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第10話 あの日のこと

「ゆかりちゃん、本当にあのスナック『momo』のホステスになっちゃったの?」


 スナックでの経緯についてもうマスターの元に情報が入っているようだった。やってきたゆかりの顔を見たマスターの第一声はこれだった。

 あの花柄のエプロンをつけながら、ゆかりは首を横に振った。


「違います。ホステスじゃなくて、ピアノ演奏のバイトです。それも月に2、3回程度ですから」

「けど、あのママ、演奏だけで返してくれる?」

 バイトのシフトはいい加減な喫茶店だが、マスターの腕は確かである。ペーパードリップ式で淹れるこの店のホットコーヒー。注文が入ると、余所見して喋りながらもフィルターのお尻を手早くキュッと折り畳んでドリッパーにセット。ここまでものの数秒の早業だった。


「ええ、そうなんですよねえ。海千山千のやり手って感じで。この前も気がついたら接客させられて……また次行ったら、あんなことになるのか心配です」


「じゃ、じゃあ……行かなきゃ、いいじゃない?ハハハハッ!そんなこと言って楽しんでたんでしょ?ノリノリだったってママが言ってたよ!」

 ポットのお湯をコーヒー豆に回しかけながらマスターが大笑いした。しかし、口では笑っても回しかけている熱湯の軌道は安定している。


「そんなことないです!なんですかノリノリって!」

 と、むくれるゆかりに出来上がったホットコーヒーを手渡すマスター。

「あっ、そうなの?」

「ママさんに乗せられて仕方なしに、です」


「ほう……で、君の目からはどう見えたの?」

 マスターが目の前のカウンターにちゃっかりと座っている、いまやこの喫茶アネモネの一番の常連客、草壁圭介に向かって問いかけた。


「どう……かな?けど、なかなかサマになってましたよ。お客さんにも大好評みたいでしたし」

 胸元の赤い花の飾りを揺らして手元にホットコーヒーを置くゆかりの顔をチラッとみながら、草壁は無難な答えをした。

 マスターの目の前に居るにもかかわらず、こうして一度ゆかりに給仕をさせているところがマスターなりの草壁への気遣い。というか、これこそがこうして雇った『客寄せパンダ』としての一番の仕事である。


 

 スナックのホステスのほうの話は置いとくとしても、まだこの喫茶店のウエイトレスになってまだ数回しか働いていないゆかりだったが、店にはすっかりなじんでいるみたいになっていた。

 もっとも、難しい仕事は一切ないということもあるのだが。



「あ……」

 そのとき、ゆかりが店の外をみながら、小さく呟いた。すぐ耳元で響いたゆかりに声に草壁も彼女の視線を追うようにして振り返ると、店の窓の向こうでこちらを伺いながら、軽く手をふって商店街を歩き去ってゆく長瀬亮作の姿が目に入った。


「さっきの人、どっかで見たな……」

 マスターにも見覚えがあった。しかし、誰かはよくわからなかった。亮作は草壁をルームメイトに誘ったあれ以来、この店には顔を出さなかったのだから。というより、あの時たまたまそこに居ただけで彼はもともと、この店の常連でもなんでもなかった。

「マスター覚えてません?いつか僕をルームメイトに誘った、ゆかりさんの弟」

「あっ!彼か!手なんか振るから、こっちはなんだろうと思ったけど……ちょっと寄ってくれたらいいのにね……」

 マスターのそんな言葉にゆかりがちょっと嫌そうな顔をした。

「ええっ!いいですよ。弟に入ってこられても私……」

「そうか、そうかもな。向こうもお姉ちゃん居るんじゃ顔だしずらいか」



 夕刻の店内。そんなふうにしていると、学校帰りのあやがバイトに顔を出した。

 また、客一人に店員3人か?と草壁が思っていたら、それを見たゆかりはサッとエプロンを脱いだ。

「あやちゃん、ちょうどいいわ。私はこれから教室もあるから、ここでバトンタッチね」

「えっ、そうなんですか?私ゆかりさんいるから、ちょっとお話でもしようって顔だしたんですけど」

「あやちゃんさ、レクリエーションでバイトしに来ないでくれるかな?」

 マスターが苦笑している間にゆかりはエプロンを脱ぐと、カウンターを出たところであやと「じゃあ、あとお願いね」「また電話でもします」なんて言い合いながら、軽くハイタッチを交わして店を後にした。



 先ほどは白地に花柄のエプロンつけてたのが、今度は薄い緑色に水玉模様の、腰のところにちょっと大きめのリボンをつけたウエイトレスが草壁の近くに立っているというふうに変っただけの店内。

 ゆかりがやってきたときと同じく、マスターからの

「あやちゃん、本当にあのスナック『momo』のホステスになっちゃったの?」

 という質問が繰り返された。


 ところがあやの答えは「とんでもないですよ!そんなことやるわけないじゃないですか!」と、ゆかりと違って完全否定だった。

 彼女の場合、ホステスなんてのはちょっと……。と思っている。しかも同じ商店街のお店。

「この前のスナックのことだって、うちの両親には絶対内緒にしといてくださいね」

「厳しいの?あやちゃんち」

「バレて怒られるかどうかはわかりませんけど、何言われるかわからないですから」

「そうだよな。喫茶店でウエイトレスするのと、男ばっかりの酒席でホステスするのは大分違うもんなあ……」


「そうですよ。だから、私の場合、必ずゆかりさんと一緒で、それも月に一度ぐらいってことにしてもらってます」


「やるんじゃないかっ!!」

 マスターと草壁が同時に突っ込んだ。



 そのうちに、あやは店の冷蔵庫を覗き込みながら「あっ、レモンスライスもう少ないですね。カットしときますね」とか言いながら、カウンターでちょこまかと働き出した。

 ああ、頼むよと言いながらジューサーの手入れをするマスター。

 「あやちゃん、炊飯器の中見てくれる?お米、まだいると思う?」

 「そうですねえ……今日はひょっとしたら、あのお客さん来て、ピラフとかご飯系の食事注文されるかもしれないし……」

 「じゃあ、ちょっとだけご飯炊いとくか」


 暇そうな店に見えるが、仕事なんて探せばあるものだ。客がないときはいつも暇そうに突っ立っているだけかと思ったが、あやも手馴れた様子で立ち働いている。

 そして一人だけ暇そうにぼんやりとしている草壁を見て、マスターが言った。

「君、まだ居たの?」

「居ちゃいけませんか?普通、客にそんなこと言います?」

 この店でのこの手の扱いには慣れているので、草壁も別に本気で怒る気にもなれないが、またそれかよと思っていると

「だって最近、君、どっちかっていうとゆかりちゃん狙いで来ているような気がするもんだからさ」


 ジューサーのブレイドを布巾で拭きながらマスターが鋭い突っ込み。

 隣でお米を研いでいるあやは、と思ってチラッと見ると、おかしそうにただクスクス笑っていた。


 そして草壁はいかにも草壁らしい答えをした。


「だって、ここですぐに帰っちゃったら、あやさんに失礼じゃないですか?」



 草壁の一言を聞いたマスターとあやが驚きのあまり一瞬、口をぽかんと開けた。

「はあっ?何だぁぁっ!!その勘違い発言は!君、たった一回、一緒にスナックで飲んだだけでもう恋人気取りか?」

「それ、もうストーカー的発想じゃないですかっ!怖いですよっ!!」


 草壁は頭を抱えるしかなかった。

「はいはい、そうです、その通りです。私の失言でした。申し訳ありませんでした……」



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 そんなある日のこと。

 6月も下旬に差し掛かってくると、歩いているだけでジトッと汗ばむような陽気の日が多くなった。

 特に用事のない休日に、せっかくだからこの辺りの散策でもして、土地勘を深めようか?ぐらいのつもりでブラブラと歩く草壁。

 ついでに言っておくと、草壁は自家用車はもちろん、自転車も持っていない。

 買いたいとは常日頃思っていたが、遠出をする予定もないし、大学通うには自転車なんかなくてもとりあえず不便はなかった。自転車買う金ももったいないというのが一番の理由だが。


 まったくアテもなく出かけたわけではなかった。

 自宅マンションからちょっと歩いたところに、そこそこ大きな運動公園があることに気づいた。

 陸上競技場とか、簡単な野球場、そして体育館なんかがあるらしい。

 陸上競技場か……最近走っていないなあ。

 高校時代まで陸上部員だった草壁。公園に行ってその陸上競技場をちょっと見学しようと思っていた。。

 今日みたいな休日となれば、こういう競技場にはどこかの学校の陸上部が練習会とか競技会なんかを開いていそうだ。そう目星をつけていた。


 近づくと、簡単なフェンスに囲まれた陸上競技場では、あざやかなアズキ色したトラックの上に引かれた白いラインに沿ってウォーミングアップに流している学生達の姿が目に入ってきた。


 あっ、やってるやってる。


 グラウンド内には数十人程度の学生。見た感じは高校生か?

 そのグラウンドに併設して階段状に広がるコンクリート製の小さな観戦用スタンドには、観客らしい姿は全然見えない。ということは競技会ではなく、どうも近所の高校の陸上部の練習風景らしい。


 ちょうどいいや。あそこに座ろう

 スタンドに座った草壁は、近所で買ってきたホカ弁を膝の上に広げた。


 見上げると、抜けるように青い空。陽射しは強かったが、すぐ背後にそびえる体育館の影がちょうど草壁の座っているところまで伸びてきているので、初夏の暑さもしのぎやすかった。観覧用に段々にはなっているが、シートが設置されているわけではないので、コンクリートに直すわりである。ちょっと座り心地は悪い。でも、まあ仕方ない。クッションなんか持ってきていないし。

 お弁当を広げた草壁は、すぐには手を付けようとはせず、しばらくの間、その青空をじっとまぶしそうに見上げていた。結構長い間、そうしていた。


 すると、背後から声がかかった。


「草壁クン、何やってるの?」


 振り返り見上げると、スタンドの最上段に長瀬亮作が立っていた。


 本当にどうでもいい話だが、一応、なぜここに長瀬亮作がいるかについて簡単に説明すると。

 この公園のすぐ近くにあるパチンコ屋で彼はさきほどまで一人でパチンコを打っていた。しかし、どうも調子が思わしくない。マズイ、ここで大負けするわけにはいかない。また前みたいに卵掛けご飯の毎日じゃあ洒落にならない。そう思って早めに切り上げた。

 損切り、とでも言おうか?

 もう、帰ろう。あの店、割と良く出るという情報をツルイチさんから聞いたが出ないときはこんなもんだ。と思いながら、近道としてこの運動公園を通っていると、離れたところで一人、どっかで見たような服を着たのが、ぼんやり空を見上げていた。

 っていうか、あのチェックのシャツと黒のジーパンって、よく草壁クンの着てるやつだけど、まさか草壁くん?

 そう思って近づいてみたら本当に草壁だった。



 それから、亮作が「あっ、お昼食べてんの?こっちもまだだから、一緒に食べようよ、ちょっと待ってて!」と言い残して走り去ると、近くのコンビニでカップ麺とオニギリを調達して戻ってきた。

 二人は陸上競技場のスタンドに座って、眼下に、どっかの高校の陸上部員の練習風景をみながら、箸を取った。


 それにしても、と、草壁は思った。コイツ、米が気にいらないとか時々言うわりに普段案外とジャンクな食い物を平気で食うんだな。


 トラックの上では、互いに抜きつ抜かれつを、いたるところで繰り広げる高校陸上部員たちを見ながら、最初、二人の会話は少なかった。

「おまたせ」

「ん、お前そんなもの食うの?」

「なんで?ダメ?」

「いや、そんなことないけど」

「何度も言うけど、うち実家は金持ちかもしれないけど、普段の生活は普通だから」

「あっ、そ」

 ゆかりと似たようなことを弟も言った。


 しかしわざわざこんなところで一緒に飯を食べようなんて言うから、何か話しでもあるのかな?と草壁は思っていた。そのわりには、特にこれという話もなさそうに大人しい。



 すると、亮作は食べかけのカップラーメンを脇に置いて、こんなことを言い出した。

 すぐ目の前では、ショートパンツ姿の女子部員が、砂地の上を次々と飛んでいる。

「草壁クンはさ……」

 静かにこう切り出した亮作の様子に、釣り込まれるように草壁が視線を隣にむけた。

「せっかくの休みの日だっていうのに、一人でこうやって女子高生見ること以外に趣味はないの?」


 草壁、握っていた箸をコンクリートに叩き付けた。

「お前の言い方は、全面的に気にいらない!!」



 再びカップ麺を手にしながら、ケロッとした笑顔の亮作。

「まあまあ、これは、まっ、ハナシのマクラみたいなもんでさ」

「いらんわ!そんなもん」


 亮作、箸でつまみあげたインスタント麺をフウフウ。

「ひょっとして、お姉ちゃんと付き合ってたりする?」

 と言って、草壁の様子をちらり。


 まっ、確かにただのお隣さん、というにしては一緒にいることが多いかもしれないが……。

 コイツの目には、俺達がそんな関係に見えているのだろうか?

「そんなふうに見えるか?」

「ううん。全然」

「……」

 しばらく絶句する草壁の隣で、亮作がカップ麺を啜る音だけが響いた。


「でも、ツルイチさんが、二人はできてるみたいなことを言ってたから……」

 あの夜のことか!ゆかりさんが泣いて自殺未遂の話しをしたあの夜、本当に僕らの間に何かあったって、あのオッサン思ってたのか!


 憮然とした顔で草壁が手を振った。

「オッサンの勝手な思い込み!」

「やっぱりそんなことだろうと思ったよ……」

「……」

 ゆかりとの可能性を無邪気に否定する弟に、草壁はさらなる仏頂面となって黙り込んだ。

 うるせえよ!どうせ相手にされてないさ!!


 箸が止まり勝ちな草壁に比べて、さっきから淡々と箸が進んでいる亮作のほうは、麺もほとんど流し込んだあと残ったスープを啜っている。

 眼下では、両肩に4、5本もハードルをぶら下げた陸上部員がそれを1本1本、正面トラックの直線コースの上に並べていた。


「そのとき、ちょっと気になることをツルイチさんが言っててさ――」

 お互いに、そんな部員を見ながらのジャンクな昼食だった。亮作の言葉はそこで、少し真面目なトーンにかわった。しかし、コイツがこんな調子になるときは、本当に真面目か、さっきみたいな軽口をたたくかのどっちかだ。

「――お姉ちゃんが、この前の夜、泣いてたって……」



 なるほど、コイツはこれが聞きたくてわざわざ一緒に飯を食おうなんていいだしのか……。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 亮作にそう言われて、草壁もあの夜のことを黙っているわけにもいかなかった。

 草壁はゆかりから彼女の自殺未遂の話を聞いたということだけを簡単に説明した。


「そっか……お姉ちゃん、草壁クンにそんなことまで喋っちゃったんだ……」

 草壁から聞かされた話に亮作も驚いた。

 が、本人が話したのなら仕方ない。

 それなら中途半端に知られるよりは、キチンと伝えたほうがいいかもしれない。亮作は、この話は誰にも内緒だよ、と信用していないわけではなかったが、そう前置きして、彼の目から見た「あの日のこと」の経緯について、買ってきたツナマヨオニギリを頬張りながら語りだした。




 そのころ、亮作も進学のためにこっちに出てきたばかりだった。

 ゆかりがそのとき住んでいたのは、駅で言えば3駅ほど離れた場所。駅名で言うと「松木町」。そう、草壁がひまわりが丘に来る前に居た、その近辺に彼女も住んでいた。

 姉弟がそろって近場に住んでいたのは、それぞれの進学状況のせいにすぎなかった。

 お互い割と頻繁に連絡も取り合ったり、たまには顔を合わせたりもしていた。

 まだこの辺で友達の少なかった弟を思ってかどうか知らないが、ゆかりは友人たちとの会食に亮作を呼んだりすることもあった。

 もともと、仲のいい姉弟である。


 当初、亮作はゆかりの異変には気がつかなかった。

 そういえば、ここ何日間か話してないな。ぐらいには思っていたが、別に恋人同士でもあるまいし、これといった用事もないなら、無闇に声を聞いてもしょうがない。


 そんなとき、いつかの会食で知り合ったゆかりの同級生から亮作の元へ連絡があった。


「あなたのお姉さん、最近音大に顔出さないし、電話しても様子がおかしいの。ちょっと気をつけてあげて……」


 どういうことですか?と聞いてみたが、そんな話をしてくれたその人だって何が原因でそうなっているのか全く見当がつかないと言う。



 そして、似たようなことを藤阪からも電話で言われた――。



「なあ、そのときの藤阪さんとゆかりさんってどういう関係だったの?」

 話の途中だったが、草壁はそのことが気になって、亮作の話を途中で遮った。

「どうなんだろう?けど、ただの幼馴染の友達だったと思うよ。公ちゃんも就職してこっちのほうで働くことになって、お姉ちゃんより先にこの辺りに出てきてて。そしたら、お姉ちゃんもこっちに来たってことで、たまには会うこともあったようだけど」

 と言っても、その頃はお昼を食べる程度。あるいは藤阪の友人なんかも交えてのちょっとした合コンみたいなものを催したぐらいとのこと。そんなふうに会ったのも5、6回あったかないかところだったらしい。




――しかしそのとき、藤阪はゆかりの異変の原因を知っていた。

 亮作は、藤阪から、「ゆかりちゃん、どうも付き合ってた人に振られたみたいだ」と言われて、姉に恋人がいたことをそのとき初めて知った。



 これは、亮作の知らないことだが、ゆかりに恋人がいるということは、以前から藤阪は知っていた。というのも彼女自身の口からそれを聞いていたからである。

 ゆかりがこちらに出てきてしばらく経った頃のこと。下心を隠しながら、また今度そっちの友達なんかも誘ってみんなで……とか言いながら、なんとかゆかりと会う口実を作ろう思っていたら、ゆかりの様子がそっけない。まさかと思って、お付き合いしている人いるの?と聞けば「恋人ができました」とキッパリ言われた。モタモタしているうちに、密かに思っていた人を持っていかれた衝撃にフラフラしていると、聞いてもいないのに、むこうから「まだ日は浅いですけど、真剣に将来のことも話し合ってます」と言われて、膝の力が抜けたそうである。

 その反省というか、反動が、そののちの大胆な行動へと彼を走らせたのだった。



”ゆかりちゃん、どうしたの?なにか変じゃない?”

 そういう訳で、藤阪とゆかりはそのころちょくちょく会うような仲ではなかった。それでも、時々電話ぐらいはして話はしていた。会う頻度は少なかったが、ゆかりが仲間内の発表会に出るとかいう情報を聞くと、マメマメしく顔を出して、そのついでに、たまにはご飯を食べることもあった。そんなある日、なにげなく藤阪がゆかりに電話を入れると、受話器の向こうのゆかりの声が今までになく、投げやりで沈んだ様子をしていた。

”私ですか?なんでもありません”

”いや、声がいつもと全然……何かあったの、お付き合いしてた彼と”

”……なんでも、ありません。公ちゃんには関係ないことですから”

”……別れたの?”

”二度と会うことありません”

”……元気だしなよ”

”もう、私平気ですから、心配しないでください”


 そんな短いやりとりのあと、ゆかりは藤阪の言葉を待つこともなく、勝手に電話を切ったそうである。


 ゆかりに恋人が居たということは、亮作にとっては初耳であった。しかし、彼女だってもういい年をした女なんだから、恋人が居たという事実そのものは驚きではない。むしろ、普通のこと。そして、そんな恋が失敗に終わった、ということも、ありふれた話だ。


 そんな傷口には触らないほうがいいんじゃないのか?

 放っておいて本人の自然治癒力にまかせたほうがいい、と思ったが、亮作に電話をくれた友人も、藤阪も口をそろえて「なんか、おかしい」と言うので亮作も気にはなった。

 しかし、その手のことに実弟という立場では、却って関わりにくいものだが。


 だからなるべくさり気なく、世間話ぐらいのつもりで「最近、どうしてるの?また前みたいなパーティーに呼んでよ?みんなどうしてる?」って感じで、向こうの様子を探る程度しかできなかったが、そんなときのゆかりの返事は、確かに弟でさえも聞いたことないぐらいの、静かで冷厳とした響きをしていた。そして、言葉はいつも短かった「どうしてるって?元気よ。じゃあね、私、忙しいから」

 やはり、ゆかりは一言二言喋ると、自分勝手に電話を切った。




 そして、「あの日」のことである。

 亮作の元に藤阪から連絡が入った。なにか非常に焦っているような様子で早口にまくしたてた。


「今、ゆかりちゃん、どうしてるかわかるか?」

「お姉ちゃん?自宅にいないの?」

「自宅の電話も、携帯にもつながらない!メールをしたんだけど、返事がない!様子は変だったけど、今までは電話に出るぐらいはしてたし、一言「心配しないでください」みたいなことだけでもメールの返事はくれてた!彼女、ここのところ、大学にも行っていないし、いつ連絡いれても自宅にいるみたいだったのに、今頃、こんな夜遅くにどこに行くとかあるのかっ?!」

「わ、わかんないけど……」

「亮作君、たしかゆかりちゃんの部屋の合鍵持ってたよね?」

「うん」

「こっち、今すぐゆかりちゃんの部屋に行くから、合鍵もって来てくれるか?」

「わかった」



 亮作がタクシー飛ばしてゆかりの部屋の前につくと、一足先に藤阪がその頃ゆかりが住んでいたマンションの前に到着していた。

 そこで、夜闇の中ゆかりの部屋をじっと見上げている藤阪の姿がまず最初に目に入った。

「亮作君、見てよ」

 藤阪がゆかりの部屋を指差した。

「部屋の明かりはついている……」


 最上階にいることを示しているエレベーターなんか待つ気になれなかった二人は、5階までの階段を一気に駆け上った。

「お姉ちゃん、いる?」

 藤阪が何度もドアベルを鳴らす横で、亮作も同じペースで扉をドンドンやった。が、やはり、中の返事を待つ気になれなかった亮作がすぐに合鍵を使った。



 扉を開けると、妙な静寂を感じた。

 最初足を踏み入れたリビングは変に殺風景だった。良く見たら、壁に飾ってあった額の絵や、テーブルの上の小物などがない。キッチンにも皿や調味料がない。あるのはテーブルセットやカーペット、タンスと言った大型家具のみ。なんだ、これは?そんな様子に驚きながら、二人はゆかりの寝室のドアを静かに開けた。



「そこで黒い服来て、床の上に倒れこんでたんだ」

「黒い服……喪服?」

「僕も最初そう思った。だから、喪服着て自殺図った!って、びっくりしたけど、違ったんだ。あれ、演奏会用のドレスだったんだよ。以前、それ着て演奏会で弾いてたのを僕も見たことがあった……それに気がついて、余計怖くなったけど」


「そうか……」

「その部屋もガランとしていた……あったのは、ベッドとカーペットとピアノぐらい。もう死ぬつもりで自分の身の回りのものを全部整理しちゃってたんだ」


 草壁は黙って、空を見上げた。


「カーペットの上には、ウイスキーの空き瓶が2本転がっていた。あと、空の睡眠薬の包装が大量に足元に散乱してて……それから、これぐらい――」


 亮作が両てのひらをすっと上下に開いてみせた。だいたい500MLのペットボトルぐらいだろうか?


「――の、ボトルが2本。農薬かなんかの劇薬だって言ってた。薬の名前は忘れたけど」


「ふうん……」


 相変わらず空を見上げたままの草壁がぽつりと呟いた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 草壁と亮作の二人がそんなことを話していたちょうどそのとき、ゆかりは自分の教室でピアノを弾いていた。

 あと1時間もすれば、小さな生徒が一人やってくる予定である。その生徒が来るまでの間、練習というよりひとり遊びのようにしてピアノを弾いていた。

 最近は、もうプロになろうなんて野心もなくなったかわりに、一時期みたいにピアノに触れることに抵抗もあまり感じなくなったゆかり。

 今の自分にはちょうどいいのかもしれない。と思っていた。


 そうやって演奏しながら、あれこれと頭の中は楽譜とは違う方向に思いを馳せたりする。

 このあと、教室が終わったら、どうしよう……お向かいの喫茶アネモネのお手伝いに行こうか?

 休日だから、いつもは顔を出さないようなお客さんも来るかもしれない。そんなお客さんの顔を覚えて、仕事ももう少し色々と覚えなきゃいけないこともあるだろうし。

 それから来週には、スナックの演奏のバイトもある。また、ママにホステスやらされちゃうのかな?まあ、適当にやって、逃げちゃえ。それにしても、こっちに来てまだ間もないのに、随分といろいろな繋がりが出来ちゃったなあ……。


「考えてみたら、アレからもう一年以上経ったのね」


 そんなよそ事を考えながらでも、鍵盤の上の指が簡単には乱れることはなかったが、頭に浮かぶがままにあれこれと考えを巡らせていると、知らず知らずのうちに「あの日のこと」の近辺にまで思いが及び、彼女はふと手を止めた。

 忘れようと努力したわけでもなかった。そうして忘れられるものでもない。それに、彼女は忘れてはいけないと思っていた。

 それでも、あの日のことを思い出すこと。それは苦痛だった。

 認めたくない過去に繋がる、一連の暗い記憶。

 ゆかりは、しばらくピアノの前でうつろな顔をしていた。



 「あの日」のこと――。


 処分に手間取る大型家具以外の身の回りの品々を処分し、最後まで残った衣類の整理も終わったその日、残しておいた演奏会用の黒いドレス――亮作と藤阪が目撃した、あのとき来ていたものである――に着替え終わり、窓の外を見ると、いつのまにか日が暮れていた。


 闇夜と部屋を隔てる窓ガラスごしに、死装束のつもりで残しておいた演奏会用の黒のドレス姿をした自分とにらめっこすると、意外と平気そうにしていた。

 そして、静かにピアノの前に座った――。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「それから寝室の絨毯の上にペタッと座って、ウイスキーをストレートで飲みながら、睡眠薬を齧ったんだって」

「そうか……」


 亮作と草壁がぼんやりと見る陸上競技場では、細い足先をしなやかに突き出しながら、左から右へ次々とハードルを越える部員達の姿が、単調に続いていた。


「朦朧としながら、最後の仕上げに薬を飲んで……」



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 ゆかりはそのとき痛みとか、苦痛なんかは感じていなかった。。

 ただ、飲み慣れない強いウイスキーが少し苦いと思ったぐらいだった。

 とにかく、一度毒を飲み込んだら、もう二度と目覚めたくはなかった。それで、アルコールと同時に睡眠薬も大量に飲んだ。

 その後の記憶は、もうなかった。



 しかし、それからあとの数日の記憶は、悪夢のようなものである。

 運びこまれた病院で、胃洗浄を受け、薬物の投薬……。

 毒を制するには毒のたとえのとおりか、その薬物の副作用。そして摂取した毒物と急激に飲んだアルコールと睡眠薬の影響。

 天地がひっくり返るような頭痛と吐き気の連続。

 あまり症状がひどいと鎮静剤が投与されたが、それが切れればまたもややってくる、二日酔いの隠しボスみたいなヤツ。しばらくはそんなことの連続だった。


 数日して、症状が治まっても、流動食すら吐き出してしまうような状態だった。もっともそれは、生理的影響だけではなく、心理的ストレスがかなり大きかった。


 あまりの苦痛に最初の頃は、死ねなかったとかなんとか感傷的なことは思わなかったが、体が落ち着いてくるにしたがって、死に損ねたという屈辱感が大きくなった。


 そろそろ、経口での食物の摂取も可能になるはず、と医者が言う頃になっても、そんなストレスのせいで、彼女の体は食べ物をうけつけなかった。点滴でなんとか体力を保たせる日々だった。


 草壁と出会ったのは、そんな時だった。

 ――だが、そのあたりの事情はまたの機会に譲る。



 一人、ピアノの前に静かに佇むゆかりの胸には、そんな一連の記憶が蘇っていた。

「今はこんなこと考えないほうがいい」

 首をふりながら、鍵盤のフタを閉めると、ゆかりはサッと立ち上がった。

「もうすぐ、生徒も来るんだから。暗い顔してちゃダメ」

 楽譜をパタンと閉じた。


 ピアノは、彼女にとって長い間慣れ親しんだ相棒。しかし、自分の暗い過去の象徴でもあった。触れてみてどうなるか。そのときによって、慰めと苦悶の二つを気まぐれにもたらす魔物だった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 亮作の話は、随分と長いものになっていた。

 グラウンドの陸上部員たちも、何時まで立っても動かずに、こっちのほうをジッとみている変な二人組みのことをときどきチラチラと気にしていた。特に女子部員が。

 なんか、あの二人、キモイ。



「それから、もうピアノを見るのもイヤだってことで、大学も辞めて……」


 退院後、ゆかりは一時期実家に帰った。

 そこで、今後どうするんだ?となったときに、婿養子を取るということになったそうだ。

 家業を継ぎたがらない弟に代わって――。


「そんな事情だし、それがお姉ちゃんの決断だったらそれでいいと思うけど」

 陸上部員たちの視線には全く気づいていない二人。

 亮作が静かなトーンで続けた

「なんか無理してるような気もするんだよね……だって、結婚するんだったら、やっぱり好きな人と一緒になりたいだろうし」


 じっと黙って聞いている草壁も微かに頷いた。


「もっとも、それが草壁クンだったら、うちの親も反対するだろうけどね!」

 こんな話をしてても、コイツは一言多い。

「うるさいよ!その、どうせありえないけどねっ!みたいな軽い調子で、俺で話の落ちつけるのやめてくれよ!真面目な話だろっこれ!」


「怒んなくてもいいだろ?冗談なんだからさ……」

「……」


「あんなことの後だから、親だってしばらくは好きにさせるつもりだし、お姉ちゃんも、そういうこともあって今は恋愛なんてどうでもいいのかもね」

「そう……」

 草壁の「そう」の言葉のあとには、実は小さく「?」マークがついている。丸っきりそうとも見えないような気が彼にはしている。が、余計なことは言わずだまって亮作の言葉に耳を傾けた。


「考えてみればこっちが家業を継がないっていったばっかりに、おねえちゃんが一人、割り食っちゃった気もして……」


 そして、亮作もさきほどの草壁みたいに、青空を見上げて、真顔になった。


「そう考えると、お姉ちゃんに申し訳ないって思うことあるよ……」


 二人はそろって空を見上げていた。

 グラウンドには、もう人影はなかった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 スナック「momo」でのゆかりの立場はあくまで、ピアノ演奏のバイト、のはずだった。

 2回目の出番となるこの夜も、そのつもりではあったが、気がついたらあっさりとミミからのお酌をカウンターの中で受けるゆかり。



 店は前回のように満員御礼状態ではなく、客はカウンターに座る5人だけ。

 この前のときにいた客が二人と、ゆかりにとっては初対面の客二人。

 それと草壁。


 なんだかんだ言ってゆかりも調子よくホステスをやっちゃうのだが、momoのママのミミもそのへん一癖も二癖もある。


 

 その日、演奏を今まさに始めようとしたそのとき、ミミがスッとゆかりの元に近づいてきた。

 ピアノの前に座るゆかりのソバで膝立ちになったミミ。ちょうど客からはグラウンドピアノ陰に隠れるようなカッコウでこっそりと、ゆかりに茶封筒を手渡した。

「これ、今日のお礼ね。忘れるといけないから最初に手渡しとくわ」

「ありがとうございます」

「じゃあ、よろしくね」

 そういうと、ミミはサッと立ち上がってカウンターへと戻っていった。


 ピアノの前に残されたゆかりは嫌な予感がしたので、こっそりとその封筒を覗いて見た。

 中には前回ホステスをやったときと同じ額のお金が入っていた。




「ところで、草壁クン、なんで今日もいるの?」

「来ちゃいけませんか?僕はここでもそんな扱いですかっ!」

「も、ってどういうこと?……アネモネのマスターからも面白いから適当にからかってやりなよ、って言われてたけど、あなたってなんかおちょくりやすい雰囲気してるのよ」

「なんですか、それ……」

「それより、なんでゆかりちゃんの出勤に合わせて来たの?前回と違って、今回は偶然?」

「えっ……」


 そういわれて草壁が、カウンターに立つゆかりを一瞬チラッとみた。ゆかりは涼しい顔をしてソッポを向いた。


 なんか変だと感じたミミがあれこれ突っ込んだ結果、なんとゆかりから草壁にさり気なく営業をかけていたことを知った。


「ゆかりちゃんね、営業かけてくれるのはいいけど、もっといい客引張ってきなさいよ!」

「悪かったですね!僕で!」

「だって、私、他に馴染みのお客さんなんていませんし」

「おいおい!こっちに声掛けてくれたら、いくらでも顔だすよ!ゆかりちゃんのお誘い断るわけないだろ!」

「あ、ハハハ……ま、また……上手いんだから……あ、誰も歌わないんだったら、私一曲、行っちゃおうかな……」

 ゆかりはそういって、カラオケに逃げていった。



 で、この二人の関係についてスナックmomoのママのミミがどう見ていたか?

 正直わからない。と思っていた。

 どこの世界に自分の職場、それも水商売で他の男相手に愛想振りまいているような場所に彼氏をつれてくる?むしろ、女からするとそんなバイトを彼氏には隠すぐらいだろう?

 それに、どう見ても二人の間にそんな雰囲気がない。ただの友達のようだし。

 その割には、ときどき彼にお酒やおつまみをおごってあげている。

 そしてさり気なく営業もかけている。

 なんで?

 ここでしか会えない男、ならわかるけど実はお隣さんで、ちょくちょく顔も合わせる親しい友達だそうで。

 なんなのかしら?この二人?

 まあ、いいわ。利益の薄い客だけど、客は客。

 本人はあまりお金持ってなくても、ゆかりちゃんていう強力な連帯保証人がいるから、ちゃんとお会計の回収は望めるし。一人ぐらいそんなのがいてもにぎやかしにちょうどいい。



 だいたいからして、馴染むのが早いのはゆかりだけではなかった。

 この草壁という男もそうだった。

 自分の父親みたいなのに混じって、2回目のスナックにも関わらずすっかり常連みたいになっていた。

 その点、売り上げ云々というのは抜きにして、ママにしても好印象が持てた。



 そうして場末の小さなスナックが地味に、というかアットホームに盛り上がっているそんな時、二人連れの入店。。


「あらっ、ツルさん!久しぶり!」


 ママがそう言うので、驚いて入り口のほうを振り返ると、そこにはツルイチと亮作が二人並んで立っていた。


 草壁とツルイチは双方、この状況にはちょっとびっくりしていた。

 ゆかりは、愕然となった。まさか自分がホステスしている飲み屋に弟が来るとは予想外もいいところだ。


 そして、亮作は……呆然としていた。



 ミミにはこの、ゆかり、草壁、ツルイチ、そして亮作の4人の詳しい関係なんかそのときは分からなかったが、このままカウンターに二人を案内してはマズイとは、なんとなく感じ取った。そこで、この4人をボックス席に隔離した。


「今日はアイツと二人で飲んで?」

 ボックス席に陣取ってから草壁が、赤ら顔に出来上がっていたツルイチに聞いた。

「ええ、二人とも今日はいい調子で勝ったもので、軽く祝杯をあげて……そのあと二次会ってことで、私の知っているこの店に亮作君を案内したんですがね」

「そうですか……あの、もうすでにかなり飲んでる?」

「私ですか?いえ、それほどでも、軽くジョッキをひっかけただけですが……」

「でも、長瀬君、かなり酔ってるんじゃ?」

「そうですねえ、彼の場合、久しぶりの大勝ちだったらしく、今日はやけにご陽気でしたね……」

「陽気?」

「ええ、さっきまでは……」


 草壁とツルイチがそうやって話ながら、チラチラッと亮作の様子を伺っていた。

 ボックス席に案内された4人のうち、草壁とツルイチは、驚いたと言っても、ただの顔見知り同士の面子。わりと平気なものだった。ゆかりのほうも、最初はちょっとやりにくそうにしていたが、考えてみたら部屋の飲み会でのいつものメンバー。またパチンコですか?とか言いながら、そのうち寛ぎだした。


 しかし、一人、店に入ってきてから一言も喋らないのが亮作だった。

 しかも、ただ喋らないだけじゃない。暗い。というか重い。なんだろうこのお通夜みたいにジッと何か考え込むようにして俯いたまんまなのは?


「ねえ、ママ。あれ、あのボックス席にいるの、ゆかりちゃんの弟さんって本当?」

「みたいね……私も今、ゆかりちゃんから聞いたばっかりだからよくわからないけど」

「なんか、様子が変じゃない?」

「お姉ちゃんがホステスやっているのを見て、びっくりしてるんだろ?」

「そうかもしれないが、なんで、ジッと暗い顔して黙り込んでるんだ?」


 カウンター席の他人からも心配されるような様子の亮作。

 となりでゆかりも、気持ち悪く思いながら、ずっと押し黙ったままの亮作を見ているしかなかった。

 なんなのかしら?この子。私がホステスのバイトしてたのがそんなにショックなの?そんなに固いところあったのかなあ?



 微妙に今この店の全員から注目を浴びている亮作。

 すると、やがて彼は真剣な目をして、こんなことを呟いた。


「おねえちゃん、ごめんな……」


「へっ?何が?」

 いきなり亮作に謝られてゆかりはびっくりなった。

 いや、店の全員が、その言葉に一瞬静まった。

 店の全員に見守られながら、亮作は一人言葉を続けた。


「午前中は喫茶店でウエイトレス。午後はピアノ教室、夜にはスナックのホステス……」

 そう言ってゆかりをじっと見た。


「一体、いくら必要なの?」


「へ?」


 なるほど、そう受け取ったか!草壁には、亮作がゆかりの姿を見て何を思ったか、そのときやっと分かった。


 ゆかりが3つも仕事を掛け持ちしているのは、きっとお金に困ってのことだと早合点でそう思った亮作。

 かなり酔っ払っているからでもあるが、そこに普段から姉に対して抱いている、申し訳ないという気持ちが彼を悪い方向に暴走させた。


「そんなにしなきゃいけないなんて知らなかった」

「な、何を言い出すの!何を!」

「お金に困ってるんだろ?」

「ち、違うから!そんなんじゃないの!どうでもいいから、もう黙って!」

「全然、気づかなかった。隣にいたっていうのに、また気づいてなかったよ。僕って、相当鈍いのかな?ホントごめん」

「あ、あんたね、人の話、ちゃんと聞きなさい!困ってないから……ちょっと、草壁さん、もうこの子連れて帰ってくれませんか?」

「そ、そうですね、そうします――な、お前、ちょっと頭冷やせ……とりあえず帰ろう!な!込み入った話はまたあとだ!?な、今日はもう帰ろ!」


 そんな草壁の言葉なんて、もう亮作には何にも聞こえてなかった。


「お姉ちゃん、僕も一緒に働くよ。」

「あんた、そんなに酒癖悪かったのっ!!?」

 人の話に一切耳を貸さずに一人暴走する亮作に、ゆかりが再び愕然となった。



 一方、そんなやりとはすぐ近くのカウンターにも響いていた。

 カウンターの客は一応、そ知らぬ顔をしていたが、全員、しっかりとこの様子に聞き耳を立てているのである。亮作の真剣な様子のせいで、これは相当裏にややこしい事情があるに違いないと、客たちは密かに思うのであった。なにしろ、客はゆかりの詳しいプロフィールなんてロクに知らない。商店街のピアノ教室でピアノを教えている先生。それぐらいしか知らないのだから。そこへ実弟がやってきて、そんなことを一人、涙目になりながら滔々と語るのである。酔っ払いの言うことだからということで、話を半分に受け取っても、かなり深刻そうな事情があると考えた。


「なあ、ゆかりちゃん、ああ見えて結構苦労してるみたいだな」

「そうだねぇ……実家にも言えないような事情でもあるんだろうか?男がらみとか?」

「ご両親も、そんなに余裕はないのかもしれないな。だから、弟さんが働くとか言ってるんだろ?」

「なんか、世の中、色々あるよな。あんな美人でもお金には恵まれないか……」



 たしか、ゆかりちゃんの実家って結構なお金持ちだったはず……。

 ママのミミだけは、喫茶店のマスター経由でそんな噂も聞いていたし、なぜ彼女がそんなふうになっているかの裏の事情も知っている。

 けど、別にこうなったのは私が悪いわけじゃないもん。

 ゆかりちゃんちとこっちは関係ないし。私、知らない。

 柿ピー齧りながら、ミミはソッポを向いた。



「何も言わないで、このお金使って!これ、今日の僕の稼ぎだから!」

 サイフから1万円さつを3枚ほど取り出して、ゆかりに押し付ける亮作。

 先ほどから、草壁に肩を引張られようが、服を引張られようが、そんなのおかまいにしに振り払って一人立派な弟を演じることに没頭している。


「い、いらないわよ」


 その様子をこっそり見ていたカウンターの客。

 彼らは、まさかそのカネはパチンコで勝った金だとは知らない。

 弟さん、自分のバイト代を本当にお姉さんに渡したぞ!

 ――もちろん、カウンターの連中だってそれなりの酔っている。しんみりと聞いてはいた彼らが、今目の前で繰り広げられた浪速節的光景に、ごく単純に感動した。


「えらい!よく言った、立派な弟じゃないか!」

「男だ!がんばれ!」

「ゆかりちゃん、いい弟さんだね!」


 無関係のカウンターの客の中が、無責任に盛り上がった。


 突然カウンターから上がった歓声にゆかりと草壁が目をむいた。

 もはや、ゆかりに言葉はなかった。

 草壁も、この暴走機械を押さえることができずにただやりたいようにやらすより他になかった。

 ツルイチは……微妙に状況を理解できずに一人、水割りをチビチビやっていた。

 ミミは、ゆかりたちには背中を向けて聞いてないフリをしていた


「ありがとう、みなさん、二人力をあわせて3億円の借金をかえしてみせますっ!」

 見ず知らずの客たちの拍手にすっかり気をよくした亮作が、カウンターに向かって一人そんなことを叫びだした。

 うぉっ、ものすごい金額じゃないか!

 そんなにあったのか!

 ゆかりちゃんも、気を落とすなよ!これだけ弟さんが言ってくれてるんだ、必ずなんとかなるから!


 亮作の言葉に一層盛り上がるカウンターの客。拍手の嵐は鳴り止まない。


「なんだよ、その3億円って?どっから出てきたんだ?」

 引き止める気力もなくなって黙ってみていた草壁がそれを聞いてぽつりと呟くと、水割り片手のツルイチが

「今日ね、パチンコの調子がよかったでしょ?それで亮作君、機嫌がすっかりよくなって、こんなツイてる日に宝くじ買ったら当たるかもってことで、宝くじを買ったんですよ。一等前後賞あわせて3億っていうやつ」


 ツルイチの言葉を聞いて、あきれ返って言葉も出ない草壁。そしてゆかりは客たちの拍手の中、もう頭を抱えているしかなった。


「やめて……お願いだから……もうこれ以上、アホをさらさないで……」




第10話 おわり

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