69 最後の未練と石月千湖との決別
お母様が亡くなったとき、姉様はとてもショックを受けていた。
お母様のご存命中も姉様は私に話しかけてきたが、亡くなった後にその必死さが増したのは、他でもないお母様に言われたからだろう。この子と仲良くね、と。うっすらとそんな記憶がある。お姉ちゃんは妹を守るもの、と姉様が認識していたのも、もしかしたらお母様が原因だったのかもしれない。
どんな理由であれ、姉様が私を救ってくれたのは確かだ。姉様がいなければ、あのまま私は死んでいただろう。
だから。
全身を伝う汗、吐き気、目眩、そんなものは無視する。そろそろ私の魔力も五分の一は切ったな、という判断基準にする程度だ。
集中を切らさないように、ゆっくりとした呼吸を意識しながら魔力を操作する。……あとどのくらいかかるのかな。ふと浮かんでしまった疑問は振り払って、足にぐっと力を入れる。
姉様がいなければ死んでいた。それなら、姉様のためにならいつ死んだっていい。姉様のために死ねるのなら本望とさえ言えるのだ。
姉様は悲しむだろう。だけど、いつかきっと笑えるはずだ。セルジュ先生と結ばれて、幸せそうに。私が守りたかった笑顔で。――そこに私は、必要ない。私がいなくても、姉様は絶対に幸せになれる。
だって元々、私はいないんだから。この世界に、私は必要ない。私がいなくなったところで、何も変わらないのだ。
だから、
「姉様のために……」
姉様のために、姉様の幸せのために死ねるのなら、私は幸せ、なのに。
なのに、魔力が乱れ始める。視界が滲む。汗とは違うものが、頬を伝う。嫌だ嫌だと、心のどこかがうるさくひっきりなしに悲鳴を上げていた。
集中しろ。私が失敗すれば、この世界は崩壊する。そしたら、何もかもがなくなってしまうのだから。姉様が幸せになれなくなってしまうんだから。
集中、しろ。思い出すな。姉様のことだけ、考え、なきゃ。嫌なんかじゃない。私が望んだことじゃないか。大好きな姉様のために、私が選んだことじゃないか。
集中……しろ。この選択が間違っているはずがない。私はただ、続いていくこの世界で姉様が幸せに過ごせることを願えばいいのだ。
集中しろ。
姉様の気の抜けるような笑顔、嬉しそうな笑顔、照れたような笑顔、きらきらとした笑顔、泣き顔、心配顔、怒った顔、拗ねた顔、寂しそうな顔、困り顔、落ち込んだ顔、微笑ましく見つめてくる顔、驚いた顔、安心しきった顔、わくわくした顔、真剣な顔、自慢げな顔、最後の泣きながら無理やり笑った顔――。
魔力を制御しながら、色んな表情を思い浮かべる。
十年以上、姉様の隣にいた。もう十分だ。姉様に、たくさん幸せをもらった。一度死んだ身でこんな幸せを味わえたのだから、これ以上自分の幸せを望むのは贅沢というものだ。
未練なんてない。この涙はただの、魔力切れの症状。
目をぎゅっとつぶって、姉様のことだけを考えて、必死に体内の魔力に意識を向ける。それでも魔力の乱れは直らない。
駄目だ、このままだと駄目だ。これじゃあ本来より早く魔力が尽きてしまう。集中しろ集中しろ、集中しろ。私の役目を忘れるな。
姉様、姉様を、幸せに、
マリーちゃんたちの楽しそうな声――思い出すな。
「姉様」
意地っ張りなところがあるけど、優しくて、頼りになるヘルガ――だめ。
「……姉様」
随分と柔らかい表情を浮かべるようになったテランス君――だめ、だめ!
「姉様、ねえさま」
こちらを馬鹿にしたように笑うシャルル先輩――だから、だめなんだって!
「姉様!」
そう思うのに、姉様のことだけを考えようと思うのに、次から次へと違うことが頭をよぎる。
ヘルガを愛しそうに見つめたフェリクスさん、姉様の好きなところを語ってくださったセルジュ先生、セルジュ先生のことになると可愛くなるラウナ先生、私のことをさくらと優しく呼ぶミミル先輩、シャルル先輩やアル様のことを夢中で話していたカレン様、あの女の子と幸せそうに笑っていたルカ君、子守唄を歌ってくれたベル、優しい父様、母様。
そして――エリク。
考えちゃ駄目だ。絶対に駄目だ、エリクのことだけは考えちゃいけない。けれど、そう思うほどに頭の中がエリクで埋まっていく。ああ、だめ、だめだ。
ぎり、と歯を食いしばる。
私は! 私は……死にたくない、と思うわけには、いかないのだ。
だから頭の中から必死にエリクを追い出して、姉様のことだけを思った。姉様の表情を、声を、言葉を、体温を、においを。
「姉様、姉様、ねえさま……ねえさ、ま、おねえちゃん、姉様」
『セレネ』
エリクの、声。
「――っ」
……無理、だった。
私を呼ぶ声が耳に蘇るだけで、立っていられなくなりそうなくらい体の力が抜ける。それでも、気力で立ち続けた。まだ倒れるわけにはいかない、まだ、終わっていない。
まだだ、まだ、まだ!
ぐらんぐらんとふらつきそうになる足を叱咤し、歯を食いしばる。
涙でいっぱいのはずの視界は、かすんでほとんど見えなくなってきていた。残り魔力はおそらく、十分の一ほど。総量が総量なので、それでもかなりの量だが……こんな調子ではすぐにでも尽きてしまうだろう。
もういっそ、考えるな、と思うのをやめようか。そうすれば少しは乱れも治まるかもしれない。
視界はかすんでいたが、目はしっかりと開けて深呼吸をする。呼吸に合わせて、そして鼓動に合わせて、頭が割れるように痛んだ。口元に上がってきた何かを無理やり飲み込む。
私がエリクを好きになったのは、この世界がゲームだと気づくより前。だから気持ちを捨てられなかったのだ。
エリクが姉様と結ばれる可能性があるのなら、私は最初からエリクを好きになってはいけなかった。いや、今でも、好きでいちゃいけない。
乙女ゲームとはキャラとの『恋愛』を扱った物語だ、と私は認識している。結局一度もプレイしなかったから合っているかはわからないが……。本来物語に存在しない私が、そんなゲームの根幹とも呼べる部分に、少しでも関わっていいはずがない。
それでもぎりぎりまで好きでいようとしたのは、私にとってエリクがほんの少し特別だったから。姉様とは違う『特別』だけど、確かにちょっと特別で。
……無意味な意地を張るのはやめよう。少しではなく、とても特別だった。
そして、エリクへの感情は私のものであると同時に、確かに私のものでもあったから、好きでいたいと願ってしまったのだ。
私の最期くらい、私の感情なんて捨てて、姉様のことだけを考えていたかった。ままならないなぁ、なんて自嘲する。皮肉なことに、必死に思いを殺していた先ほどよりも、魔力は明らかに落ち着いてきていた。
好きなんだ。私は、エリクのことが好きなんだ。ずっとずっと好きだった。姉様の次に、私を救ってくれた人だった。私のことも、私のことも、救ってくれた人だった。だからすごく、特別で。大好きで大好きで――好きだと、伝えたかった。
心残りがなくなったなんて、嘘だ。だってあんなの告白でも何でもない。相手に伝わらなければ、告白にはなりえない。
「月が、綺麗ですね」
ぽつりとつぶやいてみる。掠れた、自分の耳にさえ上手く届かない声。口の中で血の味がした。何かがこみあがってきて、激しく咳き込む。ただの反射のようなもので、苦しいとはあまり思わなかった。そんな感覚さえ薄れてきている。
月が綺麗ですね。
伝わらない告白に、何の意味がある?
どんな形でもエリクに好きだと言えたことに変わりはない、なんて。
そんなの、自分をごまかしただけだった。
魔力を注ぎ続けながら、私はそうっと左手の腕時計に目をやった。かすんで、その輪郭を掴むことはできないけれど、その形を思い浮かべることはできる。
白い時計に埋め込まれた、金と青の小さな石。今気づいたけれど、まるで私とエリクの色みたいだ。そう思ってしまって、少しだけ笑いそうになった。……未練たらたら、じゃないか。
「――好きだったよ、エリク」
誰もいないこの場所でしか、口にできない言葉。
未練だ。心残りだ。そう思うのに、なぜか魔力は完全に安定した。
……色んな人たちの顔が思い浮かぶのは変わらない。でももう、嫌だ、とは思わなかった。怖くない。大丈夫。死にたくないけど、耐えられる。姉様のため、大好きな皆のためなら。
姉様は……約束を破る私のことを、嫌いになるかな。
嫌われたくないなぁ。でも嫌いになってくれたほうがいいのかもしれない。そのほうが、私のことを早く忘れられるだろう。
……忘れられたく、ないなぁ。
私がここに来てから、どれくらい経っただろうか。時間の感覚はとっくになくなっていた。
けれど、あんなにあった魔力は底をつきそうで、それだけ長い時間が経ったのだということだけはわかる。たった数日じゃないことは確かだ。
ルナ様は綻びをどのくらい直しただろう? 間に合う、だろうか。……いや、間に合わせなくてはいけない。少しでも、ほんの少しでも長く、時間を稼がなくてはいけない。でも魔力が足りない、もうなくなる、いやだ、嫌だ嫌だまだ私はやれる、絞り出せ、私はどうなったっていい、だから、だから!
涙が頬を伝っていく感覚が、ぼんやりとした。
……尽きる、尽きてしまう。魔力がなくなる。あとすこし、あと、どのくらい?
私はこの世界を――姉様を、助けられないんだろうか。
頭痛でもうまともな思考ができなかったが、それだけが怖かった。早く早く、とルナ様に願う。せめて姉様だけでも救ってください、お願いします。ああでも、姉様はひとりぼっちになんて耐えられない。だからやっぱり、この世界を、どうか、お願いします。おねがいします、かみさま。どうか。
「――……ねえさ、ま」
ふ、と遠くなる意識に絶望して。
球に伸ばした手は、もうどこにも届かなくて。
平衡感覚がぐにゃりと崩れ――まぶたを閉じたその瞬間、誰かに抱きとめられた気がした。
* * *
黒目黒髪の、平凡な少女。
白い空間にぽつりと立っているその子は、私を見て呆れたように笑った。
「君はもう、私じゃないよ」
――そうだった、と思う。私は、こんな声をしていたのだ。こんな顔をしていたのだ。すっかり忘れていた。
十六年ぶりに会ったその少女は、私だった。
なのに少女は、私が私じゃないと言う。
「私じゃ、ないの?」
「君の名前は?」
「私の、名前」
あれ。なんだっけ。
なぜか咄嗟に出てこなくて目を瞬けば、少女は呆れの色を濃くする。その意味が知りたくて私が一歩近づくと、彼女は一歩下がった。……そうか、これ以上近づいてはいけないのか。
少女はもう一つ、質問をしてきた。
「私の名前はわかる?」
「……石月千湖」
「うん、私は石月千湖。もし君が私のままなら、君の名前を訊いたときにも答えられたはずでしょ」
はっとする。
黒い瞳が、私を見つめてくる。
「ディアナに救われたのも、エリクに救われたのも、私じゃなくて君。ディアナのことを好きなのも、エリクのことを好きなのも、私じゃなくて君だよ――セレネ」
彼女が呼んだ、その名前は、
「でも、」
「でもじゃない」
「だって、」
「だってじゃない」
少女は一歩、私から遠ざかった。たったそれだけで、彼女の顔がぼんやりとわからなくなる。
「いい加減、自分のことを私だと思うのはやめなよ」
やめなよ、と言われても、どうすればいいというのか。
石月千湖と私は同一の存在のはずだ。そうじゃないとこの記憶は……この、記憶、は……?
「あ」
記憶が、ほとんどない。石月千湖という名前の人間だったこと、車に轢かれて死んだこと、茜という友達がいたこと、彼女から乙女ゲームを勧められたこと……この世界が、その乙女ゲームの世界だったこと。あとはゲームに関する茜とのやりとりをいくつか覚えているくらいで、私自身に関する記憶はほとんどなかった。
いつからだ、と心臓が冷える。
いつかは覚えていられなくなるだろう、と思っていた。でも、石月千湖としての大事な思い出くらいは覚えていられるとも思っていたのだ。……なのに、今の私は。そんな思い出を、何一つ思い出せない。いつ忘れ去ったのか、わからないくらいに。
「でも昔、姉様は私のことを千湖って呼んでくれて、」
だから私が、石月千湖だったのは事実のはずなのだ。しばらくそう呼んでほしいと頼んだ私に不思議そうにしながらも、姉様は『チコ』と呼んでくれた。私が、もういいです、と言うまでの数日の間だけだったけれど。
「今は、今の君の話をしてるんだよ」
少女は淡々と言う。また一歩、遠ざかった。ノイズがかかったように、声が聞き取りづらくなる。彼女は今、どんな表情をしているんだろう。
「君はもう、私じゃない」
「どうして」
「あー、我ながらめちゃくちゃめんどくさいなぁ」
「……知ってるよ」
我ながら、なんて言ってるのに、私は私じゃないと言うのか。
「知ってるだけじゃ駄目なのも、ほんとはわかってるでしょ」
わからない。わかんないよ。
なんで今更、私は石月千湖と話しているんだろう。ここはどこ? そもそも私は何をして、た……っ「姉様!」叫んで、慌てて辺りを見回す。そうだ、姉様は、世界は、どうなった?
ここがどこかはわからないけれど、私の意識があるということは私は生きているということで……つまり、世界は存続している? いやでももしここがあの世界と切り離された場所だとしたら、そうじゃない可能性もある。
「やっぱり私に私は説得できないか……ほら、もう行きなよ」
顔は見えないが、彼女が微笑んだ、ように感じた。
行くって、どこへ。
困惑する私に、少女は「帰りなよってこと」と言い直した。帰る。……姉様のところに? 帰れる、のだろうか。だとしたらやっぱり、私の時間稼ぎは成功した? そして運良く……私は生き残った、のだろうか。
帰れる。帰れる? ――姉様との約束を守れる?
行かなくちゃ、と思った。こんなところにいる場合じゃない。早く姉様に会いたい。会って、泣かせたことを、嘘をつかせてしまったことを、謝らなくちゃ。
そんな私に、少女は……見慣れていたはずの懐かしい彼女は、手を振ってきた。
「ばいばい、セレネ」
「……うん。じゃあね、千湖」




