第3章 『逝去』
この章は、私が生と死、家族、そして自己の存在について深く思い巡らせた日々の記録です。
父の最期を見守る中で、母と共に経験した恐怖、悲しみ、そして温かさは、私の心に永遠に刻まれました。
言葉にすることでしか伝えられない感情、思考の複雑さ、そして記憶の輝きを、できるだけ丁寧に残したいと思います。
読む方には、私と共にその瞬間の緊張、倦怠、そして小さな光を感じていただければ幸いです。
心を込めて本を書く時は山奥の幽邃な森林の翳りに吸い込まれるかのような倦怠感に襲われてしまう。
思考が停止し、生まれた時から現在までの記憶や思考などが毛筆となり、白い紙に長い墨跡を残す。
しかし、長い時間書き続けると、自分の思考がどこで始まるのかやどこで終わるのかが曖昧模糊になり、自分が生まれ持った発想や他人から受け入れた思考の区別が付かなくなり、奥深く暗澹たる森林に吸い込まれる感覚の虜囚になる。
眩しく輝く囊昔の記憶と葛藤する醜悪な現実から目を背けることが出来ない今でも、自分の憤懣や苦悶を言葉に変えることはできる。
2022年の夏休みの話。
学府を完全に退く前のこと。
日々絶え間なく続く体調不良を訴える父の気分が悪くなり、毎日喧嘩するようになっていた。
ハンガリーの医学部に通っている友達に会いに行った9月中旬のそんなある日、父が兀然と倒れて救急車を呼ばなければならないとの母からの連絡が来た。
しかし、その時まだ大学生でしかなかった私はお金が余りなく、友達に借金し、慌てて帰国するための航空券を購入することくらいしかできなかった。
翌朝空港行きの電車に乗る時までは母との連絡が途絶え、父が生きているかどうかや父が診断された病名を知ることすら不可能で、蠢く不安を払えぬまま一緒に電車に乗って隣に座ってくれた友達の肩に頭を寄せるだけであった。
3時間もの長い電車旅が終わる少し前に、今回は母からの電話がかかってきた。
父は膵の病、末期に至り、静かなる日々の戦いを送っていたらしい。
然れども、父が病を知り得たのは死の4日前に過ぎず、その闘諍は初めより敗北を宿命していた。
脳・十二指腸・肝臓に迂回した癌と、直径8センチに及ぶ膵臓癌が血肉を蝕み、体重の大半を損耗させていた。
空港に到着すると、両親への贈り物としてブダペストのお土産を求め、自分の搭乗すべきゲートの前で友達と別れを告げた。
帰路のシチリアには小雨が降り注ぎ、秋の気配が忍び寄っていた。
病院へ向かう道すがら、私は市内の病院のあらゆる科に片端から電話をかけ、父が入院しているかを問い質した。しかし返答はいずれも否定であり、到着寸前に父が既に逝去しているのではないかと恐怖に囚われそうになった。
然れども、救急室に着き、己の足で尋ね回るや否や、ある看護師に行き当たり、待合室で待つよう告げられた。父は前日に末期患者用の観察室へ運ばれており、母に呼び出しをかけ、主治医と共に私に会わせる手筈が整えられているというのだった。
数分後、母が白衣の医師と共に現れた。その姿は明らかに疲弊しており、医師は、父は数時間、あるいは最善の場合でも数日以内に命を終えるだろうと告げた。
春の日、私と共に街へ出て瓢虫を探したり、初めての採血で慰めてくれたあの常に朗らかな母は、今や怯え、震え、痩せ衰え、ここ数時間私がかけた電話の声さえも認識できない様子であった。
その断片の中で、私は母の立場となり、母は子の如く、あるいは我々二人ともが愛する者の死を目の前にして見守る子供の如く感じられた。
それ以降の四日間、毎朝、母と共に病院まで足を運び、父を訪ねた。癌との戦いは刻一刻と終焉へ近づき、父が尽くすあらゆる努力も、もはや身に宿る痛苦を和らげ、或いは滅却するためのみに他ならなかった。しかれど、既に脳の一部を癌に掌握されていたにも拘わらず、父はなお生にしがみつき、その命の最後の瞬間でさえ意味を与えようと模索し、我々母子に、己らも強くあれと示さんとするかの如く振舞っていた。
しかし時折、父の瞳から輝きが失われ、思考は乱れ、言葉は絡まり歪んでしまう瞬間もあった。されど、再び我に返ると、人生の滑稽や些細な喜びを冗談交じりに語り、笑いの空気を病室に漂わせた。
私は今も、父の最後の言葉や会話のすべてを録音し、記録として残している。それらは単なる音声ではなく、記憶の器として、常に胸中に安置されているのである。
最終日、愛する父の採血の瞬間を写真に収めようとしたところ、看護師に咎められた。すると父は怒気を込めて看護師に告げた。「私の写真はどこにも公表されるものではない。これが私の命の最後の日々であり、娘には私の思い出だけを残したいのだ」と。
父は母同様、私の人生における主要な柱であった。ラテン語や哲学の勉強に勤しむ私の傍らに、いつも父は座り、母は台所で皿を洗い、家事に勤しむ。私には兄弟姉妹はいなかったゆえ、家族は小規模であったが、十分に機能しており、何よりも互いに愛情を注ぎ合っていた。
その日、私を叩き起こした呼出音は偶然にも銀河の響きを模した着信音であった。幼少期、私が目覚めるために使用していたあの音と同じで、懐かしさと共に胸を揺さぶられた。病院に到着すると、父の従兄弟に付き添われ、看護師に導かれて赤コード専用の部屋へ入った。そこでは通常、蘇生操作が行われる。しかし末期患者の場合、そのような操作は原則許可されず、だからこそ、父は穏やかに地上の苦痛から解放されることができた。
痩せ細った身体は白布の下に横たわっており、布の端をそっと引き下ろすと、わずかに微笑む顔が現れた。安堵の色を帯び、唇はわずかに開き、瞼は閉じているが長い睫毛の隙間から目はわずかに覗き、まるで旅立つ瞬間に何かを見つめていたかのようであった。かつて温かかった手は今や冷たく、生命を失っていた。心臓の鼓動は止まっていたが、父の全身からは生そのものよりも濃密な存在感が感じられた。
葬儀の日、教会は人々で埋め尽くされ、父がこれほど多くの者に記憶され、愛されていたことを知り、私は少し安堵した。
しかし母の状況は日々悪化していた。絶望の中で体はますます細くなり、夜は数時間しか眠れず、脳の老化は急速に進み、髪はさらに白くなり、手は震えやすくなった。頻繁に涙を浮かべて目覚め、まるで心が休むことを許されないかのようであった。
葬儀費用を拠出し得たのは、全くもって篤志家諸氏の慈篤なる支援の賜物であった。
もしその温情と善意に恵まれなかったならば、私は父を静謐に弔うことすら能わなかったに違いない。
然るに、父の永逝以来、母の精神は著しく衰微し、往時の面影は日に日に薄れていった。
往昔の家庭は燦然たる光輝に包まれ、幼少の私はその恒久性を疑うことを知らなかった。
胸底では、随時に公園の揺籃に赴き、柔風に髪を靡かせながら、両親の存在を傍らに感じ続けられる――そんな世界が永遠不滅であると信じていた。
父は常に庇護者として寄り添い、母は常に明朗で、老化や衰退などとは無縁の存在だと思い込んでいた。
或る日、偶然にも両親の婚儀写真を発見した。
母は質素ながらも典雅な純白の礼服を纏い、唇は深緋に染まり、肌は雪花のごとく透徹し、双眸は蒼穹を映すかのように澄み渡っていた。
写真の背後では、数多の参列者が二人を見守り、その眼差しには明確な祝意が滲んでいた。
その頃、私は未だ存在の影すら持たず、この世の構図の中に含まれていなかった。
あの写真に封じ込められた一瞬の輝き――それは、私が直接関与し得なかった過去の断章でありながら、永遠に固定された時間の結晶であった。
黎明を仰ぎ、掌中に小さき紅斑虫を乗せ、微風を感じることは今も可能である。
けれども、それはもはや同一の感覚ではない。
太陽は依然として昇り、沈み、春は循環の理に従い再び訪れる。
だが、歳月を経るうちに私は悟った。
真に世界を支え、私の存在に意味を与えていたのは、瑞兆でも自然現象でもなく――父母という二本の根幹的支柱であったのだと。
彼らは、飆風にも消えぬ燭光の如く、私の生命を導く恒灯であった。
しかしながら、如何なる者もその支柱に永劫に縋着することは許されない。
やがてそれらは崩壊し、我々は自立の歩を進めねばならぬ。
理としては理解していても、心神の深奥では納得が得られなかった。
己が何者であり、何のためにこの世に生を享けたのか――その確証を求めてやまなかった。
言語とはしばしば無力にして脆弱なものである。
それでもなお、私はその儚き器に心情を託したかった。
胸臆に滾る情念が確乎たる実在であり、死や忘却の侵蝕を受け得ぬものだと伝えるために。
我々は死の欺瞞に惑溺してはならない。
死が消滅させ得るのは肉体のみであり、記憶や想念は依然として魂魄の層に沈潜する。
父の昇天以降、私は長く思惟を重ねてきた。
何ゆえ死は存在を赦されているのか、と。
だが、ある時私は覚った。
死とは生の循環を構成する不可欠な一環であり、生者の世界においては同時的に存在し得ぬ虚概念なのだ。
死があるからこそ生が意識され、悲哀があるからこそ歓喜は輪郭を得る。
これは私の独創ではない。
学生時代、哲学および文学の講義において教授から授けられた理法に他ならない。
しかし私は、その理念を真に腑に落とすことができなかった。
生を実感するために死を看取る必要などなく、幸福を再認するために悲嘆を経験する必要もない――そう考えていた。
だが、今になって思う。
単なる対立構造だけが真理なのではない。
生と死の狭間には、まだ言語化し得ぬ深淵の意味が潜在しているのではないか。
私は幾星霜を経て、問い続けてきた。
「生」とは何か。
「最善の生存様式」とは何か。
その答えを一挙に獲得しようとは思わなかった。
探究し続ける行為そのものが、即ち「生」の証左であり、過誤の累積すらもまた、存在の尊厳を形づくる要素なのだと、今は静かに確信している。
この章を書き終えた今、私は再び父と母、そして自分自身の存在に思いを巡らせています。
記録として残すことで、過ぎ去った痛みや悲しみはただの記憶ではなく、深い意味を持つ体験へと変わりました。
生と死の間で揺れる日々の中で、私が学んだこと――それは、家族の存在と記憶こそが、私の人生における恒灯であるということです。
この文章が、読む方の胸に、ささやかでも温かい光として届けば幸いです。




