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第5話  死神の課題

 魔力測定を終えた夜。

 学生寮の一室は、雪の匂いを含んだ冷気で満ち、灯りの揺らぎが石壁の継ぎ目に小さく震えていた。窓は淡く白んでいる。外の吹雪が全面に指でなぞったような模様を描き、世界の音を遠くに追いやっていた。


 机の上には、セヴランから渡された小さな水晶玉が二つ。淡い蒼光を抱えたまま、脈を打たない心臓のように沈黙している。指を近づけるだけで、ひやりと皮膚の熱が持っていかれる。


「……俺からやってみます」

 カイが息を整え、そっと玉を包む。指先で探るように熱を寄せた。


 ぱち――。

 玉の奥で微かな火花が跳ねたのは、錯覚ではない。だが次の瞬間、彼の頬から血の気がすうっと引き、肩が落ちる。


「ぐっ……!」

 膝が床に触れる乾いた音。呼吸が荒く、白い吐息が途切れ途切れに散った。耳の奥で、からん、と細い鈴を鳴らしたような残響がする。


「カイ!」

 駆け寄るレオンに、彼は手を振って笑みを作る。

「……元気が一気に吸い取られる感じがしますね。今日はよく眠れそうだ」


 軽口の裏に、深刻さは隠しきれない。水晶玉はなお静まり、何事もなかったかのように沈黙している。


「……次は俺だな」

 レオンは玉を掴み、胸腔の奥にある熱を“流し込む”イメージで押し出した。――しかし、反応は全くない。曇りすらしない。冷たい水晶が、ただの石のまま居直っている。


「……くそっ」

 額に汗が滲む。この汗が疲れからか、焦りからか、自分でも分からなかった。喉は渇き、指先は冷え、心だけが空回りしている。


 その夜、ふたりは寝るまでに五度挑んだ。結果は変わらない。窓辺の雪明かりが濃く薄くを繰り返し、夜が長く伸びていった。


 ◇


 翌朝。

 魔力灯が乳白の光を放ち、雪を混ぜた朝靄にかすむ校舎の回廊。天井の魔導管を走る温流が低く唸り、古い石壁の継ぎ目に白い霜の縁取りができている。


 壁際に据え付けられた大きな水晶版には、「新入生歓迎」「午前:オリエンテーション」「午後:戦闘理論」の文字が浮かび、隣には「上級講義:火の精霊使用につき危険物取扱注意」と赤字の札が踊っていた。

水晶版の隅には、朝刊が差し込まれている。見出しには「国境監視強化」。リリシアとアストリアの関係悪化を物語る、その紙面の冷たさが、空気の張りを一段階だけ高くする。


 杖の石突きが石床を叩く、規則正しい音。

 黒衣の長身、眉間の刻まれた皺。死神と呼ばれる教官、セヴラン・ドレヴィスが近づいた。黒衣の裾には防寒のルーンが縫い込みで光り、靴底は雪の水膜を弾くための滑り留めの魔術で淡く燐光を帯びている。


 彼は目の下に濃い隈を浮かべたレオンとカイを一瞥し、低く声を落とした。

「……まだ足りぬようだな」


「そんな――一日五回でも限界です!」

 カイが思わず声を荒げる。肩はこわばり、指は震えていた。


「俺たちは、リリシアの民とは――」


「倒れてもやれ」

 冷たい声が突き放す。


「死にかけても続けろ。それ以外に道はない。努力を怠った者は、リリシアであれアストリアであれ、等しく無能だ。……努力を続けてこそ、希望は現れる」


 言い捨てるようでいて、目だけは逸らさない。突き放しの奥で「結果が出るなら何でもいい」という実務的な冷たさと、「続ければ変わる」という奇妙な信念が同居している。


 杖の音だけが去っていき、回廊の空気はさらに冷え込んだ。壁の時計水晶が八刻を告げ、扉の向こうで靴音の波が動き出す。


 ◇


 午前は教員紹介と校舎案内。

 記録室では自動羽根ペンが勝手に走り、紙面に小さな音符のようなインクの点を連ねていく。魔導炉の温管が廊下の壁面を通って床を温め、靴裏に柔らかな熱を返す。掲示板の前では、新入生がそれぞれの履修札を交換しながら、声量を抑えた会話で小さな渦を作っていた。


 昼の鐘が塔の氷を震わせるように鳴ると、学生たちは一斉に雪を払いながら食堂へ向かった。鐘音は三度鳴り、尾を引くように静まる。


 食堂。

 保温呪の鍋からは香草と肉の混ざった湯気が立ち上り、焼き立てのパンの香りと混ざって空腹を刺激する。卓の上には自動で湯を注ぐ急須が置かれ、傾けると香茶がふわりと立ち上る。木皿の縁には小さな刻印があり、手を触れるたび温が増す。塩壺の蓋には保温陣が刻まれ、振るたびにハーブソルトの香りが軽く弾ける。


 食堂に生徒が集まると、白いマント姿が自然と視線をさらった。

 女生徒たちと談笑する、イリス・グラシュヴァイン。教科書の絵のように整った礼儀作法と柔らかな微笑。仕草の一つひとつに緩やかな気品が宿り、周囲の空気の角を勝手に丸めてしまうようだ。


 ――紅の瞳が笑う。

 その光の奥に、一瞬だけ翳りが射した。気のせいかもしれない。けれど、光がほんの半瞬だけ薄まるのを、レオンは確かに見た気がした。


 なぜか彼女から目を離せない。視線が磁力を帯びたように絡みつき、外し方を忘れる。胸の中央に、氷と火の粒が同時に落ちたようなざわめきが広がった。


 そこに、銀白の髪が入ってくる。

 ルークス・フェルゼイン。訓練場で見た刃のような佇まいのまま、食堂の騒めきをまるで風の音のように受け流し、イリスに何かを告げる。至近の席の学生が息を呑む気配。イリスは真剣に耳を傾け――短く、静かに頷いた。


 (……何の、話だ?)

 レオンの胸がざわつく。嫉妬か、警戒か、自覚のない感情が形を持たない棘になって胸壁を内側からつついた。


 ふと、イリスと目が合った。

 驚きでも嘲りでもない、ただまっすぐに受け止める視線。そしてすぐに、再びルークスへ。彼が一言、淡々と続け、イリスはまた頷く。――そう“見えただけ”かもしれない。けれど、ざわめきは収まらなかった。


 カイがトレイを持ったまま顔を寄せる。

「殿……いや、レオン。食べます? 冷めますよ」


「……ああ」

 歯の裏側に冷たい金属が触れているみたいだ、とレオンは思った。味はする。けれど舌の真ん中に小さな穴が空いたように、肝心の何かが通り抜けていく。


 ◇


 午後は戦闘理論の座学。

 関係悪化の空気も影響してか、生徒たちは真剣に板書を写している。雪混じりの光がステンドの縁に微かに滲み、教壇の影を長くする。


 教鞭を取っているのはセヴランだった。黒板に引いた白線が、まるで凍った川の走りのように真っ直ぐで、どこか冷たい。


「戦闘には、必ず“摩擦”が起きる」

 声は低く、よく通る。

「作戦を立てるとき、この摩擦を考慮しなければならない。摩擦とは何か。概念ではない。――たとえば」


 セヴランはわざとらしく教壇の縁に手を置き、声を張った。

「この授業の後に鍛錬を予定していたとする。鍛錬以外の予定がある者もいるだろう。だが私がこう言う。――教科書末尾の問題を解いた者から、教場を去ることを許可する」


「えっ、そんなの不公平だろ!」

「先生、それって嫌がらせじゃ……!」

 ざわめきが起き、席のあちこちで椅子がかすかに鳴る。「最悪だ」「でも、先に解けば……」と小声が散る。


 セヴランは口元をわずかに歪めた。

「予習をしていなかった者は、計画が崩れる。それが摩擦だ。雪は予定通りに降らず、扉は想定した時間に開かないこともある。お前たちの呼吸でさえ、戦闘中は乱れる。己の計画は、何か想定していないことで崩れることがある――これを前提に、計画を立てるのだ」


 ざわめきは、今度は納得の低い唸りに変わった。

 セヴランはチョークを置き、教場を見渡す。目があうと、レオンは背筋が伸びるのを自覚した。


 ◇


 夕刻の鐘が二度、雪空を渡って消える。

 冬の陽は針のように短い。校舎の影はすぐに伸び、寮へ向かう回廊の魔力灯が一つ、また一つと点り始めた。灯りの輪の外では、雪の細片が音もなく上下している。


 夜。

 寮の部屋で、レオンは水晶玉を両手で包み、呼吸を細く長く整える。指先の温度がじわじわ奪われ、掌が痺れていく。左胸の拍動を数え、呼吸と半拍ずらしてみる――セヴランの「摩擦」の話が、なぜか頭に残っていた。予定通りにいかないなら、予定を半歩ずらして合わせる。


 寝台のカイは毛布を握りしめ、天井を見ていた。

「……正直、怖いです。この鍛錬、続けたら死ぬんじゃないかって」


「……俺はセヴラン先生を信じる」

 視線は玉から外さない。

「ここで止まれば終わりだ。止まらなければ、形は変わる」


 短い沈黙。カイの口角が、少しだけ上がる。

「俺が生きてるのは、ずっと殿下のおかげです。だから、殿下が行くなら、俺も行きます。……でも、ただ守られてるだけじゃなくて、俺も力をつけます。殿下と並んで歩けるように」


「殿下じゃない。レオンだ」

「……はい、レオン」

 ふたりとも、少しだけ肩が軽くなった気がした。窓外で風が向きを変え、雪の流れもまた別の模様を描き始める。


 ◇


 翌朝。

 東の空はまだ藍色をほどかず、寮前の石畳が薄く光を吸っている。素振りで体を温め、汗が冷え切らぬうちに玉を握る。指の冷たさと掌の熱が綱引きをする感覚。遠くで鉄が擦れる、乾いた音が二度、三度。雪面を割る規則正しい靴音が近づいてきた。


「……無駄だ」


 背に落ちた声は、氷の刃先ほどの冷たさ。

 振り向けば、銀白の髪。ルークス・フェルゼイン。紅い瞳は、雪の反射を拾ってさらに冷えた色をしている。


「リリシアの民は、アストリアと根本的に違う」


「笑いに来たのか。根本が違うから諦めろ、と?」

 食堂での光景がレオンの頭に反射する。短い嫉妬が言葉の角度を鋭くした。


 ルークスが眉間をわずかに寄せ、口を開いた。

「違う。……悪意はない」


「俺たちは生まれた時から魔力の中にいて、魔力を“染み込ませる”ように扱う。

 お前たちは魔力を身近に感じる時間が少なく、“流し込む”ことしかしていない。

 型が違えば、同じ鍛錬では結果につながらない」


 淡々と、だが真剣な声音。言葉は冷たく、意図は温い。

「剣も同じだ。流派の型を丸写ししても、自分の骨格に合わなければ斬れない。

 ――自分の“型”を見つけろ。無駄を削り、触れられる縁から始めろ」


 それだけ言い置き、踵を返す。朝稽古の鉄の音が、雪を踏む規則正しさと重なって遠ざかった。去り際、彼の呼気が白く千切れ、ほんのわずかに躊躇う肩の動きが見えた気がした――「伝わらないかもしれない」とでも思ったのだろうか。確かめる術はない。


「……何がしたいんだ、あいつ。俺たちを見下しに来ただけか」

 カイが吐き捨てる。だが数歩歩いたあと、小さく続けた。

「……でも、“型を見つけろ”ってのは悔しいけど、確かに正しいのかもしれません。俺も、試してみたい」


 レオンは答えず、玉を握る力を少しだけ緩めた。

(根本が違う――)


 押しつければ弾かれる。なら、滲ませるように。

 呼吸のへりで触れる。筋肉ではなく、拍動の縁で。

 セヴランの言う「摩擦」を、押すのでなく、撫でるように受け流す。


 玉はまだ光らない。だが、さっきほど冷たくはなかった。

 掌の中心で、米粒ほどの温が点った。消えた。けれど、確かにあった。玉の奥で、ほんの一瞬、ぬるい気配が揺れた気がした。


 食堂でのイリスとルークス――あれは、何だったのか。

 イリスが彼に「助言」を求めたのだとしたら? そう“見えただけ”かもしれない。けれど、胸のざわめきは別の形を取り始めていた。嫉妬と、感謝と、焦りと、希望が、互いの角を擦り合わせている。


(俺なりの“流れ”を掴む。剣だけじゃない)

(――俺は皇太子だ。この国で“生き残る方法”を、俺自身の手で形にする)


 水晶玉は沈黙を守りながらも、彼の執念に応えるように、わずかに温もりを返した。

 鐘が一度、遠くで鳴る。雪明かりが白を増し、学院の朝がまた始まる。扉の向こうには、今日も摩擦が待っている――その摩擦の縁に、指先でそっと触れながら、二人は歩き出した。

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