07 姉様の提案と必要のない嘘
変わったことは何も起きずに、次の日になった。
「――あれ?」
「どうしたの? セレネ」
何でもありません、と姉様に答えながら、頭では考え事を続ける。
昨日は結局、姉様は「変わったことなんてなかったよ」と報告してきた。もしかしたら姉様が気づかなかっただけかもしれない、とその日あったことを細かく聞いていったのだが……。一応姉様の護衛であるエリクも、変わったことはなかった、と言うのだ。きっと本当になかったのだろう。
……いやでも、おかしいよね? 『大切な選択』がないなんて。この世界の全部がゲームのものではないとわかってはいるが、それでもルナ様の言葉が間違っていたとは思えない。ルナ様の言葉に間違いはないはずだ。あれでも月の女神だから。
月の女神の言葉は絶対、とまでは言えないが、ルナ様があんな真面目に嘘をつくなんて有り得ない。ルナ様に言ったら怒られるような、間違った信頼だが。
だとしたら……どういうことだ?
むむ、と首をひねる私に、姉様が言う。
「朝からそんな顔してると、嫌な気分になっちゃうよ?」
「そんな顔って、どんな顔ですか?」
「こんな顔ー」
姉様は、眉間に皺を寄せた。それと同時に、唇も尖っているのがおかしいというか。可愛いというか。合わせると、おかわしい?(いや、違うか)
思わず笑ってしまうと、姉様も顔をほころばせた。
「えへへ。笑わないと楽しくないんだよ、って前に言ったよね」
……覚えてたんだ。
私はにやけてしまう顔を隠すため、うつむいた。
それは昔、塞ぎこんでいた私に言ってくれた言葉の一つ。
『わらわないと、たのしくないんだよ!』
幼い姉様からそんな言葉が出てくるなんて、今思い出せば驚きだ。あの頃は驚く余裕なんてなかったからね。
笑ったって楽しくなんかならない、と思っていたが……今では確かに、笑っていたほうが毎日が楽しくなると知っている。
「セレネ?」
うつむいた私に、姉様は心配そうな声を出す。
「いえ。覚えていてくれたんだなって思うと、嬉しくて」
「私だって、記憶力は悪くないんだよ!」
「……そうですか」
「そうなの」
返答に間があったことには気づかなかったようだ。じゃあ、なかったことにしよう。うん。
心の中でうなずいていると、姉様は「ねえ?」と首をかしげた。
「そろそろ着替えないと、遅刻しちゃうと思うんだけど……」
……な、に?
ぽかんとしながら姉様を見れば、きちんと制服を着こなし、帽子までかぶっている。対する私は、食事の時間用のワンピース。
朝ごはんは考え事をしながら食べ、自分の部屋に帰ってからも考えていたら……制服に着替えるのをすっかり忘れていたようだ。
どうして姉様がわざわざ私の部屋へ来たかと思えば、そういうことか。
「……早く言ってください!」
悪いのは私だとわかっていても、そう叫ばずにはいられなかった。
部屋のクローゼットから急いで制服を取り出して、手際よく着替える。
ドレスのとき以外は、基本的に私は自分で着替えるようにしている。ドレスは流石に一人では無理なので、侍女さんに手伝ってもらうのだが。
鏡でおかしなところがないか確認……あ、リボンが曲がってる。
リボンを直してから、鞄と帽子を手に取った。
「行きましょうか」
「……着替えるの早いねー。早すぎて見えなかったよ」
「それは……大げさでは?」
「うん、そうだね」
あっさりと私の言葉を認める。
「でも早かったのは本当だよ?」
「まあ、今日は自分でもびっくりするほど早かったですが」
遅刻しそうだからというのもあるだろうが、たぶん一番の理由は、姉様がいたからだ。
女の子だし、姉様だし……別にいいのだけど、やっぱり着替えを見られるのは恥ずかしい。
「私も早く着替えられたらなぁ」
「そんなに羨ましがることでもないですよ? それより、早く行きましょう。原因の私が言うのもあれですが、エリクを待たせてしまっています」
「そうだね」
二人で部屋を出る。
が、ふと思い出した。
「すみません、忘れ物が」
言いながら、まだ閉めてもいなかったドアをもう一度通る。ドアを通るという言い方は、何だかちょっとおかしく感じるけど。
忘れ物は、魔物学のレポートだ。昨日私にだけ出された宿題。チェンランについて、できるだけわかりやすくまとめた。
……レポートを書くと、何だか頭がよくなったような気になるのは私だけ?
机の上に置きっぱなしだったレポートを、鞄の中に入れる。
忘れたら怒られるだろうし、思い出せてよかったぁ。(ほっ)
「何忘れたの?」
「宿題です」
授業に集中していなかったので、という言葉は言わないでおく。言わなくていいことだよね。
「じゃ、今度こそ行こっか? ……エリクも来ちゃったし」
姉様の視線の先を辿れば、エリクの姿があった。少しだけ怒っているようにも見える。
えーっと、ごめんなさい。着替えるのが遅すぎたね。
* * *
学院に着いたのは、遅刻ぎりぎりの時間だった。席に座った途端、チャイムが鳴ったのだ。
午前の授業が終わり、昼休み。ちなみに、今日も魔物学の授業があったので、レポートはそのときに提出しておいた。
というのは、今は関係なくて。
「……姉様、もう一度言ってください」
今聞いたことが信じられなくて、私はゆっくりと姉様に尋ねた。
姉様は、そんな私に少し怯えながら答える。
「えっと……。私は妹離れするから、セレネは姉離れしてみない?」
私が、姉離れ。
今まで何度も、しなくてはと思ってきたことだ。しかし自分で思うのと、姉様本人に言われるのとでは全く違った。
姉様が、妹離れ?
……私はもう、姉様に必要ないの? 嫌われちゃったの?
なんで、どうしてきゅうに、そんなこと。
『ねえセレネ、友達できた?』
姉様はさっき、私にそう訊いてきた。答えづらかったが否定すると、今の提案をしたのだ。
必要ないわけじゃない。嫌われたわけじゃない。
頭ではちゃんとわかっているのに。わかっているのに、もしかして、と不安になってしまう。もしかして、姉様にべったりな私にうんざりしたのではないか。鬱陶しくて、そんな提案をしたのではないか。
きっと姉様は、私に友達ができないんじゃ、と心配したのだろう。自分がいては、私が友達を上手く作れないと思ったのかもしれない。
だけど、それが私の勘違いだったら?
「セレネに友達ができるまで、ちょっとだけ距離を置こうと思うんだ。……嫌いになったんじゃないからね?」
そっと、姉様は私の手を握った。
「私は、セレネが大好きだよ。だけどたぶん、これはお互いにとって必要なことなんだよ」
「……姉様」
「とりあえず、明日までね。明後日からは、いつもどおりにしよ? そうじゃなきゃ、セレネ成分が不足しちゃうー」
そのふざけたような口調に、私は笑ってしまった。
セレネ成分。私に、どんな成分があるんだ? わからないが、私もふざけて言ってみる。
「私も、姉様成分が不足してしまいます」
「でしょ? だから、ね。明日までだよ。ちゃーんと、友達を作ること」
一日で友達を作るのか。少し難しい気もするが、そう言っていては、いつまで経っても友達なんかできない。
私がうなずくと、姉様はほっとしたようだった。
「廊下で見かけると、セレネはいっつも一人だからねー。いつ迷子になっちゃうか心配で。友達ができたら、一緒に教室移動すればいいもん」
これで安心、とにっこりと笑う姉様。
……ここは、どういう反応をすべきなんだろうか。そんなに私のことを気にしてくれていたのか、と喜ぶべきか。迷子の心配をされることに、怒るべきか。
というか、廊下で見かけると『いっつも』一人って。私は姉様を廊下で見かけたことなんて、一、二度しかないんだけど。姉様はいつ私を見かけたんだ?
「あの、もしかして姉様が一番心配なことって……?」
「うん? もしかしてって?」
「私が学院で迷子になることだったり、は。ないですよね?」
姉様はしばらくきょとんとしていたが、ぽんっと手を打った。
「そうかも!」
「そうなんですか!?」
何だかショック!
いや、『何だか』はいらないのかな? ここは普通にショックを受けていいところだ。この歳になって、友達ができないことよりも迷子の心配をされるなんて……。
「ふふふ、それは流石に冗談だよ」
続いた姉様の言葉に、がくりと肩を落とす。
ここで冗談を言われるとは思ってなかった。結構本気にしちゃったよ。ああでも、相手が姉様だからか。もしエリクに言われてたら、すぐに冗談とわかっただろうし。
「冗談でも、ひどいです」
頬を膨らませる……のは恥ずかしいので、できるだけぶすっとした顔をしてみる。
「ごめんごめん」
でも意味がなかったようで、姉様は笑いながら謝ってきた。
……あ、耳か! 耳が駄目なんだね? 耳を意識するのを、すっかり忘れていた。
「じゃあセレネ。私そろそろ、教室に戻るね。いつもどおり一緒に帰るけど……んーっと、お互いよそよそしく? あれ、違うかな」
「とりあえず、いつもより話さなければいいんですね」
「そうそう」
そう言って、私たちは笑い合った。
……こんなで、本当に姉離れ妹離れできるのだろうか。
心の中で首をかしげながら、教室に戻る姉様を見送った。
さて、どうしよう。お弁当は、どこで食べようか。こんな中途半端な時間に、「一緒に食べてもいい?」なんて言いにいく勇気は、私にはない。それに食堂に行っている人がほとんどで、教室には数人しか残っていないし。今日は一人で食べようかな。
選択肢は……二つだけ。このまま教室で一人寂しく食べるか、中庭で一人寂しく食べるか。どちらにしろ一人寂しく、だけど。そこは気にしちゃいけない。
昨日、姉様とエリクが学院内を案内してくれたので、中庭と図書室、魔法訓練場の場所だけは完全に覚えた。(褒めて褒めて!)
数人しかいない教室で、一人でお弁当……うーん、中庭にしようかな。
よし、そうと決めたら早速中庭に……ああ、そうだ。お弁当を食べ終わってから時間が余りそうだし、一昨日借りた本でも読もうか。
せっかく借りたのに鞄に入れっぱなしになっていた本を取り出して、私は中庭に向かった。
* * *
中庭には迷わずに着いた。別に、途中で三回ほど迷ったとか、そんなことは決してない。ないったらないのだ。
しかし、一昨日使っていた机は、もう誰かが使っていた。
お弁当を片手に、どうしようか考える。
誰か、というか……あれはたぶん、フェリクスさんだ。桜の木を見上げている様は、フォークをくわえていなければすごく絵になる光景だろう。ゲームのキャラクターである人は、やっぱり絵になる人が多い。
全く知らない人だったら場所を変えるのだが、相手は一応知り合い。フェリクスさんがいいのなら、一緒に食べてもいいとは思う。
だけど……大切な選択はまだだし、姉様がフェリクスさんを選ぶ可能性もある。だとしたら、あまりフェリクスさんと仲良くするのは駄目だろう。
あ、でも今更か。エリクとはすでに……し、親しい仲だし。その、幼馴染としてね?
「あれ、セレネちゃんじゃん」
悩んでいる間に、フェリクスさんに気づかれてしまったようだ。
こちらを振り向いたフェリクスさんは、へらっと私に笑いかけた。
「どーしたの、こんな時間に。あ、もしかしてオレに会いにきてくれたの?」
「いえ、姉様と話していたらこんな時間になってしまっただけです。お弁当、ご一緒してもよろしいですか?」
「もっちろん」
あー、やっぱりこの人苦手かも。
それでも一人よりはいいので、フェリクスさんの向かいの椅子に座る。今日はどんなお弁当だろうか、と考えながら、お弁当を開ける。
……よし、にんじんは入ってる! 流石母様だ。
「好きなものでも入ってた?」
「え、はい」
何でわかったんだろう。
首をかしげると、フェリクスさんは私の頭に目を向けた。
「耳が嬉しそーに、ピクピク動いてたから。セレネちゃんってさ、表情はあんま変わんないけどわかりやすいね」
……耳か。そっか、姉様たち以外の前でも、気にしてなきゃ駄目なのか。
「ま、カワイイからいーんじゃない?」
「でも、嘘がすぐばれちゃうんですよっ!」
言い返してから、にんじんを口に入れる。おいしい。
フェリクスさんとは何も話題がないと思ったけど、案外あるものだ。
「……ふーん。嘘つかなければいいんじゃ?」
「それができたらしてます。必要な嘘以外はつかないように……あ、嘘です。必要じゃない嘘もついていました」
途中で気づいて、またにんじんを食べながらがっくりする。
だって、ね。……エリクの前では素直になれないから、嘘をついてばっかりな感じだし。それは必要のない嘘だよね?
うー、今までの素直じゃない言葉は、全部嘘をついたことになっちゃうのか。少しくらいは素直になってみたいけど……うん、姉離れと一緒に、そっちも頑張ってみよう。
「ションボリしてた耳が立ったんだけど」
「ちょっとした決心をしていました。今度から頑張ってみます」
「え、何を?」
「……少し、素直になってみようかと。今のままだと、耳を見てにやにやされるだけです」
さて、次はふわふわの卵焼きを食べよう。その次はポテトサラダで。
食べる順番を決めて、卵焼きをフォークで突き刺す。
「必要じゃない嘘って、たとえばどーゆうの?」
その言葉にフェリクスさんの顔を見て、びくっとした。
笑みが顔に貼りついている。しかし、目だけは笑っていなかった。
……もしかして、何かまずいことしちゃった?
「あの、それは答えなくてはいけませんか……?」
恥ずかしいから、言いたくないのだが。
「んー? 別に答えなくてもいいけど?」
いやいや、絶対嘘でしょ!
思わず、心の中で突っ込みを入れる。何だろう、この冷や汗が出てくるような笑顔……。脅されているような気になるのはなぜだ。
「えっと……ですね」
おそるおそる話し始めると、フェリクスさんは笑顔で「うん」とうなずく。
「つまりは、やっぱり素直な女の子のほうが可愛いですよね、ということで」
「うん?」
フェリクスさんは、きょとんと目を瞬いた。
あ、でも好みは人によるか。何だっけ、つんでれとかやんでれとか、よくわかんないのを好きだって言ってた人も、前の世界にはいたし。つんでれ、やんでれまでは何とかわかるけど……何だっけ、あの人が言ってたの。
「……セレネちゃんは、今のままでじゅーぶんカワイイと思うよ」
なぜか、フェリクスさんの雰囲気が柔らかくなった。笑みもさっきまでのとは違って、目までちゃんと笑っている。
だからこそ、何だかむっとした。
「お世辞なら、もう少しまともなことを言ってください」
「いやいや、お世辞じゃないって。恋する女の子はみーんなカワイイよ?」
「なっ!」
にこにこと笑うフェリクスさんに、絶句する。
「頑張ってね」
駄目押しのようにそう言われてしまって、顔が熱くなった。
……どうして私は、この人とこんな話をしているんだろうか? 魔法学の授業で同じグループというだけで、ほぼ他人なのに。
いや、他人だからかな。その上、チャラいというか、そういう雰囲気の人だし。
エリクがす、好きだとか……はっきりとは言わなくても、誰か好きな人がいるなんてこと、今まで誰にも話したことはなかった。フェリクスさんに話したことで、ほんのちょっと気持ちが楽になった気がする。
「……頑張ります」
だから、素直にそう返せた。
するとフェリクスさんは、びっくりしたような顔で私を見てくる。何も言わないので、とりあえず話は終わったのだろう。丁度お弁当も食べ終わったので、持ってきていた本を開く。予鈴が鳴るまで、あと十分だ。
「それ」
フェリクスさんが、小さい声でつぶやく。
「何ですか?」
「あ、いや……その本、面白い?」
「まだ読み始めたばかりなので、わかりませんが」
その答えに、フェリクスさんはがっかりしたようだった。
というか、最初のページを開いたんだから、読み始めたばかりだというのは見てわかると思うのだが。
「……少し読んでから、面白そうか言いましょうか?」
あまりにも彼ががっかりしたので、提案してみる。フェリクスさんって、見かけによらず本好きなんだね。
フェリクスさんは、嬉しそうに目を輝かせた。
「うん、そーしてほしいな」
「わかりました」
うなずいて、私は本に目を落とした。
主人公の男の子が桜の妖精に出会い、恋をする話らしい。よくあるような話で、目新しさは全くないのだが……描写がすごく丁寧なため、話に惹きこまれる。次にどうなるのか、なんて考えも浮かばず、私はただ文を目で追っていった。
予鈴の鳴る音に、はっと顔を上げる。
まだ数秒しか経っていない気がするのに、十分が経っていたようだ。
……この本の作者さん、すごい。これを読み終わったら、この人の他の本も読んでみなきゃ。
「どうだった?」
そういえば、フェリクスさんに感想を言うんだった。彼がいたことさえ忘れていた。こんなに本に集中したのは、いつぶりだろう?
少し考えてから、短い感想を口にする。
「よくある話ですが、描写が丁寧なので惹きこまれます。読んだほうがいいと思います」
「面白かったってこと?」
「とっても。ここまで本に集中したのは、久しぶりです」
勢いよくうなずくと、フェリクスさんはうつむいて口元を押さえた。……笑われてる? いや、笑うというより、にやけているような。嬉しくてたまらない、という感じだ。
「……そろそろ教室戻ったほうがいーんじゃない?」
「そうですが……どうかしましたか?」
尋ねると、フェリクスさんはまだ少しにやけながら答えた。
「何でもないよ」
何でもないようには見えない。しかしこれ以上訊くのは、親しいわけでもないのに失礼だろう。
そう思って、私は立ち上がった。お弁当と本をしっかりと持って、フェリクスさんにぺこりとお辞儀をする。
「それでは、また魔法学の授業で」
「うんうん」
やっぱり、何だかさっきより機嫌いいよね?
不思議に思いながらも、その場を後にする。本の続きが気になるし、別にフェリクスさんのことは気にしなくてもいいだろう。
帰ったら、この本を読みきろうかな。
本の続きを考えながら歩いていたら、道に迷ってしまったのは……誰にも言わないでおこう。




