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第21話 タコヤキ事件

 

 そして、お話は再び現在のひまわりが丘へと戻る。


 草壁はいつになっても実家に帰ろうともせず、かと言ってお隣の長瀬ゆかりとは全くと言っていいほどの進展もないまま、ぐうたらに夏休みを過ごすうちに、いつのまにか8月も下旬にさしかかろうとしていた。

 テレビを見ていると、夏の終わりの恒例となった某有名チャリティー番組の宣伝をちょいちょい目にするようになるころである。



 そういえば、と草壁は思うのだった。

 ルームメイトの長瀬亮作も夏休みだといのに、実家に帰ろうとはせずに、何をしているのかわからないが、あっちこっちフラフラしている。

 たまにツルイチと一緒に出かけているところを見ると、大方パチンコに行ったりしてるんだろうが、実家には帰らないのだろうか?



 それは、お隣の長瀬ゆかりについても言えた。

 彼女もいつもと変らない日常を送っているようなのだが、こちらも帰省する様子がない。

 ピアノ教室もお盆休みなかったなあ……。




 そんなことを考えながら、毎度のことながら商店街を歩いていると、目の前にゆかりのピアノ教室が視界に入ってくるようになる。

 もちろん気になるので、どんな様子だろうかと草壁は確認してみたら、営業時間には基本的に開けっ放しになっているガラス窓のカーテンがピタッと下ろされている。

 あっ、今日は教室やってないのかな?と思ったら、主の在室をあらわす、「生徒募集、出張レッスンも承ります」という手書きの小さな立て看板は出ている。


 ん?どういうことだろうと思っていたら、教室から出てきたゆかりが、立て看板を持ち上げて折りたたんだ。


 どうも、今、教室仕舞いの最中らしい。



「今、教室終わったところですか?」

「はい、草壁さんも今お帰り?」

「ちょっと友達のうちでウダウダして……」


 白いブラウスに黒のスカート。くっきりとしたモノトーンのコントラストが鮮やかで、ブラウスがノースリーブだったりするのが、夏っぽい。が、見ていると彼女のスカートのチョイスは丈の長めなのが多いような気がする。

 この前の海で見たけど、細くて綺麗な足をしているのにもったいない。


 なんて、思っていると、開け放された教室の出入り口ドアの向こうからコーヒーのアロマがただよってきた。


「いいにおい」


 思わず呟く草壁を見てゆかりが笑った。


「いっつも飲んでるくせに。お暇ならよってきますか?ごちそうしてあげます」



 最初彼女の言う「いつも飲んでる」の意味がよくわからなかったのだが、実は今ゆかりが淹れているコーヒーはお向かいの喫茶店アネモネで使っているものを、出入りの豆業者から分けてもらったものだそうだ。


 商売にはわりといい加減なところのある、あの喫茶店のマスターだが、客にだす豆の選定とブレンドやロースト加減にはそれなりにこだわりがあるそうで。

「その業者から同じ豆をわけてもらってるんです」


 教室に草壁を招きいれて、しばらくすると、教室の奥のドアを開けてゆかりがお盆の上にコーヒーカップを二つ載せて出てきた。

 草壁には教室の詳しい間取りはわからないが、奥に簡単な煮炊きができるほどのコンロやシンクがあるのだそうで。


「マスターを見習って、ってわけじゃないけど、ペーパードリップで淹れてみたりして……お味どうですか?アネモネには負けます?」

「違いはよくわかりませんが、こっちもおいしいです」

「正直……」

 ゆかりが笑った。


 建物自体は築50年とかいう、この商店街の相当なベテランらしいこの教室だったが、内装は教室を開くに当たって全面的にやり変えたので、壁紙の白い色は真新しく輝いていた。


 ところで教室のど真ん中に据えてあるグランドピアノの背後の壁に飾ってある絵画が、ちょいちょい別のものに変っているのに、草壁は気づいていた。

 いい機会だから、そのことをゆかりに聞いてみたら、そういう絵画をレンタルする業者と契約して毎月違うものに取り替えているそうだ。

 

「レンタルって言ってもDVD借りるわけじゃないから、結構するんでしょ?」

 という疑問は庶民がいかにも持ちそうな考えである。

 しかし、お金持の考えることはちょっと違っていた。


「毎月、違う絵が見れるのも楽しいでしょ?安く複製を飾るっていうのも悪くないですけど」

「あっ、ひょっとしてこの油絵、本物?」

 

「そうですよ。おじいちゃんのときからお付き合いのあるちゃんとした美術商からだから、複製のレンタルなんてしてません」


 あっ、そうですか……。普段は金持ちって雰囲気あんまり見せないが、たまにこういうことを平気な顔して言う。



「レッスン後はこうやって、のんびりしてます」

 ソーサー片手に、くつろいだ笑顔を見せるゆかりだった。

 そんな彼女を見るたびに、草壁は最初出会ったころの、虚ろなゆかりの姿が頭の中に浮かんできて、まるで別人を見ているようだと感じることがあった。


「放課後の教室っていうのはどこでも、まったりするもんなんですね」

 ゆかりの言うとおり、たしかになじみのあるアロマのような気がしながら、草壁もリラックスしてそんなふうに相槌を打ったときである。


 急に、ゆかりは目の前の草壁に対して、わざとちょっと怖い顔をしてジッとにらみつけた。

「でも、草壁さん、ちょっとまったりしすぎなんじゃないんですか?」

「えっ、そうですか?」

 急に説教でもしそうなゆかりの様子に驚く草壁。


「聞きましたよ。学校のテスト、悪かったって」

「なんでそんなこと知ってるんです?」

「フミコ叔母さんです。草壁さん、この前叔母さんが部屋に行ったとき、そんな話したんでしょ?」

「あっ……」

 確かにした。けど、そんなこと他所で話しちゃうのか?


「草壁さん、よく知らないでしょうけど、フミコ叔母さんは、知りたがりの喋りたがりなんですから」

「言われると、なるほどと思いますが」

 

「叔母さんは、『秘密だ』ってことほど喋るっていう、困った人なんです」


 ゆかりが眉をひそめた。身内としては相当に困っているんだろう。そういえば、フミコから「ところで草壁クンの最近の近況はどう」なんて言われたとき、「あんまり大きな声では言えないことなんですけどね」と前置きして、テストが悪かったことを話したのを思い出した。



「うちのお母さんが、いつも愚痴ってました。『フミコには大事な話は一切できない』って」


 だろうな。それじゃ。




 そのうちゆかりが一度、教室の奥から、お茶菓子を持ってきた。

 スーパーで売ってるようなのじゃなくて、専門店で売っているような箱に入って一個ずつラッピングしてあるクッキー。

 生徒の親御さんからの差し入れらしい。お茶にお菓子が加わって、二人の会話のまったりさ加減もさらに増す。商店街アーケードに向けて全面ガラス張りの教室だったが、白いカーテンをサッと引いてしまうと、たちまち二人きりの密室の出現となる。二人には、ここだけ時間がゆっくりと流れているようにも感じられた。



「今は、部屋にピアノがないから、こんな時間にピアノ練習するんです」

「マジメなんですね」

 もうピアニスト志望ではなくなったというのに、切磋琢磨を怠らない様子に草壁はちょっと感心したが、彼女にしてみたら……。

「ゼンゼン……昔と比べたら、遊びです」



 ゆかりの言葉を聞いて、軽く苦笑する草壁。不思議に思ったゆかりに「なにか可笑しいことありました?」と言われた草壁が、苦笑したまま頭を抱えた。


「そんな人の前で、俺、得意げにピアノ弾いちゃったんだよなあ……」


「上手でしたよ。あの演奏」

 ちょっと茶化すようにゆかりが笑った。




 ここで、草壁には、またもやちょっとした疑問があった。

 なぜ、彼女があのとき、あんな様子で急に自分のそばで立っていたか?である。


「ショパンの『雨だれ』ってゆかりさんの好きな曲なんですか?」


 直接的な聞き方もなんだから、そんな感じで話題を振ってみた。

 すると、飲みかけのカップを傾けるゆかりの手が一瞬ピタッと止まった。

 それからチラッと彼のほうへ、何か言いたげな視線を向けたあと、静かにこう言った。


「あの曲は、私の思い出の曲なんです」

「思い出?」

「はい、初めてコンクールで賞をもらって、先生や両親からもすごくほめられた……」

「そうだったんですか」

「真剣にピアノを始めるようになったきっかけの曲です」


 いい思い出だと思うが、なぜか彼女は俯き加減で、あまり乗り気でない話をするようなそっけない調子だった?

 草壁には、そのところがちょっと引っかかった。


 が、なんとなくある程度は疑問が解決したようにも思えなくもなかった。

 つまり、傷心の彼女の前で、自分はたまたま彼女のお気に入りの曲を弾いた。それが彼女の気持ちを少しやわらげた。そういうことだったのか、と。

 しかし、あの時の彼女の驚いたような顔はそういう意味だったのだろうか?

 考えると、疑問はつきなかったが、結局、その話はそれで終わりとなった。



 そして、いい機会だからということでゆかりに向かって「雨だれ」の演奏をリクエストしてみた草壁だったが、彼女は


「今日は譜面がないから無理」

 と、なんか弾きたくなさそうな雰囲気を出しながら断った。


 草壁がソラで弾けるような曲。しかも彼女ほどの腕があって、向こうにとっても思い出の曲だというのに、譜面がないと弾けないもんだろうか?



「さっ私、練習しますから、草壁さんもこんなところで油売ってないで、さっさと帰って勉強してください」


 草壁がそんなことを考えながらぼんやりしていると、ゆかりはサッと立ち上がった。

 まるでこれ以上、その話題を話すのを避けるようでもあった。

 

「はいはい」

 やがて、グランドピアノの前に座り、鍵盤の上に指を滑らす彼女。

 帰れと言われて、はいはいなんて答えた草壁だったが、そのあと彼は長いこと教室のソファーに座ったままゆかりの演奏に耳を傾けていた。

 そして、帰れと言ったゆかりも、そんな彼を追い出そうとはしなかった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 そんなことがあってから数日経った頃のことである。


「暇ですね」


 いつもの花柄エプロンを着けたゆかりが、銀の丸盆を両手に抱えながらポツリと呟いた。

 本日の出勤はゆかり一人、あやの姿はなし、そして客の姿もなし。


 マスターもカウンターの中で丸いスツールに腰掛けながらぼんやりと頬杖をついて、退屈顔である。

「ゆかりちゃんも休んでいいよ」


 言われたゆかりが、カウンターの席に着こうとしたところ。


「あっ、休むんだったら、エプロンはずして、窓際の席に座ってて」


 ハイハイ、どうせ私は客寄せパンダでございますから。

 脱いだエプロン片手のゆかりが、暇つぶしになんか読むべく、マガジンラックを漁った。


 置いてあるものと言ったら、マンガ雑誌とかスポーツ新聞ぐらいなものというは店員としては、把握していたのだが、その中にここでは見ない雑誌を見つけたゆかり。


「あれっ、うちの店、こんな雑誌おいてました?」

「それ、ちょっと前にお客さんが忘れていったものだよ」


 ゆかりが手にしたのは、レジャーやグルメ、映画などのお出かけ情報満載のメジャー情報誌「東京クルーズ」。

 夏らしく浴衣姿のアイドルが、打ち上げ花火の広がる夜空をバックにニッコリ笑って立っている表紙である。



 どちらかというと、客層に合わせて男性向けのチョイスとなっているアネモネのマガジンラックのなかで、ゆかりにとっては一番のチョイスだろう。それを持ったまま、窓際のテーブル席に腰をおろした。


 熟読するという気にもなれなかったので、パラパラと絵本でも見るような調子でページを繰っていると、「夏こそ、フラワーパーク!」って大きな見出しが目に飛び込んできた。


 あっ!

 そうだ!去年の春、病院の喫茶室であの変な占い師が言ってた場所だ!

 

 風車小屋を背景に広がるハイビスカス畑。夏の名物らしいヒマワリの大迷路。ノウゼンカズラのトロピカルピンクな花が垂れ下がる棚の下で、ストローを吸っているカップルの写真なんかに混じって、ちょっと小さめながら、あの場所の写真も確認できた。


 そう、まるで花束を地面に突き刺して敷き詰めたようにして広がる、あの写真である。


「フラワーパーク名物、グラジオラスの群生もこの季節に見ごろです」

 という簡単な紹介文の上には、グラジオラスの花が印象派の点描画みたいにして広がっている。

 因みに、春と夏で違う品種のものに花を植え替えて、一年で2度楽しめるようになっている。



(ここ、去年、病院で草壁さんから一緒に行こうって誘われた場所……)


 ページをめくる手がピタッと止まった。ゆかりは見開き一杯に紹介されている、フラワーパークの記事をしばらくじっと見つめていた。



 忘れていたのには訳がある。

 もともと行くつもりがなかったこと。それに加えて、二人が離れ離れになっていたタイムラグ。それに、そもそも約束ともいえないような、軽いお誘いでもあった。

 たしかにきちんとデートの申し出をされたというようなものではないのかもしれないけど。

 けど、もし覚えててくれたら?

 

 ゆかりのほうは、全く忘れてしまっていたわけではなかった。時折、あの時のことは思い返すことがあったから。

 しかし、こちらに来てから急に日常が早く過ぎるようになって、しばらく思い出すことがなかったのも事実。ひょっとすると気分の弛緩は、安心とも言えたかもしれなかった。


 気分が緩んじゃってた?そうかもしれない……。



 そんなゆかりの物思いは、突然現れた一人の客によってすぐに中断された。



「いらっしゃ……なんだ、君か?」

「どうしてこの店は常連ほど扱いが悪いんです?!」


 結局、客寄せパンダのトラップに引っかかったのは、いつも顔を出す、この売り上げ単価の低い常連一人だけだった。

 もちろん、草壁のことである。



 そういえば、向こうからも、そんな話題、再会してから一度もなかったなあ。私も忘れてたからオアイコだけど、まさか、すっかり忘れてたりしないよね?


 カウンターのいつもの隅の席に陣取った草壁だった。

 そこへ、注文をとりにやってくるのがゆかりであることはいつものことだったが、そのとき彼女が

「いつも、ありがとうございます」

 なんていいながら、いつも以上にニコニコしてお冷のグラスを目の前に置いたとき、草壁は一瞬、おやっと思った。

 やけに機嫌がいいような……。なんかあったのかな?



 すると、ゆかりのほうは、注文を聞こうともせずにいきなり、こんなことを言い出した。


「草壁さんは、お花がいっぱい咲いてる場所、行って見たいなーなんて思うことあります?」


 なんだ?その笑顔いっぱいの質問は?通販番組の司会みたいになってるが、こっちに何か売りつけるつもりなのか?

 ゆかりのちょっとヘンな態度に首をかしげるようにしながら、草壁は素っ気無くいった。


「特には」


 彼女の様子がヘンだ。ときどきヘンだが今日もヘンだ。急におかしなこと言い出したと思ったら、こっちの返事を聞いて、ずっと笑顔だ。なんで魔女っ子ヒロインのお面みたいな笑顔でこっちをじっと見る?


「ね、ほら!」


 ほらっていうが、そのお面みたいな笑顔から、何を連想させようとしてるんだ?

「ほらって、何がですか?」


 そう言ったら、今度、ゆかりさん、ちょっと不機嫌な顔してマガジンラックまで行っちゃった。ん?雑誌抱えて戻ってきた。なにそれ?


「ね、これ!ほら!」

 いえね、だから、その「東京クルーズ」を自分の顔の隣に並べて、また例の作り笑いしますけど、それがどうかしましたか?私とこの表紙の子のどっちがかわいいか聞きたいんですか?ゆかりさんに決まってますけどね。


「その雑誌がどうかしましたか?」



 草壁が全く反応を示さないことにちょっとヘソを曲げたゆかり。手にしてる雑誌東京クルーズをマスターに示して

「この雑誌、私、欲しいんですけど、いただけませんか?」

 くれないんだったら、バイトやめさせてもらいます。みたいな勢いで言うものだからマスターも

「い、いいよ、もう最新号じゃないみたいだし……」

 気圧されてそう言うよりなかった。


 そして、今度はすぐ隣で座っている草壁を見下ろしながら、やっぱり有無を言わせぬ勢いで

「草壁さん、ジャンケンしてください」

「はい?」

「いきますよ……ポンッ!」


 ゆかりがケンを目のまえに出すので、慌てて草壁もジャンケンポン。って、何の意味があるの?


 ゆかりがパーで草壁グー。あなた勝ちました。よかったですね。


「ああっ!なんで勝つんですかあ?!」

「知りませんよ!なんなんですか?」


 勝っちゃダメなの?っていうかこれ何なの?


「もっかいいきますよ……ポンッ!!」


 また、いきなりかよ、このお嬢様。多分ご機嫌とるためには、これでしょ?そういうことなら……。



 目の前で仕事そっちのけのまま、急に客とジャンケンを始めたゆかりに驚いているのはマスターも同じだった。

 この子、こんなに変な子だったのか?



 ジャンケン勝ちましたけど、それがどうしたんだろう?

 草壁がチョキを出したまま、ポカンとゆかりを見上げていると、ゆかりは手に持っていた東京クルーズを草壁に押し付けるようにして手渡した。

「オメデトウございます。賞品にこの雑誌をあげますから、これ持ってさっさと帰ってください」


「なんなんですか?それ」

 雑誌片手に呆然とする草壁。カウンターのマスターの声が響いた。


「客を勝手に追い返さないでくれるかな!ゆかりちゃん!」



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 そりゃあ、自分も忘れてたけど。

 誘ったほうが忘れるって、どういうこと?


 ――とゆかりは思うのである。そう思うとやっぱり腹立たしさと、こっちだけが知っているというイライラ感がどうしても拭えない。

 そして、淋しさも。


 


 実のことを言うと、草壁も忘れていた。

 あの約束のことを。


 だからと言って彼を責めれるだろうか?約束を事実上反故にしたのはどちらかというとゆかりのほうなのだ。

 草壁にしてみれば約束をした翌日、彼女が黙って姿を消した衝撃のほうが大きくて、そのショックに約束が記憶の中でかすんでしまっていた。

 

 件の雑誌を抱えて自宅に戻ってきた草壁だったが、それを見て思ったのは。

(私をデートに誘えって謎掛けか?)

 というものだった。

 しかし、彼女は自分の気持ちを受け入れようとはしない。いつまでたっても友達。誘うったって、どこに行きたいか手がかりでもあるのか?と思いながら雑誌をパラパラとめくってみた。

 行きたいところに折り目でもつけてあるのだろうか?と思いながら。

 しかし、そんなものは一切なし。

 


 その翌日である。マンションの廊下ですれ違った草壁とゆかりだった。

「この間の雑誌、読みました?」

 つとめてニコヤカに草壁に聞いてみたところ、彼は読んだという。しばらく、彼からの反応を待ってみた。

「……」

「あの雑誌がどうかしましたか?」


 ま、まさか記憶に全くないの?!


 乱暴な足音を立てて、エレベーターへと消えてゆくゆかりの後ろ姿を、草壁は呆然と見送った。



 草壁から見えているところまでは、わざと不機嫌を装った彼女だったが、扉の閉じたエレベーターの中で一人になると、急に淋しげに視線を落とした。

 向こうの気持ちは知らない訳じゃない。そして、自分が向こうにどんな態度を取っているかも承知はしている。

 けど、忘れることのなかった約束なのに……。

「そっちにとってはどうでもいいことだったのかな?」


 それがとても淋しかった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 商店街のスナック「momo」と言ったら、ママのミミの策略によっていつの間にかゆかりも非常勤のホステスとして働かされている場所である。

 名目上は「お客の前でピアノ演奏をする」という業務内容のはずだか、行けば必ず接客もこなした。

 もはや、ゆかりのほうからそういう状態についてのクレームを入れることすらそのころにはなかった。



 ゆかりの場合、顔を出すといっても10日から1週間に一度、という程度だったし、閉店時間までいることも稀だった。

 このスナックの閉店時間なんていうのも、客が帰っちゃえば早いし、盛り上がった場合はママのほうも野暮なことは言わずに、午前の2時すぎまでお店を開けていたりする。


 とは言っても、そんなことはあんまりあることではない。客だって朝になったら仕事があるわけなので。



「じゃあ、あんまり長居したら母ちゃんに叱られるからこれで」


 ポロシャツ姿の中年客が、ママを相手に仕事のグチを言いながら3杯目の水割りを飲み干して出て行った。時間はそろそろ終電が駅を発ってゆこうかというぐらいの結構な深夜。

 おそらくこれが本日最後の客であろう。




 その日、そんな時間までゆかりがカウンターにママと並んで立っていたりすることは初めてだった。


 明かりを落とした看板を店の中に入れて、玄関マット片付けて、テーブルを拭いて……。

 それから、シンクの掃除をするママの横で洗い終わったグラスを布巾で綺麗に拭いてガラス棚に戻したりしているときである。


「ゆかりちゃん、今晩はお暇?」


 ママのミミがそう声を掛けてきた。もちろん、お暇、である。

 深夜も12時をすっかり超えた時間から予定がある人なんてそうあるはずないだろう。


「ええ、まあ……」

「じゃあ、今夜私に付き合ってくれない?」


 笑顔のミミだった。時々見せる悪そうな笑顔じゃなくて、とてもさわやかな。




 ミミに連れられて向かったのは、ひまわりが丘駅の商店街とは反対側、北口にあるとあるおでん屋。


 賑やかな再々開発地域から、わずかに入った細い路地にあるその店は、店構えから見ても相当に古そうだ。

 大通りからの喧騒もこの辺までは響いてこないような奥まった細い路地に、似たような薄汚れた暖簾が並ぶその一番奥。

 ずいぶん遅くまで明かりが消えることなく営業している。



 実は知るひとぞ知るという穴場でもあったりする。


 なじみ客というのは仕事帰りのサラリーマン、というよりも、古くから通っている同商売人が多かったりする。

 それだけ、味のしっかりした、それでいて、お財布にも優しい店なのである。


 開店のときからずっと夫婦二人で切り盛りしているそのお店は、終電の時間をとっくにすぎたあとでも、暖簾を下ろすことがない。

 むしろ、そんな時間からやってくる客のほうが多いぐらいだったりする。



 ミミの後を歩いて店の近くまでやってくると、甘くて香ばしいカツオとお醤油の上品なおでん出汁の匂いがただよって来た。

「私、ここまで来たのはじめてです」

「そりゃそうでしょ。私だってお客さんから教えてもらうまで長い間知らなかったんだから」


 雰囲気的には、若い女子が一人で足を運ぶにはちょっと躊躇しそうな場所だとは思った。

 しかし、煤けた摺りガラスの引き戸を開けて店の中に入ると、チラホラと見える客の中には、少々年増ながら女性客の姿もあった。

 なにより、一人客が多くて、みな静かにおでんをつつきながらチビチビと飲んでいる。

 古ぼけた店だが、場末の店の立ち飲み屋のような喧騒と猥雑さとは無縁な妙に上品な店内だった。



「いらっしゃい」

 無口であまり客とは喋らないらしい、皺くちゃの大将の短い出迎えの言葉を聞きながら、二人はカウンターに並んで座った。


「ゆかりちゃん、何にするの?お品書きは、あそこに掛かっているでしょ?あれ見て頼んだらいいわ。とりあえず、お酒、二人ともお冷でいただける?わたしは、ちくわと、牛筋、あと子タコいただけます」


 注文が入ると、さっきからずっとおでん鍋の前に張り付いたままの大将が「はい」と一言、客のほうを見もせずに返事をすると、皿の上に注文の品を乗せて、奥さんに手渡す。



 ゆかりが頼んだ鰯のつみれとさつま揚げは、お店のオリジナル。

 つみれは、魚臭さの全くない、柔らかな舌触り。プリッとした食感に香ばしさがたまらないさつま揚げも、きっとそのまま作りたてを食べてもおいしいに違いない。


 ゆかりがちょっと大振りのおでんダネを箸先でひとくち分にほぐしていると、ミミが口を開いた。


「で、話って何?」

「えっ!?」


 向こうから誘っておいていきなりそんなことを言われたゆかりが驚いた。

 別鍋でじっくり煮込んでから客に出すという、表面が焦げ茶色した煮タマゴは一口入れると燻製のような香りが広がる。


「とぼけないでもわかるわよ。何か言いたいことがあるんじゃないの?いつもは早く帰るくせに、今日はいつまで経っても、ぼぉっとしながら突っ立っているだけだし」

「……」

 言われて、俯くゆかりだった。さすがにこういう商売で長年揉まれているだけのことはある。

 

 言いたいことはあるにはあったのである。こういう悩みを相談する相手がいなかったから。親友であるあやには言いにくかった。なぜなら、あやはゆかりの入院のことを知らない。


 しかし、どう言っていいか?

 どうも他人には説明がしづらい。

 そもそも、ことの成り行きを最初から話せるようなものではない。


 そんなわけで、ミミの直感はドンピシャだったのだが、ゆかりはしばらく、食べるわけでもなくおでんダネをつつきながら言葉を詰まらせていた。


「まあ、なんと言っていいのか……」

「何よ?別に言いにくいことなら無理に言えとはいわないわよ。もちろん秘密厳守だし。この業界でそれなりに長いんだから、その手のところは信用してもらってもいいと思うわよ」

 

 ミミは明るくそういうと、笑顔のままそっと口をつぐんだ。

 話す気になるまで気長に待ってあげるわ。どうせ、言わないと気がすまないんでしょ?だから、今日はずっとラストまで居残りしてたんだろうから。



 カウンターのゆかりとミミ以外、みな静かな店内だった。店のオヤジも始終難しい顔のまま、おでん鍋のタネを長い菜ばしで引っ掻き回しているだけである。注文がないと奥さんも隅の方でじっと立っていた。喋らないのがこの店の最大のサービスだったりする。



 やがて、俯き加減のまま、少し話しにくそうにしてゆかりが口を開いた。


「あの……す、す……」


 目の前の客が、「す、す」って言いながら俯いているのを見たオヤジはちょっと不審げな顔をしながら、カウンターの中から1本の瓶を取り出してゆかりに差し出した。

 あんまりここで、こんなもの欲しがる客いないんだけどな。


「どうぞ」


「違います!」

 オヤジが目の前でミツカン酢の瓶を揺らしているのに目を丸くしながら、首を振るゆかり。

 隣でミミも驚いている。


 ゆかりが首を振るので、だまってカウンターの戸棚に酢の瓶を戻すオヤジをジッと見守ったあと、彼女は再び口を開いた。


「友達と、ちょっとした約束をしたんです……」

「と、友達ぃ!」


 ゆかりの一言に驚いたのはミミである。

 長年の水商売の勘である。女がこういう調子で悩んでいるとなったら、相場は知れていた。「男」である。

 悩みにもジャンルは色々あるだろうけど、聞いて欲しいけど、言いづらいものの筆頭は、家族や仕事、金、病気etcあるうちで、やっぱりこれに決まっている。


 と思ったら、隣の女が「友達」と言い出したのにはびっくりした。

 友達の悩みって……その友達と「約束」をしたんだと。

 それで、向こうがその約束を忘れている。だとさ。



 ここは子供電話相談室か?



 ミミが驚くのも無理はなかった。

 とにかくゆかりの話は回りくどかった。約束って何?ってミミに聞かれても、まあちょっとお出かけしようみたいなことなんですけど、その友達ってどんな?だから友達は友達です。

 そんな調子で、ちっとも話の輪郭が見えてこなかった。


”それってそんなに大事な約束なの?”

”いいえ、大したことじゃないんです”

”向こうは完全に記憶にないってこと?”

”それがよくわからないんです。覚えてるかもしれないし”

”お出かけってどこに?”

”割と近場なんです。車で多分30分もあったらいけそうな”


 だから何?それがどうしたの?

 ミミにしてみたら、せっかくお酒とおでんと貴重な睡眠時間を削ってまで付き合ってあげたら、出てきた話が、楽しみにしてた遠足が雨で中止になったみたいなことだった。

 それを、ウジウジといい年した女が目の前で愚痴るのである。

 しかも話の肝心なところにくると、すぐに話をぼやかして逃げようとする。

 相談者としては相当にタチの悪い部類だ。

 ミミはあきれ返った。



「さっきから聞いてると、あんたの話、まわりくどい!」

 ゆかりのグチ話につき合わされているうちに、コップ酒ばかりが進んだ。飲まずに居られないのはこっちだわ。ついにミミが場所柄もわきまえずに叫んだ。

 良く見ると、おでん屋のオヤジも微かに苦笑してたりする。


「すみません」

 酔いのせいでほんのり赤らんだ頬をして俯くゆかり。まわりくどいのは百も承知だが、上手く話せないのだから仕方ない。


「プライドとか、忘れられた怒りとかわかるけど、黙って拗ねてちゃ話進まないでしょ?!」

「そうかもしれないけど……」


 ミミに叱られて、だんだんと声が小さくなってゆくゆかり。口数が妙に多いのと言っていることが大変回りくどいのは多分酒のせいだけではないだろう。

 しかし、テーブルの上で「の」の字を書いてたりするのは多分酔っているから。


「私は、ちょっと遊びにゆきたいだけなのに、それを、こっちから行きたいなんて言えば、さも、行きたくて仕方ないみたいだし。私はそんなつもりじゃなくて、なんて言っていいのかわからないですけど、そういうマジな話じゃなくて……ただ、ちょろっと行けたらよくて……そもそも、向こうが言い出したことを忘れてるのが、ちょっとおかしくない?って思っちゃっているっていうそういうことなんですよねえ……」


 隣では、出汁ツユしたたるロールキャベツをつまみあげたままのミミが、ゆかりの言葉にポカンと口をあけながらあきれ返っていた。

 

(つまらない相談だわ……今までで5本の指にはいるつまらなさ……)



 ミミが怖い顔してゆかりを睨む。

「どうして自分は追いかけてもらって当然って顔するの?」

「そういうわけじゃ……」

「時には腹がたっても、自分から折れること勉強しなさい――」


 チラッと隣のゆかりを見てみると、ミミの怒られてすっかりしょげたように肩をおとすゆかりの姿。

 私、そんなに怖かったかしら?ミミは少し言葉の調子を和らげて、続けた。


「――好きな人と、しあわせに結ばれたいなら」


 ゆかりはミミの言葉をじっと黙って聞いていた。


「わかった?」

「はい」

 


 

 それから二人の会話がしばらく止んだ。

 幾人かの客が去り、代わりに幾人かの客がやってきた。カウンターに座る者は隣同士になっても、互いに会話を交わすことは少ない。

 仲間と話したいものは、カウンター背後の座敷へと向かうが、ボソボソ声で遠慮がちに「お疲れさん」とグラスを合わせている。静かにひっそりと、がこの店の流儀である。



 しばらく、じっと黙ってコップ酒を舐めるように飲んでいたゆかりが、宙を見つめながら静かに口を開いた。


「でも、私――」


 ミミがゆかりを見た。諦めのような力ない表情のまま、彼女は続けた。




「――そんなにたくさんのものが欲しいわけじゃないんです」


 その後、二人は再び長い間黙り込んだままだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 まさか、約束した記憶自体がもうすっかりなくなっている、とは思いたくなかった。

 けど、それを素直に聞いて確かめたくない。

 別に追いかけてもらって当然なんて思っているわけじゃなくて、向こうがどれだけ、あの頃の記憶を大事にしてくれてるのか?そのことを確かめたかった。

 大事なのは、約束の場所に行くとか行かないとかよりも、そっち。

 だから真正面から向こうにその話題を切り出せなかった。



 情報誌でダメなら、こんどは本物のグラジオラスの花でもあげて見ようか?


「それを見て思い出さなかったら……もう諦めよう……」



 

 そんなことを密かに考えながら、ゆかりがある日、ひまわりが丘近郊にあるとある大型ショッピングモールにあやと草壁を誘って買い物に出かけた。


 いつぞや草壁におごってもらった――実は商店街の組合費から出されたものだが――ランチと海水浴のお礼という名目で、映画でもおごって、ショップでTシャツの一枚でも買ってあげようということだった。

 草壁さん、ときどき、全然似合わないミッキーマウスTシャツ着てるけど、あんなのしか持ってないのならもうちょっとましなのをチョイスしてあげてもいいし。


 まあ、もちろんそれは建前。

 

 帰りはあやちゃんを家まで送ってったら、二人きりになる。そのときにグラジオラスの花を一輪渡してみよう。



 実物見て、なんとも思わなければ……。

 もちろん、それで、この話はおしまいにする。


 そうゆかりははっきりと心に決めていた。




 そこの大型ショッピングモールには、複数の映画館が入るシネコンも併設されていた。休日になると、周辺道路の渋滞の原因となることもしばしばということでも地元では有名である。


 ゆかりの青いラパンに乗った3人は、映画の上映時間に余裕を持って車を出したつもりが、普通3分でつくはずのところが20分かかったときには、ハンドルを握るゆかりもやきもきせずにはいられなかった。



 映画のほうは、軽めのラブストーリー。

 日本映画ではなくてハリウッドものを選んだのに特に理由はなくて、一番とっつきやすそうなあらすじだったから。

「けど、あのオチ、ありですか?」

 映画館を出ると、あやが少し不満そうにしていた。たしかに広げすぎた話を時間内になんとかまとめようとした結果、随分と伏線をすっとばして、急にハッピーエンドに無理矢理しちゃったみたいな脚本だった。

「なんか、ポカンとしましたね」

 ポカンとしながら、草壁が呟いたが、まあ、それぐらいでいい。

 空気さえ壊れなければ。

 


 続いて、草壁のためにTシャツを買ってあげるということになるのだが。

「私は、こういうのが面白いと思いますけど」

「あやちゃん、そのキャラクターものはダメ」

「なんでですか?」

「似合うと思う?草壁さんに」

「面白いと思いますけど」

「面白いじゃだめなの」

「なんでですか?」

「面白いのはもう持ってるから」


 そのうち、船頭多くて、船どっかに行くみたいな話しになっていった。

 ゆかりとあやが草壁をあっちこっち連れまわして、Tシャツ一枚買うために、ああでもないこうでもないとやりだしたのだから。

 ファッション関係のショップだけで大きなフロアが埋まってしまっているような場所なのだ。

 最初に音をあげたのが草壁だった。

「も、もうなんでもいいから決めてくださいよ」

「自分の意見っていうのはないんですか?」

「ゆかりさん、そういいますけど、こっちがこれが良いって言ったら、文句つけるのはそっちじゃないですか?」

「私が買ってあげるっていうのに、なんでスポンサーが意見言っちゃいけないんです?」

「じゃあ、早く、そっちのいいやつ選んでくださいよ」

「なんなんですか?その投げやりな態度」


 で、結局どうなったかというと


「いいと思いますけど、草壁さん、いっつもだいたいそんな服装ですよね?」

 膨大な選択肢のあるTシャツではなく、袖と襟にチェック柄を覗かせている、重ね着風の黒いポロシャツに落ち着いたりした。

 しかも、ブランドショップのじゃなくて、ユニクロの。

 結局、ゆかりもあやも、草壁と同じく、最後には疲れてしまい、適当なところで妥協して終わりだった。




「ちょっと疲れたから、フードコートでなんか食べて休憩しましょうよ」


 そんなわけで、3人そろって、ショッピングモール1階中央に広がるフードコートで一休みすることに。


 夏休み期間中ということもあって人も多いが、映画見て、服屋のハシゴをしているうちに、時間としては中途半端な時間にやって来た3人が見渡すと、空席はちらほらとあった。

 お好み焼きや、ドーナツのブースには人も並んでいるが、がっつりしたドンブリ物やカレーを売っていたりするブースは暇そうである。

 ファーストフード系のブースはお持ち帰り客も結構居る。家で食べるのか、映画見ながらチーズバーガー頬張るのか?

 


 4人がけの窓際テーブルがちょうどいい具合に空いているのを見つけた3人は、まずはそこに座を占めて、まわりの飲食店ブースを見渡した。


 家族連れなんかがメインの客層らしいフードコートは全体的に明るくポップな内装。濃い目のクリーム色した壁の周りを飲食店ブースがずらっと並んでいた。

 

「私はクレープがいいかな?……飲み物なんにしようかな?」


 飲食店ブースを見ながらあやが、そんなことをポツリと呟いたときである。

 ゆかりがお嬢様らしからぬことを言い出した。


「飲み物、ここで買ったら高くつかない?ペットボトルとか缶ジュースとかでいいなら、あそこのスーパーマーケットで安く買えると思うけど」


 驚いたのは草壁とあやだった。いえ、別にそれでいいですけど……。

 いきなり、節約主婦みたいなことを言い出すゆかり。

 基本的に彼女の場合、結構締まりやなのである。

 スーパーに買い物に行って、割引シールのものに真っ先に手を伸ばすようなタイプではないが、必要のないものは買わない。

 買い物に行ったついでにおいしそうだから、プリンも買っちゃおう、なんてしない

 仕送りも、計画立てて使って、余りはきちんと貯金に回していたりする。

 教室の絵画みたいに、ここはというところには、パッと使うけど、不必要には使わない。



 というわけで、隣フロアにあるスーパーエリアでのドリンク買出し係をゆかりが受け持って、フードのほうは草壁がみんなの分をまとめて買って来る。ということに話が決まった。ちなみにあやは、場所取り兼荷物番。


 じゃあ、みんな何にする?


「私はキャラメルクレープとなっちゃん」

 あやの注文。

「私、軽く、タコヤキとウーロン茶にしようかな?」

 ゆかりが呟いた。

「僕は、ちょっと小腹が空いたから、ヤキソバ、と緑茶にします」

 これが草壁。


「私はダブルメープルワッフルにクリーミーアサイーヨーグルトソース。飲み物は午後の紅茶のミルクティー。」



 ――えっ?



 3人連れではずのところに4番目のオーダーの声が響いた。一同が驚いて声のほうを見ると、いつの間にか今木恵が3人の座るテーブルの近くに立っていた。


 うわぁ、先輩奇遇ですね?こんなところでみんなでお買い物ですか?ま、まあそうだけど、恵ちゃんはどうしたの?誰かといっしょ?


「いいえ。一人で買い物に来てたんです」

 恵はそう言うが事実のところは謎である。知人と一緒に来ておいて、草壁の姿を確認したから、仲間をブッチギって、こうやって現れた可能性も否定できない。が、本人がそういうなら、そう思うしかない。


 やがて恵はちゃっかり草壁の隣に座ったりしている。

 時折、草壁が喫茶アネモネにいるところを見計らって恵も店に顔を出したりしているので、ゆかりやあやとも今ではまったくの見ず知らずと言う関係でもない。行けば、軽く話ぐらいはした。

 けど、黙って、この3人の中にずけずけと入ってくるほど、親しいかというと、どうだろう?

 が、そんなことを言っても帰すわけにも行かない。

 

 草壁が気になって目の前のゆかりを見ると、やっぱり面白くなさそうな顔をしている。


「ピアノの先生、ごめんなさい、飲み物買ってきてもらって」

 多分ゆかりの顔色には気づいている。先回りして明るくそう言い放つ恵である。

 まずいな、恵ちゃんが何か言うたびにゆかりさんの顔が石みたいになってゆく。


「じゃあ、ぼ、僕さっさと食べ物買ってきます!」

 とにかく、さっさと食べて、さっさとこの場から引き上げるに限る。

 

 草壁は恵の出現で急に居心地の悪くなったテーブル席からさっさと立ち上がって、飲食店ブースのほうへ足早に去っていった。

 見ていると、ゆかりも無言のまま、食品スーパーのほうへ去っていった。




 ブースに注文している時、気になったので、チラチラと遠くのテーブルで向きあってるあやと恵の様子を確認していたら、それなりに話も弾んでいる様子だ。

 まあ、あやのほうにしてみれば、今ではあまり付き合いのなかった子だけど、ゆかりのように気持ちのわだかまりがあるわけでもないので、世間話ぐらいは気軽にできた。


 クレープとワッフルの注文が出来上がった頃ぐらいなると、ゆかりも買い物袋に注文のドリンクを4本入れて戻ってきた。

 やはり気になるので、ヤキソバを注文しながら、その様子を観察してみる草壁。

 

 仏頂面で、それぞれにドリンクを配ると、静かに席に座るゆかり。

 そして、こちらをチラッと見る。


 うわっ、また、あの不機嫌な目だ。今日のことはこっちに責任は全くないはずなのに、参ったなあ……。


 なんて思いながら、粉モノブースの前で草壁が内心ヒヤヒヤしてたりしていた。

 そんなふうによそ事を考えながら注文していたから、かもしれないのだが……。




 やがて、トレーの上に注文の品を持った草壁が帰ってきた。


「どうも、お待たせしました……」

 と言ってフードの乗ったトレーをテーブルの上に置いたとき。

 

 置いた本人である、草壁の心臓が止まりそうになった。

 そして、その草壁の目の前でゆかりが思わず

「あっ……」

 と言った声に、さらに心臓が縮こまりそうになった。


「私のタコヤキは……?」


 そう、ヤキソバ買うために並んだブースで一緒に頼むはずだったゆかりの注文であるタコヤキのオーダーをすっかり忘れてしまっていたのだった。



「あっ、忘れた……」

 恵の出現で、急に雲行きの悪くなったゆかりの機嫌がさらに悪くなるぞ……。


 草壁は焦った。

 が、ゆかりのほうは、雲行きが悪くなるどころではなかった、晴れいきなり豪雨。それも激しい雷をともなった。


「わたしのこと、何もかも!!」

 周りの客が思わずギョッとなるぐらいの声を立てて、乱暴に立ち上がるゆかり。

 自分のバックを手に取ると、隣で呆気にとられながらゆかりを見上げて座っているあやの手を取って彼女を強引に立ち上がらせた。


「もういい!あやちゃん、帰りましょ!」

「あっ、わたしのクレープ……」

 これから包み紙を開いて楽しみにしていた最初の一口にかぶりつこうと思っていたところだった。無理矢理にゆかりに立たされると、紙に包まったままのクレープがテーブルの上に転がった。


 呆然となっているのは、食べ物を運んできてからずっとゆかりの目の前で立ちっぱなしの草壁も同じである。しかし、ゆかりがタコヤキ一つで、そんなに怒るとは、彼には意外というようり、実に遺憾であった。さっきからずっと怖い顔でこっちを睨んでいるゆかりに、ちょっと腹が立ってきてたりする。


「タコヤキ忘れたぐらいで、そんなに怒ることないでしょ!」

 草壁もちょっと声のトーンがキツメである。

「ぜんぜん、わかってない!」

「どういうことですか?」


 しばらく、二人は少し険悪な雰囲気で見詰め合っていた。ゆかりの隣に立つあやも、仕方ないので手荷物持っていつでも帰れるようにしてはいるが、なんとかこの雰囲気のスキをついて、テーブルの上に転がっている手付かずのクレープに手を伸ばせないか、考えていたりする。


 そして、一人座席に座って、そんな二人の様子を見上げる今木恵のほうは……ちょっとワクワクしていた。




 やがて、ゆかりがジト目で草壁を見据えながら、低く呟いた。


「ファイナル・チャンス・クイーズ!!」

「へ?」

 急なゆかりの言葉に草壁がキョトンとなった。


「この問題に答えられない場合、あなたは失格となります。それでは、最終問題……」

 冷ややかに草壁を見つめ続けるゆかり。

 急に始まったクイズに、驚く一同。


 周りの客からも少なからず注目を浴びていたりする。なんだ、あの4人連れ、ちょっと険悪なムードが漂っているけど、ケンカでもしてるのか?

 まさか、クイズが始まったとは思うまい。


「いきなり、何をいいだすんですか?」

 という草壁の言葉には返事もせずにゆかりが、ポツリ。


「……グラジオラス……」


 ゆかりの発した言葉にじっと耳を傾ける、草壁……とあや、恵。


「さあ、何?」

「そんなシュールな問題わかるか!」

 冗談にもほどがあると思った草壁がそう声を上げても、ゆかりのほうは眉ひとつ動かさずにジッと目の前の男を睨んでいた。そして……。


「カッチ、カッチ、カッチ……」



(このピアノの先生、頭、大丈夫?)

 恵もこの展開にはあきれ返っていた。そばで見ていて、ゆかりの様子があまりにも変。


「ロシアの港街」

「それはウラジオストク」

「シューティングゲーム」

「それはグラディウス」

「怪獣の名前」

「ブー!カッチ、カッチ、カッチ……」


 もう、忘れてたら綺麗に諦めるどころの話じゃなくなっているゆかり。それはそうかもしれない、恵の舌かみそうな注文はきちんと持ってきたくせに、こっちのタコヤキを忘れられたという怒りもあった。

 しかも、目の前の男、こっちが出したクイズの意図をぜんぜん理解せずにトンチンカンな答えばかりする。

 本当に腹が立つ!

 私のこと好きだとか言っておいて!


「草壁さん、それ、花の名前ですから」

 あやが、ポソッと草壁に囁いた。

 違うのよ、あやちゃん、私が聞きたいのはそんな答えじゃないの。と思ったら、こんにゃろー。


「花の名前」

 って、そのまんま答えた!っていうか、私とのこと忘れてるのね!もういいい!こんなやつ!!!


「ブーッ!!不正解なので。今後あなたとは口を聞きません」

「タコヤキぐらいで、こんなに怒る人だとは思いませんでした!」

 草壁にしたらいきなりへんなゲームに付き合わされて一方的に訳も分からず怒られている状況を理不尽としか思ってなかった。


「私が怒ってるのはタコヤキだけじゃありません!」

「じゃあ、なんなんですか!」

 二人のやりとりは完全に子供のケンカみたいになっていた。しかし、どっちも引く気はない様子。草壁も負けてない。しかし、草壁のそのセリフが余計にゆかりの怒りに油を注いだ。

「それ!それよ!まさに、それ!」

 無遠慮に草壁の鼻先を指差して、語気をさらに強めるゆかり。


 しばらく、じっとにらみ合う二人。

 やがて、ゆかりはあやの手をとって、草壁たちに背を向けた。

「帰りましょ!」

「あっ、く、クレープ……」

 バカみたいなケンカに付き合わされた挙句、自分の注文のクレープから無理矢理引き離されたあやが、おもわず声をあげた。



「ピアノの先生!帰っちゃうんですか?」

 すでに、2,3歩あやの手を引張ってテーブルから離れたゆかりに向かって、恵が平然と声をかけた。まるで今までのやりとりなんか、どうでもよさげに。

 その声のトーンが余計にゆかりをいらだたせることは計算済み。そして、その計算どおり煽られたゆかりが、少々乱暴に言い放った。

「帰ります!!」


「じゃあ先輩、二人で食べましょ」

「そうだね、おなかすいたから、冷めないうちに食べちゃおうか」

 ゆかりにあてつけの明るい声をあげると、草壁はようやくテーブルについた。




(ぜーったいに、許してやらない!!)


 

 テーブルについた草壁と恵が、ニコヤカにヤキソバとワッフルを食べている様子をチラッと確認しながら、ゆかりはあやの手を引張ってコートを後にした。

 

 最後にあやがテーブルのほうを見ると、草壁があやの注文していたクレープに手を伸ばしているのが見えた。




第21話 おわり

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