清々しい朝と失敗
山の向こう側が白んでくる頃になっても、麓の村からは男衆の声が響いてくる。
あれからずっと飲み続けているに違いない。
「皆さん、お元気ですね」
音を立てないように扉を閉め居間へと入れば、少し眠たげな顔でディオンが窓辺に立っていた。
山に谺して笑い声がここまで響いてくるのだからよっぽど騒ぎ明かしているのだろうー・・まるで春女神の祭り並だ。
「そうだな。寝てなかったのか?」
「はい」
「どうせ今夜も飲み明かすに違いないんだ、今のうちに寝ておいたほうがいい。こういう時はどうあっても一晩は帰してもらえない」
「それならセリさんも休んでください」
「私はいい」
「じゃ私も大丈夫です」
どんな理屈だ、と苦笑し椅子に腰を下ろす。
「お茶淹れますね」
「ん」
手にしていた羊皮紙にペンを走らせれば、すぐに湯気のたったお茶が置かれる。
「マリーネさんはどうですか?」
「実に順調だよ」
「よかった」
カップを手にとって口元に運ぶ手前で、ふと思い立ちそれを彼に向かって掲げて見せた。
「ありがとう」
何故お礼を言われたのかわかっていないのだろう、ディオンがきょとんとした顔でこちらを見下ろしている。
「何て顔してる、一番の功労者だろう」
「え?あ、あぁ!」
やっと何に対してお礼なのか合点がいったのか彼は頷くと同時に首を振った。
「でもセリさん、私は」
「"何もしてない"とか言ったらぶっ飛ばすぞ。お前は私に出来ないことをやってくれた」
「…私が"助けたい"と思った、ただそれだけです。お礼を言われるようなことではないですよ」
「例え気紛れや、一時の同情によって生まれたものであってもお前のその"思い"で救われた命がある。
私の感謝はそれに対する感謝だ、素直に受け取っておけばいいんだよ」
ほら、ともう一度カップを掲げて見せれば、ディオンもそれに習って自分のカップを傾けた。
「では、私も貴女に感謝を。セリさん、貴女がいてくれたから私は彼女たちを救うことができた、ありがとうございます」
互いのカップが音を立てて触れ合う。
少し冷たい朝の空気の中、燦々と太陽の日差しが入りこんでくるのに目を細めて私はカップのお茶を飲み干した。
「実に気持ちのいい朝だ」
「………」
「………」
と、一つの達成感を得て清々しい朝を満喫していたのは半刻ほど前。
母子のために一晩火をおこし続けていたせいか薪が随分と少なくなっていることに気付き、朝食をディオンにまかせて新しい薪をとりに家の裏手へむかったー・・のはいいのだが。
「………」
「………」
微動だにしないそれを目の前に、私も暫く動くことが出来なかった。
多分起きてはいるのだろう、少し焦点のあっていない目は若干濁っているようにも見える。
まさに放心状態といっていい様はいくら見目の整っている容姿でも気味が悪い。
さもあらばまるで蝋人形のようだ。
実を言うとこれに関しては少しばかりー・・いや、完全に忘れてました。
(さて、どうするか…と考えていても時間の無駄か)
そろっとその横を通り抜け新しい薪を何本か手に取るとそのまま踵をかえしー・・
「姫、何故なんだ…」
「…ちっ、気付いたか」
何故?そんなのこっちが聞きたい。
何故こいつの右手は私の服をがっしりと握っているのか誰か教えてくれ。
「おい、離せ」
ぐいっと体ごと後ろに仰け反ってみるが中々どうして外れない。
無駄に引っ張りすぎて服が破れるのなんて真っ平ごめんだ。
放心状態だった人魚がその死人のような青褪めた顔をこちらに向けてくる。
「何故姫はお前のような人間のところに留まる?」
「知るか、こっちがお願いしているわけじゃない」
「嘘だ!」
「誰がこんなことに嘘などつくものか、阿呆」
と、罵ってみるものの残念なことに人魚の耳には届いていないようだ。
悲壮な顔を更にゆがませ、一方的に嘆きは続く。
「第一人間などのために我らの力を行使するなどあってはならないことなのだ!何て愚かなことを…」
「そうかそうか。じゃあれが記念すべき第一号だ、おめでとう」
「"人魚じゃなくてもいい"だなんて!人間!やはりお前が何かしたに決まっているではないかー・・!!」
…あぁ、鬱陶しい。
「やかましい、朝から騒ぐな!」
「ぐっ」
生憎と両手がふさがっていたので、座り込んだままの人魚の脳天に踵を落としてやる。
絶妙な位置に頭があったおかげか実に綺麗に決まったので、少しすっきりした。
「妙な勘繰りはやめてもらおうか。私は何も強要などしていない」
…むしろ早々にお帰りいただきたいのが現状なのだが。
脳天に決まった強烈な痛みからか、目尻に涙をため唸りつつもそれでも尚、人魚はしつこく食い下がってきた。
「ならば何故姫はー・・!?」
「…何故何故と一々聞かないと分からないのか、お前は」
「な、なんだと!?」
ー・・さて、突然だが私はそう気が長いほうではない。
まともな対話が出来ないのであれば、大変遺憾ではあるが、実力行使という名の手段に打って出るしかないだろう、という結論に至った私は間違っているだろうか?
答えは否だ。むしろそれ以外の答えはいらない。
そもそも人の話を聞こうとしない奴が悪いのだ。
「子供じゃあるまいし少しは自分の頭で考えてみろ」
げしっ
「~・・っ!!」
ぐりっぐりっぐりっ
「いいから、黙って、聞け」
脳天に突き落としたままだった踵に力を込める。
「いいか?様々な観点から思考することによって脳は活性化され進化していくー・・幻想種のお前たちだって、人間だってそこは変わらず一緒だ。
ならできるはずだ、そうだろう?」
それとな、と二の句を告げる暇を与えないように私は言葉を続ける。
「"人間なんぞ"のために力を使うのは確かにお前たちにとっては矜持を傷つける行為かもしれない」
ふと、空気が揺れた。
いつの間にきたのやら…この一週間ですっかり馴染んでしまった後ろの気配に振り向くことなく、私は目の前の人魚への"説教"を続けた。
「だがな、生まれてくる"命"を救うために力を惜しまず使った彼に"愚か"などという言葉はふさわしくないと思うよ」
まぁ人魚には人魚の掟や決まりごとがあるのだろうからその点から見れば、もしかしたら今回のディオンの行為は咎められてもしようがないものに値するのかもしれないのだろうが。
「漸く落ち着いたところだ、この後どうするかはお前たちでしっかり話し合えばいい。まぁ円満に仲良く海に帰ってくれるのが一番いいんだが…だがもし彼が今回の事で咎めを受けるのであれば」
視界の隅に朝日を浴びてキラキラと光る青銀を捉えた。
「私は彼を海に返すつもりはないよ」
ここで振り返っていつも以上のテンションで騒がれたら疲れるな…と思いながらも振り返れば意外にも落ち着いた様子でー・・というよりは少し驚いている感じのディオンが立っていた。
「いいんですか、セリさん…?」
「ほとぼりが冷めるまでだがな」
一生ー・・は少し考え物だが、このまま強制的に海に返して彼が罰でも受けでもしたら後味が悪すぎる。
それにあの料理の腕は惜しい…いやいや、別に胃袋から掌握されているわけでは断じてないぞ、うん、断じて違う。
「珊瑚の裾の、」
膝を追ったままの人魚に視線を合わせるように、ディオンもまた地に膝をつく。
「私は、帰りません」
「姫ー・・っ!」
「貴方に言った夕べの言葉に嘘偽りはありません、全て私の本心です。
最初は…セリさんの側にいられるだけでよかった。
でも、今の私にはこの村の"人間"たちも大切な人に思えてしょうがない。
まだほんの少ししか触れ合っていないけど私を受け入れてくれるこの村の人たちが私は好きです。
ここで、この陸で一生懸命に毎日を生きている"人間"だちが好きです。
ー・・だから、帰りません」
一言、一言に込められた彼の心の底からの思い。
それは私の胸にもしっかりと響いてくる。
そして海から来たもう一人の人魚の胸にもきっとー・・
「本気…なんだな」
「はい」
ディオンは笑みを湛えて立ち上がると今度は私の方へと向き直った。
「セリさん、炊事洗濯なんでもやります。だから、もう少しだけ一緒にいさせてください」
いつもの少し情けない彼とは違う顔つきで、お願いします、と頭を下げられては先ほどの手前もあってか頷くしかないだろう。
「……分かった…姫がそこまで言うなら…」
もう一人の人魚もどうやら納得したようだ。
まさに意気消沈という言葉が似合う風体だなー・・少し気の毒でもあるが。
まぁ何はともあれこれで一先ずは、万事解決と
「私も残るぞ!」
…ならなかった。
「却下だ!」
何ていったこの馬鹿人魚。
「ー・・な、何故貴様に却下されねばならない!」
先ほどまで私に足蹴にされていたのが効いているのか少しばかり怯えた様子で抗議の声が上がる。
「これ以上私の周りで面倒ごとを増やすな!」
激昂するセリの横で、ディオンが笑みを湛えたまま(目は笑っていなかったが)冷たい口調でそれに加勢する。
「珊瑚の裾の、セリさんが困ってるじゃないですか、さっさと帰ってください」
「ぐっ…いいやコレばっかりは姫の頼みでも聞けはしない!連れ帰れないなら側で見守るのが私の使命!!」
「そんな使命なんぞ捨ててしまえ、この馬鹿人魚」
「馬鹿人魚だと!?さっきから本当に無礼な人間だな!私には"珊瑚の裾の緑石の子"という立派な名があるんだぞ!」
うわ、面倒くさい。
と眉をしかめれば、珊瑚のなんちゃらは傲慢不遜な態度を取り戻してふふんと鼻で笑ってきた。
「この美しい響きが分からぬなど所詮野蛮な生き」
「じゃ、レガリア」
「なっ!?」
「そんな面倒くさい名前で一々呼べるか」
ちなみに"レガリア"は昔、母が飼っていた気性の荒いオス猫だ。
あれは母以外には懐かなくて父も私もよく手を噛まれたものだった…と思い出に少し浸り現実に向ければ、
「ん?」
…どうにも辺りの空気がおかしい。
勝手に名前をつけられて怒っているのか口をパクパクさせ顔を紅潮させているレガリアはわかる、が、何故ディオンまでが慌てふためいているのだろう。
それに心なしかその顔は青褪めている。
「なっ!なっ…!」
「駄目!絶対駄目です!セリさん!」
「何でだ?大体お前らの名前が面倒くさいのがいけないんだー・・他のも考えるのも面倒くさい、コレが嫌なら馬鹿人魚で通すぞ」
「そうじゃなくってですねー・・珊瑚の裾の!!いますぐその名前は忘れてください!いまのはナシ!!ナシです!!もう"馬鹿人魚"でいいじゃないですか!!」
……………
「………ディオン、お前何か隠してないか」
「うぇっ!?」
悪さが見つかった子供のような反応を見せるディオンの顔を無言のままじっと凝視してやれば、彼の顔から尋常じゃないほどの汗が噴出し始めた。
「何を隠している?」
「か、隠してるなんてそんなあるわけが」
「ディオン」
「………すいません」
2オクターブほどさがった私の声色と射殺すような視線に耐えかねたのか早々にディオンが白旗を揚げた。
「その、あの、実は………………セリさん、怒らないで聞いてくれますか?」
「怒るようなことなのか」
「いえっあのですねぇ!これは何ていうか私たちの一族の古いしきたりっていうか!その、あれです!人魚だけなんでセリさんたち人間の方々には多分きっと関係ないんですけどっ」
「多分?きっと?」
必死になって言い繕うとするディオンの言葉に眉間の皺がますます深まったところに、ぼそりと別の声が挟まってくる。
「…成体になった人魚に新しい名前を贈るのは求婚を意味する」
「…………………………は?」
その後、しどろもどろになりながらも説明するディオンとぼそぼそと話すレガリアの話をまとめるとこうなった。
曰く、それまでの名前はあくまで仮の名に過ぎず、本質の真名ともいえる名前を持つのは成体になってからだということ。
曰く、"真名"は番となる人魚から贈られるものであり(番は生まれたときから決められているらしい)、それは正式な求婚を表すとのこと。
曰く、一度"名"を贈られればそれはその人魚の真名として魂の本質に深く刻まれてしまうとのこと。
「つまり?」
「つまり、その、ですね…結果としてセリさんは二人の人魚に"求婚"をした形になっているというか…」
ごにょごにょと言葉尻を濁すディオン。
「あれで真名になってしまったというのか・・・?」
レガリアが赤面していたのは怒りからではなく、突然の"求婚"に驚いていたからで…
「本来の私の"番"である姫が既に貴様の"番"となっているのには驚いたが…ま、まぁいいだろう。
人間からというのは我らの歴史の中でも前例がないが、私も男だ。求婚を受けたからにはそれ相応の態度で望む事に」
「え、嫌ですよ、私は。セリさんの"番"は私だけで充分です」
「しかし、姫。言霊は絶対だ。それにこの人間の側にいれば私も安心して姫のことを見守っていられ」
鈍い音が二つ同時に鳴り響く。
倒れる長身の男たちー・・その前で怒りに震えている彼女の両の手には薪が二本。
足元にはその手に選ばれなかった残りの薪が散乱している。
「お前らまとめて海に帰れ!!」
朝の山にセリレイネウスの叫び声が響き渡った。
閉鎖的な人魚の世界だから成り立つ求婚の仕方ですね。
レガリアは猪突猛進型です。