影女 一頁目
(まただ…。またアイツがついてきてる)
気がつくと神山町の駅のホームにいた。私が降りるはずの駅はここから二つ先なのに、気がつけば何故かここにいた。
(うっかりしてた…)
ずっとついて来るアイツに夢中で、うっかり降りる駅を間違えてしまったのだ。次に来る電車に乗って帰ろうかとも思ったのだが、生憎、私が通勤している会社の最寄り駅で人身事故があったとかで、ダイヤが大幅に狂っており、次の電車がいつ来るかわからない。
「今日はホントついてない。だいたい、人身事故とか迷惑なのよね。何もこんなとこで死ななくてもいいじゃない」
ため息と共に悪態を吐いて、私はそのまま駅を出た。
会社を出てからずっと感じていた視線も、何故か今は感じない。ここ暫くずっと気味の悪い視線と足音に悩まされていただけに、すごく身体が軽い。だからなのか、何となく神山町を少しぶらつくことにした。
(あんまり来たことないし、これも何かの縁だと思って散策でもしようかな)
神山町は本の町だ。通りという通りに所狭しと書店が並んでおり、名の知れた書店から古書専門店、洋書専門店にマニアックなもの専門の店まで、本に関してなら幅広くたくさんの店が集まっている。
「すごい賑やかだな……」
どの店も自分の店舗の前に棚やらワゴンやらを出して本を売っている。しかもそれらを手に取る客たちで、通りはもういっぱいっぱいだ。
不思議に思っていると、書店のガラス戸に貼られた一枚のポスターが目についた。
『秋の古書市』
なるほど。どうやら読書の秋のお供に一冊どうですか?というわけだろう。さすがは本の町。
一人納得してると、ふと人混みの中で一人の男と目があった。年は三十代半ばぐらいか。そこそこ整った顔で、この前みたドラマの俳優に似ている。たしか西山、いや西川……?西……あー、思い出せない。
暫く考えていると、不思議と相手もじっと私のことを見ていた。全く知らない相手だ。私は少し気味が悪くなって目を反らしたのだが、やっぱり気になってもう一度視線を向けると、そこに男の姿はなかった。
(いったい何だったの……)
ぞく……
その時だった。まるで今にも刃物で刺そうとするような、そんな憎悪をが感じられるあの射るような視線。あの、いつものヤツだ。鏡を見なくてもわかる。今の私はさあっと血の気が引いて、真っ青だ。
(まただ……!またアイツが私を見てる!)
さっきまでは全くと言っていいほど感じなかったのに、今は痛いほどアイツの視線を感じる。
(急いで逃げなくちゃ……!!)
急いで駅へ戻ろうと、人や本でいっぱいの通りを何度もぶつかりそうになりながら小走りでその場を通り抜けた。途中、なぜだか何となく近道な気がして人気のない細い道に入ってしまった。
(うわあ。なんでこんなとこ来ちゃったんだろう)
周りは無機質な廃れた雑居ビルばかり。引き返そうにも後ろを振り向くのが恐い。それに追って来る足音がどんどん早くなって来る。まずい、このままだと捕まってしまう。
そんなとき、目の前に一軒の古びた小さな書店が見えた。嬉しいことにガラス戸越しに見える店内は照明で明るく照らされており、開店中だ。私はしめたとばかりに店へと飛び込んだ。
「いらっしゃい」
どきどきと高鳴る胸を抑えながら肩で息をしていると、目の前の本棚に手をかけながら店員らしき男が声をかけてきた。
「あ」
見ればさっきの謎の男である。薄汚れた濃い緑色のエプロン姿で、腰紐のところには上手く引っかかるように布はたきがぶら下がっている。
「やっぱり来ましたか」
男はそこそこ整った顔をくしゃりとさせて笑った。なかなか可愛い。
「あの……、やっぱりって?」
「いやね。きっと来るだろうなあ、とは思ってたんですけど、意外と早かったですね」
さっぱり意味がわからない。男が何を言っているのかもう一度訊こうとしたのだが、男はかまわず勝手に話しだす。
「さあさあ、お客さん。ここには本という本が何百、いや何千とありますよ。置いていない本なんて百パーセントありません。あなたのお探しの本はどれですか?」
「どれですかって言われても……」
私はぐるりと店内を見渡した。
たしかに本はたくさんある。十畳ほどの狭い店内に天井まで高く伸びた本棚。そこにはぎゅうぎゅうと隙間無く並べられた本がズラリと背中を向けていた。その他にも、入りきらなかった本達が至る所に置かれている。
けれど男の言うように何千冊だなんて百パーセントない。それに私は本なんて求めていないのだ。落ち着いたらまた急いで帰ろう。
「すいません。別に本が欲しくて来たわけじゃないんです。あの、駅ってここからどう行けばいいですか?できれば近道を教えていただけたら……」
すると男は私の質問を無視して、笑顔で否定した。
「いや。あんたは本が欲しくてここへ来たんだよ。ここへ来る客はみんなそうさ」
そりゃそうだろう、ここは本屋なんだから。でも私は違う。本なんて欲しくない。むしろ私が欲しいのは安心して暮らせる毎日だ。
そう反論しようとしたとき。
「ああ、はいはい。わかったぞ」
男が私を通り越して、その後ろにあるガラス戸を見ながら言った。そこに何があるのか、私には恐くて振り向けない。
「何がわかったんですか……?」
「お客さんが探している本ですよ」
さらっと言ってのける男。だから私は本なんて一冊も探していない!けれど男は淡々と話し続ける。
「お客さんの探している本は地下の書庫にありますよ。うん、多分あの本だ。良かったですね。そんなに値段は高くない」
何を言っているの、この男は?
分けもわからない私を無視して話しはどんどん進んでいく。男は奥のレジの後ろに掛かった長い暖簾を持ち上げる。暖簾の先は真っ暗な闇が口を開けていた。
「何をぼうっとしてるんです?あんたの本がこの下で買われるのを待ってますよ。あ。後ろの人はそのまま待っていてもらった方がいいですかね」
その言葉に私はどきっとした。そしてぎゅうっと心臓が掴まれたような胸の痛みとともに、身体から再び血の気が引いていくのを感じた。
(やっぱりいるんだ……!)
ガラス戸一枚挟んで、私の後ろにアイツがいる。こうなったら本がどうのこうの言っている場合ではない。早くアイツから逃げなくちゃ……!
私は弾かれたようにその場を離れ、男の側へと駆け寄った。
そんな私の様子に再びあの可愛らしい笑顔を浮かべて、男は言った。
「ようこそ、赤紐堂書店へ」