08 友達作りと魔法の油断
昨日は帰ってから、あまり話さない私たちを心配する母様と父様に説明をした。事情を把握した二人から激励を受けて、そのまま今日になったわけだが……。
姉様成分が、足りない。足りなすぎる。
いや、冗談でも何でもないよ? まさか私も、冗談で言ったことが現実になるとは思わなかったけど。
姉様には、一体どんな成分があるんだろうか。たったこれだけの時間よそよそしくしただけで……ものすごく寂しいし、暗い気持ちになってしまう。この世界に生まれてしばらくの間は、確かこんな気分だったなぁ。
……姉様成分の不足に悩まされるのは、今日までだよね。今日は絶対に友達を作って、明日からはいつもどおりにしてやる!
「姉様……! おはよう、ございます」
だから、今は我慢だ。本来なら挨拶をしながら抱きつきたいところだが、ぐっとこらえる。
「……おはよう、セレネ。私のためにも、友達作ってね!」
見れば、姉様の目の下には隈ができていた。いつもはぐっすり眠っているのに珍しい。
これはあれか。姉様が言っていた、『セレネ成分の不足』とやらだ。
そうか、私の成分が不足すると眠れなくなるのか……! エリクもそうだったり、はしないよね。たぶんセレネ成分は姉様にとってだけで、姉様成分も私にとってだけだ。
「はい、姉様。絶対に作ってみせます」
力強くうなずいて、朝食をとるために二人で食堂へ向かう。その間の会話は、ないに等しかった。
うー……このままだと、気がおかしくなってしまいそうだ。友達は作ろうと思って作るものでもないけど、早く何とかしなくちゃ。
* * *
話しかけやすい人、話しかけやすい人……。
一時限目の前、私は教室内をきょろきょろと見回していた。きっと、傍から見れば挙動不審の変な人だろう。ちょっと嫌だが、これは必要なことだから仕方がない。
一、二時限目は教室での授業。しかし三時限目は教室を移動するので、それまでに友達を作っておきたいのだ。
やっぱり、名前を知っている人に話しかけたほうがいいだろうか。
このクラスで名前がわかるのは、うさ俺様、号令係のマリーちゃん、猫の獣人のベラちゃん、赤い髪のナタリーちゃん。ああ、あとエリクの友達のナタンさん。
五人。たった五人か……。
マリーちゃんたちは三人でおしゃべりをしている。あそこに入っていくのは、難しいができなくもないだろう。うさ俺様に話しかけるのはきまずいし、ナタンさんも他の男子と話しているから、それよりだったらマリーちゃんたちのほうが話しかけやすい。
でも、どうやって話しかけようか。
いきなり名前で馴れ馴れしく呼ぶのは、ちょっと駄目だろう。自己紹介をするのもおかしい気がする。一番無難なのは「おはよう」だろうが、それも変に思われるかもしれない。
ああもう、考えてるだけじゃ駄目だ。とりあえず話しかけてみよう。
「何の話をしてるんですか?」
マリーちゃんたちは、驚いたように私の顔を見た。
そのまま返事がないので、どうすべきか悩む。もう一度訊いてみようか? というか、どうしてここまでびっくりされなければいけないんだ。
「えーっと、ルーナさんだよね?」
「あ、はい」
マリーちゃんの確認の言葉にうなずく。よかった、私の名前は知っているらしい。
しかし、三人はちらちらと視線で会話をしているようだった。名前しか知らない人に、どう返事をしたらいいのかわからないのかもしれない。今まで話したことがない人にいきなり話しかけられたら、私もどうすればいいのかわからなくて困ってしまうし。
困らせちゃったかな、と少し落ち込むと、ベラちゃんが慌てたように言った。
「シャルル様のこと話してたのっ」
「……シャルル様?」
誰だろうか。シャルルというのは男性名だし、こういうふうに女の子の間で話題に上がるということは、人気のある人なんだろう。
あ、もしかしたら攻略対象?
そっか、まだ姉様は攻略対象の全員と会っていなかったのか。だから大切な選択の時期が遅れてしまったのかもしれない。
名前を聞いて首をかしげた私を、ナタリーちゃんが信じられないものを見るような目で見てきた。
「え、あんたシャルル様知らないの?」
大げさにびっくりしてみせた、ナタリーちゃんの赤い髪が揺れる。さらさらな長い髪って羨ましい。
「そんなに有名な人なんですか?」
「まあ、ルーナさんはそういうのに興味なさそうだから、知らなくてもおかしくないけどね。結構有名な人だよ?」
「結構じゃなくて、すっごくだよ!」
「そうよ!」
ベラちゃんとナタリーちゃんが、マリーちゃんの言葉を勢いよく訂正する。……鼻息が荒いのだが、そんなに興奮するようなことだろうか。
マリーちゃんはそんな二人に苦笑しながらも、「まあね」と相槌を打っている。
……見た目がいいだけでも十分有名にはなるが、『すごく』がつくのだから、身分も高い人なのだろう。
ちなみに、姉様とエリクも、すでに有名になっていたりする。まるで姫と、それを守る騎士のようだ、と。(ぷっ)
……聞いたときには思わず吹き出してしまった。思い出すだけでも笑いたくなるくらいだ。
だって、あのエリクが……騎士のようだ、なんて!
いや、実力的には騎士であってるんだけどね? でも学院の制服を着ていたって、どうやっても女の子が男装しているようにしか見えないのだ。
どちらにしろ、姉様とお似合いではあるのだが。……うぅ。
自分自身にへこまされている間に、いつの間にかマリーちゃんたちが、シャルル様という人物について語りだしていた。
「シャルル様はほんっとに美しいんだ」
「そうなのっ。それに丁寧な言葉遣いで吐かれる毒が……何とも言えないほど、ぞくぞくするー!」
「妹だけに甘いとか、素敵すぎるわ! いつもは冷たい目をしているのに、たまに親友へ向ける微笑み……ああ、美しすぎるって罪よね!」
……ごめんなさい。マリーちゃんしかまともじゃない気がする。気のせいだろうか?
ベラちゃん、ぞくぞくするってどういうこと? で、ナタリーちゃん。……妹だけに甘いって、そんなに素敵なこと?
友達になったとして、この三人の会話についていけるだろうか。
「狐耳とかもいいの。ぴくぴく動いてて、かわいいー」
「あとあと、しっぽよ! 滅多にないけど、びっくりしたときにはぶわってなるんだから! それが可愛すぎてもう……」
「二人とも、ルーナさんが引いてる。そこまでにしとこ?」
マリーちゃんに言われて、二人は不満げに口を閉ざす。止められなかったら延々としゃべり続けそうな雰囲気だった。
……まあ、私も人のことは言えない。姉様のことだったら、一日中でも話していられる自信があるし。大好きな人のことなら仕方ないよね。
マリーちゃんはこちらを向くと、きりっとした顔で言った。
「ちなみにあたしは、シャルル様のよさは言葉じゃ説明できないと思う。だからこれ以上は何も言わないけど、シャルル様を一番好きなのはあたしだから」
……マリーちゃんも十分おかしな人だった!
ショックを受けていると、ベラちゃんとナタリーちゃんがその言葉に抗議した。わたし、いやウチ、あたしだから! とだんだんとヒートアップしていく。
ぽつん、というのが、今の私を表すのに相応しい効果音だろう。
これは……シャルル様とやらのことを、もっと知ったほうがいいのだろうか。
「あ、ごめんねルーナさん。あたしたち、いつもこんなんなの」
「そうなのー」
「ま、伊達にシャルル様ファンクラブの一員じゃないってわけよ」
ファンクラブ……! そんなものが存在するなんて、流石は乙女ゲームの世界。(ファンタジーの世界って言うべき?)
あ、わかった。シャルル様とやらのルートに入ったら、ファンクラブの妨害を受けるんだね?
……恋は障害があったほうがいいとは聞くが、ファンクラブって陰湿な嫌がらせをしてくるイメージがある。姉様には辛い思いをしてほしくないし、もし姉様がシャルル様を選んだら、ファンクラブから守らなくちゃ。
「ファンクラブって言っても、あたしたち三人だけなんだけどね?」
「え?」
思わず訊き返すと、マリーちゃんは「あはっ」と笑った。
「昔は大きいファンクラブがあったんだけどさ。シャルル様が……その、嫌がって色々あって。シャルル様には内緒で、あたしたちだけ活動してるの。ただシャルル様を遠くから眺めて、三人で語り合うだけだけど」
ねー、と三人は笑い合う。
あれ? この三人は、妨害なんてしてこないような気がするのだが。だとしたら、そうか。シャルル様が唯一甘いと言われてる、妹がライバルキャラだね? それが思いつくなんて、今日の私は冴えてる!
……ごめんなさい、調子に乗りました。
それにしても、綺麗な狐の獣人で、丁寧な言葉遣いで、毒を吐く人……。
おかしなことに、一人思い当たる人物がいる。
いやいや、でもあんな人にファンクラブなんてものがあるわけない。……ファンクラブができる条件が、見た目が綺麗なことだけだったら話は別だが。正直あまり顔を覚えていないけど、姉様が『綺麗な男の人』って言っていたから、綺麗なのは確かだろう。
「会員の募集はしてないから、残念ながらルーナさんは入れないよ?」
「いえ、知らない人のファンクラブに入るのはちょっと……」
私の答えに、「そう?」とマリーちゃんのほうが残念そうな顔をした。
もしシャルルという人があの狐のことだったら、知ってはいる。しかし、それだと尚更入る気になれない。
何でこの三人は、狐のことが好きなんだろう? 人の好みにとやかく言う気はないが、少し納得できなかった。
狐のことを話している間、彼女たちはすごく楽しそうで、幸せそうだった。きっと私が姉様を大好きなのと同じように、彼女たちも狐のことが大好きなのだ。
だから納得できないのかもしれない。姉様と同じくらい狐のことを好きになることなんて、全く想像できないから。
そんなことを考えていると、ベラちゃんがキラキラとした目で見てきた。
「ねーねー、セレネちゃんって呼んでいい?」
「へ? いいです、が……」
何だか嫌な予感がして、返事が尻すぼみになる。何だろうか、この感じは。
気づかれないように、私は少しだけ後ずさった。嬉しい申し出のはずなのに、なぜか逃げたくなってしまう。
「じゃあ、耳も触っていいー? さっきから気になってたの」
わきわきと、ベラちゃんは変なふうに手を動かす。
「あ、ずるいわよ! セレネ、ウチにも触らせて!」
ウチにもって! まだベラちゃんにも許可した覚えはないんだけど!?
ナタリーちゃんの手の動きも変だったので、慌てて耳を手で隠す。獣人の耳というものは、そう簡単に触らせるものではない。いや、私がそう思っているだけかもしれないが、とりあえず触られたくないのだ。
というかベラちゃん、君も猫の獣人だよね? 耳を触られたくない、この気持ちがわからないかな……? そもそも、どうして私の耳を触りたがるんだろうか。
ベラちゃんは唇を尖らせた。
「けちー」
「うっ……そんなこと言っても、耳は駄目です!」
キランッ、とベラちゃんの目が光った気がした。
「むふふふふふ……」
「ひゃっ!? 何でそんな笑い方!?」
「ううんー。ただ、やっぱりほとんどの獣人は耳が弱いんだなって思ったの。シャルル様も弱い可能性が高いね! これで色々と想像が膨らむ……!」
ベラちゃんは、さっきと同じように不気味な笑い声を出す。ちょっぴり悲鳴を上げそうになったのは秘密だ。
わたしは全然平気なのになあ、という呟きが聞こえてきて、びっくりする。
……あれと同じかもしれない。誰かをくすぐることが好きな人には、くすぐりは全然効かないのだ。何度それで理不尽さを感じたことか!
ベラちゃんも、耳を触られることが平気だから、他の獣人が嫌がるのが見てて楽しいんだろう。
ん? さっきの「ぞくぞくするー」発言で、ベラちゃんは……Mなのではないかと思ったが、違うのかもしれない。
いや、人のそういうところに突っ込んじゃ駄目だ。うん。(突っ込んだら負けだよね?)
「ウチ的には、しっぽが気になるんだけど……。流石に、こんなとこでスカートをめくる気にはなれないわ」
そうだよね、よかったよかった……ってナタリーちゃん!? それはつまり、『こんなとこ』じゃなかったらスカートをめくる気でいたと?
「二人ともストップ。変態すぎて、ルーナさんがますます引いちゃってるからね?」
マリーちゃんが二人のことを止めてくれた。ありがとうございます!
感謝はするけど、『変態すぎて』ってそれ言っちゃっていいの? 言われた二人には、特に気にしてる様子はないけど。
マリーちゃんは真面目な顔を私に向けた。
「ルーナさん。あたしは垂れ耳兎ってだけで、可愛さは十分だと思う」
……そんなことは訊いてないよ!?
驚きすぎて、その言葉は口から出てこなかった。丁度チャイムが鳴ったのも関係している。(ナイスタイミング! ……か?)
「あ、チャイムー。セレネちゃん、次の休み時間でもっと話そうね?」
「シャルル様の魅力が伝わるまで、とことん話してやるから」
「あはは。ごめんね、ルーナさん。でも話に付き合ってくれてありがとー」
ここはマリーちゃんの席だったらしく、ベラちゃんとナタリーちゃんは自分の席に戻っていく。みんな手を振ってくれたので、振り返しながら私も戻った。
……これは、友達になれたってことで。いいの、かな?
* * *
今日の魔法学の授業は、『火の玉』の上位魔法『火の弓』についてだった。まあ、上位魔法と言っても難易度的にはそう変わらない。『フ・バーロ』よりも魔力を凝縮させるようなイメージだ。その名のとおり火の弓と、そして同時に矢を作る魔法である。凝縮した後に矢だけを放つのが少し難しいかな、というくらいだ。
私にとってはむしろ、姉様としゃべらないことのほうが難しかった。
あれから、マリーちゃんたちとは結構仲良くなれた。だからもう友達はできたのだが、一緒に帰るときまではこれを続けようと思ったのだ。何となく、そのほうがキリがいい気がする。
「まずはセレネ・ルーナ、やってみてくれ」
セルジュ先生に指名されたので、遠くに用意された的を目がけて魔法を放つ。うさ俺様の悔しそうな顔なんて、目に入ってないよ。
「フ・アーク」
出てきた火の弓は、的の真ん中を射抜く。特殊な材質でできているのか、火は的に燃え移らなかった。しばらくすると、しゅんっと火が消える。
……やっぱりこういうのは、何度やっても気持ちがいい。魔法の練習を始めた頃は、なかなか命中しなくてよく悔し泣きしたものだ。諦めずに何度も練習したおかげで、的に魔法を当てるのは得意だったりする。(えへん)
「申し分ないな。もっとスピードがあれば更にいい」
次、テランス・フィーランド。と、先生は一人ずつ指名していった。
どうやら姉様は最後らしい。セルジュ先生が担当となってからも魔力の暴走はしていないが、万が一のことを考えてだろう。最悪、授業が中止になることだって有り得るしね。
それに、セルジュ先生が担当になってからの授業はまだ三回目だ。今まで暴走しなかったのが偶然だった可能性もある。
「ディアナ・ルーナ。……体調が悪そうだが、平気か?」
心配そうに尋ねる先生に、姉様は「はい」とうなずいた。
体調が悪い。私から見ても確かにそうだが、先生もそれに気づくとは思わなかった。ちょっとだけ気に入らない。
でも姉様の体調が悪いのって、寝不足……つまり、私が原因なんだよなぁ。うー、ごめんなさい、姉様。
なんて、私は軽く考えていたのだ。
いや、姉様の体調が悪いなんて一大事だから、決して軽く思っていたわけではないのだが。それでも……何と言ったらいいのだろう。それほど重く受け止めていなかった。
たぶんそれは、姉様も同じで。
「フ・アー」
ク。
姉様がそう言い終えると同時に、辺りに炎が弾け飛んだ。訓練場の人々……生徒たちが悲鳴を上げる。
完全に油断していたので、魔法で盾を作る暇もなかった。目の前に火が迫ってきて、動けなくなる。
「ルーナさん!」
この声は……ナタンさんだろうか。もしかしたら助けてくれようとしているのかもしれない。必死さが滲んだ声だったが、それを気にする余裕はなかった。
大丈夫、これくらいの火だったら大火傷にはならない。
頭の中では冷静にそう考えているのに、心は違った。
蘇ってくるのは、炎に包まれたあのときのこと。息が苦しくて、熱くて、何が何だかわからなくて。それでも必死に、水の魔法を使った。
だけど今は違う。ただあのときのことが、頭に蘇ってくるだけだった。
やだやだやだやだ……!
恐怖で体が震え、視界が涙でぼやける。
「水の大盾!」
……セルジュ、先生?
はっとした瞬間には、火は全て蒸発していた。むわっとした白い湯気で、視界が邪魔される。それでも息苦しさは消えなくて、それをなくすためにも、私はごほごほと咳をした。
「すみま、せん……っ! わたし、き、ぬいてて」
そうだ、姉様は!? 姉様は平気なの!?
慌てて姉様のほうを向くと、泣きながらセルジュ先生に謝っているところだった。
相手が姉様じゃなかったら、こんなことしておいて泣いて済ますつもりなのか、と思うんだけど。……姉様の気持ちが痛いほどわかってしまうから、そういうふうに責めることは絶対にできない。
「いや、魔法を使うことを止めなかった俺の責任でもある。……今ので負傷した奴はいるか!? いたらすぐにラウナに治療してもらえ!」
セルジュ先生は訓練場全体に響く声で、そう言った。傍にいた姉様は、その声の大きさにびくっと体を震わせる。
話しかけるなら、今か。
「ね、姉様」
普通に言葉を発したつもりなのに、声が震えた。
振り向いた姉様は、私の顔を見てますます涙を溢れさせた。
「セレネ、ごめんねっ! また危ない目に合わせちゃって……!」
「いいえ。姉様の体調不良は私が原因です。だから、そんなに、泣か、ないでください」
言いながら、涙が出てくる。
……姉様が泣いてるから、私もつられて泣きたくなってしまっただけで。
姉様は、私をぎゅっと抱きしめる。それが優しくて力強くて、ほっとした。
「ごめんね、ごめんねっ」
「……謝らないでください。私は、大丈夫ですから」
大丈夫、大丈夫。何度もそうつぶやいて、姉様だけでなく、自分も安心させる。
魔法というのは、自分が使うときだけでなく誰かが近くで使うときにも、油断しては駄目なものだ。私は今、魔法学院の生徒としても……王女としても、してはいけないことをしてしまった。
それは姉様も同じ。帰ったら、二人で反省しなくてはいけない。
「二人とも、大丈夫っ!?」
エリクの声がしたと思ったら、彼の顔が目の前に現れた。思わず身を引こうとしたが、肩をものすごい力でつかまれているので無理だった。
エリクは私の顔を見てほっとため息をつくと、ついで姉様を確認した。
「……よかった。あのときみたいなことにならなくて」
そう言って、姉様の目に浮かんでいた涙を指で拭う。
私は覚えていないが、あのときはエリクも傍にいたらしい。私が炎に包まれたことも、その後の姉様の傷つきようも、よく知っているのだ。
姉様の涙を拭った後、エリクは私の頭を優しくなでた。
「セレネ、泣くのは帰ってからにしよう。帰ったらいっぱい泣いていいからさ」
「……ん。頭はいいけど、耳は触らないように」
ちぇっ、とエリクはわざとらしく言って唇を尖らせる。それがおかしくて、ふふっと笑ってしまった。
これが狙いだったのだとわかるから、ちょっと悔しくなる。私はエリクの狙いどおりの表情をさせられてしまうけど、私はエリクの表情を変えられない。泣き止んで……笑ってほしいときに限って、ますます泣かせてしまうのだ。まあ、エリクが泣くことなんて最近はもうないが。
「少し早いが、これで授業を終了とする。特に異常のない生徒たちは、本来の授業の終了時間まで教室で自習をしているように」
セルジュ先生の言葉に、みんなが教室に戻っていく。
私も戻らなくちゃ、と歩き出すと、エリクにがしっと腕をつかまれる。……何だかつかまれてばかりの気がするのは、気のせいだろうか。
振り向くと、エリクは呆れた顔でため息をついた。
「自分がどんな顔してるかわかってる? そんな状態で自習なんてできないでしょ」
「そうだよ、セレネ。保健室で休んできたほうがいいんじゃない?」
「君もだからね、ディアナ。……先生、この二人を保健室で休ませてもいいですか?」
エリクが尋ねると、セルジュ先生はうなずく。
「ああ、そのほうがいいだろう」
「ってわけで、二人とも。行こうか?」
有無を言わせぬ言い方に、姉様と一緒にしぶしぶ従う。
エリクはなぜか、きょろきょろと辺りを見回した。
「……ナタン! ちょっと来い!」
そして、遠くもなく近くもない、微妙な位置にいるナタンさんを手招きする。あ、助けてくれようとしたこと、後でお礼を言わなくちゃ。
怯えた顔で近寄ってきたナタンさんに、エリクは微笑みかけた。全く笑っているように見えない。
「後で話があるから。何の話かは……わかってるね?」
こくこく何度もナタンさんはうなずく。うっすら涙目になっていて、可哀想になった。エリクに何をしてしまったんだろうか。……怒ったエリクは怖いんだよね。昔の怒らせたときのことを思い出してしまい、ぶるっと震える。
「さ、行こう」
ナタンさんに向けたものとは打って変わって優しい表情だが、それが逆に怖い。
怒っていないだろうか、とおそるおそる見上げると、エリクは「ん?」と首をかしげた。……大丈夫、普通のエリクだ。
ほっとすると、エリクが手を繋いできた。見れば、姉様とも繋いでいる。エリクを真ん中に、三人で手を繋いでいる状態だ。
え、この状態で保健室まで行くの?
私と同じことを思ったのか、姉様が戸惑ったように口を開く。
「エリク、このまま行くの?」
「……何か問題でも?」
「いえ、ありません!」
むっとしたエリクに、姉様は慌てて首を振った。
三人で手を繋ぐなんて、久しぶりだなぁ。昔はよくしてたけど。
何となく、ちょっとだけ手に力を込めてみる。気づかないかもしれないと思ったが、エリクは握り返してくれた。……それが嬉しくて、耳が動かないように力を入れる。
頬が緩むのを感じながら、私は強く思った。
今はまだ、この気持ちが気づかれませんように。