【第3話 君の名を、呼ぶとき】
朝になっても、千歳の胸の高鳴りは収まらなかった。
或の手が触れた感覚、囁かれた言葉、すべてが熱として残っていた。
——先生が、私の力を……
心のどこかで、「それは呪いだ」と警告する声もあった。
だが同時に、それを拒みきれない自分もいた。
その日の授業後、千歳は意を決して或のもとを訪れた。
「先生、昨日の……こと、話がしたいです」
或は彼女を屋上へと連れて行った。
夕暮れに染まる空の下、静かな風が吹いている。
「私の存在は、この現世にあってはいけないものだ」
「……でも、先生はいる。私の前に」
或は微笑む。
「だからこそ、危うい。私と契約すれば、君は多くのものを失う。人としての輪郭さえも」
千歳は黙って、彼の横顔を見つめる。
やがて、震える唇で問う。
「でも、私は……先生の“名”を呼びました」
「……ああ、君が私の名を知った瞬間、私たちの“縁”は結ばれた」
そのとき、或の手が彼女の頬をそっとなぞる。
「君が私を“或”と呼ぶたび、私はこの世に存在を刻む」
まるで愛しさを確かめるように。
千歳の瞳が揺れる。
「じゃあ、私が呼び続ければ、先生は——」
「君が代償を支払い続ける限り、私はここにいられる」
彼女の心に、言い知れぬ痛みと歓びが混ざる。
その瞬間、空が裂けるような音がして、封域の一角が歪んだ。
再び現れた異形、今度は“縛裂鬼”。
「君の名を呼ぶ代償が、また顕れたか……」
或は結界を展開しながら言う。
「千歳、君にだけできることがある。私の名を、もう一度——」
千歳は息を吸い、はっきりと名を呼んだ。
「或先生!」
その瞬間、光が彼女の指先からあふれ出し、封印の術式が完成する。
鬼は悲鳴とともに崩れ落ち、静寂が戻る。
或が近づき、彼女の手をそっと包んだ。
「君の声が、私をこの世界につなぎとめてくれた」
その言葉に、千歳の鼓動は止まりそうになる。
——きっとこれは、呪いじゃない。
そう信じたくなる夜だった。