し訳なさそうなあやに

「今日はすみませんでした。草壁さん」

 と名前を言われた草壁、すっかり名前を覚えてもらった!と内心喜んだ。

 別にあやのほうにそのつもりはない。

 ついでに「また来てくださいね」と微笑んだのも。


 向こうは、また会いたがっている!と密かに喜ぶ草壁。


 違います。

 自分のせいでお客を一人逃しては、店に申し訳ないというあやの責任感オンリーの言葉です。


「気にしないでいいですよ、あやさん」

 と思い切って、名前を呼びかけた。

 ちょっと、照れくさかった。

 ところで、同い年なのに、なぜ「あやさん」とさんづけなのかというと。

 チャンづけでは馴れ馴れしすぎる。

 かといって苗字を知らない。

 ウエイトレスさんも、なんか他人行儀

 だからという考えなのだが、「他人行儀」とか思っているところに、もうすっかり狙う気マンマンなところが見え隠れしている。そのくせ、じゃあなんで苗字を聞かないかと言うと。


 あらためて聞くのも、なんか照れるから。

 草壁クンは厚かましい、しかし草壁クンはシャイである。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 そんなことから、2、3日たった。


 この頃の草壁が住んでいたのは、ひまわりが丘ではなかった。

 町名で言うと松木町と言って、ひまわりが丘から電車で3駅ほど離れたところに部屋を借りて、大学に通っていた。

 そのときの草壁にとってひまわりが丘という町は、大原の家に遊びに行くとき寄るだけの場所にすぎない。


 その松木町在住の草壁クンが、松木神社なる地元の神社の前を通りかかっても、そのときその神社にお参りなんてするつもりはなかった。


 この神社、かなり大きな神社で初詣の時期などにはテキヤの屋台なんかも参道に出て賑わう。

 今、その神社の朱色の大きな鳥居の前にぼんやり突っ立って、草壁がお参りしようかどうか迷っているのには訳がある。


 通りがかりにふと由緒書きに目を通すと「縁結び」の御利益が大きく書かれていたからである。

 じゃあなんで迷ってるのかというと。


(この石段、わざわざ登ってくのか……)


 この神社、ふもとの鳥居から、小高い山肌をまっすぐ昇ってゆく石段の先に社殿があるのだ。

 まっすぐ伸びてるせいで、勾配はかなり急だ。あんまり石段の頂上を見つめていると、ちょっと首が痛くなってくる。

 それを昇るのがめんどくさい、とこの男は思うのだ。若いし、体力だってないほうじゃ決してない。

 神様がこんなヤツに御利益など与えてくれるもんか!


 まあ、でも、若いし、体力だって決してないほうじゃないので、あの喫茶店のウエイトレスのことをぼんやり考えているうちに、じきに社殿のある丘の上にまでたどりついた。 


 そこで、思わず草壁も「へえ……」小さく感嘆の声を漏らした。


 学校の体育館のような本殿の大きく張り出した軒の下から、幅10メートル以上ありそうな白木の階段を数段上った先に、ピカピカの大きな賽銭箱。平日だというのに、参拝する人は絶えない様子。

 儲かってるんだろな……この神社……


 ふと右手を見ると、樫かなにかが大きく葉を茂らせているその下にはベンチが設置してあって、苦労して参詣の昇ってきたらしいおばあさんが5人ほど、やれやれという顔をして腰をかけていた。


 現金なもので、神様も立派に見えるほど霊験があらたかそうなので、ふんぱつして100円賽銭箱に入れると殊勝らしく手を合わせた。

 願い事はヨコシマだが。

(あやさんを彼女にしたいです)

 ……知るかよ


 一応、参拝は済ませた。

 が、ここで草壁には一つの懸案事項があった。

”おみくじ”

である。


「引こうか……引くまいか……」

 草壁は歩いた。鳥居から本殿にかけて伸びる石畳を延々と行ったり来たりしつつ。

「引こうか……引くまいか……」

たったそれだけのことを迷いに迷いぬきながら、行ったり来たり。このまま帰ろうか、やっぱ、くじ引いてこうか……。


 先ほどベンチで休息していたばあさんたち、そんな草壁をアゴで示して

「お百度っていうのよねえ、あれ……若いのに、信心深い人よねえ」

「私、初めてみたわ、お百度!」

「珍しいから、写真とっちゃおうかしら……」

「あら、バチがあたるわよ」

「でも、なんかへんなお百度よねえ!」


(さっきお賽銭で100円使って、さらにおみくじ300円……学食でランチ食べれるようなお金、一気に使っていいのか?それに、もし「凶」だったら、立ち直れないかもしれないぞ、俺)

 まさか、こんなことを考えて、お百度踏んでるとは誰も気づくまい。というか別にお百度ではない。


 で、結局、おみくじを引くことにした。

 なぜなら……

「あやさん、振り向かせるには、ここで「大吉」引けるぐらいの運がないと、きっと無理だから」

 どういう理屈だろうか?引いたらなんとかなると思ってるのだろうか?


 これぐらいの大きな神社なので、ちゃんとおみくじは売っている。

 本殿向かって左手に長く軒を伸ばしているこれまた立派な平屋屋根の建物。

 正面玄関には「受付所」と看板の出ている扉は旅館の出入り口のようなガラスの自動ドアだったりする。

 おそらく、その規模からして、そしてもっとも大きな御利益に「縁結び」を謳っていることからも、この建物では神前結婚の式なども執り行われてるに違いない。

 おみくじを売っている売店はその建物の一角にあって、絵馬や御札ももちろん売っている。

 そこで、おみくじを一枚購入する草壁。


 そして、ふと何気なく横手を見てみて、また驚きの声を小さく上げてしまった。

「あっ、桜が咲いている……」

 ここまで歩いてきて桜に気づいたのは、それは本殿脇に数本、建物に沿ってまるで参拝客の目から隠れるように咲いていたからである。


 本殿の軒ほどの高さしかないのその桜の木々は、真っ白な花びらを、白い玉砂利の上にヒラヒラと遠慮がちに散せていた。

 楚々とした印象のその花は、むしろ人目につかず、ひっそりと咲いているほうが趣があるかもしれない。

 根元のわずかに苔むした添え木にはこの桜の種類を書いた札。そこには、

「サトザクラ」

とある。


 この桜が辺りの桜(主にソメイヨシノであろう)の、すっかり散ったあとにまだ綺麗な花を咲かせていることは、別に不思議なことでない。

 この桜、いわゆる「遅咲き」と言われる品種で、普通の桜より10日から2週間程度遅れて花をつける。

 と言っても、草壁はそんなことにあまり気をとられなかった。


「なんと言っても、今はおみくじ……」

 祈りをこめる草壁。表情は真剣だ。別におみくじで大吉ひいたからといって、あのウエイトレスとお付き合いできる保障なんかないが、なぜか彼は、そんなつもりでいるらしい。


”大吉!”

”大吉!大吉!!”

”大吉!大吉!!大吉!!!”


 ものすごい形相でおみくじを開こうとしている目の前の男。後ろで売店の巫女がちょっと気持ち悪そうな顔をしてその様子をみていた。

 で、祈りをこめながら、そおっとそおっとクジを開いてみると……


 そこに並んで見えるのは「十」の字を横に伸ばしたようなものが二つ。

 横書きにして、上部がそんな形になるような、おみくじの種類はただ一つ!

 つまり!…… そ・れ・は、も・う …… 『大吉』確定! 大願成就! 確変突入! 大漁祈願!! 交通安全!!! 無病息災!!! 鎌倉幕府!!! 大島優子!!!!

「おっーっしっ!!」

 そりゃもう、これだけ大吉を喜んでくれたら、神様のほうも悪い気がしないだろう。願いごと聞いてくれるかは別の話だが。


 そんなとき――


「大吉、おめでとうございます」

 確かに聞き覚えのある、あの声がそよ風のように草壁の耳元をくすぐった。


 カラン、と本殿の鈴が今までになく高く鳴った。


 声の主のほうを見ると、サトザクラの花がゆっくりと花弁を降らす中、お巫女姿の長瀬ゆかりが微笑んでいた。


「あっ……」

 半開きのおみくじを持ったまま、思いがけない再会に思わず絶句する草壁。

 薄化粧をしているせいかもしれないが、あまりに白く透き通りすぎていた肌の色もほんのり赤味があって、あのころの印象より幼く見えた。

 軽やかに玉砂利の音を響かせながら、ゆっくりと草壁のほうへ歩み寄ってくるゆかり。目が少し笑っている。

 あのころにはあんまり見なかったような、いたずらっぽい笑みを見ていると、草壁も思わず頬が緩んでしまった。1年も会ってなかったっけ?3,4日ぶりぐらいだったような?どこ行ってたの?ちょっと見なかったけど?


 再会の挨拶もなく、二人はゆっくりと向かい合った。


「なんで大吉って判るんですか?」

「この辺の人、みんなわかっちゃってると思いますけど」

 ゆかりがクスクス笑って、草壁の背後で苦笑している売店の巫女仲間と目を合わせた。


「で、何て書いてあったんですか?」

「あっ、それですけど、まだ全部開いてないんですよ……」

「へえ……私も見せてもらっていいですか?」

「ええ、いっしょに見てみます?」

 そんなことを言いながら、二人してそっとおみくじを開いて見ると……


「なんでしょう?これ?」

「なんなんでしょうね……」


 言葉につまる二人。そのクジにはただ一言

”太吉”

 とあるだけで、あと真っ白け。


「フトキチって言うんでしょうか?」

と草壁の言葉にちょっとゆかりが噴き出しながら

「タイキチとも読めますよ」

「こんな種類のクジありましたっけ?」

「聞いたことないです。『大大吉』っていうのはあるらしいって話には聞いたことがありますけど……うちの神社のクジにだって、こんなのありませんし」

「印刷ミスとかそんななのかなあ?」

「でしょうか?」

 と、二人して、草壁の手に握られたおかしなクジを頭を寄せ合うようにして覗き込んでいた。


 やがて、ゆかりが明るい笑顔で

「でも、絶対に悪いクジじゃありませんよ!だから……」

 と指を差した。

 そこには、おもしろいからずっと草壁の様子をじっと見ていたあのおばあちゃんたち5人……の向こうにおみくじを鈴なりにつけた小さな樹が一本立っていた。

「あそこに結んじゃいましょう」


「あら、わたしらのこと指差したわよ!」

「ずっと見てたから、変に思われたかのかしらねえ」

「あのお兄ちゃんのほうが変だけど」

「あっトイレ!」

「何?」

「巫女さんにトイレの場所聞いて、こっちだって言ってんのよ!」

「あっそうか!そうだ、そうだ!」

「それにしてもあのお巫女さん、えらい別嬪さんよねえ……」

 ばあちゃん達、何か勝手に合点して、全員笑っていた。


 草壁はゆかりの言葉に従って、その木のほうへ歩き出した。

 ゆかりも、まるで草壁に引張られるように、スッとその後についていった。

 すると、相変わらず草壁たちの様子を見ていたおばあちゃんたちが急に黙り込んでしまった。


 ゆかりを後ろに従えて歩く草壁がなんとはなく、今度は立派に見えたからかもしれない。

 ただ、その姿がかっこよかったのは、草壁が凛々しいんじゃなくて、黒髪もつややかな美人のお巫女さんが静かに後ろにいたからだろう。

 草壁一人だったら……たぶん、べつにどうってことなかったんじゃないかな?


 草壁は、黙って1本の木に近づいた。

 そこでおみくじを丁寧に折りたたむと、手ごろに張り出した枝を選んでおみくじを巻きつけた。

 そして、キュッとかたむすび。


 ゆかりはそのすぐ背後に立ってじっとその様子を見つめていた。

 あのバアちゃんたちも、なんだか判らないが、静かに見ている。

 そして、クジを結わえ終わった途端である。


「あっ、私、お仕事あるので、さよなら!」


 草壁がその言葉に振り向くと、もう彼女の姿は社務所の中に消えようとしていた。

 呆然と立ち尽くす草壁。


 そして、そんなことがあってから3日たったある日。

 ちょっと緊張しながら、あの松木神社の社殿へ続く石段登った草壁が、おみくじを売っていた、ゆかりとは違う巫女に「あの、あの、あの」を連発した挙句

「ここで働いている、長瀬さんってご存知ありませんか?」

 とやっとのことで尋ねたのだが――

 その巫女はすげなく、こう答えた


「長瀬さん、おととい、急に辞めちゃいました」

 再び、呆然と立ち尽くすしかない、草壁だった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




「君、また来たの?」

「それが客に言うセリフですか!」


 ここのところ、喫茶アネモネに草壁が顔を出すと、真っ先にマスターと草壁の交わす会話がこれである。

 ほとんど挨拶みたいになっていた。

「どうせ、あやちゃん目当てなんだろ?」

 マスターのほうは、もう半ば呆れ顔でストレートに聞いてくる。

 バレバレなんだから、草壁も素直に認めればいいものを

「いえ、もちろん、マスターの淹れてくれるコーヒー目当てです」

「死んだ目しながらお世辞言わないでくれるか?」


 そんなときあやがどうしているかというと

 基本は”柳に風”。


 そんなことを何度か繰り返しているうちに判ったことはというと……

 このあやという名前のウエイトレス、本名を「辻倉あや」と言って、この商店街の隅っこに店を構えている辻倉電気店という名前の電気屋の一人娘であるということ。ときどき、この喫茶アネモネに学校終わりとか、休みの日などにお手伝いに来ている。


 草壁のほうも、それほど積極的には話しかけず、来たらどちらかというとマスターとばっかり話していたので その程度のことを知るのにどれぐらいかかったか。

 草壁クンはシャイなのである。


「いや、いいけどね……うちはさ、これでも客だし」

「客つかまえて『これ』はないでしょ!」

「しかし、君さ、ここでお茶飲むために、わざわざ、それと同じぐらいの電車賃払ってよく来れるよね?こっちはそれが驚きだよ」

「そうなんですよねえ……電車賃もバカにならないので、この辺でいい部屋あったらなんて思ってるんですが」

「違うだろ!考える方向性が!」

「定期券買ったほうが、お得ってことですか?」

「何でそうなるんだよ……」

「回数券なら買いましたよ」

「本当か……」

 もう、言葉に詰まるしかないマスター。


「けど、そんなにお得じゃないんですよね、結局のところ。こっちに部屋を持ったほうがお得そうなんだけど……」

「君、あやちゃんの顔見るために、わざわざ大学から離れたところに部屋借りなおそうって言うのか!」


 草壁がチラッと、マスターの隣で洗い物をしているあやを見るのだが、そんなとき嬉しいのかちょっと微笑んでいたりする。ただ、目を合わしてはくれないのだが。

「い、いや……今の部屋、なんかちょっとちょっと古くて……そのわりに家賃のほうは結構したりしてで気にいらないんですよね」

「あきれたヤツだな……言っとくけど、この辺だってそんなに家賃相場安くはないと思うよ」

 こういうことを言っているときの草壁は本気である。

 ムチャクチャなことをサラッと本気で言う。

 草壁クンはシャイである。しかし、こいつ案外図太い。


 と、ここでそれまで、マスターと草壁の会話なんかどこ吹く風で、仕事をしていたあやが、急にこんなことを言い出した。

「ルームシェアなんてどうですか?頭割りでお家賃払えば、いいお部屋安く借りれそう」

 草壁もその言葉に笑顔で同意した

「いいですね!そういうの!あやさんの言うとおりかもしれない。この辺で探してみようかな!」

(つまりは……『近くにきてほしい』っていうことを、遠まわしに言ってくれてるんだ!!)

 草壁が内心喜んだが、別にそうじゃない。

 あやはただ、雑談しただけだし、こいつに変なこと言ったらどう思われるかなんて、なんにも考えてない。


 そのとき、店内の二人がけの席に座って、草壁がやってくる前から静かに本を読んでいる青年がいた。

 文庫本をときには手に持ち、時にはテーブルにおいて、足をくみかえしながら。


 その青年が、草壁の言葉が終わると同時にふと立ち上がって、カウンターにやってきた。

 スラッとした長身。草壁も175センチ以上あるが、彼は草壁より4、5センチは高そうである。

 それまで静かに読書していたが、「あのぉ」と言いながら近寄ってきたときの笑顔は、実に魅力的な好青年であった。初対面の人相手にこういう笑顔が自然に作れるというのは、これぐらいの若者にしては珍しいだろう。

 草壁も、その笑顔に好印象を持った。

「すみません、さっきのお話聞こえちゃったんですけど……実は僕この近くに住んでいて、今、ルームメイト探してるんです」

 いやに歯切れのいい調子で明るく言い放った。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 それから、親に話をつけて、了承と引越し資金を引き出す交渉をしながら徹夜で荷造り、レンタカーを手配して、友人数人を引き込むとさっさと掃除と引越しを同日に片付け……。


 3日もすれば草壁は、ひまわりが丘の住人となっていた。

 こいつ、こうと決めると行動は案外早い。


 この新しいルームメイトと住むことになったマンション。

 6階建てで、パッと見ると賃貸なのか分譲なのかわからないぐらいにかなり見た目、よさそうなマンションである。

 1階部分は自走式と機械式で駐車場スペースがかなり広く確保されている。

 駐車している車を見たら、ベンツやBMWなんていうのもチラホラと。

 それというのも、このルームメイト、よくよく話を聞いてみると、実家はかなりのお金持ちらしいのだ。


「大学への通学とか、周辺の治安、それとマンション自体のセキュリティーを考えてここを借りてるんだ」

「じゃあ、なんで、ルームメイトなんか募集したの?」

「なんか一人も淋しくなってきたから」

 この答えには、さすがの草壁も驚いた。


 草壁たちの部屋、間取りはいわゆる2DKで、草壁自身に割り当てられたのが、8畳の部屋。前に住んでいたのが8畳のワンルームだったから、これだけあれば充分である。

 因みに元からの住人である、ルームメイトの部屋が10畳だ。


 ダイニングとは言っても半分はリビングダイニングと言ったほうがいいぐらいの14畳の大きさ。とにかくすべての作りがゆったりしている。この部屋を見る限り、ちょっとお金に余裕のあるDINKS向けと言った様子。


 この草壁のルームメイト、いっしょに暮らしてみると、なかなか気のいいやつだった。

「とりあえずさ、いっしょに住むわけだから、ルールみたいなのは決めといたほうが……」

 初日にこんな話し合いを持った。というか、草壁のほうから、持ちかけてみた。

 すると、ちょっと悩んだあと、この男は

「じゃあお互い、笑顔で楽しくやっていこう!ってことで!」

「ルームシェアって、そういうノリでいいのか……」


 こんな調子だし、実は同い年で、草壁やあやとは別の学校に通う大学2年ということもあって、草壁もあんまり気を使わないで済んだ。

 かといって、生活自体はわりとちゃんとしていて、毎朝、草壁より一足先に起き出すときちんと着替えをすませて、ひとりで簡単な朝食を作って、ダイニングテーブルで食べていたりする。

 なるほど、育ちがいいって、こういうことか。と草壁がつまらないことで感心していた。


 こうして、数日が過ぎたとある休日。

 ”アイツどっか行っちゃったのかな?”と、自分以外にひと気がない様子のダイニングでおめざのプリンを草壁が食べていると、玄関の向こうがなにやら騒がしいことに気がついた。


 マンションの共用廊下がざわついているということは、だいたい相場が知れる。

(引越しかな?でも、音が近いから、ひょっとしたらお隣かも……)

 こういうとき、興味津々で顔をのぞかせるのは、たいていオバちゃんのすることだ。

 普段の草壁は、そういうのにいちいち首を突っ込んだりしない。

 が、なぜか妙に気になったので、近所のコンビニにで行くようにして、さり気なく共用廊下に出てみることにした。


 そこに、長瀬ゆかりが立っていた。

「草壁さん……いやだ、じゃあルームメイトって……」

 そういえば……気がついた。いや、正直に言うと、もっと前からちょっと気にはなっていた。自分のルームメイトの名前のことが。しかし、まさか。そう思ってたから、アイツには何も聞いてなかった。

 しかし、まさか……

「こっちが……」

 草壁がびっくりしながら、背後にかかっている自分の部屋の表札を指差した。表札のプレートには<307 長瀬亮作>の文字。

「長瀬……」

「こっちも」

 そして、目の前のゆかりをそう言いながら指差す。自分の置かれた状況を声に出してみることでなんとか冷静に受け止めようとしている草壁。

「長瀬……ということは……」


 指差されたゆかりのほうだって、鳩が豆鉄砲くらったような顔。仕方ない、今回ばかりは完全に出会いがしらの事故みたいなものだから。

「お、弟が、いつ、も、おせわ、になって、るみたいで……」

 ゆかりが言葉につまり気味になりながら頭をさげると、草壁もペコリ

「は、はい、お、弟をいつもお世話している、草壁圭介と申します」

 知ってるよ、お前の名前ぐらい向こうだって……それと、お前はゆかりの弟を飼ってるのか?


”ピンポーン”

 こうして、意外な再再会を果たしたはいいものの、混乱のため、長いこと頭を下げあっていると、草壁の背後で呼び鈴を押す者があった。

(あ、うちの部屋か?)

 そう思いながら、クルッと振り向いた。

 そこに、草壁にはまったく見ず知らずのオッサンが一人、確かに草壁たちの部屋である307号室のチャイムを押していた。


 まるでテント持って登山でもするのか?っていうぐらいのおっきなリュックを背負ってるけど、服装はスーツ。何者だ?

(誰?このチンチクリンのハゲオヤジ?アイツの知りあいとも見えないし)

 ちょっと浅黒い丸顔に、もうバーコードとも言えないほどの薄毛のそのオッサンに草壁が問いかけた。


「あの、何か御用ですか?私、その部屋のものですけど」

 オッサンが言った

「ああ、じゃああなたが草壁さんですか!」

(なんで、俺の名前を知ってるんだ!)

 オッサンが草壁に深々とお辞儀するとこう言った。


「私、本日よりここにルームメイトとしてお世話になる、鶴山寿一と申します。どうぞツルイチと呼んでください」

「ええええええっっっ!!!!!」

 そりゃ、草壁じゃなくても叫びたくなるだろうさ。



第一話 おわり


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