71 残酷な世界と転生者の苦しみ
「――セレネ、あなた、この世界のことを生まれる前から知ってた?」
時が止まった気がした。それほど、想像もしていなかった問いだった。
「そ、れって……?」
戸惑う私に、ヘルガは何も言わない。ただ無言で見つめてくるだけだった。私の答えを、待っている。……今度こそ、自分が期待する答えが得られるだろうと、そう確信した顔で。
――ああそうか、そうなんだ。
彼女との今までの思い出が一気に頭のなかを流れていく。
気づけるタイミングはあったはずだ。彼女は何度もヒントをくれていたのだろう。このゲームをやっていれば、絶対に見逃すはずのないヒントだった。
それを私が、いつも見逃してしまったから――彼女は諦めたのだろう。
「……はい、知っていました」
「っ……もう一つ教えて。あなたは、この世界が……ゲームだと、知っていた?」
決定的な言葉だった。
焦りを含んだような目を向けてくるヘルガに、大きくうなずく。
「知っていました」
「それじゃあ!」
何かを言いかけたヘルガは、どこか後悔するような表情で一度口を閉じた。
「……ううん、ごめんなさい。あなたを責める資格なんか、わたしにはないわね。わたしがあなたに、ちゃんと直接訊いておけばよかったんだもの」
「いえ、そんな! 私がヘルガの立場でも訊けなかったと思います」
『ムーン・テイル』というゲームが存在する世界から転生してきた、なんて同じ境遇の人がいて、しかもそれがこんな近くにいるとはまさか思わない。転生自体が普通はありえないことなんだから。
「ですがヘルガは、なぜ私がこの世界を最初から知っていたと気づいたのですか?」
「確信があったわけじゃないわ。あなたはゲームについて知ってる感じが全然なかったから。怪しいと思って探っても、期待するような反応がなんにも返ってこないんだもの」
「す、すみません……実は私、このゲームをしたことはなくて、ただ説明書を読んだだけなんです」
ヘルガは瞠目し、それから深くて長いため息をついた。
「なるほど。それは、そうね。そうなるわね。どう思われてもいいから一度訊いてみよう、って勇気を出して正解だったわ。そうじゃなかったら一生同郷だって確信できなかった。まああなた、どう考えたって怪しかったんだけど」
それはやっぱり――主人公の異母妹、という立場のキャラがゲームには存在しなかった、ということだろうか。
ゲームに存在し、そのキャラと私が乖離していたという可能性もなくはない。しかし、同い年の異母妹なんてキャラがいたら必ずストーリーにも絡んでくるはずだし、説明書に少しも出てこないのは不自然だ。……いや、説明書の内容を完璧に覚えているわけではないから、実際はなんとも言えないのだが。
この辺りではっきりさせておいたほうがいいだろうか。
ずっと『絶対にそうだろう』と思っていたことであっても、真相を知る人物に改めて確認するのは、少し怖かった。わずかに早くなった心臓の音を意識しながら、ゆっくり口を開く。
「ヘルガ。私というキャラは……ゲームに、いましたか?」
「……いいえ」
やっぱり、と納得が心に広がっていく。……やっぱり。やっぱり、そうなんだ。私は……本当なら、この世界にいなかったはずの人物なんだ。
わかっていたことだった。
それでも……ほんの少しショックで、涙がにじみそうになる。それをぐっとこらえて、なんてことのないように微笑んでみせた。
「やっぱりいませんよね。ヘルガはいたんですか?」
「……いたわ。友人キャラとして、ね」
「そう、ですか」
羨ましい、と思ってしまった。たとえ私が『ヘルガ』として生まれていたとしても、ゲームをやっていない私には『ヘルガ』がいたかどうかなんてわからないのだから、状況は変わらなかっただろうけど。でも、ゲームに存在したか否かは私にとっては大きな問題なのだ。
ショックも嫉妬も押し殺して、微笑みを保つ。
「お互い大変でしたね。ヘルガもこの世界のこと、なかなか受け入れられなかったでしょう? 夢ではないと気づいたとき、この世界がゲームだと気づいたとき、私がどれだけ絶望したか……ヘルガなら、わかりますよね」
同じ境遇の者として、そうおかしくはないことを言ったつもりだった。私とヘルガでは立場が違うが、それでもなんとなく、仲間意識を感じてしまったから……当然、私と同じような思いをしてきたのだろう、と思って。
しかし。
ヘルガにとっては違ったようだった。
「……わたしなら、わかる?」
ぽつりと私の言葉を繰り返したヘルガは、顔色を変えた。声のトーンが、明らかに下がる。
「それなら、わたしの気持ちもあなたならわかるって言いたいの?」
――何かを間違えた、と悟ったときには手遅れだった。
「あなたには……っ! あなたには、わからないわよ! このゲームをやったことないあなたなんかに! わかるはずもないわ!」
抑えていたものが思わず溢れてしまった、かのように。ヘルガは叫んだ。
身をすくませる私にはっとしたものの、結局彼女はゆっくりと言葉を続ける。
「……あなたは、知らないでしょう。一つ一つの選択肢も、イベントも。わたしだって全部覚えてるわけじゃない。でも、ゲームであったことが目の前で起こればわかるわ。……ああこれ、ゲームであったことだ、って」
ヘルガは私から目を逸らして、震える声で語る。
「あなたといるときはどうか知らないけど……ディアナは、わたしといるときにも小さいイベントを起こしてる。ゲームでは選択肢が出てくる場面で、あの子は選択肢にある言葉しか言わない。わたしだって、気付けばゲームで『ヘルガ』が言っていた言葉を言っていることもある」
「っ……」
会話の途中、たまにヘルガの様子がおかしくなることがあったのはそういうことだったのかもしれない。だとすれば……どれほど、つらかっただろう。彼女は、この世界がゲームだということを毎日思い知らされてきたのだ。
ヘルガが私に期待していたのは、それに対する共感、だったのだろうか。……私はまた、彼女の期待を裏切ってしまったのだろうか。
「前話したでしょ。わたし、この世界に生まれてから一度しか体調を崩したことがないの。そのたった一度が、学院の試験の日よ? 笑っちゃうわよね。試験が受けられないから、強制的にCクラス。自惚れでもなく、Aクラスに入れる学力はあるつもりよ。……これが、ゲームの力じゃなくてなんだっていうの。ゲームの『ヘルガ』が、Cクラスだった。それだけで、『わたし』もCクラスになった」
笑っちゃうわよね、と言っておきながら。ヘルガの顔に、笑みはない。今にも泣き出しそうな、歪んだ顔だった。
「それに『ヘルガ』の父親は、ゲームの二年前に死んでた。わたしのお父さんも、二年前に死んだわ。病気だった。でもわたしは、どうしてもそれが本当の原因だとは思えない。ゲームでそうだったから、ここでもそうなったんだって……そう、思っちゃうの」
本当は口を閉ざしたいのに、言葉が止まってくれない……そんな様子で、ヘルガは思いを吐き出し続ける。
ずっとずっと、一人で抱えて我慢していたのだろう。その我慢が今、限界を迎えた。
「っ、フェリクスを好きなのだって、どうせゲームのせいなのよ! だって、だって『ヘルガ』は『フェリクス』に片想いしてるんだから!」
小さく息を呑んでしまった。
思い出す。体育祭の二人三脚でフェリクスさんとペアになって、愚痴を吐いていたヘルガ……彼女は、なんと言っていた? フェリクスさんに対してドキッとしてしまうのは運命なのだと、自分の意思ではないのだと……そう言っていなかったか?
あのときはただ、自分の気持ちに素直になれないだけかと微笑ましく思っていた。
でも……あの言葉の真意が、そういうことだったとしたら。ヘルガがあそこまで頑なだった理由が、やっとわかった。
「絶対に好きになってやるもんかって思ってたのに。ムカつくし、ウザいし、大嫌いなタイプなのに、駄目だった。ゲームには逆らえなかった。ゲームのせいだってわかってても、どんどん好きになっちゃって……わたしは……『わたし』は、『ヘルガ』なんだなって。『ヘルガ』以外にはなれないんだって思った。だから嫌われようとしたのに、それも駄目だった。『フェリクス』が『ヘルガ』を好きになることはないのに、わたしはずっと、不毛な恋をしなきゃいけない」
ヘルガは自身の胸元をぎゅうっと押さえた。
……だから彼女はフェリクスさんの告白を正確に受け止められず、友人としてよろしく、なんて言ったのか。自分自身の恋心を、ごまかして。
「わたしだってわかってるわ! ここは現実だって。お母さんも、弟も妹も、あなたも、わたしも、ディアナも、誰だって、ちゃんと生きて、笑って、感情があって……っ!」
涙声で叫ぶヘルガが、脆く見えた。少し指で触っただけでも、粉々になってしまいそうなほどに。
「だからこそ、怖いの。ふとした瞬間に、ここがゲームの世界だって痛いほど思い知らされる。現実だと思いたいのに、ゲームの記憶が邪魔してくる。こんなの、あなたにはわからないわ。だって、ゲームをやったことがないんだもの。
だからあなたは、現実とゲームの区別がすぐにつく。いえ、すぐではなかったんでしょうけど……今のあなたは、ついてるでしょう? あなたと同じ年をこの世界で過ごしてきて、それでもわたしは、まだわからないのよ。わからないの。わかっているふりをして生きてきたけど……所詮、ふりだったわ」
自嘲げに言って、彼女はうつむく。
「わたしが好きになったディアナは、『ヘルガ』の親友で……でも、でもね、『わたし』だって、ちゃんとディアナのことが好きなはずなの。ゲームをやってたときから、主人公が好きだった。ここで出会って、もっと好きになった。だからこの気持ちは、『わたし』のものだって思いたい! フェリクスを好きになったのも、ちゃんと『わたし』があの人のことをよく見てたからだって……そう、思いたいのに」
そこでようやく、ヘルガの言葉は止まった。
しばらく黙り込んでから、「ごめんなさい」と謝ってくる。
「かっとなって、八つ当たりしちゃったわ。本当にごめんなさい。ごめん」
「……いいえ、私が考えなしに発言してしまったからです。こちらこそ、すみませんでした」
この世界は、ゲームを知らない私にとってより、ゲームを知っているヘルガにとってのほうが残酷だった。私はそこを理解できていなかったのだ。
彼女の絶望と、私の絶望は違うもの。……さっきの発言はすごく軽率だった、と後悔する。
「……ゲームの強制力は私も感じていました。姉様のお母様はとてもお優しい方だった、とぼんやり記憶しているのですが、あるときから急に人が変わったようになられて……食事も取らなくなり、お体が弱っていたときに風邪をこじらせ、亡くなりました。それが私にはどうしても不自然に思えるんです。ゲームの中でも、主人公の母親は亡くなっていたんですか?」
「ええ、小さい頃に病気で亡くなった設定だった」
冷静になったのか、動揺する素振りもなく肯定するヘルガ。
だとすれば、やはり。お母様が姉様のことを愛さなくなったのも、亡くなったのも、ゲームの強制力が働いていたと見てまず間違いない。
拳を握って、手のひらにぎゅうっと爪を立てる。そうしなければ、汚い言葉が口から出てしまいそうだった。
「……それから、誘拐事件。姉様があんなことをするなんて、おかしいですよね」
「そうね、ディアナは馬鹿じゃない。本来のディアナならあんな不用意なことするはずないわ」
「そんなふうに、ゲームを知らない私でも、これはゲームの強制力が働いているだろうと推測できることは多々ありました。ヘルガなら、もっとそうなんでしょう」
「……ええ」
彼女と私とでは、見えていた世界が違った。その世界の差を私はなんとなく理解できたけど……彼女にも、理解してほしいと思った。私と同じように、なんとなく、でいいのだ。
というのは言い訳かもしれない。単に私も、今まで我慢してきたことを吐き出したくなってしまっただけだった。
「ヘルガ、ごめんなさい。さっき少しだけ、嘘をつきました」
「……嘘?」
ほんの少し眉根を寄せるヘルガに、ふっと微笑みかける。
「なかなか受け入れられなかったでしょう、なんて、さも今は受け入れられているようなことを言っておいて……私はまだ、全然、受け入れられていないんです。現実とゲームの区別も、ついていない」
ヘルガの目が見開かれた。
そうですよね、たぶんヘルガは……そんなこと、思ってもみなかったんでしょうね。私自身、受け入れられたのだと自分に嘘をついてきた。でもそうなんです、と心の中でつぶやく。
……だって。
「だって私は、この世界のことを知らないんです。わかっているのは、説明書に書いてあったほんの一部と、友人が話してくれたことだけ。だからどこまでゲームに沿っているのか、どこからが現実なのか、わからないんです。わからなければ、区別もつかない。『主人公』として姉様を見て、『攻略対象のキャラ』としてエリクたちを見て、その行動全てがゲームによるものなのではないかと、怖くなる」
私が彼女の苦しみを理解できていなかったように……彼女もまた、私の苦しみを理解できていなかった。
仕方ない、と思う。彼女も私も、それだけ苦しんできたのだ。他人の苦しみを理解する余裕も、ないくらいに。
「……ヘルガ、私は貴女が羨ましい」
本音が、零れてしまった。
「ゲームを知っている貴女が――ゲームに実在する貴女が、羨ましいです」
私は、いないのだ。本当はいない存在だった。何かの間違いで、この世界に生まれてしまった。
私はもう、石月千湖ではない。それは確かだ。
私は私――でもそれって、誰のこと?
ヘルガに訊いたって、わかるはずがない。
だから私は、呆然とする彼女に違うことを尋ねた。
「ヘルガ、一つ訊きたいのですが……このゲーム、デッドエンドがありますよね?」
「ッ知ってたの!?」
ヘルガがはっとして食いついてくる。
「昔友人から聞いていたんです。とはいっても、ある、ということしか知らないのですが。そのデッドエンドって……月と関係していたりしますか?」
それだけで得心がいったように、ヘルガは「やっぱり」とつぶやいた。
「あなたとディアナが長い間休んでいたのはそのせいだったのね」
「……心当たりがあるんですね。もう終わったことですが、念のため詳しいことを教えていただけませんか?」
まだ何かが起こるかもしれない。手に入る情報は手に入れておくに越したことはないだろう。
ヘルガは思い出すように視線を上げながら、真剣な顔で教えてくれた。
「このゲームにデッドエンドは一つだけ。本命の好感度が九十パーセント以上、かつ、他の攻略対象……今回の場合は、フェリクスとエリク、ミミル、ルカ、テランス、シャルルの六人ね。そのキャラたちの好感度の平均が七十パーセント以上だった場合に起こるの。
なんでこんなところで? っていう微妙な選択肢が出てきて、正解を選べなかったら発生する。ゲーム内では伏線も何もない、そこに関してはクソゲーだったわ。しいて伏線と呼べるとしたら、ディアナの魔力が異常に多いことくらいしかなかった」
……くそげー。馴染みのない単語だったが、理解はできた。ヘルガがその部分を苦々しく思っていたことも。とはいえそんな理不尽なものなら、確かにそう思うのも当然だろう。
「月の魔力が尽きそうだから手を貸して欲しいって女神が頼みにきて、主人公は世界を守るために、ためらいなく自分を犠牲にする。そこに選択肢は存在しない、プレイヤーはただ物語を進めることしかできなかった。主人公の覚悟のモノローグを読んだら、短いアニメ動画が始まって……それで主人公はおしまい」
淡々とヘルガは言う。
「主人公が死んでも、世界はぎりぎりのところで救われる。そしたら一定以上の好感度があったキャラのその後を見れるんだけど……いや、なんのゲーム? って感じよね。乙女ゲーにそんなの求めてないのよ……需要はあったんでしょうけど……」
「お、乙女ゲーム自体やったことないのでよくわからないんですが、このゲームは特殊だということでしょうか?」
「……わたしも実はこのゲーム以外、乙女ゲーに手を出したことないのよね。全ルートクリアして、それじゃあ他のゲームもやってみようかと思ったら死んじゃったし」
さらりと『死』を口にしたヘルガに、一瞬固まってしまった。
そうだ。この世界に転生した、ということは……ヘルガも一度、死んでいるのだ。
私の反応に、ヘルガはしまった、という顔で「話を戻すわね」と咳払いをする。……気を遣わせてしまった。
「今度はゲームの話じゃなくて、この世界での話。デッドエンドの選択肢は、本命との会話でしか起きないわ。だからわたしは、学院にいる間はディアナからできる限り離れないようにしてた」
あの誘拐事件の後、ヘルガが姉様に『これまで以上にあなたの傍にいるようにしたいわ』と言ったのはそういうことだったのか。……さっきから、そういうことだったのか、と思うことが多すぎる。情報量に頭がパンクしそうだ。
ヘルガの話に置いていかれないように、耳に意識を集中させる。垂れている耳がぴくぴくと動いた。
「実際、防いだはずだったの。セルジュ先生との会話で、ディアナを上手く誘導して正解の選択肢を選ばせた。……なのに、なのに駄目だったのね」
現実でもあるこの世界だから、ヘルガの想定外のことが起きたのだろう。そういうところが本当にずるい世界だ。ゲームなのか現実なのかはっきりしてほしい、とまた思う。
落ち込んだように目を伏せていたヘルガは、「ねえ」と視線を私に向けた。
「ディアナが死ななかったのは、セレネのおかげ?」
「……今回死にかけたのは、姉様ではなく私でした」
「え」
予想外だったのだろう、驚いたヘルガに苦笑いをする。
「実は私、姉様よりも魔力が多かったんです。それでまあ、私が姉様の役割を肩代わりした、という感じで」
「……そういう、ことか。たぶんゲームのとおりディアナがやっていたら、あの子は死んでいたはずよ。ディアナより魔力が多いあなただから、ぎりぎり助かったってことね」
ヘルガの言葉は私が推測とほぼ同じものだった。
……そのおかげで、姉様を深く悲しませることもなかったのだ。私の魔力に気づいてくださったルナ様には、もっともっと感謝しなければ。
そんなことを考えつつ、ヘルガに向けて言う。
「正解の選択肢を選んだはずなのにデッドエンドに向かってしまったり……私が姉様の代わりになったり。ゲームからずれていることもたくさんあります。そもそもヘルガや私が記憶を持ったままここにいる時点で、この世界がゲームだとは言い切れません。だから――ここはちゃんと、現実でもあるんです」
ゆっくり、はっきりと。
言葉を紡ぐ私に、ヘルガは唇を噛んで黙り込んだ。
「……なんて、私が言えたことじゃありませんけどね」
苦笑いを一つ浮かべる。
現実だと思いたい、とヘルガは語った。ゲームと現実の区別がついていない私には本当に言えたことではないけど、ここが現実だ、と彼女に伝えることができるのは、きっと私だけだ。
だから伝えたかった。ほんの少しでも、ヘルガに安心してほしかった。きっかけはゲームの強制力かもしれなくても、今の貴女の気持ちは紛れもなく本物なのだと。
「ゲームでもあり、現実でもある不安定な世界ですが……それでもヘルガ、貴女の気持ちだけは疑わなくていいと、私は思います」
一歩一歩、彼女に近づく。それほど距離はなかったから、目の前に立てるまですぐだった。
そしてそっと、ヘルガの手を取る。握った手に力を込めれば、ヘルガの目からほんの少しだけ、涙が零れた。
その涙を拭ってから、彼女は口を開いた。
「……もう少しでゲームが終わる。そしたら完全に、わたしの知らない世界になるわ。そうならないとわたしは、この世界を現実として受け入れられないと思っていたけど……でも、うん、少しわかったわ」
ふわっと彼女の表情が和らぐ。
「今もちゃんと……現実でもあるのね。そうじゃないとディアナは死んじゃってたし、あなたはいなかった」
よかった、とヘルガは涙声で言った。
「あなたが生きていて……ディアナも生きていて、本当によかった。止められなくてごめんなさい……止めてくれて、ありがとう」
「……いいえ、お礼を言われるようなことはしていません。私はただ、姉様に生きていてほしかっただけなんです」
「それでもあなたが世界を救ったのは確かだわ。それに、わたしの親友を助けてもらったのよ? お礼くらい言わせて」
「そう、ですね」
そう言われては、これ以上固辞することもできなかった。
姉様が生きていくこの世界を救えて本当によかった、とは思う。デッドエンドを乗り越えたその先に何があるのかはヘルガにもわからないだろうが……きっと、ハッピーエンドだ。そうでないとおかしい。
そう確信しているが、否、確信しているからこそ、どこか落ち着かないような、不安なような、そんな気持ちが胸に落ちる。
ハッピーエンドは間違いない。姉様は幸せになれる。
それなら、と思うのだ。
「……でも。これから私は、どうしたらいいんでしょう」
途方に暮れた声に、自分が驚いてしまった。
もちろん、姉様を見守ればいいのはわかっている。わかっている、けど。……今回のことが私に与えられた役目だったのなら、私は。
「私の存在意義は、姉様にあります。だから私はあのとき、死ぬ覚悟をしていたんです。姉様のために死ねるのなら、本望とさえ思いました。それが私の役目だったんだ、と。本来存在しないキャラが主人公の代わりに死ぬなんて、この世界がしそうなことじゃないですか。……それなのに私は生き残って、ヘルガが言うとおり、ゲームももうすぐ終わります」
わからなかった。
「それなら私は、何のためにここにいるんでしょう。どうしてまだ生きているんでしょう。私がいなくなっても、姉様は幸せになれるのに……どうして」
独り言のつもりだった。答えが返ってくることは期待していなかった。どうして、とひたすら考えるために口にしただけのこと。
けれどヘルガは息を吸って、おもむろに腕を振りかぶった。何をするのかと見ていれば、乾いた音と共にじわりと頬が熱を持つ。
「ヘル、ガ?」
反射的に、頬を押さえる。
叩かれた。……本当に軽くだったから、熱を持つほど痛くなるはずがないのに。これじゃあまるで、昔姉様に叩かれたときのようだ。
ヘルガは私を睨むように見ていたが、その眼差しはなぜか、優しかった。
「ここが現実でもあるって、あなたが今、わたしに教えたのよ。どうしてまだ生きているか、なんて……本気で思ってるなら救えないわね。まあ、わたしが言えたことじゃないけど」
さっきの私を真似するようにそう言って。
小さく肩をすくめ、ヘルガは「ねえセレネ」と名前を呼んでくる。
「わたし、フェリクスが好きだわ」
「え、えっと……」
私の言葉が彼女の心を変えられたのなら嬉しいが、宣言が突然すぎた。戸惑う私なんてお構いなしに、ヘルガは続ける。
「とりあえずそれを否定することはもうやめる。ここがちゃんと現実でもあるなら、わたしは本当にフェリクスのことを好きなのかもしれないし。ううん、たぶん、ちゃんと好きなのよ。特に何をするつもりもないけど、この気持ちは大事にしようと思う。――それであなた、エリクが好きよね?」
「へっ、あ、う、そうです、けど」
それって今関係あるんだろうか!? というかやっぱりヘルガにもばれていたんだ、と慌ててしまう。そうだろうとは予想していたが、こんな不意打ちでそれが判明するとは思っていなかった。
「ディアナのためなら、エリクのことも諦められるの?」
その問いの意図も、上手く掴めない。
「……諦める、というか。今のエリクが姉様以外を好きになるって、ありえませんよね? え、あれ、もしかしてルカ君と同じように、エリクにも恋人ができたりするんですか……?」
「ルカは特殊よ、例外だと思って。基本各ルートにはライバルがいるけど、エリクルートの場合はそれもいない。一番簡単なルートなのよ」
それなら、ゲームが終わっていない今、エリクが姉様以外を好きになることはないだろう。これから先はわからないけど……少なくとも、私だけはありえないはずだ。
律儀に答えてくれたのに、ヘルガは「話を逸らさないで」とばっさり言ってくる。
「ありえるありえないの話じゃなくて、あなたの気持ちを訊いてるの」
……私の、気持ち。
頬から手を離して、視線を背ける。
「気持ちはもう、伝えましたから」
「そう。それで、エリクの返事は?」
「聞いていません」
「……は? どうして」
「私は、月が綺麗ですねって言っただけですから」
ヘルガの眉間に皺が寄る。
彼女もその有名な言葉は知っていたらしい。わずかな沈黙の後、ふるふると震えて、叫ぶ。
「ばか! ばかだわあなた!」
「え、えっと、すみません」
怒り方が姉様みたいだな、さすが親友だ……なんてのん気なことを考えているとばれたら余計怒られることは必至なので、反省したように身を縮ませておく。
……伝わらない告白に、なんの意味もないけど。伝えたいとも思うけど、だからといって、伝えようとは思わない。それは駄目だ。
ここがいくら現実でもあるとはいっても……ゲームの根幹に、私が関わってはいけないだろう。
「あなたはこの世界に存在しなかったってことを気にしてるんでしょうけど……完全に脈のないわたしと違って、あなたは可能性がある。可能性が決まっているわたしとは違う。存在しないってことは、どうにでもなる可能性があるってことだわ」
「いいえ、完全に脈がないのは私のほうです。ゲームに出てこなかった人が相手ならともかく、エリクですよ? 攻略対象ですよ? そんな人に、私が気持ちを伝えていいわけがありません。むしろヘルガのほうは、フェリクスさんに好かれているじゃないですか」
「友達としてでしょ」
「思い込みです」
「あなたのほうが思い込みだわ」
「どう見たってフェリクスさんはヘルガが好きですよ!」
「それならどう見たってエリクはあなたのことが好きよ!」
思わず睨み合う。お互い一歩も退く気はないようだった。
睨み合いはヘルガのため息で決着がついた。
「あーもう、いいわ。勝手にさせてもらうから! それじゃあ、時間取ってごめんね」
むすっとした顔で、ヘルガはくるりと後ろを向く。
「また明日」
「……はい、また明日」
そのまま去っていく、かと思いきや。
数歩進んだところで、どこか気まずげに振り返った。
「それから……今日は、ありがとう」
むすっとした雰囲気は消えていた。申し訳なさそうにも聞こえるお礼に、ついちょっと笑ってしまう。
「こちらこそ、ありがとうございました。……よければ今度、前の世界のお話をしましょう」
「そうね、話したいことは色々あるわ。あなたのクラスのサーラって子もたぶん転生者だから、その子も交えて、ね」
「えっ!? そうだったんですか!?」
衝撃の事実を言い残して、ヘルガは帰っていった。
……えー、あー、たし、かに。ゲームではデッドエンドに関する伏線がなかった、とヘルガは言っていた。つまりサーラちゃんのあの警告は、ゲームではなかったことなのだ。それが示す意味は一つ。
え、えええ、実は転生って珍しいことでもなかったりする!? そんなわけないよね!?
今日だけで判明したことが多すぎて、本当に頭がパンクしそう……。
ふらふらと姉様とエリクのもとに向かった私は、ヘルガの「勝手にさせてもらう」なんていう不穏な言葉をすっかり忘れてしまったのだった。




