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第13話 Drunken Princess ―酔いどれ姫―

 ひまわりが丘の駅で、辻倉あやに蹴飛ばされ、長瀬ゆかりからはなんだか良く分からない不機嫌な顔で睨まれたその後、草壁圭介は、喫茶アネモネに顔を出さなくなった。



 あやに蹴られたのは仕方ない。

 うっかり大きなことを言っておいてアレなのだから。


 けど、なぜゆかりはそんなに自分に不機嫌になるのか?それがよくわからない。

 普通で考えたら「ヤキモチ」ってヤツだろう?彼氏が他の女の子と二人でどっかおでかけ、そんなことしてたら、普通は妬く、あるいは心配ぐらいはするに決まっている。

 けど、俺、彼氏か?


 と、草壁は思う。いやいや、彼女はずっと友達としか言わない。

 告白したら、バッサリ切り捨てられたし。

 妬かれていると思うとまんざらでもないが、ただ単に、いつの間にか嫌われているのかもと思うと心が痛い。


 最初、自分に告白しておいて、ダメだとなったら、今度は自分の親友にちょっかいだそうとしている、どうしようもないドスケベ野郎――というふうにただ軽蔑されているのかもしれない。

 そう思われているのだとすれば、もう立ち直れないぞ。

 正直、相当へこむ。へこむどころじゃない。地獄だ。


 そんなのだから、ゆかりと話しにくい。顔を合わせずらい。



 ついこの間のことだ。草壁がマンションの部屋を出たら、どっかから帰ってきた様子のゆかりと廊下でバッタリと鉢合わせた。


 「こんにちは」

 彼女のほうは、まったく交流のない同じマンションの住人同士がそうするように、形だけの挨拶をして草壁の横を通り過ぎようとした。もう、そんな雰囲気になっていることからして、普通じゃない。

 草壁も、その様子に威圧されながらも、このままではなんとなく気持ちが悪いから、思い切って自分の横を通り過ぎたゆかりの背中に声をかけた。


「あの……ぼく、なにか悪いことしました?」


 ゆかりは後ろを振り返りもせずに、冷たい口調でこう返した。

「なにか、悪いことでもしたんですか?」



 ウワッ!怒ってる!やっぱり怒ってる!!

 心臓にグサッとくるものを感じながら、呆然と立ちすくむ草壁を振り返りもせずに部屋に消えていくゆかりだった。


 しかし、怒ってる、ということは軽蔑の証ではなさそう。どちらかというと嫉妬、か?

 もう関わりたくないと思っているような相手にあんなに皮肉っぽく反発はしないだろう。

 ただ、いずれにしても、今の状態では、草壁にとってゆかりは腫れ物を触るようにしか扱えない、ややこしい存在には違いなかった。




 このことは、喫茶アネモネでも話題になっていた。


「ねえ、あやちゃん。ここのところ草壁クンとゆかりちゃんがうちに寄り付かないけど、何かあったの?」


 中をうかがうことすらせずにそそくさと店の前を歩き去ってゆく草壁の様子を目で追いながらマスターが言った。彼、駅の方へ向かっていったけど、なんか用事でもあるのかな?などと思いながら。



 アイスレモンティーの注文が入った場合、紅茶の用意をマスターが行う隣で、冷蔵庫からガムシロップの紙パックを取り出して小型のピッチャーにそれを注いでセットする。そんな仕事はウエイトレスが居れば、彼女たちの仕事になることが多かった。カウンターのあやがそんな仕事をこなしながら、隣のマスターに答えた。


「私に聞かれても……ゆかりさんとは普通に喋ってますよ」

「しかし、あの二人がまるで示し合わせた見たいに同じ時期にぴったり寄り付かなくなったのって、どうよ?二人とも、ちょくちょく前通るのに、こっちに見向きもせずに素通りだよ?……はいよ、アイスティーできたから」

「はい……」

 最後の仕上げはあやがレモンスライスを小皿に載せてから隣に小さなトングを添えればおしまい。注文の品アイスレモンティーの完成。

「この前、あやちゃんのおばあちゃんちに二人で行ったことが関係したり?」

「だとしたら、ゆかりさん、草壁さんに気があるってことですか?それでヤキモチ焼いてる?みたいな話でしょうか?」、

 あやにも真相は分からない様子で、不思議そうに首をかしげながら、できあがったレモンティーをお盆に乗っけた。


 本日は客の姿もちらほらと見える店内。草壁がいないと客がいる。いや、別に彼が悪いわけではなく、たまたまそうなだけなのだが。

 注文の品物を客席に持っていこうとするあやにマスターが聞いた。

「実際にあの二人どうなの?」

「わかりません、私にも謎です」



 そういい残して、テーブルの席へとあやが歩み去っていった。

 注文主は、最近ちょくちょくやってくるご新規の常連さん。ぱっと見20代っぽい、ややオタクがかった見てくれの小太りクン。

 最近よくいるよね?大学の授業の都合で居たり居なかったりですけど。今いくつなの?二十歳です。ねえ、お願いがあるんだけど、写メとらしてくれない?ええっ!?おねがい!!

 そういうお店ではないのだが、請われたら客とツーショットの写真ぐらいは撮らせてあげたりすることもあって、最近は客寄せパンダらしい働きもしっかりこなすようになっていた。

 伸ばした右手に持ったスマホを自分に向けるその客の隣に並んで、にっこりとツーショット写真に収まったあと、あやがカウンターに戻ってきた。



「ごくろうさん、ごめんね」

「かまわないですよ。あんな写メぐらいなら」


「ところでさ、全然話が変るんだけど、あやちゃん知ってる?この商店街に新しいお店ができるの」

「あっ!あそこじゃないですか?商店街入ってきたあたりで、このまえ改装工事してたところ」

「そう、あのスナックmomoの斜向かいぐらいのところ、あれ、何の店か知ってる?」

「なんだろう?黒い壁の、ちょっとお洒落っぽい雰囲気だけど……美容室かなんかですか?」

「ショットバーなんだって」

「へえ」

「まあ、ショットバーが出来るのはいいんだけどさ……」

「ナンです?何か問題でも?」

「違うんだ……そのお店の店長っていうかバーテンがちょっと変ってるって噂があってね」


「変ってる?どう変ってるんですか?」

 あやがキョトンとした。




 商店街を毎日のように通っている草壁にとっても、そんなところにお店が新規開店の模様であることは前々から気になっていた。

 あやは壁の色を黒と言っていたが、ダークグレーと言ったほうが正しい。

 ピカピカした鉄のバーハンドルのついた扉の左には、ベージュの色ガラスを張った羽目殺しの小さな窓。しかし店はまだ営業していないせいで、中の様子はわからない。

 そして今ようやく、草壁にはその店がなんなのかやっと分かった。


「shot bar Jiro's」


 扉の右隣に金メッキの文字看板が今日になって取り付けられていた。



 へえ……。ショットバーか……。そんな小洒落たところ行ったことないけど、こんなところに出来たんなら一度行ってみたいな。

 店の外観も、シンプルに落ち着いていていい感じ。

 彼女つれて、こんなところでカクテルを傾けるのも悪くない。

 カクテルなんて、昔友達とのコンパで行った居酒屋で、訳もわからず適当に頼んだジョンコリンズぐらいしか飲んだことないけど。


 そうだな。ゆかりさんと二人で……って無理だな。今の雰囲気じゃあ。

 そうでなくても、こんなところ誘ったって来てくれそうもない。

 お洒落なショットバーで、二人で乾杯どころか、アネモネでお茶飲むことすら難しい今の状況じゃ、夢の夢だ。


 そんなことを考えながら、しばらくそのショットバー「jiro's」の前でじっとしていた草壁だったが、そのうち、駅前方向に歩いていった。


 いけね、もうそろそろ駅の向こうのスーパーが、売れ残りの商品に半額シール貼り出すころだ。急ご。



 百円ショップで買った薄いペラペラした買い物用エコバックを片手に、草壁は商店街を後にした。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 件のショットバー「jiro's」は、その後まもなく開店の運びとなった。


 草壁も通りがかりに、店の前に並ぶ開店祝いのスタンド花を目にしていた。

 とはいっても、妄想の中でゆかりと行けたらいいなあって思ってるぐらいのもの。特にそこに注視はしなかった。

 だから、その中に「藤阪公司」という送り主の書かれたスタンド花が混じっているたことなんか、草壁は気づかなかった。




 そのうち、そんな華やかな店の飾りもすっかり仕舞われ、夕方ぐらいに前を通りがかると、店名を書いた小さな看板とともに、壁の文字看板がウォールライトの明かりを受けて黄金色に輝いているのが、商店街の新しい日常風景みたいになった頃のこと。




「開店おめでとうございます」


 ショットバー「jiro's」の店内では、数人の客に混じってカウンターに座る藤阪公司の姿があった。


 同僚と仕事帰りに食事して別れたあと軽く一人で引っ掛けるために、この馴染みのバーテンの開いた新しい店に顔を出していた。


 そこが、ひまわりが丘だというのは都合がよかった。

 食事にはたまに付き合ってくれるが、酒となるとあんまりいい顔をしないゆかりだったが、自宅まで歩いて帰れるような近場なら来てくれるかもしれない。


 そう思って、急なお誘いを掛けたところ、それならと案外あっさり向こうは承諾してくれたのだ。


 この店、使える。

 藤阪は一人ほくそ笑んでいたりするのだったが……。



 問題はこの店である。


 もちろん、ショットバーなのである。そういうお店が、おしなべてそうであるように、女の子と二人でゆっくり寛ぐもよし、一人で静かにひっかけるもよし……って雰囲気には見える。店構えはそう見える。



 ダークグレーの色彩を基調とした店のオモテ構えの中に足を運び入れると、暖色系の照明が煌々と輝いた明るい店内。

 バーテンの背後には、様々な洋酒のビンが頑丈そうな木枠のラックに整然と並んでいて、ぱっと見ると、図書館の本棚のように見えなくもない。


 バーテン一人で切り回しているこのお店は、カウンターだけの小さな店で、いわゆる「ウナギの寝床」みたいな入り口から奥に向かって長細く続く形をしていたが、客の背後の空間はゆったりしていて、立ち飲み屋みたいな狭苦しさは感じはない。



 カウンターの隅に腰を落ち着けた藤阪の目の前で、にこやかにシェイカーを振っているのがここのバーテン、つまり、ここの主である。



 毛先をソフトモヒカンっぽくさざ波立たせたショートヘア。唇の上に薄くシャドーのようなヒゲを乗せているそのバーテン。ぱっと見はそこそこイケメン。

 女性客相手の水商売でもやっていけそうな雰囲気。


 見た目20代、か、ちょっと若作りの30代。実際は33才。

 名前をジローという。店名の「jiro's」はそこからきている。


「あらあ、藤阪ちゃん、お久しぶりだったじゃない!この間はお花ありがとうね!今日はゆっくりしていけるんでしょ?」


「ジローさん、ご自分でお店出したんですね……」

「そうよ!小さいお店だけど、一国一城の主って悪くないわね!さらにお仕事がんばろうって張り切れるもの」


 ここのバーテン、喋り方に若干の特徴がある。オネエ言葉。

 しかし、特徴は喋り方だけではない。


「またこっちのお店にもちょくちょく顔出させてもらいますよ」

「”ちょくちょく”なんて言わないで!藤阪ちゃんだったら、毎日でも来て欲しいわ」


 バーテンのジローがそう言ってウインクしながら、藤阪のすぐそばに顔を寄せてきた。

 正直、むさくるしい。思わす、10センチほど頭を引きながら、苦笑する藤阪だった。



 このバーテンは――オカマ。ゲイ。――なのである。



 ショットバーと銘打ちながら、実際にはオカマバーに近い雰囲気。

 しかも、このバーテン、ゲイ、ってだけではなかった。



「ところで、藤阪ちゃん、今日もお一人?」

「”も”ってことはないでしょ?……実は、ある人と待ち合わせ」

「あらそう?あなた、うち来るときは大体一人じゃないの?」


 そうやって話していると、ショットバー「jiro's」の扉が開いて、新たな客の入店である。

 初めてのお店に呼び出されて、すこし戸惑ったような顔した長瀬ゆかりだった。

 藤阪の存在を探そうとして彼女がキョロキョロするたびに、店の外装と同じ色したチュールワンピースのダークグレーの裾がヒラヒラと揺れた。


 小さな店内である。真っ直ぐ奥に伸びるカウンターが折れ曲がって、壁に突き当たったところの席から軽く手を振っている藤阪の姿はすぐに確認できた。


 そのとき、藤阪の目の前にいた黒いカッターシャツのバーテンの顔が、なぜかとても嫌そうな雰囲気を漂わせながら自分のことを睨みつけているのにも気づいた。


 しかし、ゆかりは最初、その顔はなんかの見間違い、照明の加減でたまたまそう見えただけだろうと思ってあまり気にしなかった。

 それはそうだろう。初めて客としてやってきたバーの店主からなんの言われもないのにいやな顔をされるはずはないのだから。




「ごめんね、急な呼び出しで」

「いいえ、私も空いてたから」


 藤阪と言葉を交わしながら、ゆかりがその隣に座った瞬間である。

 目の前のバーテンが、不機嫌な声を張り上げた。


「藤阪ちゃん、誰よ。この不細工っ!」


 思わず、ギョッとして目の前にバーテンの顔を凝視するゆかり。店に入ってきたとき、睨まれていると思ったのは見間違いではなかった。この人、なんか知らないけど、私のこと睨んでいる。なんで?


 すると、藤阪がゆかりにそっと耳打ちした。いや、格好だけは耳打ちするようだったが、あきらかに目の前のジローにも聞こえるように言った。


「ジローさんはね、女ぎらいなんだよ」



 そう、このバーテン、オカマでゲイで、女嫌いなのである。


「あんた女見る目ないんじゃない?こんなの連れて歩く気によくなれるわね。なんだったら、私がイチから教えてあげましょうか?本当の女って言うのを」

「何を教えるつもりなんですか!」


 藤阪は慣れたものである。ジローのそんな言葉に笑って突っ込み返して余裕の様子。


 呆気に取られているのはゆかりである。ショットバーと言われてやってきたらこれなのだから。

 初対面の客である自分のほうを指差して「これのどこがかわいいと思えるの?」とか平気な顔で藤阪に言っている、このオネエ言葉のバーテンに唖然とはなったが、いつまでたってもこのバーテン、自分に注文を聞こうとしない。


 そのうち別の客からの注文に答えてシェイカーを振ったあと、再び藤阪の目の前にやってくると、ゆかりの顔を見て「あんた、まだ居たの?」というおよそ客商売とは思えないセリフを平気で言う。


 隣で藤阪は笑っていた。おそらくジローがカウンターに立つといつもこうなのだろう。とその様子を見てゆかりもそれなりに納得した。

 憎まれ口を叩いてはいるが、本気で嫌われているわけではないと思う。とりあえず女性客って言うだけでこういう応対なのだろう。

 そこで仕方ないのから、自分のほうからカクテルを注文した。


「あの、私、マティーニをお願いしたいんですが」


「まっ、マティーニっ!!!マタニティーみたいなナリして!!!あんたなんかエタノールでも飲んでたらいいのよっ!そんなに飲みたけりゃ」


 ええっ!カクテル作る気なしなの?女は帰れって言うの?

 と思って、開いた口がふさがらないゆかりだったが、そんなゆかりに余裕の笑顔の藤阪が言った。


「ジローさんはね、カワイイ子ほど当たりがキツいんだよ」


 つまり、キツイこと言われるだけカワイイ証拠だって言うんでしょうけど、なんでショットバーに客としてやってきて、そんな扱い受けなきゃいけないの?と思うゆかり。


 とは言っても、ゆかりの注文を受けて動き出すジロー。

 あっ、やっぱりそうか、ちゃんと商売はやる気があるんだ。


「マティーニって、何いれるんだっけ?たしか、寿司酢を水で薄めて、梅干し入れて……と」

 冗談だと思うが、動きがすばやいので、ミキシンググラスに注いでいるボトルの表記がよく読み取れない。まさか、本当にそんなもので作るつもりでは?

 と思っているうちに、差し出されたカクテルグラスの中身は、ちゃんとしたおいしいマティーニだった。


 このオカマバーテンダーに凝視されながらカクテル飲むのか?と一瞬、気になったが、向こうも客商売。

 ゆかりがグラスに手を伸ばす頃には、おつまみの用意でもする様子で、カウンター仕事に戻っていった。話しかけられてもいないのに、カップル客にちょっかい出すのは、ほどほどにってことなのだろう。



 やっぱり、そうだよね。

 ちょっとクセはあるけど、こういう商売の人らしい立ち回りは心得ている様子に、ひとまず安心してカクテルグラスを傾けるゆかり。


 隣でそんなゆかりの様子を見ていた藤阪がニッコリと笑った。

「ゆかりちゃんも、たまにはお酒、飲むんだね」


 恥ずかしそうな顔で軽くうなずいた。藤阪には本性は見せていない。

「え、ええ……ちょっとは……」



 ところが。

 その会話が聞こえたんだろう。大人しくなったと思ったジローが再びゆかりの目の前にやって来た。

 ああ……また、なんか嫌味を言いたそうな顔している。

 ゆかりが心配していたらその通りの展開になった。



「あんた、ゆかりって言うの?」


 田舎の中学校のスケ番が、都会からのやってきたカワイイ転校生に難癖つけようとしているみたいな雰囲気。

 うんざりしながら、ゆかりが軽くうなずくと、こんどはこのオカマがゆかりを指差しながら大笑いした。


「ゆ、ゆかりって!……あんた、おむすびだっ!ハハハっ、ゆかりおむすびよ!今日からあんたのこと『握り飯』って呼んでやるわ!この握り飯!!」


「ちゃんと客として扱ってくださいっ!!!」


 ゆかりのほうも思わず怒鳴った。そんな変なアダ名絶対イヤ!



 ジローさん、空気を読んでカップルはそっとしておくどころじゃなかった。

 何かって言うと、ゆかりに絡んできた。


「で、握り飯って学生なの?」

 ヤダヤダ。なんで、シラフのクセしてそんなふうに客に絡むのよ、このバーテン。

 すっかりふてくされたゆかり。何か言ったらまた絡んでくると思ったから、聞こえない振りしてカクテルグラスを傾ける隣で、言わなくていいのに藤阪が代わりに答える。


「ゆかりちゃんはピアノの先生」


 それを聞いたジローがやっぱりゆかりに絡んできた。


「なーにがピアノよ!あんたなんかね、ピアニカでも吹いてりゃ充分よ!!」


「こんな寛げないショットバー初めてだわ!!」




 結局そんなこんなで時間が過ぎ、藤阪とはムードのムの字もでないままに終わった。

 とんでもない店に来ちゃった、と最初思ったが、その雰囲気になんとなくホッとしているゆかりでもあった。

 良く考えてみたら、それなりに楽しかったような気も、あとでちょっとした。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 ちょうどそんな時、ゆかりのもとに音大時代の友人から連絡が入った。


「長瀬。もし空いてたら今度、あの3人で女子会でもしようかって言ってるんだけど、久しぶりに長瀬も来ない?」



 誘ってきたのは音大時代に仲良くしていた3人の友人たち。在学中はしょっちゅう会って遊びに行ったりもしていた。



 それが突然、お付き合いが止んだ。

 理由は、あの自殺未遂の騒ぎである。

 あの後、ゆかりは音大に退学願いをだした。そして、ピアノに関係する一切のものに、しばらく背中を向けた。あの当時の友達も含めて。


 この友人たちは、ゆかりが自殺を図ったということを知らなかった。

 ある日突然、連絡が取れなくなったと思ったらいつの間にか音大を退学してしまっていて、その後さっぱり音信不通になったことに驚いた。

 なぜそんなことになったかも良く分からなかった。

 本人の携帯にも繋がらない。自宅の電話も「おかけになった番号は現在使われて……」。

 その中の一人が、亮作の連絡先を知っていたものだから、弟に連絡を入れたところ、彼から「お姉ちゃん、急な用事で実家に帰った」とだけ告げられて、呆然となり、そのまま関係がぷっつりと切れてしまっていた。


 そんな友人たちの一人と、ゆかりが街で偶然ばったり出会ったのはついこの前。

 驚く友人、そして、気まずい再会となったゆかりのほうも驚いた。

 急いでいたので、詳しく話し込むことも出来なかったが、そのときには連絡先を告げただけで一旦別れたのだった。

 で、その友人から、女子会のお誘いが入ったという訳。




 女子会の会場というお店は、住所を見てみたところ住宅街の真ん中らしい。ここ、どこ?地図を見ても首をかしげるようなところだったが、都会の隠れ家的お店っていうのは、そういう静かなところにひっそりと店を構えていることも多い。


 その友人達、大金持ちってわけではないが、親はそこそこ経済的余裕のある子たちばかりなので、今回の女子会も、食べ放題、飲み放題コースがあるような居酒屋的なお店ではないみたい。


 お出かけ着は、ダークブラウンの落ち着いたワンピースにネックレス。全体的にシックな感じ。服に合わせた足元は、ベージュの光沢がまぶしい少し高めのピンヒール。若干、歩きにくい。

 これなら、少々高級なお店でも場違いにはならないだろう。



 そこは、ライトベージュ色をした天然石張りの壁をライトアップさせて、住宅街の宵闇に浮かんでいるようにも見えるイタリアンレストラン。アーチを描いた背の高い門扉の脇にイタリア国旗が飾ってなかったら、どこかのお屋敷にしか見えない。


 少し早めの時間の到着となったが、そこそこはやっている店の様子。

 ざっとみると20ぐらいの座席があるフロアは、6割がたは埋まっている。

 空いている席も「reserved」のプレート。


 オフホワイトの照明に照らされながら、ギャルソンに導かれた先は、店の一番奥まった場所。フロアと一続きの空間だが、まわり3方を壁に囲まれた半個室。

 扉がわりに出入り口に立てられた背の低い衝立の脇を通り過ぎると、そこには懐かしい音大時代の仲良し3人組みが、ゆかりを待ち構えていた。



「ひさしぶりー!」

「どうしてたの?今まで?」

「みんな心配してたのよ」



 何の連絡もせずに、ある日突然彼女たちの前から消えた不義理な友人を、まるでそんなこと何もなかったかのように明るく迎えてくれた。


 しかし、ゆかりのほうは、そんな自分を恥じる気持ちがなかなかぬぐえなかった。なんとか、明るく挨拶を交し合ったが、懐かしさだけではなく、軽い後悔も感じていた。

 やっぱり、来ないほうがよかったかも、と。



 本日は気楽な女子会、あらかじめ店には普段のコースとはちょっと違った料理をオーダーしていたとのこと。

 料理のほうは、前菜のようなワインのお供に軽く食べれる一口料理を多くしてもらい、メインの魚や肉料理は軽めに特別にオーダーしておいてあるそうだ。

 そういえば、授業の成績はパッとしないけど、そういうところに手回しがいいのが一人いたな。


 ワインもいちいちギャルソンに注いでもらうより、自分たちで気軽にやりたいから、ワインクーラーの中に適当に見繕ったワインボトルを2本入れて、基本各自で手酌。



”そのほうが気を使わなくて良いでしょ?だから、この半個室を予約しといたんだから。”

”長瀬が久しぶりに顔を出すっていうのから、周りにあんまり気をつかわないでいいようにね。”

”ちょっと待ってよ、私がいたらうるさいってこと?”

”そうじゃなくて、積もり積もった話も色々あるでしょ?”



 顔を合わせば、約1年のブランクも感じさせずに、4人の会話は弾んだ。




「実家に帰ったって聞いたけど、長瀬、なんで今こっちにいるの?学校も急に辞めて……」



 こうやって昔の仲間と顔を合わした以上、その話題を避けて通るわけにはいかなかった。避けて通るぐらいだったら、のこのことやってくるはずもない。

 しかし、その事情を正直に話すことはできなかった。


「急にね、家の事情で私が実家の商売を継ぐって話になって、それで学校を辞めたの」

「ご両親に何か?」

「ううん、二人とも元気、ただそういう事情になるについては、ちょっと家の中でゴタゴタがあって……」

 濁せるところは濁した。こう言っておいたら、きっと他人には話せない家庭の事情があるのだろう、ぐらいには相手にも伝わるだろうし、それなら、あまり突っ込んだことも聞いてこないだろうから。


「今、こっちに?」

「うん、結婚するまで、ちょっとのんびりやらせてもらってて」

「決まった相手がもういるの?」

「まあ、いるような、いないような……」

 こういう話題が続くせいか、ワイングラスをいくら傾けたところで心地よい酔いなんか期待できそうもなかった。

 「決まった相手」と言われて、微妙な気分になりながら、やはり言葉を濁した。さっきから、私言葉を濁してばっかりだ。


「ピアノにもう未練はないの?」

「うん。子供相手にレッスンして、たまに気晴らしついでにちょっと弾いて、ってそんな感じで満足みたい。今はプロになりたいとか、不思議と全然思わなくなっちゃった」


 その言葉は正直な気持ちだった。

 友人に「未練」なんて言葉を使われて、自分がもうそんな気持ちをこれっぽっちも持ってないことを改めて感じた。



「なるほど、そっかー!」

 ゆかりの言葉を聞いた友人の一人がニヤニヤしながら声を上げた。なんなんだろう?なんか冷やかしでも言いたそうな様子をしているけど、と思っていると、彼女はこう続けた。


「いるような、いないような。なんて言ってるってことは、きっといるんだ。いい人が」

「えっ……」

「しばらくは、のんびりと互いに恋人同士って関係を楽しんでなさい。みたいなことなんでしょ?親の目から離れたここで」

「えっ……」

「一度帰った実家から、また、こっちに出てきたっていうのはそういうことなんでしょ?……そうか、だから、あれほど熱心だったピアノを捨てても、サッパリしてられるんだ」


 勝手にゆかりの言葉を解釈して頷いているが、そんな友人の言葉が、次第にゆかりの表情を硬くさせて行った。

 友人の言葉にある「いい人」とは誰のことを言っているのか?もちろん、具体的な名前なんか彼女たちは一切知らない。

 ゆかりにだけ、心当たりのある「いい人」

 けど、それは一体、誰のこと?


 

「つまり、ゆかりは見つけたんだね」


「何を?」




「新しい、しあわせを」


 友人たちは、そう言ってゆかりを冷やかした。そこに悪気なんかなかった。あるはずはなかった。悪友なりの祝辞。突然大学を辞めて姿を消した友人のつつがない様子に安心し、その友人を待つ新しい未来をお祝いしたにすぎなかった。


 しかし、実際のところその言葉は、ゆかりの心臓を刺した。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 そうして、旧友たちとの女子会が終わった。

 二次会してく?という誘いを断ったゆかりは、一人、タクシーに乗って家路についた。



 夜の街を走るタクシーに揺られながら、ずっとゆかりは物思いにふけっていた。


 あのとき友人が口走った「新しいしあわせ」という言葉について。



 周りの人たちがそれを願い、そして自分もそれでいいと思っている「新しいしあわせ」と、もう一つそこからずれたところにある別のもの。この二つが今、彼女の頭の中に二重写しになって存在していた。


 自分は、一体これからどう生きるべきか?分かりきっている話だ。勝手なマネは許されない。また自分に許すつもりもない。

 レールはもう引かれているし、自分もその軌道からずれるつもりはない。



 じゃあ、今なんのために、ここにいるの?

 いつまでここでこうしているつもり?

 まだ、しばらくはのんびりしていたい?けど、それって単なる時間稼ぎなんじゃないんだろうか?

 一体、私は何を望んでいるというの?何のために時間稼ぎがしたいの?

 本当は、もう「新しいしあわせ」に向かって歩き出せる自分に気づいているんじゃないの?


 あの日、自ら命を絶とうとしてから、もう1年以上の歳月が過ぎた。

 そして今、音大時代の仲間ともう一度会ってみたいという気になったのは、自分の中でも少し驚くほどの変化だ。

 ひまわりが丘に引っ越してきてから、忙しさの中で少しずつ自分の傷も癒えているような実感を感じないわけではなかった。

 この大きな傷跡は決して消えることはない。かすり傷とは違う。そして、ときどき傷跡はこれからも疼くだろう。


 けど、一度は見たくもないと思ったピアノに触れられるようになり、笑顔で旧友と会うこともできるようになった。


 それで充分じゃないだろうか?過去は一応、自分の中で本当に過去のことになりつつある。

 もう自分の人生を歩む覚悟を決めたほうがいい頃なんじゃないんだろうか?


 一つだけはっきりしていること――私は、いつまでもひまわりが丘で暮らせるわけじゃないということ。

 これ以上の時間稼ぎは、自分の人生の無駄かもしれない。


 自分が一歩進みだすことを待っている人がいる。

 両親と、そして……。




 タクシーの窓から見える夜景をぼんやりと眺めながら、ゆかりは呟いた。


「いつまでも、この町にいられるわけじゃない……」


 車は次第にひまわりが丘近辺にまで近づいてきていた。

 暗闇の中で町の明るい部分が浮かんでいるだけなのは同じでも、見知らぬ町と違ってこの辺りまでやってきたら、闇にまぎれてしまっている部分まではっきり見えるような気がした。

 それだけ、いつの間にかこの町に馴染んだということなのだろう。


 そんなに馴染んじゃいけない。いずれは離れるのだから。いい思い出、でいい。

 私の子供っぽいヤキモチのせいで、あっちともこんなふうだけど、そのままフェードアウトってことでちょうどいいかもしれない。



「運転手さん、やっぱりひまわりが丘の駅前で下ろしてもらえますか?」

 最初、まっすぐ自宅に帰るつもりのゆかりだったが、急に行き先を変更した。

 タクシーは、ひまわりが丘の南口のロータリーでゆかりを下ろした。商店街のある側である。



 そこから、少し歩けば商店街。

 物販のお店も飲食店も店じまいをしてしまい、昼間よりさらに人通りのまばらなアーケードで営業中のお店は数が知れていた。


 ショットバー「jiro's」の扉をくぐったゆかり。



「ああっ!握り飯っ!あんた何しに来たのよ?!」

「それが客を迎えるセリフっ?!」


 カウンターで静かにグラスを傾けていたとおぼしき男性客二人が驚いた顔でゆかりを見つめる中、思わず大きな声上げてしまうゆかり。

 このバーテン、今日もわたしのことを嫌そうな顔で睨む。


 私だって客でございます。何か文句でも?

 ゆかりはスタスタとカウンターの一番奥の席に着いた。


「飲むの?」

 相変わらず不機嫌そうなジローがまるで、飲むな!とでも言いたげな調子で聞いてきた。

「飲みますよ」

 負けてないんだから。こっちもきっぱりと言ってやる。


「あんた、もう飲んでるみたいね?それに、なに?そのナリ。デートでもしてたの?」

「違います」

「その格好で、この中途半端な時間に一人で酒飲むってのはさ、捨てられたの?――藤阪ちゃんもあんたみたいなドブス、やっぱり捨てるわよねえ」

 ヘラヘラと笑うジロー。このバーテンの顔、なんかムカつく。


「なんで、そんな勝手なこと言われなきゃいけないんです!」

「でも、そうでしょ?そのちょっとお洒落な茶色のワンピースとか、そんなピンヒールなんてさ、友達と会うにしちゃ、フォーマルな雰囲気だけど。違うの?」


「イタリアンレストランで女子会だったんです」

「じょ、女子会……アハハハ、あんたみたいな不細工たちが集まって飲み会?負け犬同士が傷を舐めあう会?イタリアンだって!!冷凍ピザでも食ってりゃ充分よ、あんたなんか!」


「どうでもいいから、さっさとマティーニ作ってください!!」




 それからジローが作ったカクテルをかなりのペースで次々に飲み干すゆかり。


「握り飯!あんたいい加減にしなさいよっ!テキーラ飲むんじゃないんだからねっ!マティーニを『駆けつけ三杯』みたいにして一気に飲むバカ初めて見たわ!」


 そう、ジローの言葉じゃないが、お嬢様、まさにそんな飲み方をしていた。ちなみに、実際は3杯じゃなくて5杯。


「うるさいわね!ほっといて!」


 段々と言葉遣いが荒れてくるゆかり。酔っているのもあるが、目の前のこのムカつくバーテンに気を使うのがバカバカしくなってきているのもある。

 基本的に、酔っても丁寧なのがゆかりだったが、このオカマには、お嬢様を悪酔いさせる何かがあるようだ。


「今度は、スクリュードライバー」

「寿司屋で寿司注文するんじゃないんだからね!」

「いいでしょ!何?トロとかイクラとか頼めって言うんですか?」

「うわっ、握り飯、あんた上品そうに見えて、絡み酒?……どうでもいいけど、そんなに飲んで大丈夫なの?」

「ご心配、要りません」

 なによ、このオカマ、急に人の体の心配なんかして……。まあ、ちょっと自分でもムチャ飲みしている気はするけど。


「誰もあんたの心配なんかしてないわよ。こんなところでゲロでも吐かれたら洒落にならないと思うだけよ」


「……」



 それほどの量を飲んでいたのは確かだった。


 今は、どうしてもお酒の勢いが欲しかった。

 うまく酔えるかどうかは分からなかったが、このオカマバーテンと憎まれ口を叩きあいながら、賑やかにやっているせいか、自分でも調子よくお酒が回ってきたことを感じれた。


 そろそろ、いい頃。大丈夫。今日一歩踏み出そう。お酒の力を借りてでもなんでもいい。


 

 片手に携帯電話を握り締めたゆかりが、おもむろに立ち上がった。

「どうしたの、便所?」

「……ちょっと、電話をしたいんです!」

「握り飯。あんた、まさか飲み逃げするんじゃないんでしょうね?」


 このバーテン、どこまでも自分のことをコケにする。

 ムカムカしながら、ゆかりは自分のバックをカウンターの上に乱暴に置いた。

「これ置いてくんだから、逃げるわけないでしょ?」


 ちゃんと有名ブランドのロゴが見て取れるバックを指差したジローからの「何、このエコバックは?」という言葉を背中に聞きながら、ゆかりはバーの扉の外に出た。



 機械を操作する指が微かに震えているように感じるのは、きっとお酒のせい。

 別に、動揺のせいなんかじゃない。

 とりあえず、あまり長い言葉を話す必要はない。


 それから、すぐに通話に出た相手の様子に少し戸惑ったが、向こうの言葉なんかロクに聞かずに言いたいことだけを一気に喋ってしまった。

 まるで、今日のお酒のように、ただ一気に。


「ゆかりです。今商店街のバー「Jiro's」にいるんですけど。お暇でしたらいらしてくれませんか?」


 しばらく、相手が黙った。

 ”ごめん、今日はちょっとダメなんだ”とでも言ってくれたら……。ううん、それじゃいけない。どうか、イエスと答えて。

 相手のしばらくの沈黙の間、ゆかりの心は揺れていた。

 やがてゆかりの耳には


「……はい。……わかりました」

 という短い返事が聞こえた。


 固い表情で、ゆかりは電話を切った。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 その後、再び席に戻ってきたゆかり。

 またもやテキーラ飲むみたいに、ショートカクテルを飲み干すと、間髪居れずにおかわり。


 なんだろう?この女。なんで女子会の帰りに、一人でこんなところで黙りこくってカクテルあおってるの?

 しかも、席に戻ってきたと思ったら今度は俯いてじっとしてやがる。

 うわっ、何これ。たまんない暗さだわ。

 身内でも死んだみたいになってるじゃないの。やめてほしいわ、このお洒落なバーにこれほど似合わない客ないわ……。



(これでいいのよ、これで……私、いつまでもこの町にいられないし。あの人もいいひとだし。うちの両親だって気にいっているみたいだし……)



 そのうち、ゆかりは伸ばした二の腕の上に頭をのっけて、暗い顔しながら、カウンターテーブルの上に落ちた水滴を、指先でクルクルと持てあそびだした。

 あきらかな酔っ払い。しかも目がうつろ。雰囲気が暗い。

 この握り飯、酒癖、最悪だわ。


 やがて、一人鼻歌を歌いだすゆかり。

 歌うのは「あずさ2号」。大変懐かしいナンバー。

 歌詞の内容はというと、好きな人を置いて、別の男といっしょになることを決心した女が、好きな男への未練をタラタラと述べる、って感じの歌。

 それを、カウンターの上に突っ伏しながら、ボソボソと歌った。


 最初ジローはそれを聞いて、こいつお経唱えだした!と驚いた。

 それぐらいに低くて暗くて単調な歌声。

 しかし、よく聞いたら、古い歌。この女いったいいくつだ?

 本当にいい加減にしてほしいわ。別の客からも変な目で見られてるの気づいてないのかしら?



 やがて死んだ目をしたゆかりが、本日5度目になる「あずさ2号」の独唱をボソボソと歌い終わった頃。

 バーのドアが開いた。



”いけない!自分から呼び出しておいて、暗い顔してちゃダメだ!”

 急いで笑顔を作りながら、カウンターの上から頭をもたげて、扉のほうに視線を向けた。




 そこには、急な呼び出しに驚いて駆けつけた草壁がキョトンとした顔をして立っていた。



 一方の草壁である。

 呼び出しの電話を受けてから、急いで外に飛び出そうとした。

 そこで、しばらく考えてしまった。

 待てよ、ショットバーに行くのに、いつも着てるみたいなチェックのシャツとジーパンでよかったのかな?けど、いちいちスーツ着てくのも変だ。というか、持ってるスーツって大学入学式の時きたスーツだけど、あれでショットバーは少し無理があるか?


 まあいいや、どうせあのオンボロ商店街の店なんだ、それほど気を使う必要ないか?


 てなことを思いながら、当然だが、ゆかりが何を思って急に自分をバーに誘ったか、についても疑問に思っていた。

 しかし、こういう呼び出しをしてきたということは、仲直りというか、お詫びというか、なんかそんなことなんだろうな。



 そう思いつつ、扉を開けたとたんに店の奥にいるゆかりの姿がまっさきに飛び込んできた。

 彼女はとても嬉しそうな顔をしていた。


 今までの不機嫌な様子が何時の間にか全く吹き飛んでしまったようにしている。いや、機嫌がいいというより、待ちわびた恋人を迎えるような笑顔。


 ドキッ、となった。

 それなりに友達として仲良かったが、そんな笑顔を見せてくれたことはこれが初めてかもしれない。

 やっぱり、彼女、かわいい。


 なぜ、そんなふうに態度が急変したかはわからなかったが、そのゆかりの笑顔に引張られるように、店の奥へと、自然と歩いていった。



 ところが、草壁が近づいてゆくにつれて、ゆかりの笑顔が急に萎んでいった。

 じっと目を見つめあいながら、草壁の歩みにしたがってすこしづつ距離が縮まっていくが、次第にゆかりの笑顔は、やがて呆然とした表情へ、最後はなんだか怯えたような顔になっていった。


 なんなんだろう?このゆかりの微妙な変化は?

 と思っていたが、二人の視線はずっとつながったまま、草壁がゆかりのすぐそばの席までやってくると、草壁は黙って彼女の隣の席についた。

 彼のほうは、なんと言っていいか言葉が見つからないまま、慣れないショットバーの様子をしばらく観察していた。

 カウンターの離れたところにいる、おひとり様らしいのが2名、すこし距離をとって座っていた。

 一人は、ツイードのジャケット着た中年ダンディー。

 と、もう一人は、仕事がえりらしい紺のスーツのサラリーマン風。

 ヤバッ、やっぱりこのチェックのシャツとジーパンはまずかったか?隣のゆかりさんだって、シックなワンピース着てるし、とか思ってキョロキョロしていると、小さくゆかりの声が隣から響いた。


「どうして、ここに?」


 ん?と思ってゆかりを見た。さっきからジッと草壁を見つめているその雰囲気には、もう全く怒りとか嫉妬とかそんなネガティブな感情は感じなかったが、なぜか、オドオドした様子に見えた。


「えっ?だって、さっき電話くれたじゃないですか」

 ゆかりの素っ頓狂な言葉に驚いた草壁。

 わざとボケている様子にも見えないが。

 一体、彼女なんのつもりだ?まさか、酔った勢いで電話してもう忘れてたとでも言いたいのか?



 草壁の言葉を聞いたゆかりは、ようやく視線を彼から外した。しばらく二人は黙って並んでいた。



「あなた、何飲みたいの?」

 目の前のバーテンが聞いてきたので、草壁はとりあえず知ってる名前を適当に言った。

 隣のゆかりの様子に気を取られていたせいで、目の前のバーテンの口調が、妙に甘ったるい気持ち悪い響きを帯びていたことには気づかなかった。


「じゃあ、僕、ジョンコリンズ」


 その瞬間、カウンターの上に乗せていた草壁の右手の上に、正面から男の手がスッと伸びてきた。エッ、何っ?って手を引張られながら驚く草壁。

 草壁の手を掴んだのは、目の前のチョビヒゲ、短髪のバーテン。

 かなりの力で草壁の右手をひっぱりあげると、その手の甲に唇を近づけた。

 どんなに柔らかくても、男の唇なんて、気持ち悪いだけだった。そして、その手に頬ずり。ヒゲのせいでジョリジョリする。どっちにしたって最高に気持ち悪い。けど、突然の出来事に草壁、手を引っ込める余裕もなかった。


「あなた、かわいい顔して、渋いもの頼むじゃない……タイプだわ」


 今までの生涯のうちで、瞬間的に「殺意」というものにもっとも近いものを感じたゆかり。

 すごい形相で立ち上がると、草壁の手をオカマのヒゲから引き離した。


「私の客になにするの!」

 安物のキャバ嬢が、マジの客の取り合いしているようなちょっとした修羅場。

 離れたところで見ていた二人の客も目を丸くしている。


 いきなりへんなバーテンに気持ち悪いアプローチをされて、呆然と座っている草壁。ゆかりはそんな彼の座る椅子の小さな背もたれをつかんで、クルッと自分のほうに向けた。

 そして、ジローを睨むと、手で追い払いながら。


「邪魔しないでください!こっちにかまわないで!」


 お嬢様、普段に似合わない荒っぽいしぐさをする。まるで、ハエでも追っ払うみたいだった。



「なによ!握り飯!あんたこそひとの恋路を邪魔しないでよ!!」


 に、握り飯?!

 おしぼりで右手をゴシゴシやりながら、草壁は驚いていた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 一体、何の目的で彼女は自分を呼んだのだろう?

 草壁は最後までそれを確かめることはできなかった。

 あれから、ジローも大人しくなって、しばらく二人をそっとしておいてくれたのだが、二人に会話は少なかった。



 その間、ゆかりがカクテルグラスを傾けながら、独り言のように何度も

「ごめんなさい」

 と呟いた。


 草壁とは目をあわせようとはせずに。


 草壁はきっと、自分にイジワルな態度を取ったことを謝っているのだろうと思っていたし、それぐらいしか謝られる心当たりはなかったのだが、彼女は、そんなちっぽけなことに対して、何度も「ごめんなさい」を繰り返していた。




 帰りに再び、あのオカマバーテンから手を握り締められ、「草壁ちゃん、今度は、こんなドブスなしで一人でいらっしゃい。待ってるわ」とウインクされて店を出ると、商店街の人通りはバッタリ絶えていた。



 店の中では、始終口数の少なかったゆかり。

 ところが、店を出て人気のない夜道を二人で歩いていると、次第に明るい様子に変っていった。

 酔いと背の高いヒールを履いているせいで、かなり怪しい千鳥足を踏むゆかりを心配した草壁が


「大丈夫ですか?足元。酔ってヒールなんか履いてて……」

 と声を掛けると

「ヒールは慣れてるの!ピアノより慣れてるんだから!」

 上機嫌で笑っている。

「んなわけないでしょ!」


 見ているとおぼつかない足取りだけど、わざと酔いに身を任せるようにして楽しんで漂っているところもあるみたいで。


「ホラホラ、危ないよっ!ぶつかっちゃうよ!……ドンッ!」

 って言いながら、草壁の肩にぶつかってくる。


 そして、今度は反対がわにフラフラ。

 そっちは危ないからって、草壁が手を引張ると、頭の上で両手を羽のように撓ませ、ワンピースの裾をひらめかせて彼の目の前でクルッっと回って見せて……。

「メルシー、ムッシュ」


 

 なぜか分からないが、今度はすっかり上機嫌の様子。

 蝶々がまといつくみたいにして自分のまわりをクルクル、チョロチョロと歩くゆかりがコケたりしないか心配しながら、一体、今日の彼女はどうしたんだろうと、不思議な気分で夜道を歩いた。

 そんなゆかりを見ながら、彼のほうも自然と微笑みをもらしていた。


 


 そんなふうにしながら、二人がマンションのオートロックをくぐりエレベーターの前まで来たときである。


「現在、エレベーター故障中につき、使用不能。階段をお使いください」


 エレベータードアは、そう書かれた張り紙に封されていた。


 すっかり上機嫌のお嬢様、その張り紙を大きな声を上げて読んだ後、唇を尖らせた。

「故障中?なに?せっかくこうして帰ってきたっていうのに、そのおもてなしは?」

「仕方ないじゃないですか」

 ゆかりほどは酔っていない草壁は冷静な声で応えた。


 しかし、すっかりご機嫌のゆかり、わざと拗ねたような顔を作って

「なーにが、故障中よ……こんなもの……」

 そういいながら、張り紙に手を伸ばす。

「はがしちゃえ!!」


 隣で草壁が苦笑しながら、ゆかりの手を叩いた。放っておいたら、本当にはがしちゃぞ、この人。

「こら、イタズラはダメですっ!」


 手を叩かれたゆかり、こんどは不満げに草壁をじっと見つめた。

「手を叩いた……」

「あなたが本当に張り紙はがそうとするからでしょ!」

「草壁さんに、叩かれた!」

 すると、俯きながら両手の甲を瞼にあてるゆかり。

「草壁さんに、叩かれたあぁぁぁ~」

「それぐらいで泣くことないでしょ?子供ですか、あなたは?」

 おいおい、今度は泣き上戸か?と思ってみていたら、ゆかり、急ににっこりと笑顔になって顔を上げて、おどけた。


「ウソ、なんちゃって」

 ペロッと舌を出したりする。

 可愛いけど、なんだろう、この人?今晩は、なんでこんなに上機嫌なんだろう?



 仕方ないということで階段を使う二人。

 しかし、さっきから上機嫌なのはいいが、平坦な路地を歩いているだけでもかなり怪しい足取りのゆかり。

 ずっと履いている細いピンヒールのままで階段なんか登らせていいのか?と思って草壁が見ていると、案の定、一段目に足をかけようってところで、すでにフラフラしている。


「あぶない!」

 思わず、後ろにひっくり返りそうになっているゆかりを背後から抱きかかえるように草壁が支えると、本人は自分のそんな様子に危機感がまったくない。


「あっ、ナイスキャッチ!」

 とか言いながら、へっちゃらな様子で笑っている。

 そして、再び、踊り場から一段登ろうと足をかけようとする。

 今度は、ヒールが段の上にちゃんと乗っかってないのに体重を前に掛けようとするから、前のめりにコケそう。やはり、草壁に支えられて難をのがれたが、本人、「アララ……」なんて言っているだけで、笑っている。


「あぶないですよ」

 と草壁が心配しても

「大丈夫、大丈夫。お姉さん、酔ってなんかないから」

 そういって、再び、登攀にチャレンジしようとする様子。さっきから、一段も登れていない。


 見ている草壁の心配は、やがて怒りに変っていった。

 この人は、このまま階段登って、ケガでもしたらどうするつもりなんだ!

 いい加減にしろよ!



 一階階段の踊り場で、ゆかりのふらつく肩を背後から草壁は掴んだ。

 そして、ゆかりを自分のほうへ向き直らせた。

 酔いの脱力のせいで、風船みたいに軽々と草壁のほうへ向いたゆかりのフワフワした笑顔は、すぐに消えた。

 目の前では、草壁が怖い目で自分を睨んでいた。


 イタズラが過ぎたのを自覚した子供みたいになったゆかり。

 おどおどした上目遣いで目の前の相手の様子を伺った。

「な、なんで、怒ってるの?ねえ、もうふざけないで真面目に階段のぼるから……」

 すっかりショゲた声に変っていた。自分はそんなに悪いことしちゃった?


「登らなくて良いから、そこにちゃんと立って!」

 草壁の叱咤の声が響いた。

 その響きにゆかりは一瞬、ビクンと肩をすくめた。


「はい……」

 ふらつくことなく、しゃんと草壁の前に立つゆかり。


「ここで、ハイヒールを脱いで!」

 ジッとゆかりを睨みつけたまま、丸っきり命令口調で次の指示を飛ばす。

「ど、どうして……」

 弱った顔のゆかり。

 しかし、口答えは許されなかった。

「いいから、脱いで!」


 目の前で怖い顔してジッと自分を睨む草壁の顔色とときどき伺いながら、かたっぽずつヒールを脱いだあと、それを足元に揃え終わると、足の裏にコンクリートのひんやりとした冷たさを感じなながら、「脱ぎました」と言って、ゆかりは再び彼の目の前に裸足で起立姿勢をとった。


「脱いだら、それを持って」

 上官の命令に従う軍人よろしく、今度は脱いだヒールをそれぞれ両手にひっかけて「持ちました」と言って、草壁の目の前に直立した。


 怯えたような目で、今度はどんな命令が下るのかと思いゆかりが小さくなっていると、草壁はそこで、にっこりと笑った。


 そして、



「じゃあ、いきますよ……」


 すこし屈むようにしながら背後に回った草壁の片手が、ゆかりの膝の裏あたりに滑り込むと同時に、もう片っ方の腕で背中を支えてから、振り子運動みたいに上半身を捻ると、彼女の体を掬い上げた。

 その瞬間、ゆかりの足は冷たいコンクリートから浮かび上がった。


 彼女自身は、そのとき、自分がどうなったのかしばらく分からなかった。


 そして、彼のほうも、少し酔っていた。

 掬い上げた力は、彼女を地面から引き離すだけにしては、ちょっと強すぎた。


 勢いよく抱き上げられたゆかりの体は、彼の手を離れてちょっとの間、空中を飛ぶように浮かんでいた。


 急に訪れた、浮揚感と高揚感に全身が震えているみたいな感覚になりながら、彼女はその感覚に素直に身をゆだねた。知らないうちに、ヒールを持った両手で口を覆った。微かに喘ぎのようなものを口からつきながら。


 そして、彼女の体はストンと草壁の両腕に落ちた。


 その腕の中で我に帰ると、微笑んで自分を見つめる彼の瞳に気がついた



 横抱き。いわゆる「お姫様抱っこ」の完成。


 この酔っ払いにそのまま階段なんか登らせられない。草壁はゆかりを抱いたままゆっくりと階段を登っていった。


 まあ、しかし、酔っ払いは酔っ払い。

 草壁の腕の中で、ゆかりがじっとしてくれないのだ。

 最初――。


「離せーっ!この浮気者!!」

 とか言いながら、草壁の頭をポカポカ殴る。殴るって言っても、本格的なもんじゃなくて、握ったコブシの脇で、トントンやる程度、つまり肩たたきみたいな感じだけど、これが、抱いているほうとしては鬱陶しい。

「うわっ、バカっ、暴れるな!」

 こんなところでこけたら、一蓮托生、二人で階段転げ落ちて洒落にならないから、草壁の言葉もちょっと乱暴。


 それが収まったと思ったら、いつの間にか草壁の首根っこに両腕を巻きつけながら、見なくてもいいのに真下を見ながら

「ねえ、落ちちゃわない?落ちちゃわない?」

「じゃあ、見なくて良いから、とにかくジッとしてて、危ないでしょ!」


 そのうち、草壁の腕の中で、足を前後にバタバタやりだすゆかり。

「私、重くない?大丈夫?」

「大丈夫だから、ジッとしてて!子供か!あんたはっ!!!」



 しかし、地上からフロアを2つのぼったらもう3階。

 そんなことしているうちに、二人はあっという間に目的階に到着してしまった。


 深夜、というにはまだ早いが、マンション踊り場は人の気配もなく静まり返っていた。

 二人はそこで、ちょっとの間、黙りこくった。

 今だゆかりは草壁の腕の中である。

 彼のほうが下ろそうとしなかったし、彼女のほうも下りようはしなかった。


 夏服の薄手のブラウス越しには、彼女の体温がはっきりと感じられる。抱いてみると、案外華奢な体つきをしていることもわかった。バスト以外は、結構スリムなくせに、体全体はこんなに柔らかいものなんだ。

 半袖シャツのせいで、持ち上げた両腕に彼女の素肌を濃密に感じながら、しばらくぼんやりしている草壁だった。


 踊り場から見える月明かりが、二人の影を長く伸ばしていた。



 その時、腕の中のゆかりが草壁を見つめた。


「ねえ?」


 ん?と腕の中の彼女を見た。

 何が言いたげな瞳でジッとこちらを見つめたと思ったら


「どこまで、連れてってくれるの?」


 そう言うとゆかりは、目を閉じて、草壁の胸に顔を埋めた。


 あとは多分、何も言葉は必要ない、はず。


 彼女を抱いたまま、黙って草壁も3階フロアを歩き出した――。




 そのとき、マンション階段に響く足音と、声……。


「亮作君、今日は残念でしたね」

「あそこで粘って損しちゃった。ツルイチさんの言うとおり帰っといたらよかったんだよなあ……」

「しかし、この階段登るの疲れますね」

「タイミング悪いですよね、エレベーターの故障なんて」



 マンション3階の踊り場で鉢合わせになった、草壁、ゆかり、亮作、ツルイチの4人のうち、亮作とツルイチの二人が

「これは、奇遇ですね、このメンバー揃ったら、ちょっと飲み会でもしますか?」

「どう?お姉ちゃん」

 と、そこそこ上機嫌だったのに対し。


 ゆかりと草壁の二人は、なんとも言えない顔でしばらく黙っているしかなかった。




第13話 おわり

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