第16話 メロンソーダ
お話は前回から少し日も経ち7月も半ば近く、やっと梅雨明け宣言も出て夏本番の始まりそうな頃。
あれから学校帰りということになると、今木恵と「偶然」一緒になる日が続いた草壁。しかし、彼がどんなに鈍くったって分かる。偶然なんかじゃないことぐらいは。
学部も学年も違うので教室は違う。キャンパスは広いし、時間割だって違う。普通に帰って、こうも連続して出会うわけはない。
しかし、逃げる理由はない。
こっちは別に悪いことをしているわけでもないし、彼女も普通に友達みたいな感覚でいっしょに雑談しながら帰るぐらいなのだ。
だからこそ、ややこしいとも言える。あの人に変な誤解をされちゃうんじゃないか?と言う危惧はあるから。
そんな感じで、最近の草壁圭介は恵にベッタリされるがままの日々が続いた。
恵と草壁が一緒に帰るということは、ひまわりが丘の商店街を二人ならんで歩くということだ。しかも、駅側のアーケード入り口から進んでゆくと、恵の実家「今木整骨院」の少し手前には、ゆかりのピアノ教室があったりする。
ここのところ連続でツーショットの姿をゆかりに見られているのは確実である。
この件について、長瀬ゆかりがどのような反応をしているのかは不明。
草壁は怖いので、教室の中にゆかりがいる場合はそちらを見ないようにして通り過ぎるし、ここ数日二人で話す機会もない。
そんなふうにしていたとある日のことである。
1限目の授業に出るために割と早い時間に部屋を出た草壁。彼の場合、元に居た部屋からこちらひまわりが丘に移ることによって、毎日の通学時間が片道確実に45分程度のロスが生じていた。
以前のことを考えたら、ちょっとキツイと思うこともあったが、もちろん、前の部屋に帰るつもりなんか微塵もない。
だって部屋は結構いいし、お隣にはあこがれの女性。
その憧れの長瀬ゆかりが、その日、草壁と同じタイミングで外に出てきた。
普段の長瀬ゆかりは、喫茶アネモネのウエイトレスのバイトって言ったって、おおよそ昼前からの出勤が多い。
それ以外には朝早くから外に出なければならない理由はあまりない。
そんなお隣さんと玄関を出たところでバッタリ出会った草壁。
「あっ、おはようございます」
って調子で普段どおりに挨拶を交わすのだが、微妙に気まずい雰囲気もないわけではない。草壁自身が意識しすぎていたこともあるのだろうが。
ゆかりさん、こんな朝早くからバイトですか?はい、モーニングのお手伝いを。
そんな会話をしながら、でも、普段よりは口数が少ないんじゃないだろうか?と思っていると、やはり来た。
「大学、楽しそうでよかったですね」
ハイハイやっぱり、そう来ますか?何がよかったんですか??別にこっちのキャンパスライフが楽しかろうがどうだろうが知らない話じゃないですか?それを、今頃になってワザワザ何が言いたいのでしょうか?
「なんですか?それ?」
とぼけるように答える草壁。
来るぞ、来るぞ……。と思ってたらやっぱり来た。
「同じキャンパスにかわいい年下の彼女ができたんですもんね」
ニッコリ笑いながら草壁の顔を覗き込むようにして、そんな言葉を叩き込んでくるゆかり。なんで、帰る方向が同じ後輩と並んでいるだけで、いきなり「彼女」と言い出すんだ?それなら、ゆかりさんとはもっと何度も一緒に帰ってますけど。そう言いたかったが、あまり刺激したくないので、なるべく穏やかにこの場を収めることにする。
「そんなんじゃありませんから」
余計なこと言うより、はっきりと手短にそう断っておくほうが効果的だと判断。
「仲よさそうに歩いてたじゃないですか」
「そんなつもりはこれっぽちもありません!……むしろ迷惑してるぐらいですよ!」
そう言い切って、こっちの気持ちもさり気なく向こうに伝えておくつもり。
「どうだか……」
冷やかすような軽い調子でゆかりは笑うが、言葉に篭る皮肉な空気は隠すべくもない。
本当にこの人は、難しい、どうしろというのか?
ヤキモチ焼いてるなら、もっとストレートにしてくれたらいいんだけどなあ。
そんなことを話ながら、住宅街を抜けて商店街のアーケードに差し掛かると、二人のそんな会話はパタッと止んだ。
お互いになんとなく感じ取っている。
このあたりから、「クマ出没注意」である。
恵がいつやってきてもおかしくないようなところでこんな話を続ける気がしない二人は、自然とそこから無口になると、アネモネの前で二人は軽く手を振って別れた。
草壁はひまわりが丘の駅へと。
ゆかりは喫茶アネモネの店内へと。
「あれっ、ゆかりちゃんどうしたの?今日はやけに早いね」
初めてこんな時間にゆかりが姿を見たマスターが驚いた。
「たまにはモーニングのお手伝いでもしようかと」
シレッとした顔でそう答えると、ゆかりはエプロンを着けた。
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そんなことがあったある休日のこと。
長瀬ゆかりは親友の辻倉あやを誘って二人でお出かけしていた。
ゆかりがひまわりが丘に越してきてから始まった、二人のお付き合い。今ではすっかり仲良くなって休日になると二人して、買い物にでかけたり、評判のお店に行ってみたりすることはしょっちゅう。
「じゃあ、あやちゃん借ります」
「借りますなんて!夜は遅くなるの?」
「さあ……多分日が暮れるころには帰って来ると思いますけど。ちょっとお茶飲みに行くぐらいだから」
「それじゃあ、晩ごはん、うちで食べてく?お口に合うかどうかわからないけど」
「あっ、いいんですか?」
「どうぞ、どうぞ」
愛車ラパンに乗って、辻倉あやの家まで迎えに行くと、一緒に出てきたあやのお母さんとそんな会話を交わすことも、よくある光景。
最近では、あやの家にもしょっちゅう出入りして、すっかり馴染んでいたりする。
あやの実家は商店街アーケードの外れ、住宅街側出入り口付近で店をかまえる「辻倉電気店」というのは以前にも書いたとおりだが、こうして車に乗ってゆかりがお迎えに来る場合は、店舗出入り口の前にやってくるのではない。
住宅兼店舗となっているその建物の裏側が、一般住居のような小さな門とガレージのある玄関口となっている。普通乗用車がなんとかすれ違えるぐらいの細い路地に面したそちら側に、車を横付けにして呼び鈴を鳴らすのがいつものことだった。
当面はあまり関係のない話だが、簡単にその辻倉電気店出入り口の裏にある、辻倉家の住居側出入り口付近のことをちょっと触れておく。
結構古い石の門柱を閉ざすのは、サビが目立つ鉄製の門扉。それは、胸の高さぐらいまでしかない、こじんまりとしたもの。そこから背の低いコンクリートブロックの塀がちょこっと伸びたすぐとなりが屋根つきのガレージになっていて、普段は仕事に使う軽トラを駐車する車庫、兼、電気工事の際に引き上げてきた古い機器などのガラクタをうず高く積んである倉庫、というか不用品置き場となっている。
一応庭はあるが、ネコの額のような小さなもので、物干し竿を2本渡して、植木鉢なんかをいくつか並べたらスペースらしいスペースはもうなかった。
本当に今のところはどうでもいい話である。
ということで、話を、ゆかりとあやのほうに戻す。
今回のお誘いはゆかりのほうからだった。
「スイーツがおいしそうなカフェがあるから行って見ない?」
って電話がかかってきたのが、一昨日。
そういうお誘い自体は、しょっちゅうのことで、どちらからでもそんなことを言い出して、二人でお出かけというのは、珍しくもなかった。
しかし、車に乗るなり、ゆかりのほうから、「あの今木さんって子と、あやちゃんは仲いいの?」と言い出したときに、あやには、今日のお誘いの本当の目的がなんとなくわかったような気がした。
ははああん、これか!
「別にそれほど親しくないです」
「あっ、そうなの……でも同じ商店街に長くいるんでしょ?」
だから、何なの?まるで詳しくなかったらいけないみたいな言い方。そういえば、草壁さんと今木さんが仲良さそうに一緒に歩いている姿、何回か見たけど、気になるなら、私にじゃなくて草壁さんにでも聞いたらいいのに。
「気になるんですか?」
けど、面白いからおちょくっちゃえ!この人、こういう時、面白いから。
って感じであやがニヤニヤしながら隣でハンドルを握るゆかりの顔を見た。
「別に気になってるわけじゃないけど、喫茶店のお客さんでもあるから、そのお客さんの情報って知っといたほうがお話するのにも役立つでしょ?そういう接客のための情報を、ちょっと知っておきたいな……」
そ知らぬ顔で、滔々とそんなことを話し出すゆかり。
うわっ、また、この人はこんな持って回ったことを……。
ウンザリ思ったあやが、それ以上ゆかりに話させないようにして口を挟んだ。
「私も詳しくないんです!学年違うから遊ぶこともなかったですし!……それに、昔はちょっと違うかなあ……って思うこともあって……」
ん?違う?何が?
あやの言葉のトーンが少し低くなったのに驚いたゆかり、助手席のあやをチラッと確認した。
あやの言うところによると、要は性格がちょっと違うという感じがして、お互いそれほど積極的に接近しなかったというのだ。
今木恵というのは、あやの目から見ると友人関係は比較的派手。男関係ではない、同性との友人関係である。
クラスや友人たちの中の、中心的な存在というわけではないが、常に敵を作らないようにして器用に立ち回る。
ただ、親友みたいな親密な仲の子はいないみたいで、交友関係は広く浅く。
友人関係についていうと、同じように浅くはあったが広くもなかったあやから見ると、派手な子、と見えていたらしい。
海岸近くまで車を走らせると、通りも片側3車線、4車線と道幅もどんどん大きくなっていく。夏の日差しを遮るビル群の大きなガラス窓が並ぶ、アーバンな町並みを通り抜けて、さらに海沿いを目指す。
近くに観覧車が見えるあたりまで来てから、パーキングに車を止めて、人ごみでにぎわう通りを、家族連れやカップルに混じってちょっと歩くと目指すお店に到着。
長く伸ばした麻布張りのオーニング庇の下、植栽の低木に囲まれたガラス張りのお店。強い陽射しを遮った涼しげな外観で、ちょっとセレブなビューティーサロンみたいにも見える。お持ち帰り用のスイーツがずらっとならんでいるパティスリーになっているのが1階。そこから階段を登ると、注文に応じて作ったデザートがいただけるカフェともなっているそのお店。
情報誌なんかにも、ときどき登場する評判のお店らしい。
明るい夏の日差しに照らされた2階のカフェは、ネイビーブルーとフローラルホワイトの2色のコントラストを利かせたソファーが並ぶ落ち着いた印象のちょっとシック空間である。
休日のお昼だが、家族連れというのは少ない。カップルとかちょっとお年を召した方々が客層のメイン。
というのは、このスイーツ専門カフェ、多少お値段が張るのだ。
「ゆかりさん、こっちのサイフの具合とか考えずにたまに洒落にならない店に平気で連れてきますよね?」
頑丈そうな皮の装丁をほどこされた大きなメニューを覗きながらあやが思わず呟いた。
デザートがおいしいお店。そうは聞いていたが、お茶とデザートを頼んだ場合、安くしたって予算3000円は掛かる。思っていたのより倍はする。
「まずかった?」
メニューを広げたあやが少し目を丸くしているのを見たゆかりは、申し訳なさそうな顔をした。
3000円程度の所持金は持っているとしても、相手はただの学生である。
「いいえ、それぐらい持ってますけど……」
普段は、お金持のお嬢様って雰囲気をあんまり出してこないから安心しているとたまにこんなことがある。
「昔から顔は知ってたけど、なんか苦手で……」
グラスの中でミルクとコーヒーの層が混ぜ合わされずに白と黒の二つの層をしている、変ったカフェオレを飲みながらあやがポツリと呟いた。ほんのりと甘味のあるミルクと、コーヒーの香りが最高の状態で口の中で混ざり合う。
二人の話題は結局、今木恵に戻っていった。なにしろゆかりが、話題を逸らそうとはさせてくれない。あやのほうは、顔は知っているが、それほど情報を持っては居ないにもかかわらずである。
「一種独特の雰囲気があるわねえ、あの恵ちゃんって子は……」
ゆかりの飲み物はマローブルーのハーブティー。
カッティンググラスのポットの中ではサンゴ礁のような透き通った青いお茶が甘い芳香をただよわせている。
「そうですか?ゆかりさんの目からは何か独特な印象があるんですか?」
細いアメ細工を乗っけたフランボワーズのシブーストには、ビターチョコのアイス。口に入れると上にさり気なくかかった焦がしバターの香り。
お値段だけのことはある。仕方ないか……おいしいし。
そんなことを思いながら、あやが目の前のゆかりをじっと見た。
「な、何が言いたいのよ!」
この話題になると、変に余裕のなくすゆかりが、からかうあやをタシナメるように語気を強めたところにタキシード姿のギャルソンがサービスワゴンとともにやってきたので、一度会話は中断。
ゆかりご注文のクレープシュゼットは、目の前でフランベをしてみせるパフォーマンス付きである。
もったいぶった様子でグラスに注いだコニャックを火にかざすと、グラスから5色の炎をが揺らめいた。それをクレープのうえにさっと回しかける。
瞬間、オーロラのようなホムラがクレープの上を走って、鼻をくすぐる甘苦い香り。
それを皿に移し、横に苺とリンゴのコンポートとバニラアイスを添えて……。
その途中でゆかりがギャルソンに、下のお店で売っているチョコレートおいしそうなんで、ここで頂きたいんですけど、注文できますか?って聞いた。
その言葉を受けたギャルソンがやがて、先ほどのものとは別のメニューを持って戻ってきた。
ん?まだ何か食べるつもり?正直こっちは予算きついんだけど?と思いながらあやが見ていると。
「あやちゃん、好きなチョコ、注文して。付き合ってくれたお礼にわたしからのおごりにしてあげるから」
「あっ!いいんですか!じゃあ、ゴチになります!」
メニューにはチョコレート見本の画像が並んでいる。
褐色地の表面にいろんなデコレーションがほどこしてあるそのチョコの粒たちは、見ていると猫目石やヒスイのカタログみたいに色とりどり。
きれい、これおいしそう。とかいいながら、二つ三つオーダーしたあや。しかしその値段にもちょっと驚いた。
これ、大きさチロルチョコみたいなのに、値段は回ってない寿司ほどする……。
お父さんとお母さんにお土産に買って帰ろうかと思ったけど、これじゃあ手が出ない。
「私が誘うといっつも来てくれるけど、彼氏ほんとにいないの?」
結局、あやをつついても今木恵の情報が余り出てこない様子なので、普通の会話に戻るゆかり。
「いませんよ。男の人とのお付き合いとか真剣に考える気がしないんですよねえ……なんか……」
ルックスカワイイからもてるだろうに、どうもそう方面にあまり積極的でないあや。なんでもちゃんとお付き合いした男性はいないらしい。
今も、こうやってゆかりに聞かれて、まるで他人ごとのようにそんなことを暢気に喋っている。基本そういう方面に淡白な様子。
「恋愛恐怖症とか?」
若干、自分とダブらせながら、ゆかりが聞いた。彼女自身には、その言葉が思い当たらないわけでもない。かつてそうだったこともあったから。
「まさか……感覚が子供なんでしょうか?でも、ちょっとしたトラウマはあるんです」
ゆかりがかつて不倫の恋に破れて自殺未遂を起こしていた過去までは知らないあや。ゆかりの言葉が少し大げさだなと思いながら、何気ない調子でこんなことを言い出した。
中学時代の辻倉あやは陸上部に所属していた。得意はハードル走で、県大会レベルぐらいの実力はあった。その後、進学は地元の女子高に行くのだが、ここでも最初は陸上部に所属だった。
「その陸上部でのことなんですけど……」
ゆかりのおごりのガナッシュをポイッと口に放り込む。味もそうだけど、歯ざわりが最高。固すぎずネトつかず。
「そういえば、あやちゃんバドミントン部の前に陸上やってたって言ってたもんね」
そこにいた3年生の先輩部員。体育会系のノリと言えばそうとも言えたし、ちょっとスパルタとも言えた勝気そうな目をしたその人は、入部早々からあやに目をかけてくれた。
キャプテンではなかったが、部内での発言力なんかは、キャプテンとほぼ肩を並べる存在。
そういう人に可愛がられると、部内でも居心地はよかった。その当時は内気な性格の彼女にとってみれば少なくとも、いじめられるとかそういう心配はなかったから。
この先輩がある日、走り終えたあやのもとに「ちょっとフォームが乱れてない?」などと言って近づいてきた。そうですか?と、聞き返すあやにむかって「イメージをしっかり持たないと!目を閉じて、あなたの理想のフォームを思ってみて」と真顔で言うので、トラックのど真ん中、他の部員たちも練習する中で言われたとおりに目を閉じた。
「ふんふん、で、どうなったの?」
「キスされました。みんなが見ている前で」
どうもあやにはいい思い出ではなかったようだ。少し泣きそうな顔をしながら口をへの字に曲げた。
「あるのね、そういうの……女子高って……」
絶句するゆかり。
「あれ、わたしのファーストキスだったのに、よりにもよって女の子なんて……」
思わず机に伏せてしまうあや。時々思い出しては、一人でジタバタすることがあった。
「あやちゃん、モテたでしょ?」
ゆかりにそういわれた、あや、ちょっとうんざりと言った顔になりながら。
「突然手紙渡されたり、抱きつかれたり」
「結構ストレート!」
「それもね、『女の子どうしじゃん!何恥ずかしがってるの?』見たいな感じでね、完全にセクハラまがいのことされたり」
「うわぁ……」
「女子ばっかりで男子の目がないじゃないですか?だからやることが大胆なんです」
「へえ」
「告白するにしても学校独自の古風な告白方法がいろいろ生き残ってたりするんですよねー。たとえば、ラブレターなんか」
「ラブレターか……ちょっと古風?今でもそういうの普通にあったりしない?」
「それがね、便箋には何も書かなくてもいいんです」
「真っ白け?」
「書いてもいいんです。で、その便箋にバラの香水を振りかけてあると『あなたを抱きたい』という意味で、ラベンダーだと『あなたに抱かれたい』」
「ネコとタチってことね?」
「……ん?なんですか?それ?」
キョトンとなるあや。この子、とぼけてるの?とゆかりは思ったがそうでもなさそう。やはりそういう方面にはオボコイところがある様子。
「で、あやちゃん、バラとラベンダーどっちが多かったの?」
「よく覚えてません」
「そんなにもらったんだ!」
「私、女子高選んだのは、のんびりすごせると思ったからなのに――」
カフェオレを飲み干したあや。まるで事故現場からの生還者みたいな顔つきになってゆかりに向かってこう言った。
「――共学のとき以上に、スリリングな毎日でした」
ゆかりはおもわず、飲んでたハーブティーを吹き出しそうになった。
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「僕は、アイスレモンティー」
「じゅあ、こっちは……メロンソーダ頂けますか?」
一方の草壁である。
相変わらず、キャンパスに行けば恵に付回されているような状況だった。
この日も、急な休講で暇を持て余しているところに「偶然」通りがかった恵。どうしたんですか?暇そうにしてますけど。と聞かれて、実はね……。みたいに事情を話したところ、彼女も「私も、次の時間空いているんですよねえ」とシレッとした顔で言う。
本当かどうかはわからない。草壁は恵がどんな授業を取っているかまでは知らないのだから。
こういう中途半端に時間が空くと、困るよね?はい……先輩は、そういうとき時間つぶしどうしてるんですか?学食行ったり、空いてる教室で自習でもするか、外でお茶飲むとか……。
「学校の外にいい店あったら教えてくださいよ。私まだ入ったばっかりでこの辺詳しくないから」
ぽつりと呟いたそんな言葉をしっかりと捕まえた恵が、目をキラキラさせながらおねだりするようにそう言うと、草壁としても断りづらかった。
という訳で、大学を出てすぐのところでやっている普通の喫茶店に入った二人。
穴場というほどの場所ではないが、普段はおばあさんが一人でやっているその古めかしい喫茶店は、客も自分みたいな学生ばかりなので、コーヒー一杯で1時間ぐらい粘っても、気を使わないですんだ。
「それに、ここのお店、カレーが結構おいしいんだよ」
「他にもそんな場所があったら色々と教えてください」
つまりは、またどっかのお店に行きましょうってことか?
なんか、知らない間にすっかり、ぬかるみに足を取られているみたいな気分になる草壁だった。
自家製カレーは確かにおいしいと評判だが、いつ来ても業務用ピラフの匂いがするこのレトロなお店は、多分アネモネよりも古いはず。
何しろ、壁にはややホコリじみた鹿の首の剥製が飾ってあるようなところなのだ。
座っているだけでフォークソングの流れる70年代にトリップしたような気分になる。
丸い顔した皺くちゃな店主のおばあさんは、どちらかというと無口。
カウンターの様子は知らないが、そのオバアサンの年相応にスローテンポな動きと、それに反比例するような速さで差し出されたレモンティーとメロンソーダを見ると、おそらくどちらも紙パックにで入っているものをそのままグラスに移して、ハイどうぞっ!っぽい。
二人はそのオバアサンからもっとも離れた奥のテーブル席に向かい合って座っている。
頭上のテレビでは夏の高校野球の地方予選の中継が垂れ流し。
席についた頃には、先輩の実家でどこなんですか?とか、高校のとき部活してました?とか、そんな雑談を明るく交わしていた恵だったが、オバアサンがメロンソーダを持ってきたあたりから、無口に変っていた。
なんだろうと思って、目の前の恵の様子を気にする草壁。
ピッと破った袋から取り出したストローで、鮮やか過ぎるエメラルドグリーンの炭酸水をかき回す動作をしながらも、それに一向に手をつけようとしない恵。
フチの少しくびれた短いステムのグラスからカランコロンと乾いた音だけがしばらく響いていた。
そうしながら、チラッと目の前の草壁の様子を確認するように目をあげる。
一瞬、目があってちょっとドキッとなった。普段、朗らかな恵の探るような真剣な目つき。そんな目つきをされる覚えは、ゆかりからはあっても恵からはあんまりない。
やがて、恵は目の前のメロンソーダのグラスを脇へそっと押しやった。
ん?せっかく頼んでおいて飲まないのか?と思っていると
「私、最初知らなかったんですけど――」
草壁をチラッと見ながら、恵が突然そんなことを言い出した。
「――商店街にピアノ教室あるの、先輩知ってますよね?」
思わず、飲んでいたレモンティーを噴出しそうになる草壁。いきなり切り込んで来た!いや、うっかりスキを見せるわけにはいかない。
もちろん、噴出すような失態はすることなく、そ知らぬ顔で
「うん、知ってるよ」
「この前、喫茶店に座ってたじゃないですか?あの人でしょ?私も何回か見たことあるから知ってますけど」
「うん、そうだね……」
「私、知らなかったんですよねえ……」
またもや、草壁をジッと見てくる恵。
目を合わさないようにしながら、手元のお茶を飲むことに集中。
「あの先生もアネモネで働いてるんですね?」
「あ、知らなかった?まだ、このまえ働き出したばかりだからね……」
それにしても、いきなりそこから話が始まるか?一体、彼女は何を勘付いているのだろうか?とにかくあんまり目を合わさないほうがいい。
「ところで先輩は付き合っている人はいないんですよね?」
その話は、以前にしただろ?何回同じ個と聞くんだ?
「うん、いないよ」
大学では普通なら授業しているような中途半端な時間のせいか、客はカウンターでスポーツ新聞を読んでいる年寄り一人。言葉が途切れると、頭上のテレビからの高校野球実況だけが淡々とした調子で流れているだけである。
「でも、好きな人はいるんでしょ?」
カンッと、乾いた音が小さく響いた。打球はピッチャーの足元を抜けた。
「どうだっていいだろ?そんなこと」
バッターランナー一塁へ!ボールはセカンドがキャッチして3塁へ
「辻倉さんですか?」
「さあ……」
3塁ランナー、タッチ!アウト!
「じゃあ、あのピアノの先生ですか?」
送球1塁へ……。ランナー間に合うか?!
「メロンソーダを……」
1塁アウト!ゲッツー!!
そういって、恵の目の前に彼女が一旦脇へどけたメロンソーダをとぼけながら差し戻す草壁。
僕らのことは放っておいて欲しい。ただでさえ、アノ人との関係はややこしいのだから。
「ごまかさないでください!」
目の前に戻ってきたメロンソーダを無視しながら、恵が厳しく追求しようとする。彼女としては、とりあえず本命を確認することが必要だった。
が、勘でなんとなくわかるのである。多分、ピアノのほうだと。
だから、僕らのことは放っておいて欲しい!
しつこく食い下がられると草壁のほうもムッとなった。
「はっきり言っておく。僕に好きな人がいようがいまいが、君にはまったく関係ない話だから!」
草壁にそうはっきり言われた恵、ひるんだようになりながら、口をつぐんだ。
深追いは禁物か……。
一回の裏、先制のチャンスでしたが、残念ながらモノにすることは……。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
草壁を怒らしてしまったからかは良く分からないが、それ以来、恵が過度にすりよってくることはなくなった。
好きだったわけではなかったが、そうなるとなんとなく淋しいものでもある。
一人の帰り道で「あれ、今日は恵ちゃんいないのかな?」とか思いながらキョロキョロしていたりもして。
『君にはまったく関係ない話だから』なんて言葉は少し言いすぎだったかもしれない。
傷つけたなら、ちょっと申し訳ないなあ……。
なんて思っていたある日のことである。
商店街を通っていつものように、家まで帰ろうと思っていたところを、古道具屋の茂夫叔父さんにとっつかまった草壁は、ちょっとの間店番を頼まれた。
いつもこっちの都合なんてお構いナシに、自分勝手に仕事を押し付けてくる叔父には少々うんざりもしたが、ただの店番ぐらいならいいかと思ってとりあえず引き受けた。
何しろ、ガラクタしか置いていないような古道具屋。客なんてほとんどありはしない。店番なんてのは要するに店の中でぼんやりしていたらそれで済むのである。
家帰ってやろうと思ったレポートでも、ちょっとやっとこう。
店内には、気のきいたテーブルとかカウンターなんてのはない。その代わりに店舗の真ん中に一文字に据えてあるガラスのショーケースの上に参考書やらレポート用紙を広げる。
ショーケースって言っても、並んでいるものと言ったら、フチのかけた茶碗とか何十年も前の修学旅行生のお土産みたいな中途半端な小物がならんであるだけである。
ちょっとかび臭い店内で一人せっせと書き物をしていると、開けっ放しの出入り口扉越しに、声がかかった。
なぜ開けっ放しかと言うと、冷房代がもったいないからである。店の商品の取り扱いのことには口うるさくはないが、それだけはシツコイぐらいに何度も言われていた。冷房付けたらバイト代から電気代差し引くからな!と。
「先輩、お店番ですか?」
見上げると恵が立っていた。
先日以来、彼女気まずい思いをしているんじゃないかとちょっと心配していたが、恵のほうはそんなことは何もなかったかのような今までと同じ明るい表情だった。
見せてもらってもいいですか?と言いながら店の中に入ってくる恵。
珍しそうにあたりの商品を見ているが、彼女にはわかってるんだろうか?ほとんどゴミみたいなものだということが。
「この白い着物、高いんですか?」
「買う?多分、どこかのお遍路さんの着古しだよ?」
「なんか憑いてそう……いらないです」
「東京タワーのテナント……これも売り物ですか?」
「買う?」
「いらないです。わっ、足元に置いてあるお茶碗、割っちゃった!ごめんなさい……」
「いいよいいよ!それゴミだから。こうやって、破片を履き集めて、コンビニ袋に入れて……捨てたら、おしまい。それより、ケガなかった?」
「はい……いいんですか?売り物ですよね?」
恵がうっかり足元に置いてあった茶碗を割ってしまうのも無理はない。とにかく、それほど広くもない店内にいっぱいガラクタが展示してある、というより放置してあるのだから。
棚の上に並べられないようなものなんかは平気で床に置いてある。
そんなガラクタだらけのせいで、狭い店内は余計、狭苦しく感じる。置いてあるものからして、見ていて気のめいるような薄汚れたものだらけ。
ちょっと整理されてあるゴミ屋敷、である。
恵の登場によって、それまで小汚い店内にじっとしていた草壁も一息ついたような気分になりながら、店の外に出た。
恵ちゃん、あんまりこの前のこと気にしてないのかな?と、ちょっとホッとしながら。
「ずっと、薄暗くて狭いところに縮こまっていたら、体なまるな……」
アーケードの通りに一歩出ただけで、オバケ屋敷の帰りみたいな気分がした。
軽く伸びをしながら、首を右に左に捻って凝りをほぐしていると、その後をついて出てきた恵が草壁のそばにやってきた。
そして、草壁のほうに手のひらを差し出しながら
「ちょっと手を貸してください。」
「ん?」
手相でも見てくれるのかな?と、そのとき草壁はなぜかそんなことを瞬間思った。
言われたとおり、自分の右手を恵に預ける。
恵は自分の左手で手首を支えるようにして持つと、右手でもって草壁の指を1本1本、軽くつまむようにしながら扱いた。
「こうして指を刺激するだけで、疲れが取れてくるんですよ」
言われて見ると、ジンジンするような痛きもちいい感触。
「ウチのお母さんがリフレクソロジーやってるから、私もちょっとこういうの得意なんです。先輩、気持ちいいですか?」
「なんかいい感じ!」
見ていると、手馴れた感じでリズミカルに腕全体を使いながら、指の1本1本をほぐすと、こんどは、この水かき部分にも色々とツボがあって効くんですよ、とか言いながら、キュキュッと人差し指と親指でつまんで刺激。
途中、チラッとチラッと、草壁の顔色を探るように目を上げて、ちょっとイタズラっぽい笑みを浮かべる恵。「ちから加減痛くないですか?」とか「ここ、ちょっと凝ってますね」とか言いながら笑いかけてくる。
ぜんぜん、すごく気持ち良いよ、とか答えながら草壁も自然と笑っていた。よかった、恵ちゃんあんまり気にしてないみたいで。と、本命とかではないクセに草壁のほうも、ちょっと優柔不断でもあった。
しかし、よく考えてみると、そこは店の先のアーケードの下なのであった。
「ほら!あやちゃん、見てご覧!お向かい、面白いことになってるよ……」
ちょうど斜向かいにある喫茶アネモネでは、お向かいの店先で手を握り合いながら、お互いにニヤニヤ笑ってゴニョゴニョやっている草壁と恵の姿が丸見えだった。
客がいないことをいいことに、マスターが、窓際のテーブル席の椅子の上に膝立ちに乗っかって、ガラスにへばりつくようにしてそれを見ていた。
「マスター!何やってるんですか?」
カウンターのあやが飽きれた。そこまで行かなくても、ここから十分にオモテの様子は見えるし。
まあ、多少珍しい光景ではあるが、道端で手を握り合いながら突っ立っているだけのカップルの姿がそれほど面白いか?
面白かったのである。
なぜなら、そこから見えているのはアーケードの通路に突っ立って手を握り合っているカップル。
――だけではなかった。
草壁の背後にあるガラス張りの店舗の窓越しには、仁王立ちに突っ立って、そのカップルを睨んでいる人影の、苦りきった顔までもがよく観察できたのだ。
そのお店「ひまわりが丘ピアノ教室」という。あるじの名前を長瀬ゆかり。
教室に対して背を向けて立っている草壁には、もちろん今は見えていないのだが。
恵のハンドリフレの仕上げは、マッサージした手を両手のひらで包み込みながらゆっくりさすって終了である。
「はい、これで一応のおしまいです。本当は足のほうが効果あるんですけど、ハンドのほうも気持ちいいでしょ?」
「うん、ありがとう、なんかすごい、体が軽くなったみたい」
と、草壁もまんざらではない様子。
恵は、草壁の手を両手で包みながら、にっこり笑うと
「このまえはしつこくてごめんなさいでした。今度もっと気持ちいいマッサージしてあげますね」
と言うと、ニコヤカに手を振って自宅である整骨院のドアをくぐって帰っていった。
しばらく、同じように手を振って恵が消えてゆくのを見送っていた草壁だが、そのとき、ふと横手に視線を感じた。ん?と思ってみると、喫茶アネモネの窓際でマスターがニヤニヤしながらこっちを見て突っ立っている。
あっ、見られた……。
そりゃそうか、こんなアーケードの通りの真ん中近くであんなことしてたら目立つよな……。
いや、待て!なんだ、あのマスターのニヤニヤ笑いは?さてはハンドリフレクソロジーじゃなくて、ただ単に手を握り合ってただけと思われたのか?
けど、そう思われても仕方ない……ん?!!
おいっ!ちょっと待てっ!そこから見えているってことは、背後のあそこからも?
ゆっくりと後ろを振り返る。
居ませんように、どうか居ませんように。おじさんにとっ捕まった時には、教室開いてなかったから油断してたけど、こっちが店の中でレポート書いている間に、教室開いてたのか?いや、居ませんように。
そうっと、首をめぐらす。
別に、速くやってもよかったが、少しでも気配を殺したほうがいいんじゃないかという、まったく無駄な気遣い。と、同時に、なんか見るのが怖かった。
しかし、明らかに、あのマスターの顔は「草壁!うしろ!」だよなとは思う。
って思ったら、居た。こっち見てる、ゆかりさん。
わっ、メチャクチャ不機嫌な顔。
こっちと目があって、そして「わたし、怒ってますから」みたいな顔で一度にらみつけたあと、教室のカーテンをサッと閉めちゃった!
アカン!あれはアカン空気だしてる!
どうする?このまま放っておく?いや、傷の手当は早いほうがいい……。
一か八か!行け!
それと同時に気がついた。
恵ちゃん、ときどき、こっち見ながら、ニコニコしてたけど、彼女からは僕の背後は見えてたはず。
あの笑顔、まさか、ゆかりさんが見ているのを承知でやってたのか!ことによったら、僕にではなく、背後のゆかりさんに当て付けてたのかもしれない
やられた!
とにかく、なんとかしないと!
この状況をどう打開するか具体的なアイデアはなかったが、そういえば、ピアノの録音させてもらう約束があったことだけを頼りに、なんとかゆかりへのフォローをしておかなければならないと判断。
大急ぎで、古道具屋に引き返そうとしたところで、ちょうどタイミングよく用事から帰ってきた叔父への挨拶もそこそこに、広げていたレポートやら参考書をカバンに詰め込むと、あとからでは払ってもらえない可能性大なバイト代の請求もほったらかして、とりあえず、お隣の教室に飛び込んだ。
「おおっ!草壁クン、ゆかりちゃんの教室に血相変えて飛び込んでいったけど、どうなるんだろう?……カーテン邪魔で中の様子がわっからないんだよなあ……」
「マスター、何時まで、そこで突っ立っているんですか?お客さん来たから、仕事してください!」
いつの間にか、やってきた客から注文を聞きながら、あやが叫んだ。
マスターが座るテーブル席の隣に陣取った、カッターシャツ姿のサラリーマン風の3人連れがちょっとびっくりしてあやの顔を凝視するほどの声を上げながら。
「こ、こんにちはー」
まるでキャッチセールスか訪問販売みたいな、わざとらしい笑顔でドアをくぐる草壁。
教室中央にあるグランドピアノの前に座っていたゆかりは、彼のほうを見ようともせずに、冷たく言った。
「何しにきたんですか?勝手に入ってこないでください」
ここで怯んでは負けだと思っているから、ゆかりの不機嫌を無視するように無理に笑顔を作る草壁が、カバンをごそごそと探って取り出すICレコーダー。
「この前、約束したでしょ?ピアノの録音をさせてくれるって」
ゆかりは草壁をあえて無視するように、目もくれずに一言
「もうすぐ、生徒が来るから、今日は帰ってください」
「それなら、教室が終わるまで待ちます」
とにかく、図太いぐらいで行ってやる。
「……」
実は、まだ生徒が来る時間まで、たっぷり1時間はあったりする。ずっと待たれていたら、とっさのウソがばれる。そういうわけで、ゆかりも思わず言葉に詰まっていた。
草壁にはそんな事情はわからないが、とにかく押すしかないって感じで、どんどん話を進めた。
「じゃあ、よろしくお願いしマース!」
そういいながらレコーダーをピアノの上に置く。ここで引くなよ、ここで引くなよ。
勝手に目の前にそんな機械を置かれて、ピアノの前のゆかりも声を上げて抗議した。
「ちょ、ちょっと、誰も演奏するなんて言ってないです!」
「都合のいいときに、演奏するって言いましたよね?」
「わたしの都合です!」
「生徒が来ないんだったら、都合はいいはずでしょ?」
減らず口を叩く草壁を睨むと、向こうも「違いますか?」って感じで平然として目を逸らさない。
もう!変な約束するんじゃなかった!と、ちょっと腹がたったが、向こうの言い分に反論できない。
面白くないけど、弾いたらいいんでしょ?
「やればいいんでしょ?やれば……何?チューリップ?ドレミの歌?」
「モーツァルトとかベートーベンとかで、もっとらしくて手軽なのあるでしょ?!」
多分、本当にドーハドーナツノドーってやりだすと思う。ここはきちんと曲目の縛りをつけておかないと!
この前やってくれた幻想協奏曲がいいと草壁はリクエストしたが、ゆかりはゆかりで、今譜面がない、だとか、ブランクがあってうまく弾きこなせない演奏を音に残したくないとか、とにかく理由をつけてごねる。
本当に、この人はつむじを曲げるとやっかいだ。
「じゃあ、これなら、簡単だから知ってるでしょ?僕、曲名しらないけど……」
と言いながら、鼻歌で旋律を歌ってみせる。
「バッハのメヌエット、ト長調、ですか?それでいいんですね。じゃあ、やりますよ」
という訳でゆかりが演奏したのだが。
不機嫌です、という内心の声を思いっきり鍵盤にぶつけた結果、大変荒々しく早いバッハとなった。
横で聞いていると、バッハっていうより、「あれマツムシが鳴いている、チンチロ チンチロ チンチロリン」だ。
そして、演奏が終了すると、やっぱり仏頂面のまま
「はいはい、演奏終了したので、帰ってください……」
そういって、本日レッスンで使用する楽譜を整理しようと、ピアノから立ち上がって脇に小さな本棚に向かうゆかりの背後で草壁は、平気な顔をしながら、レコーダーを操作していた。
「とりあえず、聞いてみましょうよ……」
そんな草壁を無視して、ゆかりが本棚の楽譜を必要もないのに、何冊も出しては戻ししていると
「アレッ!」
ICレコーダーのディスプレーを見ながら草壁が思わず小さな声をあげる。
「どうしたんです?」
釣られるようにゆかりが振り返った。
「これ、今日初めて録音したのに、中にファイルが3入っている。1つはさっきのだとして、あとは?……しかも全部のファイル名が文字化け……」
首をかしげる草壁。
そんなこと私に言われてもわからないですよ、ってゆかりの言葉を聞きながら、草壁はレコーダーを操作しだした。
「とりあえず、何か聞いてみよう」
草壁が不思議そうにしているので、なんとなくその音声ファイルが気になったゆかり、ふと手を止めると、ピアノの上に置かれたレコーダーのほうに向き直って耳を傾けた。
レコーダーからはかすかなテレビの録音かなにかの音が響いてくるが、小さくてよく聞き取りにくかった。そこで、草壁は音量を思いきって上げて見た。
どうやら野球中継の録音らしい。それ以外にもカチャカチャと皿がぶつかるような音もかすかに聞こえてきた。
と、ここで、突然、かなりの大音量で人の話し声がレコーダーから響き渡った。
”商店街にピアノ教室あるの、先輩知ってますよね?”
先日の恵ちゃんとの会話だ!
何時の間に、録音してたんだろう?知らない間にスイッチ押しちゃってた?
そして、いっしょに聞いているゆかりにも声だけで、誰と誰の会話かはすぐに推察がついた。
呆れたような顔をして、思わず声を上げた。
「何これ?恵ちゃんとの会話をこっそり録ってたんですか?趣味悪い……」
「してませんよ!そんなの録ってたら聞かせるわけないでしょ?」
ゆかりにジロっと睨まれながら草壁も大きな声を出した。
まあ、それはそうだろうな、とゆかりのほうも思った。間違って録音でもしちゃったのかな?とりあえず、会話の続きが気になる。私の名前がのっけから出てくるのはどういうことだろう?二人は私について何を話していたのだろうか。
二人はレコーダーから流れる会話にじっと耳を傾けた。
草壁も、こうなったら、途中で止めるわけにはいかなかった。本当に覚えはないし、あのときの会話は別にゆかりに聞かれてマズイことを話しているわけではない。また、途中でやめたら余計にいやらしい感じにもなる。
”でも、好きな人はいるんでしょ?”
”どうだっていいだろ?そんなこと”
”辻倉さんですか?”
”さあ……”
”じゃあ、あのピアノの先生ですか?”
ここまで黙って聞いていたゆかり、目の前で、じっとレコーダーを見つめている草壁のほうへ視線を向けた。彼のほうは、ゆかりにじっと見つめられていることには気づいていない様子。
彼、なんて答えるんだろう?聞いてたらあやちゃんのこと好きかって言われて言葉濁して……。はっきりしないのね。私のことも、ぼやかして逃げるんでしょ?どうせ……。
”無論、そうだよ”
えっ?言い切った?そんなこと言っていいの?だって私、彼のこと受け入れるつもりないって言ったじゃない。それなのに……。
録音はそこで終わっていた。
草壁は草壁で、ゆかりと並んでレコーダーの録音を聞き終わると、急にがっかりとなってしまっていた。
(あーあ、なんで、そこで『メロンソーダーを』なんて、その場しのぎのごまかしを言ったんだろうなあ……はっきり言っちゃえばよかったのに、隠す必要ないんだし。おまけに、それを当のゆかりさんに聞かれて……これじゃ、火に油注いだだけかもしれないなあ。後先考えずに、飛び込んで失敗だったか?)
そう思って、草壁が一人肩を落としていると、少し優しい表情に変ったゆかりが呆れたような顔をして草壁に言った
「ホント、何言っちゃってるんだか……録音、まだあるんですよね?立ち聞きもなんだから、そのソファーにかけますか?お茶ぐらい出してあげてもいいですよ?」
急なゆかりの変化に、草壁はキョトンとなるばかりである。
それから、向かい合って教室の片隅のソファーセットに腰掛けた二人。
先ほどアーケードの真ん中で手を握りあっていた顛末を草壁から説明を受けたついでに、二人はそのハンドリフレクソロジーをめいめいで実践してみることにした。
お互い自分の手でもって、キュッキュっとつまんだり、捻ったり、押したり……。
「ここが合谷ってツボで、消化器系に効くんだとか……」
「へえ」
「あと、指抜きって言って、二本の指で挟んで、勢い良くポンッと引き抜くように……でも指先に力は入れちゃ痛いから、あくまで滑らすように……」
さっき教わったばかりの手技をなんとなく見よう見真似で草壁がやってみせて、ゆかりもソレを見ながら、自分を刺激。
「でも、あんまり疲れがとれてる実感しないですね」
「自分でやるよりひとにやってもらったほうがいいらしいですよ」
ゆかりは、草壁をじっとからかうような笑顔交じりににらみつける。
「私はそんな手にひっかかりませんからねー」
「そんなんじゃないですよっ!」
「道端で、よくできますよね」
皮肉っぽい言葉だが、ちゃんと笑顔を添えてある。しかしなぜ急に機嫌が直ったのかは草壁には謎のままだった。
「じゃあ、ふたりっきりでやれってんですか?」
「そういうこと言ってるんじゃありません!」
(ほんとうに、なんなんだよ、この人は・・・)
ところでレコーダーにある残り二つのファイルのほうだが。
文字化けのせいで、なんなのかよくわからなかったので、残った二つのうち適当に選んで聞いた次のファイルは、さきほどのゆかりの演奏録音だった。
それを聞きながら、恥ずかしそうに俯くゆかり。
「ごめんなさい、これ、あとで撮り直しましょう……」
草壁も苦笑するしかなかった。
そして、残った最後のファイルはというと……。
”思い叶わぬ恋でいい
しあわせなんていりません
小雨したたる軒端から
冬越しツバメは一人泣く
春を想ってヒュルリラと――
それでは歌って頂きましょう、長瀬ゆかりで「越冬つばめ」――”
なんと先日、部屋の飲み会でゆかりが歌ったあの歌の録音が入っていた。
しかも、相当な大音量。
なんで、こんなものが入っているの?
とレコーダーから大音量で流れるその歌声を聞いて、呆気に取られていると……。
「まあ、先生、渋い歌をお歌いになるんですね」
「先生、お上手!」
本日レッスン予定の生徒が親御さんに連れられていつの間にか教室にいるではないか。
いつか先生の生歌を聞かせてくださいね。長瀬先生!こんどいっしょに歌おうよ!ねえ、きっと楽しいでしょうね、ホホホホホホ……。
目を白黒させて、言葉に詰まっているゆかりを尻目に、草壁はレコーダーとともにさっさと姿を消した。
第16話 おわり




