20 期待と痛み
パンッという何かが弾けた音と共に、空に大きな虹がかかる。
一つ、二つ、三つ……いくつあるのか数えるのが面倒になるほどの数だ。そして虹の周りには、光を浴びてきらきらと輝く雨粒。その雨は私たちに触れる前に、すっと消えていく。
すっげーだのきゃーだの、他の人たちの割れるような大歓声を聞きながら、私は顔を引き攣らせた。
……体育祭の開始合図にしては、派手すぎない?
あ、しかも校庭の真ん中の上空には、わっかの形をした虹があるし。じっと見てみると、一つ一つの虹の色味や濃さが違っているのもわかる。
一体どれだけの魔力を使うのかと思うと、もうこれは顔を引き攣らせるしかないだろう。他の人たちのように、のん気に歓声なんて上げられるはずがない。
たぶん、エリクやうさ俺様、狐あたりは私と同様呆れてるだろうなぁ。
『プログラム一番、三年応援団による応援です。他の生徒は席についてください』
この大歓声の中ではっきりと聞こえてきた放送に、生徒たちはざわざわしながらも言われたとおり席につく。
魔法学院の少し変わった伝統で、体育祭のプログラム一番は絶対に三年生全員の応援なのだ。怪我などで体育祭自体出られない人以外は、原則参加である。
席に座って応援団を待ちながら、もう一つの伝統も思い出す。
応援団の団長は、必ず生徒会長がやる――つまり今年の団長は、狐だということ。
学院は二学期制であり、生徒会は一年に一度、二学期になると交代する。……一学期の最初からのほうがわかりやすいと思うんだけど、まあそれも伝統ということで仕方ない。
うーん……でも、狐が団長って平気なのかな。自分の仕事はしっかりこなすだろうけど、何となく応援団の団長って熱い人がやるイメージがある。大声を出す狐なんて想像できないし……みんなの体育祭へのやる気がなくならないか心配だ。
どんっ、と体の中にまで響いてきそうな、重い太鼓の音が鳴る。だんだんと次の音が鳴る間隔が狭くなっていき、それとともに応援団が入場してきた。腰の横で拳を握り、前傾姿勢で走ってくる姿は予想より格好いい。
何より……学ラン、というのが予想外だった。
日本人とは違ってカラフルな髪色だから、コスプレをしているようにも見える。普段ならつい笑ってしまうような格好だ。けれど三年生の皆さんは真剣な表情をしていて、自然とこちらも真剣に見ようという気持ちになった。
その気持ちは他の子たちも同じのようで、狐に対する黄色い声援は聞こえてこない。
太鼓の最後の一音が鳴ると、応援団は一斉に私たちのほうに体を向けた。
応援団の一番前には、狐がいた。銀色の髪に赤いはちまき、黒い学ランが……悔しいけど、よく映えて美しかった。狐のはちまきは他の団員とは違い、腰の下あたりまである長いものだ。
そんな狐の姿に、黄色い声援はない代わりに、感嘆のため息があちこちから聞こえてくる。
狐が、拳をそのままにしたまま、腰を思い切り反る。そして起き上がるとともに、掛け声を出した。
それは、普段の狐からは考えられないくらいの大声で、思わず耳を塞いでしまった。
……そうだよね、狐の獣人だもんね! 大声出せるのが普通だよね……。
大分近い位置で応援を見ていたので、耳に結構なダメージだった。うー、がんがんする。耳を塞いだまま、応援団を恨めしげに見てしまった。
狐の掛け声によって、応援団は大声を出しながら、太鼓の拍の音に合わせて腕や足を動かし始める。一つ一つの動作にキレがあって、見ていて全然飽きない。何より、腰の反りがすごかった。団長である狐と、前のほうにいる男子の先輩方は、頭が地面につくかと思うほど反って、次の瞬間にはぱっと起き上がっていた。
女子の先輩は男子の先輩ほどは反らないが、それでも辛そうな表情をしている。
「すご……」
近くにいたマリーちゃんが、思わず、といったふうに声を漏らした。
ナタリーちゃんとベラちゃんも、その声に静かにうなずく。
……三年生の応援って、こんなにすごいものなのか。圧巻、とかそういう言葉でしか表せない自分の語彙の少なさが悔しい。
応援は傲慢なものなんだから、応援をする人はその対象の人よりもっともっと頑張らなくてはいけない。そんな話を、いつだったか聞いたことがある。頑張っている人に頑張れ、と言うのも、頑張りたくない人に頑張れ、と言うのも、確かに傲慢だと思う。話を聞いたとき、納得したつもりだった。
でも、実際にこういう応援を見てしまうと、私の納得は表面だけのものだったんだな、と思った。
全員が片膝を直角に地面について、両腕を真横に広げ、これでもか、というくらい「おー!」と長い間叫ぶ。(うぅ、耳が……っ!)
ひときわ大きな太鼓の音が鳴り、ぴたっと一瞬で声が止んだ。辺りに静寂が広がる。
その静寂はすぐに壊され、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「……っシャルル様が美しすぎて、あたしもう駄目かも」
「マリー、気持ちはわかるけどしっかりしなさいよ!」
「そうだよー。赤い顔で息を荒げてるシャルル様、ほんっとうに素敵だけど」
……この三人、ぶれないなぁ。
まあ、かっこよかったのは認める。まさか狐が、ここまでちゃんと団長を務め上げるとは思っていなかった。周りと一緒に拍手をしながら、狐に対しての認識をまた改める。最初の印象が最悪だったからだろうけど、どんどん良くなっていく。
うー、なんかやっぱり悔しい。
応援団が退場していくとともに、放送がかかった。
『短距離走と玉入れの選手は、入場門に集まってください』
「あ、じゃあわたし行ってくるー」
行ってらっしゃい、と手を振って、ベラちゃんを見送る。ベラちゃんは短距離走に出るのだ。言動はふわふわしている彼女だが、猫の獣人だけあって運動神経はいい。二、三年生とも一緒に走るから、一位は難しいかもしれないけど、いい結果が期待できるんじゃないかな。
そんなことを考えながら、昨日のうちに配られていたプログラムを膝の上で広げる。
短距離走、玉入れの次は綱引き。そしてその次は、早くも私の出番、二人三脚である。種目の数自体そんなに多くないからね。
借り物競争と長距離走は午後だ。……うん、応援頑張ろう。
「……ルーナさん、楽しそうだね」
くすっとマリーちゃんが笑う。
「え、そうですか?」
「うん、すっごく」
「ウチが思うに、こういう行事が初めてだからじゃない? セレネって、この学院に入る前どこの学校にも行ってないのよね?」
ナタリーちゃんの言葉に、はい、とうなずく。一応、前世を含めれば初めてではないんだけど。
この学院に通う生徒たちは、ほとんどが以前どこかの学校に通っていた。貴族だって、色んな考えを持った同じ年頃の人たちと関わるのは大切だからね。庶民の人たちにも、それなりに支援金みたいなものは配られるし。
ただ、普通の学校は魔法学院のように安全なわけではないので、貴族の女の子なんかは家庭教師に勉強を習って、学校に通わなかったりもする。
「それなりに行事に慣れてるあたしたちも、この体育祭にはびっくりするしね……。特に最初の虹とか、ほんっと綺麗だった」
「あれって、毎年変わるみたいよ。来年はどんなのかしらねー」
うわ、あんなのを毎年やるのか……。すごいと思うべきか、呆れるべきか。
「体育祭でこんなにすごかったら、魔法コンクールはどうなるんでしょうね」
「うーん、生徒が魔法を使っちゃいけない体育祭だからこそ、とも思うけど」
「そうよね。魔法コンクールの前にあんなのやられちゃ、たまったもんじゃないわ」
ああ、確かに。どんな魔法だって、あんな魔法の後ではかすんで見えてしまうだろう。
魔法コンクール、というのは、十月にある行事のこと。全生徒が魔法の腕を競うのだ。
魔法を使ってはいけない体育祭より、魔法コンクールに力を注ぐ生徒は多い。人によっては、一年かけて準備するらしいし。
「まあ、今はとにかく皆の応援だね」
視線を前に戻すと、丁度第一レースの人たちが走り出すところだった。ピストルのような魔法の音が鳴ると、応援の声が大きくなった。
……なんかもう、人種で勝敗が決まっちゃってるようなものなんだよなぁ。あの二年生、チーターの獣人じゃない? 身体強化の魔法なしに、人間が勝てるとは思えない。エリクみたいな人間だったら別だけど。……褒めてるわけじゃなくて、事実を言っただけだよ。いや、いくらエリクでも、流石に獣人に勝つことはできないか。
「やっぱりあのチーターの人速いわね」
「あっちの紫の髪の人間も、大分速いんだけど……あ、羊の人を抜いた!」
チーター、紫の髪、羊。
それらを『変』だと感じなくなってしまった自分の感性に、苦笑が漏れる。
前世の自分への未練は、もう断ち切った。だから今更、こちらの世界に染まっていくことを怖いと感じたりはしない。
……けれどやっぱり。
ちょっとだけ、寂しいと感じてしまう自分もいた。
「ルーナさん、次ベラだよ」
「え、ああ……本当だ。ぼうっとしていました、すみません」
ベラちゃんと走る人たちを見て、ナタリーちゃんが「うわ」と声を上げる。
「獣人ばっかりじゃない。ベラも運悪いわね……」
「草食動物ばかりですし、もしかしたら勝てるかもしれませんよ」
「なめちゃダメよ? 草食動物の獣人って、案外速いんだから」
「そうそう。勝負にはあんまり興味ないみたいだけど、油断大敵だよ」
そんなことを話している間に、レースは終わってしまった。た、短距離走ってあっという間だよね……。ゴールの瞬間は見れなかったけど、ベラちゃんは三位だったみたいだ。
その後数レースをやって、短距離走の選手が退場する。
『二人三脚の選手は、入場門に集まってください』
「うっ……では、行ってきます」
今日はちゃんと、最後までスムーズに走れるだろうか。それなりに上手く走れるようにはなったけど、たまに転びかけちゃうんだよね……。
あー、緊張してきた。(どきどき)
「あはは、緊張してる?」
マリーちゃんが笑いながら、私の頭をなでてくる。
「相手がフィーランド様だしね。でもフィーランド様、ルーナさんには結構気を許してるみたいだし、そんな緊張しなくて平気じゃない?」
「それにもし負けたって、ウチが騎馬戦で取り返してやるから!」
マリーちゃんの励ましとナタリーちゃんの頼もしい言葉に、緊張はあっさりとほぐれてしまった。……単純だなぁ、私。
「ありがとうございます。頑張りますね!」
入場門に向かう途中で、ベラちゃんとすれ違った。
「ベラちゃん、お疲れ様でした」
「ありがとー。セレネちゃんもがんばってね」
「はい、ありがとうございます」
話してて見てなかったなんて言えない。ごめんね、ベラちゃん……。
申し訳なく思いながら別れると、遠くから姉様の声が聞こえてきた。
「セレネー! がんばれ!」
声のほうを向けば、ぶんぶんと大きく手を振っている姉様が見えた。隣ではエリクも、苦笑気味に小さく手を振っている。
……あぅ、駄目だ。にやけてしまう。マリーちゃんたちからの応援もすごく嬉しかったけど……二人からの応援は、それ以上に嬉しいんだよね。
よし、みんなから応援してもらったし、一位目指して頑張ろう。
* * *
マリーちゃんたちのおかげで、一度は緊張がほぐれたものの。自分の番が迫ってくるとそれが戻ってきてしまった。
「フィ、フィーランドさん、頑張りましょうね!」
幸いにも、驚異的な速さのヘルガたちペアとは一緒に走らない。私とフィーランドさんなら、上位も狙えるんじゃないだろうか。
フィーランドさんは、私を見て眉をひそめた。
「緊張しても、何もいいことはない」
「……はい。すみません」
うぅ、こんなに早く緊張ってばれてしまうものなのか。
私たちの番がやってきて、スタート位置につく。最後にどちらの足から出すか、一応確認しておくことにした。
「いつもどおり、私が右から、フィーランドさんが左からでいいですよね?」
「ああ」
緊張するな、私。大きく深呼吸をして、前を見る。
「……おい」
「え?」
「手」
ぶっきらぼうに言われ、首をかしげる。
手? なんだろうか。まさか手をつなごうとかじゃないだろうし。言われる理由が思い当たらなくて数秒考え込み……あ、と気づいた。
無意識のうちに、フィーランドさんの腰に回した手をぎゅっと握ってしまっていた。彼の服ごと。
「わっ、すみません」
「別にいい。行くぞ」
慌てて手の力を緩めると、フィーランドさんは視線を前に戻した。確かに、もうすぐスタートだ。
位置について、よーい、という体育委員の声に、走る準備をする。
パンッと魔法の音が鳴った。
「せーのっ!」
他の人と混ざらないように声を張り上げ、一歩目を踏み出す。
相変わらずうさ俺様はかけ声を出さない、かと思いきや。私の「いっちにっ!」に合わせて、小さく声を出してくれていた。そのことに気づいて、競技中だというのにちょっと笑いそうになる。
今のところ、私たちは三年生のペアに続いて二位だ。まあ、ほぼ横には二年生のペアがいるんだけど。このままペースを崩さなければ、三位は確実だろう。
そう思ったときだった。
うさ俺様の足と繋いでいるほうの足を、変なふうに地面につけてしまった。あー……これは、捻った、かな。我慢できないほど痛いというわけではないが、じくじくと嫌な痛みだ。
とにかく、かけ声のタイミングをずらさないように気をつける。もしずれたら、うさ俺様に迷惑をかけてしまうし。それに何より……姉様とエリクに気づかれたら、心配をかけてしまう。姉様に比べて怪我をすることが少ないからか、二人は私のちょっとした怪我に大げさに反応するのだ。
大切にされてるな、と嬉しくはなるけど、あまり心配はかけたくない。
ゴールまであと少しだし、そこまでの辛抱だ。
二人三脚は短距離走より距離が少ないものの、二人で足を紐で結んで走るので、やっぱり大分疲れる。
息が切れ、声が小さくなってきたところで、さっきまでほぼ並んでいたペアに抜かされてしまった。……でも、まだ三位だ。
三年生ペアがゴール紐を切り、いよいよゴールが近づいてくる。私たちを抜かしたペアもゴールした。
そして三番目にゴールラインを越えたのは、私たちだった。
よかった、三位か……。息を整えながら、コースから出る。うん、足もそれほど痛くないし、いい結果を出せたんじゃないだろうか。……たぶん、後から腫れて痛くなる感じだとは思うんだけどね! ひとまず今は、三位になれたということを素直に喜んでおこう。
足の紐を外してから、やりましたね、とうさ俺様に言いかけて。その不機嫌そうな顔に、思わず固まってしまった。
え、やっぱり三位じゃ不満だったんですか!? 確かに一位じゃないのは少し残念だけど、できる限りの力は出したつもりなのに。
「……足」
「へ?」
「痛めただろう」
なおも不機嫌そうな顔で続けられた言葉に、もしかして、と思う。
……心配、してくれてる? それとも、あれくらいで足を捻るなんて鈍臭いと思われているのか。でもうさ俺様は、そう思ったらきっと普通に言ってきそうな気もする。心配しているのを悟らせないように不機嫌な顔を作っている、と考えたほうがしっくりくる。
それが少し意外でぽかんとしていると、うさ俺様は「そんなに痛むか?」と眉をひそめた。
「あ、いえ! 本当に、ちょっと捻ってしまっただけですから。……ありがとうございます」
心配してくださって、という言葉は飲み込む。が、伝わってしまったのか、うさ俺様は決まりが悪そうに視線をそらした。
「俺のせいだろう。保健室まで付き添ってやる」
「……ふふっ、大丈夫ですよ。保健室に行くほどではありません」
こんなときにも偉そうな口調は崩さないんだな、とつい笑ってしまう。言葉だけだとあまり申し訳なさそうに聞こえないが……うん、やっぱり獣人の耳って表情豊かだよね。
うさ俺様の耳は、かわいそうなくらいしゅん、としていた。可哀想、というか、可愛い。
「それに、うさ……フィーランドさんのせいではありませんからね」
「……うさ?」
怪訝そうなうさ俺様に、咳払いをして誤魔化す。(危ない危ない)
「とにかく、大丈夫ですから。安心してください」
不満げではあるが、とりあえずは納得してくれたみたいだった。
……昼休みになったら、こっそり保健室に行こうかな。早めに治療しておけば、後から腫れて姉様たちに気づかれることもないだろうし。
この世界での治療は、前の世界とそう変わらない。治癒魔法もあるはあるが、それはすぐには普通の治療ができない場合や、重傷、重体の場合しか使うことが認められていないのだ。小さな怪我さえ魔法で治していたら、人の身体は弱くなっていってしまう。
病気についても同様だが、身体の内側に魔法をかけるのは難しいため、外傷と違って完全に治す、ということはできない。……外傷だって傷が残ったりはするし、完全に治せるとは言えないかもしれないけど。
レースに視線を戻せば、丁度ヘルガたちがスタートするところだった。
あの速さだし当然一位だろうな……と思って見ていたら、半分ほどのところで転んでしまった。わっ、ヘルガの膝から血が出てる。
大丈夫かな、という心配をよそに、二人は驚くべき追い上げを見せた。転んだ時点で下位は確実なのに、二位にまで躍り出たのだ。
走り終わってこちらに歩いてきたヘルガとフェリクスさんは、足の紐をほどき始めた。
ほどき終わったのを確認してから、声をかける。
「二位おめでとうございます、ヘルガ。……膝は大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。これくらい、唾つけとけば治るわ」
「唾って……」
「案外、殺菌力とか高いのよ?」
そういう問題なんだろうか。
「ヘルガちゃん」
隣にいたフェリクスさんが、ヘルガに笑いかけた。不機嫌そうに振り向いたヘルガを……うわ。ふわっと、こともなげにお姫様抱っこした。
え、お姫様抱っこってそんなにさっとできちゃうものなの? ヘルガなんて、何されたのかわかってないのかきょとんとしてるし。
周りがざわざわとし始める。中には女の子の悲鳴のようなものも聞こえてきて……そういえばフェリクスさんも、女子人気高いんだよなぁ、と思い出した。って、それまずいんじゃないかな?
「あの、フェリクスさん。こんな公衆の面前でやったら……女子の嫉妬、とか怖いんじゃないかな、と思うんですが」
おそるおそるそう言えば、一瞬だけフェリクスさんが「しまった」という表情になる。あ、自分の人気は自覚してるんですね……。
「……ごめん。一応ファンクラブのほうに釘は刺しとくけど、もし誰かからなんかされたらオレに言ってね」
その言葉で、ヘルガはようやく今の状況を理解したようだった。
「……は!? ちょっ、何よこれ! こんなの有り得ない、というか、降ろしなさい! な、殴るわよ!?」
この前の昼休みのときもそうだったけど、フェリクスさんが関わると、ヘルガの取り乱し方は物騒になる気がする。顔を真っ赤にして拳をぷるぷる震わせているし、殴るという言葉は本気かもしれない。
フェリクスさんは苦笑した。
「あーうん、ごめんねー。だってヘルガちゃん、ほっといたら保健室なんて行かないでしょ?」
「……行くわよ」
「その間が怪しいんだよね。まあ、降ろすけど一緒には来てもらうよ」
「何であなたと一緒に行かなきゃいけないの。冗談じゃないわ」
吐き捨てるように言ったヘルガを、フェリクスさんは腕から降ろす。
でも確かに、フェリクスさんと一緒に行く必要はないよね。ヘルガの怪我に責任を感じてるのかもしれないけど、本人が一緒に行きたくないって言ってるわけだし。
「私が付き添いましょうか?」
そうすれば姉様たちに怪しまれずに保健室まで行ける、とちょっぴり打算的に考えながら申し出ると、ヘルガはものすごい勢いでうなずいた。
「頼んだわ!」
「えー、それは流石のオレも傷つくよ?」
わざとらしく肩を落とすフェリクスさんを無言で睨みつけてから、ヘルガは私の隣にやってきた。
「そっちも、三位おめでとう。もうちょっとで二位だったのに、惜しかったわね」
「ありがとうございます。ヘルガたちも、転んでしまったのは残念ですよね……」
「……不思議よね」
「え? まあ、練習で転んだところは見たことがありませんでしたし」
でもだからといって、絶対に転ばない、ということはないわけで。不思議と言うようなことでもないんじゃないかな、と思うんだけど。
少し首をかしげると、ヘルガは私をじっと見てくる。何かを探るような、期待するような……そんな目で。
そして、ふっと笑った。
「変なこと言って悪かったわ」
……がっかり、された?
その理由もわからなかったので、ショックは大きかった。
何だろう、何を期待されていたんだろう。私は、どう答えるべきだった?
「……ごめんなさい、そんなに落ち込まないで。私が悪いんだから」
「ヘルガは、」
少し、言うのをためらってから。
「……ヘルガは、私に何を期待していたんですか?」
なぜだかわからないけど、これは訊いてはいけないことだと思っていた。わかっていた。
それなのに訊いてしまったのは、ヘルガがあまりにも辛そうだったから。
私の問いに、ヘルガは息を呑む。うつむいたその顔からは、答えるか迷っている気配が伝わってきた。でもそれは、ほんの少しの時間で。
顔を上げたヘルガを見て……あ、何も答えてくれないんだなと、わかってしまった。
『二人三脚の選手が退場します』
口を開きかけたヘルガを、放送の声が遮る。
「……行きましょうか」
「そう、ね」
ぽつりと言った私の言葉に、ヘルガもぽつりと返す。
その後に続いた「ごめん」という声は、聞こえなかったふりをしてしまった。
自分勝手かもしれないけど、私は今の問いに答えてほしかった。がっかりするなら――諦めるなら、ヘルガの答えに対する私の反応を見てからにしてほしかった。
ねえ、ヘルガ。……ちょっとは、思いを吐き出してほしかったんですよ。
歩くたびに、捻った足が鈍く痛んだ。




