第17話 ユカリ・レポート
ひまわりが丘での生活1年目。いつの間にか7月も残りわずかとなり、義務教育の方々は、待ちに待った夏休みが始まって、ウキウキしている時期である。
その頃、長瀬ゆかりは変な話を聞かされて不安を感じていた。
どうも、彼女の身辺を色々とかぎまわっている人がいるらしいのだ。
「そうそう、情報誌の取材だって言ってやってきてさ、なんでも『美人過ぎるウエイトレス特集』だとかなんとか言って。けど、話してたら、お店のことなんかどうでも良さそうに、ゆかりちゃんのことばっかり聞くんだよね。彼氏がいるのか、どうか?って。」
喫茶アネモネのマスターから聞いた話はこうだった。
「こっちが、いやあ、詳しくは知らないですけど……って言ったら、そのライターさんが『ここ大事なことですよ!、アイドルでも交際報道などは致命傷ですからね!!』えらい勢いこんで……結局、お店のことはロクに聞かないし、あやちゃんの話を振っても興味なさそうにしてるしさ。変な記者だったよ」
パッと見、三十路半ばぐらいのよくしゃべるオバサンだったそうだ。
他に、ピアノ教室の親御さんにもそのライターは取材をかけたそうだ。レッスン終了後、迎えにあがった子供とともに教室から出てきたところへやってきたその自称ライターは「ピアノを習わせている親御さんにインタビューしてるんですけど……」といいながら、なぜか教師であるゆかりのプライベート、とりわけ、恋人がいるかどうか?みたいな話ばっかり聞きいてきたらしい。
辻倉あやにも取材をかけたらしい。やはり、ゆかりには特定の彼氏がいるか?そんなことばっかりをしつこくしつこく……。
そんなある日のこと、ピアノ教室を終えたゆかりが、夕方の薄暗いひまわりが丘の住宅街を一人歩いていると、ふと、背後に人の気配を感じた。
住宅街の辻に設置してある頭上のカーブミラーを何気なく見上げると、年恰好まではよくわからないが、確かに自分の背後2メートルほどのところで、電柱の陰に隠れるようにしながら、こちらを伺う女性の姿。
――あの人かも?それにしても、あれは絶対に素人の尾行だ。そんなふうに隠れてたら却って怪しいってわからないのかしら?
そ知らぬ顔で、とりあえずその辻を右に曲がってみるゆかり。
急いで見回すと、建物の壁際に設置してあるドリンクの自販機の裏がわに、人一人が入れそうな隙間があるのを見つけて、その影にさっと潜り込んだ。
誰?あの人?ちょっと怖いけど、顔を確認して、きちんと話をしておかないと。多分あんな間抜けな尾行をするぐらいだから、大して怖いひとじゃないような気がするし。
自販機の陰に潜んでいると、その追跡者もゆかりの後を追って辻を曲がってきた。足音を確認してから、自分が潜り込んだ側とは反対側から自販機の背後を抜け出るゆかり。その間、ターゲットを見失った追跡者は「あっ、見失っちゃった!どこ行ったのかしら?」割と大きな声で独り言を言いながらキョロキョロしていた。どこまでも間抜けだ。
そして、自販機の陰からそっとその追跡者を伺うゆかり。次の瞬間、彼女は呆れたような顔で思わず叫んだ。
「誰かとおもったら、フミコ叔母さんじゃないですかっ!」
この長瀬ゆかりの身辺を嗅ぎまわっていた自称ライター、本名を長瀬文子という。ゆかりのレッキとした叔母なのである。
姪を尾行していたところを本人に見つかる、というかなり恥ずかしい失態をおかしといて、「あっ、ゆかりちゃん、久しぶり!」と言いながら、悪びれもせずに笑っている、このメガネ女性。
マスターの印象では30代半ばと言っていたが、もう40を超えている。
そこそこ見た目はかわいいと昔から言われているのと、いまだ独身という立場もあるのだろう、見た目は若い。
タコさんウインナーみたいな外巻きカールと、厚化粧の口元にはちょっと大き目のホクロ。
しかしこのホクロはセクシーボクロではない、あきらかに「オシャベリボクロ」だというのが黙っていても初対面でわかる。
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創業者、初代社長の長瀬康二郎には妻との間に3人の子がいた。
すべて娘である。
長女を長瀬登善子という。これが長瀬ゆかりの母親である。もちろん、草壁圭介のルームメイト、長瀬亮作の母でもある。登善子には隆という配偶者がいて、この長瀬隆が康二郎のあと2代目社長を就任、康二郎は会長となるが、後に死去。現在この隆が会社のトップである。断るまでもないが、この長瀬隆はゆかりと亮作の父親でもある。つまり現在の2代目社長は婿養子ということになる。
次女は長瀬麗子。現在は他所に嫁いでいる。
彼女のことについては、今は詳しくはふれないでおく。
そして、三女がこの長瀬文子となる。
このフミコおばさんであるが、現在、ゆかりの近くで一人暮らしをしながらフリーのライターの仕事をしているのだ。ゆかりの身辺を嗅ぎまわっていたライターは自称ではなく、一応本職のライターではあった。
しかし、ライターとしての実力は正直言ってかなり怪しい。
というか、まともに仕事があるのかどうかもわからない。
やることなすこといい加減でチャランポラン。そして性格は気ままで自己中。
何にでもすぐに首を突っ込みたがるが、何をさせても中途半端。そして、オシャベリの詮索好き。
康二郎より先にこの世を去った、初代の妻であるフミコの実母は、いまわのきわに「フミコにだけは何があっても会社のことにタッチさせないで。」と言い残してこの世を去ったという曰くつきの人であった。
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その晩、自宅に帰ったゆかりは早速、実家の母の元に抗議の電話を入れた。
「叔母さんに私の身辺調査なんかさせて、私のこと信用できないの?!」
普段は、円満な母子関係なのである。が、娘のほうは母親が電話に出るなり、そう言ってかなり厳しい声で食って掛かった。
「あんた、何言ってるの?私はただフミコがその近くにまた引っ越したって聞いたから、たまには様子を見に行って欲しいっていっただけよ」
受話器の向こうの母親はゆかりがなぜそれほど怒っているのかがよくわからなかった。
話を聞いてみると、なるほど、妹フミコの異常な行動のせいだとは納得できたが、それにしてもゆかりがそれほど怒るようなことか?とも思うのである。
まるで、知られたくないことでもあるかのように。
「それがどうして探偵まがいのことをするようになるのよ!」
「知らないわよ。フミコは、昔から変ってるの、あんたも知ってるでしょ?」
そういわれると、ゆかりにも思い当たるところは多々あった。
「たしかに……」
「別に、私あなたの身辺調査なんて依頼してないけど、あなたのこと心配なのよ。去年色々あって、心配するなってほうが無理な話よ!」
「それ言われたら、何も言えなくなるじゃない」
去年の自殺未遂の騒動では親にも大変な迷惑をかけていたのだ。ゆかりも急におとなしくならざるを得なかった。
ところで、ゆかりが去年自殺を図ろうとしたことは、家族以外の親戚は知らない。
当然、フミコも知らない。事が事なだけに、家族のトップシークレットである。
「じゃあ、何も言わなければいいでしょ?」
「……」
「ピアノやめたくせに、一体何の用があるのか、そっちで一人暮らししたがるから、しばらくは好きにやらせるつもりで許してるけど、お母さんもお父さんも本当は、こっちに帰ってきてほしい……」
フミコの異常行動についての抗議するつもりだったところが、段々と雲行きが悪くなってきた。
実家の両親は、何かと言うと、こっちに帰って来いという。
放っておけば、そろそろ婿養子取っては?とか言い出しかねない。
母親の言葉を、適当にあしらいながら遮ると、ゆかりはさっさと電話を切った。
その翌日、喫茶アネモネに出勤したゆかりは、マスターに先日取材をかけてきたライターが自分の叔母だったことを告げた。
「そ、そうなの……最初『東京クルーズ』の取材だって言ってたから、そんな有名誌に取り上げられるのか、って喜んでたんだけど、……」
そう言って肩を落とすマスターに、なぜか、ゆかりが頭を下げていた。
本日はピアノ教室もないし、前日辻倉あやともこの件について話していたときに、本日はあやの授業が遅くまであり、アルバイトには来れそうもないということを聞いていたゆかりはいつもより遅くまでエプロンをつけていた。
時刻にして午後の5時は回ろうとしていた頃だろうか?
それまでひっそりしていた店内に客の姿。それも二人づれ。
「いらっしゃ……」
店のドアを開ける気配に反射的にそう口を開いた途端、急に口ごもるゆかり。
「先輩!ちょっと寄ってきましょうよ!」
「え、お、お金の持ち合わせが……」
「私が驕ってあげますよ、コーヒーぐらいなら」
恵に手を引張られながら、店のドアをくぐってやってきたのは、もちろん草壁圭介である。
いつものように二人でここまで帰ってきたところ、それまでどこかに寄ろうとかそんなことは一言も言っていない恵が、店の中にゆかりがエプロンを着けて立っているのを確認すると、不意打ちのように草壁の手を引張って、店の中に引きずり込んだのだった。
もちろん、まずいと思った草壁だったが、断る理由を間違えた「今日は用事があるから」とでも言えばよかったのを「お金がない」と言ってしまった。むこうに「驕ってあげる」と言われたら、それでおしまいである。
まあ、ゆかりに見つかって、コソコソと帰ってしまうというのもかっこ悪い話でもある。
仕方ないから、なるべくゆかりのほうを見ないようにして、店内に入ってきた。
「先輩、ここに座りましょうよ」
恵は、草壁の定位置であるカウンターではなく、テーブル席へと誘う。
そこは、カウンターからもっとも離れた窓際ではなく、その手前。
彼女なりの計算だ。
ゆかりから距離をとるのではなく、その近く。店内が静かなら、二人の会話がわりと聞き取りやすいところをあえて選んだ。
心配しながら様子を見守るマスターの目の前で、非常に事務的な口調のゆかりが注文とると、狭い店内というのに、なぜかセカセカとした足取りでカウンターに戻っていった。
草壁も、ゆかりと目をなるべく合わさないように中途半端なところばかりを見つめてどちらかというと無口。
マスターは慣れた手つきで2杯分のホットコーヒーを淹れながら、こちらも無口。
他に客の居ない喫茶店内、小さく流れるアンビエントなBGMが却って店の静寂を強調している。
そのなかで、一人恵の声だけがやけに明るく響いていた。先輩、夏休みの予定とかあるんですか?実家には帰るんですか?……まあ、聞こえてくるのは他愛のない話ばかりだ。
やがて、注文のホットコーヒーを持って、恵と草壁のいるテーブルにゆかりが近づいてきたときである。
恵が、急にこんなことを言った。
「先輩、この前のアレ、とっても気持ちよかったでしょ?」
ゆかりが手に持ったソーサーの上で、熱々のコーヒーカップがカタカタと音を立てて、微妙に揺れた。
「手を貸してください、またやってあげます」
と言いながら、ゆかりの目の前でテーブルの上になにげなく乗せていた草壁の手を掴むと、手のひらを上に向けて、恵のハンドリフレの施術が始まる。
ガチャッと乱暴な音を立ててながら、あえてそちらを見ないようにしてカップをテーブルの上に置いたゆかり、今度はちょっと大きな足音を立てながら、カウンターへと帰っていった。
いかん!また、恵ちゃんの術中に嵌ってる!
そう思いながらも、断る理由がない。というか、どちらかというとゆかりのほうに意識を持ってかれて、恵にはされるがままな草壁。
ゆかりのほうは、カウンターに戻ると、大して必要もない仕事を無理矢理見つけて、テーブル席の二人をなるべく眼中に入れないようにしている。
例えば、テーブルの上に置いてある醤油指しへ中身の注ぎ足しなんかをやったりしているが、まだ8割がた中身が残っていたりする。
それが済んだら、塩の注ぎ足し。コショウの注ぎ足し。砂糖壷へ中身の補充。
「ここがね、太陽神経叢の反射区。リラックス効果抜群のポイントですよ」
「あっ、そうなの?」
「気持ちよくありません?先輩」
「う、うん気持ちいい」
「もっと強めの刺激のほうが気持ちいいですか?」
「そ、そうだね」
恵は草壁の手を握り締めながら、二人が交わす微妙な会話。
あえてそちらを見ずに言葉だけ聞いていると、なんかハンドマッサージとはちょっと違うことでもしているみたい。
そうしながら、恵は「この前連れてってくれた、あのお店、おいしかったですね。また二人で行きましょうね」みたいな言葉もちょいちょい織り交ぜる。学校の昼休みにランチで行ったお店のことだったりするが、前後脈絡がないまま、その言葉だけ聞いているとまるでデートにでも行ったみたいに聞こえる。
「あ、あのね、ゆかりちゃん……お醤油、注ぎ足してくれるのはいいけど、もっとそっと入れてよ、結構こぼれてる」
口の狭い、小さな醤油指しへ、業務用の大きなペットボトルを乱暴に傾けて注ぐものだから、マスターの指摘通り、あふれた醤油がカウンター台の上でちょっとした水溜りを作る。
「このお醤油さし、注ぎ足しにくくないですか?」
不機嫌そうにそういいながら、乱暴にこぼれた醤油を拭くゆかり。
「あのさあ、ゆかりちゃんさ、一応お客がいるんだから、もうちょっとにこやかにやってくれないかな?」
そっと耳打ちするマスター。マスターなりに気をつかいながら、腫れ物に触るような様子で囁くが、ゆかりのほうは、能面のような顔を崩すことなく。
「いつもどおりのはずですけど?」
「どこが……」
そこへ、新たな客の登場である。
「こんにちわー!あっ今日はゆかりちゃんも居るのね?」
ゆかりの叔母、長瀬文子がパンパンになった茶色のビジネスバッグを片手に持って入ってくると、マスターに「この前はどうも」とか頭を下げながら、カウンター席についた。
「叔母さん!お願いだから、今度から私のことかぎまわるようなことしないでくださいね!このお店の取材っていうのも、あれウソなんでしょ?」
「あっ、バレた?やだぁ!そうなのよ!ごめんなさいね。けど、私ね、ゆかりちゃんが真面目な子だってわかってホッとしているの。……あっ、私、カフェマキアット。ないの?じゃあ、エスプレッソ。それもない?カフェモカは?……ちょっと、このお店、何があるの?コーヒーはホットとアイスだけ?あっそ、随分貧相なメニューね。じゃあ、ホットでいいわ」
ニセの取材で迷惑かけたマスターに詫び一つ言うことなく、フミコがそんなふうにオーダーをする。この言葉を聞くだけで、このフミコ叔母さんの人間性というのがだいたい知れる。
金持ちっていうのも色々あるもんだ。と思うマスター。このフミコという変人がゆかりの叔母というのには少々同情するが、こうやって娘の素行調査なんかを平気で依頼するような両親って一体何なんだろうか?とか、その裏にはどんな御家事情があるんだろうか?とか、こっそりと考えていた。
実際のところ、一連のフミコの異常行動はすべて彼女の独断でやっていることなのだが。
ところで、このフミコがこうしてアネモネに顔を出したのは、別にマスターとまた話したかったからとか、ここのコーヒーを飲みたかったからではなかった。
今日も今日とて、ゆかりの近辺を探ろうと思っていて、商店街を歩いていると、喫茶店のテーブル席にいる草壁の顔を見つけたからだった。
まだ直接、草壁とは接してはいなかったが、遠くから何度かは確認していたので顔は知っている。
その彼が喫茶店のテーブルに居たので、「美人過ぎる喫茶店」特集の常連さんインタビューという名目で近づいてゆかりの話を聞いてやろうぐらいに思っていた。
まさか、もうばれているとはそのときには気づいていなかった。
いずれにせよ、この草壁圭介というのはフミコの見るところ、もっとも危険な存在である。なにしろお隣に住む年頃の男なのだ。
とはいえ、見たところ、ゆかりが惚れそうな男とは思えなかった。
なーんだ。普通の二十歳の大学生だわ、これ。
そう思って、今日草壁の姿を見つけてみると、しっかりと彼女と同席。
しかも、店の中で二人して手を握り合いながら、ゴニョゴニョと。
これなら、危険なことはなさそうね。彼女いるんだし。
一方、草壁のほうである。
恵に手をつかまれながら、ハンドリフレをされるがままなのは、相変わらずだが、カウンターにやってきた見ず知らずの女の人とゆかりの会話はこちらの耳にも入ってくる。
すると、驚いたことに、その人はゆかりの叔母だという。
ゆかりとの関係はともかく、ゆかりの叔母ということは、ルームメイトの長瀬亮作の叔母でもあるということだ。
「叔母さん、なんですか?」
洩れ聞こえたそんな言葉に驚いた草壁が、恵に手を握られながら、カウンターのほうへ声をかけた。
「そうよ!あなた草壁さんでしょ?亮作君のルームメイトの」
えっ!こっちは初対面だと思ってたけど、なんでこっちの顔知ってるの?と思いながらも
「はい。いつも亮作君にはお世話になってます、草壁といいます」
と言いながら、軽く会釈した。
その時である。こちらを振り返って「亮作君からは話聞いてるわ。学校帰り?」と言葉をかけてきたフミコの背後でゆかりの能面みたいな顔と目があった。
「割と真面目な人って聞いたけど、こんなところで彼女と手なんか握り合ったりして!見せ付けるつもり?若い人っていいわねえ」
暢気に草壁と恵に向かって、笑いながら冷やかすフミコ。
「い、いや、これはリフレクソロジーってやつで……」
「先輩、ちょっと汗ばんでますよ。そんなに緊張しないでください」
「かわいい彼女じゃない!手握られただけで緊張してるの?ウブね。フフフフ……」
カウンターのフミコが草壁たちのほうを向けてそんな言葉を投げかけながら笑っている背後では、どんどん表情が険しくなりながら、草壁を睨むゆかり。
一人、せっせと注文のホットコーヒーを淹れるマスター。
(なんか、もう状況が把握しきれない……)
と思うのだった。
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3歩進んで2歩下がるという格言はあるが、1歩進めば1歩下がる。
というのが、現在の草壁とゆかりの関係だ。
あの喫茶店の一件以来、再びゆかりはヘソを曲げた。
こっちが悪いのか?と思う草壁だったが、まあ悪いところもある。恵にされるがまま抵抗というか、それなりに意思表示の一つもしなかったのだから。
じゃあ、どうしろと?そんなふうに考えると、いい知恵も浮かばない。
「僕はゆかりさんのことが好きだから」と言ったところで、肝心のゆかりのほうはヤキモチは妬くが、草壁を受け入れてはくれない。どこまで行っても「ただのお友達」
たまには思うのである。なら、思い切って恵ちゃんに乗り換えちゃおうか?とも。
実際のところ、そこまで思い切れないのが現状である。
早い話、ゆかりがどうであろうと、諦めきれないのである。
そんなある日。
長瀬ゆかりは、車に乗ってお出かけしていたとする。
午前中までに所用を終えて帰ろうとすると、渋滞にまきこまれたりして、昼食は家に帰って済まそうとしたところを急遽予定を変更して、なんとなくハンバーガーチェーンの店に入ったりしたとする。
店内は客でいっぱいで、ボックス席なんかはみんな埋まっている
なんとか、カウンター席の一隅に一つだけ空いている席があるので、そこに座ってみたりして。
すると、その隣に座っていたのが、なぜか草壁だったりする……。
もちろん、ただの偶然で、彼がなぜその時間にそこにいるのかは、ゆかりにはよくわからない。
実は草壁のほうは学校の昼休み、恵から逃れて学校からちょっと離れたこの店で一人の昼食をとっているだけだったりする。
ただ、そんな裏事情はこのさいあんまり関係なくて、こうして偶然、二人がたまたま二人きりで話す機会が訪れたということだけが問題である。
草壁のほうは、狭苦しいカウンター席で、隣の客と肩が触れたりしないように気を使いながらボソボソしたポテトを口に放り込んでいると、ついさっき空いたばかりの右隣の席に、また客がやってきた様子。
こんな時間帯のこんなところでゆっくり食事なんかできるわけがない。
誰が来ようと関係ないが、あんまり加齢臭のキツイような人がこられたらヤダナぐらいに思ってたら、女の人っぽかった。
こういうところで見ず知らずの他人の顔を見たりするのは失礼だ。
そ知らぬふりで、新しいお隣さんの邪魔にならないように、トレーの位置を軽く整えていると、隣からただよってくる微かな薫香がどこかで嗅いだような香水の匂いがする。
アレッと思って隣を見ると、先にこちらに気づいてたようなゆかりが隣で目を丸くして座っていた。
お互いの存在に気づいた二人だったが、最初二人の間に会話はなかった。
ヘソを曲げているゆかりは、こっちから口を聞いてやらないと意地を張ってたりする。
きっと、向こうのほうからヘラヘラしながら、「この前のことですけどね」とか言いながら弁解してくるに違いない。
けど、そんないい訳を簡単に聞いて納得してやるものですか。
なんて思いながら、味付けの薄いふにゃふにゃのポテトをつまんでいるのだが、お隣は一向に口を開こうともせずに黙々とハンバーガーにパクついているだけである。
なんなの?普通に一人で食べてるみたいに黙々と……。それに、もう結構食べちゃってる、食べ終わりそうなんだけど。食べ終わったら長居できないでしょ?こんな混んでるお店の中じゃ。
何?私のこと怒ってるの?ちょっとイジワルしたけど、それぐらいで拗ねてるの?
しょうがない……。
ということで、先に痺れを切らしたのは今回はゆかりのほうだった。
草壁のほうを見ることはしないで、ぽつりと独り言のようにして呟いた。
「今日は、無口なんですね?」
ゆかりの言葉は聞こえているはずなんだが、しばらく草壁はそれに答えずにストローからドリンクを一口二口飲み込んでから、こっちもゆかりのほうを見もせずにそっけなく答えた。
「……疲れてるんです」
「どうしてです?」
何かあったのだろうか?と思ってゆかりが隣の草壁をチラッと見た。
食べ終わったバーガーの包みを畳みながら草壁は、やはり、ゆかりとは目を合わせずに
「恵ちゃんが絡むたびに不機嫌になられちゃ、こっちの身が持たないなって……」
ポソッと呟いた草壁の挑発的な言葉に激昂するゆかり。
「妬いてるとでも言いたいんですかっ?!」
強く響いたゆかりの言葉は周囲2メートルぐらい人たちの注目を浴びた。大きめの音量のBGMの流れる室内ではその程度ぐらいしか声はとどかなかった。
草壁は、ずっとゆかりとは目を合わさず、ずっと一本調子の低めのテンション。
「誰が、誰に対して妬いてるんですか?」
残ったポテトをポイポイッと放り込む。
ムッとしたゆかり、まだほとんど手のついていないチーズバーガーセットが乗ったトレーを持って乱暴に立ち上がり、カバンを肩にかけた。
その間、見下ろす草壁の様子は、まったく彼女の行動には無反応で、最後のドリンクをズズッーと音を立てながら飲んでいるだけである。
(なんなの!そのもったいぶった格好!)
草壁だって、怒るときは怒るのである。
(こっちだって下手にばかり出ませんからね……)
その後、ゆかりがわざと音を立てるようにしてトレーを返却して、手付かずのバーガーを処理している間、彼女のほうを一度も見ようともせずに、そして、ゆかりが出てゆくのを待つかのようにゆっくりゆっくりと帰り支度をする草壁だった。
(ずっとこっちを無視するつもり!!)
結局、ゆかりの車が渋滞の中にまぎれてゆくまで草壁はその場から動かなかった。
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これは、長期戦の様相を呈してきたか?と草壁は思いながらも、一度衝突してしまったゆかりへ簡単に頭を下げる気にもなれないのも事実。
内心はもちろん関係修復のための手は打たないと、と思ってはいたのだが。
その翌日だったろうか?
ちょうど亮作が風呂上りの一杯をひっかけようと冷蔵庫を覗いているのを横目でみながら、草壁とツルイチの二人が次はどちらが風呂入ろうか?などと言ってるところに、フミコ叔母さんが部屋に遊びに来た。
変なところだけ手回しがいいフミコ。部屋に通されると、ツルイチの顔までもすでに把握している様子で、「どうも、鶴山さん、わたし亮作の叔母のフミコと申します」と珍しく殊勝らしく頭を下げたりなんかしている。
が、「会社はいつもこれぐらいに終わられるんですか?あっ、そうなんですか」って言ってたりするのを見ると同居しているこのオッサンがギャンブルで飯を食べているとは知らない様子。
さすがに、このオッサンの素性を家族には知られたらマズイと思っていた亮作があらかじめついておいたウソをそのまま鵜呑みにしている。こういうのがこのフミコの中途半端なのところである。
「あっ、今から宴会でもするの?叔母さん、まずいところに来ちゃったかしら?」
テーブルの上に今から亮作が飲もうとして1本だけ出してある発泡酒の缶を見たフミコが言った。
「いや、これは僕が飲むだけ……」
「こうやって3人も揃っていると、お酒も楽しいでしょうね……」
「……だから、これから飲もうとかじゃなく……」
「ほら、叔母さん一人暮らしだから、家で飲むっていったら、いっつも一人酒……なんとなく淋しいものよ。」
「あ、そう……」
「女も40過ぎると、男の人がなかなか誘ってくれなくなるし。」
「お、叔母さん、そ、そんなこと言って彼氏いたり……」
「一人で行くような馴染みのお店作っても、いっつも一人で飲んでるばっかりだなんてお店の人に思われるのも、なんかつまらないし……」
「そ、そうかな?……」
「いいわねえ、こうやって賑やかに飲めるのって」
「だ、だから、これは僕ひとりで……草壁クン、お風呂入る?」
「あっ、お風呂?そうよね!変なところにお邪魔しちゃって。私達にはかまわず、お風呂済ませてきて。お酒冷やして待ってるから」
亮作と顔を見合わせながら草壁がポツリと言った。
「いいえ、お風呂はあとで結構です」
そうなると遠慮というのがない様子で冷蔵庫を勝手に開けて「なんか安いお酒ばかりね。ワインとかブランデーとかはないの?おつまみ、いつも何食べてるの?もっと良いもの食べなきゃ。」とか言いながら、勝手にテーブルの上にお酒を並べだすフミコ。
乾杯の音頭とか、頂きますの挨拶もないままに、傍らに人の無きがごとく、テーブルの上に次から次へと酒を並べるとさっさと一人で缶を開けて。
「みなさんも、どうぞ」
と言ったときには、さすがの亮作、草壁、ツルイチの3人も固まった。
仕方ないので、お相伴に預かる3人。
そして、何かおつまみないの?ポテチとかチータラばっかりじゃあ、おなか空くわというフミコのリクエストに応じて、草壁が仕方ないから、炒めたウインナーを皿に乗っけてカラシを添えて出して、パンを焼いて、卵とハムを乗っけてサンドイッチを作って、唐揚げ揚げて、……。って全部俺の食材じゃねえかっ!
「ごめんなさいね……久しぶりに亮作クンの顔見て帰るだけだったのに……あっ、この唐揚げまあまあおいしい」
ダイニングのテーブルに、すっかりこの家のあるじみたいな顔しながらただ座って、差し出されるつまみを食べては、グイグイと酒を飲むフミコ。
普段はご陽気な亮作、草壁、ツルイチも、若干引き気味だが、他人のことにはあんまり感心ない様子。平気でマイペース。
「あなたもお酒飲むようになったのねえ。昨日まで子供だったような気がするけど」
「叔母さんは、変わりませんね」
「所帯持ってない分、若く見えるのかもねぇ・・・」
しかし、本日のフミコの訪問であるが、別に彼女はただなんとなく甥っ子のほうの様子も伺いにやってきたのではなかった。
先日のアネモネで目撃したとおり、草壁には恵という彼女がいるらしいとは思っていたが、果たしてそれで安心していいのか?とまだ完全に警戒を解いていたわけではなかったのである。
こうして、少なくとも草壁がいるところにゆかりも呼んで、二人を鉢合わせにさせた上で、両人がどのような関係なのか?ということを実地に確認しておいたほうがいいという思惑があったのだ。
なんだったら、自分がスポンサーになってお酒とおつまみぐらい提供してもいいかと思っていたが、ちょうどこの部屋で調達できたわ。これは好都合。
「せっかくだから、お隣のゆかりちゃんも呼んでみんなで飲みましょう」
すでに隣室にゆかりが在宅していることは確認済み。
フミコの提案に亮作も
「そうしますか?」
あっさり乗った。まあ、ゆかりがこの部屋の酒宴に加わることはよくあることだし。
ということで、ゆかりがこの日の宴会に合流、となったわけである。
ところでテーブルの座席関係なのだが、ゆかりを交えた4人の宴会で飲む場合、ダイニングのシンク側に亮作とツルイチが並んで座り、それに対面してゆかりと草壁が並んで座るというのがいつもの定位置。
本日は、テーブルの短辺の一方にフミコが一人座っているのがいつもとちょっと違うだけである。
「なんか身内の歓迎会につきあわせちゃって……悪いな」
亮作にしても、このフミコ叔母さんが相当な変わり者であることはよく知っている。
今彼がそう言って、少し申し訳なさそうにしているのは、「この変な叔母さんにつき合わせちゃって、ごめんなさい」という思いが篭っている。
「同部屋のよしみ、われわれに遠慮はいりません」
「いつでも気軽にいらしてください」
少々変な人だと思うが、まだこのフミコの実態を深く知らないツルイチと草壁が、社交辞令でそういうと
「いい人たちね。ありがとう」
嬉しそうに笑うフミコ。実はその後、本当に遠慮なく来ることになるとは、まだそのときには彼らは知らない。
そうして5人でワイワイ賑やかな酒盛りが始まるわけだが。
フミコのほうだって笑っているばかりではなかった。
ゆかりが部屋にやってきて、ちょっとキョロキョロしながらも空いている草壁の隣に着座してからの様子をじっと観察はしていたのだ。
話では、ときどきゆかりもこの部屋に呼ばれると聞いていた。だから、ちょっとした友達ぐらいには親しいんだろうと思っていたが、草壁もゆかりも隣同士になりながら、挨拶一つロクにない。
雑談一つ交わさない。
(よそよそしい二人ね……普段口聞かないのかしら?)
そう思ったフミコが、草壁とゆかりの二人のほうへ
「草壁さんとゆかりちゃんは、友達ってことでいいのかしら?」
と問いかけてみた。
すると、二人ともちょっとの間黙り込んだあと、それぞれ互いのほうを見ようともせずに素っ気無い様子で
「まあ、会ったら挨拶ぐらいはしますが……」
「友達っていうか、ただのお隣さんですよ。叔母さん」
まるで、個人的なお付き合いが少しでもあると思われるのが迷惑だといわんがばかりの様子。
名前ぐらいは知ってますが?それが何か?って感じ。
(随分と余所余所しい二人ね……お互いに意識もしてないし、性格的にウマが合わないって感じなのかしら?これは本当に、この二人、友達ってことですらなさそうね)
そんなふうに一人で納得するフミコのすぐ脇では、ツルイチと亮作が目の前の異様な雰囲気で黙り込む草壁とゆかりを見ながらヒソヒソと話しあっていた。
「なんか、お姉ちゃんと草壁クン、ちょっと変じゃないですか?」
「こういうのは放っておけばいいんですよ。関わっちゃダメです!」
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ゆかりと草壁の冷戦状態は続いた。
そんなある日のこと。
その日も午後の喫茶アネモネは、名物美人ウエイトレスのダブル出勤となっていたのだが、いかんせん客がいない。
掃除ばっかりするのも飽きたので、辻倉あやと長瀬ゆかりの二人が暇にまかせて雑談に花を咲かせていた。
「もうすぐひまわりが丘のお祭りがあるんです」
あやはこの辺は生まれながらの土地なだけに、その手の話題には詳しい。
「この近くなの?」
「駅の反対側のニュータウンのほうに」
ひまわりが丘の駅を真ん中に、町は南口方面と北口方面に別れる。
南口は、この喫茶店もある商店街のある側で、軒の低い一戸建てが立ち並ぶ住宅街。人はいるのだが、活気は少ないのがこちら側。町は古く、都市開発みたいなものからは思いっきり取り残された閑静なところである。
反対に北口は、数十年まえに開発された団地や集合住宅群が「ひまわりが丘」の名前のとおりの丘陵地帯に立ち並ぶ巨大な人口を抱えた賑やかな町となっていた。
首都圏近郊の有数のベッドタウンであった。
つい最近も駅前は再々開発がかかって、大型スーパーや大資本が経営するショップが数々入るショッピングモールが駅前に誕生していたりする。
駅から、ニュータウン方面へとゆるやかな坂を上ってゆく途中は、「商店街」の名前は冠されてはいないが、お洒落で綺麗な店舗がずっと連なっていた。
立地がいいせいなのだろう。店じまいがあっても、すぐにテナントは埋まってゆく。
そんな北口方面に広がるニュータウンの中央では毎年、賑やかなお祭りが開催されていた。
ニュータウンの建設に合わせて始まったその祭りは、歴史は古くないが、このあたりではかなり大きな夏祭りとして有名で、電車で数駅程度はなれたところからでもわざわざ人がやってくる。
祭りの日になると、綺麗に区画整理されたニュータウンの片側2車線の大きなメインストリート一杯にものすごい数の夜店が集結する。
とんでもない人ごみの中、端から端まで全部みるだけで縁日の時間が潰れてしまいかねないほどらしい。
「盆踊りとかもあるんですけど、のど自慢大会とか、ライブイベントもあるんです」
「誰か有名な歌手とか来るの?」
「ううん。町の青年団の有志のバンドが、のど自慢大会の前座に数曲演奏するだけです」
「あっそ……」
「けど、前に私の従兄弟が出てたんですけど、そんなのでも舞台の上で演奏しているの見ていると面白かったです。それに、人が多いから、お客さんそれなりにいるんですよね」
「そっか」
「だから、ゆかりさん、みんなで行きませんか?」
「みんな?」
「はい、草壁さんも……」
あやがその名前を持ち出した瞬間、ゆかりが苦い顔をしながら彼女のほうをジロっと睨んだ。
「なんで、そんな人を呼ぶ必要があるの?どうせ、彼女と一緒に行くでしょ?」
わっ、また、それ?
マスターから二人がまたもめてるみたいだって聞かされてたけど……。
この人、本当にメンドクサイ人だ……。
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一方の草壁である。喫茶店に顔を出しても今は楽しくないというわけで、バーガーショップでの衝突以来アネモネには寄らずに真っ直ぐ帰る日が続いた。
ツルイチさんの帰宅は遅いのが常で、亮作もどちらかというと毎日真っ直ぐ帰宅というタイプでもない。
夕方に部屋に帰ると草壁が一人、ということはよくあることだった。
ところで草壁の部屋の中にも本棚があるのだが、実は部屋の3人が顔をだすリビングダイニングにも本棚というより、実際は安物のフリーラックを一つおいて、そこに各自が読み終わった本とかを置いて持ち寄り文庫みたいなものができていたりする。
草壁は、そのなかから適当に一冊見繕ったのを手に部屋に戻って一人で読書をしていた。
本日は亮作が置いておいたらしい、稲垣足穂。
因みに草壁はミステリーと文学系。亮作が文学とノンフィクションや意外にも哲学書が好みの様子。そしてツルイチさんは歴史小説と、歴史物。と言ったように、それぞれ好きな分野が若干違うが、持ち寄った本はそれなりにみんなして読んでいたりする。
見ると本棚に並ぶ本の中でもっとも多いのが「岩波文庫」。その次が新潮文庫。ハードカバーは意外に少ない。そして本の調達先は草壁の場合、隣駅にある大きな古本屋というのがよくあるパターン。
どれぐらい時間がたったか知らないが、気がつくと窓の外はもう薄暗い。
飯の準備でもしようかな?顔上げて外の様子を伺いながら草壁が、読みかけの本を机の上に置いたところで部屋のチャイムを鳴らす音が響いた。
いきなりの玄関ドアからの呼び出し。
このマンション、セキュリティーはそこそこちゃんとしているので、来客はまず一階エントランス前から呼び出しをかける、それを部屋の住人がチェックしてドアロックを解除させてやっとマンションの中に入れるはず。
先日、フミコが来たときも、彼女はエントランス前から最初連絡を入れてきた。
ということは、この客はこのマンションの住人ということだが……。まさかゆかりさん?
そう思って、ちょっとドキリとなりながら、来訪者を確認すると、なんとフミコじゃないか!
ちょっと待て、どうしていきなり玄関ドアの前に立っているんだ?と驚く草壁。
と思ったら、亮作から、エントランス開錠の暗証番号を聞いているというのだ。
あいつ、そんなもん、気軽にホイホイ教えるなよ、いくら親戚だと言っても。と思ったが来た者は仕様がない。
草壁がドアをあけると、フミコのほうは「こんばんわ。亮作君いる?」とか言いながら、開きかけのドアの取っ手にかけた手に力をこめて、無理矢理こじ開けるようにしながら首を玄関の中に突っ込んでくる。
なんなんだよ、このオバサン。いくらここの住人の親戚っていったって、他人の家。迎え入れられる前からまるで、警察のガサ入れか、国税庁の査察みたいにして、問答無用で人のうちに入り込もうとするなよ。
驚く草壁を尻目に、さっと玄関に入ってくるフミコ。
「亮作君なら、今は居ませんよ」
あっけにとられながら、草壁がそう言うと、
「ちょうどよかったわ。今日はあなたに会いに来たの」
はあ?僕に?何の用でしょうか?
「いえね……あなた、お隣さんでしょ?ゆかりちゃんに男の出入りがあるとか、時々帰りが遅かったり、朝帰りだったりすることがあるとか、もしわかればよ……わかったらでいいから、なにも、探りを入れてほしいとかそんなんじゃないの……わたしもほら、大事な姪っ子だから、心配で心配で……」
やっかいな人とお近づきになっちゃったなあと思いながら、うんざり顔の草壁が差し出した麦茶を飲みながら、このフミコが一方的にまくしたてた。
とにかく、この人、良く喋る。
つまりはゆかりの身辺調査員の一人に草壁をスカウトしにきたのである。言葉は最初こそ遠まわしな表現をしていたが、そのうち「定期的に私に報告」とか「なにかあったらすぐに連絡を入れること」とか、まるで私立探偵の助手にでも仕立てようと思っているようなことを言い出した。
それだけではない。
そんな話のついでに草壁のプライベートも根掘り葉掘り聞きたがる。
大学はどこに行っているのか?とか、趣味は?とか今まで何人の彼女がいた?とか。好きな食べ物は?ご両親の職業は?とか。
そこに、大した意図はないのだ。だから、初恋っていつなの?と聞いたあとに、ところであなたの好物は?って感じで脈絡なく質問をしてくる。
古道具屋の茂夫叔父さんも、変っているが、この人も相当な変わり者だ。
そのうち、自分の言いたいことだけを言い尽くして、それなりに満足したのだろう
「時々わたしここに顔出すから、報告よろしくね……」
と言いながら、さっさと帰って言った。
「なんなんだ、あのオバサン、勝手なことだけ喋って帰っちゃったぞ!」
玄関ドアの向こうに消えてゆくフミコを見送ったあと、草壁が呆れ顔で呟いた。
ところで、このフミコ。この日は草壁を調査員助手にスカウトするためだけにやってきたのではない。
ついでだから、お隣のゆかりの様子も見て帰ろうと思っていた。
そんなわけ、草壁たちの部屋307号室を出ると、すぐとなりのゆかりの部屋である308号室のドアのチャイムを押した。
その時間にはすでに部屋に戻っていたゆかりが、やはりこっちもいきなり玄関前で呼び鈴を鳴らす、この変わり者の叔母に驚きながらも、来た者を追い返すわけにもいかないので、仕方なく部屋に呼び入れた。
あっ、結構いいスリッパなのね。叔母さんち、引越ししたばかりでこういうの揃えなおそうと思うけど、これどこで買ったの?あっ、いいソファーね。アメリカンモダン?あっ、日本製?そうなの?このテーブルも?テーブルは北欧……いいわ。あっ、いいにおい。ゆかりちゃん晩御飯作ってたの?えらいわね。一人暮らしでちゃんと自炊なんて。そういえば登善子姉さんはお料理とかもマメだから、お母さんゆずりね。
部屋に招き入れると、そうやってゆかりの返事もロクに聞かずにずっと喋りっぱなしのフミコ。
「おいしそうな匂い。晩御飯のメニューは?」
「え、いや……た、大したものは作ってないんですけど……」
「なんか、おなか空いてきちゃった。叔母さんまだ夕食食べてないのよ」
「そ、そうですか……」
「で、今晩のメニューは?」
「こ、ここで食べてくつもりですか?」
ここで食べてゆくつもりらしい。
ゆかりの部屋にある、背もたれの高いダイニングチェアに腰を落としたフミコを横目で見ながらしばらく悩むゆかり。
作りかけのサラダは野菜を追加したらいいとして、お味噌汁も2杯ぐらいはなんとかなるが、お鍋の中で煮込んでいる子持ち鰈は一人分の切り身しかないから、メインのおかずが足りない。
ご飯も残りものをレンチンと思ったから炊いてない。
仕方ない、足りないご飯は素麺作ってなんとかやりすごそう。
えっと、あんまり手間隙かけてる時間もないから、小さな土鍋にナスとかパプリカとか薄切り肉とかをミルフィーユみたいに段々に重ねて間にトマトソースとチーズとかも入れて、軽く塩コショウ。白ワインで軽く蒸して、あとは火が通るまで待ったら出来上がり。
「やっぱり、姉さんの娘ね。おいしいわ」
出来上がった料理を満足に食べるフミコだった。さすがにここでマズいなんて言おうものなら、さすがのゆかりもぶち切れたかもしれない。
しかし、そんなことをしながら、中途半端なところで計算高いところがあるのがこのフミコ叔母さんの怖いところなのである。
突然おしかけたりしたのも、晩御飯をせがんでみて、もしあらかじめ二人前程度作っているのなら男がいる可能性があると思っていたのだ。
それが、どう見ても一人前の調理しかしていない。ということは、今日のところは判定「シロ」ということでいいだろう。
そんなことを考えていたりするのである。
ゆかりにしてみれば、この叔母さんと一緒に食卓を囲むのが苦手だった。
とにかく良く喋るし、その場の空気を呼んだ発言なんて全く出来ないからである。
しかも、このところ自分のことを嗅ぎまわっていたりするのである。今日の訪問も、きっと男の気配でもないかどうか調べに来たに違いない。彼女も読んでいた。
「ところで、ゆかりちゃん知ってる?」
ゆかりに向かって、今狙いの投資信託の銘柄は?とか、野良猫に勝手に餌付けをする近所のおばさんとケンカした話とか、読みかけのファッション誌を広げて、ものすごい色合いのバッグを買いたいけど似合うと思うか、とか、本当にどうでもいい話を、自分の話したいように一方的に話したあと、フミコが急にこんなことを言い出した。
「面白い話があってね、お隣の草壁さんに彼女ってどんな子って聞いたのよ……」
ゆかりの手がピタッと止まった。
叔母さん、そんなことまで調べている?いや、ただ単に興味本位で聞いたんでしょうね。叔母さん、知りたがりの喋りたがりだから。
思わず、目の前の大きなオシャベリボクロを注視するゆかり。
「そしたら『ヤキモチ焼きで困ってるんですよ』なんてノロケ言っちゃって……意外な感じしない?ゆかりちゃんも知ってるでしょ?あの喫茶店で二人でイチャついてたアノショートカットの可愛らしい子。ちょっとしたことでもすぐヤキモチ焼くらしいのよ」
「へえ……そうですか」
彼女?本当に恵ちゃんのことをそう言ったのかしら?けど、話を聞いていると、むしろ……。
「それでね。『パッと見、クールそうに見えるけど、実はすごい子供っぽいところがあるんです』なんて言うのよ!あの子、愛嬌あるタイプだと思ったけど、彼氏から見ると違うみたいね。そういうところも面白いでしょ?そしたら、『困ることもあるけど、妬かれてると思うと悪い気もしないもんです』とか言っちゃって。もうノロケるの!最後には『とにかく、かわいい人です』なんて言っちゃって!こっちがあてられちゃうわよ!」
ホントウニね、若い人はいいわねえ。叔母さんなんて、最近言い寄ってくる男もいないし。ゆかりちゃんももてるんでしょ?ウソよ。本当は彼氏の一人や二人いたりするんじゃないの。私も10年ぐらい前までは、ご飯食べに行く男友達なんか掃いて捨てるほどいたのに、気がついたら、ここで姪っ子相手に晩御飯よ。年取るって嫌だわ……。
目の前で、微妙に失礼なことを言いながら愚痴りだしたフミコを見ながら、いつの間にか、ゆかりは微笑んでいた。
なーにが、かわいい人、よ!……生意気!
「あなたも今が花よ……ねえ、ゆかりちゃん聞いてる?」
「はいはい、聞いてます」
しょうがない。たまには先に折れてあげないと……。お姉さんなんだし。
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翌日、学校帰りの草壁が、ひまわりが丘の駅の改札口を出たところででっかく掲示されていた「ひまわりが丘夏祭り」のポスターをじっと見つめていた。
明日、か。
こっちに来て、こんな縁日があるって初めて知ったけど、駅にポスター張るぐらいだからかなり大きい縁日みたい。へえ、当日はのど自慢と地元有志のライブ、それから盆踊りか。
高所からナナメ俯瞰のようにして写した去年の祭りの様子の写真が掲載されているそのポスターを見ると、幅の広い車道沿いに並ぶきらびやかな香具師の屋台に挟まれた通りは人の頭で埋め尽くされている。
すごい人手なんだな。
夏祭りか……。一人で行ってもつまらないし、恵ちゃんと行く気にはなんとなくなれないし。あーあ、もっと早くに向こうと調停を結んどくべきだったなあ。
と思いながら、草壁がポスターの前でぼんやり立っていると――。
「だーれだ?」
背後から聞き覚えのある声とともに、柔らかい手のひらが草壁の両目を包み込んだ。
あっ、これは?間違いなくアノ人だ!
「ゆかりさん!」
振り返るとゆかりがにっこり笑って立っていた。
「祭り、明日だって知ってました?」
「はい」
「あやちゃんとね、一緒に行こうって言ってるんですけど、草壁さんもどうですか?」
「あっ、はい!」
どうしたんだろう、彼女急に機嫌が直ったけど。
と草壁が思っていたときである。
時間としては、彼が大学帰りに乗ってきた電車より1本遅い、同方面向きの列車の到着に合わせて改札を出る人の流れが多くなりだしたことに気がついた草壁が、改札のほうをチラッと見たあと、黙ってゆかりの手をとって、フロアの隅にあるドリンクの自動販売機の影へと彼女とともに走った。
「ちょ、ちょっとどうしたの?」
引張られるままに自販機の陰に誘われると、改札口から出てくる人の流れから隠れるように壁際にへばりつく草壁とともに、ゆかりも並んで壁に背をつけた。
「今、改札から、恵ちゃんが出てきたんです」
「そうですか……」
二人はしばらく、隠れるようにしながら自販機の陰に隠れながら壁にもたれていると
「あの……」
と草壁が口を開いた。
「遠回り、していきませんか?」
草壁に言いたいことは分かるが、わざとゆかりはイジワルをするみたいにとぼける。
「どうして遠回りする必要があるんです?少なくとも私にはそんな必要はありませんけど」
ゆかりがイジワルそうに笑うと、草壁が一瞬弱ったような顔で彼女を見た。
しばらく考えた後、彼は言った。
「じゃあ、明日の祭りの下見に行きませんか?二人とも慣れない場所で、迷子になったら困るじゃないですか?」
それから二人はいつも出る南口ではなく北口から駅を出ると、緩やかに上り勾配が続く並木通りの道を賑やかな駅前通を歩いてニュータウンを目指した。
駅前を出てすぐあたりはまだ屋台が出るような場所ではないが、明日の縁日にあわせてこの辺りから頭上には提灯が、運動会の万国旗みたいにしてずらっと頭上に飾られている。
夕映えどきにはまだ早い明るい町を歩いていると、縁日会場への順路を示す大きな立て看板や、当日の交通規制について書かれたポスターがいたるところに見える。
10分たらず歩くと、頭上の提灯飾りはさらに派手になった。
蛇腹のオーソドックスな提灯ばかりじゃなくて、まるで飴玉みたいな色をした提灯が、頭上にドロップ缶の中身をぶちまけたみたいにして、そこら中にぶら下がっている。夜になってライトアップされたらさぞ綺麗だろう。
「縁日って言ったら、ゆかりさんは最初に何を思い浮かべます?」
「わたし?やっぱりラムネ!」
「ラムネ、好きなんですか?」
「普段は別になんでもないんですけど、なぜか縁日にはラムネなんですよね……あの、ビー玉をプシューってやるのが楽しい」
「味じゃなくて、そっち……発想が割りと子供!」
「大きなお世話です」
そんなことを言いながら、二人は遠回りどころか、まったく帰る道とは正反対の方向を長い間散歩していた。
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さて、フミコ叔母さんである。
姉の登善子から、姪っ子の様子をたまには見に行って欲しい、と言われたことを、とんでもない拡大解釈をして始めた、ゆかりの素行調査。
調査の結果、フミコの目に映ったゆかりの日常というのは以下のようなものだった。
まず、普段の生活は、自宅とピアノ教室、そしてバイト先である喫茶店の往復で終始することが多く、遊びに出かけるとしても、バイト先の女友達と二人というのがほとんど。
異性との交友関係では、藤阪氏と月に一回程度会いはするものの、これまで帰宅時間が21時を越えたことはあまりないらしい。
隣室の住人、草壁との関係であるが、個人的に会うことはなく、顔を合わせたとき挨拶する程度という疎遠な関係――。
――というものだった。
よくそこまで調べたものだともいえる
しかし、喫茶店のバイトは把握していても、スナックで時々ピアノ演奏をしていることが抜け落ちていたり事実認識が甘かったりする。これが長瀬文子という人間なのだ。
しかし、そこからがまたフミコ叔母さんらしい。
どうなったか?
彼女は、その調査報告を簡単な冊子にして、ゆかりの実家へ郵送したのだ。
驚いたのは実家の両親である。
「おいっ!!なんだ、これはっ!?」
表紙に「ゆかり・レポート」と大きく書かれた冊子を手にとった、ゆかりの父、長瀬隆は思わず叫んだ。
ゆかりの日常について書かれてあり、最後のまとめとしては「生活は平穏無事なものであると判断されるが、引き続き調査を続行し……」という、物騒な一文で終わるその怪文章を読み終えると、妻である長瀬登善子に向かい
「『平穏無事』はいいが、お前はフミコさんになにをやらせてるんだっ!?」
驚き呆れながら説教した。
実の妹の奇行は、婿養子の隆よりずっとよく承知している登善子にしても、さすがにここまでするとは思って居なかった。
しかし、もう怒る気にもなれずにポツリと呟くだけだった。
「こんなこと、私頼んでません!絶対面白がってるだけよ……何考えてるのフミコは!」
第17話 おわり




