いかないで
それは一目惚れだった。
築百数年の歴史ある校舎の端にベニヤ板とトタンで作られたこじんまりとした道場。歴代の先輩たちによって古いながらも大切に使われてきた道場。磨き上げられた床、全身を映し出す鏡、いくつも張られた弓は整然と並ぶ。
「「「よしっ!」」」
的を射ると同時に良しの掛け声が挙げられる。肌をひりつかせるような刺激。背筋が自然と伸びた。
弓道部に入部してから一週間が経った。中学までは野球部だったが、硬式球の硬さにビビって逃げた。進学校である本校では野球部なんて辛い部活に入っていたら勉強が遅れてしまうと思い避けた。高校生になったら坊主頭ではなくて髪の毛を伸ばしたいと思ったから他の部活を選んだ。
―――――ホントは違う。
オリエンテーションで隣に座った奴が弓道部に入るといったからついてきた。ただそれだけの理由だ。入部した。ほんとそれだけ。
一週間もすると同級生の顔も覚え始めた。どいつも似たような顔をしていた。がっつり運動部は入りたくない、でも文化部は嫌だ。そんな狭間の需要を満たしてくれるのが弓道部だったのは間違いないだろう。
一年生はまず部内の仕事を覚えるところから始まる。的張り、巻藁を出す、スノコ、看的、書記、読み上げ。高校の生活になれることや、部活の仕事やらたくさんありすぎて時間が早く感じた。はやく弓を引いてみたい!
また一週間たったある時、一人の女の子が弓道部に見学にきた。黒髪の綺麗な、まるで日本人形のような少女だった。
――― 一目惚れだった。
これまで遊びのような恋愛はいくつかしていた。しかしそれは自分から好きになったものではなく、また好きになろうと努力もしていなかった。僕は本当の意味で恋をしたのはその時が初めてだった。
それからの行動は早かった。猛烈にアタックした。
友達たちには直ぐにバレた。関係ない、むしろバレるように行動していた。そこまで分かってて動いた。この子に手を出したらどうなるかわかるよな?と暗に伝えるように。
彼女は元々彼氏がいたようだったが、僕がアタックをするうちに心が移っているようだった。付き合えるのも時間の問題だろうと思っていた。
高校一年の文化祭当日。
弓道部男子の大会が重なった。女子は学校に残って、文化祭に参加だった。
大会は負けてしまったが、弓の片付けに友達と学校へ向かった。弓道場には文化祭で行った体験弓道の跡がまだ残っていた。女子たちの方を見ると何やら興奮したような面持ちだった。
何があったのか聞くと、彼女に男が会いに来たとのことだった。
やれイケメンだった、やれ優しそうだった、やれらぶらぶだった。もう途中からよくわからなかった。わかりたくなかった。
文化祭で酷使された安土のように穴ぼこが体に、心に空いてしまったみたいだ。
その日は彼女の顔を見ることなく帰る。最悪の文化祭だ。くそっ
それからというもの僕の世界は灰色になった。話しかけてくる人すべてが幸せそうに見える。きっとこないだまでの自分は脳みそバラ色に見えていたことだろう。勝手に浮かれて、勝手に喜び、さぞ滑稽であったろう。同じ部活の友達たちは優しかった。逆に惨めな気持ちになった。
彼女は何も知らないのか、知っててやっているのかこれまでと同じだった。むしろ親しくしてきた。
僕はそっけなくした。近づかないでくれ。
ある時、僕は傷つけてしまった。ひどい言葉だったと思う。細かくは覚えていない。でも彼女の心を傷つけてしまった。最愛のひとだったのに。
「…もう別れたよ」
彼女はそれだけ言うと去っていった。どうも誤解があったらしい。文化祭の日、元彼にきちんと別れを切り出したそうだ。
僕は次の日に謝罪し、告白した。付き合うことになった。
黒髪を肩口よりも伸ばし、時にポニーテールにしたり、お団子にしたり、僕の望むように変えてくれたりもした。喧嘩もした、キスもした、抱きしめた、仲違いした、
でも最後までは行けなかった。僕はもちろん結婚するものだと思っていた。
そうしたやりとりも何度もあった。でも最近はどうっだったかな?結婚したいね、なんて夢見がちな台詞聞いたかな。
そういった行為は結婚してからとお互いに約束していたからと思っていた。僕もそれで納得していた。
高校三年になると受験まっしぐらとなった。
彼女さえいればいい、そんな考えの僕はそこそこの勉強しかしなかった。彼女は学年で1、2を争うような秀才だった。僕はそんな彼女が誇らしかった。並ぼうとはしなかった。共に同じ高みに行こうなんて思わなかった。
自分は努力しないのに、彼女にはそれを気づかずに強要していたかもしれない。
どこかおかしくなり始めていた。
受験は一応上手くいった。彼女は失敗した。目指していた医学部に入れなかった。
仮面浪人しつつ、医学部を目指すときめた。
そこからの一年はひどく希薄だ。勉強の邪魔をしないように連絡も最低限だ。大学生活を楽しむ気持ちなど少しもなく、ただダラダラと時間を潰した。彼女の受験がうまくいきますようにと願っていただけだった。
二度目の受験前に別れを切り出された。このまま待たせるのは申し訳ない…と
そんなのはどうでもよかった。彼女の幸せが、受験がうまくいけばよかった。うまくいったらまた付き合おうと約束して別れた。
彼女は次の年も受験に失敗した。
何かがおかしかった。彼女の心は壊れそうに見えた。僕はなにもできない。話を聞いてもどこか価値観が違っていた。
仮面浪人していた大学にそのまま進むらしい。二年の後期からイギリスに留学らしい。
僕は再び告白した。断られる。
留学したら1年待たせるからと…、
留学前に一度会った。行かないで、その一言は言えなかった。彼女の顔を見ると泣きそうになった。少し喧嘩みたいになった。
別れ際の彼女の顔が忘れられない。待って、ぼくを連れて行って…。止められなかった。
「初めてのひとは君がよかった」
その言葉が後悔を生んだ。
彼女は留学した。最初の一ヶ月は不安とストレスの連続だったみたいだ。僕もたくさん連絡した。相談にのった。
次の一ヶ月は楽しみ始めたみたいだ。だんだん連絡が減った。
次の一ヶ月に彼氏ができたと連絡がきた。罵声を投げつけた。それ以降連絡をとろうとは思わなかった。
うつろな日々だった。よくよく考えればとっくの昔に振られていたのだと気がついていた。彼女に振られてから2年も経っていた。
なにか変えようと思い始めたのは大学の三年になった頃だった。合コンで知り合った子と付き合うことになった。小さな子だった。同い年だけれど一生懸命で、ドジな子だった。どこか彼女に似ていて、でも違う。
小さな子を見れば見るほどイラついている自分に気がついた。すぐに別れてしまった。
大学三年の秋、彼女が帰ってきた。
僕は自然と連絡をとった。まだまだ未練があったのだろう。
彼女の話は留学が如何に楽しかったか、彼氏ができたとか、将来は結婚も視野に入れているんだ!とかとかとかとかetc…。
就活も海外で行うようだ。英国紳士とお幸せにと皮肉った気がする。イライラしながらも僕はそのまま帰った。
次に連絡をとったのは半年後だった。部活の同窓会だ。
その時はもう英国紳士とは別れていたみたいだ。なんだそれ?と思わずにいられなかった。でもどこか自分の心に下心があった。少し会えないか?と誘っていた。
二人でご飯を食べに行った。途中で同級生とあってなんだか皆で集まることになってしまい有耶無耶に。
既に彼女に新しい恋人がいるらしかった。
その時の顔は幸せそうなものだった。よく彼女の顔を見てみると僕の記憶の中の姿と大分違って見えた。
僕の好きだった彼女とはもう違う人になっていた。
4年も経てば人は変わる。変わってなかったのは僕の方か…むしろ気がつかないうちに僕も変わっていたのかもしれない。
心の靄が晴れた気がした。そのあと彼女から結局今日はなんのようだったの?と聞かれたが「なんでもない」と答え帰宅した。
今まで思い出に縛られ、一目惚れしたままだったのだろう。新しく恋をしたいとは未だ思えないけど、自分の時間を大切にしようと思えるようになった。
おしまい