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16 授業の報告と姉様の決意

 ……皆からの視線が痛い。

 たぶん、私が元の姿だったら顔を引き攣らせていたことだろう。こんなに凝視されたら、ね。

 私が兎になったのを見れば、さっきの兎がチェンランだったということは誰でも……いや、知っている人ならわかる。姉様はともかく、他の三人はチェンランの能力を知っているはずなのに、何でそんなに見てくるんだ……。(うぅ)


「……セ、セレネが兎になっちゃった!?」


 最初に動いたのは姉様だった。

 あわあわと私を抱き上げ、じーっと見つめてくる。


「セレネって……兎になれたの?」

「ぶぅ!」


 なれません! と叫んだつもりだが、出てくるのは兎の鳴き声。言葉が通じないって、ものすごく不便だ。

 獣人はあくまで『獣人』であって、獣の姿にはなれない。もちろん、人間の姿にも。どちらかの姿になりたかったら、魔法で姿を変えるしかないのだ。

 必要だと思ったことはないから、私はその魔法が使えないんだけど……こんなことになるなら覚えておけばよかったと、ちょっと後悔する。


「ディアナ、僕にも持たせて」

「あ、うん」

「きー!?」


 エリク、何だか目が輝いてるんだけど!? 絶対この状況楽しんでるよね、楽しんでるでしょ!

 ……そういえば、視界が獣人の姿のときと同じに戻ってる。元の姿に戻ってきているということだろうか?

 以前書いたレポートを思い出してみれば、兎にされた生き物が元に戻るのは確か次の日……えーっと、朝日を浴びたときだった気がする。だとすれば、戻り始めるのは早すぎるのではないだろうか。……よくわからないなぁ。

 でも視界が見慣れたものになるだけで、少しだけほっとしてしまう。


 姉様からエリクに手渡されて、エリクに顔を覗きこまれる。

 ……近い。こんな近い距離、いつぶりだろう。恥ずかしいのだが……その、嬉しくもあるので、抵抗はしないことにした。

 エリクがしみじみと言う。


「セレネが兎になっても、全然違和感ないね」

「うん、そうだよねー」


 がーんっ、姉様まで! というかエリク、こんな近くで喋らないでよ! 息が当たって、かなり恥ずかしいんだけど!

 ……幸運だ、と思えばいいのかな? 元の体では、エリクとこんなに顔を近づけることなんてできないし。むしろやりたくない。やっぱりこれは、私的にどちらかというと不運に入る気がする。(どちらかというと、だけど!)


 元に戻れるのが明日の朝だとして……今日の午後の授業はどうしよう。確か、こういう状態異常を治す薬があるはずだけど。うーん、保健室にあればいいな。なくてもまあ、今日一日くらいはこのままでも何とかなるか。

 って駄目だ、今日はノーヴェ語の小テストだった! ほ、保健室に薬があることを願おう。

 ちなみにノーヴェ語というのは、この国――ティアムと親交が深い国、ノーヴェで使われている言葉である。あちらの魔法学院とよく交換留学もするらしい。


 ……そんなことを考えながら、そーっとある人のほうを窺う。

 いや、明らかに他の人の視線とは違ったんだよ。


「……貴女にはお似合いですよ、その身体」


 嫌味ったらしく言われたが、実際そうであるので問題はない。兎の獣人が兎になったって、人間や他の獣人よりは似合うだろう。

 問題は……この、命の危機を感じるギラギラした目!

 だって、兎って狐の好物だし。チェンランの身体って言っても、ちゃんと食べられるし。というか、普通の兎よりもおいしいと本に書いてあった。

 ……大丈夫だよね? 流石に狐も、後輩を食べたりしないよね。うん。


「似合ってますよねー」


 ……まさかの姉様の同意!


「ディアナ、セレネがショック受けてる」

「あれ、ほんとだ」

「それから先輩、セレネが怯えるんであまり見ないでくれませんか?」


 雑な敬語でそう言いながら、エリクは私の姿を狐から隠してくれる。狐の顔は見えなくなったが、たぶんむっとした顔でもしてるんじゃないだろうか。


「ぷっ、ぷぅ、ぐー」


 食べられて死ぬのはやだなー、とつぶやいてみる。

 まあもちろん、皆には何を言っているのかわからないわけだが。わかってたら、狐が一番に反応しそうだしね。


「……?」


 不思議さんは無表情のまま、首をかしげる。先ほどまでは、無表情ながらも、あ、これちょっと驚いてるのかな、というのがわかったのに。すっかりいつも通りの顔だ。と言っても、いつも通りの顔をそこまで知らないのだが。


「……食べられる?」

「ぷっ?」


 思わず、え? と声を漏らしてしまった。

 食べられる、とか、そういう会話の流れではなかったはずだ。ということは、私の言葉がわかるということなんだろうか?

 考えてみれば、不思議さんは妖精なのだから動物の言葉がわかってもおかしくはない。のかもしれない。妖精については全然知らないから、はっきりとは言えないけど。


「ミミル先輩、セレネは食べちゃ駄目ですからね!」


 姉様が不思議さんから私を隠した。ごめんなさい不思議さん、姉様に誤解されたみたいです。


「食べられるはずですが、中身があれだと思うと食べる気が失せますね」

「ぷー、ぷっぶっ!」


 あれとは何ですか!

 狐に対しての文句も不思議さんには伝わったようで、またまた首をかしげる。


「……あれとは何ですか、って言ってる」

「考えればわかることでは?」

「って、ミミル先輩、セレネの言葉がわかるんですか!?」


 姉様が目を丸くする。今の不思議さんの言葉で、彼が私の言葉を理解しているということがはっきりとした。

 狐は何でもないことのように、「ああ」と言った。


「貴女は一年生だから知らないのですね。ミミルが動物の言葉を理解することは、二、三年生の間では有名な話ですよ」

「ふわー……。じゃあ、ミミル先輩がいれば今のセレネとも話せるんですね!」


 輝いた目で、姉様はエリクから私をもらって、不思議さんのほうに差し出す。


「セレネセレネ、何か喋ってみてー」

「……ぷーっぶぅぶぅ、ぐーぅ、ぷっ」


 姉様、この状況楽しんでますよね。

 ちょっぴり拗ねながら言ってみると、その雰囲気は姉様にも伝わったみたいだ。


「な、何となくわかるけど……ミミル先輩、セレネは何て言ってましたか?」

「……姉様、この状況楽しんでますよね」

「ぷふっ」


 笑いを抑えたら変な鳴き声が出た。不思議さんが私の言葉をそのまま言うのは、何だかおかしかった。

 いや、ちょっと訂正。不思議さんのこの美声で、姉様のことを『姉様』と言うのがおかしかった。不思議さんは姉様の頼みに答えただけなんだから、笑うのは失礼なんだけど……。まあ、不思議さんなら気にしないでくれるよね。


 案の定、不思議さんは私の変な鳴き声に不思議そうにしただけだった。……不思議さんが不思議そうって、ちょっとややこしいなぁ。うさ俺様のことも心の中では『うさ俺様』と呼び続けているし、不思議さんも不思議さんのままにしようと思っていたが……うん。いいや、このままで。ちゃんと口ではミミル先輩って呼べば。


「た、楽しんでなんか……ないよー?」


 思いっきり私から視線を逸らす姉様。もう少し嘘のつき方を学んでほし……くない。姉様には純粋なままでいてほしい。

 ……このゲームに終わりが来て、姉様に恋人ができたら。きっと、純粋なままでいてもらうのは無理なんだろうけど。


 自分で考えたことに落ち込みながら、さりげなく伸ばされてきた手にがぶっと噛み付く。


「いたっ。……何するんだよセレネ」


 エリクが涙目で訴える。しかし、この程度で泣くような鍛え方はしていないはずだ。つまりこれは演技である。

 ふーんだっ。涙が武器になるのは、女の子だけなんだからね! 最近耳を触らせてなかったからって、この状況で耳を触ろうとするエリクを許すものか。男が泣いたって……男、いや、男だよね。男だけど……うぅ、見た目は完全に美少女だ。

 怒りが少し収まった後に見ると、ぐらっと意思が揺らぐ。か、噛み付くのはやりすぎだったかもしれない。


「ディアナ、セレネちょうだい」

「はい」


 姉様、そんなに軽く渡さないでください!

 暴れて逃げようかとも思ったが、姉様に万が一でも傷をつけてはいけない。姉様の手から離れるまでは辛抱しなければ。

 と思ったのだが、エリクがすごく悲しげな顔をしたので、うっと固まってしまう。

 私を受け取ったエリクは、片手で私を持ちながらもう片方の手で私の耳を触ってきた。


 ……うー。駄目だ、気持ちいい。

 不本意ながらもうっとりしていると、「それで」とエリクが皆に向かって口を開く。


「どうしますか? もう課題はクリアしていますし、帰りますか?」

「そ、それより、セレネは元に戻れるの?」


 ようやく誰か、というか、姉様に心配してもらえたことに感動する。他の三人が心配してくれるとは思ってなかったし。チェンランの能力は全く命に関わりがないからね。痛くもなく、苦しくもないのだ。少しの間不便な身体になるだけで、それ以外に問題は起こらない。

 まあ、だからこんなに国の近くにいるんだろうけど。ゲーム的に、国の近くには弱い魔物じゃなきゃ駄目ってことだ。たぶん。


「大丈夫、明日の朝になれば自然と戻るよ。すぐに戻りたければ薬もあるはずだし」

「よかったぁ……」


 姉様がほっと胸をなでおろす。

 それに癒されたのも一瞬だけで、狐の「ふん」という声にむかっとする。


「たとえこの辺りの魔物が弱くとも、足手(まと)いがいる状態で戦うのは危険です」


 くーっ、事実であるから余計に憎たらしい!

 ……この姿になって、どうも魔力が少なくなったようで。魔法が使えるほどの魔力は今の私にはない。たぶんチェンランは、この少ない魔力を使って敵の姿を変えるんだろうなぁ……。姿を変える魔法って結構魔力使うはずなのに、なぜこんな少なくて済むのか。

 とにかく、魔法が使えない上に物理攻撃さえできないとなると。


 うん。私、完全に足手まといだ。


 それを再確認して、しょんぼりと落ち込む。それがわかったのか、心なしか私の耳を触るエリクの手つきが更に優しくなった気がした。

 気持ちいい。いや、気持ちいいんだけどさ、どうなのかなこれは。

 ……まあいいか。気持ちよくて、何だか考えるのが面倒になってしまった。


「転移石、使うべきでしょうか?」


 エリクが狐に尋ねる。

 狐は姉様をちらっと見てから、エリクと不思議さんに向けて言った。


「……私たち三人だけでも十分な戦力だとは思いますが、万が一があります。先生方も、この状況で石を使うことを責めたりはしないでしょう」


 むっ、今さらっと姉様を戦力外と言ったな!

 確かに今日、姉様は魔物を一匹も倒していないが、それはまだ慣れていないだけだ。魔法を使えば、姉様だって魔物の一匹や二匹……。

 ……駄目だ、今日の姉様は戦力外としか言いようがない。

 魔物を倒すことに慣れていない上、まだ魔法を使うことに不安も感じているだろう。そんな状態で魔法を使えば、魔力が暴走する可能性が高い。

 むぅ、狐の言うことは一々正論だから余計に悔しい。


 姉様だって、苦笑いしながらも狐の言葉に納得しているような顔だし。……傷ついているようにも見えるから、ものすごく、とても、ムカつくのだが。……狐め。

 しかし、姉様が納得しているのならさっきと同じで、私にはもう何も言えない。消化不良というか、不完全燃焼というか……とにかくそんな感じの、深くため息をつきたい気分だ。狐との付き合いはまだ続くから、これからもこういう気分によくなるんだろうなぁ。早く慣れるようにしなきゃ。


「ミミルと貴女もそれでいいですね?」

「はい」


 返事をしたのは姉様で、不思議さんはこくりとうなずくだけだ。

 ……ちゃんと姉様にも同意を求めるのか、とちょっと意外に思ってしまったのは秘密だ。


「では、私の石を使いましょう」


 異論は出なかったので、狐は自分の転移石を取り出し、地面に放り投げた。

 そういえば、転移魔法を誰かが使っているところは見たことないんだよね。転移石を使うとどんなふうになるのか興味がある。

 エリクの腕から身を乗り出して、少しわくわくしながら転移石を見つめた。エリクに抱え直されてしまったので、身を乗り出した意味がなくなってしまったが。


 そして、転移石が地面に落ちる――と同時に、白い光が広がった。


     * * *


 光が収まって目を開くと、そこはもう学院の魔法訓練場だった。集合場所は魔法訓練場と言われていたが、転移石の転移場所もそこに設定されていたらしい。

 ……予想以上に呆気ないなぁ。目を閉じて、開けたらもう転移していたという感じだ。予想していた、転移での酔いのようなものもないし。


「お疲れ、早かったな」


 訓練場で待機していたセルジュ先生が、微笑みながら近づいてきた。

 だが、エリクに抱きかかえられている私に気付いてか、その微笑みはすぐに消え、少し驚いたような顔になる。


「……その兎はセレネ・ルーナか? チェンランにやられたのか」

「はい。ですから、帰りには私の転移石を使いました」


 狐の言葉に、セルジュ先生は「いい判断だったと思うぞ」と返す。


「しかし、セレネ・ルーナがそれに引っかかるとはな……」


 意外だ、とでも言いたげに先生はつぶやいた。たぶん私が、授業ではとっさの出来事にも上手く対応できているからだろう。それなりに評価されている、と思うと、少し嬉しい。

 今回のことは、私自身も反省している。チェンランのことを知っていたのにも関わらず、能力のことをすっかり忘れていたなんて。姉様に注意するのがもう少し早ければ、何も問題なく倒せたはずだ。

 ……見た目は可愛い兎だから、罪悪感は感じるんだけどね。まあ、罪悪感を感じるのはどの魔物でも同じだ。

 そんなことを考えていると、姉様が慌てたように口を開いた。


「す、すみません! 私が……えっと、チェンラン、に不用意に近づいたのをセレネが助けてくれて! だから、原因は私なんです」


 姉様、と声をかけたかったが、自分がチェンランになっていることを思い出す。ああもう、面倒臭い。


「ぷっ、ぷーぶぶっ、きー!」


 ミミル先輩、姉様に伝えてください!

 私の鳴き声に、不思議さんはこてんと首をかしげる。エリクも察してくれたのだろう、「ディアナ」と姉様を呼びながら、私を姉様のほうへ近づけてくれた。


「ぶーぶっぶー、ぷぅー、ぶっー、きぃ、きぃきー」

「……原因は確かに姉様ですが、私がチェンランのことを忘れてなければ防げたことです」

「ぶぶっ、ぶっー、きぃ、ぷっ」

「姉様だけが悪いわけではありません。……って、言ってる」


 エリクが口を開きかける気配がしたが、結局何も言わなかった。守れなかった僕も悪い、と言いたかったんだろうが、近くに人が何人もいるからやめたのだろう。私たちは男爵家だし、魔法学院に通っているのに護衛うんぬん、って話はおかしいからね。

 何だか、魔法学の授業で姉様の魔力が暴走したときのことを思い出した。あのときも誰が悪かったか言い争ったんだっけ。


「あー、まあ、どっちが悪いのかっていうのは置いておこう」


 セルジュ先生が困った顔で頭をかく。


「一応訊いておくが……チェンランの魔法を受けるのは今日が初めて……だよなぁ」


 言葉の途中でエリクと姉様が肯定すると、先生は更に困った顔になった。そして、言いづらそうに話し始める。


「チェンランの魔法用の薬は、学院にもあるにはあるんだがな? あの薬は、チェンランの魔法に二度はかからないと使えない」

「ぷぅ……?」


 それって……? 嫌な予感に、顔が引き攣る。チェンランの姿だから、周りからどう見えているのかはわからないけど。

 不思議さんが訳さずとも私の言いたいことを察したのか、セルジュ先生はうなずいた。


「つまり、セレネ・ルーナは使えないんだ」

「きーっ!?」

「確かAクラスは今日、ノーヴェ語の小テストがあったよな? ノーヴェ語の先生に説明はしておく。……たぶん、明日の放課後に一人で受けることになるだろう。まあ、君以外にもチェンランにやられた奴がいたら、そいつも一緒だが」


 放課後に一人でテスト……寂しいなぁ、それ。私の他にもチェンランにされた人がいてほしい、と少し思うが、それでは他人の不幸を望んでいるみたいになる。でも一人でテストはやだな……。姉様とエリクと一緒に帰らなくてはいけないから、二人を待たせることにもなるし。(はあ……)



 ばらばらと生徒たちが帰ってきて、魔法実技の授業は無事終わった。怪我した生徒もいたが、大怪我と言うような怪我をした人はいない。

 ……私のように、チェンランに魔法をくらった生徒もいなかったのだった。


     * * *


 その夜、私は姉様と一緒に寝ることになった。「久しぶりに一緒に寝たいな」と姉様に言われて、断れるわけがない。姉様は寝相もいいし、チェンランの姿のままでも潰されたりすることはないだろう。

 ベル(侍女)にお風呂に入れてもらって、風と火の魔法を組み合わせた魔法具で身体を乾かしてもらった。ほかほかのふわふわだ。


 部屋に戻り(ベルに運んでもらった)、ベッドの上で姉様を待つ。姉様が戻ってくるまでに、そう時間はかからなかった。

 姉様は私を見ると、ぱあっと眩しい笑みを浮かべた。が、その笑みはすぐに消えてしまう。


「ぶぅ?」


 姉様? という意味を込めて鳴けば、姉様はへにょんと眉を下げた。

 そして何も言わずベッドに横になると、私のことを抱きしめる。姉様、嬉しいけどぎゅっとしすぎです。苦しいですよ。

 ……けれど、何か余計なことでもすれば姉様が泣いてしまいそうな気がして。

 抵抗することは、できなかった。


「……セレネ」


 不安に揺らいだ声が聞こえると共に、姉様の力が弱まる。

 姉様が言葉を続けるのをじっと待つと、ぽつり、と言葉が落ちてきた。


「私、最低だよね」


 ……姉様が最低なら、この世の人はみーんな最低ですよ。


「セレネが喋れないときにこんな話をするのもそうだし……黙って聞いてくれる、セレネに甘えちゃうのも」


 いえ、どんどん甘えていいですよ。甘えてもらえると嬉しいですから。

 姉様は、私を抱きしめる腕の力を完全に抜いた。


「ごめんね、セレネ。楽しんでないって言ったの、嘘なんだ。今だって、ベッドで待ってるセレネがすごいかわいいって思っちゃったの」


 ああ、あの笑顔はそういうことだったのか。

 姉様が笑ってくれるのが、私の一番嬉しいことです。謝る必要なんてありません。


「セレネは私を守って、こんなふうになっちゃったのに。私が、チェンランに近づいちゃったから。よく考えれば……ううん、考えなくたって、外にいる兎がただの兎のわけないのに。それに、今日私は何にもできなかった。皆が戦うのを、見てるだけしかできなかった。ラベー先輩にも……足手まといだって言われちゃったし、怒られた」


 ……狐。くそっ、やっぱりもっと色々言っておくべきだった。

 あ、王女らしからぬ言葉を言ってしまった。でもまあ、心の中でくらい感情を出しちゃってもいい……よね? 駄目かな? ……うん、駄目だな。気をつけよう。

 だけど狐に対しては無理かもしれない。

 次に会ったら何をしてくれようか……と物騒なことを考えているのがわかったのか、姉様が慌てたように続ける。


「あのね、ショックだったのは怒られたことじゃないんだよ? ……私は、魔物がかわいいからって言いわけして、何もしなかったの。言いわけをしてたことに、先輩に言われるまで気づいてなかった。それがショックだったんだよ。魔物をかわいいって思ったのは、セレネだって一緒だよね? なのに、セレネは魔法……しかも、火の魔法を使って何匹も倒してた」


 姉様の声が震える。

 ……もしかして。気づかれて、いたんだろうか。


「それに……ショックを受けたその後だって、何も考えないでチェンランに近づいちゃって、それでセレネをこんな目に合わせちゃって、それで……かわいい、とか、そんなこと思っちゃって。ショックを受けたって、それを次につなげなきゃ意味ないのに」


 ――姉様が思い出しているのは、いつのことだろう。


「あのときから、私はっ……何にも、変われてない。セレネとエリクに守られてばっかりで……! 嫌だって思っても、変わろうって思っても、思うだけで、何もしてこなかった」


 たぶん、今日のことじゃなくて。


 そうっと、姉様の腕から抜け出す。私を逃がしたくないとでも思ったのか、姉様は一瞬だけ力を強めたが、すぐに弱めてくれた。

 ぴょんっと跳ねて、姉様の顔の前に行き、そこで伏せの姿勢になる。こうすれば、横になった姉様と視線が合うから。

 姉様は私から視線を逸らそうとして……しかし、その涙が溜まった目を私と合わせてくれる。綺麗な青い目が、いつもより深い青に見えた。


「……泣くのだって、甘えてるってことだよね」


 姉様は、弱々しく微笑んだ。

 ……姉様は、甘えてなんかいません。

 そう言えたら、どんなにいいだろう。けれど私は……たとえ人間の姿であったとしても、そんなことは言えないんだろうな。だって、これは確かに『甘え』だから。


「私は、セレネのお姉ちゃんなのに。私がセレネを、守らなくちゃいけないのに。……守ったことも、助けたことも、一回もないよ……っ」

「きーっ!」


 それにだけは、きっぱりと反論しておく。

 とは言え、不思議さんがいない今、それが言葉にできるわけではない。けれど、私が否定したことは気配で伝わったらしく、姉様は口をつぐんだ。


 ……姉様に助けられたことなんて、ありすぎて数えられない。姉様にとってはちょっとしたことでも、わたしにとっては大きなことだ。

 そもそも、姉様に救われたからこそ、私は今ここにいられるのだ。

 この世界にいる自分を、自分だと認められたのだって。

 姉様や母様、父様……エリク、を大好きになれたのだって。


 全部全部、姉様のおかげだ。


 じっと見つめあった後、姉様はふわりと笑った。


「……ありがとう。でも、」


 姉様はベッドの上に膝立ちになって、私を抱き上げた。


「強く、なるから。セレネを守れるようになるから」


 ……ようやく。

 ようやく、姉様が強くなろうとしてるんだ。強くなろうと、決意したんだ。そう思うと、何だか涙が出てきそうで。私は、目を閉じた。

 たぶん私は、姉様じゃない相手になら「遅すぎ」と言うだろうし、いらつくだろう。


 でも。今はただ、純粋に嬉しかった。







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