第8話 告白
気がつけば5月のカレンダーも終わり、6月に入った。
長瀬ゆかりの朝は早い。
別にこれと言って早起きしなきゃいけない理由はないが、実家にいたときからの習慣が一人暮らしの今でも続いている。
7時には、一人で朝食をとって、午前中に家事を大抵すませてしまう。
以前、長瀬亮作と同居するようになって、彼もまた律儀に早起きだったことに草壁が感心していたが、姉弟そろってそれなりに日々の暮らしは規則正しく、ちゃんとしていた。
そして、長瀬ゆかりは自炊派である。
あまり一人で外食に行ったりはしない。
草壁が自炊しているのは経済的理由が主だが、彼女の場合は全く違う。豪遊を許すほどの金額ではないが、毎月振り込まれる仕送りは、自分より一回り年上のサラリーマンの月給ぐらいはあった。それに、ピアノ教室の収入も加わる。
関係ないが、前回草壁からふんだくった千円を、彼女はまだ返していない。というか返すつもりはないらしい。
朝食も、めんどくさいときは、近くで買ってきたクロワッサンとオレンジジュース。
というような時もあったが、きちんと昆布とカツオ節でダシを採った味噌汁に、得意の卵焼き、それに実家から送ってくれた高級ノリに、前の晩の残りものが一品。みたいなメニューだったりすることのほうが多い。
お嬢様、案外マメなのである。
「もうそろそろ、お隣も起きている頃よね……」
キッチンの時計を見上げると、時刻は午前7時30分。
自分の食事を終え、今日は少し多めに炊いたご飯で、おむすびをつくっているゆかり。
たまには、差し入れぐらいしてあげよう。いつも、お隣にはお酒ご馳走になっているし。
おかかや梅干なんかを真ん中に詰めて、さっさ、キュッキュッって手早く三角に成型したら、大きめのお皿の上に乗っけて、ラップ掛けて……。
ドアをでたら、徒歩3秒。
チャイムを鳴らすが、反応なし。
あれえ?おかしいなあ。こんな時間に誰もいないってどうなってるの?
この部屋の合鍵をそのころは弟から預かっていたゆかりが、自分で玄関ドアを開けて、「おはようございます……」と、そっと中をうかがいながら、ダイニングルームに入ってみると……。
テーブルの上に突っ伏して寝ている亮作。
ツルイチのほうも、ジッパー全開の寝袋の上に、ごろ寝。
机の上の安焼酎のビン。発泡酒の缶。
誰かが作った何かが乗っていたらしい、醤油かなんかのタレだけが残った空の皿が数枚。
飲みかけのハイボールやら、なんやらが入ったグラスが3つ4つ5つ……。
直食いしていたらしい、シーチキンの缶。の上に、お箸が一膳。
うわっ……。
と思って、ゆかりがおむすびの乗った皿を持って立ちすくんでいると、亮作がむっくりと顔をあげて、寝ぼけ声をあげた
「あ、お姉ちゃん、おはよ……」
「ああ、これはこれは、ゆかりさん、おはようございます」
ツルイチも起きだすと、寝袋の上でちょこんと正座して、頭をさげた。
「お、おはようじゃないわよ……なに?この爛れた生活は?」
そう、長瀬ゆかりの朝は早かった。
しかし、もうそのころ弟の長瀬亮作の朝は遅かった。
理由は恐らく、草壁の感化である。悪いほうに引張られていた。
「そういえば、もう一人は?」
悪の根源がいない。
「おはようございます」
草壁、テーブルの下から顔を覗かせた。
「きゃあっっ!!」
ゆかりがスカートを押さえて叫んだ。
「ん?」
「覗かないでください、スカートの中」
「薄暗かったのでよくわからなかったです」
「覗こうとしたんじゃない!」
ちなみにこの時の下着は黒だった。
「まさか、毎朝こんな調子なんじゃないんでしょうね?」
片手に持ったゴミ袋に、空き缶を放り込みながら、ゆかりが飽きれた。
亮作、草壁、ツルイチの3人が、前日の酒が残っている様子で、だるそうにしているのを見かねたゆかりが片付けをしだした。お嬢様、案外親切である。それにしても、ゴミ出し用のポリ袋の在り処がどこなのかを数回この部屋に出入りしているうちに、いつの間にか知っていたのには、草壁がちょっと驚いた。
「そんなわけないじゃないか!今日はたまたまで……。あっ、草壁クンのアクエリアス飲んでいい?あとでお代払うから」
「ん?いいよ、俺にも1本持ってきて」
「はいよ……ツルイチさんもなんか飲みます?」
「ウーロン茶まだ残ってましたっけ?私のヤツ。それください」
本当は、おむすびだけ置いて帰るつもりが、このままじゃ放っておけない。
お嬢様、案外面倒見がいい。
「ねえ、みんな、朝ちゃんと食べてるの?」
言われた3人、ペットボトルを口にしながら、ブンブンと頭を振った。
「たまには、ちゃんと食べないと……亮作、あなたまで、いつの間にか生活乱れすぎてない?あんまりひどかったらお母さんに言いつけるからね」
「や、やめてくれよ……」
そんなことを話ながら、ハムエッグとサラダと味噌汁を作ってしまうと(食材は全部、草壁のものを彼に無断で使用)、
「これ食べて、ちゃんと学校行くのよ?ツルイチさんも、お仕事、あるんでしょ?」
ツルイチの仕事――パチプロなのだが、そんなふうにパチンコに送り出されたことのないこのハゲオヤジ、恐縮しながらも嬉しそうに、おむすびを頬張った。
「いやあ、恐縮ですなあ……これは、こんどいつか、ゆかりさんに何かご馳走しないといけませんねえ。私、こう見えても、昔、旅館の板場で料理人をしていたこともあるので」
マジか……。このオッサン、一体どんな経歴してんだ?
ツルイチ以外の一同が静かに驚いた。
「イケネ、歯磨き粉切れてたんだ……草壁クンの貸して」
「ヤメロ、お前と同棲してんじゃないんだぞ!」
「お姉ちゃん、買い置きない?」
「もう……仕方ないわね……」
朝食が終わると、なんとなくあわただしい朝の光景。ゆかりもなぜかそんなお隣さんの朝の日常に巻き込まれて妙に急がしい。
やがて、身支度を終えた草壁、亮作、ツルイチが3人そろって出かけるのを見送るゆかり。
「じゃあ、お姉ちゃん、最後に戸締りだけお願いね、行ってきます」
「行ってらっしゃい。車に気をつけてね」
そしてエレベーターに消えてゆく3人を見送ったあと、ゆかりがポツリと呟いた。
「あれ?……。洗い物……まだ残ってるんだけど……」
その後、苦い顔で ”なんで、私がこんなことまでしなきゃいけないの!” とこぼしながら、ゆかりは307号室のキッチンで洗い物を済ませたそうである。お嬢様、案外律儀である。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そんなある日の夜のこと。ゆかりはつまらなそうな顔をして、自室のソファーに一人座っていた。
普段は退屈をもてあましてしまうタイプじゃない。一人でジッと家にいてもそれほど苦にはならない。休日にはそうして、家から一歩も出ずに本よんだり、音楽聴いたりして一日すごすこともよくある。
けど、今日はあやとの長電話を終えて、少し退屈を感じたゆかり。時計を見ると午後の8時。
そうだ!いいこと考えた!
この前の亮作たちの爛れた朝の様子が気になる。これは、一度キチンとお隣の生活を把握しておかなければいけない。
あんな調子で毎日飲んだくれているんじゅないかしら?
そこで、夕食をほんとうにかるーく済ませたゆかり、自室でパパッと料理を数品作ると、お盆の上に乗せて、ラップをかけて、お隣を訪れようとしていた。
亮作はお料理しないらしいし、他の男性陣もマメに作ってる気配もないし、朝ご飯抜きが当たり前にしているお隣さんのために、おかずの差し入れ……という名目で、突撃となりの晩御飯作戦。
お隣まで、徒歩5歩。
チャイムを鳴らすと、出てきたのは亮作だった。
「あ、おねえちゃん。どうしたの?」
「ん?ちょっとおかず作りすぎちゃったから、晩御飯の差し入れ。どうせあなたたち、碌な夕飯食べてないんでしょ?」
そう言われた亮作が、ゆかりの持ってきたお盆の上の数皿の料理を見て、少し、いぶかしげな顔をして呟いた。
「あ……ありがとう。お姉ちゃん、暇だったら、うちよってく?」
その日のその時間、たまたま307号室はフルメンバーが揃っていた。まあ、草壁圭介と長瀬亮作の二人は、大抵その時間なら、自分の部屋でゴロゴロしているのだが、この日はツルイチの姿もあった。
「今日は、もう目標の金額を稼いだので、引き上げです。こういうものは、勝ちすぎっていうのもよくないですから」
ゆかりはタイミングよく突撃することに成功したわけである。
驚いたのは、その中で、草壁がエプロンをつけてキッチンに一人で立っていたことである。
「あ、草壁さん、お料理してるんですか?」
「はい」
なんで、こんな時間に突然お隣のゆかりがやって来たかよくわからない草壁もちょっと驚いていた。
「お姉ちゃんも食べてったら?草壁クンの唐揚げ」
「そうそう、彼の唐揚げはなかなかおいしいんですよ。今では、すっかりこの部屋の名物料理でね」
「あ……そうなの?」
と言っていると、草壁がつい今しがた揚げあがった鶏の唐揚げを小皿にとってゆかりに差し出した。
ダイニングテーブルのいつもの指定席に、何時の間にか着席したゆかり、さっそくそれをパクリ。
「あっ!おいしい!」
モモではなく、胸肉を使っているのだが、火加減が絶妙なので、食感がまるでグミキャンディーのように柔らかでジューシー。
「ニンニクは使わずに、生姜を利かせて、少し甘めでスパイシーなところなんか、お姉ちゃんの口にも合うんじゃない?」
「うん!本当においしい!」
「鶏肉の買い置き、結構あったから、今日はいっぱい作っちゃいましょうか……」
草壁の買い置きの鶏肉なんて、どうせ、スーパーの特売を狙って仕入れてきたものを冷凍してあるだけのものなのだが。
「それより、草壁クンさ、お味噌汁、作るのやめたほうがいいよね?」
「そうだな、だし汁とったけど、これ冷凍にして、また今度使うか…」
亮作とそんなやり取りをしながら、草壁がコンロの上の鍋を火から下ろした。
今日はたまたま草壁がおかずを作って、それを3人で食べるみたいになっているが、いつものことではない。そして、草壁に夕食を作らせた場合、材料費プラスお礼程度の支払いはするのがこの部屋のルール。いつの間にか、そんな取り決めも出来ていた。
「どうして?お味噌汁、なんで飲まないの?」
「どうしてって、ゆかりさん、こういうことなんでしょ?」
ツルイチが冷蔵庫から取り出してきたのは、よく冷えたビールとコップ一つ。
「いい加減にしなさいよ!あなたたち、何かって言うとお酒お酒って!!!」
目の前に置かれたビールを見ながらゆかりは怒った。
だいたい、この部屋の住人はビールより、お安い発泡酒のほうが多い。お金持ちのボンボンである亮作も、他の二人にお付き合いして、ビールはあまり飲まない。彼の場合、さほどお酒に対するこだわりがない。まだ酒歴も浅い。
だから、彼女にはわかる。これは、わたしのために前もって用意してたものだと。
そうやって、私を篭絡するつもりね。……その手には乗らないんだから。一度、亮作にはキチンと説教しないといけないわ……。
「あのさ、お姉ちゃんさ……」
ゆかりがそんなことを考えてると、亮作があきれたような声を出した。
「エビのフリッターはいいけど、この生ハムに野菜やらチーズ巻いたりしたのとか、何?この生春巻きに、ひき肉と大葉とか入れて、お手製のドレッシング掛けたみたいなのとかさ、このトマトとモッツァレラチーズにバジルのソース?こんなの、明らかにご飯のおかずじゃないでしょ?」
「べ、別に、これでご飯食べたって悪くないでしょ!」
目の前で、ツルイチが、まっ、どうぞどうぞなんて言いながらグラスにビールを注ぐ様子を見ながら、ゆかりが唇を尖らせた。
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すっと持ち上がる、シャモジ。
それを手にしているのは草壁。
ダイニングテーブルの脇に立つ草壁、ペコリと一礼。
「では、トップバッター草壁圭介、歌います。『ルビーの指輪』」
今夜もツルイチさんのギターは絶好調。このオッサン、演奏するのがどうも楽しいらしい。少しお酒が入るとリクエストもないうちから、「じゃあ、今夜もさっそくいきますか?」と言ってアコースティックギターを抱えだす。
まあ、ご陽気なのはいいことで、ゆかりも缶ビール1本開けるころには、最初の頃のムクレ顔はどこへやら、弟と揃って、草壁の歌に合わせて手拍子していたりする。
「ところでさ、こういうときの酒代ってどうしてるの?」
ゆかりにそう聞かれて同じく手拍子しながら、亮作が言った。
「そのとき飲み食いした分をだいたいの見当でそれぞれが払って、そこから補充」
「今度からは私もそうする!そのほうが気兼ねないし・・・」
「じゃあ、これからは徴収するよ」
気兼ねなくこれからも来ようとしているのか?お姉ちゃん。ま、いいけどさ。
ゆかりの手のグラスに冷や酒が入っている、ということは、すっかり本調子ということである。
時に、ツルイチや草壁に注がれながらも、基本、手酌でクイクイ。
草壁の作った唐揚げをパクつきながら、亮作がアカペラで歌う「バビル2世のテーマ」に手拍子。あっ、あんた上手じゃない!
ところで、なぜ亮作はアカペラなのか?さすがにアニソンまではこのオジサンのレパートリーにはなかったからである。
「ほらっ!ゆかりさん、ここで「ヤッ!!」って掛け声を入れるんですよ」
「ああっ!そうなの?」
「次、2番のところで、いっしょに行きますよ」
「わかった!」
”ヤッ!!”
「じゃあ、そろそろ、歌姫の登場ですか……」
シャモジ片手の草壁が司会を務めるべく立ち上がると、それに合わせて始まるツルイチのギター。
「『一人見上げる冬カモメ
雪の岬に女の涙
さようならの未練残して、帰ります』」
「……それでは、歌って頂きましょう。長瀬ゆかりで、津軽海峡冬景色」
その日のステージマイクである、味ポンを手にしたゆかりのステージが始まる頃には、結構な時間になっていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「じゃあ、そろそろ、これでお開きと……」
ゆかりの歌が終わると、亮作がそういって立ち上がった。
「え、もう、終わり?」
頬をほんのり染めたゆかりが、がっかりしたような声を出した。
苦笑する亮作。
「自分が飲むとこれだ……とりあえず、これまでのお勘定ね。ツルイチさんと僕が600円。草壁くんが800円、おねえちゃん1300円……いつものカンカンに各自入れといてね」
そういい終わったころには、亮作の姿はサッサと自室に消えていた。
「えっ、あっさりと終わるのね……」
突然の終了にちょっと呆然としているゆかり。
「そりゃそうですよ、みんなただ、ちょっと晩酌ついでぐらいのものですから。これだって、ゆかりさんがいたから、いつもより、時間長いんですよ。もしかして、いっつも朝になるとあの惨状だって思ってました?」
草壁がそう言って笑う。
「別に、そう思ってたわけじゃないですけど……」
どうみても、物足りないという顔を目の前のゆかりがしている。立ち上がった草壁が冷蔵庫から追加のカクテル缶を二つ持ってきて、机に並べた。
「つまり、こういうことなんでしょ?」
「草壁さん、寝ないんですか?」
「まだ、宵の口ですから」
「けど……」
ゆかりがチラッと横を見た。
ダイニングルームのテーブルの横で、二人のそんなやり取りを尻目に、パジャマ代わりのヨレッとなったジャージに着替えたツルイチが、寝袋に入ろうとしている。
「いいんですか?この部屋で飲んでて」
「あ、私ですか?そういうの全然気にせず寝てしまうから、お構いなく」
言い終わると、ツルイチは二人のすぐ脇で寝袋に包まってしまっていた。
って、言うか、こっちは気になるんだけど……。ゆかりがその様子に目を丸くした。
一方、もうすでに机の上のお酒の缶を開けている草壁のほうは、慣れっこな様子。
部屋の3人でウダウダ飲んでいて、草壁と亮作の二人がバカ話で盛り上がっていても、寝たくなったらこのオッサン、寝袋に入って「じゃあ、おやすみ」と言ってその場で寝てしまう。
基本的に、3人とも集まりたくなったら集まって酒を飲むし、引き上げたくなったら自分のペースで勝手に自分は引き上げてしまう。
ツルイチはこんな場合、横で話していても、部屋の電気が煌々としていようとおかまいなしで、3分もすれば、グースカ寝息を立てているのだった。
「じゃあ、とりあえず、飲みなおしの一杯、どうぞ」
用意の日本酒はもう無くなってしまっているので、これからは缶チューハイとかそんなのの出番。
草壁は平気でも、すぐ隣でハゲオヤジの寝顔を見ながらの酒盛りなんて、年頃の女子には、ビジュアルとか雰囲気的になんとも言えないものがあった。が、もちろんそう思いながらも、杯は素直に受けるのがゆかり流。
”ねえ、草壁さんって、うちの教室のお隣の、あの道具屋のバイトしてるんですか?この前も店番してでしょ?”
”違いますよ!怖いこと言わないでください。けど、前通ると、叔父さんにとっ捕まって無理矢理、あの前垂れ着けさせられるから仕方ないんですよ……”
”変った前垂れですよね?タヌキの絵の書いた”
”あれ、タヌキじゃないです。アライグマです”
”タヌキにしか見えませんけど”
すでに、それなりに酔いも回っているせいか、二人の口も軽い。
”あの叔父さん、こっちが請求しないと、その日のバイト代払おうとしないんだから”
”ケチ、って評判はちょっと耳にしましたけど”
”この前なんか、『飴玉でいいか?』とか言い出すし……甥を糖尿にするつもりか?と。で、別の日には『今日は細かいのの持ち合わせがない』とか言うし。小銭で払うって、一体いくら出すつもりなんだって。毎回それですから”
”まとめて、月末払いとかじゃ?”
”ダメダメ……ゆかりさん、叔父さんのこと知らないからそんな暢気なこと言ってられるんです。とにかく現行犯で押さえないと、どんなごまかしをしてくるかわからない”
”叔父さんを、犯罪者扱いしちゃ悪いですよ!!”
テーブルを挟んで話す二人の目の前に、空の缶が3つ4つと増えてゆく。
残ったおつまみは、もうわずかだが、お話というおつまみのせいか、二人きりの酒宴は順調。
いつしか、ツルイチの寝息も部屋の壁掛け時計の針音程度にしか感じられなくなっていた。というか、存在が二人の視界からは消えていた。
途中で、ゆかりが「あっ、そうだ、お金もってこないと!あとで支払いもしなきゃいけないから」と言いながらちょっと席を外したりしたこともあったが、二人ともこうして話し込んでいるのが楽しい様子。
「律儀ですね。支払い今日じゃなくてもいいのに……」
「お金のことはキチンとしておかないと」
「ところで、このまえのパスタのお代はおごるとして、チーズケーキの分、あれは……」
「じゃあ、ちょっと席をはずします」
「……」
「草壁さん、この前バス停で、何読んでたんです?熱心そうでしたけど」
「小栗虫太郎……」
「黒死館!?面白かったですか?私も、それ一度読んでおきたいと思ってたんです」
「ミステリー好きですか?」
「ミステリーも、好きです。中井英夫の虚無への供物って読みました?じゅあ、クリスティーはお嫌い?私、中学のときよく読みました」
「好きですよ。でもクイーンのほうが好きだな……クリスティーって、一番犯人らしくなく書かれている人が犯人ってパターンが多いと思いません?」
「フフフフっ、分かります。書き出し読んで、この人でしょ!みたいな」
「彼女の場合、ミステリー作家って言うより、ストーリー作家的な要素が強いって思うな・・・・・・」
「そこが面白いんですよ。普通の恋愛小説とか冒険小説みたいにも読めちゃうところが」
話題なんか、探さなくても次から次へと出てくるのが不思議だった。
ただ、盛り上がると盛り上がったで、妙に頭が冴えてしまって、話に夢中になっているうちに、お互い、逆に酔いがすこしづつ醒めていることを感じていた。
もちろん、楽しかったのだが。
そうして一度満ちた、酔いの潮流がその水位を下げてゆくにしたがって、二人の頭の中にあるものが、低くなった水位の向こうに姿を現そうとしていた。それは・・・・・・。
草壁圭介が、以前から聞きたいと思っていたこと。
そして、長瀬ゆかりがずっと隠していたこと――。
ふいに、黙り込んだ二人がめいめいにそのことを考えていた。
足元では、ツルイチの寝息が、ウゴッウゴッというバキューム音に変りつつある室内。静かなのか、うるさいのかはよくわからない状態。
二人には、その雑音は耳には入っていないようだった。
「今日は結構飲んじゃいましたね」
「そうですね……まだ寝ないでいいんですか?」
「僕ですか?この時間ならいつも起きてますし。ゆかりさんは?」
「私もそうかな?」
少しづつ、会話のテンションが下がって行く。
が、互いに、まだこの場を離れたくはない。という思いは、そんな会話に現れている。
もう、1本ぐらい、お酒追加しましょうか?と草壁がその間を埋めるようにして、サッと立ち上がり、冷蔵庫を覗き込んでいると、その背中にゆかりが、問いかけた。
「草壁さん、気になったこと、なかったですか?」
まるで、推理小説の探偵が真犯人を指名でもするかのような、静かで冷たい言葉だった。
「なにがですか?」
真犯人はそういうとき、こんな調子で答えるものである。とりあえず、何も知らない振りでとぼける。動悸を高鳴らせながらも。
「去年の春、私がなぜ入院していたか?その理由です」
缶チューハイを両手に草壁が振り返ると、ゆかりは、穏やかに笑っていた。
むしろ、だからこそ、彼の表情は固くなった。
「当ててみてください」
草壁が手渡した追加のお酒を手にしながら、ゆかりはクイズでも出題するような軽い調子で草壁に言った。
当てろ、と言われても、手がかりなしに、医者の診断内容まで細かく言い当てることなんか不可能だ。
大まかで良いなら、そんなもの、二択しかないだろう。
まず一番に考えられるのが
「……病気、ですか?」
最初、草壁の頭に去来した暗い雲のような影は、それを予感していた。目の前で元気そうにしている彼女だが、その体は実は病魔に冒され…・・・。
そんなことを、たとえ、想像でしかなくても、考えると草壁の胸が苦しかった。
まさか、そんなことは……それだけは、ないって言ってくれ!
「ブー!残念、違います」
まるっきり、クイズみたいな調子でゆかりが明るく否定した。
ゆかりの様子が明るすぎる!と思ったが、草壁は一応ホッとした。
ようやく息でもつけたような気分がして、グイッとチューハイを一口飲み込む草壁。
そうか・・・・・・なら、残るはこれしかない。ただし、あの時の彼女が、自分みたいに包帯巻いてたり、松葉杖ついていたわけじゃないから、あんまり考えなかったが。
「じゃあ、ケガ?」
「ブブー!それもはずれ!」
「えっ?病気でも怪我でもなく、病院に入院してた?……それって、どういう・・・・・・」
「わかりませんか?」
相変わらず明るく軽い調子でゆかりはクイズの司会をしている。よく見ると、手に持ったチューハイを飲み干すペースが少し上がってはいたのだが。
釣られて草壁のお酒のペースも上がる。しかし、だんだん出鱈目なナゾナゾを解かされているような気分になりながら考え込んでいると、ゆかりがポツリと言った。
「私、自殺したんです」
”ブッ!!!”
草壁は飲みかけのチューハイを吹き出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
じ、自殺した?
いや、こうして目の前に彼女がいるということは、正確にいうと「自殺を図った」というべきだろう。
そして、それは未遂に終わった・・・・・・。
二人の足元に転がっているハゲオヤジのイビキだけが響き渡る室内。
プロロロッ!プッヒューーゥ!
豪快に麦トロ飯をかっ込んだあと、風船が勢いよくしぼむ。
「プロのピアニスト志望で音大に通うためにこっちに出てきたってことは、草壁さんにもいつか話しましたよね?」
先ほどからのゆかりの穏やかな笑顔は、覚悟の笑顔だったのだろう。静かに彼女が語りだした。
「そのとき、学校の授業とは別に、私のピアノの個人レッスンをお願いしていた家庭教師の人がいました」
草壁も静かに耳を傾けた。
「――男の人です」
ピクッと、草壁の肩が動き、その瞬間、ツルイチのイビキもなぜか止んだ。
「私よりも一回り年上の方です。それが私の初恋でした。初恋って言っても、本気でした。私達、すぐに深い仲になりました」
ゆかりが言葉を止めると、ダイニングの時計の微かな音だけが室内に響いていた。
草壁はなんの言葉もなかった。どんなに鈍くても、そこまで聞けばおおよその話の方向は検討がつく。
病院での虚ろな様子のゆかり姿が、そのときの真っ白な肌の色合いとともに、草壁の頭の中によみがえってきた。
そうか。今まで彼女がこの話題になると微妙に避けようとした気配は、その裏にそんな事情があったのか。
しかしこんな時、妙なことを一方で考えたりするもので、ひょっとしたら、次の瞬間、彼女が「なーんちゃって!」とか言いながらペロッと舌でも出しておどけるんじゃないかなんて思ってる自分にも気がついた。
「去年の春には海外留学を控えてました。彼とは、留学から帰ってきたら結婚しよう、そんなことまで話してました。」
いつの間にか、笑みの消えたゆかりは草壁と目をあわせるのがつらそうに伏し目がちに、話を続けた。
「私もバカだったんですよねえ……。人からの紹介で知り合ったのその方のこと。経歴ぐらいしかよく知りませんでした。そして、あこがれの気持ちがだんだん、好意に代わって、恋心を意識して……」
ゆかりはキュッと唇を噛んだ。
「けど、初めて本気で好きになった人だったんです」
「その恋がきちんと成就して、心も……」
次の言葉を切り出す前に、チラッと目の前で、俯き加減に缶を握り締めてジッとしている男の様子を確認した。
「体も、繋がった喜び。私は最初から、すべてを手に入れたって、有頂天でした」
一度ゆかりの言葉が止み。草壁は一口、静かに酒を飲んだ。
「そして、私は人並み以上にバカになりました。彼から、僕達の関係は内緒にしておこう。結婚するそのときまでは。教師と教え子が出来てたなんて噂がたったら大変だから。そう言われて、私、嬉しかったんです。その人と誰にも言えない秘密を共有しているんだ、これが二人の絆だ、なんて一人で思ってて――」
「けど、本当は違ってたんです。彼は妻子のある既婚者だったんです。私はそのことを知りませんでした――」
「その人だって、それなりの経歴のある人だから、彼が結婚していること知ってる人は、たくさんいて、それを私がペラペラ喋ったら、自分の立場が悪くなるし、私に誰かが告げ口するかもって、恐れてたんです。そのうち私が留学に行っている間に、うやむやにして、二人の関係も終わりにしようってところだったみたいです」
妻子ある家庭教師の男と不倫。
草壁がそこまで聞いて、目を見上げた先で、再びゆかりの目は笑っていた。自嘲の色を帯びた力のない笑みだった。
少し長い沈黙が続いた。
その告白の言葉は短かった。少し短すぎた。が、彼女にとってその言葉がそのとき、胸のうちから搾り出せる精一杯の言葉だった
「真実を知ったときは、少し遅すぎました」
騙されたと知ったとき、その衝撃は大きかったが、そのとき、まだ彼女はやり直せると思っていた。まだ希望はあると思っていた。
初めて好きになった人。
落ちるときには、落ちてしまうもので、そして落ちたぬかるみは自分の想像以上に大きかった。
泣いてみようと、叫んでみようと、どんなに感情的なっても、どんなに彼の心に訴えようと、二人の関係は元に戻らなかった。
真実を知られた男のほうは、彼女に冷たく背を向けた。
なぜなら、男のほうは最初から遊びだったから。
結婚という言葉は、彼女を喜ばせるためのウソで、自分の家庭を壊してまでする恋愛遊戯ではなかった。
彼女にとって、もっとも残酷な事実。それは、男に妻子がいたことでなく。
男は自分のことを遊び程度にしか思っていなかったこと――。
「それで、死のうと?」
ゆかりの告白の言葉は、終始あまりにも淡々としていた。
聞いていると、羊皮紙時代の古い悲恋物語のプロットでも話しているようだった。
しかし、それは1年前のことであり、きっとゆかりの心の中では今もリアルな現在。
「はい」
草壁が発した一言に、少し照れくさそうに小さく頷くゆかり。
微かな笑みは、諦めの笑み。
「藤阪さんね、あの人、命の恩人なんです・・・・・・あの人が発見してくれて、私は一命を取り留めました」
諦念の笑みでも、笑いは笑いだった。ゆかりの話は軽い調子になった。
なるほど。藤阪とは、幼馴染みという以外にそんな繋がりがあったのか。
「いい人です。こんな私のことを理解してくれて、それでも好きだって言ってくれて」
草壁も知らない、二人の繋がり。
しかし、草壁は黙って聞いているよりほかなかった。
向かいあいに座る二人は、缶を握りながら、終始俯き加減だった。
時折、相手を探るようにしてあげる目線は、一度も会うことがなかった。
ちょっとした間が空いた。
草壁は、口に出すべき言葉がみつからなかったから。しかし、ゆかりは、次に話すべきことをきちんと用意していた。ただ、その前に気持ちの整理をつけたかった。そして、努めて明るくその話をキッパリとしようと思っていた。
現在の自分の事情というのを目の前の男にキチンと理解してもらうため。
ある意味それは、自分自身への言い訳だったりもする。
「もう、両親には、感謝、しかありません」
今までの調子とは打って変わって、自然な笑顔を作ってゆかりは言葉を続けた。
――暗い話はこれでおしまい!あれはもう済んでしまったことで、これからの私はねっ!――
「本当は私にも婿養子を取らせて、会社を弟とともに担ってもらいたいって思ってたこと、感づいてました。けど、私に無理強いせず、ピアニストになりたいって言ったら、その希望を快く受け入れてくれて。留学や一人暮らしとか、・・・・・・家庭教師、とか・・・・・・お金のかかる、こんな娘のわがままをずっと許してくれて」
それでも『家庭教師』という言葉を口にしたとき、微かに、言葉に詰まった。
「挙句の果て、こんなバカな娘が自殺未遂起こしたって、小言の一つも言わずに、このバカ娘の心配だけをしてくれて……」
ゆかりはそんな話をしながら、今度は笑顔で草壁をじっと見ていた。
わかるでしょ?私の事情。そう言いたげだった。
「だから、今度は、私がお父さんとお母さんに恩返しをする番・・・・・・藤阪さん、うちの両親も気に入ってくれてるのは確かだし……」
草壁は、すべての言葉に呆然とするしかなかった。
その割りに聞いていて、自分にあまり動揺が感じられないことも不思議だった。
「あっ、そうだ。私、大事なこと言い忘れてますね!」
急に何かを思い出したゆかりが、何がおかしいのかよくわからないが吹き出した。
「どうやって死のうとしたか、まだ話してませんでしたね?」
話の順序が確かに少し前後するとは思うが、それがそんなにおかしいことだろうか?
「毒を飲んだんです」
死ぬしかないと思ってから、色々とその手段を考えた。なぜ毒をあおろうと考えたのかは、今の彼女にもその思考の足跡は辿れない。最初、睡眠薬を飲もうと思ったのだが、それではどうも死ねないらしいと知ったので、じゃあ飲むなら毒薬にしておこう。と、そんなものだったようだ。
あまり致死性の高い毒物の入手は困難だった。が、いわゆる劇薬とよばれる薬なら、なんとかなりそうだった。ちょっと飲んで、ポックリ。ではなくても、大量に摂取しさえすればなんとかなるだろうと思って、手当たり次第に手を尽くして、気がつけば、相応の薬を入手できたことに驚いた。これなら、ピストルだって入手は可能だろうと変なことを考えた。が、一つの命に、凶器は二つ必要なかったのでやめた。
で、飲むには飲んだが、発見されて、失敗。
医者が言うには、「キチンと死ぬのも難しいもんで、これぐらいなら、適切な処置をすれば命の別状はありません」とのこと。
ただし、それは、発見が早かったからで、一晩もほったらかしになっていたら。
「その場合は、血反吐を吐き散らして死んでいた……か、苦痛に耐えかねて、自分で救急車を呼んで担ぎこまれるか・・・・・・そういうこと、ちょくちょくありますね」――だそうである。
草壁がそのあたりの細かい事情を聞くのは、もう少し後になる。今の彼には目の前のゆかりの話だけがすべてであった。
目の前のゆかりの表情は、再び固くなった。
キュッと結んだ唇が、微かに震えていた。食いしばるように奥歯を強くかみ締めた力が、彼女の頤と唇を片方だけ、不自然に釣り上げた。
「死ぬほど薬を飲んだけど・・・・・・」
震える声。次第に細く閉じられてゆく両目。
「死ねませんでした」
抑えようと必死になりながらも、どうしてもあふれてくるものを押さえることができなかった。
もう一言、言いたい。簡単な一言だけですべてを言いつくせるものではないにしても、その簡単な一言は確かにその時の自分の正直な思いだったから。それをキチンと言っておきたい。
もう、涙は、両目からあふれ出していた。
「とても、残念でした……」
とても、残念。
とても簡単な一言だったが、死に損ねたと分かったときに彼女が感じた、とても空虚な気分はそういうものだった。
あとは、もう抑えることは不可能だった。涙はただ次から次へとあふれてくる。
それを彼女は右の手首でグシグシとぬぐった。ときどき洩れる嗚咽は、悔しそうに食いしばった歯の向こうで”グッグッ”と固い響きになった。
あふれてくる、色々な感情の波に、自分自身でも戸惑った。時が癒すには、まだ生々しい記憶。
しかし、まさか、こんなことになるとはゆかり自身も思っていなかった。
「なんで、今頃になって!今頃になって!」
ケンカに負けた男の子みたいに悔しそうに両手で涙を何度も何度も拭い去りながら、ゆかりの声は、嗚咽とともに大きくなっていった。
「私、今まで・・・・・・このこと思い出して・・・・・・泣いたことなんかなかったのに!!どうして、今頃、こんなに!!」
ハンカチでも手渡そうと思う草壁の目の前で、ゆかりは机の上に頭を埋めながら、何度も
「どうして、今頃になって!」「泣いたことなんかなかったのに!」ということを繰り返し叫んだ。
草壁はその様子をただ黙って見守っているだけだった。
涙は救済の希求。
傷ついた皮膚は瘡蓋ができるように、今までゆかりの心を覆っていた瘡蓋のような硬くゴツゴツとしたものが、少しずつはがれているのかもしれない。
あふれた涙は、そんな傷が感じる、うずき。
けれど、彼女自身は救われたい、と意識はしていなかった。
ただ言いたかっただけだった。自分の話を。彼に。
それが、なぜなのか、そんな自分の心の奥には、頑なに背を向けていた。
「ハンカチ。使いますか?」
ゆかりの叫びが収まり、涙とともに繰り返される嗚咽の声も静かになった頃。草壁が男物の茶色いタオル地のハンカチを差し出した。
ゆかりは目の前で死んだように机に頭を埋めて、ピクリとも動かない。
草壁はそんな彼女の手のひらにそっとハンカチを握らせてやった。
すると、ゆかりは泣き顔を見られないようにちょっとだけ顔を机からあげて、目や鼻のあたりをそっとぬぐった。
毛先立って乱れた髪を直そうともせず憔悴したような顔を上げるものの、黙ってみていると、まだ、泣き足りない様子で
「ダメ、また・・・・・・泣けてきた・・・・・・」
と言って、ハンカチに顔を埋める。
そんな、ことを何回か繰り返した。
「気の済むまで、泣いたらいいですよ」
「・・・・・・ありがとう、優しいんですね」
この部屋の静けさはずっと変わらないが、空気は少し軽くなったようだ。ゆかりも、自然に微笑んだ。
ただし、この一連のゆかりの告白の間、足元にはツルイチが寝袋に入って床の上に転がっていることを二人はすっかり忘れていた。しばらく大人しく寝ていたから。
が、このハゲオヤジ、突然。
「そこだ!差せ!差せ!!」
と、でっかい声で、寝言を言い出した。
やっと、ここで足元のツルイチの存在を思い出した二人が、ギョッとしてオッサンを見た。
おそらく、競馬の夢でも見てるんだろう、このバカオヤジ。
「今日は、ごめんなさい!私、もう帰ります。ハンカチ、あとで洗って返します」
急に現実に戻ったような気になったゆかり。
今までの自分のことを思い返すと、恥ずかしい気がしてきて、そう言うと慌てたように部屋を出て行った。
そりゃ、こっちは黙ってみているしかなかったけど、せっかく空気が緩んで、慰めの言葉の一つでも掛けてあげようと思っていたら、これだ。
「おい、オッサン!いい加減にしろよ!!」
一人部屋のダイニングに取り残された草壁が、足元で再びグースカやりだしたツルイチに向かって怒鳴っていると……。
「ご、ごめんなさい、大事なこと忘れてました」
ゆかりが、再び、部屋に帰ってきた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「いい月夜ですね」
「はい・・・・・・」
それから二人は、夜の散歩にでかけた。酔い覚まし。しかし、あんなことの後なので、二人とも醒まさなきゃいけないぐらい酔いが残っているわけではなかった。
けど、話し足りなく思った草壁がゆかりにそう持ちかけると、彼女も素直についてきた。
「飲み会の勘定、覚えてたんですね」
「一応、その日のうちに会計は済ませたかったから」
夜の散歩といって、どこにも行くアテはなかった。引っ越してきて二月程度の新参者同志。うっかり変なところに行ったら、迷子になりかねない。
草壁が、深夜でも開いているような店に入ろうかと言うと、ゆかりは静かに首を振った。
「ううん。今は、誰かにこの顔を見られたくない」
すっかり泣きとおしで、腫れぼったい目をしているだろうことは、鏡を見なくても感じていた。
慰めの言葉の一つもかけてあげたいと思ったが、こうしてみると簡単にそんな言葉は思い浮かばなかった。
ゆかりは、草壁より半歩ほど後ろをトボトボと、彼の陰に隠れるようについて歩いた。
時折、チラッと見ると、力なく肩を落として、少し背を丸めるようにしている姿は、憐れっぽいというかみじめっぽく見えた。
二人は迷い込むようにして、とある住宅街の中にやってきた。
見知らぬ町、ではあったが大きな通りをちょっと入ったところに過ぎない。
今は、家々の明かりも落ちているところが多い。路地を歩く人の姿も、もう見当たらない。
歩いていると、二人の気配にセンサー感応型の門灯が点ることがあった。そんなとき、ゆかりは驚いて、微かに身を竦めた。少し、神経過敏になっている様子である。
たどり着いたのは、小さな公園だった。
一戸建ての住宅に囲まれたそこは、一面の土肌の上に葉脈のような自転車のタイヤ跡を巡らしている小さな広場だった。片隅に、オモチャのスコップが突き刺さったままの砂場があるぐらいが遊具らしき唯一の施設。
その真ん中に、1本の公園灯が薄ぼんやりと辺りを照らしていた。
二人は公園の隅にあるベンチに腰を下ろした。
その公園灯の光と、夜の闇のコントラストの中間にある、薄暮のような暗がりの中で、二人の影が揺れていた。
途中で買った2本の緑茶のペットボトルを挟んで、二人はしばらくジッとベンチに腰を掛けていた。
遠くに見える、低い家々の屋根の向こうに、眠ることない都会の街の明かりが微かに洩れ光っていた。
夜空のスクリーンはその反射の受けて、星の明かりをぼやかしてしまっていたが、月だけは、櫛のような半分だけの姿ではっきりと輝いていた。
ゆかりは、じっとその月を見上げていた。
季節の変わり目の風が、彼女の黒髪をふわっともてあそび、薄明かりに浮かぶ白いブラウスの少し大きめの襟元をゆらした。
「あの、わたしのこと、あんまり見ないでください」
草壁の視線を感じたゆかりは、そう言って俯いた。
「勢いで、あんなこと言っちゃったけど、今は、合わす顔がない……」
「そんなことは・・・・・・」
「正直言って、今でも、素直に『生きててよかった』って言う自信がありません。ただ、私がいることで誰かが喜んでくれるなら、それだけで私の価値があるんだって、思ってます。」
「家のため、両親のため、ってことですか?」
「はい」
草壁にそれ以上、言葉は出なかった。
「けど、こんなことも時々考えるんです・・・・・・」
ゆかりはペットボトルのお茶を一口、飲んでから静かに続けた。
「もし神様にお願いをひとつ聞いてもらえるなら、あのことのすべてを、なかったことにしてほしい……」
ifのお話。ただの冗談。しかし、彼女にとってはとても大きな願いだった。
しかし、叶うはずのない願いだったが。
草壁はその言葉を聞いて、黙り込んだ。
いや、彼はずっと黙っていたのだが、それまでよりもより深く、押し黙った。
「なかったこと、ですか?……」
彼女は少し微笑んだ。
「虫のいい話ですよね?」
「いえ……でも、もし本当にそうなったら、ちょっと僕は悲しいかも」
彼の意外な言葉にゆかりが不審げな顔をした。
「どうして?」
「そのおかげで、僕はあなたと会えたから」
しばらく、何の音も響かなかった。
驚いてゆかりが隣の草壁を見ると、彼のほうは、ただ静かに灯火にうっすらと光る砂の地面を見つめているだけだった。
ゆかりのほうの事情はどうであれ、彼にはその言葉は正直な思いだった。別に口説くようなつもりすらなかった。
草壁から受け取ったあのハンカチに再び顔を埋めるゆかり。
「また……泣けて、きました」
「ゆ、ゆかりさん……」
まさか、彼女が泣き出すとは全く思っていなかった草壁が驚いた。なぜ、自分のあんなつまらない言葉を聞いて泣くのか?
そのとき、ピアノの音が聞こえた。
「……ピアノの音?……」
ゆかりが泣き顔を上げた。草壁も辺りをうかがった。
曲名は彼女にはすぐわかった。
「ドビュッシーの『月の光』……」
こんな時間に、こんな場所で、一体……。
音は背後から響いているようだった。二人は、背後を振り向いた。
公園の背の低いツツジの生垣の向こう、車道を挟んで並ぶ住宅の中で、彼らのすぐ背後にある一軒だけが明かりを点していた。それもその家の一部屋だけが。
なんの部屋なのかはよくわからない。前面に小さな庭を控えるその部屋のガラスサッシを開け放して、その中には一台のグランドピアノ。そのピアノの前には、ちょうど彼らに背を向けて座っている、長い黒髪の女性。
間違いない。その演奏がここに響いているのだった。
「すごくじょうず、ゆったりしてるけど、間延びしてなくて、音が転がるように続いてく……」
音色を聞いたゆかりが、うっとりとしたように聞き耳を立てた。
腕の巧拙なんかよくわからなかったが、その音は心地よく草壁にも響いた。
なぜ、こんな時間にこんな場所で、などともう考えることなく、二人は黙ってその演奏に聞き耳を立てた。
見上げると、鮮やかに光る星が、まるで打鍵にあわせるかのように、チカチカと明滅をしていた。
いつしか音色は遠く、しかし深い。
星空のアリーナの下、天から降ってくるように響くピアノの音色にふたりは包まれていた。
鮮やかな下弦の月は、絹布を千切ってばら撒いたような薄い雲を黄金色に輝かせながら光っていた。
そして、「月の光」の演奏が終わった。
二人がゆっくりと背後を振り返ると、部屋の電気は落ち、その家全体が町の闇の中にまぎれて、わずかにこじんまりとした瓦屋根の輪郭がぼんやりと夜空に浮かんで見えるだけだった。
「もう帰りましょうか」
「はい」
演奏が終わると、二人は立ち上がった。
少し長かったこの夜も、これで終わりだということをお互い、なんとなく感じ取っていた。
帰り道も、二人の言葉は少なかった。
しかし、さっきは草壁の陰に隠れるようにしていたゆかりが、今は並んでいつもどおりの様子に戻っていたことに草壁はホッとした。
もちろん、告白を聞いてもらったところで、また、不思議なピアノ演奏を聞いたところで、彼女自身の問題が解決したわけではなかったのだろうが。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
で、翌朝のことである。
日曜日だってのに、朝早くから叔父にとっ捕まった草壁。
大した用もないなら、商店街なんかぶらつかなければいいのだが、なんとなく喫茶アネモネにでも顔を出そうかと思っていたら、これだった。
じゃあ、前垂れかけて、ホウキ持って、ちりとりも忘れるなよ。
というわけで、何度目かの、古道具屋「宇宙堂」の丁稚、草壁圭介が誕生して、いつものように、店の前を掃除していた。
もちろん、この宇宙堂の隣はゆかりのピアノ教室。
その日、ゆかりは休日ということもあって、少し早目のレッスンがあったせいで、午前中に教室にやってきた。
来てみたら隣の店の前を草壁が例のアライグマ、ではなくタヌキの絵の書いた「銘酒アライグマ」の前垂れ掛けて掃除している。
「あら、草壁さん、また?」
「はあ……ゆかりさんも教室?」
「はい、今日は日曜だから午前中からレッスンがあって……」
前夜、随分泣いたせいで、その時もゆかりの目は腫れぼったかった。
彼女自身、鏡を見て、すこし愕然とするぐらいに。
まあ子供には、先生、ちょっと今日のお顔変。と思われる程度だろうと思うので、こんな顔であんまり外に出たくはないが、仕事は仕事。こうして出勤したのだった。
一日の仕事の始まりはお掃除。
というのは、ゆかりの教室も事情は同じだった。横並び、商売人ばっかりのところで、自分の教室だけお掃除にズボラをかますわけにもいかないし。
ということで、ゆかりも教室に入ると、さっそくホウキを片手に出てきた。
前夜のいきさつはいきさつ。
深いところは置いといて、並んで掃き掃除をしながら、ゆかりが集めたゴミを草壁がチリトリで受けて……。なんとなくそういうときに、今まで以上に自然で親密な雰囲気を、知らないうちに醸し出していたのかもしれない。
だが、それにしても……
「おはようございます。昨晩はどうも……」
と声をかけるものがあるから、二人がふと見ると、そこにツルイチが立っていた。
で、このオッサンが、目の前で「おはようございます」なんて挨拶を返したゆかりの顔をしばらくジッと見つめると、驚いたように呟いた。
「ゆかりさん、その目……」
嫌なもの見られた。ゆかりは自分の少しみっともない顔を見られて、顔をそむけたが、そのとき、ツルイチさん、なんとも言えない、いやらしい表情に変わった。で、ニンマリしながら、こんなことを言い出した。
「いやあ!私、昨日、寝てたら女の人の泣き声が聞こえた気がしたんですけど、あれ夢じゃなかったんですなあ!」
驚く二人。
「つ、ツルイチさん、起きてたんですか?」
「いいえ、寝てました」
「何か、聞こえました」
「いいえ、ほとんど寝てたので、何言ってたかなんてさっぱり……ただ泣き声だけが聞こえた気がした。それぐらいです」
一応、ホッとする二人。
しかし、このオッサン、二人の微妙な空気なんかまったく意にも介さない様子で、さらにニヤニヤしながらこんなことを言い出した。
「しかし、草壁クンも色男ですなあ。女の人を泣かして、その翌日、並んで仲良くやってるところを見ると……」
なんだぁ!このオッサン、何、言い出すんだ?
「昨晩は、随分とお楽しみだったんですかぁ?……あっ、いやいや、若いっていうのはいいもんですなあ!」
とんでもない勘違いしてるぞ!おいっ。
ついには、ゆかりに向かって
「もう、泣くほど良かった?なーんてねっ!アッハッハッハ!!!」
何も言えずにただ呆然と固まっているゆかりを見ながら草壁は思った。
オッサン、そのうち、ゆかりさんにぶん殴られるぞ……。
第8話 おわり




