【第1話 君はまだ何も知らないな】
或の言葉が、千歳の中で静かに鳴り響いていた。
「君はまだ、何も知らないな」
それは、どこか優しく、けれど突き放すような声音だった。
(私は……何を知らないの?)
春が過ぎ、梅雨を告げる湿った風が窓を打つ頃。
千歳はふと、或の気配に振り向いた。
彼は相変わらず、音もなくそこにいる。
「また……来てくれたんですね」
「君の呪性が少しずつ強まっている。定期的な調律が必要だ」
そう言って、或は彼女の頬に触れた。
冷たくも、どこか懐かしい温度。
その一瞬に、千歳の心臓が強く跳ねた。
「……っ、先生……」
「熱がある。少し座って」
そう言って背中に手を回され、自然に抱きとめられたとき、
千歳の耳元で、或が囁く。
「君の中にある“鍵”が、目を覚ましかけている」
「鍵……?」
「神尾の家系は、特殊だ。君はまだ知らないことが多すぎる」
或の瞳はどこか哀しげで、優しかった。
だがその言葉の裏にある、深く、暗い何かが——
千歳の心に不安を落とした。
そしてその夜。
千歳は夢を見た。
古びた神社。
男と、少女。
「君と契りを交わせば、私は完全になる」
「……やっぱり、駄目だよ。それは、私じゃない」
——夢の中の少女は、確かに自分だった。
けれど、彼女は静かに拒んでいた。
(私、何を……?)
夢から醒めた千歳の唇は、なぜか濡れていた。
そこに、或の声が聞こえる。
「君は、何を見た?」
千歳は、答えられなかった。