第12話 タアッ!
草壁圭介と長瀬ゆかりの二人がひまわりが丘に暮らすようになって、もうそろそろ3ヶ月。
カレンダーは7月に入った。喫茶アネモネの窓にも「氷」の垂れ幕が掛かりだした頃。
「日曜のお昼って言うのに、暇ですね。マスター」
「まあ、こんな日もあるさ」
「こんな日じゃない日ってあるんですか?」
「ゆかりちゃん、かわいい顔して厳しいことサラッと言うね」
この喫茶アネモネ。ここのところ、お店に清潔感が出てきた。
今まで小汚かったのか?と言われるとそんなことはない。マスターの名誉のためにそれは申し添えておく。
しかし今は窓なんか、ガラスだけでなく桟の隅々にまでホコリ一つ見当たらない。相当に気を使っている店だって、客の足元あたりなんか、案外汚れているものだが。
木目の鮮やかな床のフローリングは、長年の使用のために小さな傷は目立つが、その表面はまるで高級車のガラスコーティングのような輝き。
なんか、スカートの中身が映りそうなぐらいに。
もう最近では誰も使わないというのにカウンターの隅に置いてあるピンクのダイヤル式公衆電話も、新品みたいにピッカピカ。
あと、店の片隅の大きな植木鉢の中で葉を生い茂らせている観葉植物「ドラセナ・マッセンゲアナ」――なんだか舌を噛みそうな名前だが――の日高昆布みたいな葉っぱのどの一枚にすらホコリなんて見当たらない。
大変結構なことではある。
が、実はそうとだけ単純に言い切れない。
なぜか?
店の人間としてすることがない、と言うときの暇つぶしに一番いいことはなんだろう?答えは掃除。
これだって立派な仕事でもあるし、材料の仕込みみたいに客が来ないと無駄になるような仕事と違ってどんなにやっても無駄にはならない。
小さな店だというのに、必要ないはずなのに、雇い入れたウエイトレスが気まぐれにそれも二人そろってやってくるようになってこうなった。
今日も暇だなあ。しょうがない、二人で掃除でもしましょうか?
というような調子である。
そのことについてマスターがどう思っていたかというと――
いやあ、最近うちの店、以前にも増して綺麗になったなあ。
――程度のものだった。のんきな店だった。
「でも、お客がいないと、ちょっと大変ですよね?」
「あやちゃん、ちょっとじゃなくて、すごく大変だよ」
今日もやはり、ここのウエイトレスの二人は店の売り上げとかシフトとか店の都合とか、全く考えずにそろって出勤しているのだった。
そう、長瀬ゆかりと、辻倉あやの二人である。
しかし、掃除もやりきってしまったあとは、もうカウンターの中か店の片隅にでもボォーっと立っているほかはなかった。
今がまさにそんな状況だった。
「じゃあ、ちょっと営業かけてみます?」
「ん?あやちゃん、うちの客になりそうな知り合いの心あたりでもあるの?」
「今、お店の目の前にいますよ」
アネモネの真向かいというと、ゆかりのピアノ教室「ひまわりが丘音楽教室」なのだが、向かってその右隣には、古道具屋の「宇宙堂」。草壁の叔父が経営する、ガラクタしか置いていないような店である。
喫茶店の窓越しには、お隣さんまで充分確認できた。
その宇宙堂の前で、片手持ちのホウキとチリトリを持って、路上に落ちている小さなゴミを、あっちいって掬い上げ、こっち行って掬い上げして、動き回っている人影が見える。
タヌキみたいなアライグマの前垂れをかけた草壁圭介である。
「でも、草壁さん、今お仕事中でしょ?あの様子」
「営業かけたら、ホイホイやって来そうな予感がするんですよねえ」
「あやちゃんの言うとおりかもな。掃除をさっさと終わらせて、一仕事でもこなしたら来ると僕も思うな」
ものは試し。
ゆかりとあやが窓辺に並んで、草壁のほうに向かってニッコリ笑って手を振って見せた。
見てると、草壁は”オッ!”みたいな顔をしたと思ったら、即座に前垂れとホウキとチリトリをクルクルッとまとめて店の奥に放り込むと、ニヤつきながらこっちにやって来た。
背後では、草壁の叔父である古道具屋の主人、茂夫が「おい、どこ行くんだ!」と叫ぶ声を背中にうけながらもへっちゃらな様子。
「今日は暑いからアイスコーヒーにします。ところで、僕に何か用事でも?」
草壁のいい加減さにマスターが驚いた。
「想像以上にひどい仕事っぷりだな、君は……」
「あんな店いつクビになっても構いませんから」
寧ろ、そうして欲しいぐらいに草壁は思っていた。
「日曜の午後って、二人ともそろって出勤なんですか?」
草壁が並んで立っているあやとゆかりを見て言った。
客に営業をかける。と言っても、呼んだのがこの男一人。店の売り上げに大したプラスになるものではない。それでも客は客。
この店ではよく出現するシチュエーション「客1対店員3」というお寒い状況なのだが、カウンターに一人でも客がいるというだけでなんとなく、店としての格好がついたような雰囲気になるから不思議だった。
ただし、ゆかりがまず、草壁にお水を出したあと、こんどはあやが注文のアイスコーヒーにガムシロップとミルクを添えて出したら、お仕事おしまい。
「別にそんなことないですよ。きょうは偶々です。私、来週はレッスンがあるから来れないですし」
再び、草壁のすぐ隣にぼおっと立っているだけのゆかりがこう言うと、そのとなりで並んで立っているあやもそれに続けて
「私も来週はちょっと用事があるので……」
「えっ!来週は二人ともこれないの?」
あやとゆかりの言葉を聞いてマスターががっかりした。
元はと言えば、完全自由出勤制なんて条件で雇った自分の落ち度だと思うが。
しかし、店をやっているとわかるのだった。何人かの客は確かに、あやかゆかり、あるいは両方に会いたがって来ているのを。そういう客が来ない。売り上げが落ちる……。
「そうか、二人とも来ないとなると厳しいな。客、減るだろうなあ……とりわけ、確実に来ないと思われるの一人いるし」
「僕の顔見ながら言わなくたっていいでしょ!」
一応、こんな客だって居たら話が弾んだ。
客なしで、3人の店員が黙々と掃除ばっかりしているより、雰囲気が明るくなるのだった。
「あやちゃん、来週の予定ってなんなの?」
マスターがそう聞くと
「おばあちゃんちにお手伝い」
ストロー銜えた草壁が、そんなマスターとあやのやり取りに耳を澄ませていた。あやのおばあちゃんの話題なんか、彼にはまったくピンとこなかった。当たり前である、まったく見ず知らずの人なのだから。
よく考えたらそもそも、辻倉あやって子のことをあんまり知らないし。そういう意味では、長瀬ゆかりのほうは随分と色々と知っているなあと思ったりする。あやさんのおばあちゃんってどんな人なんだろう?ぐらいにぼんやりと考えているうちに、マスターとあやの会話はどんどん進んでいった。
「この近所にお住まいなの?」
「はい、それで、もう年だし、それに一人暮らしなんです」
「それは大変だね」
「だから、私がたまに私が顔を出すんです」
「おばあちゃん思いのいいお孫さんだねえ。……お手伝い、ってどんなことするの?」
「普段は、遊びに行くみたいな感じです。ちょっと大きなお買い物のお供とか、家のお掃除の手伝いみたいな……」
「そう……」
「けど、今回は大変なんです」
「どうしたの?」
「おばあちゃんちに、庭があるんですけど、その庭掃除」
「庭掃除?そんなに大変なの?」
「庭がちょっと大きくて。それで時期的にもうそろそろ、草刈りとかしとかないとこれから雑草が生えてくるじゃないですか?」
「そうか、庭付きの家ってのも大変だね」
「それだけじゃなくて、もう使わないような粗大ゴミの処分とか、庭石の移動とか。業者さん呼ぶとお金掛かるけど、私一人じゃなかなか大変なんですよね。力仕事があって……」
「若いって言っても、あやちゃん女の子だもんね。けど、それそんなに大変な作業なの?」
「やっぱり男手が一人あったらなあって思ってて」
「そうか……それは困ったねえ……」
「この会話、絶対、仕込んでたでしょっ?!!」
アイスコーヒーを噴出しながら、草壁が叫んだ。
おい、わざわざ、こっちを仕事中に呼び込んだのは、これが言いたかったからか!ハニートラップ!!!
実はゆかりもあやの隣で話を聞いていて、最後には驚いていた。つまり、このマスターとあやの会話は仕込みなんかじゃなくて、流れでそうなったまでであった。
しかし、そのあとの流れにゆかりはさらに驚いた。
マスターが笑って首を振った。
「違うよ!勘ぐりすぎだよ……いくらなんでも、そんなこと君押し付けるなんて厚かましいことできるわけないだろ!」
こういう流れで、草壁という男がなんと言うか?
「そうですか?」
別になんとも思いませんが?という顔をした。というか全然やりますけど、という顔。
「君……」
絶句するマスターを尻目に、横手に立っているあやのほうへ笑顔を向けると、シレッとした顔をして草壁が言った。
「僕でよければ手伝いますよ」
そう草壁に言われて、驚くあや。
――と、その隣でなんとなく面白くなさそうな顔して黙り込んでいるゆかり。
あっれー。微妙にマズイことを言ったような気になる草壁だったが、なぜそう思わなきゃいけない?だって、ゆかりさんは自分のことをキッパリ袖にして、友達だって言ったじゃないか。それが別の女友達の親戚の家にいっしょに出かけてお手伝いするだけのことに、なんで、自分が気を使わなければならない?
でも、なぜかゆかりの顔色というか機嫌については気になる。
なんだろう?この変な感覚は?
「草壁さん、本当にいいんですか?」
「はい、予定空いているし、行きますよ」
へんな流れになって戸惑っているのは実は辻倉あやのほうも同じだった。だが、実際に男手が一人欲しいと思っていたところなので、流れに任せた。
いいのかな?これ?と思いながら。
しかし、隣で黙って突っ立っているゆかりさんの様子が、ちょっと変。
そういえば、以前、私と草壁さんが二人でゆかりさんの演奏聞きに一緒にスナックへ行く、って話をしている時も、同じような空気だしていたな、この人。
それに今日、草壁さんがお店につま先歩きするみたいな変な歩き方して入ってきて、それを見たゆかりさんが黙って頭を張り倒したけど、あれ、なんの意味なんだろう?
二人にだけ分かる何かがあるみたいな雰囲気だったし。
ゆかりさんがお水を草壁さんに出すときも、
「いい加減!」
「いいじゃないですか。息抜きも必要です」
「いっつものほほんとしてるくせに」
……て、なんてことない会話だけど、ちょっとマイルドな雰囲気を出してるようでもあり……。「いつも」って言うぐらい、よく会ってるのかな?少なくともゆかりさん、あれほど気さくに他のお客さんとは喋ってはいないと思う。
それに、マスターが出来上がったアイスコーヒーを何気なくこっちに差し出したとき、私のほうが近くに居たから、当たり前に自分がそれを受け取ろうとしたら、2、3歩離れたところからスッと寄って来て取ろうと手を伸ばしてきて……。こっちが、どうしたんだろうっと思ってゆかりさんを見たら、ちょっと照れくさそうに視線を落としながら手を引っ込めて……。
マスターじゃないけど、草壁さんも、最近はゆかりさんが居るときを狙ってやってきてるみたいな気もするし。
それって、ひょっとして……。
あやが隣に並んで立っているゆかりに声をかけた
「あの……」
そっけない顔であやのほうを見るゆかり。やっぱり微妙に不機嫌そうに見えるのは気のせい?
「なに?」
「手伝ってもらっていいんでしょうか?」
「なんで、そんなこと私に聞くのよっ!!」
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そんなことがあってから、2、3日ほどたったある日。
平日の授業が早く終わったので、喫茶アネモネのお手伝いに辻倉あやが入っていた。
この日は、ゆかりの姿はなし。見るとお店の真向かいにあるゆかりのピアノ教室では、レッスンの真っ最中の様子。ガラス張りの窓越しに小さな男の子といっしょにピアノに向かっているゆかりの姿が見えた。
やがて店の前を草壁が通りがかった。
あやが見ていると、草壁、こっちには顔を向けずに、ずっとお向かいのピアノ教室のほうを覗き込みながら通り過ぎていった。軽く教室内のゆかりと会釈を交わしあいながら。
ん……。
と、その様子を見ながらあやは思った。
やっぱり、草壁さんはゆかりさんのことを意識しているみたい。
もともとあやのほうは草壁に特別な感情を抱いていたわけではないので、へえっ、ってなものである。
問題はどれぐらい、お互いが仲が良いかだ。完全に興味本位でしかないのだが。
付き合っているようには見えないし……。
やがて、お向かいの教室のレッスンも終わったようで、教室の外に立って生徒を見送るゆかりの姿が見えた。
そろそろこっちも帰ろうかな?と思って、エプロンを脱いであやが喫茶店を出ると、お向かいの教室からゆかりが待ち構えていたかのように顔を覗かせて、こう声を掛けた。
「あやちゃん、今終わったところ?ちょうどよかった。ねえ、今日うちでご飯食べない?」
二人で一緒にゆかりの家でご飯を食べる、というはよくあったことだった。が、今回はちょっと急なお誘い。
作る時間がないから、外で一緒に食べよう。ならわかるけど、ゆかりさんちで夕食作るの?こんな時間から?
今日はあんまり手間のかかるものが作れないなあ。まっ、いっか、そんなことは。それじゃあ、お母さんに今日はゆかりさんとこに行くからご飯いらないって、連絡いれとかないと。
それから商店街を出て、近所のスーパーで夕食用の食材の買出しを二人でやっていたときだった。
「ところで、ゆかりさん、今日のメニューって決めてるんですか?」
「全然」
「あ、そうなんですか?」
「あやちゃん、何がいいと思う?」
「……急に、食事会開くってそっちから言っといて、こっちにそんな振りされてもよくわからないですけど、普通にハンバーグとかじゃだめですか?」
「うん、いいと思う」
「二人でちょっと夕食食べるだけでしょ?あと、私がポテトサラダでも作って。お味噌汁と、ちゃっちゃっとあと一品ぐらい……」
「そうね、そんなもんでいいかな」
そんな会話もゆかりが微妙にそっけないのは気になっていた、様子がちょっと上の空。
なんか、食事会にかこつけて、私に相談事でもあるのかな?とも思わないでもなかったが、とりあえず献立が決まったら食材の買出し。
買い物カゴを持つゆかりと並びながら、このニンジンちょっと傷んでますね、とか言いながら売り場を二人そろってウロウロしていた。
じゃがいもは小さいの二つもあったら充分だから、バラ売りのやつを二つ……。
と思って、そちらに手を伸ばすと、ゆかりは大きめのが三つはいった袋に手を伸ばしている。
「そんなに要らないでしょ?」
と言っても、ゆかりは、余ったら私が使うからいい。って、あやの言葉を無視。
「ソース用のデミグラス、これで充分ですよね?」
あやが小分けになっているソースの小袋をカゴに入れようと思っていたら、ゆかりは缶詰のやつを手に取ってカゴに入れようとしている。
「ひき肉は200グラムかな?」
パックの表記を確認しているあやの隣で、黙って350グラムのパックをカゴに入れるゆかり。
「さっきから、私ずっと思ってたんですけど、ゆかりさん、明らかに3人分の調理を予定してませんか?!!」
と突っ込んでくるあやに、ゆかりが何か不満そうな顔をしながらとぼける。
「別に……私は、足りなくて困るぐらいだったら少し多めに買っておいたほうがいいって思ってるだけ。それにもう一人呼ぶって、あやちゃん、一体誰を呼ぶつもりなの?」
うわっ、この人、ややこしい人……。
あやは飽きれた顔で絶句した。
「そうですか。じゃあ、今日は2人で食事会ってことでいいんですね」
一体どうしたいのか、この人さっぱりわからないわ。もう何でもいい。
そう思ったあやが、ゆかりを置いて、次の食材の売り場に向かって一人で歩きかけると、ゆかりがわざとらしく、声をあげた。
「あっ、そうだ!あやちゃん!私、今、いいこと思いついた!!」
なんですか?振り向いたあやに向かって、ニッコリ笑ったゆかりがこう言った。
「今日は、あとでバドミントンしましょうよ!」
無言のままジト目になったあやに見つめられて、ゆかりは気まずそうに視線を外した。
それから、その後の食事会となるのだが、以前やったみたいに草壁を交えての3人で、ハンバーグを食べながら、どうでもいいような話に始終。
お互いの学校のこととか、読んだ本の話とか、ゆかりの実家の話……。
そもそも、最初あやには、なぜゆかりが草壁を食事会に誘いたがったのかその意味がさっぱり理解できなかった。
草壁と会いたかったから?まさか。だって、お互いお隣さんで、草壁さんたちの部屋で飲み会することもちょくちょくあるみたいだし。まるで見知らぬ関係でもないんだから、話したいなら、お茶の一つでも誘えばいいことじゃないのかな?
私って言う存在を間に挟まないと会うこともできないような二人ではないと思うんだけど……。
その後、例の総重量35キログラムある鋼鉄製のバドミントンの支柱を背負わされた草壁をつれて、もうすっかり日も暮れたお城公園でバドミントンをするようになって、あやには、今日のゆかりの行動の意味がわかったような気がした――。
今度の日曜日、何か持ってくものあります?特には……軍手と、髪が汚れないように巻くバンダナかタオルとか、それぐらいかな?道具はおばあちゃんちにあるし。おばあちゃん、どんな人?面白い人ですよ、とってもいいおばあちゃん。手土産いるかな?い、要るわけないじゃないですか!こっちが用意しなきゃいけないぐらいなのに!何しに行くつもりなんですかっ!
って感じで、草壁とあやが話し込んでいた。
間近に迫っているイベント、とも言えないつまらない所用だけど、一応二人にとっての共通の話題ということで、自然と二人きりで話しが弾んでいた。
そのとき、あやがあることにハッと気づいた。
まさか、ゆかりさん、私達がおばあちゃんちに行くことが気になってそれで3人で食事会しようなんて口実で探りを入れてるの?
急に今日食事会なんて言い出したのも、草壁さんの帰宅をちゃんと確認したから?
うわっ!なに、この持って回った感じ。
見ると、ゆかり、知らぬ顔を装いながら、ジッと聞き耳を立てている。全然見てない、という姿と、見てみぬ振りをしている姿には微妙な雰囲気の違いが漂っているものだ。
この人は……何を考えてるの?しかも、草壁さんが冗談を言って笑い出すと、ちょっと眉毛がつりあがってない?なんなの?この人?妬いてるの?じゃあ、もっとはっきり意思表示すればいいのに。
草壁さんだって、ゆかりさんのこと意識してるなら、さっさとくっついちゃえば良いのに。
なんで、私が、この二人に振り回されてるの?
そして、思った。
”ゆかりさんって、すごいメンドクサイところのある人だ……”
その後、あやを目の前にしてヘラヘラしている草壁の後頭部めがけて、ゆかりがシャトルを打ち込んで、その日の食事会はお開きとなった。
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さて、あやのおばあちゃんちで大掃除というその日のこと。
向かった先は、電車にゆられて20分ちょっとのところ。
途中で一回乗り換えをしてから降りてみると、もうすっかり郊外といったこじんまりとした駅。
一台だけ設置されてある自動改札を出ると、横に小さな窓口と券売機がひとつ、駅舎の中には古い木のベンチが4つほど壁際にならんでいて、そこを出ると、タクシー乗り場っていう手書きみたいな看板が立っているが、タクシーの姿なんてなし。多分こんなところで客待ちしても客なんかいないだろうから。
目の前には商店街とか駅前の繁華街なんかない。雑貨屋みたいな小さな個人商店と自動販売機の向こうにはもう普通の住宅街だった。
はっきり言ってかなりの田舎。
ひまわりが丘は、駅も特急停車駅で3階建ての立派な駅舎をしているし、商店街の反対側は首都圏郊外の大型ベッドタウンらしい賑わいがある。商店街側のほうだって、人家だらけの住宅街で、自然豊かな田舎の風情ていうのはほとんどない。
ちょっと列車に揺られただけで、これほど違うもんか?草壁もさすがに驚いた。
けど、あやの説明では「近く」と言ったが、これ近いか?
と、草壁は思うのである。
その駅を出ると、次第に建物より田んぼばっかりが目立つようなになった。歩道なんて整備されていないので車道の脇を、ビュンビュン飛ばす自動車に気をつけながらテクテクあるいて20分以上。
「あそこです」
いかにも左官職人の手仕事っぽい古びた漆喰の壁の建物が、あちこちに点在する集落にたどりついた。
相当古そうな家の多い中、比較的最近立てられたらしい白い壁をした2階建ての一軒家。築15年あるかないか?大きさは、4人家族が普通にゆったり暮らせるか?という感じ。
格子のついた玄関の引き戸の前にだけ、飾りみたいな生垣が並んでいるが、周囲を壁が囲んでいるというわけじゃないので、一体どこからどこまでがこの家の敷地かよくわからない。
横手にはビターチョコみたいな色をした古い板塀の物置が付属している。
この物置は相当古そうだ。
「元、農家なんです。おじいちゃんが亡くなってからはもうそれもやめて、おばあちゃんが一人でここで住んでるんです」
それから、あやと共に玄関に入った。
「いらっしゃい、あら!お友達なんていうから、女の子かと思ったら!まあ!」
出迎えてくれたのは、すっかり背中の曲がったおばあちゃん。
もともと小柄みたいなところが、年とって萎んで、さらに背中が曲がったものだから、隣に並ぶと本当に「見下ろす」という感じになるぐらいのちっちゃなおばあちゃん。
久しぶりにやってきた孫娘の到着を本当に嬉しそうにしている様子なんかは、気のよさそうなおばあちゃんという印象。
むしろこんな人が、こんな田舎に一人暮らしをしているなんて、さぞ心細いだろうなとそれだけで同情してしまいそうなぐらいに、気が弱そうなところも感じた。
ただ、このおばあちゃんと話して気がついた。
人の話をあんまり聞かない。
相手の答えをあらかじめ独り決めにして質問をする。相手がどんな答えをしようとお構いなし。年齢ということもあるだろうが、ものの考え方が非常に小さい範囲の中で完結してしまっていて、その外にはなかなか出ない。もうそれでいいんだろう。
が、そのペースにうっかり巻き込まれると大変だ。
相手が相手だけに、反省なんて期待しても無駄である。
「そう……私のところに紹介しにきてくれたの?」
一目見て、草壁をあやの彼氏だと思ったら、そのあとあやがどんなに否定しても
「嬉しいわ、わざわざおばあちゃんのところにも連れてきてくれて。なかなか、真面目そうでしっかりした感じのいい人だし」
完全に、あやの彼氏だと思いんだ様子。
若干、マズイことになったように思っている二人が、おばあちゃんの前で顔を見合わせて呆然としていると、
「あらっ!こんなところで二人して見つめあうことないでしょ?仲いいのね!」
こんな調子であった。
さあさあ、何もなくて申し訳ないけど、とりあえず上がってくださいな。
ところであなたお名前は?へえっ!草壁さんって言うの?
あや、もうお母さんのところには行ったの?
二人を家の中に招きいれながら口の止まらないおばあちゃん。
「行ってないから!」
こう答えたあやの返答にも、さらに大喜び。
「あっ!うれしい!お母さんのところに連れてく前に、おばあちゃんちに連れてきてくれたの!」
「いや、そういう意味じゃ……」
全く会話がかみ合ってなかった。
「話をすればするほど、変な方へどんどん流れてきますね」
「どうでもいいですけど、草壁さん、この状況結構楽しんでるでしょ?ニヤニヤしないでくださいよ」
畳敷きの居間に草壁たちを通したあとも口が止まらないおばあちゃん。とにかくよく喋る。
しかも、あやの連れてきた草壁のことが気にいったのかどうか知らないが、ちゃぶ台の上に、次から次へと茶菓子を並べたあと、草壁にオカキ食べろ、羊羹がいいか?それともリンゴでも剥いてあげましょうかと言って、そばにぺったりくっついて、放そうとしない。
”出合ったきっかけは何?やっぱり、お正月の百人一首の会?”
”おばあちゃん、いつの時代の話してるんですか。そんなんじゃないですよ”
”じゃあ何?”
”まだ内緒です”
”教えてくれないの?”
”また今度来たときに”
”あら、じゃあ、今度来たときの約束よ……”
「今日は大掃除のお手伝いに来たんだから、もう始めましょう」
調子よくおばあちゃんに話をあわせて、湯のみ片手にオカキをパリパリやってる草壁の腕を掴んであやが立ち上がると、そのまま庭まで文字通り引っ張り出した。
「うっかりうちのおばあちゃんのペースに乗っかったりしたら、いつまでも仕事にならないから、いい加減にしてください!」
「けど、こっちだって、せっかくもてなしてくれるのを無碍に断れないでしょ?」
「適当に話をあわせすぎなんです!」
相変わらず調子のよさだけは人一倍の草壁に、あやが説教している姿を見ながら、おばあちゃん。
「仲がいいこと……けど、ヒソヒソ話はふたりっきりのときにしなさいね」
とニコニコして見ているのだった。
何はともあれ、さっさと仕事にとりかかるに限る。
ということで二人、持参の軍手をつけ、バンダナを頭にキュッと巻く。ジーパンと動きやすいスニーカーがなんとなくおそろいみたいになっている二人だったが、これで簡単な臨戦態勢が整った。
しかし、最初、草壁は呆気にとられた。
居間から庭に下りてみても、敷地の区切りがなくて、ずっと向こうに小さな土手道がクネクネと続いていて、その先が雑木林になっているのが見えるだけ。
まさか、あんなところまで庭か?と草壁はたまげたがそうではない。
「あの辺りぐらいまで」
おばあちゃんが指差すが、よくわからない。20メートルぐらい先に小さな用水路が走っているが、そこより大分手前ぐらいまでということらしい。そしてその向こうに小さくみえる畑は、おばあちゃんの趣味の家庭菜園とのこと。
あとであやの話を聞いたら、だいたい敷地は120坪という。
とくに造園したわけでもないただの土肌むき出しの庭には、あっちにこっちに小さな樹木が植わっている。そこに古い灯篭とその脇に大きな石があるのぐらいか飾りらしきもののすべて。
そこのいたるところに、ひょろひょろとした背の高い雑草が生えていた。
鎌を片手の、あやの主な仕事は草刈り。
で、草壁のほうはというと――。
おばあちゃんの指示に従って、邪魔な庭石を抱えて、あっちにもっていったり。こっちにもってきたり。
今では立ち枯れになってしまった、ちょっとした樹木や植え込みをツルハシとか鍬とか使って根こそぎ撤去したり。
庭の片隅にサビだらけのまま放ったらかしの自転車とか猫車を抱えて、門の前において、粗大ゴミ回収用のステッカーを貼ったり。
脚立の上に立って、剪定ばさみで枝葉の伸びすぎた樹木の刈り込みをしたり。
庭の向こうに見える畑っていうのが、現在、このおばあちゃんが趣味でやっている家庭菜園なのだが、この家庭菜園に連れてかれて、夏野菜の種まきのための畝打ちをやったり。
おい!あの喫茶店でのあやさんの話だったら、ちょっとした力仕事があるだけみたいだったけど、こんなもん、相当な仕事量だぞ!
畑で畝打ちをしながら、汗だくの草壁が鍬を振るう草壁のそばでは、さっきからずっと草壁の後を追いかけているあやのおばあちゃんが、
「お生まれはどこ?」
「お年は?」
「ご実家はなにされてるの?」
「学校はどこ?」
と、興味津々の様子であれこれ質問してくる。草壁にはそのお相手という、肉体的だけじゃなくて精神的な負担間までかかっていた。
そのうち見かねたあやが鎌片手にやってきて
「おばあちゃん、いい加減にして!」
と、手を引張って連れ去っていった。おばあちゃんもそうだけど、草壁さんも放っておくとなにを言い出すか分かったものじゃない。
とは言っても、仕事は昼時には終わってしまった。
今日はお二人ともご苦労様、お昼用意してるからどうぞ。って言われて再び居間のちゃぶ台の前に案内された二人の目の前には、寿司桶が3つ。
問題は中身だ。海苔巻き類はなし。そのかわり、トロやらウニやらイクラやらの握りずしだらけ。
間違いなく「特上」
草壁にも、それが高いものだということは分かった。しかし、親類としてのあやには、別の意味もわかった。
これは特別なお客さんが来たときだけに出すものだということを。ただの友達相手に出すものじゃない。
完全に勘違いしている、おばあちゃん……。
傍らで、うわあ、結構豪華なお昼ですよねえ、って、ただ感心しているだけの草壁。これはマズイと思ったあやが。
「これさっさと食べて早く帰りましょ」
「えっ、せっかくおばあちゃんちに来たのにそんなんでいいの?」
「何言ってるんですか!今までの状況見てて、マズイことになってることに気づかないんですか?これ以上長居したら、どんなことになるかわかったもんじゃないでしょ?」
へえ、そう。そんなに僕と噂になるのが嫌ですか?という感じで微妙にムクれる草壁だったが、まあ、仕方ない。
3人揃ったところで、寿司に手をつけるが早いか、あやが
「おばあちゃん、今日は用事があるから、これ食べたら帰ります」
と、すばやく釘を打つ。
「早いのね……」
「ごめんなさい」
悪いとは思ったが、これ以上の長居は無用、というか危険。
せっかくの特上寿司だが、ヒョイパクヒョイパクとすばやく口に放り込んで、赤だしで一気に流し込む。
草壁のほうも、先ほど示し合わせたとおり、かなりのハイペース。
「二人とも、食べるの早いわね」
「もう、おなかペコペコで」
「それなら、後追加で何か取りましょうか?」
「いいのいいの。これで充分だから」
せっかく遊びに来てくれた孫娘が、早々に引き上げてしまうことにちょっとがっかりした顔のおばあちゃん。申し訳ないと思いながらあやが赤だしを啜っていると。そのおばあちゃんが
「ねえ、草壁さん」
と改まった声を出して、正座姿のまま草壁のほうへ改めて向かいなおした。
何を言い出すのか?と思ってみていると。
「うちのあやをよろしくお願いします」
と言って深々と頭をさげた。あや、思わず飲んでた赤出汁を吹き出しってしまった。
「ちょ……」
お付き合い、どころかもう婚約してるみたいなふうにでも思ってるんじゃないの?!大慌てで否定しようとしていたら……。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
おばあちゃんに向かって深々と頭をさげる草壁。
「いい加減にして!」
あやが草壁の頭を張り倒した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そして、その後あやのおばあちゃんちを逃げるように帰った二人。
これからどうします?なんて聞いてくる草壁に、もう帰りますけど?ってあやは当然のことだと言う顔で答えたら、草壁がなんとなく不満そう。
こんなところまで連れてこられて、お礼の一つもナシですか?という言葉に、お寿司食べたじゃないですかと返したら、草壁いわく、あやさんからのお礼がない。と言う。
どうしろというのか?というと、時間があるから二人でどっかに遊びに行こうと言う草壁。
という訳で、二人してその後、水族館デート。
デート?
あやにはそんなつもりはなかった。草壁の言うことももっともなので、仕方ナシに二人で行っただけだった。
もちろん、それなりに楽しんだが。
ひまわりが丘の駅から山のほうを目指すと、あやのおばあちゃんちみたいな田舎が出現するが、逆方向に海岸を目指すと、どんどん都会になってゆく。
海にまで出ると、大きな海浜公園とか遊園地、大型シネコン……などなど、かなり広いエリアに渡っていろんな施設が散らばる大都会。
そこにある日本有数の規模をほこる水族館は、この辺りの観光スポットの目玉の一つでもある。
パンフレット片手にぼんやり見て回るだけでも2,3時間はゆうにつぶれてしまう。
エメラルドグリーンに輝く水槽に照らされながら、まるでその中を泳ぐジンベエザメのように、あっちブラブラ、こっちブラブラと、二人も館内を漂うようにして歩いた。
「草壁さん、さっきのおばあちゃんのところでのアレ、調子のり過ぎでしょ?」
「僕はただ、否定して通じないんだったら、今度はイエスと言えば、反対にとるんじゃないかと思ってスイッチ切り替えてみただけなんですよねえ……」
「切り替えるタイミングとシチュエーション、完全に間違えてます」
その後、イベントエリアでのアシカショーを、カキ氷を食べながら見たりしている二人。
「なんか、草壁さん最近変りましたよね?」
「ん?そうですか?」
「だって、最初のころより、積極的になったというか」
「そうですか?」
「昔はお店にぼぉーとやってきて、そのまま帰るだけでしたよね?」
ああ、最初アネモネに顔出してた頃ね。ひまわりが丘に越してくる前あたりのことか……たしかに。
「正直、ちょっと気持ち悪かったです」
改めてあやにそう言われると絶句するしかなかった。思い返すとそうかもしれない。
けど、それを言うなら……。
「あやさんのほうも、最初は大人しいというか……」
「『暗かった』って言いたいんでしょ?」
「えっ?そこまでは思わなかったけど……」
「友達にこの前言われました。前まではちょっと暗くてとっつきにくいようなところがあったけど、最近明るくなったねって」
「へえ……」
「なんか、ゆかりさんと出会って一緒にいるようになってから変ったのかな?年上なんだけど、そんなこと関係ナシに、『親友』って言える友達今までいなかったから」
水族館を出ればもう夕刻。
今日は付き合ってくれてありがとう、なんて殊勝なことを言う草壁を見て、あやが笑った。
草壁のほうも、下心があって誘ったのでは、あんまり、なかった。ゼロとは言いがたい。けど、どちらかというと暇なのでどこか友達と遊びにでかけたかった、というぐらいの軽い気持ちだった。
あやのほうも、その草壁の下心のない軽い調子に、警戒心なく素直についてきたところがあった。
だから、水族館を出ると、あやのほうから、ついでにもう一つ連れてっていってほしいところがあると、気軽に話しを持ち掛けれた。
そして、行ったところが牛丼屋。
「平気な人は平気なんだろうけど、一人でこういうお店は入れなくて……」
「なんとなく、わかります」
色気のないシチュエーションだけど、カウンターに並んでドンブリを掻き込んでいると、かえって気楽な感じで喋ることができた。
「草壁さんとゆかりさんってひょっとして付き合ってたりするんですか?」
「ううん」
このまえ振られたばかりです。
「なんで、そんなこと聞くんです?そんなふうに見えます?」
「だって、ゆかりさん、なんとなく草壁さんのこと意識しているように感じることがあるんです」
「うーん。そうですか?……」
あやにそう言われて、思わず考え込む草壁だったが、彼女の言う意味が分からないわけじゃない。確かに自分もそう感じるときがある。しかし、一歩踏み出すと、いつも撥ね付けられる。しかも、実際、告白して振られている。
そんな裏事情を詳しくあやに言うことは避けた。が、改めてゆかりに近い親友からもそう見えているらしいことを知らされて複雑な気分になる草壁。
「よくわからないんですよ。ゆかりさんの口からは『ただの友達』って聞きましたけど――」
聞いたのか!で、やっぱり答えはそれだったか!
「――でも、なんかやっぱり意識しているみたいだし……」
隣で、あやが箸を止めて考え込みだした。それぐらい、彼女の目から見てもよくわからないらしい。
「あの……草壁さん?」
「ん?何?」
「ゆかりさんに好かれるようなこと何かしたんですか?」
「なんて質問の仕方だよ!」
しかし、そう突っ込んだあと、今度は草壁が考え込みだした。
彼にもその疑問はあった。
なぜ、長瀬ゆかりは自分のことを意識しているんだ?という非常に大きな疑問だ。
そりゃ、世間には「一目ぼれ」なんて言葉はあることは知っている。異性を好きになるのに理屈は必要ないかもしれない。実際自分がゆかりのことを好きになったのも、理由があったわけじゃないのだから。
けど、自分はそんなふうに女の人から一方的に思われるような何かがあるか?そう言われて、謙遜ではなく冷静に見てあるとは思えない。
今までの人生で、義理ではないチョコレートをもらった経験がない。
下駄箱や机の中に誰かからのラブレター。なんていうのもゼロ。
高校や中学のとき、どっかに呼び出されて女の子から告白された、ということもない。
卒業式の時に制服のボタンをせがまれたこともない。ボタンどころか記念の写メひとつ個人的にせがまれたことがない。
そんな自分をなぜ彼女が好きになったんだろう?いや、好きなのかどうかは分からない。もしそうだとして、それについての心あたりが全く草壁にはないのだ。
確かに彼女が自殺を図ったあと担ぎ込まれた病院でいっしょになってちょっと仲良くなった。あのときに何かあったのか?と言われても、草壁にはこれといった手ごたえを感じることはなかった。
最初会ったとき、妙にぼんやりと虚ろな様子だったのが、何回か顔を合わすにつれて明るく、とまでは言いがたいが、普通、ぐらいにはなっていた。
しかし、そのために、草壁自身がゆかりを励ましたり、元気付けたりしたことは特になかった。ただ会って話をするだけ。そもそも、その時点で草壁はゆかりの抱えていたそんな裏事情を知りもしなかった。
そして、彼女はある日だまって、連絡先もなにも告げずに彼の目の前から姿を消したのだ。
そんなの、少しでも気がある男にする仕打ちか?
そう思うのである。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
帰りの電車に二人並んで揺られていると、あやがこんなことを聞いてきた。
「今日のこと、ゆかりさんには黙っておいてほうがいいですよね?」
「えっ?」
秘密にしておきましょうね?ってこと?みたいな感じでちょっとドキッとしている草壁。
なんで、そう自分に都合よくばかり取れるかなあ……。
呆れ顔のあや。
「お二人に変に巻き込まれると、こっちがどんな目に合わされるかわからないから、伏せといたほうがいいと思ってるだけですよ」
「なんです?それ?」
「だって、そうでしょ?この前の食事会のときだって、なんか訳分からない雰囲気で始まって、訳分からないまま終わったし」
「こっちが悪いの?」
「草壁さんにとっても、そのほうが良いんじゃないんですか?誤解受けたら、面倒でしょ?またバトミントンのシャトル頭に叩き込まれますよ?」
なんか、こっちのためみたいなふうに言われると、それもムッとくる。
なんで、付き合ってもいない女にいちいちこっちが気をつかってコソコソする必要がある?
「ええっ!そんなふうにするの、なんか嫌だなあ……。それに隠しておくほうが却って不自然でしょ?だったら、堂々と言っちゃえばいいでしょ?こっちも友達同士なら、向こうとも友達同士なんだし、気を使うほうがおかしいと思いませんか?」
そのときは、確かに真面目な顔をして草壁はこう言っていたのだ。
「そうですか?……」
草壁の言うことにも一理はある。というか、向こうのほうが正論っぽいのであやも草壁がそこまで言うのなら隠す必要はないか?と思った。
「そうです。堂々としてればいいんですよ」
キリリとした顔でそう言いきると、草壁は軽く胸を張った。
そんなに力説することもないとは思うけどなあ……。まっいいけど。
ひまわりが丘の駅に、あやと草壁が到着すると、もう時計は7時を回ったぐらい。
乗ってきた下り電車から降りて、地上3階のホームからその下階の改札へと階段を下った二人は、ほぼ同タイミングで到着した上り列車から降り立った乗客の流れと2階で合流した。
2階フロアまで階段を降りきったそのときである。
上り列車からの客の中に一人、見覚えのある人影が……。
お出かけらしい、トートバックを肩に下げながら、長い黒髪をゆらゆらと揺らして一人フロアを歩く、二人にとってとても見覚えのある女性の姿。
停滞なく改札口の向こうに続々と消えてゆく乗客たちの流れを背後に、草壁、あや、ゆかりの3人だけがお互い見合うようにして、改札口から少し離れたところで、しばらく突っ立っていた。
「あら、お二人とも、こんな時間までお掃除?」
さわやかな笑顔のゆかり。「お二人」って言葉に微妙なトゲがある。「お」ってついているのが、ワンポイントアクセサリー。何気ない言葉にも、しっかりと皮肉な響きが感じ取れるようになっております。「こんな時間」とは、つまり「いくらなんでも掃除だけにしちゃ、時間かかりすぎよね?」っていうニュアンスの刺繍をほどこしております。全体的に言葉の矛先は、目の前でヘラヘラ笑っている草壁に突き刺さるように狙いをつけています。
そのとき、隣の草壁がやけに明るい笑顔をしているのが気になった。
ご機嫌を取るような様子。さっき「堂々としてればいい」って言った言葉とは全然態度が違うんだけど……。
しかし、あやのほうはあらかじめ草壁と示し合わせてあったとおりに、今日のことを正直に話そうと口を開きかけた
「実は、すいぞ……」
するとあやのその言葉を完全に覆い隠そうとするかのように草壁の明るい調子の声が、客の流れもおさまって人影まばらなコンクリートのフロアに大きく響いた。
「もうね、結構大きな家だったんですよ!ゆかりさんちほどじゃないみたいですけどあやさんちも大きくて!そこで草刈とか庭石どけたりとか、それから大きな古い物置の整理して、屋根裏のネズミ退治とかしているうちに、すっかり遅くなって、晩御飯まで頂いて帰ったらもうこんな時間!ほんとうに大変でした!今日は!」
はあっ?!
全然、言っていることが違うじゃないですか!っていうか、やりもしない仕事の話を勝手に作らないで欲しい。
驚愕のあやが草壁をチラリと見ると。草壁がヘラヘラ笑って頭を掻いていた。
もう、その顔を見てると、面白いやら飽きれるやら……。
この人は、口では「堂々としてればいい」なんて言っといて、いざゆかりさんの前にでると、それっ!?
いい加減にしてくださいよ!
本当に、しっかりしろ!このお調子者!!!ふざけんな!!!!
「タアッ!」
「アタッ……」
あやの繰り出すローキックが、ふくらはぎを見事にヒットしても、小さくそんな声を漏らしただけで、草壁は必死に虚ろな笑顔をゆかりの前でキープし続けた。
明らかに不機嫌なゆかりに睨まれながら。
第12話 おわり




