30 優先順位と例え話
七月になった。今月は特に行事もなく、八月から始まる夏休みを待つだけである。
……夏休みって響き、懐かしいなぁ。前の世界ではわくわくしてたけど、今はそうでもない。どうせあまり自由に遊べないだろうし。まあちょっとくらいなら父様も許してくれるとは思うから、それを楽しみにしようとは思ってる。マリーちゃんたちと遊べたらいいなぁ。(わくわく)
う、前言撤回、普通にわくわくしてます。
本のページをめくる。
今日も図書室で姉様を待っているのだ。本音を言えば、この時間を魔法の練習に使いたいんだけど……姉様の魔法が暴走したら危険ということで、魔法訓練場の大部分が立ち入り禁止になっている。残りのスペースには放課後の練習を申請した数名がいるし、学院内で魔法の練習ができる場所はないんだよね。
城に帰れば思う存分練習できるが、姉様も私も、エリクが一緒じゃない登下校は駄目だと言われている。
……今更だけど、エリクが体調崩して学院を休まなくちゃいけなくなったとき、私たちはどうすればいいんだろう? 他の護衛さんたちがついてきてくれるのかなぁ。
なんだかなかなか本に集中できず、ぱたりと閉じる。考えてばかりだったけど、時間は結構経っていたようだ。姉様を迎えに行くまで後十分くらいだった。
うーん、何しよう。本に集中できる気がしないんだよね。
少し考えてから、ふと隣の隣の席にいるエリクに視線を向ければ、黙々と本を読んでいた。そういえばエリクはどういう本を読んでるんだろう。恋愛小説はよくわからないと言っていたから、違うジャンルなんだろうけど。
ついじっと見てしまうと、エリクは本から顔を上げてこちらを見た。
「どうしたの?」
「な、何でもない!」
小声でこそこそ話すと、「そう?」と言ってまた本に目を落とす。
集中してたように見えたのに、視線に気づくんだなぁ。いや、エリクだから気づいて当然って感じもするけど。
どうせ気づかれてしまったなら、堂々と見ていていいだろうか。本を読んでいてくれれば、視線が合わないからずっと見ていても恥ずかしくない。
私の視線に居心地悪そうにしながらも、エリクは本を読み続ける。ページをめくる速度は遅く、ちょっと意外に感じた。
それにしても……やっぱり美少女だなぁ。
改めてそう感じる。よく見れば骨格や筋肉は男の子だとわかるけど、それでも。
うぅ、まつげなっがーい。金色の髪の毛はさらさらふわふわで、天使の輪っかができている。見ていたら少し触りたくなってしまった。澄んだ青い目は大きく、鼻も唇も綺麗、肌もすべすべ……なのだけど。
体には剣で受けた傷とかがあるのは知っている。手だって綺麗だけど、その『綺麗』は剣を持つ手として見た場合。
だから、よく見ればよく見るほど、女の子には見えないのだ。ぱっと見は完全な美少女ではあるのだけど。
……これからもっと男の子っぽくなるんだろうなぁ。そう思うとちょっぴり残念だ。美少女ネタでいじるのが好きだった、というか、他にいじれることがないのに。背も入学当初より少し伸びているし、どんどん伸びるんじゃないだろうか。
なんだか寂しいな、と感じる。なぜ寂しいのかは上手く説明できないけど。
エリクが本を閉じた。
「……そろそろ行こっか」
「あ、そうだね」
二人で立ち上がり、それぞれ読んでいた本を元の場所に戻しに行く。今日読んでいた本は、別に借りなくてもいいかなという感じだった。
図書室から出ると、一気に周りの音が大きくなった気がした。放課後で人は少ないから、この感覚はただの気のせいなのだろうけど。
うーん、と少し伸びをすると、エリクが疲れたように口を開いた。
「今日は何だったの、最後のほうずっと僕を見てたけど」
「そういう気分だっただけだよ。あ、見てて気づいたけど、意外とエリクって本読むの遅いんだね」
「……あんなに見られてて、普通に読めると思う?」
「……なるほど」
居心地悪そうだったし、集中できていなかったんだろう。
悪いことをしちゃったなぁと思いつつ、適当な会話をしながら魔法訓練場へ向かう。
エリクとの二人きりの時間にも、もう大分慣れた。緊張は……まだちょっぴりするけど、本当にちょっぴりだ。これくらいの緊張は、好きな人と一緒にいるときには普通のことだろう。
「そういえばエリク、結局私だけ仲間はずれにしたのって何でだったの?」
なんとなく思い出して、そんな質問をしてみる。そろそろこの話題を出しても平気だよね。
エリクは訝しげに首をかしげた。
「仲間はずれ?」
ああ、これじゃあぴんと来ないか、と言い方を変える。
「クラスの話」
「……う、その話か」
少し嫌そうな顔をしたエリクに、私もむっとした表情を作る。
「今更って思ったでしょ。キャロットケーキで許したは許したけど、納得はしてないんだからね」
「うん、まあ、別に隠す必要はないことだからいいんだけど……」
「じゃあなんで今まで理由を言ってくれなかったの?」
「それは本当ごめん。なんかちょっと言いづらくってさ」
……私、嫌な女の子になってるような。うー、しつこいよね? 怒ってる感じになったけど、怒ってないんだよ。ただ純粋に理由を知りたいだけで。
もっとエリクが答えやすい訊き方にしたほうがよかったなぁ。むむっとこっそり眉をひそめながら、これ以上せかさないようにエリクの答えを待つ。
言いづらい、という言葉どおり、エリクはためらいがちに口を開いた。
「僕は厳密に言うと、ディアナの護衛でしょ?」
何を当たり前のことを、と今度は違う意味で、更に眉をひそめてしまう。
登下校中はまあ、一応姉様と私の護衛ということになっているが、普段は姉様の護衛なのだ。厳密に言わなくたって、そんなことはわかっている。……姉様の護衛の割に、姉様を守れていない気もするのだけど。でも、守られるだけなのは姉様も嫌がっているし、今まで姉様に大きな怪我がなかったしね。今のままでもいいのだろう。
「じゃあセレネの護衛は?」
続けられた言葉に、思わずぽかんとする。
「……え、いるの?」
「いるの」
「どこに?」
「ナタン」
あー、うん。なるほど? 言われてみれば?
最初のころはたまに声をかけてくれたし、姉様の魔法が暴走したときには助けようとしてくれていた気がするし……納得できないわけでもない、が。
……最近はもう全然関わりないよ? 私が学院生活に慣れたことや、危ない場面がないっていうのもあるだろうけど、それでも『護衛』と言われると。
「……えー?」
「ごめん。あいつも強いんだけど、なかなかその力を発揮できる機会がなくて」
「え、ナタンさんって強いの?」
「少なくともセレネよりは強い」
なんというか、ふーん、としか感想が言えない。もっと何か大きな理由があるんじゃないかと勝手に思っていたから、拍子抜けという感じだ。
「でも確かに、姉様の魔法が暴走したときにナタンさん焦ってたよね。私名前呼ばれたし」
「……僕もかなり焦ったよ。あの後ついナタンにきつく言っちゃったけど、悪いことした」
「後で話があるって言ってたの、そういうことだったんだ。焦ってた、っていうより、怒ってたよね」
あはは、とエリクは乾いた笑みを漏らした。
「今思えば、ナタンに怒れる立場じゃなかったんだけどね。ディアナの体調が悪そうだったのを知ってた分、僕のほうが君たちを守れる可能性は高かった」
「あ、そうだ、ナタンさんが護衛だったっていうのはわかったけどさ、私が姉様とエリクと違うクラスじゃなきゃ駄目だった理由は?」
また謝られる流れになりそうだったので、慌てて少し違う話題に変える。
いや、これも気になることだからさ。エリクが姉様の護衛で手一杯だとしても、姉様と私が同じクラスだったほうが護衛はしやすいはずだ。
「そもそも、ナタンさんが護衛ってこと、なんで私に言わなかったの?」
エリクが気まずそうに視線をさまよわせる。
……畳みかけてる感じになってしまった。怒ってるわけじゃないのに、これじゃ怒ってるみたい。もっと柔らかい言い方をしたほうがよかったよなぁ。でもエリクに対してどうやって柔らかい言い方すればいいんだろう。それがわからない時点で、私駄目なのかな……。
「えっとね、怒らないでほしいんだけど」
「……怒るような理由なの?」
「か、も?」
自信なさげにエリクは首をかしげた。
もしかして、今までの私の発言が怒ってるように聞こえたから、これ以上怒らないでねってことだったり? どういうことにしろ、とりあえず落ち着いて聞いてみよう。そう決めて、ちょっぴり緊張しながら待つ。
こちらを窺うようにして、エリクが口を開いた。
「僕はどうしても、セレネよりディアナを優先しちゃうから」
「うん」
つい反射的にうなずけば、「え、それだけ?」とエリクは驚いた顔をした。
……今のエリクの言葉は、まともに聞いてたらダメージがすっごく大きかった気がする。こう、普通に聞くことを脳が拒否した感じで、なんとなーくしかわからなかったけど。
それでもかなりショックだ。
わかっていたことだった。わかっていても、実際にその言葉を聞いて何も感じないか、は別の話だ。
これで怒るかもしれないと思われてたのか……泣くならまだしも、怒りはしないよ。姉様より私を優先すると言われたら怒っていただろうけど。……うっわ、私めんどくさ。
エリクは姉様の護衛で、なおかつ姉様のことが好きで。だから今のエリクの言葉は当然のことだし、納得もできるし、ショックを受けるなんておかしい。
「……ごめんね。でもセレネ、ディアナよりセレネを優先する、って言ったら怒るでしょ?」
困ったような笑みで、エリクは私の頭をぽんぽんとなでた。普段ならこういうとき、顔にも耳にも気を遣うが、今はどちらも気にする余裕がなかった。
「それは、そうだよ」
怒らないなんて、有り得ない。
でもきっと私は、喜んでしまうのだろう。だってそれは、エリクの中で姉様よりも私の存在のほうが大きいということだ。
姉様のことが誰より大好きなはずなのに、そんなことに喜んでいたら大好きなんて言えない……言ってはいけないのではないだろうか。
これ以上エリクと話していると、何かがぽろっと口からこぼれてしまいそうだった。
私の頭に置かれていたエリクの手を、そっとはずす。もう魔法訓練場に着くのだ、話を終わらせるにはちょうどいいだろう。
「……よし、この話はおしまいってことで。疑問だったことがようやくわかってすっきりした」
「セレネ、」
「もう着くし、姉様を待たせるわけにもいかないでしょ」
何か言いたそうな顔のまま、エリクは口を閉ざした。
謝らなくちゃいけないのは私のほうだったのに。ああ、本当自分が嫌になる。
姉様は私たちを見て何かあったことを察したようだったが、何も訊かずに今日の練習についてにこにこと話してくれた。とげとげしていた心が、少し癒された気がする。
大好きです、と言いたいところだけど。言っていいのかなぁ、と迷ってしまう気持ちがあるから、今はやめておこうと思った。
「それじゃあセレネ、またごはんのときにね!」
城に着くと、姉様はそう言って手を振った。もう片方の手で、エリクの腕をしっかり掴みながら。……え、姉様?
姉様はエリクを連れて、どこかの部屋へと向かっていった。どこか諦念を感じさせる表情で、エリクはそのまま引っ張られていく。
一人ぽつんと残された私は、仕方なく自室へ帰ることにした。方向音痴な私だが、それでも主要な部屋の場所はちゃんとわかる。……よく覚えていないところから戻れ、と言われたら無理だけど。でも城ってわざとそういう造りをしているんじゃなかったっけ。つまり私はおかしくないのだ。
姉様はエリクに何を言うつもりだろう。
歩きながら、ぼんやりと考える。たぶん私が落ち込んでいたことが原因だろうから、怒っているのかもしれない。うー、エリク本当ごめん……。
夕食の後、姉様の部屋に行こうかな。私から説明して、エリクは何も悪くないんですよ、と伝えておいたほうがいいよね。それで、明日の朝ちゃんとエリクに謝って。
そんなことを考えながら部屋に帰り、少しの間ぼーっとしていると、扉がノックされた。
「セレネ、いる?」
「姉様?」
またごはんのとき、と言っていたから、まさかこんなに早く訪ねてくるとは思っていなかった。
慌てて扉を開ければ、そこには笑顔の姉様が。……エリクはいない、か。笑顔は笑顔だけれど、そこはかとなく怒っているように感じた。
「どうぞ、入ってください」
急にごめんね、と謝りながら、姉様は部屋に入って椅子に座った。私が向かいの椅子に座るのを待って、姉様は話を始める。最初は、ふう、という小さなため息から。
「エリクがひどいこと言ったんだってね」
「いえ、そんなことは……エリクはただ、事実を言っただけですから」
「だとしても、言葉が足りないんだから『ひどい』ってことでいいの!」
むぅっと、姉様は少し頬を膨らませる。……大分お冠のようだ。
「エリクが何を言ったのか、っていうのしか聞いてないけど、たぶんね、エリクはセレネより私が大事、って言いたかったんじゃないと思うよ。たぶんというか、絶対」
よくわからなくて、曖昧にうなずくことしかできない。
私の反応を見て、姉様は「信じてないでしょー」と唇を尖らせた。
「セレネとエリクのことだったら、誰よりもわかってる自信があるんだよ。二人よりも二人のことをわかってるんじゃないかなぁ」
「でも……」
だって姉様は、エリクの気持ちに気づいていないではないですか。あんなにわかりやすく大事にされていて、それでもエリクの恋心に気づいていないのでしょう。
そう言いたくなった自分に、また落ち込む。こんなことを言ったって、姉様もエリクも傷つけることになるだけだ。
なんでもありませんと首を振れば、姉様は心配そうに私を見ながら話を続ける。
「ねえセレネ。客観的に見て、私とセレネ、どっちが弱そう?」
「……弱そう、ですか?」
「うん。それか、どっちが頼りない?」
姉様、なのだろう。
口ごもる私に、姉様はうなずく。
「だからだと思うよ、きっと。例えばセレネと私が同時に危ない目に遭っても、私のほうが頼りないって思ってるから、優先して助けちゃうんだよ。どうしてもセレネより私を優先しちゃうっていうのはそういうこと」
……それは確かに、そうかもしれないけど。それだけじゃなくて、姉様がエリクにとって特別な存在だから、という理由もあるんじゃないだろうか。
私が納得していないのがわかったのだろう、姉様は呆れたように笑った。
「さっきの例え話の続きね? そういうときに、私を助けて私を怒らせるより、セレネを助けてセレネを怒らせるほうが、エリクはきついんじゃないかな」
「姉様は怒っても可愛いですしね……」
「もう、そういうことじゃないの! それに私だって、本気で怒ったら怖いんだからね?」
そう言ってむくれた顔をする姉様は、すごく可愛らしかった。
「エリクにとっては……ううん、ごめん、何でもない。これを言っちゃったら、たぶんルナ様に怒られちゃう」
「ルナ様から何か口止めでもされているのですか?」
「そんな感じ。『面白いからまだ言わなくてもいいわよね!』、って言ってたから、私も言わないほうがいいかなって」
ルナ様の声真似がなんだか似ていて、ついぷっと笑ってしまう。姉様もふふっと笑って、しかし慌てたように「あ、別に私は面白がってるんじゃなくてね、そのほうがいいかなって思っただけなんだけど」と言いわけのように続けた。
何のことだかわからないが、ルナ様は確実に面白がっているだけだろう。でもまあ……姉様がそのほうがいいと思うのなら、そのほうがいいんだろうな。
「私からすると、二人とも大変だなーって感じなんだよね。お互いがお互いをわかってると思ってるからこそ、こうなるんだろうなって」
「……わかってると思ってるだけということですか?」
「そこまで言うつもりはないけど、二人とも思い込みが激しいんだもん」
「え、そうですか?」
「そうなの」
深くうなずく姉様。
思い込み……激しいのだとしても、エリクに対して何か思い込んでることってあったっけ? 姉様は何が言いたいんだろうか。
「だからセレネ、あんまり落ち込まないで」
優しく、落ち着いた口調で。姉様は、私の目を真っ直ぐに見てくる。
単純なもので、さっきまでしょんぼりしていた耳がいつもどおりに戻ったのを感じた。姉様が言っていたことはよくわからなかったけれど、姉様に落ち込まないでと言われたら、落ち込んでいられるわけがない。
私は姉様の目を真っ直ぐに見つめ返して、笑ってみせた。
「はい。ありがとうございます、姉様」
そこでようやく、姉様もほっとしたような笑みを浮かべる。
と、きゅるきゅると可愛らしい音が聞こえてきた。はっとしたようにお腹を押さえ、姉様はほんのりと顔を赤くし、えへへと誤魔化すように笑った。
「お腹減っちゃった。そろそろ食堂行かない?」
「そうですね、行きましょう。私もお腹が空きました。……ふふっ」
「あ、笑わないでよー」
恥ずかしそうに、姉様は軽く睨んでくる。その可愛さに更に笑いながら、私は「すみません」と謝った。
うん。明日の朝エリクに会ったら、真っ先に謝ろう。たぶん謝り合いになるだろうけど、それはそれでいい。
そう決めて、私は姉様と一緒に食堂へ向かったのだった。




