第4章 『透明な鏡』
この章では、幼少期の私が抱いた不安と恐怖、そして親の存在がもたらす安心感を描きます。舞台の上という小さな世界に閉じ込められた心の揺れや、鏡の向こうに見えぬ母と父への想いは、誰もが抱く孤独や心細さと共鳴するものです。けれども、愛する者の存在を感じる瞬間、私たちは初めて本当の安心と勇気を得ることができる――その一瞬を、静かに、しかし鮮やかに綴りました。
準備室の窓の外に広がる空は淡い青色を帯び、桃色の雲はまるで消えゆく蜃気楼のように、古い礼拝堂の細く低い尖塔の傍らに、花弁のように寄り添って浮かんでいた。やがて、山の方角から一片の灰色の雪雲がその塔の上空へとゆるやかに近づいていた。
幼稚園の先生たちは、子どもたちの頭に色とりどりの長い羽飾りを付けていた。私たちは皆、まるで古きアメリカの先住民のように、茶色の衣を身にまとっていた。
舞台へと向かうと、すでに何人かの保護者が客席に腰を下ろしているのが見えた。私は母の姿を探したが見当たらず、先生に「お母さんはどこ?」と尋ねた。すると先生は微笑みながら、「あの舞台の左側の鏡の中にいらっしゃるのよ」と言った。
「よく見てごらん。鏡の奥にも、お母さんはちゃんと座っているから」と。
私は鏡の奥を長く見据えたが、客席に座った保護者ら以外は何も見当たらず、母の姿はどこにもなかったので、涙がそっと込み上げ、母に何かがあったのではないかという不安感を払拭できぬまま、演奏会が始まる直前に泣き出してしまった。
自分が安心するように幼稚園の先生にかけられたさり気ない言葉は思わず、自分を酷く傷付けてしまい、何故かしら母が狡猾な鏡の奥に吸い込まれてしまったと信じる羽目になった。
演奏が始まるや否や、舞台の畳に腰かけた子供達がぱっと立ち上がり、長い列に並び、円を描きつつ歩き始めた。
先頭に立った子が幼い息で笛を吹き、その後をつく子たちは手を叩きながら歌を口遊んだ。
そうした中、私は観客席の空いた椅子から視線を逸らせず、吸い込む空気が余りにも重く、仲間達の歌う歌よりも脈打つ鼓動のはっきりとした音の方が圧倒的に強かった。
巨大な恐怖や不安の人質のまま他の子供に合わせて歌を口遊もうとすると、一週間もかけて憶えたはずの歌詞が頭の中でぼやけ、客席に座った親達の影が霞み、自分一人だけがまるで取り残されたかのような不思議な孤独感に襲われた。
時計の針が9時を指し、演奏会が終焉を迎える少し前に、母が父と観光客の一番奥の席に腰をかけているのが見えた。
演奏の始まりから経った約2時間、かつてない不安が私を支配していた。母と父の影が一向に見えず、鏡の中にも、私の視界の端にも、彼らの存在は微塵も映らなかった。息は次第に浅くなり、胸の奥に小さな石が落ちたように重苦しくのしかかる。隣の子が歌う声すら、遠くのざわめきにかき消されるかのように、耳に届かない。
私は涙で視界を滲ませながら、そっと唇をかみしめた。歌うことが恐ろしく、声を出せない。せっかく覚えたはずの歌詞も、頭の中で霧のようにぼやけていく。まるで舞台の上で、一人だけ孤独な牢に閉じ込められたようだった。
ふと、幼稚園の先生が私の方を指さした。その視線の先にある鏡の中では、私の仲間たちが楽しげに歌い、手を叩き、輪になって動いていた。しかし、それ以外には何も映らない。私は心の中で、母と父が鏡の奥に吸い込まれ、魔法使いの呪いに囚われたのではないか、と考え始めた。胸の奥にわだかまる恐怖は、現実と空想の境界を曖昧にし、涙を流すたびに孤独は深まった。
それでも、舞台の畳に座る私の足元から、かすかに温かいものが伝わってきた。足先に触れる床の感触、手に伝わる畳のざらつき、周囲の子どもたちの小さな手のひらの震え――それらが、私に静かな勇気をもたらした。胸の奥の石が少しずつ柔らぎ、涙がひとしずく頬を伝うたび、緊張が少しだけ溶けていく。
やがて、舞台の左側の鏡の奥に微かに動く影を見つけた。その影は、母の髪の光沢と父の肩の輪郭をかすかに映し出していた。私は息を呑み、視線を必死に合わせる。鼓動が耳の奥で跳ねるように鳴り、胸の中の不安が少しずつ、安堵に変わり始めた。
そして、演奏会が終盤に差しかかる頃、母と父は、客席の最奥に腰を下ろしていることがはっきりとわかった。その瞬間、私は力が抜けるように肩の力を緩め、唇に微かな笑みを取り戻した。安心感が全身を満たし、声を出すことへの恐怖は消えた。心が軽くなると同時に、歌詞も鮮明に蘇り、私は仲間たちに合わせて自然に歌い始めることができた。
歌声は、私の胸の奥に溜まっていた不安や孤独を洗い流すかのように広がり、舞台の空気を震わせた。鏡の向こうの自分と仲間たちの影は、光と影の交差する幻想の世界の中で、鮮やかに動いている。母と父の存在が、どれほど自分を支えていたかを、私は改めて感じた。
演奏会の最後の一音が消え、舞台に静寂が訪れる。心の中で溢れていた涙は、もはや不安ではなく、感謝と幸福のしずくとなって静かに頬を伝った。母と父に見守られながら、私は初めて「安心して歌えた」という実感に包まれた。舞台の上で感じた孤独も恐怖も、今は温かい記憶の一部として胸に残る。
その瞬間、私は深く息を吸い込み、空に向かって心の中でつぶやいた。
「ありがとう、母さん、父さん。私は、ここにいるよ――ずっと、あなたたちと一緒に」
そして手を振ると、母は微笑み、父は軽く頷いた。その光景は、私の心に永遠に刻まれる。舞台の上から見た世界のすべて――不安も恐怖も孤独も、最後には温かい愛に包まれることを、私は知った。
演奏会が幕を閉じると、客席から拍手が湧き上がり、その音に混ざる母の声が、私の胸に小さな光を灯した。孤独の闇を抜け、愛と安心の世界へと戻された感覚。私はその日、初めて舞台の上で、心から歌う喜びを知ったのだった。
舞台で歌うことができた瞬間、私は恐怖から解放され、愛と安心の中で胸を満たすことができました。鏡の中に見えない両親に怯えた不安も、最後には母と父の存在によって光に変わります。この経験は、幼い私にとって、孤独の中でも信じることの大切さ、そして愛がもたらす救いを示す大切な記憶となりました。読者の皆さんも、日常の不安や孤独の中で、小さな希望や愛の光を見つけることができますように――そんな願いを込めて、この章を捧げます。




