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第15話 めぐみ

 今木恵が大事なものを失ってから、もう2年が過ぎていた。

 そして、彼女は失ったものをまだ忘れられずにいた。



 7つ年上の兄は、彼女にとっては特別な存在だった。

 年の差のせいか、軋轢のないスムーズな関係。お兄ちゃんは彼女にとっては傘だった。雨の日には彼女を水滴から守ってくれて、晴れの日には強い陽射しをやわらげてくれる。


 お兄ちゃんは一つ同じ屋根の下にいつもいてくれて、いつも自分を見ていてくれていた。

 学校のことや、友達のことで悩んでいたりすると、お兄ちゃんは何も言わないでもちゃんと見抜いていて、夕食の後なんかに、部屋にやってきて「今度は何?」って笑って悩み事の相談に乗ってくれた。

 言わなくても通じる人がそばにいると思えて、そんなことがとても嬉しかった。

 部活のグチ、恋の話。進学や将来のこと……、それから体の悩みみたいなことまで、同性の友人なんかよりゼンゼンあけっぴろげに話すことができた。


 

 それは別に恋というものではなかった。

 お兄ちゃんの奥さんになりたい、とか、そんなことを本気で思っていたわけじゃない。

 

 恵にだって、彼氏がいたことだってあった。だがそんな場合でも、彼女にとって「年上」は絶対条件だった。それは兄の影響がモロにある。

 自分を甘えさせてくれるのなら絶対年上。

 それは、絶対条件。

 彼女のブラコンは、いつの間にかほとんど理屈抜きのフェティシズムを彼女の心の中に植えつけていた。


 お兄ちゃんはずっと自分の独占物だと思っていた。



 その兄がある日突然「婚約者」なるものを連れてきたのが2年前。


「恵、お兄ちゃん、この人と結婚するつもりなんだ」


 それは晴天の霹靂だった。いきなりの不意打ちのようにして、「恋人」じゃなくて「婚約者」を紹介されたのだ。

 お兄ちゃんがずっと自分に隠し事をしていた!


 今まで付き合っている女性を連れてきたら「また、彼女連れてきたんだ?お兄ちゃん。今度も半年もたないんじゃない?」とか、気を使ってうちで手料理を振舞ってくれた人のときには「まあまあ、おいしいと思うけど、お兄ちゃん、こういう味付け嫌いだったよね?」ぐらいの皮肉を言うことがあったけど、今度は完全に蚊帳の外に追い払われたのだ。



 やがて、その婚約者なる人と式をあげ兄はこの家を出て行った。新しい所帯を営むべく。

 家の中には、空き部屋が一つでき、恵の心にも埋まることのできない穴がぽっかりと空いたままになってしまった。


 それから彼女はずっと失ったまま過ごしてきた。

 いつまで経っても新しい義姉には馴染むことができず、男から声をかけられても年上でない、というそれだけで気持ちは醒めたし、たまたまそれが年上でも、「お兄ちゃんみたいじゃない」と思えばそれで相手にする気にもなれない。


 それまでは「年上」でさえあればそれでよかったのが、兄を取られてしまったショックのせいか「お兄ちゃんみたいな年上」でなければ嫌というふうに、さらに恵の嗜好は偏向していった。




 今でも恵は自分のノートパソコンを開くと、ときどき虚ろな顔で眺める画像ファイルがある。


 

 それは、ちょうど2年前、お兄ちゃんと二人でディズニーランドに遊びに行ったときに写したもの。


”ねえ、お兄ちゃん、このTシャツ買ってあげる!”

”ええっ!”

”なんで、買ってあげるって言うのに嫌そうな顔するのぉ?”

”けどさ、このTシャツちょっと自分には……”

”似合うと思うよっ!”

”お前、マジで言ってるのか?”

”マジマジ……”

”って、本当に買うのかよ!”


”はい、じゃあ、これお兄ちゃんにあげる”

”恵……おまえ……”


”お兄ちゃんどこ行くの”

”トイレ!こんなところで着替えれないだろ!”

”エエッ!今、着るの??”


 そう、お兄ちゃん、私が半分冗談で買ったTシャツすぐに着てくれたんだ。


”……どう?ってか、恵、笑うなよ”

”だ、だって……ごめん、着ろって言って、悪いけど、全然似合ってない……”

”うるせえよっ!”


 そこには、シンデレラ城をバックに、大きなミッキーマウスがプリントされたTシャツを着て、恵と腕を組んでフレームに収まっている兄の笑顔があった。


 それから、お兄ちゃん、ずっとあのTシャツ着ててくれたなあ部屋着として。

 

 けど、あのディズニーランドに行ったのが兄と二人きりの最後の思い出になった。きっと結婚前に私との最後の思い出にするつもりだったんだろう。ひょっとしたら、そのときに結婚の報告をするつもりだったのかもしれない。

 私が着せたミッキーマウスのTシャツ姿のまま真面目な報告もできないから、やめちゃったのかな?



 あの日からずっと、彼女は失ったものを探していた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 今年は梅雨明けが少し遅いようで、7月の10日すぎても雨天が続いた。お話は前回から数日たったころ。

 天気のせいばっかりではないが、草壁が溜め込みすぎた洗濯物を一気に片付けるべく、久しぶりの晴天を確認してから、自宅の洗濯機に大量の洗濯物を朝早くから放りこんでいたその日。

 

 因みに洗濯機は長瀬亮作のものを使わせてもらっている。

 彼からは使用料的なものを要求されたことはない。「僕の使って良いから」って感じで、洗剤だけ自前で用意さえすればよかった。

 

 設置されているのは洗濯容量10kgという大型ドラム式の洗濯機である。

 なんで一人暮らしにそんなもの必要か?と思ったが、そこは金持ち、普通に見えて微妙に金かけてる。


 溜め込んだ洗濯物をこれでもか!ってぐらいに詰め込んで、洗剤入れてスイッチ、ポンッ!

 楽チンなものだ。

 せっかくの機会だから、それほど汚れていないようなものまで全部手当たり次第に機械に放り込んでやった。

 特にシャツ類。ちょっと着ただけのヤツもこの機会にすべて洗濯だ。

 これで数日洗濯の必要はないだろう。


 さて、洗濯終わったら、飯食って学校行こう。


 そう思ったところで草壁は唐突に気がついた。


「いけね!シャツ、全部洗っちゃった!学校に着てく服がない!!」



 これが実家なら、少々古いものとかなんかが色々あるはずだが、現在一人暮らしの身。部屋だって上京当時は、手狭なワンルームだったものだから、不必要なものは極力持ってこないようにしていた。

 それは衣類についてもそうだった。

 彼自身、それほど服に対してお金をかけたがるほうじゃないので、こっちに出てきてから買った服も少い。

 そして、調子に乗って次から次へと洗濯機に放り込んだ結果、着るものがないことに気がついた。

 あるとしたら、この季節に着るのは暑苦しそうな時期ハズレのものか――

 ――今、着ているこのTシャツ……。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 その日、キャンパスを歩く今木恵の目の前に突然現れたミッキーTシャツの男とすれ違ったとき、彼女の中で何かがピカッと光った。

”お兄ちゃん……”

 その男は恵がかつてお兄ちゃんに買ってあげたあのTシャツと同じものを着ていた。


 すれ違ったその彼――もちろん、草壁圭介のことである――は、シャツだけでなく、なんとなく、失ったままの兄の面影も感じられたような気がした。

 次の授業のための教室移動を友人たちに急かされながら、彼女の頭の中にはずっとミッキーTシャツの彼の姿が焼き付いたままになってしまった。



 この今木恵、実は草壁と同じ大学のキャンパスに通う大学生である。

 学年は1年生。浪人したわけではないので、年齢は草壁の一つ年下ということになる。



 もう一度、お兄ちゃんに会うためにはどうしたらいいだろう?


 午前中の授業はそのことだけを考えて過ごしていた。と言っても、いいアイデアは浮かばなかった。

 同じ大学のキャンパスに通っていることは確かでも、そこはエリアの広さにしても学生の数にしても相当な規模なのである。

 単純に数字のことだけで言えば、町ですれ違った人と、また同じ様に再会できるかというぐらいの確率に匹敵する。

 ぼんやりしてたら、もう会う機会がないかもしれない。



 結果として言うと、その機会はあっさりと訪れた。


 そのキャンパスには学食がいくつかあって、その日、今木恵が友人たちと訪れたのは一番規模の大きな学食。定員が千を軽く超えるというだだっ広いところ。

 出入り口付近からは、奥のほうに居る人の顔なんか、どんなに視力がいい人だってわからないだろう。

 

 にもかかわらず、恵が、すぐに今朝すれ違ったばかりの草壁が学食の奥のテーブルに友人たちと座っていることに気づいたのは、彼の胸のところで笑っているあのミッキーマウスが遠目からでもよくわかるほど目立っていたからだ。



 いた!お兄ちゃん!!!



「今木、今日は何にする?ハンバーガー?丼もの?」

 一緒にやってきた3人の友人たちは何を食べようかって感じで、今日のランチメニューを考えているが、恵にはそんな余裕はなかった。


 ここの学食は、ショッピングセンターのフードコートのようなカフェテリア形式となっていて、ずらっと並ぶ飲食店カウンターの中から好きなところに行って注文、そのトレーを持って空いている席で飲み食いするのである。

 そして、席取り行為は禁止。となっているが、あるっちゃあ、ある。

 しかし、ここのキャンパス自体が田舎にあるわけでもないので、外食に行こうと思えば、そんな学生相手にやっているお値打ち大盛り定食屋や外食チェーン店、コンビニ、弁当屋、etc、なんでも近くに揃っていた。また他にもかなり大きな学食エリアがいくつかあったりするので、必死になって席取りをしなくても、座るところに困るということはほとんどない。

 あるとすれば、建物から外に出るのが億劫になるような雨天の日なんかだが、本日は晴天。


 だから、当然のごとく恵たち一行も最初はのんびり好きなお店のブースに並んで、それからどっか空いているところでランチ。


 と思ったら、恵一人が必死になって。


「それより、先に席確保しよ!」


 って言って、一人の手をとって走り出した。

「ちょっ、あんた!何必死になってるの?まっ、待ってよ!」


 しかも空いている席なんかいくつも見えるが、そんなのを無視して、真っ直ぐ奥に向かって友人の手を引張る恵。

「どこまで行くのっ!」


 その辺をウロウロしている人間と言ったら、大体がこれから昼食、っていう学生だ。でそんな人間は決まって飯の乗っかったトレーと自分のカバンなんかを持ちながら、どこで食おうかキョロキョロしている。

 そんな学生たちが点在する中、友人の手をひっぱりながらバタバタと乱暴に足音を立てつつ疾駆する恵。

 何人もの無関係な学生たちが、その勢いにトレーをひっくり返しそうになっている。


 そうやって邪魔な障害物を友人を引張りつつ右に左に器用に避けながら、目指すは一番奥のあの席!

 

「何?あの今木の必死なの?」

「さあ……あの人、普段からちょっと変っているから良くわかんない」


 取り残された恵の友人二人がしばらくぼんやりと眺めるなか、子機を引き連れて敵ボスに突っ込んでいくシューティングゲームのようにして、ついに目指す場所にたどり着いた。


 いたっ!お兄ちゃん!


 自分たちと同じく4人連れで昼食を取っている草壁の隣の席に、ちゃっかりと座席を確保。

 彼から一番近くて、ちらっと左手を見れば、横顔が近くに見えるところに自分がまっさきに腰掛けて、カバンを置くと。


「じゃあ、私、ここで席とっておくから、オムライス買ってきて!」

「……今木、そのうち、友達なくすよ?」


 

 草壁たちのほうも、いきなりすごい勢いで隣の席にやってきた恵たちに一瞬視線を向けた。


 お兄ちゃん、見てる!……


 恵は、草壁の視線を感じて急に恥ずかしそうなハニカンだ笑みを浮かべながら、俯いた。いかにも恥ずかしいといった様子を少し強調するような少し大げさなリアクションだった。


 うわっ!今木……。今、キャラ作ってる……。

 ここまで手を引張られて連れてこられたあと、ランチの使いっぱしりを命じられた友人はあきれた顔でその様子を見ていた。


 この今木恵。友人たちからは「天然」っポイと言われることもあった。

 普段は少しのんびり屋さん……に見えるところがあるらしい。

 しかし、親しくなると案外そうでもないということが分かるタイプ。よく言えば人見知りをする、と言ってもいいが、はっきり言うと「ネコを被る」という表現がただしい。

 「女と言うのは、鋭いツッコミより、かわいいボケのほうがトク」ということを理解している人間。しかも、自分のことをシャイな性格だと思い込んでいる。

 年上好みっていうのは、そんな自分を可愛く気楽に演じられるからでもある。

 なんにせよ、好みは好み。


 隣で俯く、やや茶色がかったショートヘアの華奢な女子を、そのとき隣の席からチラッと見た草壁がどう思ったかというと――特になんとも。であった。




 その後、恵は合流してきた残りの友人たちとともに4人でランチを食べたのだが、当然、心ここにあらず。

 朝、チラッと見ただけではなんとなく似ているかな?っていうぐらいだったが、近くで見ていると面影がありそうに見えてくる。

 うん!やっぱり、お兄ちゃんみたい!結構似ている。

 

 おそらく、胸にでっかく笑っているミッキーの影響が大きい。

 しかし、そう思っちゃえばそれまで。



 そして、お隣さんの会話を聞いていたら。

 今年はまだのんびりしてられるけど、来年には就活が始まるから大変になるよなあ。っていう会話が耳に入ってきたりした。

 それって、つまり現在2年生ということ――「年上」確定!!


 やっぱり、この人、わたしのお兄ちゃんだ!!



「今木、ずっと黙ってオムライスいじってるけど、食べないの?」

「うん、私のことはいいから、ちょっと黙ってて……」


 恵は、買ってこいと言ったはずのオムライスをロクに食べようともせずに、ときどきスプーンでライスをちょいちょい崩しながら、じっと隣の声に耳を傾けていた。


「何?今木の様子?」

「わかんない、今木って基本マイペースだから……」

 急に奥の席に座りたがったと思ったらこれだ。友人たちは不思議そうにそんな恵を見ているだけである。まさか、彼女が隣の席の変なミッキーマウスTシャツに興味津々とは思わない。だって、服装変だし、ルックス普通だし。



 隣のミッキーマウス御一行の話題は、Tシャツへと移ってゆく。

 草壁の隣では、友人の大原が笑っていた。


”何度見ても笑うわ!お前とミッキー、似合わねぇ……”

”また言うか!!”


”朝、草壁がまたこれ着てきたの見て、『お気に入りかよ!』って”

”違うよっ!”


”二度目は飯おごらないからな”

”わかってるよ”


”ソレ分かってて着てくるって、本当はお気に入りなんだろ?”

”だから言ってるだろ!洗濯して他に着るもんなかったって”


”それなら、お前薄手のカーティガン持ってなかったか?それ着たらいいんじゃねえ??”

”おい!待て、素肌にカーティガンって、なんだそのハードゲイなファッションは!”


”お前アホか?そのTシャツの上に羽織れって言ってんだよ!そうすりゃ目立たないし、腕まくりでもすればそんなに暑苦しくないだろ?”

”あっ、なるほど……”


 そのあと、みんなから「やっぱりお気に入りだろ?」と一斉に突っ込まれながら笑いものにされている草壁。

 

 隣でじっと聞き耳を立てている恵の表情がだんだんと曇っていった。

 みんなしてお兄ちゃんのTシャツのこと笑って。そんなことない。全然似合ってる。

 

「なんか、今木、不機嫌になってない?」

「どうでもいい。それより、さっさと食べちゃおう」


 今度はどんなTシャツにする?ミッキーの次はミッフィー?ダジャレかよ!なら、キティーちゃん!いくらなんでも痛すぎ。それヤバイって!犯罪者の匂いがする!草壁着たら多分洒落にならないわっ!!じゃあさ、襟だけ白くなってる黄色いポロシャツと半ズボン。出た!のび太!!アラレちゃん帽子は?それいい!地味にイイ!

 


 お隣さんたちは、友人同士、草壁の服見て適当に突っ込みあってるだけ。

 草壁だって同じように笑っている。おまえらいい加減にしろよ!って感じで。

 一方、隣で聞き耳を立てている恵にしては、草壁が笑いものにされている、と思うと、納得がいかない。彼女一人だけ真剣。

 なんで、お兄ちゃんのあのTシャツを笑うの!……かつて彼女も笑ったのだが、他人がお兄ちゃんを笑うのは許せないのである。


 恵はおもむろに立ち上がった。そしてすぐ隣に座る草壁のそばにまでやってくると、緊張した面持ちで口を開いた

「あの……」


 ん?という顔でその恵を見上げる草壁。

 さっきすごい勢いで席取りにやってきたあのショートカットが、お化粧のせいかどうかはわからないが頬をほんのり赤く染め、クリクリした瞳を光らせていた。

 一瞬、リスを思い浮かべる。普通にカワイイと思う。


「わたしは、そのTシャツ、とても似合うと思いますっ!!」


 その子はそう言うと、照れくさそうにしてその場を走って立ち去った。



 えっ!何。それ……。

 呆然と走り去る恵の後ろ姿を見送る草壁。

 そして、隣の席からは……


「今木!トレー片付けてってよ!」

「しっかり、自分のカバンは持って逃げてくし!」



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 さて、これからどうする?

 と恵は悩んだ。

 隣で会話を盗み聞きした結果、草壁の学年や学部や、どんな授業を取っているかもある程度は想像できた。

 そうなるとキャンパスのどこに彼が居て、どのぐらいの時間に帰宅するかも調べればなんとなく分かる。

 しかも、「授業が終わるといっつも真っ直ぐ帰る」らしいこともそのとき耳に挟んでいた。

 こうして、獲物の生息地と行動パターンのおおよそを掴んだわけだが、網をかけるにはまだ一押し足りない。


 思い切って帰りに待ち伏せでもしてみようか?と思ったが、まだ早い。


 よく考えれば、現在、お兄ちゃんとは友達でもない。

 


 どうやって草壁と親しくなるか?まずは口を聞くところからだが。


「はああ。私って、恥ずかしがりやの引っ込み思案だから、積極的に初対面の男の人に話しかけるなんて、苦手だなあ……」


 なんて思いながら、大学から帰ってきた恵が自分の部屋の机に腰掛けて思案していると、オモテで、忘れることできないあの名前が響いてきた。


”草壁クン、この間はごくろうさん。今日も精が出るね”

”組合長さん、言っときますけど、僕、この店の人間じゃないですからね!”


 ん?クサカベ?

 それってお兄ちゃんと同じ苗字だ。えっ、待って……。聞こえてくる声もお兄ちゃんっぽいけど?


 そう持って恵は部屋の窓をそっと開けてみた。


 

 ところでこの今木恵であるが、実は彼女、ひまわりが丘の商店街で長く開いている「今木整骨院」の娘なのだった。

 柔道整復師と整体師、さらに鍼灸師の資格を持つ父親と、同じく鍼灸師とリフレクソロジストの資格を持つ母親の二人で、ケガの治療から、リラクゼーションまで、割と手広くクライアントを集めていた。

 場所はというと、あのゆかりのピアノ教室から向かって右手へ3つ目の店舗である。

 ピアノ教室、古道具屋「宇宙堂」、そして小さな空き店舗、そのお隣に「今木整骨院」。


 夫婦二人でやっている小さな整骨院である。改築間もない半透明のガラス製自動ドアをくぐると、4,5名も掛けたらいっぱいになる待合室兼受付となっていて、その向こうに4つのベッドを並べた治療室が続いている。


 今木一家はその2階、3階部分に生活している。つまり店舗兼住宅というわけだ。

 そして、恵の部屋はその2階、ちょうど整骨院の出入り口の真上にあって、部屋の窓を開けたら眼下には商店街の通りが見えるところにあった。


 窓を開けて首を覗かせると、右ナナメ下、直線距離にして10メートルほど離れたところで前垂れ姿にホウキとチリトリを持って掃き掃除をしているミッキーマウスTシャツ。



 お兄ちゃんあんなところにいた!


 そういえば、ちょっと前に変な古道具屋ができたというのは商店街の評判になってたけど、お兄ちゃん、そこでバイトでもしてるのかな?



 チャンス。

 これはなんとしても、彼と仲良くなる絶好の機会だ。そう思ったが、かと言って10メートル先の眼下でウロチョロしているだけの男にいきなり話しかけるというのもどうだろう?そもそも話題がない。


 なんか、落し物でもしたら、『落ちましたよ!』なんて声かけれるけど。で、向こうが、『あ、お昼、隣にいなかったっけ?』みたいなことになって『覚えてました?』『うん。ありがとう、Tシャツ褒めてくれて』『そんな……本当に似合ってたからそう言っただけです』『こんなところで立ち話もなんだから、下りてくる?』『いいんですか?お仕事の邪魔じゃないんですか?』『ぜんぜん、お茶でも淹れるから』……


 だいたい、以上の妄想が2秒ぐらいでスッと頭をよぎったが、恵は頭を振った。


「……そんな上手く行くわけがない。大体、落し物するって前提が他力本願。チャンスは自分でつくらないと」


 早くいいアイデアを考えないと。

 どうせならロマンティックな出会いになるような……。

 

 地面を見ながらせっせと掃き掃除をしている彼。その足元にスッと着地する紙飛行機。ん?なんだろう?こんなところにいきなり紙飛行機が……。それを手に取る。それは翼に小さなハートマークのついた真っ白な便箋で折った紙飛行機。ん?どこからやってきたのかな?と見渡していると、背後から……「ごめんなさい、それ私のなんです」っていいながら、やおら登場する。『あ、お昼、隣にいなかったっけ?』『覚えてました?』『うん。ありがとう、Tシャツ褒めてくれて』『そんな……本当に似合ってたからそう言っただけです』『こんなところで立ち話もなんだから、中入る?』『いいんですか?お仕事の邪魔じゃないんですか?』『ぜんぜん、お茶でも淹れるから』。


 翼にハートマークのところは、キスマークでいいかも。なんだったら一言「付き合ってください」って書いてあるほうが、メッセージとしてはより直接的に伝わるかもしれない。


 紙飛行機に運んでもらう恋。

 なんか、ちょっとロマンティック。


 「落し物」が「紙飛行機」に変っただけ。大したアイデアではないが、とり急いで実行することにした。

 


 とりあえずA4のコピー用紙があったからそれで折っちゃえ!なるべくしっかり頑丈に作らないと。それより急がないと。

「掃除が終わっちゃう!」


 というわけで出来上がった、恵お手製紙飛行機。

 そしてオモテの様子を確認する恵。――大丈夫、草壁先輩まだ掃除している。


 けど、待てよ?

「紙飛行機なんて頼りないものが、狙ったとおりのところに着地する?」

 アーケードの中だから、風に流されることはないとしても、このままではちょっと不安。狙ったとおりのコースにコントロールするには……。



 すぐに思いついた答えは「オモリをつける」であった。

 ハートとか、「付き合ってください」はいつの間にかどっかに行ってしまった。そんなこと悠長にやっている暇はない。


 手早くオモリがわりの五円玉を二枚、先端に貼り付けてみると、案外しっかりとした感じになった。

「御縁だけに五円玉……まあまあね……」


 そしてその紙飛行機を手にしながら外を確認すると、もう草壁は集めたホコリをチリトリに掃き入れている。急がないと!


 もう足元にスッと着地。なんてことを言っている暇もない。とにかく、この紙飛行機を彼の元に届けるのみ。狙うは……。


「イケッ!」


 細い腕をしならせながら、恵が見事なオーバースローで紙飛行機を投げ下ろした。



 と、ここで話は変るが、皆さんは「銭形平次」という人をご存知だろうか?

 一言で説明すると、お金を投げて、悪人を退治した、江戸時代のポリスマン。なのだが、この銭形平次が悪人を倒すのに使用した武器「寛永通宝」は重さ約3.5グラム程度。

 そして、現在の5円玉は1枚、重さ3.75グラム。


 恵が投げつけようとしている紙飛行機の先端にはそれが2枚貼り付けてある。


 因みに、今木恵は中学時代ソフトボール部に所属していた。「三遊間は抜かせない」がキャッチフレーズの名ショート。2年生のときから先発レギュラー。



 それはもはや紙飛行機というより、羽を生やした小石だった。

 それが、見事に草壁の後頭部にヒットした。


 ”ドゴッ!”っていう重低音が、後頭部というようり、目んたまの奥あたりに鳴り響いた。「目玉が飛び出る」って本当のことなのだ。


 衝撃のせいで、目がチカチカして、一瞬記憶が飛びそうな気がしながら草壁が立ち上がった。

「イッテエ……」

 最初、誰かから殴られたかと思って後ろを振り返ったが誰もいない。なんだ、あの衝撃は?


 ふと見ると、足元には白い紙飛行機。ん?これか?なんか先端がテープでグルグルに巻いてあるけど、なんだこれ?


 と思って、それを拾い上げようとした瞬間である。


「ゴメンナサイ、それ私のなんです!」

 振り向くと……あっ、昼間のショートヘアの子リス!


「あれっ!確か昼に大学の学食にいたよね?」

 痛む後頭部を手で押さえながら、草壁が驚いた。

「あっ!お、覚えていてくれたんですか!?」

 うれしい!お兄ちゃん、あんな一言をしっかりと覚えてくれてた!と内心喜ぶ恵。草壁の目の前で笑顔を輝かせた。


(よく覚えてるさ。このミッキーTシャツがとても似合ってるって、真顔で暴言吐いた子だ)

 

 恵は、草壁の手に渡るまえにサッと足元の凶器を拾い上げた。

「また、会えましたね。すごい偶然ですね。ここで働いてるんですか?」

 ニコニコしながら、後ろ手にそれを隠す恵。それだけ自然に喋れるなら、紙飛行機いらないんじゃなかったか?


 草壁のほうとしたら、その紙飛行機がやはり気になる。偶然とかここで働いているとかよりも、未だにジンジンと頭に響く鈍痛のほうが大問題だ。

「それ、ただの紙飛行機なの?それでしょ?僕の頭にぶつかったの?ものすごい衝撃だったけど。ひょっとしてかなり重いもの?」


「あっ……はい……重いです……」

 子リスちゃんが、昼の時のようなハニカミを浮かべて、ちょっと俯いた。


「私の想いが乗ってるから……」


 ほう……。なんだろうこの感じ。告白されている?けど、その前に、後ろに隠した紙飛行機が気になる。なぜ隠す?

 そう思いながら、草壁はしばらく恥ずかしそうに俯く恵をじっと見下ろしていた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



”思い叶わぬ恋でいい

 しあわせなんていりません

 小雨したたる軒端から

 冬越しツバメは一人泣く

 春を想ってヒュルリラと――


 それでは歌って頂きましょう、長瀬ゆかりで「越冬つばめ」――”


 

 最近では、ツルイチさんが「そろそろ一曲歌姫にお願いしましょうか」とか言い出すと、曲目を聞いて適当にアドリブで曲紹介する役目が草壁にも板についてきた。

 もちろん部屋の飲み会での話のことである。

 本日もこんな調子で、サランラップを片手に歌の紹介を終えると、懐中電灯片手におもむろに立ち上がりゆかりが熱唱。

 悩むといったら、毎回何をマイクがわりに持つか?というものすごく下らないことだったりする。

 彼らにしても、毎日のようにこんなことをやっているわけではない。

 ゆかりを部屋に呼んで4人で飲み会というのも、前に飲んだときからは2週間以上は経っているはずだった。

 これは恵と出会ってから2日ほど経った日のことである。


 

 その日大きな買い物袋を片手に、割と早目に部屋に帰ってきたツルイチが「今日はわたしが料理作りますから、ゆかりさんも呼んで一杯やりませんか?」と珍しいことを言い出しての開催となった本日の飲み会。

 

 いつぞや、ゆかりに作ってもらった朝ごはんのお礼だと言う。そこで、かつて中華料理屋の厨房で働いていたという経歴を存分に発揮し……とまでは行かなかった。「家庭用コンロ、しかもここみたいな電磁調理器では鍋を振るような料理はちょっと難しいですからね」ということで、シューマイとか春巻き、ギョーザを山ほど作ってくれた。

 このオジサンの話を聞いていると、料理人としての振り出しは旅館の板場だったそうである。その後、色々あって中華料理屋で働くようになり……その後は、不明。

 色々ありそうだが、ありそうすぎて聞くのが怖い。

 このオジサンのことでコワイというと、ある日のことである、詳しい経歴を全く知らない草壁が亮作に「ツルイチさんって結局どんな経歴のどんな人なの?」と聞いたところ、このオボッチャン、「僕も詳しいこと知らないんだよね」とアッサリ言ってのけた。こいつ、ロクに知りもしない見ず知らずのオッサンをルームメイトに引っ張り込んだのか?しかし、良く知らないのにルームメイトに引っ張り込まれたという意味なら草壁もあんまり変りないのだが。


 

 ゆかりの歌に手拍子しながら、ツルイチさんお手製のシューマイにパクつく草壁。食べてみると、確かにおいしいのだ。さすが元プロ。

 しかし、実際、このシューマイも餃子も春巻きも、作り方のコツなるものをオッサンが披瀝してくれたがそれが実に驚くべきコツだった。

「これを大量に入れることです。怖がらずに」

 そう言ってタネに大量の化学調味料を振りかけていた。見ていて唖然となったが、食べてみたら確かに素人の作ったものとは一味ちがった。よく聞いてみたら、このオッサンの働いていたところというのも、ミシュランで星がつくかどうかみたいなところじゃなくて、少し大きめの中華レストラン、お昼はチャーハン定食が800円とかいうぐらいのところらしい。

 しかし、一度手本で見せてくれた鍋振りは相当に上手かった。ギターといい、料理人といい、ギャンブルといい、そこそこ器用ではあるようだ。



 そうして、ゆかりの歌を聴いていた草壁だったが、その間あることを思いついた。

 ゆかりの歌が終わると、草壁は「そうだ!いいこと思いついた!」と言って、自分の部屋に引き返したと想ったら、すぐに小さな箱を片手に戻ってきた。


「なに、それ?」

 突然、変な箱を持ってやってきた草壁に一同が興味津々。

「これ、実は雑誌の懸賞であたったんですよ。今日のお昼に宅配便で受け取ったばかりなんですけどね」


 そういって箱から取り出したのは、デジタル録音機、あるいはICレコーダーともいうもので、見た目エアコンかテレビのリモコンみたいな長細い形をしたもの。ちょうど片手にすっぽりと収まるぐらいの大きさである。


「へえ……デジタル録音機ねえ……草壁クンってそういう趣味があったんだ」

「だから、お前はなんでそういう言い方になるんだよ!懸賞に当たったって言っただろ?」

「だって、欲しかったから応募したんでしょ?」

「これが欲しかったんじゃないよ!」

「じゃあ、何が欲しかったの?」

「自転車」

「けどさ、自転車とこれだったら、こっちのほうが高くない?これ一万はするんじゃないの?」

「そりゃママチャリなら、1万せずに買えるかもしれないけど、俺が欲しかったのは一台十万以上するロードレーサーだから」

「そんなもの欲しいの?」

「いいだろ?そういや、お前も自転車すら持ってないよな?」

「僕?うん、お姉ちゃんみたいにおねだり上手じゃないから」

「どういう意味よ!」

「けど、車のキー預かってて、たまに用事があるとき貸してもらうからそれで充分なんだよね」

「へえ……」


 って、感じで一頻り会話が盛り上がっていると、ツルイチがその録音を機を珍しそうに、ためつすがめつ手に取って見ながら

「で、この録音機がどうしたんですか?」


「当たったのはいいんですけど、使い道がないんですよねえ……貸して欲しい人あったらどうかなっと思って持ってきたんです」


 草壁の言葉に一同、お酒片手に考え出した。全員、いい具合に酔っ払っている様子。考えるって言っても大したアイデアもない。そもそも、そんな特殊な機械、欲しければ買うだろうし、そうじゃない人にしては使い道が普段の生活の中にあちこちに転がっているわけではない。


 やがて、ゆかりがポツリと呟いた。

「私、ちょっと興味あるかな?自分の演奏を一度、録音して聞きなおしてみたりとかに使ってみたら面白そう……」


 そこで一同が、なるほど!ってなっていると、草壁がゆかりに言った。

「それなら、僕に録音させてくださいよ。ゆかりさんの演奏、自分も録音して聞いてみたいし」

「ええっ!そんなに大したものじゃないですけど」

「そうですか?普通によかったと思いますよ。mp3に変換して部屋で聞いたりしたいです」


 草壁がゆかりの演奏をどれだけ理解しているかは良く分からないが、まあ、好きな人の演奏だ、聞いて悪い気はしないし、実際、何度か耳にした演奏は上手だと思っていた。

 それに、そんな理由をつけて、また彼女と二人で会うこともできるわけだし。

 ……そんなヨコシマな気持ちも結構あった。


「じゃあ。都合のいいときに、教室まで来てくれたら演奏します」


 ということで、そんな約束ができたりした。

 因みに現在のゆかりの部屋にはピアノはない。前の部屋に置いてあったアップライトピアノは現在教室のほうに移設していた。



「ところで、これ、カセットはどこに入ってるんですか?」

 

 レコーダーの電池カバーを外したりしながら、ツルイチが言い放った一言に一同が黙り込んだ。

 オッサン、昭和に生きてる。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 そんな話があってから、草壁はカバンにICレコーダーを忍び込ませて学校に通うようになった。

 ゆかりの演奏を録音する約束。って言ったって、そんなもの、約束というほどのことでもないような、つまらない話。お互いに何月何日の何時に……みたいな詳しい打ち合わせもなかった。

 

 その後、では話も決まったところでもう一曲誰か歌いますか?ってツルイチさんの言葉を受けて草壁が「TOKIO」を熱唱したら、もうレコーダーの話はどっかに飛んでいた。


 だいたい毎日のように教室の前を通るから、そんな機会はいくらでもあったのだ。



 

 そんなある日の喫茶アネモネのカウンターには、常連筆頭の草壁の姿がいつものようにあった。

 今日当たり、ゆかりさんの演奏録音させてもらおうかな?とか思いながらフラッとドアを潜った。ゆかりの教室のスケジュールまでは知らないが、ここにいたら、こちらかお向かいの教室のどちらかに顔を出す彼女を捕まえるのは簡単な話だ。


 時計は夕刻を指している。本日はゆかりの姿はなし。ということはこれからレッスンでもあるのだろうか?

 目の前の草壁一人だけしかいないせいか、注文のアイスコーヒーをあっという間に作ったマスターから「ジローさん、たまに来るけど、君がいないとなるとすぐ帰っちゃうんだ。君、あの人に本当に気にいられたみたいだね」「やめてください、僕、そういう趣味ないですから」とか喋っていると学校帰りの辻倉あやが顔を覗かせた。

 これで、現在のアネモネの客と店員のバランスは「1対2」ということになる。

 必要ないなら顔出さなくてもいいと思うが、出たら出たで少しは小遣い稼ぎになる。あやのほうもちゃっかりしている。


 ちょうどそうやってエプロン着けたあやがカウンターに入って洗い終わった食器をカウンターの食器棚に直したりしていると、店に入ってくる一人の客。


「あっ、先輩。こんなところにいたんですね」


 学校帰りの今木恵が通りがかりにこの喫茶店のカウンターに座る草壁を見つけて飛び込んできたのだった。


 因みに、草壁のドタマに重しのついた紙飛行機を叩き込んでから、ふたりは学内でちょくちょく顔を合わすようになった。

 草壁の姿を見つけたら「あっ、先輩!こんなところにいたんですか?」とか言いながら近寄ってきて雑談を交わし、昼になったら、「あっ先輩!偶然ですね!」と言いながら、いつの間にかちゃっかり草壁とその友人たちの輪の中に入ってきたりする。

 

 案外図太い。

 そして、本日は四限目で草壁の授業が終わることをあらかじめリサーチし、帰り道を待ち伏せしようと思っていたところ、うっかり取り逃がして、1本遅い電車で帰ってきたら、こんなところで油を売っている草壁を見つけて飛び込んできたのだった。



「あれっ!お客さん、確か……」

「そこの整骨院が実家なんです」

「そうだよね?たまに前通っていく姿、見えてたから」


 同じ商店街のすぐ近くのおうちの子、ということでマスターもちょくちょく目にはしていたので、恵が入ってくるなり、そんなふうに会話がいきなり弾む。



 因みに、この喫茶店、ずっとこのマスターが経営していたわけではない。

 実は数年前に、前の代の店主が老齢、と売り上げ不振を理由に店じまいをしようとしていたところに、現在のマスターが新しい店主として、店ごと受け継いだ。いわゆる「居抜き」物件を引き取ったわけである。そんなわけで、店は古いがマスター自体はこの商店街の生え抜き、というほどの古株ではない。


 あれから数日の間にすっかり親しくなった、というよりすっかり馴れ馴れしくなった恵は、いつぞやの恥じらいなんかどっか行ったみたいにして、草壁の右隣の席にちゃっかり陣取った。


「先輩、このお店、良く来るんですか?」

「彼はうちの一番の常連さん」

「へえぇ!そうなんですか……。私、よく前通ってたけど気づかなかった」


 アレ以来、妙に自分にくっついてくるこの一つ年下のショートヘアを草壁がどう思っていたかというと、「ちょっと変な子」という認識だった。

 パッと見、普通にかわいいし、話していて引いてしまうような性格的なクセもあまり感じない。

 が、最初の出会いのときから、変に積極的に自分に擦り寄ってくるこの女子になんとなく油断ならないような何モノかを感じていたりした。

 それに、はっきりしていることは本命は長瀬ゆかりだということ。

 こういう子に隙を見せたら、なんとなくマズイんじゃないかと本能が感じている。

 だから、彼女とは仲のいいお友達、というつもりの接し方に徹しようと思っていた。


 なわけで、恵が目をキラキラさせながら、色々と話し掛けてきても、わりと当たり障りのない答えをしていたのだが、そんなとき、マスターが余計な一言をポツリと言った。

「草壁クン、お目当てがいるんだよね」


 

 その一言を聞いて、恵の目つき変った。そして、それまで割りと賑やかに草壁に話し掛けていたのが急にだまりこんだ。


 

 お兄ちゃんに、お目当ての人がいる?!


「マスター!何、客のことをペラペラと!」

「まずかった?」


 隣の草壁がマスターに抗議している。ということは、マスターの言葉は冗談じゃない。となると……。


 恵の目の前には、さっきからあまり会話に入ってこないままカウンターの隅で食器を拭いている辻倉あやの姿。

 今木恵と辻倉あやの二人は、この商店街に長く住んでいるが、学年が一つ違うということもあって、個人的にはあまり親しくない。

 小学校、中学校と同じ学校に通っていたりしたせいで、道で会ったら挨拶ぐらいはした。

 そして、恵は時々、この喫茶店で辻倉あやが働いていることまでは、知っていた。

 この店に顔を出したことはなかったが、姿を見ることぐらいはあったから。

 

 だがこの時点で、ゆかりがこの店で働いていることは知らない。



”お目当てにするような人と言ったら、ここで働いている辻倉さんぐらいしか思い当たらない。

 こんなところに恋敵……。けど、お目当てで通っているってことはまだお付き合いしているとかじゃないんだ。

 せっかく、見つけたお兄ちゃん、渡すもんですか!”



”うわあ、今木さん、私のこと睨んでる。なんか、やりにくい……多分、勘違いしてる”


 それまで、草壁相手にはしゃいでいた恵が黙り込むと、店内は急に静かになった。

 恵はカウンターのあやを睨んでるし、あやはなんとかそれと視線を合わさないようにして、黙々と仕事をしているし。


”なんだ、この雰囲気……しっかし、草壁クンが引張ってくる客って、変なのばっかりじゃないか……”


 店内の急な空気の変化をしばらく黙って観察していたマスター。

 そして、さっきから、ずっと仏頂面になって固まっている草壁に向かってポツリと呟いた。


「どうしたの?顔色悪いよ?体の調子でも悪いの?」


 しとどに水滴をつけた手元のアイスコーヒーに一向に手をつけようともせずに、まっすぐ目の前を凝視している草壁。


 何気なく見たカウンター正面の食器棚のガラスに映っているもの。それは――

 右隣で、ジッとカウンターの辻倉あやを観察するように睨んでいる恵。

 そして、一つ席を空けた左隣には、こっちを怖い顔で睨んでいる長瀬ゆかりの姿。




第15話 おわり


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