第11話 アジサイの咲く頃に
お話は、前回のあのスナックでの騒ぎの翌朝のことから始まる。
あれから、長瀬亮作は、全く関係ない客たちのいるその場で、姉の長瀬ゆかりがどれぐらい困っているかという話を、彼の完全な妄想の中でつくりあげて、それを大々的に発表した。
そして、そんな彼女を身を粉にして助ける弟、どいう勝手な悲劇のヒーロー気取りになって演説を続けた。
2,30分ほどの、そんな一人出鱈目熱血芝居のあと、長瀬亮作は潰れた。
その様子を呆れ顔で見ていたスナックmomoのママのミミから、ちょうどよかったわ、草壁クンが居て。
と言われた草壁。どこがちょうどいいんだ!と思いながらも、放っておくわけにはいかないからこの酔っ払いをマンションまでおぶって帰り、部屋のベッドに放り込んだ。
その翌朝のことである。
草壁が朝昼兼用のブランチを食べているところへ、昨晩の服のままの亮作が、ボサボサの髪をかき上げながらダイニングに顔を出した。
「おはよ」
「おは……いや、もう、昼だけどな」
「そう……ダメだ。昨日はちょっと飲みすぎたみたい。まだ頭がボォーとする」
冷蔵庫を漁る亮作の声はひどいガラガラ声だった。あいつ、そういや大きな声出してたもんな。
「おまえがあんなになるなんて、こっちもびっくりだよ」
苦笑しながら、草壁がお手製チャーハンを掻き込んでいたら、それを聞いた亮作は不思議そうな顔をした。
「ん?なんで草壁クンが知ってるの?いたっけ、あの居酒屋に?」
「おまえ、一体、どのあたりから記憶なくしてるんだ?!」
聞けば、ツルイチと駅前の居酒屋で飲んだところまでしか覚えてないらしい。
「スナック行ったの覚えてるか?」
「どこの?」
「……」
うわっ、コイツ、シレッと言いやがった。
「商店街にあるmomoってスナックだけど」
「覚えない。なんで草壁クンがそんなこと知ってるの?」
「居たから。お前とツルイチさんが二人してやってきたそのときに」
「マジで?草壁クン、そんなお店ちょくちょく通ってるんだ」
コイツは本当に忘れているようだ。そう思った草壁は、亮作にこんな質問をぶつけた。
「そんなには通っていない。けど、そこに知り合いが働いているからたまに顔を出している」
「へえ、友達?」
「誰だと思う?」
「僕の知っている人」
「うん」
「誰だろう?……」
「ゆかりさん」
それまで二日酔いのグロッキー状態だった亮作がそこで急に大声を上げて驚いた。
「えっ!お姉ちゃんがぁっ!?ウエイトレスやって、ピアノ教えて!夜のスナックのホステスまで!?お金にこまってるのかな!?」
「ふざけんなっ!!」
その後草壁から昨晩のことを聞かされた長瀬亮作は、思わず
「うわぁ……やっちゃったよ……」
と言いながら両手に顔をうずめるよりほかなかった。
「けど、それ本当?そんなに僕ひどかった?」
「なあ、お前、頭痛くないか?」
「ちょっとズキズキする」
「二日酔いのことじゃなくて、頭頂部辺り、さわって手ごたえない?」
「ここ?……イテッ……なんか、コブできてる。なにこれ?」
「おまえがさ、もう酔いつぶれる直前になって、『ぼくも働くから一緒にがんばろう』みたいなこと言ってゆかりさんの膝元に倒れこんだんだよ」
「……またそんな話?もう聞きたくないんだけど」
二日酔いのせいとは違う若干青ざめた顔になりながら亮作は耳をふさいだ。
「いや、一応聞いておけ。でな、そのお前の頭をな――」
”服汚れるから、鼻水だらけの顔押し付けないで!この酒乱!!”
「――って、ゆかりさんが……」
「張り倒した?」
「違う。『張る』ってパーだろ?グーで行った。それで、お前がダウンした」
「それはそうとしてさ――」
記憶に全くない昨夜の自分の狼藉っぷりに一通り落ち込んだ亮作だったが、ポカリスウェットを2リットルほど流し込むと、すっかり落ち着いた様子。基本、あまり過去のことにはコダワラナイのかもしれない。
卵と安物のハムだけで作ったチャーハンを食べている草壁に向かって
「――草壁クン、お姉ちゃんのこと詳しいね。自殺の話まで聞いてるし……」
と不思議そうな顔をして聞いた。
「そうだな……なあ、お前の目からみてどう思う?ひょっとして、俺、意識されてるとか?」
ニヤニヤしながら草壁が亮作に聞いてみたら、弟の答えは
「まさか。あるわけないよ」
と、あっさり切り捨てた。
とにかく、ここの姉弟は、この問題になると草壁のことをマトモに相手にしない。
「本当に好きだったら、むしろ簡単に言える話じゃないでしょ?ちゃんと付き合うようになって初めて話すはず」
そう亮作に言われると、それを否定もできないのが草壁のつらいところだった。
「じゃあ、俺の場合はどういうことなんだ?」
「きっと、適度に親しくて、適度に話しやすくて、適度に無関係で、適度に無関心だから、かえって気軽に喋れたんだよ」
あっさりと亮作は言い切った。間違いないよ。って様子だ。
実弟にそう言われると草壁にはもはや言葉はなかった。
草壁はその後、身支度を整えると外に出た。
彼も一応大学生、たまには参考書のひとつでも郊外の専門書店でも立ち寄って覗いてみようぐらいのことを考えていた。
部屋を出ると、ゆかりが下りエレベーターを待っているところにでくわしたので、しばらく、二人並んで歩いた。
「私、今日はこれから出張レッスンです」
近場なので、徒歩でその生徒のところまで行くという。
「昨晩は、弟が、もう本当に……」
「あいつ、昨晩の自分の乱行っぷりを全く覚えてないっていうんですから驚きですよ」
「全く?」
「はい、全く」
「いい加減にしてほしいわ」
そんなことを話ながら二人は、ひまわりが丘の商店街にさしかかる直前でお別れ。
草壁は駅へ。ゆかりは出張レッスンのために生徒の家へ。
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草壁と別れたゆかりがそこから15分ほど歩けば、本日の出張レッスンのお宅。
まだ、このあたりはひまわりが丘である。
本当は車で行こうかと思わなくもなかったが、訪れるおうちのすべてに来客用に駐車スペースの余裕があるわけではない。むしろ、そうじゃないことのほうが多い。そうなると、1時間も2時間も路上駐車もできないので、近所のタイムパーキングにでも車を入れることになる。
それも面倒だから今日は徒歩出勤だった。
高級、とまではいかないが、小奇麗な一戸建ての多い地域、その中のとある一軒の民家。
まだ新築間もない様子の、白い漆喰壁のあざやかな、四角張ったデザインの2階建て。
チャイムを鳴らして、「長瀬です」とインターホンに言うが早いか、家の中から本日のレッスンの生徒である、現在近所の幼稚園に通っているミキちゃんが、「ゆかりセンセ!」と言いながら飛び出してきて、ゆかりに抱きついてきた。
ゆかり先生、男の子女の子を問わず、受け持つ生徒にはとても慕われている。
「ミキ、ダメでしょ!ちゃんと『先生こんにちは!今日はよろしくお願いします』ってご挨拶しないと」
続いて出てきた母親に案内されて室内に招きいれられると、通されたのが8畳ほどの応接間のような部屋だった。
窓際にアップライト型のピアノが置いてある背後に応接セット。レースのカーテンの掛かる窓越しにはお隣のうちのシルエットが透けている。
自分の練習用の楽譜を両手で抱えながらゆかりと一緒にその部屋に入ったミキちゃんがさっそくピアノの前にぴょんと飛び乗った。
スーツ姿のゆかりは、脇に手荷物をいて、ペンや練習に使うような小物を取り出す。
本日は、黒のスーツに下はパンツスタイル。動きやすさ重視。徒歩通勤なので。
「ミキちゃん、お久しぶりね」
「うん」
「元気にしてたかな?」
「うん!」
「ピアノの練習もしてた?」
「うん!」
「本当~?」
「うん!」
久しぶりのレッスンを楽しみにしていたミキちゃん、ちょっと興奮気味にゆかりの一挙一動を体を前後にゆらしてじっと見つめている。
まだ4歳ということもあって、少し落ち着きはないが、結構素直で明るい子なのである。
ゆかり自身も子供好きというのはあるが、彼女の受け持つ生徒はみないい子ばかりだった。
小さい子なので、大抵は親の意思でもって教室に通うっているのだが、イヤイヤ来ている子はいない。その点、ゆかりも気楽にレッスンができた。
”じゃあまず、先生と一緒に、大きく深呼吸しましょう、フゥーッ!ハァーッ!”
”はい、ソソファミレド♪”
”こういう感じ、指は軽く”
”次はこの2小節ね。先生がやってみるから、ミキちゃんあとから続けてね”
”今日は上手にできました。じゃあ、ここに『よくできましたシール』を貼ってあげまーす”
もう少し年長さんになったらレッスンの時間も1時間はとるのだが、何しろ相手はピアノの経験も乏しいチビッコ。
こういう子の場合、30分で一区切りすることにしていた。
それ以上時間をとっても、集中力がなかなか続かないことが多いのだ。
「先生、今日はご苦労様です。どうぞ、お茶でも召し上がってください」
応接間近くにあるキッチンで聞き耳を立てていれば、時計を見るより確実にレッスンの終了のタイミングがわかるものだった。
ゆかりが、「じゃあ、今日のピアノのお勉強はこれぐらいにしておきましょうか」という言葉が終わると同時にミキちゃんのお母さんが紅茶と茶菓子を持って入ってきた。
今日は親御さん、お母さんしかいないみたい。
それなら時間もあるからゆっくりしていこう、と思ったゆかりは、勧められるままにお茶を頂くことにした。
じゃあ、ミキ。ご本をお片づけしてきなさい。そしたら、ここで一緒にお茶しましょう。と、母親に言われたミキちゃんが楽譜を両手にどっかに消えたあと戻ってくると、もうすでにソファーに向かい合っている母親とゆかりをキョロキョロ見ながら、なにやらちょっとソワソワしている様子。
「どうしたの、ミキ。あなたもこっちの座りなさい」
母親が自分のすぐ隣を指差すが、何か言いたげに、座ろうとせずにキョロキョロ。
「ミキちゃん、先生の隣に来る?」
なんとなく、自分の隣に来たそうにしていると思ったゆかりがそう声を掛けるとミキちゃん、嬉しそうに「ウン」と言ってゆかりの隣にペッタンと座った。
まったく、この子は……と母親も苦笑するしかなかった。
一応先生という立場なのだが、生徒からこういう慕われ方をするのも、いかにも長瀬ゆかりらしいところでもあった。
「へえ……ミキちゃん、バレエも習っているの?」
「うん」
習い事に熱心な親というのはいるものである。ゆかりの教室に通っている子供の中には、3つも4つもやっている子もザラだったりする。
本日も親御さんと雑談を交わしていると、このミキちゃん、バレエも最近はじめたという。
「まだまだ初心者コースですが」
「……そうなんですか。ねえ、ミキちゃん、どんなことやってるの?」
「うん!」
ゆかりは話を聞くだけのつもりだったが、子供の場合、言葉で説明するより体を動かしたほうが手っ取り早いのかもしれない。
ゆかり先生からリクエストに応えるべく、ミキちゃん、突然立ち上がると、応接間の片隅にチョコンと立った。やがて、スカートの裾をキュッとつまんで、つま先立てた片足を軽く後ろに巻き込むようにさげて、床をトンッっと、カーテシー。
あっ、素敵よ、マドモワゼル。ゆかりの拍手に乗せられるようにして、すっかりご機嫌な様子。チビッコはこういうとき、嬉しそうな顔をしない。寧ろ、真剣な眼差しになる。
「プリエ」
といいながら、右腕を右に左に、上に下へと、ゆうらりと揺らしながら、ぴったりとそろえた両足の膝を外に開いたり、閉じたり。
続いて爪先立ちでクルクルと歩いて、「ポアント」
「未来のプリマですね」
ゆかりが手を叩いている目の前では、母親が少し恥ずかしそうにしていた。
「この子、先生が見ているから調子に乗っちゃって。まだ曲に合わせて踊ったこともないっていうのに」
調子がいいと言ったら、このお嬢様。
いつの間にかピアノの前に座って、ミキちゃんがクルクル踊る様子に合わせて「白鳥の湖」なんかをポロンポロンやっている。「うんうん、上手よ、それがピケターン?」とか言いながら、ミキちゃんと二人で楽しそう。
もちろん、ミキちゃんはまだ曲に合わせて踊ったことなんかないから、ゆかりのピアノ演奏なんてただのリズム取りでしかない。が、もう真剣になって、ピョンピョンクルクル。
あの先生、上品そうに見えて子供みたいなところのある人ね。
ほとんど子供と一緒になって遊んでいるみたいなゆかりの様子を、ミキちゃんのお母さんは微笑ましく思ってみていた。
が、しばらくすると、お母さんの評価は、こう変った。
”あの先生、上品そうに見えるけど、随分ノリのいい人ね……”
そのうち、ミキちゃんが「先生も一緒に踊ろう」と手を引張った。
見ていた母親が「こら、先生困っているでしょ?」叱ろうと思って立ち上がったときには、ゆかりとミキちゃんの二人がニッコリ並んでカーテシー。いわゆる淑女のご挨拶。誰に挨拶しているのかは謎だが。
えっ?あの先生、本当に踊るつもり?
母親はそのときのゆかりの笑顔を見て、もう何も言えなくなってしまっていた。
「ピルエット!」
ミキちゃんとならんだゆかり、両手で大きく抱きかかえるように輪っかをつくりながら、器用に爪先立ちでクルックルッと回って、回転ステップを何度も踊ってみせる。
「……からの……」
右手を大きく開くと、それにつられるように真っ直ぐのばした右足もピョンと開いていって、重心移動。
「ピケターン!」
その右足のつま先に体重をのっけると、ふたたび両腕はふんわり大きく輪っかを作りながら、足を軸にしてクルッと回転。
「そして……」
ミキちゃんと二人おそろいで、右足を後ろに投げ出し、左腕は綺麗に前に突き出しながら、カタカナの「イ」の字みたいになって、ピタッとストップ。
「アラベスク!」
「ゆかり先生、上手!!」
「本当?先生、ピアノじゃなくて、バレエ習っとくべきだったかな!!」
一緒に踊ったミキちゃんに拍手されて、大喜びの様子のゆかり。
その様子をあきれながら見ていたミキちゃんの母親も、一応、お付き合いで拍手をするしかなかった。
(あの先生、超初心者の4歳のうちの子に褒められて、本気で喜んでる……)
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その日の夕方、所用を終えた草壁圭介は、本来の帰宅路をはずれたところを歩いていた。
いわゆる、遠回り、である。
本当なら、いつものごとくひまわりが丘の商店街のアーケードを歩いて帰れば一番手っ取り早い。が、今はあそこを歩いたところで、ピアノ教室にも喫茶アネモネにもゆかりは居ない。さっき一緒に歩いたときに、出張レッスンに行くということを聞いていた。
居ないから遠回りする、というのは変な理屈だが、商店街にはそういう『お目当て』もあれば、それとは別に『危険』もある。
ゆかりの教室のお隣の、古道具屋「宇宙堂」。そこには、草壁の叔父である変人店主が本日も暇な店内に生息している。とっ捕まったら、どんな目に会うかわからない。
それなら、ちょっとぐらい遠回りしたほうがリスクがない。
そう判断してのことだった。
駅前の横断歩道を渡って、真っ直ぐそのまま進めば商店街のアーケード。というところでなんとなく左に曲がった。
別に意味はない。右に行っても左に行っても家にはたどり着く。実は左に曲がったほうが遠回りになる。が、まあ、こっちの方向にはあんまり行ったことがないから、たまには行ってみよう。それぐらいのつもり。
そうして、その国道沿いの歩道をテクテク歩きながら、適当なところで右にまがる。
その道も車どおり多い割と大きな通りである。両脇には書店や信用金庫なんかが並んでいる。
別に、草壁がこうやって歩いている道のりの地理的な配置はどうでもいい。ただ、そうやってテクテク歩いてゆくと、途中で細長い公園に出くわすのだった。
地図を見ると「○○公園」となってはいるのだが、遊歩道と行ったほうがぴったりくるような長細い形をした公園で、緩やかに蛇行しながら続くレンガ道の途中のいくつかがちょっとした広場になっている。
上空から見ると、大きなニシキヘビが、ウサギを2、3頭、連続して飲み込んだみたいな全体像。
行政の管理が行き届いているようで、一年を通して植え込みには季節の花がいつも綺麗に咲いている。草壁が今からその公園に入って行こうとしているその出入り口には、花時計が4時30分を指していた。
時間のことはともかく、上空を見上げると怪しそうな雲模様をしている。
空を隠す雲の色が濃い。この時期にしては少し冷たく感じるような風がアジサイの花を強く揺らしていた。
「まっ、すぐに降るってわけでもないだろう」
そう思って、クネクネつづくレンガ道を草壁が歩いていると、やがて広場エリアに近づいてきた。
公園自体もゆるやかに曲がっているので、このあたりまで歩いてこないと広場エリアの様子は見えなかった。
そして、藤棚や水飲み場なんかがある広場近くまで来て、草壁の足がピタッと止まった。
最初、草壁は――
”うわっ変なのが踊っている”。
――そう思った。
いくら他の人がいないといっても、広場のど真ん中でピョンピョン飛び跳ねているのがいるのだ。
下手ってほどではないかもしれない。けど動作はちょっとたどたどしい。つま先歩きが、カルガモの行進みたい。
しかも、ステップは単調。だいたい同じことの繰り返し。
っていうか、そんな程度の踊りだったら、部屋でやれるだろう?なんで、こんなところでやる必要がある?
とにかく、そんな人とはあまり関わらないほうがいい。かと言って、そんな人のためにまたさらに遠回りする気にもなれない。
知らん顔して通り過ぎるのが一番だ。
知らん顔って言っても、全く視界に入れないわけにもいかないし、気にはなるので、チラチラと様子を伺いながら近づいてゆく。
近づいてゆくにしたがって、アレッ?どっかで見たような。って気になった。
いや、まさか……。
けど、あの黒いスーツ、ついさっき見覚えがある。あのシルエットも、見覚えが、あるっちゃあ、ある。
おい、まさか……。
今、目の前でガニ股になったと思ったら、クルックルッと回っりながら、右へ左へ、そしてさっきから3度目になる、カタカナの「イ」の字みたいな格好になってジッとして。それから、また、スカート履いてないくせにそのかわりにズボンのサイドを両手で、チョンとつまんで、つま先トン。で、また、クルクル回って……。
「ゆかりさん……」
「アラベスクっ!!!」
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「なんで、踊ってたんですか?」
「……アジサイが綺麗……だなあって……そう思って、見てた……んです……最初……」
「それがなんで、バレエに変ったんですか?」
「あんまり人……が来ない……から、つい……」
虚ろな目をしたゆかりが、腹話術の人形みたいに口をパクパクさせて、簡単なことにもいちいち言葉を詰まらせながら草壁の質問に答えた。
「バレエでも始めるんですか?」
「……始めません」
面白いから、ちょっとからかってやれ。
草壁がニヤつきながらそう聞くと、ゆかりは、拗ねたように唇をまげて、草壁に背を向けた。
背の高い生垣に周りを囲まれて、その向こうには軒並み背の低い建物群の続く住宅街。
公園に人さえ居なければ、ま、踊ってみたくなる気持ちもわからないではない。が、実際に踊るのと踊りたいと思うだけの間には、かなり大きな差があると思うが。
広場の片隅には、でっかい鉄製のパラソル屋根の下に、背もたれのない蒲鉾板みたいなベンチが4つ、正方形を描くように設置されている。そのベンチに置いたカバンの方へ歩いてゆくゆかり。
今日は、嫌なところを見られちゃった。
もう、帰ろう。なんか、かっこ悪い。私って、普段そんな人だと思われちゃったかな?
「私、もう帰りますから」
とカバンを肩にかけて、草壁を振り向くと……。
「アラベスク!」
草壁がさっき自分がしてた「イ」みたいなあのポーズをしている。
「……」
ムッとした顔でしばらく草壁のことを睨みつけると向こうは、そんなことはへっちゃらそうな顔。仕方ない、この場合、心理的優位は完全に草壁の側にある。にらまれたぐらい、むしろ、可愛いところありますよね、ぐらいにしか思っていない。
「なかなか上手でしたよ」
「ふん!私、もう帰りますから」
恥ずかしさでちょっと顔を紅潮させたゆかりが、ソッポを向いて怒ったようにそう言うと、自宅方向へと足を踏み出した。
あっ。本当にどっか行っちゃうの?
単に面白いから、ちょっとからかっただけのつもりの草壁だったが、ゆかりの様子に少しやりすぎたとその瞬間、後悔した。しまった、やりすぎたか?
そのとき、生暖かい湿気を帯びた空気がただよってきたと思ったら……。
ポツリ
ポツリ
雨粒が、降って来た。
「あ、雨……」
空を見上げると、すっかりネズミ色した雲が低く空を覆っている。
自宅まで急いで帰って10、いや下手すれば15分。降りだしの雨脚が穏やかなら、強行軍もありえた。しかし、地面に落ちた雨粒は、いきなり大きかった。公園ベンチの屋根に落ちた大粒の水滴は、もうそのときに、パラパラなんてものじゃなくて「ボタッ、ボタッ」って音を立てている。
これは、すぐに激しいのが来る。
二人は屋根の下のベンチに並んで腰掛けた。
じきに、夕立はスコールみたいになった。
「すぐやむでしょうか?」
「夕立みたいだから、すぐ止むんじゃないですか?天気予報も今日は降水確率10パーセントって言ってましたし」
「そうですか。アジサイ綺麗ですね。アジサイ好きなんですか?」
「実家の庭に植えてあるのが、この時期綺麗に咲くんです」
「へえ……ゆかりさんの実家って大きいんですよね?600坪でしたっけ?」
「まあ……けど、割と庭がだだっぴろんですよねえ」
「池があって、錦鯉が泳いでいるみたいな?」
「そんな、絵に描いたような庭じゃないです。芝生が一面に生えてて、その真ん中に大きな樫の木があります」
雨に煙る生垣のアジサイを目の前に見ながら、気がつけば二人はポツリポツリと、どうでもいいような話をしていた。なぜかは知らないが、ゆかりのさっきのバレエに関するトピックがどこかに消えてしまっていた。
降り出して間もないというのに、スコールは公園の砂地に小さな川の流れをいくつも作っている。
「あれから、進展あったんですか?」
突然、ゆかりがそんなことを言い出した。
「なんです?その『進展』って」
草壁としては、意味の全く分からない質問だった。当たり前だ。
「あやちゃんと、仲良くなった?」
な、何を言い出すんだ、この人は?
草壁にしてみれば、混乱するより他ない。なんか興味ありそうだけど、それは何故?まさか妬いているとか?って言うか、そんなことソバで見てたら大体分かるでしょ?聞くまでもないこと。
裏でこっそり付き合ってるとか勘ぐってるのか?
「仲良くも何も友達ですよ。知ってるでしょ?」
「モタモタしてると誰かに持ってかれちゃいますよ。あの子かわいいし」
「応援してあげる、とかまた言い出すんですか?」
「応援?なにそれ?」
「……」
「自分の力でなんとかしたらいいじゃないですか?」
なんだよ、どうしろってんだ?こっちに。
草壁がそう思ってムッとしていると、ゆかりのほうもそれ以上何も言わずに黙り込んだ。
話はどちらかというと途切れがちだったが、草壁には沈黙がそれほど苦にはならなかった。向こうもそうなんだろうか?というような感慨すら思わなかった。
だから、彼がそのとき、滝のような雨音を聞きながらこんなこと言い出したのも、まったく無意識に思いついたことを口にしただけだった。
「そういえば知ってます?アジサイの葉って……」
と口走ったあと、ハッとなって言葉を止めた。
マズイ。口が滑ったっていうことじゃ、さっきのアラベスク!なんか比べ物にならないぐらいの失言。
一人固まるしかない草壁だったが、このあと、この言葉をどうやってごまかそうか?それとも知らんふりで即座に別の話題に持ってゆこうかと、一人混乱していると――。
「知ってます。毒があるんでしょ?」
そっけないゆかりの言葉。
ハッとして彼女の横顔を見ると、能面みたいな冷たい顔。
怒ってる!やらかした!
「今度死ぬときは、それ食べちゃおうかなあ?」
冷笑交じりのゆかり。
「そ、そんな死ぬような毒じゃないはず」
動揺している草壁はうまい切り替えしができなくて、どストレートな返答しかできない。多分、言い方を間違えている。が、もう良いとか悪いとか考える余裕がなかった。
「じゃあ、今度死ぬときは確実に死ねるような毒、草壁さんに用意してもらおうかなあ」
からかう、というより、挑みかかるような目でゆかりは言った。
言葉には、あきらかに棘がある。皮肉の言葉の奥に、怒りの感情をわざと見えるように薄い皮膜で包んで投げつけているのだ。
草壁はうっかりとゆかりの禁忌に触れた、とそのとき思っていた。
しかし、ゆかりのほうは、まるで腫れ物にでも触るみたいに、そのことを扱うのが気にいらなかった。
あのことのために、草壁が自分と距離をとりたがっているように見えるのが気にいらない。
気にいらないなんて思っているが、なんで気にいらないんだ?
草壁じゃなくても思うだろう。しかし、彼女としては気にいらない。
そして、そんなゆかりの微妙で複雑な思いにぶつかると、草壁はただただ、謎だ。と思うだけだった。
ジメジメした湿度と、雨に洗われた花々から立ち上る、ムッとするような草いきれに囲まれながら二人は再び、黙り込んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そんな中、ザーザーとテレビの砂嵐のように連続して続く雨音に混じって、「バシャッバッシャッバッシャッ」という音が耳に入ってきた。明らかに雨音とは違うその音に二人が振り返ると、豪雨の中を、若い男女二人連れがこっちにむかって走ってきていた。
簡単なプリント柄の白地のTシャツに、デニムのショートパンツ姿は女子のほう。頭にハンカチ乗っけているが、この雨では全く役だっているとは思えない。
男子は、細身のボトムを履いて、グレーのパーカーのフードを頭に被っている。
激しい雨の中、顔をしかめながらこっちに走ってくる様子を見ていると、自分たちと同年輩、か、ひょっとしたら高校生かもしれないぐらいの年恰好。
あんまりジロジロ見るのも悪い。
あのお二人さんもこっちの屋根の下を目指しているに違いない様子。
草壁とゆかりは、そんな見覚えのないカップルに、再びそっと背を向けた。
「すっごい雨!」
女の子が興奮気味な声を上げながら、草壁たちのいる屋根の下に入ってきた。
「このまま走ってたら、ヤバかったよね」
やって来た二人は、チラッと先客である二人の背中を確認した。ちょっとの間の沈黙。
ゆかりたちも、見ず知らずのゲストの登場に、どんな反応をしていいかわからず、黙り込んでいた。
「止むまで待つ?」
「うん」
女の子のほうが、ハンカチでびしょびしょになった顔を拭いている間、男のほうは息を切らせながらどさっと音を立てて、ベンチに腰掛けた。
「疲れた!」
屋根の下に4つ「ロ」の字型に配置されたそこのベンチ。やってきたカップルは草壁たちが座っているすぐ背後のベンチに、同じように並んで座った。二組のカップルは互いに背中を見せ合っていた。
互いの距離はおよそ1・5メートルと言ったところだろうか?
「急に来てあせった!」
「ってか、ゲリラ豪雨ってやつじゃね?」
と声高なそのカップル。ゆかりたちは、静かになり、反対にもう一組のほうは、声がいつも以上に大きい。互いに微妙に意識していたりする。
雨脚は収まる様子を見せず、相変わらず激しい。
”ウソっ?それ青木の勘違いじゃなかったの?”
”ちがくないって”
”……ってさ、最近なんか別れたみたいなこと言ってたよ”
”マジ?しらなかった”
”……がさ、……で”
”それ、俺知ってる!……だろ?”
激しい雨音にまぎれて、なんか背後のカップルの雑談ばかりが響く屋根の下。
なぜか、ゆかりと草壁の二人は言葉がなかった。
さっき、二人きりのときに交わしていたような会話を、たとえ全くの他人と言っても誰かに聞かれるかもしれないようなところではやりにくい。
かと言って、急に話題を捻り出すのもワザとらしい。
”クッシュン!”
すると、背後のカップルの女子が小さなクシャミをした。
”寒い?”
それまでの雑談のときとは違うちょっと二枚目モードの声を出す男。
”ううん、大丈夫。服びしょびしょだから。ほら、こんな”
”……ほんと、寒いだろ?それじゃ”
しばらく、沈黙。
ゆかりと草壁はそろってじっと目の前で雨に揺れる、赤や紫のアジサイを凝視していた。
”あったかい?”
”ウン”
(アジサイ、綺麗だなあ……)草壁が心の中で呟いた言葉である。ただしアジサイは確かに目の前にあるが、彼の頭の中には一切存在していない。
またもや、沈黙。
やがて、みょうな衣擦れの音。雨に濡れた綿の布地の立てるカサッじゃなくて、シュッシュッっていう音。
(あ、あんなところにカタツムリがいる、かわいい……)そのときゆかりが心の中で呟いた言葉である。目の前のアジサイの葉っぱの陰で自分たちと同じように雨宿りしているカタツムリに意識を集中しようとするが、やはり彼女の頭の中にもカタツムリは存在していない。
”ちょっ、ダメ……”
女の子の短い言葉の後、再び沈黙。
”聞こえちゃうかも”
”大丈夫だよ”
それから、随分と長い沈黙。
寛ぐこともできず長い間、石みたいになっていたゆかりと草壁だったが、あんまり音がしないので、さすがに後ろが気になった。
示し合わせたわけではなかったが、二人は同時にそっと後ろを振り返ろうとした。
ゆっくりと頭を巡らす。
互いに並んで座っているゆかりと草壁の二人の頭は、それぞれ相手のいる方向に、ゆっくりと回る。
そうやって頭を回転させた場合、最初に目に入るのは背後にいるカップルではなく、お隣にいる相手である。
なんか、互いにうつけたような顔をしたゆかりと草壁の二人の視線が不意にぶつかって、二人ともびっくりした。
(わっ!!)
ゆかりは、さっき草壁にアラベスクのポーズを見つかったときと同じような顔になって、目を剥いて視線を戻した。その瞬間、同じような顔して、視線をプイッと戻す草壁の顔がチラッと見えた。
しばらく固まったあと、また二人が同じタイミングで頭をまわす、今度はお互いの視線がぶつからないように、隣の相手とは反対側を通って、背後をそうっと……。随分静かだけど、いつの間にかどっか行っちゃったのかしら?……。
(わっ!!)
声がしないはずだった。
後ろのカップル、抱き合ってキスしている。
色々とごそごそやっちゃっている。
電気が走ったみたいな速さで速攻視線を戻す草壁とゆかり。
雨は相変わらず激しい。逃げ場はない。
気まずいという意味で言ったら、見事な玉砕で終わったこの前のゆかりへの告白の直後より気まずい。
まさか、これほどあっさり気まずさのK点越えが実現するとは思わなかった草壁。もうアジサイがどうとか思う気力もなかった。頭のなかで「サザエさんのテーマ」鳴り響いていた。なぜかはわからないいが。
そのとき、隣のゆかりがポツリとこう呟いた。
「あの……しりとりでもしませんか?」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「えっと、じゃあ僕は……古今東西、駄菓子の名前!」
「チロルチョコ」
「うまい棒」
「ふがし」
「よっちゃんいか」
「キャベツ太郎」
「梅ジャム」
「ラムネ」
「それは、飲むほうですか?それとも食べるほうですか?」
「どっちでもいいです」
「だめです、飲むほうはお菓子じゃないですから」
「そうですか?飲むラムネ、私好きですけど」
「ゆかりさんの好みとかは関係ないです」
最初、ゆかりの提案どおりしりとりを始めた二人だった。
なぜか背後のカップルに気をつかいながら、囁き声でのしりとりがそうして始まった。
しかし、いい年した人間が、しりとりなんてやると簡単には終わらない。不毛な単語の羅列を延々繰り返したあと、これではマズイと思った草壁のほうから、ゲームの変更の動議があり、古今東西ゲームの提案。で、今に至っている。
不毛なのは、しりとりの時と全く変らないが。
どれぐらいそんなことを続けたかは定かでない。
古今東西ゲームに夢中になっているうちに、気がついたら雨が止んでいた。そして、背後のカップルは居なかった。
「雨やんで、よかったですね」
ホッとため息をつきながらゆかりが立ち上がった。「カップルが帰ってよかった」とは言えなかった。
「ですね」
水気をすっかり絞りきり、今では朱色になった夕空にかかる虹を見上げながら草壁も、立ち上がった。
彼のほうも、あのカップルについて言及することを避けた。
二人はやっとのことで、屋根の外に足を踏み出した。
「草壁さん、もう帰るんでしょ?」
「はい。すごい遠回りになっちゃいましたよ」
そうやって並んでベンチを後にする二人が、数歩足を進めた時だった。
何気なく後ろを振り返った草壁が、「あっ」と言いながら再び、さっきのベンチのほうへ戻った。
ゆかりそんな彼を見ながら、忘れ物でもあったのかな?と思っていると、草壁は自分たちの座っていたベンチではなく、例のカップルのいたベンチにまで歩いてゆく。
「どうしたんですか?」
さっきのカップルの落し物でも見つけたのかな?わざわざ拾いに行っているということは、草壁さん、サイフかなんか見つけたのかな?
ゆかりも、なんとなくつられて、草壁のほうへ歩み寄った。
「こんなのが、落ちてる……」
と、草壁がカップルの座っていたベンチの上から拾い上げたソレを手のひらの上に乗っけてゆかりに見せた。
それは……。
白くて、手のひらに乗るぐらいの、そしてクシャクシャっとしたもの……。
えっ!それって……!
「ほら、こんなのが」
く、草壁さん、なに爽やかな笑顔で、そんなもの拾っているの?この人、何考えてるのかしら?よく平気でそんなもの触れる……。
「イヤッ!そんなもの拾わないで!!!」
草壁の常識外、予想外の蛮行にゆかりは驚くというより、むしろ怯えみたいなものを感じながら、大きな声で叫んだ。
が、そう言われた草壁は、なにをそんなにゆかりが驚愕しているのかちっとも分からない様子で、キョトンとなっている。
「どうしたんですか?これ、綺麗だと思いませんか?この花」
「は、花?……」
良く見たら、それは白い一輪の花。
あ、ああっ!花!たしかに、花だ!
「クチナシの花かな?ほら、そこに咲いてるでしょ?あれかも。……ってことはあのカップルこれ千切って持ってきたのかな?」
「あ、クチナシ……そ、そうかもしれませんね、アハハハ」
「ア、あの……ゆかりさん、ここ笑うところじゃないと思いますけど」
いくら綺麗とは言っても、公園の花を無闇に千切って取ってしまうのはマナー違反です。
「そ、そうでしたね。アハハハハハハハ」
だから、笑うところじゃないって言っているのに。
本当に、この人は謎な人だ。
第11話 おわり




