第2章 『瓢虫探し』
私が母と過ごした日々は、幼い記憶の中で色鮮やかに輝いています。
この物語は、そんな小さな幸せの断片や、母の優しさを描いた回想です。
特に春の風や夏の光、そして一匹の天道虫の記憶は、私にとってかけがえのない宝物です。
ここから始まるのは、そんな思い出のひとつ、あの日の午後の物語――第二章です。
3月のある日曜日、
街の中心部から相当離れた廃墟の公園で瓢虫を探すための小箱を手に、母と家を出た。
公園へ導く道の端に長い間駆除されていなかったであろう雑草が生え、その隙間から蒲公英が密やかに顔を覗かせていた。
3月のあの日曜日は、昼間でありながらまだ少し肌寒く、春にも瓢虫を滅多に見かけないシチリアで、瓢虫を探すと言うのは、言わば挑戦であった。
母はそれを承知していた筈だが、どうしても瓢虫を捕まえたかった私を幸せにするつもりで、小箱を用意し、午餉を終えた直後に私と家を出てくれた。
午後3時の空に浮かぶ3月の太陽は疲労困憊したかのような淡い影を落とし、その白っぽい姿に雲が時折かかっていた。
廃墟の公園に辿り着くと、大門の左手には鶩が戯れる小池があり、右手には錆まみれの鞦韆などの廃れた遊び場があった。
しかし、一番奥に蓊鬱とした木々が多く生い茂り、沈黙の中で蠢く虫達が聴こえていた。
瓢虫の存在を思わせるその微かな蠢動には、心を惹くような威力が感じられた。
私は、小さな隆起が無数に並ぶ地面に気を付けつつ、透明な小箱の蓋を取り、一片の葉も、一筋の草も、一つ残らず確かめるように視線を這わせ始めた。
母も側で、もう一つの似た小箱を手に、木々の根元に茂る低い藪を見て回った。
イタリアで最も普通な瓢虫、五星天道を探すのが目的であったにも関わらず、何時間も捜索は続き、私が見つけられたのは水生甲虫や青銅甲、蚤黄金といった他の昆虫ばかりであった。
日が沈もうとしていることに気付き、自分の箱が未だ空であることに、私は落胆の念を覚えた。
何時間もの捜索で疲れた足を休めるため、遊び場の鞦韆の湿った木造の席に腰かけ、溜め息を吐いた。茜色に染まる空にかかった桃色の雲を見張り、遠回しでも瓢虫を思い浮かべさせるような雲を探すことに夢中になった。
茜色や桃色の雲が流れる間、青ざめゆく夜空に最初の星々がひっそりと現れ始め、残った光は東から見える水天髣髴たる海と空の境界で命を絶っていた。
罌粟の雌蕊に口付けをするように翩翻と舞い降りる蜂の声や花々の艶香が漂う中、陽が沈んだ後の虫達の蠢動が増し、肌寒い空気を胸一杯に吸うと、地平線からの残光が、まるで魂を貫くかの如く差し込んできた。
視線は母の灰色の鞄に落ちた。その鞄には銀色のてんとう虫の古い鍵環が付いており、揺れる度に雅響を奏していた。
その後、視線を春のデニム上衣の袖口に下ろすと、袖の内側より外側へ、一匹の天道虫が蠢き出でていた。
それはやはり、日本では最も縁起が良いとされる七星天道であった。
その小さき天道虫の躰は、まるで雛罌粟の花弁の如く鮮紅に輝き、胴体には七つの黒点が列していた。残念ながら、指先へ歩み寄るや否や、紅色の翅を展げ、夕風に乗じて飛び去っていった。その風は、揺蕩う葉々を優しく撫でていた。
陽がすっかり沈むと間もなく、自分と母のいる公園は廃れた遊び場と共に夜の霾翳に包まれ、海と空の橙色の境界も暮れの翳りに取って代わられた。
七星天道虫が指先から飛び去った途端、私は空に願い事を一つした。
「永遠にこのまま幸せでいられますように」
「お母さんとお父さんがずっと元気でいられますように」
その夜、それだけを願い、母とまた手を繋ぎながら家に帰った。
何故、私があの日あれほどまでに瓢蟲に執着したのか。
その理由は、遠い幼年の記憶の澱に潜み、長らく沈黙していた。
私がまだ五つか六つの頃、春浅き曇天の朝、母に手を引かれ、街の外れにある検査院へ赴いた。
白壁の建物は消毒薬の刺すような匂いを漂わせ、硝子窓の向こうでは無機質な光が青白く脈動していた。
待合室の椅子は冷たく、壁の時計が無情に時を刻むたび、胸中の小鳥のような心臓がせわしく打った。
やがて現れた看護婦は、雪のように白い衣を纏い、微笑を浮かべて私に言った。
「今日は蝶々と遊ぶだけよ、痛くないからね。」
その一言に、私は安堵し、母の掌をそっと離した。
幼い私にとって、“蝶と遊ぶ”とは、春の野を舞う幻想の象徴であり、恐怖など微塵もなかった。
だが、扉が閉じられた瞬間、空気の温度が変わった。
天井から降る光は冷ややかで、薬瓶の中の液体がわずかに揺れていた。
看護婦は何も言わずに私の腕を掴み、袖をたくし上げた。
「じっとしてね、すぐ終わるから。」
その声音が終わるか終わらぬうちに、銀針が私の肌を貫いた。
一瞬、金属の冷光が閃き、まるで翅を持たぬ蝶が腕に突き刺さる錯覚を覚えた。
私は悲鳴を上げ、視界が滲み、世界が淡く反転した。
母の呼ぶ声は遠く、鼓動だけが血流の音とともに耳の奥で反響した。
終わったとき、看護婦は「よく頑張ったわね」と微笑んだ。
しかしその笑みは硝子越しの幻影のように、どこか現実味を欠いていた。
袖口は涙と汗で濡れ、腕はまだ微かに疼いた。
母は私を抱き寄せ、頬に唇を当て、「もう大丈夫よ」と囁いた。
その声の温もりが、唯一の現実であった。
検査院を出ると、春風が頬を撫で、遠くで橙色の花が揺れていた。
母は私の顔を覗き込み、「今日は少し寄り道をしよう」と言った。
その声音には、恐怖を包み込むような慈愛があった。
街を歩くうちに、香料店や菓子舗の匂いが風に混じり、
夕陽は屋根瓦を金色に照らし出していた。
やがて母が足を止めたのは、古びた木扉の雑貨屋の前であった。
扉を押すと、鈴の音が儚く響き、内部には微かなオルゴールの調べが流れていた。
棚の上には無数の玩具や装飾品が並び、その中でただ一つ、
銀色に輝く瓢蟲の形をした小さな鍵環があった。
その体躯は滑らかで、黒点の代わりに細やかな銀斑が並んでいた。
光を受けるたびに翅が幽かに光脈を放ち、呼吸するかのように脈打っていた。
私は息を呑み、その小さな生命のような輝きに見入った。
母は微笑を浮かべ、「これが気に入ったのね」と囁いた。
店員が包みを手渡すと、母はそれを私に差し出し、
「これで少し元気が出るといいわね」と優しく言った。
外に出ると、街は薄暮に沈み、遠くの屋根から鴉の声が聞こえた。
私は手の中の包みを開き、銀の瓢蟲を掌に載せた。
その金属の冷たさの奥に、確かな温もりがあった。
夕陽が反射し、赤銅色の閃光が瞬いた。
翅の部分が微かに震え、まるで命を宿しているようであった。
その瞬間、胸に残っていた恐怖の残滓がすっと溶けていった。
私は無意識のうちに微笑し、母の手を再び握った。
家に帰ると、机の上にそれを置き、窓を開けた。
夜風が流れ込み、月光が銀の体に落ちていた。
それは、静寂の中で息づく小さな魂のように輝いていた。
以来、その瓢蟲は私の守護虫となった。
出かけるときはいつも鞄に忍ばせ、夜は枕元に置いた。
掌に包むたび、花露のような微香が漂った。
時に罌粟の花弁を思わせ、時に若草の朝露を想わせる香り。
それは金属ではなく、まるで春の精が宿っているかのようだった。
私はそれを「幸福の虫」と呼んだ。
その銀の体を見るたび、心は静まり、涙も乾いた。
転んで傷ついても、その姿を見れば、また立ち上がる勇気が湧いた。
だからこそ、あの春の午後――
私はもう一度、瓢蟲を探しに行こうと思い立ったのだ。
それは、単なる遊戯ではなく、かつての痛みを優しさに変えた記憶への再訪であった。
幼き日の涙、母の掌の温もり、そして銀の瓢蟲の翅の閃光。
それら全てが、私にとって「幸福」という言葉の形であった。
家に戻ってからも、私はしばらくの間、七星天道虫の面影を心の奥に留めていた。
あの翅の紅は、罌粟の花弁の色にも似て、時折、夢の中に現れては静かに飛び立っていった。
それ以来、私は不思議と、天道虫という小さな生き物に惹かれていった。
学年が上がるたびに、筆箱やノート、さらには靴や髪飾りに至るまで、どこかしらに天道虫の意匠を選ぶようになっていた。
赤と黒の組み合わせは、単なる可愛らしさではなく、私にとっては守護の象徴のように感じられた。
幼い頃に手にした銀の鍵環から続くその縁は、まるで細い糸が時の彼方へと伸び、私の記憶を静かに繋ぎ止めているかのようであった。
高校一年の春、私は新しい鞄を選ぶために母と街へ出た。
紺青の地に淡い乳白の斑点が散りばめられ、口の部分には艶めく紅のレースが結ばれた、可憐な鞄だった。
母は「まるで瓢虫の羽みたいね」と微笑み、私はその言葉に頷いた。
その瞬間、あの小さな昆虫が再び胸の中で翩翻と舞い上がったような気がした。
教室の片隅でその鞄を机の横に掛けるたび、放課後の光が淡く反射して、紅いリボンが静かに揺れた。
それは、遠い日曜日の夕暮れ、公園で見た天道虫の飛翔を思い起こさせた。
今もその鞄は、押入れの奥に仕舞われているが、時折取り出して眺めると、あの頃の自分に再び出会えるような気がする。
いつしか私は、天道虫を捕まえることに躊躇を覚えるようになった。
箱の中で動きを止めたままの命を見るたび、胸の奥に小さな痛みが広がった。
生きたまま、自由に空へ放たれた天道虫こそ、真に幸運を運ぶのだと気づいたのは、そうした日々の積み重ねの中だった。
指先から飛び去るその一瞬の儚さに、むしろ永遠が宿っているように思えた。
捕らえられた幸運は、やがて沈黙と共に消え去る。
けれど、解き放たれたそれは、見えぬ空の果てで形を変え、別の誰かの願いを運んでいるかもしれない――そんな風に考えるようになった。
毎年の夏、私は母と共にポーランドへ渡った。
祖父母の家は広い野原の近くにあり、八月から九月にかけて、数えきれぬほどの天道虫がそこに群れていた。
草の葉の上や石垣の隙間、白い小花の上にも紅の点々が散らばり、陽の光を受けて宝石のように輝いていた。
幼い私にとってそれは、夏の訪れを知らせる神秘の儀式のようでもあった。
風に揺れる蕎麦の花の香りと共に、遠くから蜂の羽音が響く中、空にはまだ青の名残が漂っていた。
母と二人で摘んだ野花を籠に入れながら、私はいつも一匹の天道虫を掌に載せ、その動きを見守った。
その小さな背に映る七つの黒点を数え終える頃、私は決まって願い事を心に浮かべた。
「どうか、また来年もこうして来られますように」――そう呟くと、天道虫は翅を微かに震わせ、夕暮れの風に乗って消えていった。
その後も毎年のように、夏が来るたび天道虫を探すのが私の密かな習慣になった。
時に草むらに隠れて見つからぬ日もあったが、それでも私は諦めず、陽が沈むまでその姿を探した。
そして、夕日の残光の中に紅い影を見つけた時の喜びは、どんな贈り物よりも貴重なものに思えた。
天道虫は私にとって、幼少の記憶と共に生き続ける「兆し」のような存在であった。
それは単なる虫ではなく、時の流れの中で静かに息づく記憶そのもの。
母の笑顔、指先の温もり、そして遠い国の夏の風景――それら全てを結ぶ、一つの小さな翅の音だった。
第二章を読んでくださり、ありがとうございます。
あの日、母と手をつないで歩いた廃墟の公園や、天道虫と過ごした時間は、私にとって永遠に色あせない記憶です。
幼い私の心を支え、今も胸に残る温かさを、こうして文字に残すことができて幸せに思います。
この章が、読んでくださる皆さんにも小さな喜びや優しさとして届きますように。




