11 偽名と本名
幸せな休日の後には、また一週間が始まる。昨日が楽しすぎたから、学院に来るのがちょっと憂鬱だった。週初めに憂鬱になるのは、前世も今も変わらない。
朝はいつもどおり、姉様とエリクと一緒に学院へ来た。二人の杖にリボンが結ばれているのを見て、にやけそうになるのを我慢しながら歩くのは結構大変だった。
しかし、学院に着いて、二人と別れてからは我慢できていなかったらしい。
「ルーナさん、何かいいことあったの?」
教室に入った途端、マリーちゃんにそう尋ねられた。訊かれた理由がわからず首をかしげると、「すごい笑顔だから」と言われる。
う、それは恥ずかしい。慌てて表情を引き締めると、マリーちゃんはぷっと笑った。
「え、まだどこか変ですか!?」
「ううん。やっぱ、垂れ耳兎は可愛いなと思って」
「……それは、どうもありがとうございます?」
今の流れで、どうして垂れ耳兎が可愛い、に繋がるのだろう? いや、私も垂れ耳兎は可愛いと思うけど。それは私のことではなく、動物のほうの垂れ耳兎である。同族意識、というか何というか、そういうものも関わっているんだろうね。
それにしても、皆来るのが早いな。私も結構早く来たつもりだが、もうベラちゃんもナタリーちゃんもいる。
「おっはよー、セレネちゃん!」
「おはよう、セレネ」
二人の挨拶に、私も「おはよう」と返す。
教室で誰かとおはようと言い合う。……こういうのが久しぶりすぎて、当たり前のことなのに何だか感動してしまった。友達、ってこういうものなんだよね。
無言で感動を噛み締めていると、マリーちゃんが小さく首をかしげる。
「それで、いいことあったんだよね?」
「え、そうなの? なになに、何があったの?」
「ウチが思うに、これじゃない?」
……ナタリーちゃんは、案外鋭いらしい。
ナタリーちゃんが視線を向けたのは、私が持っていた杖だった。昨日買ったばかりの白いリボンに、ナタリーちゃんは気づいたのだ。
魔法学院の教室には、帽子と杖、他の荷物をしまえるように、クラスの人数分の小さいロッカーがある。だが今日は、何かをしまう前にマリーちゃんに話しかけられたため、まだ荷物を持ったままだった。
ナタリーちゃんの言葉を聞いて、リボンを見たマリーちゃんは私に尋ねてくる。
「誰かからもらったとか?」
「いえ、自分で買いました」
「ずっと買いたかったものだったりー?」
「昨日見つけたものです」
「じゃあ何なのよ」
むっとしたような口調のナタリーちゃんに、どう説明すべきか悩む。
だって、姉様とエリクとお揃いだから……とか言うのは恥ずかしい。だからと言って、嘘をつくのも嫌だ。というか、こんなことで嘘をつく必要は全くないだろう。
素直に話せばいいんだろうけど、笑われないかな?
しかし、説明するまで皆納得してくれなさそうだ。
「……あの、私には姉がいるのですが」
「ああ、姫のことだよね」
一瞬、王女だということを言われたのかと思って、固まってしまった。
もしかして、姉様はどこかで本名を言ってしまったのか? だとしたらどう誤魔化そう、と頭をフル回転させて考えていると、「あれ?」とマリーちゃんが不思議そうに言う。
「違った? 騎士とよく一緒にいる、あの美少女じゃないの?」
ナイト、と言われてようやく気づいた。そっか、エリクはナイトで姉様は姫だったね! 急に姫とか言われたから、勘違いしてしまった。
いくら姉様でも、本名を言ってしまうことはない……はず。最初の魔法学の授業のときは、まだ偽名に慣れていなかったのだと思いたい。……うん、大丈夫だろう。本名を言っていたら、今頃学院中の人にばれているだろうからね。
ごめんなさい、姉様。疑ったことを心の中で謝った後、マリーちゃんの問いに言葉を返す。
「いえ、姫という言い方をあまり聞いたことがなかったので。その美少女が、姉様のことで間違いないです。ですが、どうして私の姉だと知っているんですか?」
まあ、家名が同じだから、私たち二人の名前を知っていれば姉妹だというのはわかるかもしれないが。
マリーちゃんたちは顔を見合わせてから、私に向き直った。
「有名だけど?」
「有名なのー」
「有名よ」
え? そんな同時に?
目を瞬くと、笑いながら説明された。
「あはは、そんなびっくりすること? 姫は教室で、妹の『セレネ』のことをよく話してるらしいし」
「魔法学の授業では、セレネちゃんは姫にべったりだしー」
「いっつも三人で学院に来るじゃない。あんたたちが姉妹だってこと、大体の人が知ってるわよ?」
……私って、そんなに姉様にべったりしてるだろうか。授業中だし、一応我慢はしてるんだけど。他人からはべったりしているように見える、のかな?
それにしても、大体の人が知ってるって。何かこの学院、情報力……情報網? がすごい気がする。有名な姉様の妹、ってことで、私も有名になってしまったのだろうか?
「ナイトは護衛なんだよね? いいなぁ、あんな可愛いナイト」
「ぷっ」
マ、マリーちゃん……! そんなふうにうっとり言われると、威力が倍増するんだけど! 最近、自分が笑い上戸になってしまったような気がしてならない。ナイトってあだ名を作った人のせいだ、どうしてくれるんだ。(グッジョブ、とも言いたいけど)
「か、可愛い……可愛いナイトですか。友達がそう言っていたって、伝えておきます……ふふっ」
「わっ、それはやめて! あれでも男の子なんだよね? だったら可愛いって言われるのは嫌なはずだから!」
「あれでも、あれでも男の子……マリーちゃん、どれだけ笑わせるつもりですか。もうお腹がっ」
流石に教室で大笑いすることはできないので、必死に笑いはこらえている。しかし、お腹が痛くてもう限界だった。
だって、あれでも、って! マリーちゃん、意外と毒舌だったんだね。本人がいないからなのかな?
可愛いって言われるのが嫌なはず、って気遣いの気持ちが何だか新鮮に感じる。エリクも自分が女顔で、しかも可愛いっていうのは自覚してるから、私たちはそういう気遣いしないし。
「セレネちゃんって、意外と笑いのツボが浅いんだねー」
「今ので笑う理由がわかんないわ」
二人からはそんな反応をもらってしまった。
「う、自分でも浅いとは思いますし、ここまで笑ってしまう理由もわかりませんが……。と、とにかく! 姉様とエリク……姫とナイトと、このリボンはお揃いなんです」
危ない、何の話をしていたのか忘れるところだった。
マリーちゃんたちはすっかり忘れていたのか、きょとんとした後に、さっきの会話を思い出したのかうなずく。だがそれは無意識の相槌だったらしく、マリーちゃんの「お揃い?」というつぶやきに、三人して黙り込んだ。
もしかしなくとも、やっぱりからかわれる? いや、この三人だったら私が傷つくようなからかい方はしないだろうから、不安にはならないのだが。
……でも、思えば友達になってまだ三日。間に休日を挟んだから、実質二日目だ。それなのに、どうしてこんなに打ち解けてるんだろう? 傷つくようなからかい方はしない、とかそんなふうに信用するほど。
三人ともキャラが濃くて、話しやすい子たちだから?
うーん、考えてもわからない。たぶん、特に理由はないんだろうな。友達になって二日目だとしても、仲良くなれたならそれでいい。仲良くなれたから仲良くなれたのだ。
自分で言ってて、ちょっとよくわからなくなるけど。
「あの、皆?」
流石に、こんなに考え事をしていても何も言われないのはおかしくないか?
「……いや」
「ねー」
「ええ」
三人とも、なぜかため息をついた。
え、笑われるんじゃなくて呆れられた? その反応は予想外だった。
びくびくしながら皆の様子を窺うと、いきなりマリーちゃんがふにゃっと笑った。
「あーもう、可愛いなぁルーナさん」
「え?」
「かーわいっ。わたし、何か妹ができた気分~」
「セレネが妹だとしたら、ウチの妹と交換したいわ。ぜひ」
え、え、と困惑しているうちにチャイムが鳴り、三人は手を振りながら自分の席に戻っていった。
……可愛かったの、マリーちゃんのほうなんだけど? 何だったんだ、あの笑顔。マリーちゃんは綺麗とか格好いいというイメージだったが、さっきの笑顔は可愛かった。
で、私が妹って? お姉ちゃんは姉様だけで十分なのだが。
今の会話でわかったのは、ナタリーちゃんに妹がいるということだけ。
シャルル様とやらの話のときもそうだったが、三人の会話についていけるか不安になったのだった。
* * *
さて。一時間目の授業は美術である。
魔法学院とは言っても、数学などの普通の教科や魔法学以外に、音楽や美術、体育もある。技術家庭科もね。そういう実技授業には、魔法も少しからんでくるのだ。
美術の授業では、美術室を使う。この学院には第一美術室と第二美術室があり、一年生が使うのは三階にある第二美術室だ。
一年Aクラスの教室は三階だし、たぶん階段を使わずに適当に歩いていれば着くだろう。学院の校舎は北と南でわかれていて、この教室は南、第二美術室は北校舎ということもわかっている。
だけど一人で行くのはやっぱり不安だし、マリーちゃんたちと一緒に行くことにした。
「それで、私が妹ってどういうことですか?」
一緒に行くついでに、朝の言葉の意味を尋ねてみた。
歩きながら、ベラちゃんが私の頭をなでた。え、何?
「わたし、妹がほしかったの!」
「うぇ、セレネならともかく、現実の妹なんてそんないいもんじゃないわ」
キラキラした目のベラちゃんに、ナタリーちゃんが女の子らしからぬ声を出す。
いやいや、『妹がほしかったの!』じゃなくてさ。(私も前世では妹がほしかったけど!)
「あたしは何でもいいから兄弟がほしかったな。特に妹弟。でも、お兄ちゃんとかお姉ちゃんにも憧れがあったんだよね」
「姫はどんなお姉さんなのー?」
「……え、言ってもいいんですか?」
話が長くなりそうなので、一応許可をとっておく。三人とも快くうなずいてくれた。
近いうちに姉様を紹介するつもりだし、姉様のことを事前に知ってもらうためには丁度いいよね。
どう話そうかなー、と考えているときだった。
「「「――あ、シャルル様!」」」
綺麗に三人の声が揃い、立ち止まる。小さな声で叫ぶとか器用だ。
反射的に三人の視線の先を辿れば、そこには狐の獣人の姿があった。
……確かに綺麗な男の人だけど。だけど。姉様とエリクのほうが可愛いし、綺麗だもんね! 見た目だけならいい勝負かもだけど、性格も合わせれば姉様たちの圧勝に決まってる! 姉様たちは初対面の人にあんな失礼なことしないし。
やっぱりマリーちゃんたちのことはよくわからない。丁寧な言葉遣いで吐かれる毒が、何とも言えないほどぞくぞくする? 妹だけに甘いとか、素敵すぎる? よさは言葉じゃ説明できない?
まあ、この人にもいいところはあるんだろう。私が悪い面しか知らないだけで。
いいところを知ったとしても、この人のファンクラブなんて絶対入らないけど!
……何を言いたいかって、結局は。
シャルル様、というのが、あの狐だったってことだけだ。そうじゃなかったらいいな、とちょっぴり思っていたのだが、やはり狐だった。
「うわー、今日も美しい……!」
「今日も素敵な耳……」
「誰かシャルル様をびっくりさせてくれないかしら」
マリーちゃんはいいとして、ベラちゃんとナタリーちゃん。今日も素敵な耳、ってちょっとおかしくない? びっくりさせてくれないか、というのは、しっぽがぶわっとなるところを見たいからだね?
「こっち見てくださらないかな」
マリーちゃんがこそこそした声で言う。
狐は教室の前で、誰かと話しているところだった。そういえば三年生のクラスと一年Aクラスって、同じ階なんだよね。
ついでに説明しておくと、二年生のクラスはB、Cが二階でAクラスは三階である。
「見れただけでも、今日一日が幸せだからいいのっ」
「ま、そうよね」
狐を見ただけでこれって、もし話しかけられでもしたらどうなっちゃうんだろうか。まあ、ファンクラブとは言っても遠くから眺めるだけだって言ってたし、そういうことにはならないだろうけど。あの狐がわざわざ話しかけてくることはないだろうしね。
マリーちゃんたちはそのまま歩き出したので、第二美術室に行くには狐の横を通らなければいけないようだ。もしかしたら、別のルートがあるけど近くで狐を見たいから、ということなのかもしれないが。
ぴたっと会話が途切れてしまったので、姉様の話をしづらい雰囲気だった。三人とも狐の傍を通ることに緊張しているみたいだし、私も黙っていたほうがいいかな。(ちょっと残念)
そう思って、静かに廊下を通ろうとしたとき。
「そこの白兎」
びくびくっと、面白いほどにマリーちゃんたちが反応する。三人とも立ち止まってしまったが、私は私が呼ばれたなんて全く思っていないので歩き続ける。きっと正気に戻れば、三人も歩き始めるはず。うん、私が道に迷う前に正気に戻ってくれたらありがたい。
「ルルルルル、ルーナさん!?」
「ルルルルルルーナなんて名前ではありませんが」
がしっと腕をつかまれてしまったので、仕方なく立ち止まる。しかし、意地でも狐は視界に入れない。
「セ、セレネちゃん!」
「あんた、シャルル様の知り合いだったの!?」
「シャルル様とは誰のことでしょうか狐のことでしょうか。ならば私にシャルルという名前の知り合いはいません。そして狐の知り合いもいません」
なので早く行きましょう、と早口で続ける。
どうして狐は私のことを覚えてるんだろう? 普通、少ししか話してない上に一週間前に話した相手なんて忘れるよね? いや、私は狐のことを忘れていないけど、それは家族を侮辱した相手だからだ。そうでもなかったら、すぐに忘れていたに違いない。
「聞こえなかったのですか。セレネ・ヴィーヴァ・ルーナ」
「なぜ知っているのですか!?」
思わず叫んでから、はっと口を押さえる。
うぅ、何を言われても返事をしないつもりだったのに!
「やはり貴女がセレネ・ヴィーヴァ・ルーナですか……。姉の名は、ディアナ・ハーヴァ・ルーナ。間違いありませんね?」
……姉様のことまで知っている。姉様と狐は一度あったことがあるから、そのときに名乗っている可能性もあるが。
わざわざこんなことを訊いてくる意味は何だ? 素直に答えるべきなのか? 素直に答えてもいいのか、のほうが正しいか。
警戒心を隠しもせずに睨みつけると、くいっと制服の袖を引っ張られる。
「ル、ルーナさん。ここで嘘ついてもすぐにバレるし、ちゃんと答えたほうがいいよ」
マリーちゃんは私の耳元でこそこそと言った。
確かに、姉様と私が姉妹だという話は有名みたいだし……。調べればすぐにわかることだ。ここで嘘をつくと、余計に怪しまれるだろう。
そんな簡単な判断もできないほど、私は意外と取り乱していたらしい。正常な判断をさせてくれたマリーちゃんに感謝だ。
「はい、間違いありませんが」
それがどうした。それは言葉にしなかったものの、相手には伝わったらしい。無表情だった顔に、少しだけむっとした色が宿る。本当に少しの差だから、気づいた者はほとんどいないだろう。
とりあえず、ちゃんと言葉に出してみることにした。
「それがどうかしましたか?」
「……いえ、ディアナ・ハーヴァ・ルーナは、自分の名前も間違えるほど記憶力がないのだなと思いまして」
……姉様ー!?
嫌味ったらしく言われたことも気にならない。むしろどうでもいい。今回ばかりは、流石に反論できなかった。
確かさ。最初の魔法学の授業のとき、私言ったよね? いや、言ってはいないけど、姉様が本名名乗ろうとしてたときに遮ったよね?
それが水曜日で、狐に会ったって言ってたのが木曜。なのになのに、何で言っちゃうかな! 次の日ってどういうこと!?
しかも『本名言っちゃった』って私たちに言ってないってことは、姉様本人も気づいてないってことで……。名前を訊かれて、自然と言った名前が本名だってことに気づかないことは……まあ、あるかもしれないけど。それでもね、何だろうこの気持ちは! はっ、まさか恋!? なわけない!
心の中は混乱のあまりすごいことになっていたが、それを隠して怒った顔を作る。きょとんとした顔でもいいと思ったが、以前会ったときに私は怒ってしまっているのだ。家族を貶されれば怒る、と認識されている可能性もあるし、ここでは怒ったほうが不自然ではないだろう。
「貴方は人の家族を侮辱するのが趣味なのですか? 姉様は確かに記憶力がありませんが、貴方は大して姉様のことを知らないはずです。言っていいことと悪いことの区別もつきませんか?」
マリーちゃんたちがあわあわとし始めた。
もしかして、言いすぎただろうか? 今回の狐の言葉は事実なわけだし、ここまで言わなくてもよかったかもしれない。
狐の耳がぴくっと動いたのは、気にしないことにしよう。怒らせたって別にいいし。傷つけるのは嫌だから、もうそんなにひどいことは言わないけど。
「それに、いくら姉様でも自分の名前を間違えることは有り得ません。貴方の聞き間違えだと思いますが?」
「私が聞き間違え? それこそ有り得ませんね。ディアナ・ハーヴァ・ルーナという名が偽名だと考えたほうが自然です」
「偽名? 面白いことを考えるのですね。偽名で通うことを学院が許可するはずがないでしょう」
偽名を使うことは、姉様と私が王女だから何とか説得できたらしい。私たちを除いたら一番身分が高い、公爵家の長男のうさ俺様は本名で通ってるしね。ほとんどの貴族は自分の家に誇りを持っているから、名前を変えたりしない。
ちなみに私たちが使っている『ルーナ』という家名は、実際にあるルーナ家から借りている。男爵家だから身分は高くないが、古くから付き合いのある家である。
だがその付き合いを公にはしていないため、それほど有名な家ではない。有名だったら、娘がいないことくらいすぐにわかってしまうし。有名じゃないからこそ、こうして誤魔化せているのだ。ルーナ家と付き合いがある家は口が堅い家ばかりだし、王女だとばれる心配はそこまでない。
いつかはばれるんだろうけどね。いない貴族の名前を勝手に作ればいいじゃないか、と思うかもしれないが、そうすると偽名だとばれる可能性が確実に上がるのだ。
「……それは確かに、そうですが」
狐は悔しそうに私の言葉を認めた。
よかった、狐はルーナ家のことを知らないらしい。もし知っていたら、それでアウトだった。
「納得していただけたところで、失礼します。授業に遅れてしまいますので」
一応ぺこっとお辞儀をして、私は歩き出す。
「あ、ちょっとルーナさん! 何で来た道戻ってるの!」
慌てたマリーちゃんの声に、無言で引き返す。
……だって。前の道も後ろの道も見た目はそんな変わらないし。狐と話すために振り返ってたから、進行方向と逆向いてて。何か、その流れでそのまま行っちゃったんだよ。つまり、そう! 私が悪いんじゃなくて狐が悪いんだ!(責任転嫁だって自覚はある)
「申し訳ありませんでした、ラベー様!」
う、私だけが失礼なことを言ったんだから、マリーちゃんが謝る必要はないのに。
……ん? ラベー様?
狐を見れば、こちらを馬鹿にしたような顔をしている。いや、『ような』じゃなくて完全に馬鹿にしてるな、これは。
「自分の行き先さえ忘れるとは、姉妹揃って記憶力が残念なようですね」
どうせ方向音痴ですよーっだ!
ぷいっと狐から顔を背けて、今度こそちゃんと美術室へ向かって歩き出した。マリーちゃんたちは、狐のことをちらちらと窺いながらついてくる。
「セレネちゃん、シャルル様にあんな失礼なこと言っちゃだめだよ」
ベラちゃんに困った顔で言われてしまった。
も、もしかして嫌われちゃった? この三人は狐のことが大好きだし、その狐に失礼なことした私なんて友達じゃない、とか言われるだろうか?
「そうよ、ラベー家を敵に回してもいいの!?」
「そうだよ、ルーナさん。あんな危険なことしちゃ駄目だ」
「そのおかげでシャルル様の毒を堪能できたから、わたしは感謝もしちゃうんだけどねー」
と思ったが、どうやら私を心配してくれていただけらしい。
そう。狐の本名は聞いたことがないが、おそらくシャルル・マルスラン・ラベー。公爵家であるラベー家の長男なのだ。
……攻略対象に公爵家、しかも長男が二人なんてなぁ。まあ、身分的には一番問題が少ないんだろうけど。何だか豪華な面子の気がする。普通の人もいるが、エリクは宰相の息子だし。主人公である姉様が王女だから、当然の流れなのか?
「ルーナさん、フィーランド様も怒らせてなかったっけ?」
「怒らせてはいない……と思います」
自信がないので、少し尻すぼみになる。
うさ俺様は私のことを敵視はしているようだが、怒ってはいないと思うのだ。
「まあ、その話は後でね。このままじゃ遅刻しちゃうし」
「シャルル様の耳を触れるなら、遅刻してもいいと思うのー」
「触れないから。というかベラ、シャルル様に近づいて正気でいられるの?」
マリーちゃんの言葉に、ベラちゃんは笑顔で黙り込んだ。感情が読めないその笑顔が何だか怖い。
ナタリーちゃんがうっとりした顔で言う。
「ウチもしっぽを触れたら――」
「触れないからね? 二人とも、久しぶりに近くでシャルル様のことを見た上に声を聞けたからって、浮かれちゃ駄目だよ」
呆れた口調のマリーちゃんに、二人は不満げな顔で「はーい」と返事をする。
やっぱり、この二人のストッパー役はマリーちゃんなんだね。苦労が多そうな役割だ。マリーちゃんの苦労を減らすためにも、これからは私も頑張らなくては。……止められる自信はないけど。
「それに……触るなら、全身だと思う」
「マリーちゃん!?」
さらっと爆弾発言した気がする! 「あ、そっか」とか二人ともうなずいてるんだけど!?
うぅ、そうだよね。普段が常識人だからつい忘れちゃうけど、マリーちゃんも十分おかしな子なんだよね。
そりゃあ私も、狐の耳とかしっぽに触ったら、気持ちよさそうだなーとか思ったけどさ。あくまで、思っただけだから。行動に移したいとは絶対に思わない。(絶対!)
そんな感じで話が盛り上がってしまい、美術室に着いたのはチャイムが鳴るぎりぎりだった。
……この三人のストッパー役になるのは不可能じゃないかな。