それでも僕は救われない。
召喚の光は、祈りというより、手続きみたいに正確だった。
白い大理石の広間に膝をついた瞬間、胸の奥が焼ける。皮膚の下に熱い針で文字を縫い込まれていくような感覚に、息が詰まった。
視界の端に、薄い板が浮かぶ。
《使命:世界を救え》
「勇者殿」
玉座の王が言った。声は疲れているのに、言葉だけがきれいに整っている。周囲の老人たちも衛兵も、同じ温度で僕を見ていた。“人”じゃなく、“役目”として。
――そのとき、ほんの一瞬だけ思った。
(あれ、僕の名前、聞かれないんだな)
でも次の瞬間には、どうでもよくなった。
元の世界でも、名前はあっても意味がなかった。ここでは「勇者」で十分なのかもしれない。
王は続ける。
「魔王が目覚めた。封印は砕け、各地で災厄が起きている。勇者殿よ、世界を救ってほしい」
並べられた言葉のどれもが正しい。正しすぎるほどに、僕の胸の焼ける痛みだけが増した。
「仲間を用意した。癒し手のリリア、剣士のガレスだ」
二人が前に出る。
リリアは白いローブの裾をぎゅっと掴んで頭を下げた。瞳は怖がっているのに、立っている。立てる人間の目だった。
「わたしはリリア。……あなたの傷を治します。絶対に」
ガレスは肩幅の広い青年で、鎧の傷が目についた。笑い方がうまくない。
「ガレスだ。言っとくが、俺は愛想は良くない。だが前には立てる」
僕は、なぜか少しだけ救われた気がした。
役目だけじゃない。人が、そこにいる。
⸻
旅はすぐに始まった。
城門を出ると空の色が違った。青が薄い。遠い。どこか“描かれた空”みたいだ。僕はその薄さを、異世界の風情だと思うことにした。
初日の野営で、リリアが薬草を煮た。湯気の匂いが、懐かしいほど普通だった。
「痛み、どうですか」
頷くと、リリアは安心した顔をして、次にすぐ険しくなる。
「……お願いがあります」
「なに?」
彼女は言葉を選び、まっすぐ見た。
「生きてください。必ず。どんなときも」
励ましのはずなのに、妙に命令みたいに胸に残った。
僕は笑って誤魔化した。
「わかってる。死なないよ」
リリアは微笑んだ。けれどその笑顔は、安心というより確認に近かった。
その夜、僕は寝付けず、宿屋の洗面台の前に立った。ランプの光の下で鏡を見る。自分の顔を見て、ここにいることを確かめたかった。
――鏡の中に、僕はいなかった。
部屋は映っている。壁も、ランプも、背後の扉も。
ただ、そこにいるはずの僕だけが抜け落ちている。
息が浅くなる。
恐怖より先に、理解できないことへの苛立ちが来た。
「……冗談だろ」
声だけが、やけに現実的に響く。
背後で床板が鳴った。ガレスが廊下を通る音。
僕は反射的に鏡から目を逸らし、布をかけた。見なかったことにした。
(異世界なんだ。バグみたいなこともある)
そう自分に言い聞かせて、ベッドに戻った。戻れたことに、少し安心したのが腹立たしかった。
⸻
村を救うたびに、僕らは少しずつ強くなった。
ガレスは剣の握り方を直してくれた。無駄のない動き、息の仕方、足の置き方。僕の体が戦う体に変わっていくのを、彼は必要以上に褒めない。そこがありがたかった。
リリアは回復魔法だけじゃなく、熱の戻し方も知っていた。冷えた指先を温めるのに、祈りよりも先に握ってくれることがあった。
そのたびに、彼女は同じことを言った。
「生きて」
言葉が増えるほど、僕は安心し――同時に、その言葉に縛られていく感じがした。
旅が進むほど、“変なこと”は増えた。
時計台の鐘が、僕が広場を横切ると鳴り止む。
市場で呼び込みをしていた男が、僕に視線を向けた瞬間に言葉を噛む。
子どもが僕を指差して笑い――次の瞬間、何がおかしかったのか忘れたように首を傾げる。
「気にしすぎだ」
ガレスは短く言った。
でもその声はいつもより硬かった。
「見られてる感じがするんだよ。……違う、“見られてない”感じ、か」
僕が言うと、リリアは一瞬、口元を強く結んだ。
「……大丈夫です」
大丈夫。
その言葉が、祈りみたいに薄く聞こえた。
⸻
ある日、神殿で祝福を受けることになった。司祭は祭壇の前に立ち、祈りの言葉を始める。
「光の導きが――」
僕に視線が向いた瞬間、司祭の喉が止まった。息を呑む音がした。顔色が変わる。祈りの途中で、ほんのわずかに手が震えた。
リリアが一歩前へ出る。
「司祭さま、お願いします。勇者さまに祝福を」
司祭は、貼り付けたような笑みで祈りを繋いだ。
祝福の言葉はきれいだった。きれいすぎて、怖かった。
神殿を出たあと、リリアが小さく言った。
「……見ないで、って顔をしてましたね」
「誰が?」
「司祭さまが」
ガレスは何も言わなかった。
ただ僕の歩幅に合わせて、少し前に出た。守るための位置取りみたいに。
その日の夜、僕はステータスを開いた。
“使命”の文字の下に、小さな追記が増えている。
《備考:観測者は報酬を受け取れない》
観測者。報酬を受け取れない。
意味はわからない。わからないのに、嫌な予感だけが腹の底に沈んだ。
閉じようとして、手が止まる。
“報酬”の欄が、最初から空欄だった。
⸻
欠片を集め終えた夜、ガレスが酒袋を投げて寄越した。
「飲め。明日は眠れなくなる」
「縁起でもないな」
「縁起の問題じゃない」
ガレスは焚き火を見つめたまま言った。
「明日で終わる。終わらせる。……終わったあと、お前がどこに行くかは知らんが」
知らん、の言い方が、知りたくない、に聞こえた。
リリアは護符を握りしめて僕を見た。
目が、揺れている。
「勝ったら……」
彼女は言いかけて、飲み込む。言葉の形が喉で潰れたみたいに。
「勝ったら、なんだよ」
僕が促すと、リリアは笑おうとして、笑えなかった。
「……勝っても、生きて。お願い」
その言葉は、旅の最初よりずっと重かった。
ガレスが短く息を吐く。
「お前が死ぬのは許さん。……勝って死ぬ勇者なんて、格好つけすぎだ」
不器用な冗談。
なのに胸の奥が痛んだのは、冗談が冗談に聞こえないからだ。
僕は焚き火を見た。
火は揺れている。なのに、僕の影だけが揺れない――いや、影が“薄い”。
(見なかったことにしよう)
明日で終わる。終われば全部、戻る。
そう信じたかった。
⸻
魔王城は黒い石でできていた。風がないのに旗だけが揺れている。
城門をくぐった瞬間、胸の熱が爆ぜた。
玉座の間。
魔王はそこにいた。
巨大で、禍々しく、そして――意外なほど静かな目をしていた。
「勇者」
魔王は僕を見て薄く笑った。
嘲りじゃない。勝利の余裕でもない。
同情だった。
「お前は、自分が何者か知っているか」
ガレスが前に出る。
「口を閉じろ」
魔王はガレスを見ない。
まるで最初から、彼は“舞台の役者”としてしか存在しないみたいに。
魔王は続けた。
「世界は成立する。だが成立には支払いがいる。
英雄は祝福される。民は救われる。物語は拍手で閉じる」
視線が僕に戻る。
「……だが観測者は、最後に席を立つ。最初から、席がない」
リリアが小さく息を呑んだ。
「違う……!」
リリアが祈りを放つ。白い光が僕を包む。傷が塞がっていく。
なのに――体の芯だけが冷える。
「お願い……生きて……!」
彼女は泣きそうな声で祈りを重ねる。
光が重なるほど、僕の輪郭は薄くなる。
生かされるほど、世界から剥がれていく。
魔王が淡々と言った。
「“生きろ”は祝福ではない。観測者には繋ぎ止めの楔だ」
理解したくないのに、理解してしまう。
僕は――この世界に存在するための“支払い”だ。
救いの場面を成立させるために、救われない役を引き受けたものだ。
ガレスが吠えた。
「勇者! 今だ!」
ガレスが隙を作る。リリアの光が道になる。
僕は剣を握って走った。握っている感覚が薄い。床を蹴る感触も薄い。
それでも、届いた。
剣が魔王の核を貫く。
闇がほどけた。
爆発みたいな派手さはなくて、濃いインクを水に落とした時みたいに、静かに薄まっていく。
魔王は崩れ、世界は息を吸い直した。
――なのに、拍手が聞こえない。
勝ったはずなのに、喜びの音がどこにもない。
ガレスが叫ぶ声がした。
「やったぞ!」
声だけが、遠い。近くで言っているはずなのに、壁の向こうから聞こえる。
リリアが駆け寄ってくる。泣いている。
彼女の足音は確かに床を叩いているのに、僕には振動が伝わってこない。
視界の端に薄い板が浮かんだ。
《使命:完了》
その下に、見慣れない行が増えている。
《記録:保持されません》
《報酬:付与されません》
リリアが僕の両手を掴もうとする。
彼女の指は確かに僕の手に触れている――はずなのに、触れているのは空気だけみたいに、手のひらがすり抜ける。
「お願い、……消えないで! あなたがいなくなったら……!」
その先が、言えない。
言った瞬間に何かが壊れると知っている目だった。
ガレスが僕の肩を掴んだ。
……掴んだはずだった。
彼の手が、僕の肩の位置で止まる。掴む形のまま、何も掴めずに空を握っている。
ガレスの顔が、わずかに歪んだ。
理解した時の顔だった。
「おい……」
彼は何か言おうとして、言葉が続かない。
怒鳴ることも、泣くことも、できないみたいに口が固まる。
僕は笑おうとした。
「大丈夫だよ」って言ってやりたかった。いつもの軽口みたいに。
でも口から出たのは、ひどく頼りない息だけだった。
リリアが必死に僕を見つめる。
彼女の瞳に、僕の姿が映っているのかどうかがわからない。
「……ごめん」
僕はやっと、それだけ言えた。
リリアが首を振る。振り方が速すぎて、壊れそうだった。
「違う、違う……!」
彼女はまた言う。
「生きて」
その言葉の“い”と“き”の間が、白く欠ける。
声が欠けるたび、僕の足元の影も欠ける。影が、完全に消える。
僕はそのとき、妙にどうでもいいことを思い出した。
元の世界で、冬の朝、教室の窓に息を吹きかけて、白く曇らせたこと。
指で何か書こうとして、すぐ消えてしまったこと。
――今の僕は、あれだ。
書かれた直後から、消える文字。
ガレスが歯を食いしばる音がした。
「最後に、なんか……言え」
言いたいことは山ほどあった。
ありがとう。楽しかった。守ってくれて。呼んでくれて。
でも言葉を増やした瞬間に、余計に削れていく気がした。
だから僕は、いちばん小さい言葉を選んだ。
「……二人に会えて、よかった」
リリアの目が見開かれる。
泣き声が、声にならない。
僕の視界が、少しだけ白く滲んだ。
白が広がる前に――リリアの口が動いた。
「……あなた、は――」
そこで止まる。
言葉が、最後まで届かない。
届かないまま、白が全部を塗り潰した。
⸻
白い場所だった。
明るいわけでも暗いわけでもない。ただ、“意味”がない。
声がした。
誰かの声というより、紙をめくる音に近い。
「世界は続行されます」
「……僕は?」
「処理は完了しました」
処理。
その二文字が、僕の人生のラベルだったらしい。
僕は笑った。笑えたからじゃない。
笑い方だけが、最後まで残っていたからだ。
「僕、ちゃんとやったよね。世界、救ったよね」
「肯定します」
肯定。
救いじゃなくて、肯定。
白の向こうに、さっきの光景が見えた。
崩れた城。朝の風。人々の歓声。
ガレスが立ち上がり、リリアが涙を拭っている。
リリアは周囲を見回した。
探す仕草だけが残って、理由が抜け落ちる。
「……なんで泣いてるんだろ」
ガレスが彼女を見る。
何か言おうとして、口を開き――結局、何も言わない。
言えないんじゃない。言うべき単語が、最初から無かったみたいに。
その背後で、誰かが叫ぶ。
「勇者が魔王を倒した!」
――“勇者”。
僕の名前の代わりの、便利な札。
ガレスが剣を鞘に戻し、リリアの肩を支えて歩き出す。
世界は自然に次のページへ進む。僕がいなかったみたいに。
僕がいた痕跡だけを、丁寧に片づけながら。
僕は息を吸った。
最後にひとつだけ、お願いを言おうとした。
救われたい。
そう言えば何かが変わる気がした。
でも――言葉が形になる前に欠けた。
「すく……」
音がそこで止まる。
続きが出ない。続きの概念が、この場所にはない。
白い声が言う。
「観測は終了しました」
観測。
僕は“観る”ために呼ばれて、観終わったから片づけられる。
おかしくて、笑ってしまった。
笑いながら、涙が出るか確かめようとして、出し方がわからなかった。
その代わり、胸の奥から、別の言葉が浮かんだ。
救われたい、よりもずっと現実的で、ずっと正確な言葉。
(……救われない)
それが真実だとわかる。
わかった瞬間、世界が静かに整っていく。矛盾がなくなる。苦しみが説明できてしまう。
僕は確かめるみたいに、もう一度思う。
(それでも)
それでも――何だ?
それでも戦った。
それでも笑った。
それでも手を伸ばした。
それでも、名前を欲しがった。
それでも。
その“それでも”の先に、本当は救いがあるはずだった。
物語なら、そういう風にできているはずだった。
でも、僕の物語は違う。
僕は最後に、声に出そうとした。
たった一文。タイトルみたいな一文。
けれど声は相変わらず響かない。
だからこれは、誰にも届かない独白で、誰にも残らない記録で、誰の胸も温めない。
それでも――僕は、結論だけを言う。
それでも僕は救われない。




