40 あの日の記憶と繋いだ手の熱
花火が終わったら、夏休みが終わるのもあっという間だった。姉様の話では、ヘルガとフェリクスさんは、ヘルガがまだ一方的に無愛想な態度を取っているらしい。……早く解決すればいいなぁ。
私はといえば、無事魔法陣の課題まで提出できたのはいいが、寝不足でこのごろ体調が悪かった。別に課題にのめりこみすぎたわけじゃないよ? 結局、あまりオリジナル要素を入れられなかったし……。得意の風魔法で頑張ってみたが、風に色をつけてくるくると旋回させるのが精一杯だった。魔法コンクールまでにもっとイメージ力を鍛えておかなければ。
それで、なぜ寝不足かというと、だが。
実を言うと、私もいまいち理由がわからない。暑くて寝苦しいから、だとは思うのだが、室内は魔法によって快適な温度に保たれているのだ。寝苦しくはない、はずなのだけど。
三日ほど前から、目をつぶっていてもなぜか寝付けない。元々寝つきはいいほうではないが、それでも数十分もあれば眠りに落ちることができるのが常だった。
今日もまた寝れないのかな、と憂鬱な気分でベッドに入る。蜂蜜入りの温かいミルクを飲んでみたが、効果は出るだろうか。
さあ寝よう、と目をつぶったところで、トントン、と控えめにドアがノックされた。
……こんな時間に誰だろう? 姉様ならたぶん、もう寝ているだろう。だとすれば母様か父様か……ベル、くらい?
はい、と返事をしながら立ち上がり、部屋の電気をつける。
「……こんな時間に申し訳ございません。ベルでございます」
「ベル? 入っていいよ」
入室を許可すると、静かにドアが開く。
入ってきたベルの顔を見て――ようやく、寝付けなかった理由に気づいた。否、思い出した。
「……どうしたの?」
形式的に問えば、ベルが優しく微笑む。
「今年はもう必要ないかとも思いましたが、そろそろお顔の色がすぐれなくなってきましたので」
「そう、だね。最近楽しくて、自分でも忘れてた」
言外に、よく覚えてたね、と言った私に、ベルは「姫様のことですから」とさらりと答える。そこが彼女のすごいところだ。私以上に私のことをわかっているんじゃないか、とまで思ってしまう。
もう九月に入ったが、まだまだ暑い。
九月の、ことだった。暑い日だった。九月だというのに、三十五度を超えていた。じっとりと汗をかいていたのを、よく覚えている。アスファルトの熱気に顔をしかめながら、通学路を歩いていた。
暑かった。目に汗が入って、苛立って、立ち止まって、ハンカチを取り出した。
辺りから起こる悲鳴、近づいてくるエンジン音、そして振り返って。
ぶつり、記憶が途切れる。
「昔から姫様は、毎年この時期は寝不足になられますよね」
その理由を、ベルは知らない。
言えるわけがないのだ。もうすぐ、私が死んだ日だから、なんて。
私が死んだのは、九月六日。茜の誕生日の次の日だったから、覚えている――まだ、覚えている。ちょっと忘れていただけ。
「ベルには敵わないなぁ」
これでも、いつも以上に気を張って姉様とエリクには不調を隠していた。不調の原因はわかっていなくとも、そうしなければならないと思ったから。
……うん、正解、だったな。
気づけばぽろぽろと涙が零れ出していた。声は、出さない。それでもしゃくり上げるとき、ひっ、と喉が引き攣った。
私は死んだ。死んでしまった。大丈夫、覚えている、覚えてる。だからまだ、私は死んでない。たぶん、きっと、死んでいないはずなのだ。わからない、死んでしまったんだろうか。死んでしまったんだろう。いや、死んでいない。ちがう、死んだ、死んだのだ。
意識してしまうと、頭の中がぐしゃぐしゃになった。
ベッドに戻って、膝を抱える。顔を膝に押し付けて、涙を服に吸わせる。
「べる……」
「はい姫様。ベルは、ここに」
暖かな声とともに、ベルがベッド際の椅子に座る気配がする。
「僭越ながら、私めが歌わせていただきますね」
昔、ベルによく歌ってもらっていた。まだ私が私を認識できていなかったころ。今だって、認識できているのかどうか怪しいけれど。
小さく始まる子守唄。静かに静かに、澄んだ声で。――ねんねんころりよ、それは確か江戸時代に作られた子守唄のはずで、どうしてこの世界にもあるのかはわからない。わからないが、それでもよかった。
この世界にいる私を、私は受け入れていたはずだった。
大事なものが増えて、前の世界のことをどんどん忘れていって。寂しくはあるけど怖くはないと、そう思っていた。本気で思っていたつもりだった。
だって私は、ちゃんと受け入れた、はずだったから。
でも私は、私のことを理解できていなかったのだろう。もう大丈夫だと思い込んでいただけだった。――大丈夫なんかじゃ、なかったのだ。
怖い、なぁ。
一年ぶりに聞く子守唄が、身体に染み渡っていく。自然と、立てていた膝が伸び、身体がぱたりとベッドに倒れこむ。つう、と冷たいものが頬を伝って、耳まで達する。それを拭うこともなく、目を閉じた。
ここが現実だと、姉様が教えてくれた。せれねせれねと無邪気に私を呼んで、私が何も反応を返さなくても、それでもめげずに話しかけてくれた。
『うっ、うわああああん、せ、せれ、ね、ぅぅああああん!』
ぱっと、泣きじゃくる幼い姉様が頭に蘇る。人形のように整った顔をぐしゃぐしゃにして、姉様は泣いたのだ。
……あのときぶたれた頬の痛みを、今でもはっきり思い出せる。
子守唄が静かに響いている。
眠りに落ちていくなか、「おやすみなさいませ」とベルに頭をなでられるのを感じた。
* * *
翌朝目が覚めると、蒸しタオルを用意したベルが待機していた。……用意いいなぁ。ありがたく目を温めさせてもらってから、鏡を見る。よし、大丈夫。ひどい顔になっていたらどうしようと思ったが、やっぱり泣いていた時間が短かったのがよかった。
いつもは一人で行う身支度をベルにほとんどやってもらって、城内の魔法訓練場に向かう。
すでにいたエリクが私を見て、「おはよう」と微笑んでくれた。おはようと返す前に、ほんの少し眉をひそめられる。……気づかれ、た?
「おはよう、エリク」
「……」
無言でじっと見つめてくるエリクに、徐々に自分の笑顔が剥がされていくのがわかった。やっぱり、眠れなかった原因を自覚してしまったのが駄目だったのかもしれない。
去年までなら、この時期の不調は誤魔化せていた。
でも、誤魔化せなくなって、しまった。
何でもないよ、大丈夫だよ。
訊かれてもいないのに、そんなこと言えるわけがない。
「――しょうがないなぁ、セレネは」
うつむいていると、ふっと笑われた。そしてエリクは私の右手を取る。優しく触れてくるエリクの手は、ひんやりと冷たかった。
何が、しょうがないの。わかったようなこと言わないで。こんなときに優しくしないで。
そんな、わがままで最低なことを思ってしまう。
「今日の訓練は中止にしよう。そうだな、庭園に行こうか。この時間なら涼しくて、花を純粋に楽しめるんじゃない? 最近本当に暑いよね」
軽く私の手を引き、そのままエリクは歩き出す。自然と手を繋ぐ形になったが、振り払えず、ついていくことしかできなかった。前を行くエリクに気づかれないように、一度ぎゅっと目をつぶる。もう泣いちゃ駄目。昨日泣いたんだから。今泣いたら、少なくとも朝食のときには泣いた跡が絶対残ってしまう。姉様にだけは、私が泣いたことを知られたくなかった。
泣くな泣くなと思うほどに、涙がじんわりと出てくる。せめてそれがこぼれないよう、ぼやけた視界のまま前だけを見る。
華奢で、それでいてしっかりと鍛えられているとわかる、エリクの後姿。
「僕は今、何も見てないし、何も聞こえない」
風が巻き上がる。透明な薄い膜のようなものが、私とエリクを隔てる。実際にそこに膜があるわけではないが、魔力の感覚として。
エリク、と声に出して名前を呼んでみると、反応はなかった。聞こえないふりをしている可能性もある、けど。……きっとこの魔法は、私の声も姿も、エリクに知覚できなくなる魔法。繋いだ手だけがかろうじてわかる、くらいだろう。
「……ありがと」
でもやっぱり、泣いたら駄目だ。
「エリク。エリク」
どうせ聞こえないなら、と何度も名前を呼ぶ。
言ってしまおうか。聞こえないのなら、言ってもいいだろうか。エリクのことが好きなんだと。
――それも駄目、だな。
「エリク、いつもありがとう」
口に出してから、後でちゃんと言い直そう、と思う。
好きだという言葉が零れてしまわないように、そんな隙もないように、名前を呼んでありがとうを伝え続ける。
庭園に着いて、きゅっと手に力を入れられた。魔法を解くよ、という合図だろう。
握り返せば、魔力の膜がふわりとほどけた。ようやく振り返ったエリクが、また私の顔をじっと見つめる。
「……うん、ちょっとはよくなったかな」
「ちょっと、かな?」
「今からなら、頑張ればディアナに気づかれないんじゃない?」
つまりは、今のままだと姉様に確実に気づかれてしまうということだろう。
深呼吸をすると、花の香りを強く感じた。狐の別荘の温室もそれはそれは見事で、ヴァイリィの匂いも素敵だったのだが、私には少し甘すぎた。この庭園の花のような、清涼感のある、とでもいえばいいのだろうか。そういう匂いのほうが私は好きだ。
そのまま呼吸を繰り返して、気持ちを落ち着かせる。自室で一人でこうするよりもよっぽどいい。連れてきてくれたエリクにまた感謝したところで、あれ、と思う。
……手、繋いだままなんだけど。
え、っと。どう、すればいいんだろう。気づいてしまったからには思いきり振り払って、エリクと距離をとりたい……!
たぶんそれを実行しても、エリクは苦笑ひとつで許してくれるだろう。でも、それって本当に最悪だよね? エリクは私のことを心配して連れてきてくれたわけだし、手を繋いだのは、あの魔法を使っても私の場所がわかるように仕方なく、だし。
だからもう繋いでる必要はないのだが、エリクはわかっているんだろうか。
繋いでいるのが嫌、というわけではないが、嫌だった。そこは複雑な乙女心というやつで。
おそるおそる口を開いて、うつむきがちに視線だけをエリクの顔に向ける。
「……あの、エリク」
うん? と首をかしげるエリクに、「手」と一言訴える。目を瞬いたエリクは、繋がれた手に視線を落とした。やっぱり、繋いでいること自体忘れていたらしい。
「あー……」
放してくれるのかと思いきや、エリクは困ったように微笑む。
「もうちょっと」
何がだ。どきどきしてしまうから、できるだけ早く放してほしいのに!
徐々に上がっていく体温に、エリクに気づかれませんように、とひたすら願うしかない。繋いでいるのだし季節的にも手汗は許されるとは思うのだが、しかし相手がエリクだというのが嫌だ。これが姉様だったら、暑いですね、と普通に笑い合えるのに。
もうちょっとってどれくらいだろう。
早く放して! という気持ちを込めてエリクを軽く睨みつけると、慌てたように弁明される。
「だってこうしてたほうが、セレネも落ち着くよね? 顔色もよくなってるし」
そう言われてしまうと、もう何も言い返せない。顔色よくなってるっていうか、たぶんそれただ赤くなってるだけだよ!
ううう、と唸りたいのを我慢して、せわしなく視線を動かす。花、花を見よう。手に意識を向けちゃ駄目だ。うん、おはなきれい。
「……そろそろ、姉様が起きる頃だと思うんだけど」
「そうだね」
「訓練場にいなかったら、私たちのこと探し回っちゃうよ」
朝練が長引いたときには、姉様が訓練場まで来てくださるのだ。私はそれから自室に戻って着替えて、となるので、姉様をお待たせすることになって申し訳ない。だから基本的には、姉様が起きる前に着替えまで済ませて、姉様を迎えにいき一緒に食堂へ向かうのだ。
もうこの時間だと着替える時間まではないが、せめて訓練場には戻っておきたい。
「……うん」
「うんじゃなくて、戻ろう?」
「うん」
「エリク?」
「……わかった」
名残惜しげに庭園の花々に目をやったエリクは、また私の手を引いて歩き出した。は、放してはくれないんだ……。
先ほどまでひんやりとしていたエリクの手は、いつの間にか熱くなっていた。いや、これは私の熱を移してしまったんだろうか……?
今日のエリクはいったいどうしたんだろう。そりゃあ、私だって今日は普通じゃなかったから、人のことを言えないんだけど。
結局訓練場に戻るまでそのままだったので、姉様が来る前にぐいっと無理やり放してもらったのだった。
* * *
夏休みが終わったということは、もうすぐ期末テストがあるということである。魔法学院は二学期制なので、定期テストは六月、九月、十二月、三月の年四回だ。
次のテストまであと一週間と少し。ということで、昼休みはCクラスで姉様とヘルガと勉強会をすることにした。夏休みに勉強から離れていたとはいえ、私と姉様は補習に来ていたし、ヘルガは家でちゃんと勉強していたらしい。さすがだ。
エリクはというと、いつものように友達と食堂に行っている。……前回のテスト勉強もエリクは一緒じゃなかったから、たぶんこうなるだろうなとは思っていたが、よかったぁ。朝のやり取りの後からなんとなく気まずくて、顔を合わせづらかったのだ。登校時には姉様に、懸念していた意味とは別の意味での「何かあったの?」を訊かれてしまった。何でもないですとは答えておいたが、たぶん信じてはいないだろう。
「……ヘルガ、ここってこの公式で合ってる?」
「どれ? ……ああ、合ってるわよ」
「じゃあこれは、ここの値をこうして、こっちをこうすればいい?」
「そうそう。なんだ、ちゃんと解けるようになってるじゃない」
ヘルガが感心したように言う。彼女の言うとおり、夏の補習によって姉様が突っかかる問題はかなり減っていた。前回のテストの反省を活かし、きちんと授業の復習をその日のうちにやっていたおかげもあるだろう。
えへへ、と照れたように笑う姉様は、また難しい顔をして数学のワークに向かった。
さて私も、歴史の暗記を進めよう。
周りのざわめきを聞きながら、しばらく三人で勉強をしていたのだけど。……どうにも視界の隅のフェリクスさんが気になってしまう。
普段、昼休みにフェリクスさんが教室にいることは滅多にないんだけどな。
五分に一回くらいこちらをちらりと窺っているのも気になる。……ヘルガは全くフェリクスさんのほうを見ないけど。やっぱりまだ、二人の仲はぎすぎすしているようだ。いや、ぎすぎすは大げさか。ヘルガが一方的に、なんだし。
仲、といえば。
一昨日届いたカレン様からの手紙に、最近婚約者さんがなぜかよそよそしいと書いてあったな。まだカレン様とそれほどやり取りをしたわけではないが、今までにカレン様から聞いたお話と、狐と同い年である婚約者さんとの年の差から、妹のように見られていたというのは察しがつく。
しかし、カレン様は可愛らしくもあるが大人っぽく、凛とした方だ。きっとカレン様のことを女性として意識し始めてしまったのでは、とお返事を出しておいた。私が言っていいものか、とも思ったんだけど、お手紙からもカレン様がとても落ち込んでいるのが伝わってきたから。仕方ないよね?
カレン様と婚約者さんの仲は、直に元に戻る……いや、きっと発展するだろう。
ヘルガとフェリクスさんも、そうなればいいのになぁ。
……いけない、まったく関係ないことにまで思考を飛ばしてしまった。テストが近いんだし、集中しなくては。
しかしそこで、エリクが教室に戻ってきてしまった。エリクの姿を見てびくりと体を強張らせる私に、姉様がワークから顔を上げる。そしてエリクに気づき、納得したような表情を浮かべた。
友達と話しているエリクは、こちらに目を向けない。そのことに安堵して、ほっと息を漏らした。
「……セレネ、顔が赤いようだけど、どうかしたの?」
「へっ!? い、いえ、何でもありませんよ!」
ヘルガの問いに思わず大きな声を出してしまったせいで、エリクがこちらを見る。視線が合ってしまって、ばっと勢いよく逸らす。
……うぅぅ、放課後までには何とかしなくちゃ。二人で姉様を待つことになるんだし。
でもどうしたって、『もうちょっと』と困ったように微笑んだエリクの顔や、繋いだ手の大きさなんかを思い出して。あーもう、と頭を抱えたくなる。
暗記、暗記だ。歴史の単語で頭を埋め尽くしてしまえばいい。
そんな努力もむなしく、結局放課後になってもエリクとまともに話せず、苦笑いされてしまったのだった。




